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海戦!! 死闘!! 白い貴婦人 対 シャチ艦隊。

ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!


【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】3巻が8月5日発売しました!! 鳥生ちのり様作画!! KADOKAWAさまのFLОSコミックさまです!! 表紙はブラッドです!! かっこいい!! 1巻2巻ともども、どうぞよろしくお願いします!! ちなみに連載誌は電撃大王さまです。


また11月3日 11時より コミックウォーカー様やニコニコ静画様で、21話「永訣……そして……」①が公開予定です!!


死闘が終り、朝の輝きがくる。

しかし、それはやっと再会できた愛する者達との別れも意味していた……。

だけど、涙を拭いて前を向こう。

あなた達が生きた証を、この歩みで刻むために。

いつかもう一度出会えたとき、誇らしくあなた達に微笑みたいから。


……すみません。どこまで今回公開かわからないので、言い逃れできる紹介文に……。せこい……。

ピクシブ様やピッコマ様で読める回もあります。もちろん電撃大王さまサイトでも。ありがたや、ありがたや。どうぞ、試し読みのほどを。他に公開してくださってるサイトがあればぜひぜひお教えください。ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「こいとうたたね」も少し読めます。応援よろしくです……!! そして、原作小説の【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻】はKADOKAWAエンターブレイン様より発売中です!!

「……あれが名にしおうシャチ艦隊ですか。こりゃ、いけませんね。やばい気配がびんびんします」


お父様の従者バーナードは、ブロンシュ号の船べりから身を乗り出して、急迫する五隻を睨みつけた。


「公爵様、戦闘準備をお早く」


「うむ」


バーナードは身をひるがえし、手早くお父様の戦闘用の胸当ての装着を介助した。その手際の良さは、さっきまでセラフィの鬼操船による船酔いで死にかけていたとは思えないほどだった。お父様は乗馬したままなのに。どうやって手を届かせているんだろう。驚異の介添え技術だ。


「……驚いたろう。バーナードは危険を察知すると、どんな死に体からでもゾンビのようによみがえり、意地でも僕の戦闘準備を整えてくれる。自分の身を守るため、僕を盾にしようとするのだ。そして戦闘がはじまると、煙のように姿をくらます。その嗅覚は鉱山のカナリヤに勝るとも劣らない」


私達の視線に気づき、お父様は自慢げに言った。


なんというひどい主従だ。ツッコミが追いつかない。お父様、カナリヤって場合によっては死ぬことで毒気を知らせるんですよね……。


「さて、戦地に赴く前に、愛するコーネリアに、五千五百十三通めの手紙を書かねばな。戦士の嗜みだ。……おお、愛しの妻よ。出逢った頃より輝きを増す麗しの女神よ。遠く君を想うだけで僕の胸は……」


さ、ほっといて次いこっか。


「うーん、『シャチ艦隊』は五隻。けれど、こちらは一隻。賭けるには分が悪い。どうします。会頭。逃げの一手ならなんとかなりますが……」


ブロンシュ号の謎システムの調整にかかりっきりの航海長の代理として、セラフィのサポートについていたバンダナ巻きをした若者が問う。いつも皆をなごます、お得意の軽妙洒脱なトークも沈んでいた。こっちの主従はまともである。


彼は、あえて汚れ役を引き受けてくれたのだ。エセルリードを見捨てれば助かると。気のいい彼が、そんなことを心から願うはずがない。オランジュ商会のみんなが蒼白になって、じっとセラフィの答えを待っている。


私はあふれそうな激情を唇を噛んでこらえた。


わかってる。奴隷船に接舷するためには、ブロンシュ号は敵陣真っ只中で停船しなければならない。そんなの自殺行為だ。動かなくなった帆船はでくの坊だ。たちまち「シャチ艦隊」に包囲されて一巻の終わりになる。


だけど、エセルリードは……!!


私は血がにじむほど拳を握りしめた。


……「108回」の令嬢時代から女王時代まで、ずっと私を支えてくれた恩人なんだよ……!! 


思いだすと懐かしさで胸が痛くなる。


マッツオとエセルリードは、どんなに私が女王として落ち目になっても、最後まで忠義を尽くしてくれた。その真心は、どの「108回」でも不動だった。


……エセルリードは笑わない男として有名だった。亡き恋人に笑顔を捧げると誓ったからだ。恋人とともに彼の笑顔は死んだ。だけど、我が身をかえりみず、いつも私を窮地から救いだしてくれた。私をかばい続けたその広い背中は刀傷だらけだった。どんなに私の軽はずみな行動のせいで傷ついても、ひとことも責めず、「女王陛下。……ご無事で?」と深く響く声で気遣ってくれた。


彼の最期は忘れられない。あの日はひどい雷雨だった。


騙し討ちで窮地におちいった私を、彼は壁の隙間に押しこみ、自分の背を押しつけ、自らの体を盾にし、矢の雨から守ってくれた。


「エセルリード!! もういい!! 命令よ!! 私を置いて逃げなさい!!」


ごっ、ごっと矢が彼の肉と骨を貫く鈍い音が伝わってきた。


「……お願い……!! 逃げて……!! 死んじゃうよ……!! こんなの嫌だ……!!」


私がどんなに背中を叩いて泣き叫んでも、彼はその場から微動だにしなかった。


彼は少し申し訳なさそうな声で、私をなだめるように、ぽつりぽつりと昔話をした。幼い頃、雷に怯える私のそばで夜通し語りかけてくれた時のように。


幼い私とはじめて出逢った日のこと。そのとき、よく恋人が口にしていた「あなたの笑顔が大好きです」という言葉を言われ驚いたこと。……彼は亡き恋人の思い出に、自らの笑顔を殉じさせていたのだ。


私を娘のように思っていたこと。


私の笑顔に恋人のマリーさんの笑顔を重ねていたこと。


いろいろ語ってくれた。私は泣きながらうんうんと頷き続けた。


……でも、エセルリードの語りは途切れるようになり、ついに止まってしまった……!!


矢はそのあいだも彼の身体を射抜き続けた。それでも、彼は仁王立ちしたまま倒れなかった。私がどんなに押しのけようとしても。救援に駆けつけたマッツオが、敵を蹴散らしたあともそのままだった。


「エセルリード!! 聞えるか!? たった一人でよく堪えてくれた!! 女王陛下は無傷だぞ!! ……おまえが、守りぬいたんだ……!! 俺はおまえを心から誇りに思うぞ!! 友よ!!」


男泣きするマッツオに抱擁され、針ネズミのようになったエセルリードはようやく仁王立ちをやめた。


そして、死に際になって、やっとエセルリードは笑みを浮かべたんだ。それは胸をつかれるほど優しい笑顔だった。きっと私の向こうに、迎えにきた恋人を見たのだろう。だって、


「……マリー。俺は……笑えているかな? ……君が、大好きだと言ってくれた笑顔で……。……ずいぶん長い事、笑わなかったからな。……困ったな。笑い方を、忘れて……しまったよ……」


って、私に手を差し伸べて呟いたんだもの。


「……うん……!! 大丈夫だよ。ちゃんと笑えてるよ……!! 誰もが大好きになるような……素敵な笑顔で……!!」


そして手を握って号哭する私に、幸せそうに微笑んだまま、エセルリードは静かに息をひきとったんだ。


あんなふうに笑える人がずっと笑顔を封じてたなんて。


恋人を失って、どれだけ傷ついたんだろう。どんなに悲しかったんだろう。


今回のやり直し人生では、少しでもエセルリードの心の傷を癒してあげたい。一刻も早く。


だけど、今、エセルリードを助けようとの無理強いは、みんなを死地に追いこむ。


涙を悟られまいとうつむいた私の前に、セラフィは目線をあわせるように跪いた。


「……スカーレットさん。ボクの目を見て。ボクはあなたを泣かせるためじゃなく、笑顔にするために、ここにいるんだ。ボクはあなたに誓った。エセルリードさんを助けるって」


噛んでふくめるように私に語りかけると、私の涙を指先で拭い、セラフィは微笑んだ。


「ならば、商人と海の男の誇りにかけて、その約束、反故にはしません」


ブラッドと違い、接触には遠慮する彼にしては珍しかった。


「ここからあとは、言葉ではなく行動で語るとしましょう」


セラフィは立ちあがり、全員に激を飛ばすべく歩き出した。父親から受け継いだハンターグリーンの船長服が、私の目の前で勝利の旗のようにひるがえった。


「……戦争屋に見せてやります。戦うばかりが決着のつけ方じゃない。……みんな、予定通り救出作戦を敢行だ!!」


きらめく海面の逆光のなか、子供のセラフィの背がとても大きく見えた。大人以上の胆力が人間的な迫力を生み出しているのだ。


お母様へのラブレター作成に余念がないお父様が手を休め、私を見下ろした。


「惚れ惚れする男だな。……他家の女性に奪われたくはないものだ。天賦の才覚につりあう胆力、海より深い懐。命をかけて誓いを守る誠実さ。大陸中を探し回っても見つかるまい。娘の未来は、ああいう花婿にこそ託したいものだ」


私は耳までまっかになった。


新生児の私に結婚話なんて気が早いもいいとこだ。セラフィに聞こえないように小声だったのは、あくまで私の意志を尊重するということなんだろうけど。


まあ、セラフィのことは嫌いじゃない。それに誠実さだけではなく、ぬかりもないから、たとえこの国が滅んでも、私の老後は安泰だろう。絶対海外にも避難用として隠れ家と隠し財産つくりそう。久しぶりに顔を合わせるたびに再発するトラウマがちょっぴり問題だけど。


隣にいたマッツオが耳聡くうむうむと頷く。気を遣ってひそひそ声で話しかけてきた。


「いずれ商人でセラフィの名を知らぬ者はいなくなるでしょうな。だが、このブラッドも負けず劣らずの逸材ですぞ。いずれ某や、紅の公爵殿さえ超えると見た。ご令嬢は素晴らしい少年たちによほど縁があると見える」


うん、「108回」で私を惨殺した腐れ縁だけどね。


私を抱っこしているブラッドの腕に力が入ったのは、褒められて照れたからなのか、それとも……。おや、耳が赤くなってませんこと? おほほほほ。


私がブラッドをおちょくるべく、首をあげ、顔色を確かめようとしたとき。


「……会頭、お待たせしやした!! だいぶ手古摺りましたが、ブロンシュ号のとっておき、なんとか三回は使えますぜ」


頬を煤だらけにした航海長が、靴音をファンファーレのように響かせ、甲板にかけあがってきて、息せき切って報告した。待ちかねたようにセラフィは大きく頷きねぎらった。


「よくやってくれた。最後のピースが揃った。その三回、決して無駄にはしない。『シャチ艦隊』の度肝を抜いてやる」


海風でオレンジの前髪がばらけ、凄みのあるエメラルドグリーンの眼光があらわになる。肌がぴりつく。セラフィが本気になった。


白の貴婦人(ブロンシュごう)の本領発揮だ。ここからは全員で死地に踏みこむ。全力以上を出してもらうぞ。肚をくくれ」


セラフィの言葉に、はああっとオランジュ商会のみんながため息をついた。


「おそれてたことが……」


「会頭が、とうとう鬼モードに」


「操船地獄がはじまる……」


「やれやれ、胃に穴があくかもな」


どうしても持ち場から手の離せない者以外が、愚痴りながらも、セラフィの指示を仰ぐべく、だっと駆け寄ってくる。


ええっ!? もしかしてオランジュのみんなが蒼白だったのって、「シャチ艦隊」じゃなく、セラフィが本気になる脅威に怯えてたの!? この凄腕たちがびびるって、どれだけスパルタやる気なのよ!?


