公爵邸の四人の亡霊たちはアリサと対峙します。そして私達は〝アギトの海域〟をひた走るのです。
ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!
【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】3巻が8月5日発売しました!! 鳥生ちのり様作画!! KADOKAWAさまのFLОSコミックさまです!! 表紙はブラッドです!! かっこいい!! 1巻2巻ともども、どうぞよろしくお願いします!! ちなみに連載誌は電撃大王さまです。
また10月6日 11時より コミックウォーカー様やニコニコ静画様で、20話「生者と死者の魂の交錯するとき」①が公開予定です!!
真祖帝のルビーの力で大人の姿になったスカーレット!!
驚くブラッド。照れるセラフィ。
そしてルビーの輝きは、生者だけでなく死者の想いまで照らし出すのです。
死んだ者達がよみがえるとき、あなたは本当の人の世を知ることが出来る……。
ピクシブ様やピッコマ様で読める回もあります。もちろん電撃大王さまサイトでも。ありがたや、ありがたや。どうぞ、試し読みのほどを。他に公開してくださってるサイトがあればぜひぜひお教えください。ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「こいとうたたね」も少し読めます。応援よろしくです……!! そして、原作小説の【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻】はKADOKAWAエンターブレイン様より発売中です!!
闇が太陽の残光を追うようにたちこめる。
公爵邸の敷地のなかでも、この灌木の茂みは夜が来るのが一足早い。
四人の亡霊たちは早朝の井戸端会議のように、どこからともなく現れ、それぞれのお気に入りのねじくれた枯れ木に腰掛けた。
会話の口火を切ったのは、まとめ役の山高帽ののっぽの亡霊だった。
「……まずは公爵邸の皆が生き残ったようでなによりだ。あの魔犬は世の理をこえた不死身の怪物だった。死者が出なかったのは奇跡といえよう」
鬼火のサイコロふたつをくるくる指先でまわし、宙で停止させ、目をのぞきこむ。
「特に公爵夫人。本来は死す運命にあったはずだが……やはり真祖帝のルビーは、運命の轍を飛び越える力を秘めているのか。さて、各々がたの賭けの結果は?」
しきりに感心しているのっぽに嚙みついたのが、瘦せこけた女幽霊だった。
「真祖帝のルビーなんぞ知ったこっちゃないね。あんなもん言葉にもしたくない」
感情もあらわに吐き捨てる。
「コーネリアは娘を助けよう頑張っただけさ。母親なら奇跡のひとつやふたつ起こして不思議があるもんか。ましてコーネリアは私のライバルだったあの子に生き写しなんだから。くだらない劣等感に足を取られなきゃ、赤の貴族のいじめなんかでへこたれてた女じゃないのさ」
その青白い表情には誇らしげな色が浮かんでいた。でぶの幽霊が面白そうに鼻を鳴らす。
「ぶふふっ、姐さんは嫁入りのときから公爵夫人びいきだもんなあ。おいらは会ったことがないけど、メルヴィル家の開祖にそんなに似てるのかい」
この体積で枯れ木にあぐらをかいたら、たちどころに幹ごと折れそうだが、そこは摩訶不思議な亡霊だけあって、しなるだけで済んでいる。しかし、他の亡霊と違い、座った箇所がめきめき軋んでいるのが妙にユーモラスだった。腕組みをした武人の亡霊がうなずく。
「開祖と公爵夫人は姿も腕前も瓜二つだ。だが、長い年月のあいだに弓の秘伝がいくつか途絶えたな。いくらメルヴィルの血筋とはいえ、歴代の継承者全員が開祖並みの才能があったわけではない。……もし公爵夫人がすべてを習得していたら、王家親衛隊到着前に魔犬ガルムを葬れたろう」
