アリサ 対 七妖衆ゴルゴナ!? そして、歴史の闇に消えた聖女と王子の悲恋を、アリサは静かに心で噛みしめるのです。
ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!
【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】3巻が8月5日発売しました!! 鳥生ちのり様作画!! KADOKAWAさまのFLОSコミックさまです!! 表紙はブラッドです!! かっこいい!! 1巻2巻ともども、どうぞよろしくお願いします!! ちなみに連載誌は電撃大王さまです。「108回」おまえはいったい何者なんだ……。
また12月1日 11時より コミックウォーカー様やニコニコ静画様で、22話「スカーレットとアリサ、そして二人は出会うのです。」①が公開予定です!! 最終回になります!! 鳥生さまお疲れ様でした!! ぱちぱち!! 増量ページなどで大変だったと思います。長いあいだキャラを可愛く怖く恰好よく描いていただきありがとうございました!!アーノルドやローゼンタール伯爵夫人もまさかの出演です!!どうぞお楽しみに!!
ピクシブ様やピッコマ様で読める回もあります。もちろん電撃大王さまサイトでも。ありがたや、ありがたや。どうぞ、試し読みのほどを。他に公開してくださってるサイトがあればぜひぜひお教えください。ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「こいとうたたね」も少し読めます。応援よろしくです……!! もし新作を描かれるときはそちらも!! そして、原作小説の【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻】はKADOKAWAエンターブレイン様より発売中です!!
ぶつかりあう波涛が遠雷のように轟く。
……ここは、世界中の船乗りにおそれられる難所〝アギトの海域〟。
千変万化の逆巻く海流は舵をもぎとり、波間の岩礁の牙は、船底を食い破らんと虎視眈々とし、鮫をはじめとする飢えた肉食魚の群れが、血肉を求めて徘徊する海の地獄だ。
しかし、いつもがなりあう波風とはねまわる魚どもで喧しいほどの海域が、今夜はやたら静かだった。海にたゆたう白濁のあぶくさえも控え目だ。
月光に照らされた海に突き出た岩礁にふたりの美少女がいた。
ひとりは岩の上に立ち、ひとりは海中から顔を出して立ち泳ぎしていた。ありえない光景だ。ここでは屈強な漁師でさえ落水した瞬間に死を覚悟するのだ。だが、バカンスにでも来たというふうに無警戒に足をばたつかせる少女に、おそろしい鮫どもは近づこうともせず、そっと目をそらした。
美しさに照れたからではない。恐怖で身が竦んでいるのだ。本能で生きる鮫どもの目には、この美少女たちが不吉でまっくらな化物に見えていた。
「アリサ様、ひっどぉーい。あんなに強い男達が、船にいっぱい乗ってるなんて聞いてなかったですよぉ。かよわい私ではどうにもなりませんでしたあ。それにあのブロンシュ号……でしたっけ。あの船、なんかヤバげなものが憑りついてますよね? ああ、こわかったあ」
海中の艶やかな長髪の少女は、泣きべそになり身を震わすと、両手で顔を覆った。
全身で嘆き怯えているとアピールするように海面に身をのりだす。上半身だけでなく、腰、太腿が現れ……もう立ち泳ぎでどうこうという代物ではなかった。いや人間でさえない。少女は波間に地上のように立ち、濡れそぼった全身を見せつけるように月に染めた。自分の美しさを誇り理解しているのだ。
黒に見えるが微かに緑がかった独特の髪は海藻の色だ。ミルク色の肌は真珠の光沢を帯び、ピンクの唇は珊瑚のように鮮やかだ。への字を軽く描く口元は小生意気で可愛らしい。笑顔で二言三言囁き、髪と同じ色の大きな瞳で見つめられるだけで、たいていの男は彼女の虜になる。
だが、極めて勘のいい一握りの女性は彼女を忌み嫌う。同じ空間にいたくないとばかりに足早に立ち去ってしまう。嫉妬ではない。薄皮一枚のおぞましい擬態を、本能とかすかな潮の香で察し、違和感と不快さで吐きそうになるのだ。
少女の名はゴルゴナ。
アリサの配下の七妖衆のひとりだ。
主のアリサは波が舐めるわずかな岩場に軽やかに立ち、ゴルゴナを静かに見下ろした。
大人の姿になっている。ゴルゴナも美しいが、主はその上をいった。完璧なプロポーションを海よりも青いドレスが引き立てる。形のいい唇が三日月につりあがった。豪奢な金髪が夜の海風にきらきらと舞った。
「あはっ、ゴルゴナ、私に嘘は通用しないわ。私に釘を刺されていなければ、殺す気満々だったでしょう」
指の隙間から様子をうかがうゴルゴナの挑戦的な眼に、アリサはとっくに気づいていた。
「えへへ、ばれちゃいましたあ?」
ゴルゴナは顔から手をどかし、にやりと獰猛に嗤う。泣き真似を悪びれもしない。大きな目の奥で狂暴で酷薄な本性でぎらつくと、愛嬌のある顔が一変した。普段は意外なほどぬぼおっとした顔のホオジロザメが、獲物を喰らうとき牙と歯茎を剥きだすのに奇妙なほどそっくりだ。
