第159話 ロシアとの取り引き(メルモダーガ視点)
――椿遊杏こと花森優愛。そのマネージャー羽佐間。
2人からの連絡が無くなり、メルモダーガは不穏なものを感じていた。
まさか2人も白面にやられたのか?
自室の豪奢なベッドに座って少年の頭を撫でながら考える。
所属している事務所に依れば2人とも連絡が取れないとのこと。
だが以前のように動画は出ていないので、アカツキと白面にやられたかはわからない。
現状なにがあったかは不明だが、ドルアンに探らせているのでいずれわかるはず。
トントン
と、そのとき扉を叩く音が聞こえる。
「父上、例のお客様が見えられております」
「ああ。わかった」
ドルアンの声に答えて立ち上がる。
それから扉を開き、前に立っている無表情のドルアンを見上げた。
「ドルアン、あの2人はどうなった?」
「消息を絶っております。最後に目撃されたレストランで姿を消し、その後に消息不明。そのレストランで白面と親しいブラック級11位の鹿田無未と会っていたようですが、もしかすれば戦って敗北をしたのかもしれません」
「馬鹿なっ!」
ドルアンへ向かって叫ぶ。
ジェイニーとミレーラを殺した白面にやられたのならば、かろうじて理解はできる。しかしたかがブラック級11位のハンターに殺されたなど信じられなかった。
「そんなことはありえないっ! もっとよく2人の行方を調べるんだっ!」
「かしこまりました」
恐らく2人は殺された。
だがまさか白面以外にも魔人の精鋭を殺せる存在がいるなど、信じたくはなかった。
ドルアンを背後に歩かせ、メルモダーガは円卓のある間へと赴く。
円卓の間には、初老の白人男性がひとり立っていた。
「これはどうも、イランコフさん」
男の名前はイランコフ・セルガノビッチ。
ロシアの秘密機関に所属している男で、以前にロシア政府へある要望を伝えようとしたところ、彼が窓口として姿を現したのだ。
それが1年ほど前のこと。
今になって、デュカスはそのときの対価を要求されていた。
「おひさしぶりですメルモダーガさん。私がこちらへ伺った理由はご存じと思いますが」
「ええ。例の件ですね」
ロシア政府が要求するその対価とは、末松上一郎か末松忠次の身柄。正確に言えば、彼らが持っているとされる人造人間開発の研究データである。
「デュカスから日本政府へ働き掛けて裁判所に彼らの保釈を秘密裏に認めさせました。現在はデュカスの管理するホテルに滞在しており、いつでもロシアへ発つことは可能な状態です」
「素晴らしい。しかし我らがほしいのは例の研究データと、それにアクセスするのに必要なパスワードを知るどちらかです。その所在とパスワードを知っているどちらかだけの身柄をいただければよかったのですが?」
「彼らは親子でロシアへの亡命を望んでいます。それが叶わない場合は研究データは渡さないそうです。それと、研究データは上一郎氏だけが知っているパスワードと、と忠次氏だけが知っているパスワードを組み合わせなければアクセスはできないようになっているそうです」
「なるほど。わかりました。では2人を我が国へ亡命させましょう」
「我らが対価としてお返しするのは末松上一郎と末松忠次の保釈させてそちらへお渡しすることです。彼らが例の研究データについて虚偽を言っていたとしても、責任は取りませんよ」
「それは心配ありません。彼らが研究データをどこかに隠したという情報と、アクセスにはパスワードが必要という情報は以前にジョー松の研究所で働いていた研究員から聞いたものです。間違いはないかと」
「そうですか。ならばよかった」
一騎当千である魔人を作り出せるメルモダーガにとって、人造人間開発などなんの魅力も感じない。開発した人造人間でなにをするかは知らないが、好きにすればいいという心境であった。
「我々の要望は研究データを安全にロシア国内で受け取ることです。研究データは末松上一郎と末松忠次が持って来るとして、護衛はつけていただけますか?」
「護衛?」
「念のためですよ。彼らは世間からひどく恨まれていると聞きます。パスワードを知る彼らが殺されては困ります」
「ふぅむ……」
「我が国で2人の身柄を受け取って取り引きは完了します。もしも途中で2人が死ぬということになれば、この取り引き不成立となりますが」
