なんてちっぽけで、そして、なんてしあわせな夢
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【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】3巻が8月5日発売です!! 鳥生ちのり様作画!! KADOKAWAさまのFLОSコミックさまです!! 表紙はブラッドです!! かっこいい!! 1巻2巻ともども、どうぞよろしくお願いします!! ちなみに連載誌は電撃大王さまです。
またコミックウォーカー様やニコニコ静画様で、18話①が無料公開されます!!
8月4日11時公開の予定です。
垣間見える「真の歴史」!! 大人ブラッドと大人セラフィも必見です!! そして赤ちゃんスカーレットの純潔(笑)の行方は!? 今、恋愛突撃隊長メアリーの怒りが炸裂する!! ……今回の無料公開、そこまで行かなかったらごめんなさい。
コミカライズ「108回」ですが、ピクシブ様やピッコマ様で読める回もあります。もちろん電撃大王さまサイトでも。ありがたや、ありがたや。どうぞ、試し読みのほどを。他に公開してくださってるサイトがあればぜひぜひお教えください。ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「こいとうたたね」も少し読めます。応援よろしくです……!! 原作小説の【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻】はKADOKAWAエンターブレイン様より発売中です。
ぐったりしたローゼンタール伯爵夫人を、アリサは腕をまわして支えた。抱擁とはお世辞にも言えない。もっと酷いものだ。伯爵夫人の背からは貫いたアリサの手が生えている。だが、ローゼンタール伯爵夫人は会心の笑みを浮かべ、さっきまで凍りつくようだったアリサの蒼い瞳はおだやかだった。
「……いのちを燃やしきった人間の笑顔は、いつも私の心をうつ。残念だわ。今のあなたなら、王太后……おばあ様と共に歩めたかもしれないのに。私がこの手を引き抜けば、あなたは死ぬわ。せめて苦痛だけはやわらげてあげる。恨みがあるなら今のうちにぶつけるがいいわ」
そう囁くアリサを、ローゼンタール伯爵夫人は恨む気にはなれなかった。ソロモンから〝魔眼〟を授かったときから死は覚悟していたし、むしろ数分後には尽きていた寿命と引き換えに、コーネリアに手出しはしないとアリサに約束させられた事に感謝した。
アリサの仕業であろうか、痛みも出血も今は止まっている。〝魔眼〟の副作用のときの苦しみよりはるかに楽なぐらいだ。晴々とした気持ちのまま、ローゼンタール伯爵夫人は、疑問を自然と口にしていた。
「王太后様をおばあ様と呼ぶ……あなたは、やっぱり……」
のしあがるために賢妃と名高かった当時の王妃……今の王太后を隠遁生活に追いこんだことは、ローゼンタール伯爵夫人の心に抜けない棘となって刺さっていた。どんなに謝っても謝りきれない。その血をひくのならば、アリサに殺されるのは本望だと思った。
アリサはローゼンタール伯爵夫人の身体から手を引き抜きうなずいた。痛みはなかった。
「ええ、私は王太后の孫よ。そういえば『108回』で私の出自を途中まで語ったことがあったわね。血の惨劇の咎で処刑された現国王の弟。あの人が私の父親よ」
あっさり出自を認めたアリサに、ローゼンタール伯爵夫人は息をのんだ。そうではないかと思っていたが、当事者の口からあらためて語られると衝撃だった。道理でマーガレット王女とアリサはどことなく似ているわけだ。
血の惨劇とは、二十年以上前に起きた、ハイドランジア王家最大のタブーと呼ばれる事件だ。口さがない赤の貴族達でさえ、公の場では語るのに躊躇する。あまりに犠牲者が多すぎ、どこに血縁者がいるかわからないからだ。
……もともとハイドランジア国王を継ぐといわれていたのは、現国王ではなく、傑物だったその弟、アルフレド王子だった。だが、その王子は、聖教会の当時の聖女アンジェラとの許されぬ恋におちた。悲劇はそこからはじまった。
この恋を認めると、世界最大の宗教組織の象徴を王妃にした王が誕生することになる。大陸中に根をはった組織を傘下にする脅威の王国としてだ。ハイドランジアをのぞく五大国すべてがこぞって結婚に反対した。聖女が俗世に嫁ぐことを嫌う聖教会。聖教会が自分達のトップにくることを危惧する国内貴族。周囲に及ぼす影響が大きすぎるこの恋は、凄まじい反発と謀略を生んだ。大陸すべてを巻きこんだ大戦の一歩手前までいったのだ。世を乱した責任を問われ、アルフレド王子は日増しに憔悴していった。
結果、追いこまれてついに気が狂ったアルフレド王子は、反対派の王族や貴族達、教会関係者たちを密室で切り殺した。それが血の惨劇……。聖女は今も行方不明だ。その犠牲者はゆうに三百人をこえた。おびただしい流血は床や壁、天井まで飛び散り、どんなにこすっても赤黒く染みつき、取り除けなかった。殺人現場になった屋敷は廃棄された。
その残虐性と犠牲者の多さ、さらに他国の大貴族達も含まれていた大事件のため、誰もかばいようがなく、アルフレド王子は即刻絞首刑に処された。だが、桁外れの犠牲者数と手際の良さから、単体ではなく複数犯行説、また玉座につきたかった現国王の黒幕説など、さまざまな憶測が囁かれることとなった。そのなかでもとびきりに奇怪な噂が……。
「あはっ、よりにもよって一番荒唐無稽なものが真実なんて笑えるわ。教えてあげる事はたくさんあるの。ループの秘密も含めてね。でも、あなたには時間が残されていないわね。……いいわ。私の記憶を直接読むがいい。あなたの〝魔眼〟のリミッターをはずすわ」
おそろしいほどの寛大さを示したあと、アリサは少しだけ嫌そうな顔をした。
「……ソロモンめ、まさかここまで読んでいた? ふん、かまわない。〝魔眼〟を通して私のことを探りたければ、好きにすればいい。思惑にのってあげるわ」
ローゼンタール伯爵夫人に〝魔眼〟を授けたのはソロモンだ。その情報を共有している可能性は十分にある。だが、アリサはすぐに気を取り直すと、すっとローゼンタール伯爵夫人の頬にキスをした。
