SNSの拡大と個人主義の伸張は人の孤立化をもたらした。
SNSの拡大と個人主義の伸張は人の孤立化をもたらした。共同体の感覚が薄れ、それぞれが一人のアイデンティティを持った確固とした個人になった。そして増長したるは孤独感と劣等感である。
生まれ変わるなら中世の農奴になりたい。自分を庇護してくれる圧倒的な存在と自分と同じ価値しかいない人間の間で暮らし、恋をし、死にたい。寿命は短くていい。何も面白いことは無くていい。そんなものがあるだけ生に対して縋る理由になってしまう。
死への欲求は常に創作の渇望になった。こうして今書いているのも死への欲求を利用している。
死にたい気持ちはまるで磁石のように生きたい気持ちと反発してエネルギーを生み出す。そしてこれはそのまま死なない理由にも直結する。エネルギー自体は負ではないからだ。
そして、こうして手を進めている一分一秒、自分の命が一分一秒伸びていると言っても過言ではない。
この一文字一文字が自分の命と同じ重さを持っている。
そして、悲しいかな、自分は心に潜む矛盾の力が生み出していると知っている。これは死と生、という単純なものだけではない。芸術への熱意と他人からの欲求もまた含まれている。
芸術は自分の内面だけで完結し、評価されるものであると思っている。なぜなら、そもそも他人からの評価だけで作られたものなど芸術作品ではないからだ。それはエンタメ作品であり、他人を楽しませるものを目的にしたものだ。芸術はあくまで個人の内面を様々な方法で表現するものであると自分は信じている。それにも関わらず、こうして自分がサイトに投稿している事実は、自分の心がまた他人からの評価を渇望してやまないことの証拠になっている。なんとも情けないことだ。
もし矛盾が無い世界ならば、これほど良いものはない。自分の信念に従った行動は全て真であり、その過去も現在も未来も変わることはない。つまり、後悔などしないのだ。その行動がその人の取りうる最善であり、変化しようが無いのだ。
しかし人は変わる。変わらざるを得ない。そもそも生き物は変化せざるを得ない。大抵の生き物は考察をしないため、変わるのは見た目と習性だけだろう。ただ人間は、精神も変化させなければならない。他の生物は何世代にも渡って少しずつ変化するにも関わらず、人間の精神は単一の個体を持ったまま、急激に変わらざるを得ない。その過程で矛盾が発生するのだろう。
その矛盾を解決させる学問が哲学であり、大抵の人間はその矛盾を考えないこと、受け入れることで乗り切る。それを成長、それが出来る人間を大人というのならば、自分はまだまだ子供である。
自分にとって矛盾は解決すべき内憂であり、それを抱えたままでの生活は明らかな支障をきたしている。自分は嫌いでいながら好きであり、そのせいで死にたいにも関わらず生きたいのである。
天の邪鬼という言葉で片付けるにはあまりにも長く付き合ってきている感情であり、完全に理解できるのはおそらく世界で自分だけであろうし、誰かに理解してもらった時点でたぶん自分は物を書くことを辞める。そして、子供ではなくなるだろう。