ひとしきり指示を飛ばし終え、セラフィがお父様とマッツオに近づいてきた。


「失礼します。この救出作戦。お二人には要の役を引き受けていただきたいのです」


マッツオは盛り上がった鋼の胸筋をどんっと叩き、遠慮などいらぬ。存分に使ってくれ、と快く請け負った。問題はお父様のほうだった。


「ほう、僕を手駒にする気か。自分で言うのもなんだが、僕とウラヌス号を使いこなすのは少々骨が折れるぞ。こちらでも君の真価を試すことになるが、失望させたときの覚悟はあるのだな」


め、面倒くさい。なんでこの人はこういう空気読めないことを……。快諾したマッツオを見習いなさいよ。さっきまでのセラフィへの高評価はなんだったのか。それにしても問題児ではあるが兵は神速を貴ぶが信条のお父様が、いざ実行という段で水を差すようなことをするなんて……。


セラフィは真剣なまなざしでお父様と対峙した。睨みあいに近い。


「ほう、なにを思って僕の前に立つ? セラフィ・オランジュ。笑うか。それとも……」


問いかけるお父様の殺気をはらんだ笑顔で、気温が数度下がった気がした。紅い瞳が物騒に底光りしている。


……お父様は若い頃は、馬鹿にしてくる相手が笑った瞬間、あいた口の中にサーベルを突っ込み、延髄ごと壁に串刺しにするのを得意にしてたらしい。話を聞いてドン引きする私に、習うより慣れろだ、心配しないでもスカーレットもすぐ出来るようになる、と笑いかけてきやがった。昆虫採集感覚で人を殺すことなんかに慣れてたまるか。


ストッパーのお母様がこの場にいないのが悔やまれる。お父様は歩く火薬庫だよ。触るな、危険。骨が折れるどころか全身骨折ものよ。ねえ、ブラッドもそう思うでしょ? やっぱ、お父様なんて作戦に組みこむのは止めようよ。


「いや、黙って見とこう。セラフィ・オランジュっていう男のでかさをはかる物差に、スカチビの親父さんは最適だ」


予想外の言葉に私は鼻白んだ。


甘いよ、ブラッド。物差って、お父様は血に飢えた抜き身の凶刃よ。


「……スカチビ、忘れたのか。真祖帝のルビーをもつスカチビを守るために、オレたちは場合によっちゃ、すべての王国と事を構えることになる。もし交渉事になったら、優秀なセラフィが全部引き受けることになるんだ。あいつの覚悟を見くびるな。あいつがスカーレットのために動くっていうのは、そういう事なんだ」


「……!!」


私は電撃にうたれた気がした。


甘かったのは私のほうだった。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。


いたたまれず両手で顔を覆う私に、ブラッドは優しく語りかけた。


「セラフィはたぶん自分の利益のためって言い張るけどな。あいつ変に気遣いすぎるとこあるし。だから、あいつの生き様そのものをよく目に焼きつけといてやってくれ。それが守られるおまえの義務だ」


私はこくこく頷くしかなかった。


他人の心を血流である程度読み取れるブラッドは、私よりずっと深くセラフィの心を理解していた


……ねえ、そういえば、ブラッドもあのとき私を守るって誓ってくれたよね。あれはセラフィと同じ覚悟だったの?


ブラッドは私の心の問いに無言だったが、蒼空のような笑顔を見せた。ぴんっと私のおでこを軽くはじく。


「スカチビは頭いいのに時々抜けてるよな。今さら言葉が必要か?」


こんなふうに男の子達に思ってもらえる女の子って、この世に何人いるんだろう。さっきとは違う感情がふくれあがり、私はまた泣きそうになった。「108回」での女王時代の私に、今のブラッドとセラフィのことを伝えたら、きっと目を白黒させるだろう。


そしてブラッドの言うとおり、セラフィは、あのお父様に一歩もひかなかった。


「……ボクに失望されたときは、この命、差し上げましょう。紅の公爵様やヴァレンタイン卿を手駒として動かすんだ。それぐらいの覚悟は決めています」


セラフィは前に進み出て言い放った。


その覚悟にマッツオだけでなく、お父様も、思わず会心の笑みを浮かべた。


「うむっ!! よくぞ吠えた。その意気や良し!!」


「ふむ。気絶させるつもりで殺気をぶつけ、君を試したのだがな。まさか一歩もひかないどころか、この僕に逆に圧力を感じさせるとは。見事だ。非礼を詫びよう。合格だ。君は命を託すに足る」


お父様はぺこりと頭を下げた。


「時間を取らせた分は、我が働きでそれ以上に取り戻してみせよう」


すごい自信だけど、お父様は口にする以上の実力者だ。必ず有言実行するだろう。それにしても殺気立ったのはやっぱりわざとか。なんかおかしいと思っていたが、たぶんブラッドと同じように、私のためなら世界を敵にまわしても戦うセラフィの気概に気づいていたのだ。そして輝く才能もある。私の父親として、つい器を見極めたくなったというところか。


「……出来うるなら、もう少し先の未来で、僕にあれ以上の覚悟を吐いてほしいものだ」


ちらっと私のほうを一瞥してお父様は呟いた。


セラフィはなんのことかわからず不思議そうな顔をしたが、私は赤面を悟られまいとブラッドの腕にもぐりこんで顔を隠す羽目になった。ぼかしたが、お父様は、私に結婚を申し込みにくる日を待ってる、と言いたかったんだ。命をかけて私をしあわせにする覚悟があるなら、セラフィに娘の私を託せると。


……あんまり婿試しみたいな事を勝手に進めないでほしい。こちとら「108回」もの人生経験値持ちとはいえ、恋愛は初心者に等しいんだ。だって公私ともにそんな暇ないぐらい忙しかったんだもの……。言い訳じゃない。私は国と結婚したつもりだったもの。だから、社交ダンスと違い、華麗な恋愛ステップを踏む自信はない。セラフィとは良好なビジネスパートナー関係を築きたいのに、変に意識して気まずくなったら困るんだ。だいたいね。恋だの愛だのは、せめてオムツが取れてから……。


「ところで某達はなにをすればいいのかな」


マッツオが笑いをこらえ、大目玉をぎょろつかせ威厳をとりつくろい、問いかける。


「はい、おふたりにお願いしたいのは……」


セラフィの計画の説明に、ハイドランジアきっての豪傑のふたりが驚きの目を見張った。


「ううむ、まさか五隻対一隻という大前提を叩き壊すとは、予想もつかなんだ。商人というのはどいつもこんな発想をするのか」


太い声でしきりに感心するマッツオに航海長が苦笑した。


「まさか。たしかに商人は殖やすのは得意ですが、こんなことを思いついて実行できるのは会頭だけでさ」


私だってびっくりしたよ。


てっきり〝アギトの海域〟に誘いこんで、海流とか岩礁を利用して決着つける気だと思ってたのに、こんな奇手をうってくるなんて。


「……それだけじゃ、『シャチ艦隊』ってのは振り切れないと判断したんだろ。相当手強い相手ってことだ。だけど、きっとセラフィはその上をいく」


ブラッドが断言する。


「心配するな。海のことはあいつに任せてりゃいいんだ。だって見ろよ。スカチビの親父さんをあんなに喜ばせることができる奴は普通いないぜ」


「ふはははっ!! いいぞ!! セラフィ・オランジュ!! 期待以上だ!! その策、気に入った!! よかろう!! 我等が力、存分に使うがいい!! 滾るな!! ウラヌスよ!!」


珍しく声をあげて笑うお父様は、まるで召喚された地獄の大公爵だった。髪と瞳が日に照らされて悪夢の炎のようにまっかに燃える。大悪魔にしか見えない。


やだな、私、あの人の血が流れる見た目のせいで、女王時代に反乱起されたんじゃ……。悪魔に殺られる前に殺ってやれって感じで。


揺れる甲板上で、お父様の愛馬も喜び勇んで後ろ足で立ちあがり、その足元では忠実なる従者バーナードが、


「おおっ、主が本気になられた!! その風格、まさに覇王のごとし」


と床に突っ伏して感涙している。覇王じゃなくて、魔王の間違いでしょ。


「不肖、このバーナード、心をこめて安全な場所から主の御武運をお祈りいたします」


あんまり忠実じゃないかもしんない。しかし、乗馬経験のある者なら、一目でまっさおになるデンジャラス絵図だな。乗馬トレーナーが卒倒しかねない。


「なっ、心配いらないだろ」


……あほブラッドめ!! 大事なことだから二回言いました、ってドヤ顔するな。何が、なっ、だ。どこが心配ないだ。あの構図のどこを切り取っても、金太郎飴みたいに心配しか出てこないよ!!


だが、猛抗議しようとした私のふっくらほっぺは凍りついた。ひっと思わず声が漏れた。


……いつの間にか近くまで迫っていた奴隷船。その様子が目にとびこんできたからだ。甲板上で、吐き気のする地獄絵図が繰り広げられていた。


「……ひでぇ。人間の尊厳もへったくれもないな。束縛されてた奴隷……開拓民たちが反乱を起こしたんだ。みんな飢えで狂ってる。なんで人間って勝利したあと、仲間割れするんだろうな。スカチビ、気分が悪くなるぞ。あまり見ないほうがいい」


ブラッドが昏いまなざしで呟き、掌でそっと私の視界を遮ろうとした。ひとめで状況判断をくだした。放浪癖のある彼は似た光景を何度も見てきたのかもしれない。


私はその手を押し返した。気持ちはありがたいけど、つらくても現実からは目をそむけない。女王時代から一貫して来た私の信念だ。目をそらしたら、エセルリードをより確実に救う手があっても見落としてしまう。


「……無理はすんなよ」


ブラッドがため息をつき、私の意志を尊重した。


甲板には、ボロくずのようになって兵士や船員が倒れている。ぴくりとも動かない。リンチを受けたと一目瞭然だ。反乱された支配者側の悲しい末路だ。


勝利した連中は、みすぼらしい服装から見て、貧民か奴隷階級だとわかる。騙されるか拉致されたかで開拓船に乗せられたのだろう。鬱憤ではちきれんばかりだったのだろう。


だが、逆転勝利で自由を勝ち取ったはずの彼らは、今度は醜い同士討ちを繰り広げていた。あちこち火の手があがっているのにお構いなしだ。目先のことしか見えていないんだ。


罵り、爪をたてて掴み合い、血まみれで転げまわる。食料を奪いあい、ニワトリの群れのように、ビスケット一枚を、大人達が血走った眼をして追い回す。男も女もみな狂暴に歯をむき出す。人間らしさなんか微塵もない。ただただあさましい飢えの表情だ。