……スカーレットたちの乗るブロンシュ号と「シャチ艦隊」はとうにここから去っていた。彼等は気づかなかったが、死闘はずっと海の底から、この七妖衆ゴルゴナに監視されていた。
隠形はゴルゴナの得意技であり、ブラッド、紅の公爵、マッツオの三人の超人たちの探知さえ堂々とすり抜けた。海はまさに彼女の独壇場で、本気で水中に身を潜めたゴルゴナを捕捉できる者は、アリサをはじめ世界中に片手で数えるほどもいない。
だが、その驚異の事実に、ゴルゴナはあまり関心がなかった。それよりもゴルゴナにとっては、お気に入りの自分の容姿のほうが大切だった。そして、それが男に及ぼす威力をよくわかっている。彼女はいろいろな意味での「捕食者」だ。可憐な容姿は、チョウチンアンコウの擬餌状体と同じだ。ひらひらと男を誘いこみ、そして……。甘い展開に胸ふくらませた男達は、ゴルゴナの牙にかかり、その本性を悟って断末魔の叫びをあげるのだ。その魔性を愉しみ、なお愛でられるのがアリサだった。凄絶な悪魔の主従だ。
「……ねえ、ゴルゴナ。私はエセルリードを攫うことだけを命じたはずよ。困った性癖だこと。涎ぐらいお拭きなさいな」
アリサは嗤う。頭上の蒼白い月がさらに血の気を失った。輝く金髪は闇よりも濃く恐ろしい。おとした孤影と碧眼のまなざしが水面を怯えさせる。アリサの不興を買うことは死に直結すると知っているのだ。
ゴルゴナはその姿をうっとりと見上げた。
〝さすが黄昏のお姫様。なんて気高くて邪悪で美しいのかしら。美味しそう……〟
胸をときめかせ呟く。ぐうと下品に腹が鳴る。
より優れたものを喰らい取りこみたい。それは彼女の本能にきざした灼けつく衝動だ。
「そういえば、あの赤髪に紅い瞳の赤ちゃんも美味しそうだったわ……」
思いだし、つい本音を漏らしてしまった。おそろしいルビーを身に着けていなければ、本気で海中に攫いたかった。遠く懐かしい知人にそっくりなあの姿。想い出すだけで血が逆流してくる。ミルクくさい柔肌に牙をたて、あたたかい生き血を味わい、ひきずりだした内臓を啜りたかった……。
まずは海中で窒息地獄を味あわせる。それから唇にキスをし、人工呼吸で延命させながら、同時にやすりのような舌先で口の中から相手を削り喰らっていく。
それはゴルゴナが溺れさせた男を水中でなぶる常套手段だった。
生きながら食べられるとわかっても、呼吸の苦しさからゴルゴナの口づけに応じぜずにはいられない。生への渇望が死を手繰り寄せてしまう。マイマイカブリに首を突っ込まれるカタツムリのように血泡をふく絶望の表情は、ゴルゴナを至福へといざなった。
身体の芯が熱く疼く。ゴルゴナの性欲と食欲は直結していた。いつか必ずあの赤ちゃんを。逃がさない。あれは私の獲物だ。迂闊にもそう本気で思ってしまった。人食い熊同様の度外れた執着もまた彼女の特徴だ。
アリサの碧眼が冷たく輝いたのに気づいたときには遅かった。心を読まれたのだ。ごうっと大気が鳴り、見えている蒼い月がぐにゃりとひしゃげた。アリサの殺気が大気を歪ませた。うっかり虎の尾を踏んでしまった。仕えて日が浅いため、ゴルゴナはアリサの怒りのポイントを掴みきっていない。
「……愚か者が。誰がスカーレットを食べろと言った。不死身に胡坐をかく傲慢を後悔するがいい。死よりもおそろしい恐怖を刻んであげる。地獄で泣いて誇れ。私の怒りを受けることを。私は私を侮る者に容赦はしない」
氷の声は骨まで突き通るほど鋭かった。
裏切る者に容赦はしないと言わないのがアリサらしかった。事実、魂を懸けた信念に基づいた結果なら、袂を分かつことさえアリサは責めない。だが、目先の欲望が理由なら、アリサは決して許さない。そしてスカーレットに無断で手を出す事は、アリサ最大の逆鱗に触れることだった
大地震の予兆のように海鳴りがはじまった。もはやアリサは動き出した大海嘯に等しかった。
制止は不可能と悟ったゴルゴナは恭順の姿勢を捨て臨戦態勢をとった。後方に大きく跳ねとんで距離をとる。目が挑戦的な輝きを帯び、にいいっとぎざぎざの牙をむきだした。
最初ゴルゴナは海底への退避をはかったのだが、海中はアリサの放った鬼気ですでに大渦巻となっており、ゴルゴナを海上へとはじき出した。逃げを封じられた。その影響はすぐに海面に及び、どぷんどぷんと音を立て、小山の高さで波が揺れ動きだした。小舟など一瞬で粉砕する水の大質量が四方八方から降り注ぐなか、だが、ゴルゴナは笑顔でアリサと対峙した。
「あはっ、いつまで笑っていられるかしら」
アリサはぱちんと指を鳴らした。
それを皮切りに、大渦は隆起し、たちまち海面を突き破った。空に舞いあがりくねる竜巻と化す。黒々したその威容を帯電の網がしもべとなって追いかけていく。まさに天をめざす暴龍だ。吸い上げられた海水の条が次々に合流し、その太さを増していく。黒雲が垂れ龍はそこに突入した。天と地がひとつにつながる。ざあっとあたりが暗くなった。雹が弾雨となって降りそそぐ。鋭い音ともに海面が無数の水柱に覆われる。雹にはアリサの鬼気がこめられていた。その威力は鋼鉄さえ穿つ。
これは天変地異による処刑だった。まともに呑み込まれたら大型の鯨でさえ原型を留めない。
「きゃあ、こっわあい」
