第二話 わらべ歌
「やあ、高橋くんだね」
「はじめまして、高橋悠真です」
「滝沢蓮二だ。音大の大学院二年生。よろしく」
石川さんが助っ人として部室に連れてきたのは、石川さんのいとこの音大生だった。
「私は小学生の頃にちょっとピアノ習ってたくらいだから。暗号解読にはもっと専門知識がある人がいいかなと思って来てもらったの」
「助かるよ。滝沢さん、頼みます」
「綾音ちゃんの友達が自殺して暗号が残されたって聞いたよ。何か俺が協力できるならぜひさせてくれ」
僕は滝沢さんと握手すると、さっそく考察を話した。
「この古文書の最後の一文、一見ランダムな文字列に見えるんですが、なにかのわらべ歌じゃないかとひらめいたんです」
「わらべ歌か。確かに、特に古いわらべ歌っていうのは、歌詞がよくわからないことなんてあるあるだからね」
「歌詞の解読なら民俗学の見地からなんとかできるかもしれないので、そこはもう少し調べてみるつもりです。ただなんとなく歌だと思ったら、しっくりくる気がして。でもそもそも歌ってどういうものなのかの知識がないので、その辺を教えてもらえたら何か解読のヒントになるんじゃないかと」
「なるほどね。歌っていうのは……そうだな、そもそも歌に限らず曲、音楽そのものが、三つの要素でできていると言われている」
「メロディとか、ですか?」
「そう。メロディ、ハーモニー、リズム。メロディっていうのは、旋律だね。どんな音が連続で流れているか。ハーモニーは和音、つまりどんな音が同時に流れているか。そしてこれらの音が、どれだけ伸びてどこで区切るか、それがリズムだよ」
滝沢さんは部室のホワイトボードに音符をいくつか書きながら説明する。
「わらべ歌というのは、この三つの要素のうちハーモニーがないことが特徴だ。わらべ歌だけじゃなく、日本の昔からの音楽の特徴とも言えるかな。メロディはひとつで、それをみんなでユニゾン、つまり同じ音で歌う。ハモったりせずにね。もちろんリズムはあるが、日本の歌は古代からずっとメロディさえあれば成立していた」
「メロディだけの音楽があるってことは、国によってはリズムだけの音楽とか、ハーモニーだけの音楽とかもあるんですか?」
「鋭いね。もちろんある。たとえばドイツの音楽はリズムをすごく重視しているし、日本でも和太鼓の演奏なんかはリズムだけの音楽だ。ハーモニーだけの曲は十八世紀にバッハが発明している。そう思うと、たとえばこの古文書の最後の一文がわらべ歌だとすれば、音楽として再現するためにはメロディとリズムさえわかればいけると思う」
「高橋くん、これが曲だとしたら、何かわかるの?」
ここまで聞いていた石川さんが最もな疑問を発した。
「どうだろう。今は思いつきをとりあえず全部試してみるって段階かな」
「そうだよね。なんでも試してみないと」
「メロディを特定するのは難しいけど、ヒントはある。この古文書の書かれた年代がわかれば、その当時の音階、つまりよく曲に使われていた音を元に、近いものはつくれないこともない。あとは北島くんの実家の辺りは結構田舎だったはずだから、その地方に似た歌詞の民謡が残っていないか調べてみるのもいい」
「なるほど。だいたいわかりました。じゃあ僕はリズムの特定に動きます。メロディはかなり知識がいりそうなので」
「そうだな。メロディの特定は俺がやってみるよ。音楽の知識が少しある綾音ちゃんが高橋くんのサポートをするのがいいだろうね」
「うん、そうする。今日はありがとう、蓮二兄さん」
「いいよ。じゃあ、また何かわかったらお互い連絡しよう。高橋くんも」
滝沢さんと連絡先を交換し、帰っていく滝沢さんを見送った。
「高橋くん、リズムの特定って言ってたけど、何か心当たりはあるの?」
「うーん、正直音楽のことはわからないけど、気になってることがあるんだ」