しかもエスカレートが止まらない。


悲鳴をあげて床を這いずって逃げる男に、無数の鍬が振り下ろされ、肉と骨をざくざくに耕す。腹腔から食べたばかりのものが引きずり出された。髪の毛がちぎれる勢いで、船べりに顔を叩きつけられた中年女性がいた。歯が砕けまっかな洞窟になった口から、食べかけの何かが床に零れ落ちる。すぐさま奪い合いになった。血糊でこびりついた白髪まじりの乱れ髪からのぞく、どんよりとした瞳孔と目があってしまった。人形の目のように焦点を結んでいない。死んでるかもしれない。押し出された人達が悲鳴をあげて船から落水した。水しぶきとともに鮫が群がり、海面がまっかに染まる。あちこちで笑い声が起きた。他人の不幸が愉しいのだろう。


酸っぱいものが喉元にこみあげた。獣という表現は生温い。道具と悪知恵をもった凶悪な猿という言葉がぴったりだった。自分にも同じ衝動がひそんでいるかもと思うと寒気がした。


馬上でお父様も、ううむと眉をひそめた。


「……憂鬱になるな。だが、この狂気は尋常ではない。これはただの暴動ではないぞ。周囲に強く影響を及ぼすほど精神力が強く、そして狂った奴が中心にいるはずだ。稀にいるのだ。存在するだけで近くの人間の正気を失わせ、狂気を呼び覚ます悪魔のような奴が。僕は子供の頃、異端審問官ひとりが、街の住民ほぼすべてを暴徒に変えた光景を目撃した。地獄だった。……あのときほど、自分の無力を痛感したことはなかったな……」


なにかつらい過去があったのか、お父様は物悲しい横顔をし、それを振り切るように視線を走らせた。


「見ろ。やはりいた。メインマストの真下だ。む、まさか、あれは……」


お父様の指摘したところに目を向け、私は小さな悲鳴を漏らした。


暴動のまっただなかに、エセルリードがいた。


私が知っている彼に比べ、ずいぶん体が小さいけれど、その姿を見まがうはずがない。懐かしい貌の傷だってそのままだ。だけど、目がまるで違っていた。狂おしいまでの憎悪と恨みだけに満ちた瞳。寡黙な巨漢だけど優しさを秘めたあのエセルリードのものとは到底思えない。だが、その力は普通の体格にもかかわらず「108回」のとき以上だった。獣のような咆哮をあげ、掴み来る相手を片っ端から殴りとばしていく。人体が軽々と宙を舞う。


「ううむ。武術の心得などなにもない素人の動きだが、なんたるパワー。人間の膂力ではない」


マッツオにそう言わせるほど異常な光景だった。


おそろしい違和感がある。身体能力だけじゃない。まるでエセルリードの周囲の景色そのものが、ぐにゃりと歪んでいるような……。


「狂気の力だな。怒りで肉体のリミッターがはずれてしまっている。エセルリードは恋人をシャイロックに殺されたと聞く。よほど愛していたのだろう。悲しみで狂ったのだ。憐れだな。気持ちはわかる。僕もコーネリアを失ったら、ああなったかもしれん」


お父様はしみじみと口にした。


「……酷い話だ。同情もする。しかし、あれはとても話など聞いてくれる状態ではないぞ。前に立つ者見境なしだ。それに連れ帰るのは危険すぎる。わかるだろう。あれは疫病と変わらん。狂気を伝染させる。可哀そうだが見捨てるべきだ」


お父様の言うとおりだった。エセルリードの側にいくほど暴徒たちの狂乱はひどい。逆に離れている人達ほど隅っこにうずくまり、身を寄せ合ってがたがた震えている。彼が狂気の汚染源なのは明らかだった。

マッツオも大目玉を光らせて、エセルリードの様子を観察した。


「アンブロシーヌが盛ったという薬物の効果が上乗せされているかもしれませんな。ああいう薬物中毒者を見たことがある。痛みも感じておらん。おそらく骨を折っても立つし、気絶させることも不可能。四肢の関節と顎をはずさねば、持ち運びすらままならぬ。『シャチ艦隊』が迫るなか、さすがにそこまでの時間は……」


哀しみで胸が痛くなった。「108回」で私を支えてくれたエセルリードと違い、今の彼はまだ正気を保てないぐらいの悲しみにとらわれているんだ。それに薬物中毒なんてひどすぎる。まさかお父様とマッツオが持て余すほどなんて……。


私は頼みの綱のブラッドを振り仰いだ。


お願い、ブラッド。エセルリードを助けて。彼が狂っていても、私が命がけで必ず元の優しい彼に戻すから。


だが、ブラッドもすまなさそうにふたりの意見に同意した。


「……悪いな。スカチビに応えてやりたいんだけど……。あれだけ限界をこえて体を動かしてる奴を血流操作で無理に停止させると、まず間違いなく反動で血管が破裂して死ぬんだ」


ブラッドは、リミッターはずしと血流操作の両方のエキスパートだ。その彼が断言する以上、もはやどうにもならない。


そんな……!! ここまで来たのに……!!


私が絶望にうちひしがれてエセルリードに再度目をやったとき、彼の横手を男の子が駆け抜けた。口に茶色く変色した干し肉をくわえている。大人達に追われていた。咀嚼してすぐに飲みこみたいのだろうが、幼い顎では肉が固くてままならないのだ。追いつめられた彼は、逃げ場を求め、船べりに這い上がり、マストを横から支える網のようなシュラウドを外から登ろうとした。だが、怒鳴る大人達に内側から激しく揺さぶられされ、二度、三度と小さな体が大きくはね、しがみつくその手足が網目から滑った。


男の子はかぼそい悲鳴をあげて、船の外側に落下した。


貪欲に気配を嗅ぎつけた鮫どもが、ざばざばと海面を盛り上げ波立たせた。波間から青灰色のくすんだ鮫肌と無表情で貪欲な金壺眼が不気味にのぞく。帆船の甲板と水面の差は数メートルある。船の側面は海面から見ると濡れた断崖絶壁に等しい。一度落ちたら絶対に自力では這い上がれない。


だが、鮫の黄色い乱杭歯は寸前で男の子を嚙みそこなった。


エセルリードが大きく身をのりだし、手を伸ばして男の子の襟首を掴んだからだ。開閉する処刑道具のような鮫の顎に吞み込まれたのは、男の子の脱げた靴と、口から落ちた小さな干し肉だけだった。鮫たちは不満げに尾びれで海面を叩いた。


エセルリード本人はびっくりした顔をしていた。意図せず咄嗟に助けてしまったのだろう。「ありがとう」と男の子は泣き声で礼を言ったが、そのまま興味がないといわんばかりに、片手で甲板に男の子を投げ戻す。すでに食料を失った男の子を、暴徒たちは用無しとばかりに黙殺した。


私は泣きそうになった。みんなに、見て、と叫びたかった。あんなに狂った獣みたいになっても、人間性なんか失ったように見えても、やっぱりエセルリードは私の知ってる彼なんだ。男の子を見捨てるほうが簡単なのにそうしなかった。心の根底には、殺しきれない優しさがあるんだ。


だが、運命はどこまでもエセルリードに残酷だった。無茶な体勢で男の子を投げた結果、エセルリードは大きくバランスを崩した。上半身だけでなく、足までが手すりを乗り越え、落下していく。かろうじてピンにかけてあるロープの一端を掴むことに成功したが、幾重の輪がびゅんびゅんとほどけていく。途中でロープ同士がからまり、なんとか海面すれすれでがくんと急停止した。突きあがる鮫の鼻先が爪先をかすめる。間一髪だ。


とはいえ、絞首刑以上の落差と勢いだった。エセルリードの掌の皮はめくれ、血が噴き出た。筋組織や筋だって痛めたはずだ。よじのぼろうとするが、固定されているわけではないロープは、その動きにつれてずれ落ちてくる。のぼるスピードより速い。しかも血で濡れてうまく握れていない。鮫たちが興奮し騒ぐ。甲板上の連中は、食料の奪い合いに夢中で、眼下のエセルリードになど気づいてもいない。もし気づいても黙殺するだろう。このままだとエセルリードの死は時間の問題だ。


悲鳴をあげる私の頭を、ブラッドがぽんっと叩いた。


「……なるほど、スカチビが助けたいって思うわけがよくわかった。スカチビ、真祖帝のルビーを使おう。あのルビーの麻痺の呪いなら、きっとどんな相手にだって通用する」


「……!!」


私は息をのんだ。


私と和解したことで光蝙蝠族の死の呪いはなくなったが、ルビー自体が元々もっていた麻痺の呪いはいまだ健在だ。そこまでは確めてある。ブラッドが今まで口にしなかったのは、対人能力の幅を限界まで試したことはなかったからだ。未知数すぎる。


けど、じつはこのときのブラッドの勘は当たっていた。後に七妖衆との死闘で、ルビーの麻痺は、人間離れした彼等への切り札にさえなることが証明されたのだから。


ブラッドはスカートの中にしまっていたおんぶ紐を取り出し、私を手早く背中にくくりつけた。


「迷ってる間はないぞ。それ以外に手段はないんだ。オレがあいつのとこに連れてってやる。そこからはスカチビ、おまえの見せ場だ」


わ、わかったよ。でも、ブラッド、気持ちは嬉しいけど、今の私の非力な新生児アームじゃ、ものを一メートルも投げることが出来ないんだよ。ぶらさがっているエセルリードにさえ届かない。真祖帝のルビーは、私以外が持つと呪いを発動してしまうから、代理ピッチャーも頼めないし……。


ロープごとエセルリードを引き上げようにも、今の彼は人間不信の野生動物と変わらない。警戒して自ら手を離しての落下を選びかねない。


「心配ない。オレにまかせな。エセルリードのすぐ側に、こっちから落下すりゃいいんだ。さいわい逃げ場のない空中だから、確実にとらえられる。ルビーで麻痺させたら蹴りあげて、スカチビの親父さんにキャッチしてもらう。そのあと、オレたちも跳躍して船に戻ればいい」


ブラッドはあっけらかんと無茶苦茶プランを言った。


は!? そんな力技、いくらチート生物のあんたでも無理でしょ!? だって、ここは陸じゃなくて足場のない海よ。エセルリードの横に飛び降りて、その後どうすんの。彼をルビーで麻痺させても、次の瞬間には彼ごと私達も海にドボンよ……!! そしたら、鮫の餌食……あんた、まさか……!!


思わずびくんっと強張った私に、ブラッドは笑いかけた。


「……そういうこと。足場がなけりゃ、つくればいい。びびるなら、やめとくけど」


びびるわけないでしょ!! こ、これは武者震いよ!! 女は度胸!! やらいでか!!