女幽霊は悔しそうに唇を噛みしめた。
「もったいないねえ。見ていていらいらしたよ。コーネリアなら絶対に習得できたはずさ。あたしだって、失われた技の真似事なら再現してやれるんだ。コーネリアがあたしの姿が見えさえすればねえ」
存在を主張しだした青い月を仰ぎ、女亡霊はつぶやく。
「胸糞悪い真祖帝のルビーは、無限に敵を呼び寄せる。このままだとコーネリアは娘のスカーレットをかばっていつか死ぬことになるよ……。まして、ヒペリカムの呪われた王家の財宝になんぞ関わっちまってさ。不吉な予感が止まりゃしない」
でぶの幽霊がぶたのようにぴぎいっと喚いた。
「ヒペリカムの血塗られた財宝!? ぶひゃあ、探し求めた奴は、まずまともには死ねないね」
武人の幽霊が太い眉をしかめる。
「一部がシャイロックの資金源になったあれか。たしかに今シャイロックは滅ぼうとしている。真祖帝のルビーといい、スカーレット姫はよくよく呪いと縁があると見える。かつての我が主に酷似した彼女には、なるべく幸せを掴んでほしいものだが……」
苦悩する女の亡霊と武人の亡霊を見て、のっぽの亡霊は山高帽の隙間からいにしえのカードを取り出し、占いをはじめた。
「くく、亡霊に肩入れされることこそがすでに生者にとっては不吉。だが、私もあの公爵一家の行く末におおいに興味をそそられた。ここはひとつ、女の勘に敬意をはらい、まずはコーネリアに立ち塞がる者を占ってみようか」
そう言って長い指先でぴんっと二枚のカードをはじきだした。ふむ、と覗きこんだ顔色が曇る。
「……これは大凶。竜と女帝。容易ならぬ札だ。それが二枚揃うとは、いったいどういう意味……ぬおっ!?」
のっぽの亡霊がカードを放り出して空中に飛び退いた。一拍おくれ、カードはまっしろな火花を噴き上げて四散した。
突然の稲光があたりを染めあげる。
四人の亡霊は瞬時に臨戦態勢に入った。普段のほほんとしているでぶの亡霊まで形相が変わっていた。一斉に一点に向け殺気を叩きつける。
「あはっ、楽しそうな宴だから、私も参加させてもらおうかしら。ふふ、殺気を隠れ蓑にし、死角からの一斉攻撃。これは〝鬼弾〟? あの女に比べれば劣るけれど、前菜としてはまあ合格というところかしら」
金髪を雷光になびかせ、成人したドレス姿のアリサが、三日月より鋭い笑みを浮かべ、彼らの目の前に立っていた。
「挨拶がわりに私も力の一端を見せてあげる」
アリサはスカートの両端をつまみ、優雅に一礼し、華麗にターンした。アリサの周囲でぐにゃっと景色がゆがむ。ぱぱんっと甲高い衝撃音を発し、亡霊たちの見えない攻撃がはじけとんだ。
「ふふ、今夜はダンスするのに素敵な夜ね。私の真髄は〝狂〟。触れたものすべてを歪め、ねじ曲げるわ。たとえ〝鬼弾〟だろうと例外ではない」
「我等四人の〝鬼弾〟を手も触れずして……」
山高帽ののっぽの亡霊が驚きに唸り、ばっと両手を広げた。その背後に無数の鬼火が発生し、渦を巻く。
「なにをしに来た。女帝のさだめの者よ。生と死のはざまは我らが領域。伊達に数百年も留まってはおらぬ。たとえ貴様といえど、踏みこんでただで帰れるとは思わぬことだ。幾星霜磨きあげた妙技、思い知るがいい」
アリサは口に手をあて、声をたててころころと笑った。
「……あははっ、狂言まわしが余計な色気を出すものじゃないわ。迂闊な動きをすれば、あなた達もよく知っているあの女に勘づかれるわよ。その感覚の網は大陸中に張り巡らされているわ。だから、最初のは警告。感謝なさい。……あの女は確実にコーネリアの鬼門になるわ。あれだけ夫に愛されたコーネリアを、あの狂える竜が見逃すはずがない」
やせた女幽霊が息をのんだ。