「……!!」
気を抜くと魂ごと吹き飛ばされるほどの情報が一気になだれこみ、ローゼンタール伯爵夫人は卒倒しそうになった。アリサが支えてくれているのも気づかず、息をするのも死に瀕しているのも忘れ、ただただ広がる物語に圧倒された。
幽閉された身元不明の鉄仮面。
信じがたいアリサの生みの母。
それゆえの王太后の寵愛。
アリサの出生の秘密も驚愕ものだったが、それ以上に驚天動地だったのが、
「あなたは……世界の歴史を、何度もループさせていた……」
思わず呻いたローゼンタール伯爵夫人に、アリサは悪びれもせずに嗤った。
「あはっ、そうよ。今回で109回目の繰り返しよ。私を殺さない限り、悲劇は繰り返され、世界は前に進めない。私は血の惨劇を胎盤にし、死人のはずの両親から生まれた魔女。何度でも人の運命を弄ぶわ」
「人の運命を……」
凍りつくローゼンタール伯爵夫人にアリサは笑い声をたてた。
「安心なさい。あなたの弟達の死は、私の生まれる前のこと。ループの開始点は私が生まれたところよ。私の手も及ばない……」
アリサの言葉が途切れた。
ローゼンタール伯爵夫人がアリサの予想をこえた動きをしたのだ。アリサをぎゅっと抱きしめ、頬ずりするようにして涙を流した。
「……なんのつもり?」
低く短く問いかけるアリサに、ローゼンタール伯爵夫人は涙声で語りかけた。
「あなたはひどい人だわ……。いったいどれだけの犠牲者を……。やった事は、きっと世界中の人が許さない」
その言葉にアリサは爆笑した。
「あはっ、泣き落とし? もうやめろとでも言うつもり? 自分の咎など百も承知だわ。良心や正義など知ったことか。私は神だって敵にまわし、やりたいことを貫くわ」
傲然と言い放つアリサに、ローゼンタール伯爵夫人はさらなる哀しみの涙をこぼした。
「……そうね。あなたの信念を誰も止められない。……だけど、あなたが悪魔になったのは、ぜんぶ、あの子の……スカーレットのため……。そのために、たったひとりでずっと……!! でも、その未来に、あなたの居場所は……!!」
悲痛でかすれた叫びに、アリサは肩をこわばらせ、それから俯いた。
「……少し深く心を覗かせすぎたみたいね」
声に痛恨の響きがあった。彼女には珍しいことだった。そんなアリサをローゼンタール伯爵夫人はありったけの想いをこめて抱きしめた。
「私だって……もし、あなたと同じくらい力があったら……!! きっとロニーとテディーのために……同じことをした……!!」
アリサの目が見開かれ、可憐な唇がかすかに震えた。棒立ちになったアリサにすがりつくようにして、力を失ったローゼンタール伯爵夫人が崩れ落ちていく。だが、彼女はアリサへの語りかけをやめようとはしなかった。
「だから……あなたの悪意を、世界中が恨んでも……!! 悪女の私だけは……。地獄の底で、あなたのために泣いてあげるわ……」
命を懸けた思いがけない言葉は、稲妻のように強くアリサの心をうった。
「……聞こえる? ロナ。あなたは私の心を動かした。五つ目の奇跡をおこしたわ。貰いすぎは私の趣味じゃない。対価としてなにか願いを言いなさい」
今度はアリサのほうがローゼンタール伯爵夫人を抱きとめた。
命の火が消える前に急いで耳元でうながす。
「……それなら……どうかコーネリアさんと……赤ちゃん達を守って……。……このままだともたない……だけど、あなたなら……」
息も絶え絶えでしぼりだしたローゼンタール伯爵夫人の懇願に、アリサは深くうなずいた。
「〝魔眼〟の拡大でそれも見えたのね。そうよ。コーネリアに双子は負担が大きすぎる。分娩時にともに命を落とすわ。〝刻〟め、私とスカーレットの対抗馬をつくろうと欲張りすぎよ。計算だけで人をはかるからこうなる。結果が男の子で死産なんて笑えるわ。……私が手をくださなくても、フローラのような奇跡は起きなかった……」
破滅が確定した未来に、声もなく喘ぐローゼンタール伯爵夫人が絶望の涙を流す前に、アリサは昂然と顔をあげた。
「……あははっ、そういえば、私はすべての敵を殺して勝ってきたわ。今更敵がひとつやふたつ増えたところでどうということはない。双子が歯向かってくるなら、そのとき潰せばいい。歯応えがあるならまた一興。それより借りをつくったままのほうが私の名に傷がつくわ」
敢然と運命に牙をむくかのように、アリサは三日月のつりあがった笑みを浮かべた。
「安心して逝きなさい。コーネリアと双子は助けるわ。結果として〝刻〟を手助けすることになるのは業腹だけれど、くだらない悲運も気に食わない。食い破ってみせるわ。この私の名にかけて」
「……よかっ……た……」
安らいだ表情で倒れていくローゼンタール伯爵夫人の身体に手を回し、アリサは敬意をこめてそっと床に横たえた。立ちあがると、スカーレットの元に戻っていた真祖帝のルビーに目をやった。ぱちんと指を鳴らすと見えない鎖がはじけとんだ。
「光蝙蝠族達、解放してあげるわ。私が認めたこの女性にふさわしい死にざまを用意なさい。中途半端は許さない」
うながされ、ルビーから幻の炎が天井高く噴き上がり、幾条にも分かれて落下し、古代の戦士達の姿をとった。アリサに封印されていたそのまなざしには、怒りではなく驚きがあった。彼らは今までの会話を聞いていたのだ。
「きさまは……いや、あなたの本当の目的は……もしや……」
問いかける思念には、先の戦闘時の敵意ではなく、ある種の敬意がこめられていた。誇り高き彼らは、アリサに共感するものを感じたのだ。だが、アリサはにべもなくはねつけた。
「これ以上の詮索はしないことね。私の力は理解できたでしょう。よけいなことをスカーレットに話せば、今度こそ永久に消滅させる。私とスカーレットは不倶戴天の敵同士、それだけでいいの。せいぜい良き導き手として、スカーレットが私に対抗できるよう育てあげるのに専念することね」
その理由を明らかにしようとするほど彼らは野暮ではなかった。
「……御意。戦慄するほどの孤高な魂に敬意を」
アリサは一瞬だけ微苦笑した。互いにそれ以上は語らなかった。第三者が聞いてもなんのことかわかるまい。それで十分だった。
アリサは興味を失ったかのように、ぷいと背を向けた。