僕は古文書に書いてある最後の文字列をホワイトボードに書き写した。
「促音と母音が多いんだよね」
「促音って、小さい“つ”?」
「そう。この文字列には、小さいつと、母音、つまりあいうえおの音が多く含まれている」
「これがどうリズムにつながるの?」
「リズムっていうのは、滝沢さんの話だと音を伸ばす、区切る、の情報のことだ。促音というのは実際発音するときは、無音になる」
「無音……そっか! 音を、区切ってる……!」
「そう。母音は逆に、音を伸ばしている。コーヒーの発音は“こおひい”だ。つまり促音と母音は、音の長さと区切る箇所に置き換えられる」
ホワイトボードに書いた古文書の文章の下に、点と線を書いていく。
「そういう目で見ると、母音がついてる伸ばす音、母音がついてない短い音、それらを促音の箇所で区切ることで、現代のポピュラーな暗号に置き換えることができる」
トン、トン、ツー、と線を引く。
「モールス信号だ」
古文書の文章が、点と線の記号に置き換わる。
モールス信号とは、一定の音を伸ばすか切るかのリズムで言葉を伝える暗号だ。
短い音をトン、伸ばす音をツー、この二種類の組み合わせでアルファベットなどを伝えることができる。
例えばトントントン、ツーツーツー、トントントンでSOSを意味する。
電話が発達していなかった頃に、単音なら伝えられる技術段階で使われていた暗号である。
「といっても、もしこれがモールス信号だとしたら、わらべ歌としてのリズムとはまた違うものかもしれないけどね。それに」
僕はモールス信号のアルファベットやひらがな一覧表をスマホで表示して石川さんに見せた。
「これがモールス信号だとして、アルファベットやひらがなに置き換えても、意味のある文字列にならないんだ。振り出しだよ」
「そっか……でも一歩進んでるよ。これ、試しに鳴らしてみる?」
石川さんはスマホでピアノのアプリを起動した。
「メロディはわからないけど、リズムだけなら、例えば全部ドの音で鳴らすとかならできるよ」
「そうだね。何かわかるかも。鳴らしてくれる?」
石川さんがホワイトボードを見ながらピアノアプリを鳴らすと、途中で電車の通る大きな音がしてかき消された。この部室は線路のすぐそばにあるのでこういうことがある。
「あ、電車。タイミング悪かったね。もう一回弾こうか?」
「いや、いいよ。最初の方聞いてもなにもわからなかったし。やっぱ音楽は苦手だな」
「まあ、だからなんだって話だよね。やっぱりメロディが特定されないと曲として完成しないもんね」
「うん。今日はもう遅いし一旦帰ろう。また明日、部室で」
「高橋くんも気をつけてね。古文書を持ってる人が一番危ないかもしれないんだから」
「状況証拠的にはね。でもまだオカルトの域を出ないかな。石川さんも気をつけて」
その日の深夜、風呂上がりにスマホが鳴った。
「もしもし? 石川さんどうした?」
「あのリズムが頭から離れないの」
電話越しに風の音がひどい。
「外にいるの? 今どこ? 大丈夫?」
「すべての音があのリズムに聞こえるの」
「石川さん……? 石川さん?」
様子がおかしい。何度も呼びかけるが、石川さんは聞こえていないかのように会話が成り立たない。
「私気づいちゃったの。心臓の鼓動があのリズムになってた。なってしまったの。ずっとあのリズムが頭の中で鳴ってるの。初めは幻聴かと思った。でもあまりにもうるさくて、もうどうしようもなくて、自分で自分の鼓膜を破ったの。でもだめだった。あのリズムは頭の中で鳴っているから、鼓膜を破っても聞こえてしまう。心臓の鼓動は耳が聞こえなくても振動で感じ取れてしまう。あのリズムから逃げるには、もう」
「石川さん! そこから動くな! すぐ行くから!」
「——もう、死ぬしかないんだと思う」
風の音が強くなった。
ドサリ、と音がして、石川さんの声がしなくなった。