ゴルゴナがおどけてわざとらしい悲鳴をあげた。ぷっくりした唇に指をあてる。
「ええっとお、怖いから、ゴルゴナ歌っちゃいまあす」
なんとゴルゴナは天高く迫る竜巻に、片手を差し伸べ、もういっぽうの手をつんと上向きの胸にあて歌いだした。古代ロマリア風の薄い衣裳と相俟って、舞台の一場面を思わせた。
ゴルゴナは歌を武器にするのだ。それは伝説のセイレーンを思わせた。美しい歌声のキーがどんどん高くなり、あっと言う間に可聴領域をこえた超音波となり、アリサの竜巻を迎え撃つ。雹が残らず吹き飛び、不可視の力がつばぜり合いをする。轟音が耳を弄し、青い火花が波間を染める。視界を埋め尽くすほど炸裂するのは飛沫か水蒸気か氷の欠片かわからない。自然現象の常識外の修羅界が出現していた。けれど、拮抗は一瞬だった。
「腹が立つ種族だこと。おのれの欲望にふりまわされることを美徳とし、快楽に吠え、涙ではなく涎を流す。あまりに生きすぎ、滅びの美学さえ忘れた鈍感な強いだけの獣。……あの女を思いだすわ。……よくも私を不快にさせてくれた」
吐き捨てたアリサの目が一瞬真紅に輝いた。
ぐんっとアリサの力が爆発的に膨れあがり、後押しされた竜巻が咆哮し、ゴルゴナの歌を突き破った。
ゴルゴナはあわてず、大きく伸ばした両手を内回しにし、そのまま額の前でクロスさせた。
「まだまだあ。ゴルゴナも負けませんよお。いっきまあす。それええっ」
複雑な印を何回か結びぐるぐる交差させると、古代文字を宙にいくつも描き、ばっと肘をはって左右に割った。ソロモンも知らない太古の呪法だが、がくっとくる黄色い掛け声があまりにそぐわない。ふざけているとしか思えない。だが、旧い種族のゴルゴナにとって、呪術とはしかつめらしいものではなく、日常の遊びなのだ。
効果は覿面で、押し寄せる竜巻は悲鳴をあげてまっぷたつに裂け、崩れ落ちてきた海水がゴルゴナの両脇の後方に巨大な水壁を噴きあげた。暗雲が吹き飛び、月が再び顔を出す。
「ふっふーん。むっだですよおー。いくらアリサ様でも、海は私のステージですもん」
むせかえるような濃密な潮の香のなか、得意げに鼻をうごめかす。むろん呪法だけではこうもうまくはいかない。ゴルゴナは歌だけではなく水をあやつる力も有しているのだ。ゴルゴナの受けた被害は、アリサの殺気が面をはたいただけに留まった。
「……じゃあ、次はこっちから攻めますよお。ラアーラララアー、ララー……」
髪をかきあげ、再び歌い出そうとしたゴルゴナに、アリサは憐れみの冷笑を浴びせた。
「あはっ、お馬鹿さん。私の殺気を受けたのよ。ただで済むと思っているの?」
次の瞬間、ゴルゴナは弾かれた様にのけぞった。歌が止まった。いやゴルゴナはなお歌おうとしているのだが果たせなかった。声帯が切り裂かれていた。雪のように白い喉に深い裂傷が穿たれていた。肉の切断面がぱくぱくと桃色の別の生き物のように蠢く。艶めかしく凄惨だ。
「お仕置ぎにじではやりずぎでずぅ。アリザざま……」
喉をおさえ血泡混じりの濁った声で文句を言うゴルゴナに、アリサは冷たい一瞥をくれた。
「愚か者。私のお仕置きがこれで終わりだと? 本番はこれからよ。……爆ぜろ……!!」
ぼんっともぐしゃっともつかない胸の悪くなる爆発音がした。はじき出された血と肉片がない混ぜになり、赤霧の華がぶわっと宙に咲く。その花の茎のように、月下の海で女体がのけぞるさまは美しい影絵を思わせた。
だが、被害は無慈悲で甚大だった。
内側からはじけたゴルゴナの喉は柘榴のようにめくれあがり、鮮やかな生肉と色とりどりの筋や管の断面をさらした。巻き添えをくらった下あごが皮一枚でぶら下がる。
「ゴブオッ、ボブボオッ……ボボボー……ボボ……」
それでも舌はくぐもった歌を続行しようとしたが、ちぎれかけていては発音もままならず、敢闘むなしくだらんと垂れた。片目は飛び出し、その瞳孔には自らの腰から臀部へのラインが映っている。爆発は頸骨までへし折り、顔が背後に逆さまにぶら下がったのだ。ずれ落ちた舌先が揺れる目玉に舐めるようにぶつかった。血と唾液が糸と珠をひく。朝露の蜘蛛の糸を思わせた。
「他人を喰らう前に、自分の愚かさを味わうがいい」
それはスカーレットの頬肉を舌先でこそぎ取ろうと企んだゴルゴナへの痛烈な報復だった。
ゴルゴナは困ったように小首を傾げたあと、ばしゃああんっと盛大に水飛沫をあげてひっくり返った。
アリサの得意技の〝狂乱〟だ。喰らった対象は歪み、ねじくれ、原型を留めない。生物だろうと無生物だろうと、爆砕された粘土のような惨状をさらす。
「これに懲りたら余計な舌とたくらみは慎むことね。人が編み出した殺戮の歴史を甘く見ないほうがいいわ。貴女達が不死の悪魔と恐れられる存在でも、生物である以上、殺す手段などいくらでもあるの。次は手加減しないわ」
お仕置きが終ったアリサは穏やかに話しかけるが、次も何も一目でわかる致命傷だ。顔面を粉砕されたゴルゴナは力なく波に揺られている。
だが、突然身を激しくくねらせた。水しぶきをまき散らす勢いだ。首を落とされた蛇の胴体がのたうつ様を思わせた。神経反射の無機質な断末魔ではない。性と生を貪る濃密な動きだ。透けた薄手の衣裳が動きについていけず、胸が大きくはだけ、ぬめる肌を露わにする。そこに長髪が妖しくからみついた。顔が無惨な肉塊のため、対比で、うごめく完璧な白い肢体が異常にエロティックに脳に焼きつく。
