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お嬢様は脳筋でして!  作者: 阪井秋


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3/8

夜の影と秘密

夕餉の席。


若い衆が差し出したおかわりを、瑠璃音は「もう結構です」と穏やかに断った。

普段は必ず茶碗を空にしてもう一杯をねだるのに。


その小さな違和感に、食卓の空気はわずかにざわつく。


「どうしたの?」と茜が問いかける。


「今日は、たまたま食欲がないだけです」


瑠璃音は微笑んでそう答えると、箸を置き「ごちそうさま」と言って席を立った。


修吾は思わず追いかけようとしたが、茜に制される。


「思春期の娘には秘密にしたいこともあるわ。……あなたが心配することではないの」


納得しかねる修吾は黙り込むしかなかった。



深夜。


屋敷の廊下に忍び出る影――瑠璃音。

彼女は物音を忍ばせながら、道着の上に羽織ったジャージ姿で裏口へ向かう。


「……どこ行くつもりや」


背後から修吾の低い声。


振り返った瞬間、瑠璃音は苦笑を浮かべる。


「トレーニングです」


「嘘つけ!」


怒声が響いたその一瞬、瑠璃音の拳が修吾の鳩尾にめり込み、彼は意識を手放した。


「ごめんなさい、修吾さん」


倒れた修吾を背に、瑠璃音は夜の街へ消えていった。



華やかな照明に彩られた銀座のクラブ。


「愛」と名乗るホステスに変身した瑠璃音は、黒髪をきっちりまとめ上げ、落ち着いた微笑みを纏っていた。


最初は別の客を相手にグラスを傾けていたが、やがてママに呼ばれる。


「愛ちゃん、こっちへ」


案内された先の席にいたのは、五十代半ばの実業家風の男――遠藤。

清潔感のあるスーツ姿だが、どこか胡散臭い影が差している。

背後には金髪の若い衆、白戸が控えていた。


「遠藤さん、久しぶりねえ」


「おお、ママ。東京はやっぱりええなあ。久々や」


「愛ちゃん、こちらは遠藤さん。昔は東京にいて、うちにもよく来てくださったの」


「そうなんですね」瑠璃音は優雅に会釈する。


「ここ数十年は関西におってな。最近また東京に腰据えよう思うてる」


「まあ、大きなお仕事ですね」


さらに探ろうとした瑠璃音を、白戸が低い声で制した。


「……おい」


「残念ですね」


瑠璃音は怯むことなく微笑み返す。


遠藤は笑いながらグラスを揺らした。


「喋りすぎたな。……愛ちゃん、あんた、昔の女に似とるんや」


「そんな口説き文句、古いですよ」


からかう声に、遠藤は愉快そうに笑った。


やがて席を立ち、「今日はええ夜やった」と言い残して店を後にする。


瑠璃音は別の客に応じて時間を稼ぎ、しばらくしてから微笑みを浮かべて遠藤を見送った。



銀座の街を歩いていると、目の前に修吾が現れた。


「……お嬢」


「どうしてここに?」瑠璃音は眉一つ動かさず問う。


「GPS、切ってへんかったやろ」


「まあ、さすがですね」


飄々と答える瑠璃音。


「――とぼけるな!」


修吾の怒声が裏通りに響く。


沈黙。


修吾は目の前の少女を見つめ、胸の奥がざわつくのを抑えきれなかった。


まとめ髪だからか。

酒とタバコの匂いのせいか。

それとも、ヒールで普段より目線が近いせいか。


理由は分からない。

ただ苛立ちだけが募る。


衝動に突き動かされるように簪を抜くと、黒髪がさらりと肩に流れ落ちた。


街灯に照らされたその姿は、普段とはわずかに違う雰囲気をまとっていた。


「……酒とタバコの匂い、似合わんわ」


苛立ちを押し殺すように低く呟く修吾。


「怖い顔」


瑠璃音はからかうように笑い、簪を奪い返して再び髪をまとめ上げる。


「女には、秘密にしたいこともあるんです」


冷ややかな瞳でそう告げる。――これ以上踏み込むな、と。


修吾は唇を噛んだ。

だがその沈黙を、瑠璃音が破る。


「……周防家の娘ですから。歩いて帰るなんて似合いません」


横顔のまま、淡々と続ける。


「車でお願いします、修吾さん」


修吾はわずかに目を見開いたが、無言で頷いた。


二人は並んで駐車場へ向かい、黒塗りの車に乗り込む。

エンジンが静かにかかり、夜の銀座を後にした。


車内は静まり返っていた。

運転席の修吾は、バックミラーに映る瑠璃音の姿をちらと見た。


黒髪は再びきっちりまとめられ、どこからどう見ても“周防家のお嬢様”だった。


けれど、さっき路地裏で見せたわずかな揺らぎが、彼の胸に残り続けていた。



脱衣所にひとり。


瑠璃音は髪を解き、黒髪が肩から背にさらりと落ちる。

その瞬間、小さく震えが走った。


――見透かされた。

あの視線を思い出し、胸がざわめく。


「大丈夫……私は、大丈夫」


呟きながらスマホを開く。


そこに表示されたのは、十三年前の新聞記事。


――「周防組本家襲撃事件」


白黒の写真に映る炎上した建物を見つめ、瑠璃音は深く息を吸った。


「必ず、真実を掴む」


その声は震えていた。



一方その頃、修吾は自室でスマホを見つめていた。


銀座で隠し撮りした遠藤の顔を拡大し、低く呟く。


「……調べてみるか」


夜は、なおも深く沈んでいった。



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