夜の影と秘密
夕餉の席。
若い衆が差し出したおかわりを、瑠璃音は「もう結構です」と穏やかに断った。
普段は必ず茶碗を空にしてもう一杯をねだるのに。
その小さな違和感に、食卓の空気はわずかにざわつく。
「どうしたの?」と茜が問いかける。
「今日は、たまたま食欲がないだけです」
瑠璃音は微笑んでそう答えると、箸を置き「ごちそうさま」と言って席を立った。
修吾は思わず追いかけようとしたが、茜に制される。
「思春期の娘には秘密にしたいこともあるわ。……あなたが心配することではないの」
納得しかねる修吾は黙り込むしかなかった。
⸻
深夜。
屋敷の廊下に忍び出る影――瑠璃音。
彼女は物音を忍ばせながら、道着の上に羽織ったジャージ姿で裏口へ向かう。
「……どこ行くつもりや」
背後から修吾の低い声。
振り返った瞬間、瑠璃音は苦笑を浮かべる。
「トレーニングです」
「嘘つけ!」
怒声が響いたその一瞬、瑠璃音の拳が修吾の鳩尾にめり込み、彼は意識を手放した。
「ごめんなさい、修吾さん」
倒れた修吾を背に、瑠璃音は夜の街へ消えていった。
⸻
華やかな照明に彩られた銀座のクラブ。
「愛」と名乗るホステスに変身した瑠璃音は、黒髪をきっちりまとめ上げ、落ち着いた微笑みを纏っていた。
最初は別の客を相手にグラスを傾けていたが、やがてママに呼ばれる。
「愛ちゃん、こっちへ」
案内された先の席にいたのは、五十代半ばの実業家風の男――遠藤。
清潔感のあるスーツ姿だが、どこか胡散臭い影が差している。
背後には金髪の若い衆、白戸が控えていた。
「遠藤さん、久しぶりねえ」
「おお、ママ。東京はやっぱりええなあ。久々や」
「愛ちゃん、こちらは遠藤さん。昔は東京にいて、うちにもよく来てくださったの」
「そうなんですね」瑠璃音は優雅に会釈する。
「ここ数十年は関西におってな。最近また東京に腰据えよう思うてる」
「まあ、大きなお仕事ですね」
さらに探ろうとした瑠璃音を、白戸が低い声で制した。
「……おい」
「残念ですね」
瑠璃音は怯むことなく微笑み返す。
遠藤は笑いながらグラスを揺らした。
「喋りすぎたな。……愛ちゃん、あんた、昔の女に似とるんや」
「そんな口説き文句、古いですよ」
からかう声に、遠藤は愉快そうに笑った。
やがて席を立ち、「今日はええ夜やった」と言い残して店を後にする。
瑠璃音は別の客に応じて時間を稼ぎ、しばらくしてから微笑みを浮かべて遠藤を見送った。
⸻
銀座の街を歩いていると、目の前に修吾が現れた。
「……お嬢」
「どうしてここに?」瑠璃音は眉一つ動かさず問う。
「GPS、切ってへんかったやろ」
「まあ、さすがですね」
飄々と答える瑠璃音。
「――とぼけるな!」
修吾の怒声が裏通りに響く。
沈黙。
修吾は目の前の少女を見つめ、胸の奥がざわつくのを抑えきれなかった。
まとめ髪だからか。
酒とタバコの匂いのせいか。
それとも、ヒールで普段より目線が近いせいか。
理由は分からない。
ただ苛立ちだけが募る。
衝動に突き動かされるように簪を抜くと、黒髪がさらりと肩に流れ落ちた。
街灯に照らされたその姿は、普段とはわずかに違う雰囲気をまとっていた。
「……酒とタバコの匂い、似合わんわ」
苛立ちを押し殺すように低く呟く修吾。
「怖い顔」
瑠璃音はからかうように笑い、簪を奪い返して再び髪をまとめ上げる。
「女には、秘密にしたいこともあるんです」
冷ややかな瞳でそう告げる。――これ以上踏み込むな、と。
修吾は唇を噛んだ。
だがその沈黙を、瑠璃音が破る。
「……周防家の娘ですから。歩いて帰るなんて似合いません」
横顔のまま、淡々と続ける。
「車でお願いします、修吾さん」
修吾はわずかに目を見開いたが、無言で頷いた。
二人は並んで駐車場へ向かい、黒塗りの車に乗り込む。
エンジンが静かにかかり、夜の銀座を後にした。
車内は静まり返っていた。
運転席の修吾は、バックミラーに映る瑠璃音の姿をちらと見た。
黒髪は再びきっちりまとめられ、どこからどう見ても“周防家のお嬢様”だった。
けれど、さっき路地裏で見せたわずかな揺らぎが、彼の胸に残り続けていた。
⸻
脱衣所にひとり。
瑠璃音は髪を解き、黒髪が肩から背にさらりと落ちる。
その瞬間、小さく震えが走った。
――見透かされた。
あの視線を思い出し、胸がざわめく。
「大丈夫……私は、大丈夫」
呟きながらスマホを開く。
そこに表示されたのは、十三年前の新聞記事。
――「周防組本家襲撃事件」
白黒の写真に映る炎上した建物を見つめ、瑠璃音は深く息を吸った。
「必ず、真実を掴む」
その声は震えていた。
⸻
一方その頃、修吾は自室でスマホを見つめていた。
銀座で隠し撮りした遠藤の顔を拡大し、低く呟く。
「……調べてみるか」
夜は、なおも深く沈んでいった。