「……困ったわ。おばあ様に謝らなきゃ。しかたないわ。お詫びとして、少しこちらの手駒をプレゼントしましょう。ソロモンは渋るかもしれないけど。あはははっ、静かな復讐よりも、そのほうがきっと楽しいわ」
アリサは声をたてて笑った。
「ねえ、おばあ様、隠居して押し隠しても、私には本心がわかっているのよ。力ある手足を得たら、おばあ様は自分の可能性を試さずにはいられない。その野心と能力をおそれ、先王がおばあ様を遠ざけたほどにね。きっとハイドランジアが……いえ、大陸じゅうが揺れ動く。女は舞台にあがってこそこそ本領を発揮するもの。私は優しいおばあ様でなく、おそろしいおばあ様を見てみたいの……」
お気に入りの遊びに夢中な少女のように、アリサは踊る足取りで、舞台の間を出ていった。
一瞬、その足が止まった。
「……さようなら、ローゼンタール伯爵夫人。逆境の舞台に負けず、信念に殉じて散った冬の薔薇よ。真の誇り高き生き様は、どんな下賤な悪評で覆い尽くそうとしても、決して輝きを失わないわ。私はあなたの生き様を忘れない」
アリサの表情は見えなかった。
〝幽幻〟を解除し、去り行くアリサの小さな呟きを、冤罪をかけられ、不当に500年も貶められた光蝙蝠族の霊達は、心で強く噛みしめていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「……いてて……ひどい目にあった。 ……!! やばい気配が消えた……!! ……なんだったんだ」
長椅子の残骸を押しのけ、ブラッドが腹をさすりながら、よろよろと身を起こした。ぼやいてはいるが、きょろきょろあたりを見回しているところを見るに、ダメージはあっても重傷ではないようだ。あんなすごい勢いで吹っ飛ばされたのに、どういう身体構造をしてるんだろう。
まったく、あんまり心配させないでよね。
壁に叩きつけられたセラフィとアーノルドも同様に無事だ。気絶していたセラフィは、死んだと早とちりしたアーノルドに泣きつかれ、涙と鼻水まみれになり苦笑していた。あいかわらずお騒がせ仲良しコンビしてるなあ……。
見えない襲撃者は去った。
大広間のあちこちで燭台がひっくり返り、テーブルクロスを燻らせているのだけが襲撃の名残りだった。使用人達は消火にこない。停止したままだ。いまだルビーによる〝幽幻〟の結界は健在だった。
私は戦慄が止まらなかった。
オカ魔女さんは、認識阻害の〝幽幻〟は〝幽幻〟でしか破れないと教えてくれた。同種の力がぶつかりあえば、より高度で強いほうが勝つはずだ。そして私達では襲撃者をまったく認識できなかった。
つまり襲撃者は、ルビーよりも上位の〝幽幻〟持ちということになる。その危険度はアディスの比ではない。そのうえ、私の幾重にも張りめぐらせた罠も軽々と粉砕した。
この撤退は相手のなんらかの都合でしかあるまい。完全な敗北だ。
「お父様!! お母様!!」
煙で視界が不明瞭で目が染みるなか、私は必死に呼びかけた。
鼻の奥が痛い。
「スカチビ。あんまり叫ぶと煙を吸うぞ」
咳き込んだ私をとどめ、ブラッドが窓と扉を開け放ち、換気をおこなう。セラフィ達は水に濡らしたシーツを、火元に叩きつけて消火作業にあたっていた。
空気と煙が入れ替わり、視界が晴れる。
お父様とお母様は無事だった。
だが、お二人が取りすがっているローゼンタール伯爵夫人の胸は、まっかに染まっていた。大きな赤い薔薇を思わせた。致命傷の出血量と一目でわかった。
「……ローゼンタール伯爵夫人……!! あなたは私をかばって……!!」
お母様が肩を震わせて泣いている。お父様もだ。私達は状況を理解した。襲撃者の目的はお母様だった。その凶手から、ローゼンタール伯爵夫人は身を挺して、お母様を守ってくれたのだ。
「……まったく……友達になった……とたん……尻ぬぐいなんて……私もヤキがまわったもの……ね……」
ローゼンタール伯爵夫人は苦笑し、まっさおになって歯のつけ根があわないくらいガタガタ震えているお母様を逆に慰めた。
「……バカね。散々いじめた私なんかのために……泣くなんて……。……それより生まれてくる赤ちゃんに……たくさん笑ってあげなさい……。……そして、幸せにしてあげるのよ……。あなたなら、きっと誰よりいい母親になれるわ……」
その言葉に悲嘆に暮れていたお父様が、はっと顔をあげた。
「コーネリア……まさか」
お母様がうなずく。
「ええ、私のおなかのなかには、ヴェンデル、あなたの赤ちゃんがいます……」
衝撃にお父様の瞳と肩が揺れた。
「ロナ、君は……。僕の大切な宝をいくつ守ってくれるのか……!! 僕は恩に報いようがない。なのに君は……もうすぐいなくなってしまう……!! 僕は情けない自分を殺してやりたい……!! ……どうすればいいか、まるでわからないんだ……!!」
声を枯らして自責するお父様に、ローゼンタール伯爵夫人はあどけなく笑いかけた。
「私はとっくにあの雪の橋から身投げして死んでいたはずでした……。だけど、ヴェンデル様が、マリエルさんが、おじいさん達が、私に生きる喜びをくれた……。だから、私、嬉しいの。もう十分です。もういいの……。恩返しできて、本当によかった……」
ローゼンタール伯爵夫人が幸せそうに語るのが、よけいに切ない。お父様は顔を覆って泣き崩れた。死を迎えようとしているのに、彼女は遺される人達のことばかり気にかけていた。笑顔でお母様を励ましていた。
「……もっと助けてあげたかったけど……ここで私はさよならね……。……だけど、心配ないわ。あなたは強い。誰にも負けない。妻としても母としても。……社交界の毒蠍の……お墨付きよ……」
彼女の笑顔は蒼空のように爽やかだった。なにもかも覚悟のうえでこの結末を迎え、そして満足して逝こうとしている。だけど、これで本当にいいの? 私達から彼女にしてあげられることは、もう何もないの?
私は悔しさで、唇を血がにじむほど噛みしめた。
〝……スカーレット姫、ここは我らにおまかせを〟
頼もしい戦士達の錆びた声が脳内に響いた。真祖帝のルビーが強烈な光を放ち、ごうっと巻き起こった炎が、たくましい男達の形をとった。光蝙蝠族の霊たちだ。復活したんだ……!!