それは禁断の淫夢だった。もし他人の目がなければ、我を忘れてのしかかった男が何人も出たと思わせるほどだった。子供の頃、偶然目撃し立ち竦んだ大人達の性の秘め事のように目が離せない。
誘うような動きでゴルゴナの指が体中を艶めかしく這う。海中で揺れる視神経をからめて、飛び出た眼球を引き寄せた。背後に両腕をまわし、かろうじて原型を留めた眼窩に器用に押しこむ。そのまま後ろ髪をかきあげる仕草をすると、蝶番の戸のようにがくりと後ろを向いていた顔が前向きに戻った。下あごのない貌が笑うと、得体の知れない深海魚に見えた。鮫と同じ幾重の歯列が露呈した。折れても即待機している次の歯が出てくるのだ。
異常な生命力の象徴だった。
洗顔するように何度か顔を撫でおろすと、呆れたことに元通りの美貌がつるんと現れた。まるでばらけたパズルを組みなおすお手軽さだ。退廃的で卑猥で、そして空虚で不公平だ。懸命に歯を食いしばって生きる命への冒涜だった。あせくせと切り詰めている横で、無限に降ってくる金貨を享受するようなものだ。医者は馬鹿馬鹿しくてやっていられなくなるだろう。
旧い種族のゴルゴナに比べれば、地上の貴族の権力行使などお笑いだ。彼等が血眼になる不老不死が最初から当然なのだ。にんまりと描いた唇の弧を、淫猥な動きで舌が舐めあげた。
海水はゴルゴナにとって血液だ。細胞を賦活化し、好きなだけ栄養も取り出せる。怪我も驚異の速度で再生する。彼女が倒れたのは全身を海水に浸すためだった。陸の上では他の七妖衆の強さに大きく劣るが、もし海でゴルゴナが守りに徹すれば、七妖衆総がかりでも撃破できる可能性は薄い。
七妖衆は個性派揃いだが、皆おのれの強さに狂的にこだわる。全員が仲間である前にライバルだ。だが、海で無敵を誇るゴルゴナなのに、不思議と嫉妬と敵愾心を向けられない。狂気が服を着たような自制しないアディスでさえ、ゴルゴナには持て余したような態度を取る。
紅一点だからではない。マイペースなゴルゴナは、自らの強さへ無頓着すぎ、張り合うのがむなしくなるのだ。彼女の興味は奔放に生きる事に全振りされている。だから勝っても敗けても気にしない。戦いもその場の気分だ。今もむっくり身を起こすと何事もなかったかのように笑顔でアリサに語りかけた。
「……あー、びっくりした。でも鈍感で強いだけの獣なんてひどいですぅ。せめて黄昏の一族と親しみをこめて呼んでくださいよお。だって、アリサ様は私達の希望。おお、もっとも高貴な血筋でありながら、唯一人間とのあいだに生まれた奇跡の……」
ゴルゴナは芝居がった大仰な手ぶりをし、天を仰いだ。
アリサの視線はあてるだけで人を殺せそうだった。ゴルゴナはぺろっと舌を出した。
「ごめんなさあい。睨まないでくださあい。今言ったことみーんな忘れまあす。私は強くて綺麗で狂ったものが大好きですからあ、アリサ様に従いまあす」
にこにこと臆面もなくアリサに誓う。だが、歪んだ口端が本心でない事を物語っていた。基本人の意見に耳など貸さないのだ。ゴルゴナは誰よりも自分の欲求に忠実だ。獣が獲物を殺して貪ることを疑問になど思わないようにだ。
だから、他の黄昏の一族と違い、廃人にならなかった。
彼等はかつては神と崇められ、宗教の普及とともに追いやられ、悪魔と蔑まれるようになった斜陽の一族だ。だが、正体は神でも悪魔でもない。今風に言うと、ネアンデルタール人のように進化の主流からはずれた人類の亜種だった。
少しだけ高い能力と寿命をもつが、代償に繁殖能力が極めて低かった。特に代を重ねるごとに傾向はひどくなった。百年のあいだ努力し、人間との混血も試み、すべてが徒労に終わったとき、賢い彼等は自分達が種としての滅びを迎えたのだと悟った。超越者はなにかの理由で彼等を見捨て、絶望的な進化の袋小路に追いやったのだった。
彼等の多くは、せめて神と呼ばれた矜持を最期まで保とうとし、それゆえ心を病んだ。一族の終盤に生まれた連中は、どういうわけか先祖たち以上に能力と寿命に恵まれた。それはまるで蝋燭が消える前の最後の輝きであり、おぞましい呪いだった。
二百年はまだいい。三百年たつと娯楽に飽き、四百年たつとモラルと感性が摩耗した。花を愛でる心さえ風化した。残るのは性や食や暴力など原始的な衝動ばかりだ。時間は最悪の拷問となった。痴呆できず頭脳明晰なまま自分が破廉恥な獣に堕していくのを感じる日々は、まともな神経には耐えられない。彼等は厚顔な恥知らずではなく、善良な心の持ち主だった。
あやしい生命力に満ちた驚異の肉体に比べ、その心は脆すぎた。群れから飛び出して人界で共生をはかった者も、結局は死んだ目で一族に出戻った。文明が進んだ人間たちは、太古のようにおおらかではなく、異端の存在を許さなかった。
誇り高い滅びさえ与えられず、彼等は、時の牢獄に繋がれたまま、静かに壊れていった。
悠久の地獄に耐えて自我を保てたのは、並外れた精神力の持ち主たちと、悪や善のくくりに囚われない奔放なタイプだけだった。
前者がアリサの母親。後者がゴルゴナだ。.