「……竜……そんな馬鹿な。あの女が……アンジェラがまだ生きてるってのかい。あれから、いったい何年の歳月がたったと……」
「ふん、忌々しいことにまだ老いもせず好き勝手に生きてるわ。たわむれに聖女をやったり、〝マザー〟を名乗って占い師を気取ったりしながらね。もっとも聖女時代の最後にやらかして、大陸全土に認識阻害の結界を張る羽目になったから、全盛期よりだいぶ力は抑えられているけど。それでも人間が戦っていい相手ではないわ」
アリサの言葉に武人の亡霊が沈痛な面持ちをあげた。
「……そなたならアンジェラを抑えられるというのか。引き換えに何を望む。女帝よ」
アリサはにたりと嬉しそうに笑った。
「あはっ、さすが〈治外の民〉の初代の長の弟ね。鬼人と呼ばれただけのことはあるわ。話が早いのは歓迎よ。スカーレットは真祖帝のルビーの力を引き出しつつある。いずれあなた達とも会話できるでしょう。そのとき私と〝マザー〟のことを彼女に話さないでほしいの」
「冗談をお言いでないよ。アンジェラは真祖帝を……あのお姫さまを殺したいほど恨んでいた。あの姫さんに姿がそっくりで、しかもルビーの後継者になったスカーレットを放置するはずがないんだよ。あんたの真意だって読めやしない。あたしはこの取引きにゃ反対だね」
気色ばむ女亡霊を説得したのは意外なことにでぶの亡霊だった。
「姐さん。このおっかない女の子は嘘は言ってないよ。おいらの鼻と耳は誤魔化されない。もしかしたら、その気になれば欺くことも出来るんだろうけど……わざと情報を開示しているみたいだ」
その言葉にアリサは感謝の一礼をし、でぶの幽霊はおおいに照れた。
「ちっ、死後何百年たっても、男ってやつは美人に弱いんだから」
女幽霊は悪態をついたが一応は納得したようだった。
「礼を言うわ。もしスカーレットが自分の正体に気づいたと知れば、あの女は必ず実力行使に出てくる。スカーレットを何も知らないお嬢さんと侮らせておいたほうが安全なのよ。まだ彼女も、その守護の星たちも成長途中だわ。いつか私のライバルとしてふさわしい力をつけるその日までは……」
アリサは星空を見上げ目を細め、スカートの裾を華麗に翻した。
「もう帰るのか?」
武人の幽霊に不思議そうに問いかけられ、アリサは背を向けたまま苦笑した。
「そんなに私が殺し合いが大好きに見えるのかしら。今夜はただお話をしに来ただけよ。こう見えてもスカーレットと同い年の新生児なの。この姿を維持するのはとても疲れるわ。それにまだやることが他にあるの」
「それはいったい?」
今度は山高帽の幽霊が問いかける。
「あはっ、好奇心いっぱいなんて、本当に人間くさい亡霊たちだこと。いいわ。歓談の場を騒がしたお詫びに教えてあげる。ヒペリカムの呪われた王家の財宝……いえ、のちにシャイロックの遺産と呼ばれるようになるわね。その鍵を握ったエセルリードが、死の危険にさらされているの。飢えた味方は敵より危険だと気づかないなんて、鬼と化してもまだ甘いわ。まして目的のために幼き者達を見捨てられないようではね。でもね。彼がここで海の藻屑になればスカーレットの運命が閉じるわ。それは私の望むところではないの」
呆気に取られている亡霊たちを置き去りに、歩み去りながらアリサが嗤う。
「アンジェラを知っているあなた達ならわかるでしょう。予知の力、私も持っているのよ。人生がつまらなくなるから、あの女と違い乱用はしないけどね」
四人の亡霊たちの顔に、鉄槌で殴られたような衝撃が広がった。
アリサはもう話すことはすべてないというふうに、前を向いて足を速めた。
「……海といえば、七妖衆、誘惑のゴルゴナの独壇場だけど、あの子は困った性癖があるから、きつく釘を刺しておかなければね……」