「な、なんだあ!? 炎が人の姿になったあ……!?」
度肝を抜かれたブラッドが叫んだ。
そうか。みんなは直接に彼らに会うのははじめてだったっけ。
セラフィが唸る。
「この格好は……まさか、500年前に大陸最強をうたわれた光蝙蝠族……」
あ、光蝙蝠族の霊たち、ちょっと嬉しそうに胸をはった。
「最強!? マジかよ!!」
アホノルド、あんたが出てくるとややこしくなるから、しばらくおとなしくしてて。
「みんな、今までどうして……」
私の問いに、彼らが気まずそうに顔を見合わす気配がした。
〝さる事情で封印されておりました。この不覚の詫びは、働きをもって〟
うん、いいよ。お化け世界にはきっとお化け世界の事情があるんだろう。話せないことだってあるよね。それより、みんなが帰ってきてくれて嬉しいよ。
〝……スカーレット姫、感謝いたします。あなた様は戦士を奮い立たせる術をお知りだ。やはり我等が忠義を捧げるにふさわしいお方……〟
光蝙蝠族の霊達が感激に身を震わせ、私の前に恭しく膝をついてこうべを垂れた。あいかわらず大袈裟でちょっと恥ずかしくなる。これじゃ、まるで私、忠臣にかしずかれる女王様じゃないの。あ、元女王だからこれでいいのか。
〝スカーレット姫の名において、気高く生きた女性の旅立ちにふさわしい贈り物を……・〟
そして、光蝙蝠族たちは宣言に恥じない働きをした。
あたり一面が、黄金の麦畑のような強烈で懐かしい光に染めあげられる。
そのなかから、胸をつかれるような優しい光景が浮かびあがった。
……暖炉のある一室で、お母様を囲むようにみんなが歓談している。見覚えがある。私達家族がくつろぐための公爵邸のプライベート用の居間だ。
お気に入りの藤椅子でくろついでいるお母様のかたわらに、メアリーとローゼンタール伯爵夫人が立っていた。いや、ローゼンタール伯爵夫人といっていいのか……彼女はメアリーと同じメイド服を誇らしげに着ていた。その腕のなかには、おくるみに包まれた私の弟達が、まるで自分達の居場所はここだと言わんばかりに、落ちつきはらっておさまっていた。
幻のなかのお母様が苦笑する。
『……この子達、嬉しそうに笑ってるわ。本当にロナさんが好きなのね。こら、あなた達の母親は私ですよ。忘れないでね。もっとこの子達と触れ合えればいいのだけれど……』
メイド服のローゼンタール伯爵夫人……ロナは横にかぶりをふった。
『奥様は社交界の華。仕方ありませんわ。公爵様ともども公私御多忙ですもの。でも、お子様達にきっと奥様の愛情は届いてます』
『まあ、嬉しいことを……』
ふたりは顔を見合わせて笑い合った。信頼関係の深さがうかがえた。
幸せそうにそのやり取りを眺めていたお父様が、ぺこりとロナに頭をさげる。
『ありがとう。ロナ。子供の頃から、君はずっと僕に仕えて支えてくれた。今は妻と子供たちのことも。留守のあいだも安心して家をまかせられた。あらためて礼を言うよ』
ロナはあわてふためいた。
『もったいないお言葉を……!! お礼を申すのは私達姉弟のほうです!! こうして生きる道まで与えていただいて……。あの日、公爵様に拾っていただかなければ、きっと私達は野垂れ死んで……!!』
ロナは涙ぐんだ。
その幻影の光景を見ていた私は泣きたくなった。
これは彼女がロナと呼ばれていた頃のまま、お父様の元でずっと暮らせた場合に迎えたであろう未来。ローゼンタール伯爵夫人として生きる必要のなかった世界だと悟ったのだ。
そこではマリエルも存命だった。
『……困った子だよ。ロナちゃんは。いつまでたっても泣き虫で』
『だって……!! ……マリエルさん……!!』
『おー、よしよし。ふふ、こうしてると、ロナちゃんが子供の頃を昨日のことのように思い出すよ』
可愛らしくふくれつつらをする長身のロナの頭を、少し白髪交じりだが、まだ若々しい姿のマリエルが撫でるさまはなんだかおかしかった。それを温かいまなざしで三老戦士達が見守る。そして、生きていたのは彼らだけではなかった。
『ありゃ、またねえちゃんが泣いてる。公爵様に出会った日を思い出すとすぐこうだもんな。まいっちまうよ。俺達もういい大人なんだからさ』
たくましく日焼けし、筋骨隆々としたテディーがロナをからかう。特徴ある赤と青の胴甲をまとっている。憧れだった王家親衛隊に入隊できたことをその恰好は示していた。
私達の見た記憶でのテディーは父親に足を折られ歩けなくなり、ロナの負担になるのを悔しがって泣いてばかりいた。もう一人の弟のロニーとともにあまりにも悲しい最後を迎えた。
だけど、この世界では彼らは、異端審問官マシュウの謀略に巻きこまれずに済んだんだ。奴らの魔手が伸びるより先に、お父様の保護が間に合ったんだ。そしてマリエルの治療でテディーの足も完治した。
この同年代なら百人相手にしても喧嘩に負けないという鼻っ柱の強そうな面構えが、駆けっこで誰にも負けなかったという本来の活発なテディーなんだ。
とはいえ、歴戦の老戦士達にかかると成長したテディーも形無しだった。
茶髭のビルが呵々大笑する。
『偉そうによう言うわ。テディー、おまえだって王家親衛隊としてはまだ尻の青いひよっこよ。こんな老い耄れからようやく一本取れた程度ではのう。いくら逃げ足だけは隊でぶっちぎっててもの。それではわしらの後釜として、若殿の護衛はとてもまかせられんの』
横で腕組みした黒髭ボビーがうむうむと頷く。
『うむうむ、まったくじゃ。今日はもう一鍛えじゃな。せめて王家親衛隊の上の中までもっていかにゃ、若殿にもロナにも申し訳が立たんわい』
『またあの地獄の特訓ですか!? 勘弁してください!! ハードル高すぎですって!! ハイドランジア最強の王家親衛隊の上の中って完全に化け物じゃないですか!?』
とんでもない鬼教官たちの宣言に、テディーは悲鳴をあげた。そうすると齢相応というよりももっと若く見えた。しっかりしていてもマリエルの前では子供っぽくなるロナと同じだ。これは彼らが頼れる保護者に一人前に育てられ、しかもなお見守ってもらえた場合の人生なんだ。
本気で逃げ惑うテディーの首根っこを、白髭のブライアンがむんずとつかまえた。
『ふむ、それぐらいせねば真に大事なものは守れんということよ。我らの期待のあらわれでもある。指南役三人がかりを光栄と思い、あきらめて精進するんじゃな』