今や氷点下に達しそうなアリサのまなざしに、ゴルゴナは、やん見ないでエッチと色っぽく身をくねらせると胸元の襟を合わせた。アリサに心を読まれるのを承知の上での悪ふざけだ。殺されかけたばかりでそのふてぶてしさはむしろ天晴だった。
「真の歴史」のゴルゴナはアリサの忠臣だったが、今のゴルゴナはアリサに心服しきっていない。気まぐれで、どう転ぶかわからない。そして、寝返る可能性がもっとも高い相手はー、
「強くて綺麗で狂ったものが好きなら、あの女の元にまた戻ればいいわ。同じ滅びゆく一族として」
そうアリサに冷たく勧められ、ゴルゴナは牙をむきだした。笑いとも威嚇ともつかなかった。
「お断りですう。今のアンジェラ様は、強くて綺麗は昔のままだけど、狂ってるんじゃなく壊れてるんですう。もともと私と生き方がすれ違ってた人ですしい。……でも、人間の王子様に恋してたとき……あの人は、どうしようもなく可愛くて狂ってた。だから、私はアンジェラ様の侍女になったんです」
気まぐれの本領を発揮し、突然しみじみと思い出話に華を咲かせる。アリサも眉こそしかめたが黙って耳を傾ける。歴史の生き証人が語る言葉に、風も波も息をのんだ。
「アンジェラ様は博愛に満ちた鋼鉄メンタルのつまんない完璧超人でした。一族を救うため何百年も身と心を捧げ、手段をさぐろうと学を修め聖教会のトップまで上り詰めたんです。いつも冷静で自分を押し殺し、他人のためだけに泣く気持ち悪い堅物でした。……ああ!! それが、たかだか人間の王子様と今日は目があっただの、笑いかけてもらっただので、子供のように一喜一憂しだすなんて……!! 王子様に声をかけれなかっただけで丸一日涙ぐんだりしたんですよ。完全にイカれてますよね!?」
ゴルゴナは、えへへっと無邪気に笑った。
「……で、私、もっとあの人の狂ってるところが見たくなったから、お名前を騙って王子様を呼び出し、海に引きずりこんじゃいました!!」
彼女は海底を回遊する冷たい海流を保存場所に使う。そこには彼女のお気に入りの男達や絶滅生物がコレクションされており、腐りもせず、永久にゆらゆらと彷徨い続けている。
とんでもない方向に話は転がりだしたが、ゴルゴナは青春の一ページを語るように目を輝かせ息をはずませた。
「そしたらですよ!! アンジェラ様ったら、我を忘れて一族の本性むきだしにして、海底まで私を追っかけてきてぶん殴ったんですよ!? 王子様にだけは醜い変身を絶対見られたくないって嫌がってたのに。あげく、もう生きていられないって声をあげて泣き出すし。もう支離滅裂。最っ高に狂ってるでしょ」
ゴルゴナはけたけた嘲笑するが、ゆるんだ口端は誇らしげだった。
「……でも、王子様も負けず劣らず狂ってました。逃げようとした化物姿のアンジェラ様を背中から抱きしめた。自分は容姿であなたを好きになったんじゃない。心に惹かれたんだって。アンジェラ様の涙を拭いながらキスしたんです。あの牙だらけの大きな口に。そこから間髪入れずプロポーズですよ。まあ、アンジェラ様が惚れるだけあって、人間にしては傑物でした」
ゴルゴナは頬を上気させ、恍惚としたまなこで、はあっと切ない吐息を漏らした。
「……それから、ふたりは、きらきら光る波打ち際で、夕日が沈みかけても、ずっと、しあわせそうに寄り添って……。綺麗だったなあ。私、永遠の光景ってあるんだって思いましたもん。思いだすだけで、もう……」
ゴルゴナはもじもじと内股をすりあわせると、びくんっと大きく痙攣し、張りつめた全身の力を虚脱させた。欲望に忠実な彼女は、人前で悦びの絶頂を迎えたことを隠そうともしなかった。奔放にもほどがある。だが、気だるげに余韻を噛みしめたあと、そのテンションは別人のように沈みこんだ。
「……私は狂ったおふたりが結婚すると信じてました。王子が寿命を迎えるぐらいまでは、お側に仕え、おちょくり続けるのも楽しいかなって愉しみにしてたんです。でも、あの血の惨劇のあと、アンジェラ様は別人みたいになってしまった……!!」
ゴルゴナは両手で顔を覆った。先ほどの演技と違い、本気の嘆きだった。
「駆けつけた私に、『なんで虫けらのような人間に恋なんてしたのかしら』って不思議そうに言ったんですよ……!! 全身に浴びた返り血を美味しそうに舐めながら……!! あんなのおかしい……!! 私の知ってるあの方は、馬鹿みたいに生真面目で、克己心が強くて、涙もろくて、一族の鬱陶しいところを煮詰めたみたいな……!! なのに、あれじゃまるで私そのものじゃないですか……!!」
それは血を吐くような叫びだった。
「あんな事になるってわかってたら、いっそ……!!」