珍しく小さく嘆息すると、アリサの姿は深まる闇にのまれて消えた。探知能力にすぐれた四人の亡霊たちでさえ、どうやって移動したのかまったく捉えられなかった。
「……あの才能に予知能力もちか。強さの底がまるで見えん化物だ。スカーレット姫もとんだ相手にライバルと見込まれたものだ。前途は多難だな。今はとりあえず敵にまわる気がないらしいのがせめてもの救いか……。それでも厳しい。あまりにも……」
そして武人の幽霊は厳しい面もちで夜空を見た。そのまなざしは遥か遠くに向けられている。
「若き狼よ。心せよ。時間がないぞ。急ぎおのれを磨け。俺のように大切な者を守れず、絶望のうちに人生を終える敗北者にはなってくれるなよ」
武人の亡霊は沈鬱に呟いた。そのまなじりに光るものがあるのに気づき、でぶの幽霊がおいおい泣き出した。
「ぶひっ、またあの子を思いだしたのかい。あの子の死はあんたの責任じゃないよ。あれは誰にもどうしようもなかったんだ。だけど、おいらまで悲しくなってきたよ……」
あーっと叫びながら、女幽霊が髪をかきむしる。
「ちくしょう。めそめそと余計なことを思い出させて!! この弱虫どもが!! どうしてくれるんだい!! おかげで死んじまったはずの心臓が張り裂けそうに痛いじゃないか!! あの子はあんな死に方をしていい子じゃなかった。こんなあたしにもいつも優しく笑いかけてくれたんだ。なのに真祖帝なんて似合わないことしてさ。そのあげく……!! なにが真祖帝のルビーだ!! なにが……!! あんなものさえなければ……」
顔をおおって泣き崩れる女幽霊の肩を、のっぽの幽霊はそっと抱き寄せた。
「なんだい。どうせ似合わないことをすると馬鹿にして……」
のっぽの幽霊は横にかぶりを振った。
「我等は亡霊。無責任な夜の住人。傍観者にして道化者。だが、ときには亡き友を静かに偲ぶ夜があってもよかろう」
すっと山高帽のつばを下げ、目元を隠す。
「……神はパンドラの箱に、無数の絶望とひとつの希望を用意したという。我等はあのルビーこそがそのパンドラの箱だと……最後の神の恩寵だと無邪気に信じた。だが、その希望こそが絶望をひかせるための罠だった……」
芝居がかった態度をぬぐい去り、のっぽの幽霊は無念に歯軋りした。
「私とてあんな気持ちはもう御免蒙る。何度やり直せたらと願ったことか」
そして、のっぽの幽霊は女幽霊の耳元にささやいた。
「……憎まれ口で優しさを隠す愛しの君よ。風にまぎれた亡霊のたわごとと聞き流してほしい。失った大事な人達の面影を宿した彼女らが、今、我等の前に現れたこと。これはきっと偶然ではない。これは我等に与えられた贖罪の機会だ。やり直せる。我々は幾百年を経てあやまちを正せるのだ。そのために人外になってまで留まり続けた。そう信じよう」
嗚咽する女幽霊の背を優しく撫で、のっぽの幽霊は語りかけた。武人の幽霊はマントを風にはためかせうなずき、でぶの幽霊は泣きべそで膝を抱えた。
風が強さを増し、ゆがんだ樹々が木の葉をまき散らしきいきいと泣き叫ぶ。まるで亡霊たちの嘆きのように。
夜のとばりが深くなるなか、風は物悲しい笛の音のように、びゅうびゅうと公爵邸の庭園を吹き抜けていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
〝アギトの海域〟。
海の難所として近隣に名を轟かすその歴史は、地殻変動により巨大な島が海中に没したことにはじまった。かつての立ち並ぶ奇岩の景観は、今は魚たちの絶好の隠れ家と住処になり、海の生物たちの天国となった。だが、船乗りたちには地獄だ。
岩のあいだを走り抜ける海流は速く複雑怪奇で、すぐに変化し、予想もできない動きで船を翻弄する。突然に渦が発生し、あるいは海流同士がぶつかり、巨大な三角波がそそりたったりする。その異常な光景はまるで海中に見えない怪物でも蠢いているように見える。