ふりほどこうと奮闘したテディーはすぐにあきらめざるをえなかった。そのまま片手で高々とさしあげられ、足が完全に地面から離れている。師匠越えの道は険しそうだ。
『ちょっ、ブライアン師匠も訓練に参加する気ですか!? 俺ひとり相手に!? 地獄すぎる……。ロニーいぃ……!! なんでおまえも王家親衛隊に入らなかったんだよ……。師匠たちに筋がいいって褒められてたろうに』
そばで見上げている成人したロニーを恨みがましくなじるが、ロニーはおだやかに首を振った。
『……ぼくは戦いには向かないよ。土や木をいじるほうが好きなんだ。ぼくの手入れした庭で訪れる人達が安らいで、ぼくの育てた野菜を美味しいと喜んでくれる。こんな幸せなことはない』
物静かなその顔は、私達がローゼンタール伯爵夫人の記憶で見た、姉を守るため父親を道連れに炎にとびこんだ鬼気迫るロニーとはまるで別人だ。でも、こういう生き方が本当に彼が望んだものだったんだ。
幻影のなかのお父様がロニーを褒める。
『……ロニーはこのところ急速に腕をあげたな。このあいだ来客した貴族達もあの滝の出来に感嘆していた。園庭長のトムもロニーのことを褒めていたよ。本人に言って調子にのらせるといけないから内緒にしてほしいって念押しされたが……』
『あの厳しい親方が、ぼくのことを……!!』
ロニーにとってはよほど嬉しいらしく、口元がにやけっぱなしになり、何度も拳を握りしめている。その様子に白髭プライアンはわざとらしく片眉をあげ、テディーを一瞥した。
『……ほほう、あの偏屈爺が。こりゃあ、ロニーのほうが先に道を究めそうじゃの。特訓やめとくか? テディーよ』
あおられたテディーの瞳に負けん気の炎がともる。ふたりは共に姉のロナに恥じない男になると誓った。置いてけぼりになるなどプライドが許せないと三老戦士は熟知しているのだ。
『やります!! やりますよ!! もうやけくそだ!! いくらでもしごいてください!! でも、特訓のあとはマリエルさん!! ぜひ治療をお願いしますよ!! ずっと痛いままはご勘弁!!』
『……やれやれ、しまらんのう』
いまいちなテディーの決意表明に、茶髭ビルがため息をついた。
その言葉にみんなが笑いに包まれたあと、お父様が語りかける。
『……ロニーもテディーも期待している。これからもこの公爵家を、僕ら家族を支えてくれ。そして、ずっと君達を守ってくれたロナを、今度は強くなった君達が守ってやるんだ』
『はい!!』
『命にかえても』
感動に頬を赤らめたふたりは直立不動して、誓いも新たに即答した。迷いひとつない男の表情に、三老戦士が満足げにうなずく。
『……ロニー……テディー……』
立派に成長し、いつの間にか自分を追い越してしまった弟達の雄姿に、ロナはぼろぼろ泣いた。そのときだ。ロナが抱いていた双子の赤ちゃん達が、手を伸ばし、ロナの涙をぬぐおうとする動作をした。
マリエルが感嘆する。
『こりゃあ驚いた。この齢でロナちゃんを慰めようとしてるよ。優しくて賢いお子達だね。ヴェンデル様と奥様にそっくりだ。お姉ちゃんのスカーレット様にもね』
私!? そういえばこの世界での私は……!! あ、いた。メアリーのスカートの陰に隠れてた。少し引っ込み思案らしい。なんだか表情にとぼしい。「108回」のループ記憶と人格がないと、四歳ぐらいの私ってこんなんなのか。
あれ、弟達に負けじと背伸びして、ロナの涙を拭おうとしている。私バカなの!? 身長的に届くわけないでしょ!! つま先立ちしたふくらはぎがプルプルしてるじゃない。やめて!! 恥ずかし死ぬ!!
見かねたメアリーが両脇から手を入れて支えると、今度は身をよじって振り向き、メアリーの頬をぬぐってドヤ顔しふんぞり返ってるし……。目的が変わっちゃってるよ。
それにしても、この無表情かつ激しいボディーランゲージっぷり。赤髪、紅い瞳と相俟って幼児の頃のお父様にそっくりだ。この世界線での私の将来が不安だ。それに引き換え、まだ赤ちゃんなのに弟達の愛くるしいことよ。
感極まったロナが、私の弟達のために祈る。
『……ああ、どうか坊ちゃん達の人生に幸ありますように。世の中にはつらいこともたくさんあるけど大丈夫。だって、こんなに優しい人達が、あなた様達の周りにいるんですもの。きっと誰よりも幸福になれますよ……』
『なにより坊ちゃん達をこんなに大好きなロナさんがそばにいますものね!!』
とメアリーが笑顔で言い、ロナは泣きべそになり、それから懸命にほほえんだ。
『ありがとう、メアリーさん。メアリーさんがスカーレットお嬢様にしたように、私もがんばって坊ちゃま達に精一杯の愛情をそそいでお世話します。だから、どうか公爵様のようにお強く、奥様のように気高く、スカーレットお嬢様のように優しいお子に育ちますように……』
ロナは私の弟達に頬ずりした。
みんながその様子を微笑んで眺めている。
誰も不幸にならなかった世界……。
おい、そこの幼女の私、褒められて嬉しいからって、得意げに腰に手をあててお尻をふった創作ミツバチダンスをするな。空気を読め。それに今のとこの振付はоじゃなくsよ!!
赤ちゃん達のぬくもりを抱きしめ、ロナが目を閉じ、夢見るようにつぶやく。
『ああ、なんてあったかいんだろう。私、今……なんて幸せなんだろう……。夢ならどうかさめないで……』
……その直後、実際には訪れなかった光景は、マッチ売りの少女が見た最後の輝きのように、唐突に私達の前から消え失せた。
かわりに私達の目にとびこんできたのは、無惨に血に染まり、息をひきとろうとしているローゼンタール伯爵夫人の姿だった。無慈悲な現実がはじけたように戻ってきた。
私とお母様は涙が止まらなかった。
今見せられた幻が、ローゼンタール伯爵夫人がロナだった頃、心から願ったものだったと直感したからだ。
初恋の人と結ばれなくてもいい。ただその人にいつまでも仕え、その家族を守り、自分の大切な人達と仲良く暮らしたい。たったそれだけの願い……!!
こんな、こんな、ささやかな光景が、一代で伯爵夫人にまで上り詰めた女性が、本当にかなえたかった望みだったなんて……!! なのにこの人は運命に翻弄され、権力闘争の闇でもがき続け、悪女と罵られて……!!