ゴルゴナの目に光るものがあった。すすり泣く音が海面を渡る。
「……いっそ、狂った二人だったときに、コレクションに加えてしまえばよかった。そうすれば永遠に最高の姿を堪能できたのにい……!!」
光ったのは涙ではなく、飢えにぎらつく眼光だった。すすったのは鼻ではなく涎だ。叫んだのは悲しみでなく悔しさからだ。昔を懐かしんで涙しているように見えても、やっぱりゴルゴナの業は変わらないのだった。
「アリサさまはあ。私を落胆させないですよねえ?」
さぐるようにアリサを見上げる。尖った歯列をむきだし、鮫の表情を見せる。返答次第では闇討ちを仕掛ける気満々だ。
アリサは苦笑し、これ以上ないくらい傲然で居丈高な態度でゴルゴナを見下ろした。
「私は私の信念のままに生きるわ。誰の口出しも許さない。けれど、もしおまえが私に胸躍らなくなったときは、いつでも遠慮なく喉笛をかき切りに来るがいい。それぐらいの権利は与えてあげる。そして、この私に挑むからには死力を尽くしなさい。半端なことをすれば、おまえを欠片も残さず地上から消し飛ばすわ」
はるか玉座の高みからの王者の台詞に、ゴルゴナは自らの喉を撫で、嬉しそうに身を震わせた。すっかり思い出話を忘れ、上機嫌で両手足を振り回し、海水をばしゃばしゃとはねあげたあと、笑顔でアリサに敬礼した。
「……ゴルゴナ、すみやかにエセルリードを攫いにいってきまあす。でも、『シャチ艦隊』を追いかけてわざわざ引き渡すなんて面倒なことしないで、エセルリードを私のコレクションにしちゃっても、アンジェラ様はロマリアの負の財宝に辿りつけなくなりますよねえ」
アリサの指示にゴルゴナは不思議そうに首を傾げた。
……ゴルゴナの言う負の財宝は、中世ではヒペリカム王家の遺産。現代ではのちにシャイロックの遺産と呼ばれるようになる。そしてエセルリードはそこに導く鍵のひとつだ。
狂獣と化したエセルリードは、ゴルゴナの性癖どまん中だった。だから、舌舐めずりしてさりげなく提案したが、アリサににべもなく撥ねつけられた。
「鍵役のエセルリードが死ねば、スカーレットに財宝を渡すことが出来なくなるわ。あれを手に入れることこそが大陸覇業へのはじめの一歩なの」
そしてアリサは物憂げに息をついた。
「……でも、まだ早いわ。もっと勢力を増してからでないと。今エセルリードをかくまえば、必ずあの女と海洋大国チューベロッサの全軍が強奪に乗り出すわ。全滅よ。スカーレット達は善戦することで、かえってあの女を本気にさせてしまうの。大陸全土に張り巡らした認識阻害を解除させるほどにね。本来の力を取り戻させては、もう誰にも止められない。邪魔者は片っ端から排除され、あの女を利用するチューベロッサが大陸の覇権を握るわ」
〝マザー〟がかつて聖女だったことに誰も気づかず占い師が出来るのは、そういう絡繰りがあるからだ。認識阻害の術の維持に〝マザー〟は膨大な力を注ぎこんでいる。
遠い目で断言するアリサにゴルゴナはにいっと嗤った。
「それは死の予知ですかあ? お母様と同じ力の」
わざわざ「お母様」を強調する。アリサは嫌そうな顔で微かに頷いた。ゴルゴナは満面の笑みでどんと胸を叩いた。
「まかせてくださあい。アリサ様ほど強くて賢い方が、自分以外に大陸制覇を譲ろうとする。いひひっ、正気じゃない遠回り。それって恋ですよねえ。私、知ってるんですう。だって、恋患いは理不尽で人を狂わせるもの。とっても素敵ですう。どうかお母様と違い、いつまでも狂ったアリサ様でいてくださいねえ」
さっきまでのやる気の無さが嘘のようで身を乗り出さんばかりだ。ゴルゴナは理屈ではなく感情で動く。気まぐれで気分屋できわめて扱いずらい。だが、それが命令と一致したときとてつもない行動力と有能さを発揮する。
手のひら返しに呆れながらアリサは予知による忠告をした。
「エセルリードはブロンシュ号から降ろされたあと監獄島に保護される。その輸送中に彼を奪うといいわ。そのあと港で修理中の『シャチ艦隊』に桃色の艦が合流する前に、エセルリードを届けるのよ。そうすれば無傷の艦が分離し、合流前に首都に先行することになる」
アリサは、桃色の艦には少し厄介な娘がいるの。面倒なこと、と目を細めた。
「それに今、自暴自棄なエセルリードがアンブロシーヌ達と顔を合わせれば、道連れに海に身を投げるわ。それは困るの。……つまらない石だったデクスターが宝石になりかけているしね。……ふふ、まさかあの冷血漢が人をかばって死ぬなんてね。だから人生は面白い。どうせ砕ける運命でも、綺麗なほうがきっと愉しいわ」
アリサの後半のくすくす笑いの意味はゴルゴナにはわからなかったが、もともと他人の考えなど深く気にするタイプではない。