さらにいたるところに岩礁がひそみ、餌になる魚を狙い、鮫までうようよしている。なかには小舟など体当たりでひっくり返す奴までいる。それでも豊かな漁場にひかれ、漁師はやってくるが、彼らも〝アギトの海域〟の縁以上には進まない。それでも事故は頻発する。
大型船なら安全かというとそうでもない。
帆船は方向を大きく変えるのに、重たいヤードをあげ、まわし、帆を張り、あるいは畳む必要がある。いずれも数十人がかりの大作業で当然時間もかかるのだ。特に大型帆船ほどそうだ。一分もたたず海流が激変するこの海ではとても対応が追いつかない。まごまごしているとあっという間に座礁するか、あるいは船底を岩で突き破られる。
〝アギトの海域〟のまっただなかに突っ込むなど、どの種類の船にとっても自殺行為なのだ。
だから、ベテランの船乗りほど、〝アギトの海域〟を高速航行する大帆船がいると聞くと、与太話と笑いとばす。しかし、その白い船の名と船員たちの属する商会の名を知ると、ううむと唸り、彼らならばと感嘆の呻きを漏らすのだ。
その世界最速の帆船の名はブロンシュ号。
操るは会頭セラフィを筆頭にしたオランジュ商会のつわもの達。
その船足は嵐でさえ止めることができない。他の船が木の葉のようにきりきり舞いする雷雨と豪風のなか、白いセントエルモの火を帆とマストに宿し、悠然と突き進むその姿は、格の違いを見せつける美しさだ。ゆえに船乗りたちは敬意をこめ、その船をこう呼ぶのだ。白い貴婦人と。
今、白い貴婦人は、奴隷船にのせられたエセルリードに救わんと総帆あげて疾駆し、〝アギトの海域〟突破寸前まで迫っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
みなさん、ごきげんよう!!
私、スカーレット・ルビー・ノエル・リンガード。ぴちぴち新生児の公爵令嬢です。海上で優雅なバカンスを満喫中。蒼い空。流れる白い雲。きらめく海面。舷側で跳ねる魚たちの銀の輝き。それに負けじと光る真珠色の私の……うえええっ、げぼおっ……!!
「うわ、汚いな。またスカチビが吐いた」
船べりの手すりの上にしゃがんで座ったブラッドが、げんなりした顔と声で言った。
しょうがないじゃない。赤ちゃんは噴門が未発達で吐きやすいんだから。
ブラッドは両腕をめいっぱい伸ばして、掴んだ私をぶんぶん振った。おまるに入った汚水の雫をきっているような扱いだ。絶対に我が吐瀉物を浴びたくないという鋼の意志を感じる。断じてレディにとっていい態度ではない。
おかげさまで私は足元に青海原しか広がらない絶景を堪能することができた。アイムフライング状態である。
……ちょっと!! 今、海面に三角の背びれがいくつも見えたんだけど!! 私の吐瀉物の匂いを嗅ぎつけて鮫が寄ってきてるよ!!
どぱあんっと水しぶきをあげ、一尾の鮫が私めがけて跳躍してきた。ブラッドがすっと私を引き戻した。がちいんっと牙のぶつかる音がし、やりそこなった鮫は私が寸前までいた空間を通過した。
さあっと目の前が暗くなる。大きい。五メートルはある。貪欲で冷たい金壺眼と目があい、背筋が寒くなった。嗤っているような鮫の歯列が再び大きく開く。
「……バーカ。こいつはおまえなんかに噛み砕けるタマじゃないぜ。とっとと海に戻りな」
言うが早いか、ブラッドは片手で無造作に鮫の腹を殴りつけた。
たいして力をこめているように見えなかったのに、鮫の巨体がもんどりうって後方にすっ飛んでいく。船が速いせいもあり、笑えるくらいの飛びっぷりだった。
「知ってるか? 鮫って頭以外は案外もろいんだぜ」
そういう問題かな? サメ肌ってけっこう丈夫なんだけど。あんた、魔犬ガルムと一戦やらかしてから、どんどん人間離れしてない?