横たわるローゼンタール伯爵夫人は閉じていた瞼を開き、ゆっくり瞬きした。
「……笑わせるわ。バカにしないで。こんなものが、伯爵夫人で、先王の寵姫の私にふさわしいとでも……こんな……」
彼女も私達と同じ幻を見たのだ。
だが、吐き捨てる言葉と裏腹に、その語調は限りなくおだやかだった。
「……なんて、ちっぽけで……」
ローゼンタール伯爵夫人は瞳を閉じた。その口端がゆっくりほころんでいく。とても美しく満ち足りた笑顔だった。
「……そして、なんて、しあわせな夢……」
……そう呟いたきり、その瞼が開くことは二度となかった。
どんなにお父様が慟哭して抱きしめても。
お母様がすがって泣き叫んで彼女に呼びかけても。
そして、社交界の毒蠍、希代の悪女として名をはせたローゼンタール伯爵夫人は、少女のようにはにかんだ微笑みを浮かべたまま、静かに息をひきとったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
闇に漆黒のアカデミックガウンがひるがえる。
ここは地元民が呪われた場とおそれ近寄らない遺跡だ。
有害なガスでも噴出しているのか、あたり一面に獣の白骨が散乱している。
鬼気に満ちた中心部に、ソロモンはひとりたたずみ、降るような星空を見上げていた。鋭く目を細める。
「……星が落ちた。亡くなりましたか。ローゼンタール伯爵夫人」
だが、悼むどころか彼ははじかれたように笑いだした。
「はははっ!! 私の目に狂いはなかった。彼女は最高の実験体でした。いくら私が〝魔眼〟を与えたとはいえ、ただの人の身で、あのアリサの心を動かすとは!! しかもアリサの秘密を垣間見ることまで出来た。上出来です。惜しむらくは耐久性の低さか。これは今後の研究課題ですね」
かつては数多くの生贄が捧げられたというこんな不気味な廃墟で、深夜に夢中になって研究結果を考察するなど正気の沙汰ではない。彼は怨霊よりも狂った存在だった。
「……ふふ、とはいえ運命の星以外にそこまで求めるのは酷ですね。私の能力ギフトは、命と引き換えに凡人に能力を与えるもの。壊れてしまうのははなから承知。使い捨て、すぐに次を探せばいい。さて、今度は誰を相手に実験を……」
歩き出そうとしたその靴音が止まった。
鼻眼鏡を昆虫の目のように光らせ、振り返ったソロモンが奇妙に唇をゆがめる。
背後の宙に、少女の霊が浮遊していた。ローゼンタール伯爵夫人が、まだロナと呼ばれていた頃の姿でソロモンを見つめていた。そのまなざしに霊現象でありがちの虚無ではなく意志を見てとり、ソロモンは、ほうと息を漏らした。
「……おやおや、これは興味深い。まさか少女の姿で現れるとは。しかも意思疎通ができそうだ。私に恨みごとでも? それとも可憐な姿で罪悪感を抱かせようと? すべて無駄です。謝りも反省もしませんよ。私にとっては実験と謎の探求が唯一の正義だからです。天にだろうと私を裁かせはしない」
ロナはかぶりをふり、スカートの両端を摘んで礼をした。
嘲笑を投げつけようとしたソロモンは怪訝な顔をし、それから息をのみ、目をしばたいた。
「……貴女は……!! まさか、この私に礼を言いにあらわれたのですか……!! 生命力を吸う〝魔眼〟をあたえ、貴女を死に追いやった私に……」
ロナはうなずき、微笑んで光の粒子になって消えた。
その笑みにまぎれもない感謝の念を認め、ソロモンは呻いた。
光の粒子の残滓が、蛍の光のように軌跡を描いてソロモンの手にたどり着く。ソロモンはじっとそれを見つめた。その掌には、壊れたロナの薔薇の髪飾りが残されていた。ソロモンは、これ以上傷めないよう、そっと握りしめ、天を仰いだ。その表情はさっきまでの冷笑的なものと違い、感慨深げで真剣だった。
「……やはり社交界の毒蠍と呼ばれても、貴女の心のなかには、一途な乙女心があったのですね。貴女にとって、紅の公爵のために生き、コーネリアを彼にふさわしい伴侶に育てることは、自分の命よりも価値のあるものだった。たとえきらびやかなドレスを着ていなくても、子供の姿でも、今の貴女の礼は、どんな生まれつきの貴婦人のものよりも、私の心に響きました……」
そして、手の中の髪飾りを見つめ、ソロモンはひとり苦笑した。
「……アリサではないですが、あなたの思い出の品とは……これは貰いすぎですね。私は実験データーだけで十分でした。困ったものだ。返そうにも相手があの世では。やれやれ、この差額は働きをもってお返しするしかありませんねえ。僭越ながら、コーネリアと胎児を守ろうとしたその遺志は、私が引き継がせてもらいますよ……」
ソロモンは胸に手をあて、恭しく腰を折った。
「さらばです。最期までおのれの初恋をつらぬいた冬の薔薇よ。あとはこのソロモンにまかせなさい。私は恋する乙女の味方です」
そして彼はなにかを嗅ぎつけたかのように、はっと顔をあげた。
千里眼を発動したその表情がみるみるうちに険しくなる。
「……やれやれ、せわしない夜だ。余韻にも浸らせてくれないとは……。〝マザー〟が独断で動きましたね。ちっ、魔犬どもを、スカーレット達への襲撃の手駒にする気か。さては真祖帝のルビーの危険性に勘づきましたね。それにしても、まさかアリサの魔犬への支配を断ち切り、群れをのっとるとは……さすがに本気を出すと、底なしの怪物ぶりを発揮してきますね、ですが、好きにはさせませんよ」
舌打ちしたソロモンはかたわらの石柱に手をかざした。遺跡に複雑怪奇な紋様が緑に浮かびあがり、走り抜ける。その先端の線が次々に伸び、ソロモンの足元に繋がる。
「不幸中の幸いでした。この間の落雷でずいぶん〝力〟を溜めこんでいますね。あの〝マザー〟とやり合うのですから、いくら〝力〟があってもありすぎという事はない。ありったけを分けていただきますよ」
青い火花とともに遺跡の力を吸収し、ソロモンは地を蹴った。
重力から解放されたように闇を切り裂き飛翔する。ほとんど地面に足はつけない。月光にアカデミックガウンをなびかせるその様は、夜をゆく黒い翼の巨鳥を思わせた。
「……魔犬どもはともかく、今〝マザー〟本人と戦えば、間違いなくスカーレット達は全滅する。私が到着するまでなんとか持ちこたえてくださいよ。……〝血の贖い〟発動」
ソロモンの瞳がまっかになり、血煙がぶわっと背後にふくれあがる。大量のおのれの血液と引き換えに身体能力をブーストするこの奥義は、著しく体力を消耗する。だが、それでも使わざるをえないほど事態がひっ迫していることを、ソロモンの厳しい横顔が物語っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ねじくれた夜の木々は、まるでからみあうかぎ爪だ。いたるところで荒い息遣いがする。おそるべきハンターの魔犬たちが、無数のその巨躯を森に潜ませているのだ。なのにまるで姿が見えない。彼らの緑に燃える不気味な眼光と呼気だけが、その存在を感知しうる唯一のものだった。