「オアッ!! オアッ!! オオーッ!!」


決意表明で拳をつきあげ、雄叫びする私に、ブラッドは朗らかに笑い声をたてた。


「ははっ、それでこそスカーレットだ。……気合い入れろよ!! 一発勝負だ!!」



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


【海戦・「シャチ艦隊」視点】


いっぽう「シャチ艦隊」のほうも、急接近するブロンシュ号を捕捉していた。


今の構図は、炎上漂流する奴隷船をまん中に挟んで、ブロンシュ号と「シャチ艦隊」が睨みあっている。ブロンシュ号と奴隷船は〝アギトの海域〟の内。外に「シャチ艦隊」だ。


ジーベリック艦隊司令は、旗艦赤シャチ号の舳先で胡坐をかき、がしがし頭髪をかき回した。風にのるフケを、指示まちで背後にいたマルコ少年が、嫌そうに手で払う。


「……かあっ、頭かかえるわ。見事に風上を取られちまってるなあ。とはいえ、ブロンシュ号は、こちらと違い、〝アギトの海域〟のなかだ。見えない岩だらけなんで、普通は、操船もおっかなびっくりになる。海域の外で楽々動けるこちらと、プラマイ零ってとこのはずだが……」


ジーベリックは無精ひげだらけの頬をじょりっと撫でる。


「セラフィってのは、まともじゃねえな。追い風にまかせ、最大船速で突っ走ってくるときた。一歩でも間違えりゃ、海の藻屑だぜ。神の寵児か、あるいは悪魔の申し子か……。海の底でも見えてなきゃ、あんな思いきったことは出来ねえ。度胸にゃ自信があるつもりだったが……へこむねえ」


ジーベリックはへらへら笑った。マルコが柳眉をしかめる。


「……司令、笑っているのに、目が不満そうですよ。どうしてです。お望み通りの強敵ですよ。それとその癖っ毛、セットが大変なんですから、あまり乱さないでほしいです。お髭は頑なに当たらせてくれないんですから、せめておぐしぐらいは」


「……望み通りね。希望ってのは裏切られるためにあるんだ。おぐしなんて、育ちの良さが出ちまうピュアなマルコ少年にひとつ腐った現実を教授してやろう。海戦じゃ、上品なんて悪徳だ」


マルコに向け、ジーベリック艦隊司令は、ぷっつと抜いた鼻毛を指ではじいた。思わずのけぞったマルコの足首をぱんっと軽く手で払う。


「……!!」


後ろに転倒しかけたマルコの肩を、座ったまま、利き腕でない左手で軽々と抱きとめる。


「こういう汚いのが海戦の真髄だ。陸と違って海に投げ出されりゃ、人間なんて小魚より無力で簡単に死ぬ。だから、船を失うまいと、悪足掻きするし、どんな手も使う」


あぐらをかいたままマルコの全体重を支え、微動だにしない。細身だが尋常でない鍛え方をしていることが窺えた。


「……」


ジト目でマルコに見つめられ、ジーベリックは彼を解放し、はーっと大きく息をついた。


「……ブロンシュ号がな。船速をまったく落とさねぇ。奴隷船と接舷するのを諦めたんだ。助け出すはずだった奴を、炎上する奴隷船ごと見捨てる気だ」


エセルリードが少年を助け、結果、死にかけている光景を、ジーベリックも見ていた。彼はブロンシュ号の騒ぎ具合で、その目的がエセルリードだと看破した。


「海戦は綺麗ごとじゃない。判断としては正しい。ここまで多勢に無勢じゃな、俺でもそうする。おまえらを守るためにな。だがな、俺としては、セラフィに才能や度胸だけじゃなく、ああいう男を見捨てられん奴でいてほしかった……。俺には出来ん事をやってのける奴でな。くだらん未練だな」


自分を上回るライバルを手にいれられなかった男の悲嘆が、その背にあった。


「ジーベリック司令……」


「そんな顔をするな。なに、いつものように仕事の時間に戻るだけだ。『シャチ艦隊』の名をもっと轟かせるためのな。俺の一番大事なのはおまえらだ。獲物は世界最速の帆船。箔付けとしては悪くない」


笑い声をあげて立ちあがると、ジーベリックはぽんとマルコの肩を叩いた。片手を大きくふり、細身に似合わない甲板全体に轟く大音声で命令する。


「……全艦、火矢一斉射撃の用意!! 標的ブロンシュ号!! 弓速は気にするな。矢の雨をつくれ。ブロンシュ号は馬鹿げた速度を出している。どうやら、こちらの鏃に突っ込み、攻撃を手助けしてくれるつもりらしい。ありがたくて涙が出るな」


その命令は手旗信号で迅速に各艦に伝えられた。どっと笑いがおきる。射手たちが弩と長弓をかまえ、舷側のバリスタの弦がしぼられる。


ジーベリックが狙うのは、ブロンシュ号の速度を逆手にとったカウンター攻撃だ。そして、〝アギトの海域〟の外に「シャチ艦隊」が陣取ったのは、自由に動くためもあるが、「ブロンシュ号」をこちらにおびき寄せるためだ。


実際のところ、浅く複雑な岩礁地帯の〝アギトの海域〟での艦隊戦になれば、オールと帆を併用し、喫水線の浅い「シャチ艦隊」のほうが小回りがきくので有利だ。


「誰だって敵が有利なところでは戦いたくはないよな。ブロンシュ号としては、こちらが〝アギトの海域〟にいるうちに決着をつけたかろ。さあ、セラフィよ。焦って喰いついてこい」


ジーベリックはうそぶく。


逆に障害物のない外海では、いかに「シャチ艦隊」といえど、全速のブロンシュ号には追いつけない。「シャチ艦隊」が〝アギトの海域〟の外にいるあいだに、そこを抜けさえすれば、ブロンシュ号の勝利は確定だ。


「……希望ってのは猛毒だ。目の前でちらつかせられると、危険とわかっていても、つい喰いつきたくなるよな。だが、セラフィよ。『シャチ艦隊』の火力はおまえの想像以上だぞ。それにこちらには、もうひとつの牙がある」


ジーベリックはにやりとした。


「シャチ艦隊」は一糸乱れぬ動きで迎撃の陣形をとった。


「奴が火だるまになったところで……」


ジーベリックが追加の命令をしかけたところで、旗艦「赤シャチ号」の真横に、ぬうっと黒塗りの艦が進み出た。


「がはははっ!! わかってるぜ。大将。そこで俺の船の『黒シャチ号』の出番。男の花道の衝角戦だ。焦る相手にどすんとぶちかまし、自由のとれない〝アギトの海域〟に寄り切り、そこに他の艦が火の雨を降らしてとどめを刺す。しかし、この艦の角は半端ねぇ。追撃前に『ブロンシュ号』を沈めちまうかも知れませんぜ」


アイパッチをした力士のような巨漢船長が、手旗信号など面倒だと言わんばかりに、波に負けない大声をはりあげる。


彼がまかされた「黒シャチ号」は、他の艦に比べ、ずんぐりむっくりしている。舳先に突き出たバウスプリットもないため、張れる帆の数もわずかに少ない。だが、速度を犠牲にしたかわり、この船は牙を得た。海に隠れた舳先の喫水線の下に、古代の艦隊戦で使われた衝角を備えているのだ。海洋国家チューベロッサの最新技術で強化されたその突起物は、大型帆船を一撃で沈めることが可能だ。


「……かまわん。沈められるなら手間が省ける。好きにしろ」


「がははっ!! それでこそ大将だ。『ブロンシュ号』を単独で撃破なんぞ、一生ものの勲章だ。腕が鳴るぜ」


大喜びする「黒シャチ号」の船長にジーベリックも笑いかけたが、そのまなざしと横顔はどこか寂し気だった。


だが、物見役の叫びを聞いたとき、瞳は再び獲物を狙うようにぎらついた。


「ブロンシュ号が燃えている!? 煙が流れてくるぞ!!」


追い風にあおられ、煙はすぐに『シャチ艦隊』にも押し寄せてきた。あたりは濃霧のように見通しがきかなくなった。隣の船さえ、ぼうとしたシルエットにしか見えなくなる。それだけではない。鼻と目の粘膜を突き刺す刺激臭に、全員が咳き込んだ。


「ふん、セラフィめ。目くらましに煙幕を焚いたな。この隙をついて、対象を救出し、海域から離脱する気か。姑息な手を。これでこちらの目を潰したつもりか?」


素早くハンカチで鼻と口を覆い、目を細めてジーベリックが呟く。


「おい!! 物見役はマストに登って、ブロンシュ号の位置を俺に教えろ!! この煙幕は上のほうはさして濃くないはずだ。帆船マストはくそ高い。とてもすべては隠せん。一番速く動いている奴がブロンシュ号だ!!」


ジーベリックが睨んだとおり、上から見ると、煙幕の雲海のなか、この場にいる船のそれぞれのマストが煙突のようにうっすらと突き出ていた。「シャチ艦隊」の船は帆を単純にするための物見台はない。だが、優秀な物見役達は猿のようにマストのてっぺんによじ登れた。


「み、見えました!! 高速移動しているマストが……」


物見役の声に、ジーベリックは勝利を確信した。


「この煙幕をものともせず、〝アギトの海域〟を航行とは流石だが……詰めが甘かったようだな。セラフィ・オランジュ。予定どおり、ありったけの火矢を喰らわせてやる。おい、奴の位置はどこだ」


だが、物見役の声は上擦っていた。


「う、動いているマストが二隻分あります……!! 左右に分かれて迫ってきます!! どちらがブロンシュ号か判別できません!!」


物見役の目には鮫の背びれのように煙をかき分けて、すさまじい速さで拡大する二本のマストが見えた。「赤シャチ号」と同様の方法で、少し遅れて現状を認識した他の艦の物見役も、口々に驚愕の叫びをあげる。見間違いではない。


「馬鹿な……」


さしものジーベリックも一瞬唖然としたが、その切り替えは早かった。


「『黒シャチ号』は体当たりで一隻を止めろ!! 残り四艦は、もうひとつの艦に集中攻撃だ!! 手旗ではなく音通信で伝達しろ。……誤認を気にせず全力を尽くせ。俺が全責任を負う。ここで決められなければ逃げられるぞ」


時刻を知らせる用の鐘が複雑に鳴り響く。「シャチ艦隊」の濃霧時用の通信手段だ。


「おそらく一隻は奴隷船だ。性悪ブロンシュ号め。堂々と人質兼影武者をつくりやがった。こちらに攻撃を躊躇わせる気だ。どこが白い貴婦人だ。大淫婦の間違いだろう」


嬉しそうなジーベリックの言葉に、隣のマルコが驚きの目を見張る。


「セラフィは奴隷船を懐柔したのですか……!!」


息をのむマルコにジーベリックは苦笑した。


「まさか。そんな時間はなかった。それに暴動で奴隷船の船員は全滅に近い。だから、セラフィは麾下のオランジュ商会を二手に分け、そのうちの一団で、奴隷船を乗っ取り操ったんだ。荒唐無稽に思えるが、セラフィを人ではなく悪魔の類と思えば、答えはそれしかない」


海軍学校の授業で口にすれば、即座に教室を叩き出される狂った結論だ。


だが、ジーベリックの口ぶりには強い確信があった。天才は天才を知るという事なのだろうとマルコは納得した。


「しかし、困りましたね。それでは奴隷船の護衛の命を受けたこちらは手が出せない……」


「そう躊躇わせるのが奴の狙いよ。まずターゲットをふたつにして、こちらの戦力を分散。そのうえどちらが奴隷船かわからないとくりゃ、迎撃も甘くなる。そこまで緩んだ『シャチ艦隊』の攻撃なら抜けられると踏んでやがる。だからこそ、本気でぶちかまし、奴の計算をひっくり返す必要がある」


ゆえにジーベリックはブロンシュ号を倒すという一点特化の苛烈な策をとった。


「そうすりゃ、セラフィがこちらを嵌めるために掘った穴は、あいつの墓穴に変わる。奴隷船は大型帆船だからな。オランジュ商会だけで操船するなら、ほとんどの人手をそちらに割いたはずだ。手薄になったブロンシュ号では、シャチの猛攻撃を避けきれん」