「さて、もう出きったかな。今のでびびって、違うのちびってるかもしれないけど」
「オアッ!?」
ブラッドが私を抱き寄せ、手すりからふわりと甲板に飛び降りる。
失礼千万なヤツめ!! 許すまじ!!
私は腹立ちまぎれに、身をねじり、こっそり奴のメイド服のエプロンで口元を拭おうとした。
「甘いよ」
メイド野郎はスカートの裾を腿までまくって回避しやがり、片手で私を吊るしあげ、にかっと笑った。私は猛抗議した。
「そんな破廉恥な真似するな? 女の風上にも置けないだって? いいんだよ。オレは男だから、スカートまくろうが下着が見えようがさ。ぶえっ!?」
ゼロ距離で私のツバ攻撃をくらい、得意満面のブラッドは悲鳴をあげた。
おぼえたか!! 油断大敵!! 山椒は小粒でもぴりりと辛いのよ!!
「おまえなあ!! ほんとに公爵令嬢か!?」
「オアアアア!! オアアアアッ!! (いいのよ!! 私は公爵令嬢の前に赤ちゃんなんだから!! 吐いたり出したり当たり前!!)」
「……がっはっは。あいかわらず仲がいいですな」
波音に囲まれてもよく聞こえる大声で豪快に笑いながら、マッツオが私達のところにずしんずしんと歩いてきた。国王陛下が気を遣い、私達の助っ人として同行させてくれたのだ。甲板の船員たちが次々に親し気に挨拶をし、マッツオは明るい笑顔で応えている。一人で重たいヤードを動かしたり、巻きあげ機で錨をあげたりしたマッツオは、初日で船乗りたちのハートをがっちり摑んだのだった。特に激烈に反応したのが航海長だった。
「……こいつはすげぇな……!! 会頭!! バレンタイン卿なら、お蔵入りしてるブロンシュ号のあのカラクリを動かせるんじゃねぇですかい」
興奮気味にセラフィに提案すると、その場にいたオランジュ商会の皆が大きくどよめいた。
セラフィもうなずいた。
「可能性は高いな。よし、海は何が起きても不思議じゃない。〝アギトの海域〟に突入するしな。念のために、いつでも稼働できるよう調整しておいてくれ。バレンタイン卿、いざというときはお力添えをお願いできますか」
「よくはわからぬが、某に出来ることなら喜んで手を貸そう。我等はいわば戦友。遠慮など不要だ」
大目玉をむき人懐っこい笑みを浮かべるマッツオに、セラフィと航海長は相好を崩した。
「嬉しいことを言ってくださる。承知しやした。お寝んねしすぎで、少々錆びついてるかもしれやせんが、叩き起こして来やす。腕が鳴りますぜ」
航海長は嬉しそうにふっ飛んでいった。
「さあ、お目覚めの時間だぜ。眠り姫」と気合の入った叫びがし、がきんがきんと騒騒しい音が甲板下で響きだした。あれって、開かずの部屋があったあたりだよね。
世界最速の帆船の奥の手か……気になる……。
私の視線に気づき、セラフィは茶目っ気たっぷりにウインクした。
「まだ内緒にしときます。あとのお楽しみということで。実際に動いているのを見たほうが、きっと驚きますよ」
真面目な彼にしては珍しい行動だ。それだけそのカラクリに自信があるのだろう。
……お金儲けの匂いがする……。
結局、航海長の調整を待たず、もう〝アギトの海域〟を抜けちゃいそうなんだけどさ。
そのカラクリとやらに手古摺ってるのもあるけど、セラフィ自らが指揮を取ったときのブロンシュ号は速すぎるんだ。普通の帆船が定路をいく倍以上のスピードで、この危険な海域を突っ走っていく。岩礁だらけの場所で正気の沙汰じゃない。並みの帆船なら五分と待たず沈没する危険走行だ。
だけど、セラフィには海底の地形が手に取るようにわかるらしい。それだけじゃない。次にくる海流や風をあらかじめ読み、それにあわせるように矢継ぎ早に船員たちに指示を飛ばしていく。だから、これ以上はないという形で、帆を張るタイミングや向き変えがぴたりと合うんだ。まるでチェスでも見ているようだ。
オランジュ商会の面々もセラフィを信じ、迷うことなくそれぞれの務めを全うする。この一心同体の連携が、ブロンシュ号を一個の巨大な生き物のように滑らかに動かすんだ。
……だけど……ひとこと言わせて。
本気になったセラフィが指揮するブロンシュ号の乗り心地は最悪なんだよ……!!