魔犬たちの視線のすべては、森の真っ只中にぬうっとそそり立つ峻険な岩山にそそがれていた。
人が到底登れぬその頂きに、白い薄手の衣を霞のようにたなびかせ、美貌の女性ひとりが佇んでいた。おとがいをあげ月をみあげている。アリサと同じ金髪碧眼が夜に輝く。ハイドランジア一の占い師〝マザー〟だ。
「……うふふふ、いい月だこと。血と飽食の宴にふさわしいわ。さあ、そろそろ行きましょう。可愛い獣たち。愉快な御馳走の時間のはじまりよ。貴族達は美食家だからきっと美味しいわ。だからといって食べすぎは体に毒よ。無理はしないこと」
天女に思える赤い唇から残酷な言葉がほとばしる。
「ああ、だけど、赤髪と紅瞳の女の子だけは絶対に殺すのよ。あと腐れがないよう、あの子の仲間達も全員ね。アリサちゃんとやりあって消耗しているから、みんなで一斉に襲えばなんとかなるわ。手に余る紅の公爵だけは私が直接潰してあげる」
にたりと嗤う表情は人間離れしていた。
爬虫類が人の皮をかぶっているざらりとした気持ち悪さだ。占いで接客するときの人あたりのいい笑顔は仮面で、こちらが彼女の本質だ。にこにこ歓談している相手を、笑顔のまま平然と握りつぶせる。血に飢えた魔犬のほうがまだ人間味がある。
「……うふふう、アリサちゃん、ごめんなさいねえ。御執心のあなたには悪いけど、スカーレットという娘、やはり放置できないわ。あのルビーが発動するたびに、私の未来予知に霞がかかる。ということは、私を倒せる可能性があるということ。七妖衆の坊や達なんかよりよほど危険だわ。孵化はさせない。無力な卵のうちにのみこむわ」
魔犬達に下知しようとふりあげた〝マザー〟の手が、凄まじい殺気をぶつけられて停止した。
ブルーのハイウエストドレスのリボンが、妖精の女王の羽根のようにひるがえる。金髪があざやかに夜に舞う。
「……あはっ、あきれたものね。さっきまでスカーレット達の味方のような顔をして、脅威と認めた途端に手の平返し? 待機させていた私の魔犬の軍勢まで勝手に使って。そういうのを人は節操なしと言うのよ」
突如出現した幼女姿のアリサが、〝マザー〟と対峙し、凍てつくまなざしと嘲笑を叩きつけた。
アリサは殺気をこめるだけで人を殺せる。物質的な影響さえ及ぼすことができる。アリサの足元に亀裂が走り、岩山が鳴動してばらばらと欠片を落とした。だが、人外の〝マザー〟は、濃密な殺気の塊にも平然としていた。
「あら、アリサちゃん、また会えて嬉しいわ。節操なし? うーん、人なんて私達から見れば虫けらでしょ。アリサちゃんは虫けらに気を遣うの? 邪魔になったら駆除すればいいのよ。そんなことよりこんな便利なペット達を隠していたなんてずるいわ。罰として私が没収するわね。ほら、この子達もこんなに私に懐いて」
さらっと流し別の話題にうつる。ポーズではない。本気でそう思っているのだ。異質の精神構造に、アリサは不快げに眉をひそめた。
「……盗人猛々しいわ。化け物が洗脳で群れを従わせておいて懐く? つくづく腹のたつ女だこと。……私の名において、ローゼンタール伯爵夫人の最期の願いを、くだらない蛇足で穢させはしない。今夜の舞台はもう幕をおろしたわ。人の想いを解せぬ恐竜が舞台にしやしゃり出るなど不愉快だわ。私が非礼を見逃しているうちに、とっとと黴臭い聖都に退散するがいい」
アリサは毒を吐く。
〝マザー〟は笑顔のままだが、眉間に雷の気配がふくらんでいく。
「……あいかわらず口の悪いお嬢ちゃんねえ。私の正体を知っていて、そんな口のききかたを許されるのはアリサちゃんぐらいよ。感謝するのね。他の者ならとっくに八つ裂きよ」
「……許す? まるで本気になれば私を制圧出来るという口ぶりね。試してみるがいい。驕り高ぶった恐竜女が。地獄で後悔させてあげる」
アリサは怒気をはらみ足を踏み出した。
さきほどの戦闘でアリサの強さはよくわかった。このままぶつかれば壮絶な削り合いになると判断した〝マザー〟は、心理的にアリサを削りにかかった。
「……うふふ、怖いわあ。でも、アリサちゃんには無理よ。だって、このワンちゃん達はいまや私のしもべ。動物への支配力は、アリサちゃんより純血の私のほうが上よ。死ぬまでアリサちゃんと戦わせることだって出来るの。皆殺しにしないと止まらない。その後で、私と戦う元気がアリサちゃんに残っているかしら。だって、アリサちゃんの実体は幼女。体力に難があるもの。どっちが弱い立場か理解したかしら」
〝マザー〟の揺すりにもアリサは動じなかった。むしろますます高まる殺気に、〝マザー〟は破顔した。別のおそろしい思いつきがむくむくと頭をもたげたのだ。
「うふふ、やめる気はないみたいね。いいわ。相手したげる。よく考えれば、あの用心深いアリサちゃんが今、敵地で孤立無援。生かしたままとらえ、聖都に連行するまたとない機会だわ。敗北で身も心を踏み潰して廃人にした後、じっくり後継者の教育を施して、すてきな聖女に育ててあげるわ……」
ぬらりと舌なめずりする〝マザー〟に、アリサははじかれたように笑いだした。
「……あはあっ、貴女が教育? 調教の間違いでしょう? 反吐が出るわ。さぞかし信者を腹の底でバカにする、輝く笑顔の聖女ができあがるでしょうね。……それに勝ち誇るのはまだ早いわ。この私が無策で現れると思っていたの。貴女以上に魔犬達を従わせることが出来る、彼らの王を連れてきてあげたわ」
アリサが懐からとりだした宝石が、月光を浴びて蒼く光る。
底知れぬ輝きに〝マザー〟の顔色が変わった。
「……それは……ブルーダイヤ……!! 破滅の魔女……!! 失われた聖都の秘宝……!! ……アリサちゃん、まさか……」
ぎりっと〝マザー〟が歯軋りする。唇がまくれあがり、異様にたくましい犬歯がむきだしになる。睨みつける〝マザー〟の視線を、アリサは嘲笑で受け止めた。
「さすがは元聖女。気づいたようね。そのまさかよ。このブルーダイヤは魂を宿らせることが出来る。だから、真祖帝のルビーから、こちらに憑いてもらったの。にせの王様に相当御立腹のようよ。……出ておいで、魔犬ガルム。誰が魔犬を真に統べるものか、おごった竜に教えてやるがいい」
ひったくろうと襲いかかる〝マザー〟をかわし、アリサはブルーダイヤを掲げた。
凍てついた宇宙の蒼い輝きが渦巻き、のっそりと巨大な獣の影が立ちあがる。魔犬ガルムだ。小山のように屹立し、月をさえぎる。ざわざわと背中のたてがみが鳴り、片目がまっかに燃えあがった。幻影とは思えぬ迫力だ。ぞろりとした歯列が口吻からのぞく。嘲り笑っていると悟り、〝マザー〟は血相を変えた。