この男は魔人とデュカスの関係を知っている。取り引きが不成立になれば、その事実を世界へバラすとでも言いたいのだろう。
しかし無意味な脅しだ。そんなことをしようとした時点で、この男の命はない。
「いいでしょう」
とはいえ、少なくとも今はロシア政府と事を荒立てるつもりもない。
護衛くらいはつけてやろうと思った。
「ありがとうございます。では私はこれで。今後ともデュカス、ひいてはメルモダーガ様とは末永くより良いお付き合いをいただければと期待しております。それでは」
話が終わるとイランコフはすぐに立ち去って行った。
「ふん」
うまくこちらを利用してやろうとでも考えているのだろう。
利用されているのはどちらか。いずれわかるときがくる。
「メルモダーガ様、護衛には誰を?」
「誰でもいい。適当な魔人でも2人ほどつけてやれ」
「お言葉ですがメルモダーガ様」
神妙な面持ちでドルアンは言葉を続ける。
「末松上一郎と末松忠次が保釈されたという噂がネットに広まっているようで、それを信じた彼らに恨みを持つ人間がブラック級のハンターに殺害を依頼したという不確ですが、そのような情報が入っております。魔人がブラック級ハンターよりも優れた力を持っているのは事実ですが、白面にやられたときのようなことが起こらないとは限りません。ブラック級を雇ったという情報の真偽は不明ですが、万が一を考えると護衛には念を入れておいたほうがよいのではと私は考えますが」
「むう……」
護衛に万全を期すとなれば、魔人の精鋭である三本角の我が子の誰かをつけなければならない。しかし魔人とはいえ、普段は普通の人間として生活している者たちだ。このドルアンにも他に役目があるため、すぐにロシアへ行ける者は少ない。
いっそあの2人を魔人にしてしまうかとも考えたが、なりたての魔人では心許ない。それに魔人化するとはデュカスに所属してメルモダーガに従うということだ。世界的大企業のトップとその後継ぎであった男が、おとなしく自分の下について指示通りに動くかは怪しいものだった。
「すぐに動ける我が子は……あの2人しかいないか」
「あの2人とは、まさかポタニャコフ兄弟ですか?」
普段はほぼ無表情であるドルアンの眉間に皺が寄る。
ポタニャコフ兄弟とは、メルモダーガがロシア政府に要望して譲り受けた死刑囚たちで、今回ロシアへ対価を支払うきっかけとなった2人である。
有望な魔人候補として、死刑が確定していた兄弟を以前にロシアから譲り受けた。魔人を使えば無理やり手に入れることもできたが、事を荒立てて無駄に敵を作ることもないだろうと、取引を持ち掛けたのだ。
「ああ。そもそもこの取り引きは連中をもらうためにしたことだ。護衛をやらせるなら適任だろう」
「お言葉ですが父上。連中が素直に護衛を全うするかは疑問です」
ドルアンの懸念はもっともだ。
魔人となるのは邪悪な人間ばかりで、利己的な者が多い。しかしそんな連中でも望み通りの蜜さえ与えてやれば言う通りに動く。
だがこのポタニャコフ兄弟は違う。奴らに人間らしい理性は無い。いや、かつてはあったのかもしれないが、今はほぼ失われていると言っていい。
あれはケダモノだ。欲望のままにしか動かない。与えられる蜜よりも、目の前にある獲物に飛びつく危険な連中だった。
「特に弟のほうは異常です。なにをしでかすかわかりませんよ」
「わかっている。弟のほうにはあれを大量に与えておけ。あれを吸っているあいだはおとなしいはずだからな」
椿がいれば彼女のスキルで瞬時の移動が可能だった。
だが今はもういない。いない者に期待をしてもしかたがないだろう。
「それでも賛成はしかねます」
「ならばお前のスキルで2人をロシアへ移動させることは可能か?」
「私のスキルは瞬時の移動を可能にするものですが、転移のようなものとは違います。私個人だけならばともかく、他者を無事に遠方へ移動させられるという保証はできません」
「わかっている。皮肉を言っただけだ。真面目に答えなくていい」
「はあ」
「ドルアンよ。私は奴らポタニャコフ兄弟を養うためだけに手に入れたわけではない。いるならば使う必要がある」
「……わかりました。これ以上はなにも言いません」
それきりドルアンは口を閉ざした。