正体不明の二隻どちらがブロンシュ号でも構わない。「黒シャチ号」の相手がブロンシュ号なら、そのまま衝角で沈めてしまえばいい。もし相手が奴隷船でも、沈めることで、オランジュの連中の大半を戦闘から排除できる。そのうえブロンシュ号は大量の火矢で火だるまになる。そうなればブロンシュ号もさすがに立て直せまい。たやすく屠れるだろう。


「セラフィに理想のライバル像を求め、ご自分はよくも平気でこんな悪辣な手を……」


マルコはあきれ顔だ。


「幻滅したか。だが、相手はセラフィ。潰せるときは容赦なく潰さんと、あっさり逆転されかねん」


問いかけるジーベリックに、マルコはふんと形のいい鼻を鳴らした。


「今更なにを。司令を善人と思っている人なんかこの艦隊にはいませんよ。それに『シャチ艦隊』なら、敵を排除しさえすれば、どの船よりも迅速に救出や消火活動をこなせます。そもそもどんな策だろうと、私達は司令を信じついていくのみですしね」


「嬉しいことを言ってくれる。セラフィにオランジュ商会ありなら、ジーベリックにお前たちありだ」


ジーベリックは破顔した。


「悪辣ついでだ。王子殿下には、セラフィの煙幕のせいで不幸な事故が起きたと言い訳するとしよう。それと船の嘘の修理費として、王国から予算をだまし取ろう。なにが起きてもセラフィのせいに出来る。セラフィさまさまだな」


ジーベリックは凄愴な笑みを浮かべた。


「……見えたぞ。俺達にとっての最高のトロフィーが。……ふふっ、こちらがブロンシュ号、本命か。その極上の白いドレスを紅蓮の炎で飾りつけてやる。うてーっ!!」


煙幕を突き破って目前に現れたのは、輝かんばかりの純白の帆と船体を誇る船だった。いまだまとわりつく薄煙がヴェールのようだ。神々しさまで感じさせる。ほう、とジーベリックは思わず息をついたほどだ。その威容はブロンシュ号に間違いない。


火矢が一斉にブロンシュ号めがけて襲いかかる。


「『黒シャチ号』は少し船速を緩めろ。そっちは大事な開拓船だ。本気で当てると木っ端微塵になるぞ!!」


すでに煙のなかのまだ見ぬ敵にアタックの態勢に入っていた「黒シャチ号」の船長は、ジーベリックの言葉に悲鳴をあげた。


「そりゃないぜ!! 大将!! 踏ん張りのきく陸じゃねえんだ。海じゃ今更止まれ……!!」


皆まで言わせず、かぶせるようにジーベリックは大声で慨嘆した。


「おおっ、セラフィめ!! なんという悪魔だ!! 我々は事故を回避しようと万全を尽くした。なのに、奴は友らの船を乗っ取り、あまつさえ体当たりを仕掛けてきた!! 不幸な同士討ちを許せ!! 諸君!!」


嘆息にしては声が大きすぎた。


「……わざとらしい。ご自分で仕掛けておいて」


あきれ顔のマルコにジーベリックは笑った。


「今のは奴隷船の生き残りどもに聞かせるためだ。我々の無罪の証人になってもらわねばな。止まれるなど毛頭思っておらんよ。さて、奴隷船にどれだけオランジュの連中が乗り込んでいるか、行動をもって教えてもらおうか」


そうこうするあいだにも、「黒シャチ号」は減速しきれないまま、煙から船影を現した奴隷船に衝突寸前まで迫った。


「駄目だ!! やっぱり避けきれねぇ!!」


「黒シャチ号」の船長が絶叫する。惨事を予感しマルコは思わず拳を握りしめた。だが、奴隷船は身をくねらせるように激突を避けた。急流くだりの筏が加速するようにだ。小型船ならともかく鈍重な大型船ではありえない動きだった。


「……司令!! 今のは!?」


「〝アギトの海域〟は潮の満ち引きで海流が急激に変わる。そいつの助けをタイミングどんぴしゃで借りたのさ。答えが出たな。セラフィとオランジュの大半は奴隷船のほうにいる。あの神がかった操船がなによりの証拠だぜ」


ジーベリックは会心の笑みを浮かべた。


「おい!! 沈没は狙わなくていい!! 『黒シャチ号』はとにかく奴隷……開拓船の動きを封じておけ!! 座礁と延焼に気をつけろよ!!」


「あいさー!! テコでもここから動かしませんぜ!!」


ジーベリックの怒鳴り声に、「黒シャチ号」の艦長が応じる。風が流れ、煙幕が再び奴隷船と「黒シャチ号」を覆い隠した。


ジーベリックは胸の前で、ぱあんっと右拳を左掌に叩きつけた。


「さて、ここからは本命の白い貴婦人(ブロンシュごう)に集中するだけでいい。奴隷船には戦闘力は皆無だから、『黒シャチ号』だけで十分抑えられる。さあ、どうする。ブロンシュ号よ。セラフィもいない手薄な状態で第一波をかわしたのは流石だが……」


「シャチ艦隊」の攻撃を予測していたブロンシュ号は、大きく舵をきり、奇跡的に火矢のほとんどをかわした。急旋回のため、ぐうっと大きく船体が傾く。そして、側面を「シャチ艦隊」の前にさらけ出すことになった。もっとも射出兵器をもつ船にとって敵への側面向けは悪いことではない。武器を多く配置できるのは長さのある舷側だからだ。


「だが、そちらに今、ろくに手は足りていない。弓もバリスタも射れる人間がいなければ、ただの置物よ。全軍、第二波、放て!! 細長い的が、当てづらい正面から、当てやすい側面に変わってくれたぞ。遠慮なく喰らいつけ!! セラフィの帰る家を無くしてやれ!!」


「シャチ艦隊」の練度は高い。四隻からの火矢は落下の曲線、予想進路をを計算し尽くされ、ブロンシュ号一点に向け襲いかかった。上空からだと漏斗に吸い込まれるように見える完璧さだ。だが、まさかでその矢がはずされた。ブロンシュ号ががくんっと急停止し、大きく横にずれたのだ。振り子が揺れるさまにそっくりだった。


正確さゆえに「シャチ艦隊」の攻撃は空をきり、すべて海に吸い込まれた。


「攻撃がことごとくかわされる……!! なんなんだ!? あの船は!?」


「海の……魔法使い……!!」


「シャチ艦隊」に驚愕のどよめきが波となって広がる。ジーベリックは一喝した。


「浮き足立つな!! 魔法でもなんでもない!! 奴は事前に船尾のアンカーを海底に投擲していただけだ!! だからロープに引っ張られ急停止した。それに海の流れによる動きを組み合わせたにすぎん!!」


だが、その貌は険しい。


複雑怪奇な〝アギトの海域〟の海流は、潮が変わるときにはさらに難度がはねあがる。ジーベリックさえ完全には読みきれないのだ。はたしてセラフィは予想通り奴隷船にいるのか、それとも……。疑惑の暗雲が湧いてくる。


だが、ジーベリックは不安を面に欠片もあらわさず、第三波の攻撃を命じた。


「まぬけなブロンシュ号は停止した!! ぼやぼやするな!! チャンスが飛びこんできたぞ!! たたみかけろ!! 奴はまともに反撃できん!!」


その叱咤に活気を取り戻した「シャチ艦隊」は再再度の一斉攻撃をしかけようとした。より攻撃を確実にするため勇猛果敢に距離を詰める。


帆船は帆で風を受けて走る。ここまで急旋回すれば帆の角度は風の向きから大きく外れ、一度停船すれば容易には動かせない。そうなれば舵もきかない。死に体だ。スクリュー船とは違うのだ。


だが、「シャチ艦隊」は三度驚愕の目を見張ることになった。


人手がいないはずのブロンシュ号の舷側の出窓がばたんばたんと開くと、大量のバリスタの火矢が発射されたのだ。一番近くにいた「黄シャチ号」がまともに被弾し、前方のフォアマストの帆が燃えだす。「シャチ艦隊」の帆は、少人数で操作しやすいよう大きなマスト三本に一枚づつ取りつけられている。火のまわりが早い。


被弾にかかわらず任務をなおこなそうとする「黄シャチ号」を、ジーベリックは怒鳴りつけた。


「バカヤロウが!! こんなとこで船を失う気か!! 『黄シャチ号』はとっとと戦列からはずれ、消火活動に専念しやがれ!! 言うこと聞かねえなら、簀巻きにして海に沈めるぞ!!」


軽そうに見えてもジーベリックは仲間思いだ。水兵見習いが一人死んでも、責を感じ落ちこむ。よく理解している「黄シャチ号」は渋々下がらざるをえなかった。


「……ジーベリック司令……!! ブロンシュ号のヤードが……!!」


冷静なマルコが驚きのあまり齢相応の悲鳴をあげる。


帆船は垂直のマストについた幾つもの長い横棒…ヤードを動かし、帆を風の角度にあわせる。だが、そのためには一度それぞれの帆を巻きあげる必要がある。そうしないと重さと風の抵抗でまともにヤードを回せない。帆を巻きあげた状態のヤードを動かすのさえ、何十人も総がかりだ。操船に驚くほどの人手と時間がいるのが大帆船だ。だからこそ奴隷船にほとんどの人員を割いたブロンシュ号はまともに動けないとジーベリックは判断した。


なのに、ブロンシュ号のヤードが一斉に回っていく。それも帆を張ったまま。


「……おいおい、どこが白い貴婦人だ。幽霊船の化物魔女めが……」


ありえない光景にジーベリックは戦慄し、悪態をつく。


ブロンシュ号が近くまで迫ったため、たなびく煙の隙間から甲板の様子が窺えるようになった。人がほとんどいない。走り回っているのは帆が破れないようロープを調整している連中だ。ヤードの動索に取りついている者は誰もいない。ヤードはひとりでに回っているのだ。


瞬く間に風をはらみ、ブロンシュ号は息を吹き返した。


アンカーをロープごと廃棄し、そのまま「黄シャチ号」が抜けた隙間めがけ、突進してきた。


「……このくされ魔女めが!! だが、こいつに火は効く!! 火矢を避けたのが証拠だ!! ありったけの矢をそそぎこんでやれ!!」


ジーベリックが目をむいて怒鳴る。


司令の命に忠実に従おうとした「シャチ艦隊」は、しかし、大混乱に陥った。奴隷船が煙幕のなかから出現し、割り込む形で、船団のまっただ中に突入してきたのだ。


「……まさか奴隷船で『黒シャチ号』を倒したのか!?」


ジーベリックが唸る。煙幕のなかから「黒シャチ号」が姿を現さないのが証拠だ。少なくとも航行不能にされている。海洋国家チューベロッサの武闘派代表の軍艦が、荷船に負けた。鮫がマンボウに敗れたほどの椿事だ。


奴隷船はブロンシュ号の盾になる位置に動いてきた。さすがに護衛するための友好国の船を火だるまにするわけにはいかない。視認可能なここでは、煙のせいの同士討ちだと言い訳もできない。