「はあい。とにかく私の歌でエセルリードをおびき寄せまあす」
ゴルゴナは元気いっぱいに手を振ると、身をひるがえし海中に没した。それきり海面に浮かんでこなかった。アリサの目でももうとらえられない。ゴルゴナは大型鯨以上の潜水時間と深度、そしてシャチを凌駕する速度を誇る。二時間は息継ぎなしで活動可能だ。
そして、彼女の歌の本領は攻撃ではない。人心操作だ。たとえ神の軍勢がガードを固めても、警備対象自らに外に出向かれては、誘拐を防ぐ術などない。ゴルゴナほどこの任務の適任者はいない。最初から本気だったなら、エセルリードはとっくに手中に堕ちていた。
「……あはっ、あわれな監獄島。せっかくシャイロックの子等を捕らえたのに、すぐに三人ともに取り逃がすなんて不運だこと。国王とマーガレットはさぞ悔しがるでしょうね。でも安心なさい。一番取られたくないものは残しておいてあげるわ」
アリサはくすくす笑い、金髪を耳にかきあげ、はるか水平線に物憂げに目をやった。月の光に照らされた海面はまるで呪われたブルーダイヤのように剣呑に輝いている。魂まで吸い込まれそうだ。それはアリサの知る終焉の光景に酷似していた。
アリサは王子と聖女に思いを馳せた。
「……なんて愚かなロミオとジュリエットなのかしら。ふたりとも、相手を愛するあまり、最も大切なものを躊躇いなく差し出してしまった。哀れなすれ違い。宛先を見失った最期の贈り物……。滑稽すぎて笑い飛ばすことも出来ないわ。せめてもの情けよ。ずっと知らないふりを続けてあげる」
血の惨劇の真実にアリサはとっくに気づいていた。王子も聖女も狂ってなどいなかった。互いの評判を落とすことなど身を裂かれてもするはずがない。たとえ育った世界が違っても、生きる時間が異なっても、ふたりの愛の深さは一緒だった。
ふたりがどんなに仲睦まじかったか、アリサは王太后に聞いて知っていた。
いつも氷のように冷静な王太后が、ふたりの思い出を語るときだけは、嗚咽で喉を詰まらせた。この離宮にはふたりの日常があちこちに残っているの、とアリサの頭を撫でた。
「このテーブルを囲んで私達三人はよくお茶をしたわ。そちらにアルフレドが、こちらにはアンジェラが座ってね。最初は他人行儀に距離を置いているのに、ふたりともいつの間にか椅子を寄せてくっついてるのよ。それも無意識に。もうおかしくって……」
木漏れ日の下、王太后はもはや使う者のない朽ちたテーブルセットを指し示し、目を細めた。
「私が指摘すると、アンジェラはあたふたして椅子ごとひっくり返って、アルフレドが医者に診せなきゃって大騒ぎして、彼女を抱きあげて……。それを見て私は涙が出るほど笑い転げたものよ。……今もよく夢に見て、目覚めて涙を流すわ。……ああ、私の人生で一番楽しい時間だった……」
ごめんなさいね、ちょっと待ってて。アリサを見るとあの子達を思いだしてならないの、そう謝ると王太后は鼻を赤くし立ちつくしたまま、しばらく涙をこらえた。
王太后は悲運の女性だった。その顔のあざゆえ暴君の先帝に疎まれた。先帝が劣等感にさいなまれるほどの傑出した有能さがそれに拍車をかけた。愛妾のローゼンタール伯爵夫人が台頭する前から、すでに夫婦仲は冷えきり、表舞台に顔を出すことを許されず、遠い離宮になかば追放されていた。先帝を恐れ、客人もまれな昏く寂しい暮らしのなか、愛する息子と優しい聖女と過ごした日々は、王太后にとってやっと訪れたあたたかい光であり、待ち望んだ家族だった。
周囲がこぞって結婚に反対するなか、王太后だけは、最初から最後までふたりの味方だった。
その信頼に王子も聖女も立派に応えた。
聖女はどんな相手もねじ伏せる超絶の力を自ら禁じ、反対する者達を誠実な言葉だけで説得してまわった。力をひけらかさなかった聖女の強さを知る者はまれだった。すでに聖教会は凋落しつつあり、聖女の名称も崇拝ではなく、黴の生えた骨董品扱いの笑いものだった。門前払いをくらい、雨の中何時間も立ち続けるなどざらだった。それでも聖女はくじけなかった。黙殺する馬車のはねあげた泥水や、罵声や嘲笑を浴びせられても、何度でもあきらめず頭を下げにいった。
王子も命がけで先帝をはじめとする周囲の理解を得ようとした。
道は困難だったが乗り越えるたび、ふたりの愛の絆は深まっていった。
……やがて、雪のなかに新芽がたちあがるように、ふたりの努力は実を結びはじめた。声援の輪と理解者が着実に広がりだした。万人に祝福される門出は、もう目の前まできていた。
……王子が忌まわしい死のかぎ爪に捕らわれさえしなければ。