ものが安定するには他からの影響を受けないのが一番だ。だけど、帆船は風の力を受けて動くことが前提だ。風を、船体より高いマストに帆をいっぱい張って、できるだけ受け止めようとする。ものすごい不安定なんだ。だから船体はしょっちゅう傾くし、キールで支え、舵で微調整しないとまっすぐに進むことさえ出来やしない。
なのに本気セラフィは船のスペックを限界まで引き出そうとする。結果、ボールを甲板に転がすと、ピンボールみたいに吹っ飛びまわるひどいことになる。
たとえば猫が全力で動くとき、身体についてるノミのことなんか気にしないだろう。セラフィにとっては船が猫なんだ。私達はノミ……。
おかげで私は船酔いしっぱなしである。
三半規管が人間離れしているブラッドが羨ましい。
私を悩ます原因がもうひとつある。
パカランバカランと蹄鉄音を軽快に響かせ、白馬と紅い服の貴公子がやってくる。
言わずと知れたお父様だ。
ブロンシュ号の甲板をお散歩中である。
「ふむ、揺れる船というのも、ウラヌスとのいい訓練になるな」
上機嫌である。さっきは射かけられた矢を撃ち落とす練習だと言って、手すりの上を馬で歩きまわっていた。そのうちサーカスからスカウトされるかもしれない。人も馬も化物である。
こんな困った英雄置いていきたかったが、
「……スカーレット、よく聞いて。ヴェンデルが残ると、アンブロシーヌさんを必ず殺すわ」
とお母様に警告されては、連れてこないわけにはいかなかった。
実際、お父様は醜態をさらして気絶しているアンブロシーヌの脳天を再度叩き割ろうとしたのだ。
「デクスターがいるなら、こいつはもう必要なかろう。悪事の生き証人はひとりで十分だ」
どうあっても理由をつけて殺したいらしい。
「……エセルリードに使った麻薬の解毒薬は、アンブロシーヌにしか作れません!! お願いです!! どうか命だけは……!!」
デクスターが、アンブロシーヌに覆いかぶさるようにして泣き叫んだその言葉がなければ、アンブロシーヌは脳漿をまき散らし、鼻の骨を頭蓋骨にめり込ませて即死したろう。
お父様は一度迷い、棍を止め、それからもう一度振りあげた。だが、私と偶然目があうと、ふうっとため息をつき、棍をおろした。
「……娘の前で……か」
えっ。もしかして、さっきブラッドが言った「娘の前でぽんぽん人を殺すんじゃねえよ」って言葉、ずっと気にしてたの?