「……くっ、火矢は中止だ!! 接舷戦闘用意……!!」


歯噛みして叫ぶジーベリックの顔が凍りついた。


ずどんっと腹に響く爆発音がした。「青シャチ号」の舵板が船尾からはずれるのが見えた。船の要でとてつもなく丈夫な舵板が、まっぷたつに割れていた。クジラか岩にでもまともに衝突しないとこんなふうには破壊さ

れない。


だが、違った。


逆巻く波しぶきのなかに立つ、白馬にまたがった貴公子が見えた。とてつもなく長い棍を構えている。巨大で分厚い舵板を一撃で破壊したのはそいつだった。鮮やかな赤い瞳と髪が目を射る。歴戦の「シャチ艦隊」が度肝を抜かれた。水魔ケルピーが水面に立っていると勘違いしたのだ。精鋭とはいえ海の男の迷信深さを直撃され、彼等はわずかの間金縛りにおちいった。


動けたのは、貴公子の正体を看破したジーベリック司令はじめ、数人だった。


「あれは『紅の公爵』だ!! 動け!! 奴隷船が牽引してきたボートに乗っているんだ!! 動けというに!! 近づけさせるな!! 船を沈められるぞ!!」


血相変えたジーベリックにどやされ、「シャチ艦隊」の乗員たちは我に返った。十年以上かかるといわれたハイドランジア海外領での反乱を半年足らずで鎮圧した軍神の名を知らぬ者はいない。〝アギトの海域〟を乗馬したまま牽引されたボート一隻で抜けてくるなど、海を知る者ほどありえないと語る。一分ももたず転覆して鮫の餌食だからだ。だが、「紅の公爵」の威名はその常識を吹き飛ばした。


「紅の公爵」一人をめがけ、「シャチ艦隊」から無数の矢が放たれる。もはやブロンシュ号にかまっている余裕などなかった。「紅の公爵」から少しでも距離を置こうと動き出す。


「……いい腕と判断だ。さすがは『シャチ艦隊』。だが、少し遅かったな。ここはすでに僕の殺傷圏内だ。……赤塵旋風(せきじんせんぷう)


「紅の公爵」の棍が高速旋回し、竜巻となる。襲い来るすべての矢を事もなげに粉砕し、彼は愛馬をうながした。


「いくぞ!! ウラヌス号!! 目指すは敵の本陣だ!!」


ごうっと膨れ上がる殺気に、付近の鮫が蜘蛛の子散らすように逃げ去る。馬が蹴りつけた反動でボートが水柱をあげてまっぷたつになる。「紅の公爵」は愛馬とともに荒海に身を躍らせた。


凄まじい飛距離だが、さすがに遠くの「赤シャチ号」には届かない。だが、「シャチ艦隊」の乗組員たちは仰天した。水切り石のように「紅の公爵」が海面を跳躍してくる。


「ブロンシュ号がどさくさにまぎれて幾つもボートを放流してやがったんだ!! 乗り込んでくるぞ!! もう回避できん!! 全員、近接戦かかれ!!」


ジーベリックの号令一下、船員たちが抜刀し、あるいは弩をかまえる。


波間に漂うボートを足場にした三回目の跳躍で、「紅の公爵」は「赤シャチ号」をとらえた。


「……もらった……!!」


あっさりと空中で迎撃の矢を払いのけ、「赤シャチ号」の甲板に降り立った「紅の公爵」は、殺到する船員たちを飛び越え、メインマストを横に両断しようとした。もしメインマストを倒されれば、複雑にからみあった他のロープと帆も巻きこみ、船も重心のバランスを崩し、転覆寸前になる。即座に「赤シャチ号」は戦闘能力を失う。


「人の船に勝手に乗り込んできて挨拶もなしかよ!! 舐めるな!! 『紅の公爵』!!」


石壁をも切り裂く馬上からの棍の一撃を、とびだしたジーベリックが細身のサーベルで受け止めた。一瞬大きくたわんだがサーベルの刀身は無事だ。「紅の公爵」の白皙の顔に驚きが広がる。


「ほう、僕を知っているのか。しかし、ウラヌス号の力をのせた一撃を、剣を折ることなく受け止めるとは……。いや、力を後ろに流したのか。なんという才能だ。まさか我が馬闘術と同じことができる者に巡り合おうとはな」


感嘆しながらも容赦なく第二撃、三撃、四撃を放つ。


ジーベリックは渋面で次々と猛撃を受けた。


「褒めるか、攻撃するか、どちらかにしてくれ!! こっちは受けるので精いっぱいの器用貧乏なんだ!! 話を聞いてる余裕なんざあるか!!」


文句を言いながらも渡り合うジーベリックに、「紅の公爵」は感心した笑みを浮かべた。


「そうか。聞いたことがある。『シャチ艦隊』には文武に優れ、なおそれをひけらかす事のない天才司令がいると。たしか名前はジーベリック……。む、受けるだけでなく、攻撃してきた。二刀流だと? なにが精いっぱいだ。ペテン師め」


「ちくしょう!! あっさりかわしやがって!! 凡人の創意工夫した乾坤一擲を!!」


ふたつの嵐がぶつかり合う息もつかせぬ攻防に、「赤シャチ号」の誰も手が出せなかった。迂闊に入るとかえって司令の邪魔になるとわかっているからだ。打ち合う際の火花しかとらえられない。特に自らの不甲斐なさを悲しんだのは従者のマルコ少年だった。


「……ジーベリック司令!! がんばれ!!」


せめてもとはじめた健気な応援に、固唾をのんでいた船員たち全員が同調した。瞬く間に船をゆるがす大声援に、ジーベリックは悲鳴をあげた。状況に気づいた他の船まで応援に加わっていた。


「てめえら、やめやがれ!! 背中が痒くなる!!」


閉口して身悶えするさまに「紅の公爵」は爆笑した。


「おもしろい男だ。気に入った。僕の目的は果たした。この勝負、あずけておくぞ」


重さなどないかのように、ふわりと愛馬ごと後方に跳躍する。手すりを楽々と越えたところで、ブロンシュ号が「赤シャチ号」の至近距離を全速で通過した。ブロンシュ号には、すでに奴隷船を操っていたオランジュ商会の連中が戻っていた。セラフィの小さな姿も見える。「シャチ艦隊」の奮戦に敬意をあらわし敬礼していた。なぜかその隣にメイド服の少女と腕に抱かれた赤髪の赤子がいた。ふたりとも神妙な表情で敬礼しているのがなんだか笑いを誘った。


「紅の公爵」は「シャチ艦隊」全体の注意を派手にひきつけ、オランジュ商会がブロンシュ号に飛び移って帰るための時間稼ぎをしていたのだ。


背後を一瞥もしないまま「紅の公爵」は慣性の法則に馬の脚を取られることもなく、ブロンシュ号の甲板に後ろ向きで降りた。神業だった。


不敵に笑いセラフィ達に敬礼を返したジーベリックは、見る見るうちに小さくなるブロンシュ号の船影を見送ったあと、剣を放り出し、へなへなと腰を抜かした。


「……あぁ~。もうやせ我慢も限界だ。死ぬかと思った。足ががくがくだ。寿命が十年縮まった。二度とやらんぞ、あんな荒事は」


胸にしがみついてわんわん泣くマルコ少年の頭を撫でながら、ジーベリックはぼやいた。


駆け寄ってきた乗組員たちがわっと湧く。敗北者たちの雰囲気ではなかった。彼等は尊敬するリーダーが英雄に伍する強者だと見せつけられたのだ。


「……いや、『紅の公爵』に見逃してもらっただけだ。見ろ」


わき起こる称賛の声にジーベリックは失笑し、使っていたサーベルを船べりに叩きつけた。鋭い音を発し、刀身がまっぷたつに折れて飛んだ。


「あと一合あわせてたら、俺は剣ごと頭を潰されてたろうな」


その場の全員が蒼白になった。


「……だから安物のサーベルを使わないでくださいって、常日頃からあんなに言ってるじゃないですか……!! こっちがどんな思いで……!!」


ようやく泣き止んだマルコがまた泣き出す。困ったようにおろおろするジーベリックを、乗組員たちがにやにやしながら眺める。彼等は人間味があるこのとぼけた艦隊司令が大好きなのだ。


「……まあ、そう言うな。名刀なんて俺のガラじゃない。そんな金があったら、お前たちに一杯奢ることに使うさ。さあ、敗戦処理だ。まずは奴隷船を完全に消火しなきゃな」


オランジュ商会が乗っ取った際、だいたいの鎮火はしてくれていたが、まだあちこちが燻っている。ほおっておくと再燃しかねない。


ちなみに暴動を起こしていた連中は、奴隷船に乗りこんできた「紅の公爵」が放った殺気にあてられ、残らず気絶していた。


「シャチ艦隊」の被害は、「黄シャチ号」の帆が一部焼失。「青シャチ号」の舵板の損傷。そして「黒シャチ号」もやはり同様に「紅の公爵」に舵板を叩き割られていた。衝角をかわされたときにはすでに「紅の公爵」の乗ったボートは煙に隠して海面に降ろされており、奴隷船を追いかけていったところにカウンターを喰らい、〝アギトの海域〟から出られなくなっていたのだ。


黒と青の二隻は、無事だった艦で港に曳航するしかない。


二隻の船長の落胆ぶりは滑稽なほどだった。特に「黒シャチ号」の船長は詰め腹きって詫びんばかりだった。ジーベリックは土下座する船長をどやしつけた。


「敗戦で罰を受けにゃならんのなら、セラフィに艦隊戦で負け、決闘で『紅の公爵』にも負けた俺はどうなる? 二度、死ねとでも言うのか」


「……た、大将は負けとりゃしません!! 『紅の公爵』とは痛み分けですし、もし万全の『シャチ艦隊』だったならセラフィにだってひけは……!! 大将に次ぐ強さの妹君ルコス様と『桃シャチ号』さえ抜けてなければ……!!」


「黒シャチ号」の船長は悔しそうに巨体を震わせた。


王子の勅命により、「桃シャチ号」は「シャチ艦隊」を離れ、単艦でハイドランジアに赴いていた。そのためわずかに包囲に隙があった。そのほころびをセラフィは見逃さず突いたのだ。


「おいおい。あれが痛み分けなんて笑われるぜ。とにかく今回の敗北の全責任は俺にある。これ以上ぐたぐだ言うな。敗戦の苦さを思いだし、酒がまずくなる。以上。……ああ、それから、もうひとつ訂正だ」


ジーベリックは思いだしたように付け加え、にやりとした。


「ルコスは俺より強え。あいつなら必ず王子殿下の期待に応え、失地挽回してくれるさ。頼むぞ。我が愛する妹殿。おまえに『シャチ艦隊』の命運を託すとしよう」 


ジーベリックは流れる雲に投げキッスをすると、働き過ぎたからしばらく眠る、後はまかせた、とのたまい、マルコの膝に頭をのせたまま、ぐうぐう高鼾をかきはじめた。



◇◇◇◇◇◇◇◇



【後日。ハイドランジア監獄島沖にて】



その監獄は孤島の岩肌をくりぬいて作られていた。


ここに主に収監されるのはハイドランジアの死刑囚や政治犯だ。あるいは訳ありの囚人……。急激に狭まる地形のせいで、島を囲む海峡の流れが異様に早い。イルカでさえ苦労するほどだ。もし人間が泳いで脱獄しようものなら、たちまちに海底で鋭い岩のミキサーにかけられ微塵になるだろう。