……冷静な聖女が王子の亡骸を抱きしめ、髪を振り乱し、童女のように声をあげて泣いた。息を吹き込み、ありとあらゆる蘇生手段を試み、すがりついて王子の名を声がかすれるまで呼び続け、そして、すべてが手遅れと思い知らされたとき、聖女は悲しい決意をした。
不幸なことに、死をも覆す禁忌の手段を聖女は知っていた。あまりに酷い対価を恋人に要求する外道の法……だが、王子に最後の別れのキスと愛しているという言葉を残すと、聖女は躊躇うことなくそれを実行した。
王子も聖女からその方法を聞いていた。
不吉な胸騒ぎがした王子は、あの世に秘密をもっていくつもりだった聖女を泣き落とすようにして、方法を聞き出していたのだった。
だから、蘇生した自分の横でほほえんで息絶えていた恋人を見たとき、王子は何が起きたかすぐに悟った。そして、どれだけ聖女が自分を愛してくれていたかあらためて思い知った。王子は、冷たくなった彼女を力の限り抱きしめ、頬ずりし、血を吐く慟哭とともに同じ望みを願ってしまった。
そして、多面体に残酷な蒼い光が輝いた。それが愛の象徴の形なのは凄まじい悪意としか言いようがなかった。神は人の恋心を愛でず忌んでいるのかもしれない。奇跡という名の呪いを、愛し合うふたりにわざわざ用意していたのだから。
祝福の門は永遠に閉ざされ、呪われた地獄の門が代わりに開いた。
アリサはひとりきりで闇に佇み、今は変わり果てたふたりの恋人たちを遠く思う。
王子は、監獄島で鉄仮面をつけた虜囚になった。牢番も彼の顔と素性を知らず、彼本人も自分が誰かさえ思いだせない。廃人となり、ふたりの女性の名前をうわ言のように毎日繰り返す。そして時々わけもわからないまま涙を流す。それが彼の妻になるはずだった女性の名前と、抱くことさえ出来なかった愛娘の名前だと気づく者は誰一人いない。
そして誰よりも高潔だった聖女は、愛を抜き去られた残骸と化した。不器用で愛らしかった彼女の心は獣に堕し、かつて胸を焦がした恋人を思いだしても死灰のように冷えきったままだ。美しさと凶悪な力だけを今も身に留め、邪悪な嗤いを秘めて世界を彷徨っている。
……自己犠牲、その尊い想いゆえに、すべてを失ったふたり。
もう思い出を懐かしむことさえ出来なくなった悲劇の恋人たち。
最後の別れのときまで、哀れなふたりは自分のことなど微塵も考えなかった。ただひたすらに相手を想い、命を、魂までも捧げる愛を貫いた。それが死よりも最悪の悲劇の幕開けになるとも気づかずに……。
「あははっ……!! どうしようもなく馬鹿だわ。ふたりとも……」
月光のもと波浪が轟く。アリサの頬に光るのはきっとその飛沫なのだろう。孤高な女帝のさだめの彼女に涙など似合わないのだから。
愛という感情を失った聖女は忘れているが、聖女がすべての攻撃を無効化する「牙なぎ」を未習得なのは、伝授されなかったからではない。いつか自分が暴走したとき、自分を葬ってくれる切り札になることを願い、あえて会得しなかったのだ。
たとえ心が魂が消えても、その想いは、王太后を経て娘に受け継がれた。
聖女は、「牙なぎ」を習得する手掛かりを、王太后に残していった。いつか王太后がこれと認めた人物に託せるようにと。
王太后の話では、聖女にはアリサほど遠くを見渡す予知能力はなかったという。現に王子の悲劇は寸前まで予知できなかった。だが、自分の行く末についてはなにかを感じていたのだろう。まるで「牙なぎ」が誰に継承されるかわかっていたような手筈だった。だとしたら、あまりに非情だ。自分を愛してくれた人に、その後始末を頼むのだから。しかし……。
「血筋ね。私でもきっと同じことをしたわ……」
アリサは長い睫毛を伏せた。
聖女は、王太后なら情に流されずやってくれると信じたのだ。そして、まだ顔を見ない娘も。それは、「あなたを、あなた達を、私は愛しています。たとえ殺されてもかまないほど」という凄絶で精一杯のメッセージでもあった。
アリサは闇のなか、海風に金髪を揺らしながら、もういない母の面影を、しばらくのあいだ心で噛みしめていた。
お読みいただきありがとうございました!!
しつこいようですが、コミカライズ作画の鳥生さま、電撃大王さまに感謝です!!
最終回の無料掲載時ぐらいはなろう様の投稿を合わせようとしましたが、まさか12月1日だったとは。これは孔明の罠かッ!? ぎりちょんでした。無料掲載②は従来の予定通りだと12月なかば。自分は遅筆なのでトップギアでいかんときついっす……。でも、もし今日の無料掲載が一挙公開だったら、年内にはなろう様更新しますよ、にシフトダウン!! まあ、鳥生さまは百倍苦労しましたから、不満を言うと罰あたります。
次回もよろしかったらお立ち寄りください!!