「……エセルリードが生きていることを祈るんだな。そして、我が妻コーネリアに感謝しろ。優しい彼女は自分の復讐のために人を殺すなど望むまい。たとえ彼女の尊厳をおとしめ、あまつさえ毒殺しようとした貴様らのような悪党でもだ。よく胸に刻め。もし、コーネリアが死んでいたら、おまえらをひき肉になるまで潰してやった」
お父様は、地に額をこすりつけて感謝するデクスターに冷たく言い放ち、愛馬の手綱をひいてその場を後にした。
……その後、アンブロシーヌとデクスターは、政治犯用の監獄に送られた。
通称監獄島。
絶壁だらけの小島の岩肌をくりぬいてつくった元要塞だ。流れの速い海峡のど真ん中に、ぽつんと立っている。〝アギトの海域〟並みに危険な海で、満ち潮のわずかな一時だけしか、私船を本土とやりとりできない。シャイロック商会がふたりを助けようとしても、あそこには手が出せない。牢のなかは海水で湿っており、ネズミと得体のしれない船虫が常時這いずり回る。油断して寝ていると、死んだかと勘違いし、身体を齧りにくるのだ。贅沢暮らしをしていたアンブロシーヌが金切り声をあげ、もう一度気絶するかもしれない。
……なんで詳しいかって? 「108回」の女王時代、私はとらえられ、何度か閉じ込められた経験があるからよ。そんなに長居はしなかったけど。だって、たいてい毒殺されるか、すぐに引き出され裁判すっとばして処刑されたもん。
まあ、いずれにしてもお父様もこれで納得するだろうと安心していたら……甘かった。
紛争地帯の海外領暮らしが長いお父様は、武器商人や酒保商人たちと面識があり、その経由でとんでもなく強力な自白剤を入手していたのだ。使った相手が後遺症で廃人になる代物だ。私が留守中に、アンブロシーヌからエセルリードの処方箋を無理やり聞き出し、そのあと始末する気満々なのは明らかだった。
私はため息とともに、お父様をブロンシュ号に連行するしかなかった。
ごめんね、セラフィ。馬つきでこんなイカれた公爵を乗船させて……。
「……奴隷船が見えたぞおおおっ!! 火災を起こしてる!!」
マストの物見台に登っていた見張りの怒鳴り声で、私達はぎょっとし、手すりに一斉に駆け寄り、その方向を凝視した。
まず最初に煙が見えてきた。それから炎の赤色。
「……まずい。〝アギトの海域〟に入りこんでますね。漂流している。なにかあったんだ」
駆けつけてきたセラフィが唸り、船乗りたちに激をとばした。
「接舷戦闘用意!! 急がないと奴隷船が沈没するぞ!!」
帆船で一番おそろしいのは火災だ。帆や木、燃えるものには事欠かないし、水除けでロープや板の隙間にはタールや樹脂が詰められている。引火すれば驚くほどの早さで燃え広がるのだ。しかも、〝アギトの海域〟を漂流中だ。操る者がいなくては、奴隷船などあっという間に座礁するか、沈没してしまう。
すぐさま携行用の刀や武器を装備した連中が、わらわらと集まってきて、甲板の上に張られた矢よけの金網の下に身をひそめ、突入の機会をうかがう。その手際の良さに、歴戦のお父様とマッツオが感心する。
そうこうしている間にも、がんごんっと鈍い音がし、奴隷船が大きく揺れた。船底を岩礁でこすったんだ。たしかに時間がなさそうだ。
だが、迫る危機はそれだけでは済まなかった。
「……船団、急速接近中!! 五隻!! あの旗は……チューベロッサの『シャチ艦隊』だ!!」
見張り役の叫びは悲鳴に近かった。
〝アギトの海域〟を高速航行するあいだも余裕しゃくしゃくだったオランジュ商会の連中からはじめて笑みが消えた。
蒼白になったのは彼らだけではない。私もだ。
「108回」の令嬢時代、私を追いつめたその艦隊を忘れるわけがない。私が知る限り、ブロンシュ号に比肩しうる唯一の連中。海に覇をとなえる海洋国家チューベロッサのトップエリート集団。よりにもよって、なんであいつらがここに……!?
お読みいただきありがとうございました!!
もっと進めるつもりだったのに、いろいろあって時間が……!!
よろしければ、また次回もお立ち寄りください!!