月に一度の渡し舟も、比較的波の穏やかな日を選んでやってくる。渡さないのではない。渡れないのだ。

まして、こんな海が時化ていて、しかも暗い新月のときに航行する馬鹿はいない。


だから、監獄の看守たちも虚をつかれた。


その帆船は甲板以上ある高さの波間をするすると抜け、難なく監獄の真下に到着した。監獄の見張りが生あくびを噛み殺している間に、死角についた船から次々に鉤爪つきの縄が投げられ、人影たちが暴風をものともせず、ましらのようにするすると岸壁をよじ登る。


その目的は、囚人ふたりの奪取だ。囚人の名はアンブロシーヌとデクスター。侵入してきた帆船の名は「桃シャチ号」。最強と名高い「シャチ艦隊」の二番艦だ。


「……他愛もない。男達は鈍感だねえ。今頃はまだ眠りの香でぐっすりさ。女だったら肌で危険を感じて飛び起きてたよ」


「男は女房孕ませても子供は放置だからね、腹を痛めて生んだ子の心配で神経尖らす女の境地にはとてもとても」


たやすく目的を果たした彼等……いや、彼女達は、ハイドランジア沖の甲板上で陽気に笑った。


船長のルコス以下、この「桃シャチ号」の乗組員は全員が女性だ。他の「シャチ艦隊」男達も彼女達には頭があがらない。ほとんどが彼等の妻や母、姉などの家族だからだ。尻に敷かれているのだ。明るい衣裳は男達以上に目立つ。自分達が着るものだから手をかけているのは言うまでもない。


「……しっかし、このアンブロシーヌって女、自分が横恋慕した相手の奥さんを胎児ごと毒殺しようとしたらしいじゃないか。気にくわないね。こんな奴、海に放り込んでやったほうが……」


特に大柄な女性が、肩にかついだぐるぐる巻きの布の塊を忌々し気に睨みつける。


「かついで崖を降りる途中、暴れて勝手に落下したって言やあ、誰も疑わないってもんさ」


本当にそのまま海に捨てかねない勢いだった。妊婦や胎児殺しは女囚たちでさえ怒らす女の禁忌だ。


「やめてくれ!! 今のアンブロシーヌは狂ってしまって何もおぼえていないんだ!! こいつが道を違えたのは、兄の俺の責任だ。たった一人残った血を分けた妹なんだ。責めなら俺が負うから……」


猿轡をはずされたデクスターが泣きながら膝にすがって懇願する。


獄に繋がれていたあいだ、デクスターはずっと追いやった弟エセルリードを思いだし、罪悪感にうち震えていた。エセルリードはもう死んでしまったと思いこんでいた。黄金の魔力と切り離され身ひとつになったことで、自分のしでかした事を自覚したのだ。


大柄な女は荒々しく足で払いのけながらも困惑の表情を浮かべた。


「あんたもろくでなしと聞いてるけど、ちっとは人間の情が残ってるようだね。だが、忠告しとくよ。この女からは外道の臭いしかしない。いつか恩を仇で返すと相場が決まっている。命乞いしてやった事をきっと後悔することになるよ……」


ため息をつきながらも、ぐるぐる巻きのアンブロシーヌを甲板に放り出す。


「……ありがとう!! 恩に着る!!」


「……ふん」


プライドもなく喜色満面で床に額をこすりつけんばかりに感謝するデクスターに、少し頬を染めてそっぽを向く。


「……マーサ、それ、布ぐるぐる巻きにしすぎ」


じっとその様子を眺めていた黒髪ポニーテールの少女が、切れ長の目を細め、ぼそっと注意する。まだ十の齢にも満たないであろうに、独特の威厳と気品がある。実力で年長者たちを率いる天才がもつオーラだ。その雰囲気はセラフィに酷似していた。


「申し訳ありません。ルコス様、大声で喚くもので仕方なく」


マーサと呼ばれた女性はあわてて謝った。


実際、発狂しているアンブロシーヌは「私は公爵夫人よ!! 頭が高い!!」とか「らんらんるー、今日はどんなドレスで舞踏会に逝こうかしら」とか戯言を大声でのべつまくなしに叫んで跳ね回り、口と動きを封じなければ、とても牢からは連れだせなかったのだ。謝るマーサに少女ルコスはかぶりをふった。


「……責めてない。ただ、それ、窒息寸前。命が風前の灯」


ルコスの指摘どおり、ばたんばたんと元気にのたうっていたアンブロシーヌの動きが、ぱったん……ぱったん……ぐらいに緩慢になっていた。激しく痙攣しだす。マーサが憎しみのあまり、無意識に布を強く巻きすぎたのだ。


「やばっ……!!」


布の束縛から急ぎで解放され、転がりでたアンブロシーヌは白目をむいて失神していた。あわてて手首をとったデクスターが脈を確認し、ほっと安堵の息をつく。


ルコスの冷たい視線に気づき、あわてて飛び退き、平伏する。


逃避行と囚人生活で、金に頼れない自分がいかに非力か身に沁みていた。年齢や身分、性別などで相手を侮れば、虫けらのように潰されるのが今の自分の立場だ。皮肉なことに、すべてを失ったこの数週間ほどで、今までの人生の倍以上の経験をデクスターは積んだ。


「……質問、答えて。嘘は許さない。この船がどこの国籍かわかる?」


デクスターは生唾をのみこんだ。


デズモンド会頭に才能なしと落胆されるまでは、デクスターは次期シャイロック会頭としての教育を受けていた。お洒落とドレスとお金や宝物、催し事などにしか興味がなかったアンブロシーヌとは違い、特徴からこの船の素性は見抜けた。だが、正直に答えることが吉と出るか凶と出るかわからない。


迷ったあげく、デクスターは誠実に答える道を選んだ。ルコスの配下のマーサは、アンブロシーヌを殺さなかった。その人間性に賭けたのだ。


「……おそれながら、海洋国家チューベロッサ。その秘匿されている『シャチ艦隊』。もしくは同型艦ではないかと……」


ルコスが返事をするまで震えが止まらない。沈黙がおそろしい。もっと人に優しくしておけばよかったと何故か思った。


「……正解。知識よりも嘘を言わなかったこと、評価してあげる。人の本性は土壇場で出る。あなた、少しは信用できる。マーサ、海水で体を洗ってあげて」


ルコスは厳しい表情をやわらげ命じた。


牢暮らしをしていたデクスターはひどい匂いをさせていた。それ以上に悪臭を漂わせていたのがアンブロシーヌだ。発狂していたため、用を足すというより垂れ流しに近い状況だった。誰よりも着飾ることがすべてだった妹が今の自分の姿を見たらどう思うだろうと、憐憫と悲しみがこみあげてきて俯くデクスターの心中をはかり、ルコスが追加で命ずる。


「その女も洗ってあげて。ただ暴れないよう手足は縄でくくって」


何度も礼を言いぺこぺこ頭を下げるデクスターに、マーサはため息をついた。


「優しい兄貴だね。なんだって、あんたみたいな男が、囚人になるまで堕ちたんだい」


デクスターは目をしばたいた。


「……なんでだろうな……」


視界が涙でにじんだ。


「……俺は、今までいったい何をして、生きてきたんだろうな……本当に……」


ぼろぼろ悔恨の涙をこぼすデクスターを、マーサが困ったように見つめていた。おろおろと右往左往する。どうやって慰めるべきかわからないのだ。


「……そこっ、マーサ。チャンス。抱きしめて」


「……弱ってる今なら堕とせる。いけっ」


女乗組員たちが帆柱のかげから顔をのぞかせ、声をひそめて応援する。落とすの漢字が堕とすになっている……。


「マーサって筋肉と敵を倒す以外にも興味あったんだ……」


「マーサ、あれでインテリ男に弱いから……」


「兄貴が『黒シャチ号』のガハハ脳筋船長だから、その反動かしら。頭使えってジーベリック司令に言われて、敵に頭突きしたらしいわよ。あの船長」


あんまり応援じゃないひそひそ話も混じっている。耳のいいマーサはそのたびに赤くなったり白くなったりした。


「……マーサ、恋の季節」


いつの間にか一団に加わっていたルコスがぼそっと呟く。ルコスを囲んで女たちは、きゃーっと嬌声をあげ盛りあがった。


「いくよ!! こっちだよ!! 早くついておいで!!」


たまりかねたマーサは頭から湯気をたてて、アンブロシーヌを肩にして足早に歩き出した。引っ立てられるようにして、わけのわからぬままデクスターもあとに続く。


その様子を女達はあたたかく見守り、あるいは笑い転げた。


ひとしきり笑ったあと、女達のひとりが涙を拭きながら、なんの気なしにルコスに問いかけた。


「ルコス様はどんな男の人がタイプです?」


みんなが興味しんしんで聞き耳を立てる中、ルコスの答えはじつにシンプルだった。ひとさし指一本を立てる。


「私より上手に船を操るひと」


固唾を飲んでいたみんなが一斉に、ないわーっとため息をついた。


「ルコス様より操船がうまい方なんているわけがないじゃないですか」


「ジーベリック司令ぐらいしか見たことがありませんよぉ」


「……兄とは結婚できない。兄だから。それに好みじゃない」


ルコスは無表情な眉をしかめ、ぱっぱと空間を払うしぐさをした。


「期待、うざい。私は自由人」


まるで飛んできた不快な投げキッスを払うようだった。女達は顔を見合わせた。この少女船長は天才ゆえに浮世離れしていて、理解をこえる行動をすることが多々ある。そしてルコスはみんなの反応には無頓着で、我が道を行くのだった。


「いつか白船にのった年下の王子様に出逢うと思う」


「白馬にのった王子様じゃなくてですか」


困惑する女達にうなずく。


「白船で正解。白馬は恋のライバルの父のほう。ヤツはいろんな意味での赤ちゃんライバル。私、負けない。姉さん女房は、金のわらじを履いてでもさがせ」


ふんすと鼻息を荒くするルコス。女達は呆気にとられ、やがて理解をあきらめた。まさかルコスがおそるべき女の勘で未来を言い当てていたなど思いもよらなかった。女の戦いの前哨戦がひそかに始まっていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



【海戦・スカーレット視点】


「……すまない。『赤シャチ号』を沈め損ねた。敵の艦隊司令がなかなかの人物でな。一騎打ちに興じるうちに時間切れになった」


もう「シャチ艦隊」の矢が届かないところまでブロンシュ号が離れ、ようやくお父様は油断なくかまえた棍をおろし、セラフィに謝罪した。セラフィが慌ててとりなす。


「なにをおっしゃいます。『紅の公爵』様のおかげで、無傷で目的を達せました。『シャチ艦隊』相手に奇跡です」


その目にはまぎれもない感謝があった。


実際お父様は「シャチ艦隊」の二隻を航行不能に追い込んだ。大戦果だ。


「いや、あとでよく考えたら、甲板から二メートル高い位置でメインマストを叩き切れば、妨害も受けなかったはずだ。艦隊の半分も沈められないとは、僕もまだ甘い」


なのに、お父様は絶賛反省中だ。天邪鬼である。愛馬ウラヌス号もつきあい、しょぼんと肩を落としている。


セラフィが困っている。ごめんね、セラフィ。


だいたい単騎で艦を沈める大前提ってのがそもそも狂ってる。赤い悪魔だ。お父様といるとおしとやか常識人の自分がバカらしくなる。でも、このお父様と何合も一騎打ちしたなんて、「108回」のジーベリックは名艦長として有名だったけど、剣のほうも達人だったんだ……。敵だったけど憎めない人物で、何度かピンチを見逃してもらったっけ……。


