異界
「今日も終電で帰りか……」
俺は駅のホームで電車を待ちながら絶望していた。
ここ4週間ほど、毎日6時間は残業しているし、4週間も休日がない。しかもそのぶん残業代が出るわけでもない。
もう自分が生きるために働いているのか、働くために生きているのか分からなくなっていた。
「明日も早く来ないといけないな……」
そろそろ電車がやってくる時刻だが、ホームで線路を眺めていると、衝動的に線路に飛び込みたい気分になってきた。いやいや、そんなことをしたら人に迷惑がかかる……いや、そんな迷惑などを気にかけるような性格だから、こんな目に遭わされているのではないか……?
そんなことを考えていると電車がやって来た。俺以外には乗り込む客はいないようだ。こんな状況でも、せめて座席に座れるのはありがたい。
俺は向かいの暗い窓に映る自分の姿を眺めながら、帰ったら早くシャワーを浴びて寝なきゃと思っていた……
「次は……次は……終点です……」
アナウンスの声でハッと目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。降りる駅を寝過ごしてしまった。ここが終点だとなると、自分の降りるはずだった駅に行くにはタクシーでも使わなきゃならない。
「畜生!」
俺は自分の人生を呪いながら電車を飛び出し、少しでも睡眠時間を確保しようとして、タクシーをつかまえるために走った……が、そこで違和感を感じた。
もう夜中のはずなのに、辺りは夕暮れ時のようなオレンジの光に包まれている。
降りた駅は屋根や改札も見当たらない、もう何年も前に廃駅になったようなさびれた野外のホームで、ボロボロの看板には「弥生駅」と書いてあった。
「弥生駅……?そんな駅はなかったはずだけど……」
俺は駅を出て外の町に向かって歩き出した。外は住宅街のようだが、通りには人の姿が全く見当たらず、立ち並ぶ民家も、どれも灯りがついていないし、どこにも人の気配がない。
「こ……これってまさか……」
「フフフ……お気づきになりましたか」
「!?」
振り返ると、長い黒髪に白い服を着た幽霊のような姿の女性が立っていた。彼女は言った。
「ここはあなたが今までいた世界とは異なる世界です。このままでは、いずれあなたはこの世界に取り込まれて元の世界には帰れなくなるでしょう。
しかし、帰る手段はあります。その条件とは……」
「ありがとうございます!!!」
「え?」
俺は反射的に45度の角度でお辞儀していた。
「もう元の世界には帰れなくなるんですよね!?ありがとうございます!!私はずっとこの世界にとどまります!!」
「え、ええ、まぁそうですけど……いいんですか?帰れなくなるんですよ?元の世界に未練とかないんですか?」
「いいんです!もう二度とあの世界には帰りません!!ずっとここにいさせて下さい!!」
俺の目からは感謝の涙が溢れてきた。どうして俺はこんな幸運に恵まれたのだろうか。この間、家に入ってきた虫を殺さずに捕まえて外に逃したからかも知れない。ありがとうございます。俺は言った。
「あっでも……一応聞いときますけど、何かこの世界には化け物が徘徊していて、そいつに捕まると惨殺されるとか、そういうことがあったりするんですか?」
彼女は言った。
「い、いえ、別にそんなことはないですけど……ただ、この世界で四日が経つとこの世界に取り込まれて私のような幽霊になり、元の世界には帰れなくなります。あとたまに幽霊がこの世界に引きずり込もうとしてきたりはしますけど……」
「ならいいです。ありがとうございます。本当に感謝してます」
俺は足取りも軽く、住宅街を歩いて近くの家に入った。
鍵はかかっていないし、人も誰も住んでいない。お湯は出るようなので、シャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。
「おやすみなさい。ああ、明日早く出社しなきゃと考えずに眠れるなんて、なんて幸せなんだろう」
俺はベッドの中で嬉し泣きした。
例の彼女はまだ俺の近くにいて、枕元で複雑な表情をして立っていた。彼女は言った。
「最近は、あなたのような人が多いんですよ。元の世界に帰ろうとしないんで、こっちも張り合いがないというか……」
「それならそれでいいじゃないですか。その人たちが幸せでありますように。今の俺は世界中の人の幸せを祈りたい気分ですよ。それじゃ、もう寝ますので。おやすみなさい」
「はぁ……おやすみなさい」
彼女も姿を消したので、俺は幸せを噛み締めながら眠りに落ちた。