「……ちっ、獣の亡霊の分際で、私を見下ろすな……!! ……従え!! 跪け……!!」
〝マザー〟の支配力をはじき、ガルムは小馬鹿にしたような嗤いを浮かべた。むしろ牙をむきだし、傲然と口吻を天に向ける。
「あはははっ!! 滑稽だわ。お馬鹿さん。支配に屈しない存在だから王なのよ」
あまりにわかりやすい意志表明に愕然とする〝マザー〟に、アリサが嗤い転げる。
「なんて面白い見世物なのかしら。命令して、無視されて、立ちすくむなんて。あなたが虫けらと侮った人間の行動そのものだわ」
アリサにあおられ、〝マザー〟のまなじりがぎりぎりとつりあがる。
「まあ、この程度ですごいお顔だこと。とても見れたものではないわ。それで元聖女など聖教会もたかが知れるわね。ふふ、だけど夜のお楽しみはこれからよ。ねえ、ガルム」
アリサがガルムの幻影を愛撫し、ころころと笑う。
めきめきとガルムの巨躯がふくらみ、追い討ちをかけるように咆哮した。
音の衝撃が波紋となって走り抜け、森じゅうの梢を、ざあっと押さえつけ、ばきばきと悲鳴をあげさせた。魔犬達がびくんっと身を震わせると、自分達が不当に操られていたことに気づき、復讐に燃える視線を一斉に〝マザー〟に向ける。
ガルムの吠え声が〝マザー〟の洗脳を吹き飛ばしたのだ。
魔犬達は森から飛び出し、地を震わす唸り声をあげ、次々に岩山にとりつく。ガルムには及ばないものの、すべての個体が地上のいかなる大型犬種をもしのぐ体格だ。なのに猫科を思わす俊敏さで、峻険な岸壁をじぐざぐに駆け上っていく。勢いあまって岩山の頂きをこえ、空中に躍り出る。
恨みの弾丸と化して急降下してくる魔犬たちと細い三日月を背景に、岩山に腰掛けたアリサは楽しそうに両足をぶらぶらさせた。
「あはあっ、見違えたでしょう。これが本当の王に率いられた魔犬達の動きよ。さあ、〝マザー〟。次は下剋上の人間ごっこよ。にせものの王が、三日天下で、家臣たちに地獄に追い落とされるの。かわいそうに、よっぽど人望がないのね。たっぷり人の気持ちを味わうがいいわ」
アリサの言葉に、ガルムの幻影はにいっと嗤い姿を消したが、魔犬達の攻撃は続行された。
「……くっ……!!」
轟音とともに降りそそぐ魔犬達の牙と爪の嵐に、〝マザー〟は防戦一方に追いこまれた。
普段なら絶対見せない醜態に〝マザー〟が歯がみする。魔犬どもの強さが予想を上回ったのもあるが、なによりアリサの存在が楔になった。反撃しようとすると、すかさず隙をつくぞと言わんばかりに、無言の圧力をとばしてくるのだ。それが気になって集中できないし動きが鈍る。アリサが〝マザー〟にも感知不可能の〝牙なぎ〟を所持していることが、さらに重みになってのしかかる。ここにきてさっきのアリサの戦いの一手が生きてきた。
「……あはあっ、さっきまでの自信満々の笑みはどうしたのかしら。憐れだわ。形勢逆転ね。ひとつ教えてあげる。力自慢のくせに、策謀なんて似合わないことをするから無様な結果になるのよ」
時間が立つにつれ、頂きに降り立つ魔犬の数は増えていく。もともと集団で狩りをする生き物だ。その
強さの真価は個々ではなく、仲間達とのコンビネーションで発揮される。
あたりはむせかえる獣臭に満ち、月下での死闘は激しさを増していく。ひしめきあう巨大な獣たちの圧倒的な波状攻撃の前に、おぼろ月のような佳人の〝マザー〟などひとたまりなくのみこまれると思われた。だが、
「舐めるな!! 小娘が!!」
耳をつんざく怒声とともに、積み重なるように襲いかかっていた魔犬たちが、悲鳴をあげて吹っ飛んだ。ずどんっと轟音をあげて岩山の一角が崩れ落ちる。200キロ超の獣たちを木っ端と舞いあげた〝マザー〟は、怒りに髪を逆立て、ずしんと一歩を踏み出した。
「……この私を憐れむだと。上から目線で教えるだと。許さない……。もう血縁だのどうでもいい……。後がどうなってももう知るものか。後悔するがいい。私を本気で怒らせたことを……」
一頭の怪物がそこにいた。
もう美しかった面影などどこにもない。魔犬ども以上に獰猛な牙ががちがちと鳴る。その唇が老婆のように皺だらけになる。いや、違う。おぞましくひび割れた蛇の口と化した。目が異様につりあがり、金色の虹彩に、裂けたような縦の瞳孔が走る。そこから人間にはもちえぬ暗く冷酷な獰猛さがのぞいた。側頭部が鋭くせりあがっていく。角だ。柔肌が内側からはじけるようにひひ割れ、鎧じみた鱗のように変質する。
ざんばらの髪を振り乱し、ねじくれ、歪みながら〝マザー〟は吠えた。
聖教会が信者への脅しにつかう悪夢の異形が具現化した。まとった純白の薄布のドレスのせいで、よけいに救いがたいほど冒涜的に見えた。
腰を抜かすような変貌ぶりを、しかしアリサは平然と眺めていた。
「ようやく奥の手? 遅いわ。とっとと狂える魂に似合いのその姿で戦っていれば、結果は違っていたものを。その驕慢さがあなたの敗因よ」
〝マザー〟が爬虫類特有の機械じみた動きでぎぎっと停止した。
「……なんだと……? どういう意味だ……」
口が変形しているため不明瞭な発音で問いかける。しゅーっと息が漏れる。ぱちぱちと瞬きをしたが、瞼は下から上にあがった。白く薄い膜だ。爬虫類がもつ瞬膜だ。不気味このうえない。
今のアリサは〝マザー〟とひとりきりで対峙している。落下した魔犬達は死んではいないが、変貌した〝マザー〟に怯えきって登ってこない。圧倒的に〝マザー〟が有利だ。だが、人間離れした直感でアリサの言葉に無視できないものを感じとったのだ。
〝マザー〟の背後で音もなく漆黒のアカデミックガウンがひるがえった。
「……こういう意味ですよ。〝マザー〟。申し訳ありませんが、私はアリサにつきます。アリサ、私、そして魔犬の軍団を相手に、貴女ひとりでどこまで戦えますかねえ。見えますか。その予知で我々に勝てる未来が」
鼻眼鏡を光らせ問いかけるソロモンに、〝マザー〟が驚愕する。
「……ソロモン!? まさか使徒なのに〝刻〟を裏切るつもり?」
その怒りのうなり声に、ソロモンは冷笑で応えた。
お読みいただきありがとうございました!!
そして、即土下座!!
申し訳ございません!!
今回で二章を終わらせると言いながらこの体たらくです。
ですが、言い訳ではなく、ほぼ書き終わっているのです。ただ一番ラストのスカーレットとブラッドの締めの会話をもう少し練りたい……!!
あと数日で残りも投稿しますので、どうかちょっとだけお待ちを!!
……なお二章のラストバトルは、〝マザー〟との戦闘ではありません。もう読者様には気づかれてしまっているでしょうが、女性にとっての人生最大の戦いです。
では、次回もよろしければ、またお立ち寄りください!!
猛暑なので、皆様、どうかお気をつけられまして!!