「あはは、赤ん坊なのに言葉を理解して、悪知恵働かし、殺人ルビーまで振り回すスカチビがおしとやか常識人? ないない」


爆笑するブラッドにいらついた私は、ミルク目つぶしを吹きかけてやった。


「ぎゃあっ!? きったねぇ!!」


ブラッドが悲鳴をあげる。おぼえたか。噴門が未発達な赤ん坊はすぐに胃の内容物を口内に戻せるのだ。毒霧ならぬミルク霧だ。愛用のメアリー母乳ではなく代替品のヤギミルクを飲まされ、私の胃は憤慨しているのだ。


「ううむ、じつに愉快な体験であった。マリオネット姫か。じつに面白いからくりだ」


マッツオが大声で航海長と笑いながら、のしのし甲板にあがってきた。蒼空に目を細め、やれやれと首と腰を大きくまわす。この気のいい巨漢にとって、船内は少し狭すぎた。移動は中腰だし、作業は猫背になっていたらしい。そうしないと頭のてっぺんが天井ですれて禿てしまう。ザビエルヘアスタイルのマッチョなんてメアリーが泣くぞ。将来プロポーズしようと跪いたとき、つるぴか光線がメアリーを襲うことになる。


「……ところで、エセルリードは無事にこちらに?」


マッツオは気遣わしげに尋ねる。


エセルリード救出作戦において、航海長とマッツオは、ブロンシュ号残留組だった。ブロンシュ号を、人力に代わってカラクリが動かす、通称〝マリオネット姫〟には、どうしてもこの二人が必要だったからだ。そして戦闘突入後は、艦内の〝マリオネット姫〟にかかりきりで、今ようやく戻ってこられた。だから、救出劇の顛末も知らない。


「……なんとか。しかし、いまだ昏睡から覚めません。だが、そのほうがエセルリードさんにとって幸せなのかも知れない。目を覚ませば、また復讐の炎に身を焦がすでしょう。あんなに仲睦まじかった二人なのに。悲しすぎます。たぶんもうボクを見ても誰かわからないでしょう」


セラフィはうつむいた。おさえた言葉だが、悲しみで唇が震えていた。立場上クールに見せているが人情に篤いのだ。セラフィは、エセルリードとも、亡くなったその恋人のマリーとも友人だった。


同様の関係だった航海長が嘆く。


「見ていて胸があったかくなるカップルでしたぜ。エセルリードさんは……シャイロックを出て、いつか自分達で店をもちたい、って嬉しそうに語っていたっけな……。大商会の御曹司が、誕生日にマリーさんから贈られた手縫いのハンカチをそりゃあ喜んで……。それが……。…マリーさんが殺されたことを知らせる手紙には、涙と血がにじんでやした。あの頃にはもう心は地獄にいたんでしょうな」

航海長の述懐に、さすがのお父様もしんみりと耳を傾けている。一歩間違えば、お父様もお母様を殺されていた。思うところがあるのだろう。


「亡き恋人のための復讐は、不毛とわかっていても止まれん。愛しい思い出が深ければ深いほど、炎になって身を駆り立てる。そして、復讐を遂げたあとは、心まで虚しさの灰になって朽ちていくのだ。なにも報われん。憐れだな」


今、エセルリードは客人用の部屋のベッドに鎖でくくりつけられている。まるで捕獲された獣だ。可哀そうだが、目覚めて狂気の力で暴れだすと、お父様、マッツオ、ブラッドの三人以外では取り押さえられないのだ。


「まずはアンブロシーヌに盛られた薬物を抜かないとな。そうすりゃ、ちょっとは正気を取り戻す。だけどな。オレも血流操作で手助けはするけど、かなり強烈な薬だから、おそろしく苦しむと思う」


ブラッドも暗鬱としている。


一定期間麻薬を絶ち、身体から影響が排出されるのを待つコールド・ターキーというヤツだ。発狂しそうな禁断症状が患者を襲うことになる。耐えきれず壊れてしまう人間だっているのだ。


胸が塞がる。正直、これ以上の苦痛をエセルリードに味あわせたくない。


私は間近で奴隷船のエセルリードと再会したときのことを思いだした。


あのとき、ブロンシュ号が焚いた煙幕にまぎれ、私達はブロンシュ号の舷側から奴隷船に飛び移った。エセルリードがぶらさがっている反対側からだ。


正直肝が冷えた。ブロンシュ号は次の手に繋げるため高速航行していたからだ。漂流している奴隷船横を通過し終わるまで十秒ぐらいしか余裕がなかった。帆船はロープと網が張り巡らされ、いたるところに障害物があるジャングルだ。想像してほしい。それらが、びゅんびゅんと殺人的な勢いで迫ってる様を。しかも甲板上は人でひしめき合い、足場は波でグラグラ揺れているのだ。


犠牲者が出るかとひやひやしたが、さすがにオランジュの連中は海のプロだった。鮮やかさを見せつけた。器用に安全な場所を選び、要所要所に見事に着地兼配置を決めた。くるっと空中で回転して減速する余裕あるヤツらまで結構いた。


セラフィは思いきった編成でチームを二分割した。お父様やセラフィをはじめ、オランジュ商会のほとんどの人間が、この奴隷船行きチームのほうに投入された。ブロンシュ号本体には最低限の人員しか残さなかった。九対一ぐらいの比率だ。なかば敵である奴隷船を短期間で制圧、乗っ取り、操船という難事を成し遂げるには、これ以外に方法がなかった。


そうそう最初にお父様がまず愛馬ごと、甲板の暴徒たちのまっただ中に飛びこんだんだった。絶対蹄で踏みつぶされた人間が出たと思ったが、奇跡的に誰も殺されていなかった。なんて無茶を、と私は悲鳴をあげたが、あとでお父様に聞くと「着地するとき人を踏み潰す? 僕もウラヌスもそこまで間抜けではないぞ。故意にやらない限り、そんなミスは犯さない」と笑っていた。


そんなこと出来るわけが……。もう、いいや。この英雄については深く考えまい。それにしても故意にやったことは何回かあるのか……。この妻ラブ星人、どんだけ殺人手段を会得してるんだろ。


「う、馬が空から……」


「……!?」


ありえない事態に暴徒たちも毒気と度肝を抜かれ、アホみたいにぽかんとなった。晴れときどきウマ。セラフィじゃないけど、海では不思議なことが起きるのである。


その心理的な隙を見逃さず、お父様は殺気をこめた棍を「……むんっ……!!」と虚空に一閃させた。轟ッと空気が鳴った。


「死を体感しろ」


白い刃のような衝撃が波紋となって走り抜けた。首から上が吹っ飛んでなくなったと錯覚した。思わず首をさする。


そして、そう感じたのは私だけではなかった。


「こええな。遠当てか。これだけの人数を素振り一発で気絶させるなんてな。やっぱ規格外だな。スカチビの親父さん」


私をおんぶしたブラッドが嬉しそうに笑う。


私達の眼下で暴徒たちが失神し、ばたばたとドミノの倒しで倒れ伏していくのが見えた。「108回」で死に慣れた私ほどの耐性は彼等にはなかったのだ。


セラフィやオランジュ商会のみんなも一瞬よろけたが気絶しなかった。苦笑して顔や首をさすっている者が多い。


なるほど今のお父様の技、肚が据わった人間には効果が薄いんだ。


とにかくまずは第一段階、暴徒鎮圧は完了だ。オランジュのみんなが消火活動や、奴隷船乗っ取りのために走る。


「負けてらんないな。オレたちも行くぜ。スカチビ」


ブラッドが声をかける。


「アオアオー!!」


私は風切り音に負けまいと声を張りあげた。


え、私達がどこにいるかわかりづらい?


甲板のみんなのずっと上空よ。ブラッドはブランシュ号から奴隷船に跳んだ時、みんなと違うルートを描いた。


「時間短縮するぞ」


そのまま甲板を大きく飛び越える軌跡を描き、奴隷船の反対側の舷側にぶら下がるエセルリードのもとに直行したのだ。


た、高い……!! こわい……!!

空と海が回る。海面のきらめきが眩しい。

それと対称的に、〝アギトの海域〟は白く不気味に泡立っている。


空の闖入者に海鳥たちが驚きの鳴き声をあげる。

ひゅうんっとスリリングな感覚が走り抜ける。

手足がじっとり汗ばむ。


波乱万丈だった「108回」の人生を振り返っても、こんなに海上高く舞い上がった経験はない。崖から突き落とされたことはあるけど……。この落差、甲板に叩きつけられたら即死だよ。というか、ブラッドめ。本当にエセルリードの真横を狙ったんだ。ぎりぎりの攻めでしょ。このルート。


放物線の頂点から自由落下になってすぐに頭が下を向いた。ブラッドが猫のように何度もまわり体勢を整える。なるほど、私をおんぶ紐で背中にくくるわけだ。こうなることを予測してたんだ。あほだけどブラッドは頼りになる。……待っててね、エセルリード。今すぐ助けに……。


「あれ? 風に流された? ジャンプしすぎたかな?」


「オアアアアッ!!」


なんですと!? 


私は頬を寄せかけたブラッドの背中を、憤慨してぽかぽか殴りつけた。


バカあああっ!! 不安げにぼそっと言うなあっ!! こんなの少し突入角度を間違えただけで、荒れ狂う〝アギトの海域〟にドボンよ!! 赤ちゃんのまま乙女の人生終わらせたくない。ヘルプ!! ヘルプミー!!


……え、ここで時間切れ? 

回想シーンなのに次回に持ち越しすんの!?

なんかその前によけいなシーンがあって、主役の私の出番が大幅に遅れた気がするんですけど……!!


「……女の戦いは、すでに始まっている。今回は私の勝ち。白船の王子様の唇は、私のもの。赤ちゃんは哺乳瓶がお似合い」


ちょっ、ちょっと!? なんなの、この子は!? 


お読みいただいてありがとうございます!!

むちゃくちゃな海戦バトルになりました。

反省です。

またよろしかったらお立ち寄りください!!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 毎回楽しく読ませて頂いてます。これからも頑張って下さい。 [気になる点] なんというか…無駄に長くなった上に区切り点が半端ですよね。個人的にはこれなら小分けにしてもらった方が理解されやすい…
[良い点] 最初の部分のコミカライズの紹介文めちゃくちゃ好きです……。やっぱりなまくら様の書かれる文章は最っ高ですね……!! 今回、セラフィやブラッド、スカーレット、エセルリード、マッツオ、ジーベッ…
[良い点] 紅の公爵の戦力がおかしい、単騎で船を堕とすとかバグってるのか!? それでもアリサやマザーには敵わないって… 恋愛(物理)って怖い 今回シャチ艦隊は変態公爵と破天荒船長のせいで噛ませ的な感…
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