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変わらぬもの。そして、やくそく。お母様と赤ちゃんの命を守るため、ローゼンタール伯爵夫人は、そのすべてをかけ、アリサに立ち向かうのです。

ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!


今回、とてつもなく長いです。申し訳ございません。

ちょくちょく手直ししていくことになるかと思います。


【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】2巻が発売中です!! 鳥生ちのり様作画!! KADOKAWAさまのFLОSコミックさま発刊です!! 1巻ともども、どうぞよろしくお願いします!! ちなみに連載誌は電撃大王さまです。


またコミックウォーカー様やニコニコ静画様で、本日11時より17話②が無料公開されます!!


圧倒的な強さで魔犬ガルムを追いつめるスカーレットパパ。しかし、そのとき大水が押し寄せ……!! 果たしてスカーレットの運命と死闘の行方は1?


ピクシブ様やピッコマ様で読める回もあります。もちろん電撃大王さまサイトでも。ありがたや、ありがたや。どうぞ、試し読みのほどを。他に公開してくださってるサイトがあればぜひぜひお教えください。ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「こいとうたたね」も少し読めます。応援よろしくです……!! 原作小説の【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻】はKADOKAWAエンターブレイン様より発売中です。

……ローゼンタール伯爵夫人とお父様は再会をはたした。


ふたりが少年少女だった頃のつらい別れ。

そこから、幾多の暗い夜と長い誤解のときを経て。

彼女の死の間際にようやく。


それは峻厳で、だけど、胸をかきむしられるほど切ない光景だった。


「……ヴェンデルさま……。……私、ずっと……夢見てました……。……いつか、また……ロナって、呼びかけてくれるって……。……そして、私の手を……ぎゅって、握ってくれるって。……ふふ、馬鹿みたい。……いい年して、宮中の毒蠍がなんて夢を……」


ローゼンタール伯爵夫人は自嘲し、恥ずかしそうに微笑んだ。

その声がどんどんか細くなっていく。


「……だけど、まさか……願いが……かなうなんて……。……神様、お願いです。……どうか、この幸せな気持ちのまま……私を……死なせて……」


死を目前にしながら、彼女はとても安らいだ表情をしていた。


「……ロナ……!! 何万遍でも君の名前を呼ぶ。手だっていくらでも……!! だから、死ぬなんて言うな……!!」


お父様は震える声で言い、ローゼンタール伯爵夫人の手を、両手で包みこんだ。


「……嬉しい。……ごめんね。ロニー……テディー……。……こんなお姉ちゃんなのに、笑って死ねるなんて……。……、でもね、私……きっと地獄行き……。……だから、今だけでいいの……。……ヴェンデル様……どうか、最期に……私をその腕の中……で……」


言葉途中で、お父様の両手のあいだから、ローゼンタール伯爵夫人の手が、力なく滑り落ちた。


いけない!!


「……ローゼンタール伯爵夫人!!」


「ロナ!!」


お母様が悲鳴をあげ、お父様は跪き、ぐったりした伯爵夫人を受け取った。抱きしめた。だけど、あれだけ待ち望んだ人の腕のなかにありながら、ローゼンタール伯爵夫人の瞼は閉じられていた。しあわせそうな微笑をうかべた頬を、小さな涙が伝い落ちる。


「……ロナ!!」


ゆさぶるお父様の悲痛な叫びにも、その瞳が開けられることはなかった。

がっくりと項垂れた細い首が哀しく揺れる。


「……担架と医者の手配を!! 早く!! 安静にできる薔薇の間にまず運ぶのよ!! 部屋のストーブに火を入れて、体温低下にそなえて!! 毛布は!? 伯爵夫人のおつきのメイドはどこ!? 持病について知ってる人は!? この屋敷にある薬をありったけ持ってきて!! 薬学なら私も心得があります!!」


急転の事態がのみこめず、「赤の貴族達」や使用人が右往左往するなか、ヨーク卿夫人がすごいスピードで指示をとばしはじめた。


たしかに有能だ。だけど、無駄なんだ。

だって、これは持病なんかじゃない。医者でもどうにもならない。


やっと出会えたのに、あの指先のふれあいが最後に感じたものだなんて……!!

ずっとすれ違って、でも、ようやく心が通じたのに……!!

こんなのってないよ……!! 


「……ブラッド!! お願い!!」


私は叫んだ。


「わかってる!! まかせろ!!」


そして以心伝心、ブラッドは私の頼みを予測し、技の準備に入ってくれていた。


もちろん今までも彼は、ローゼンタール伯爵夫人の治療に全力を尽くしていてくれていた。やれるだけのことをやってくれた。


だけど、それはまっとうな手段の範囲においてだ。

これから行うのはいわば外道の法だ。


「……いまから、〝無惨紅葉(むざんもみじ)〟を最小出力で、伯爵夫人の心臓に叩きこむ……!!」


「……!?」


その宣言に、お父様、お母様、セラフィが、ぎょっとしてブラッドを見た。

当然だ。この三人は、魔犬ガルム戦の決め手となった〝無惨紅葉〟を目撃している。

あれがどれだけ凶悪だったかもだ。


〝無惨紅葉〟は、うった相手を内部から爆裂させる。くらった人間の心臓は、まず限界をこえた拍動をひき起こす。そして、送り出す血液が、超高圧の刃となり、体組織をずたずたに切り裂くのだ。


だけど、この技は、かつて心臓が停止しても動きまわった魔犬ガルムの心臓さえも、もう一度動かすことに成功したのだ。ローゼンタール伯爵夫人をよみがえらすには、もうこれしかない。ただ……。


「……正直に教えて。ブラッド。成功確率は半分以下なんでしょ。やめてもいいのよ」


「あちゃあ、信用ないな。オレって。これでも宗家の人間だぜ。泥船にのった気持ちでまかせときな」


ブラッドは苦笑してごまかそうとしたが、バカね。大船の間違いでしょ。語尾が震えてる。そもそもその蒼白な顔で無理しまくってるってわかるのよ。


あなたは「108回」の殺し屋稼業のときも、決して女子供には手をかけなかった。唯一の例外は女王だった私だけだ。


治療の事故とはいえ女の人を殺したら、ブラッドは自分を生涯許せないだろう。だけど、その優しさゆえに、どんなに心が傷つくリスクがあっても、人に手を差し伸べずにはいられない。


私は泣きそうになった。

彼の人の良さにつけこみ、私はなんてひどいことを頼もうとしているのか。


だけど、泣かない。泣くぐらいなら頼まない。


「私が頼んで、あんたにやってもらうんだから、全責任者は私よ。だいじょうぶよ。だって、私、ブラッドを信じてるもの」


だから、泣くかわりに私は彼にすべてを託す。


〝……ごめんね。もし、ブラッドが自分を許せない結果になったら、そのぶん私がブラッドを大好きでいるから。そして一生、ブラッドは悪くない。悪いのは私だ、って叫び続けるよ。だから、お願い!! がんばって……!!〟


私は声なき声援をこめ、〝無惨紅葉〟の態勢に入ったブラッドの背中の服をぎゅっと握りこんだ。謝罪と激励をこめ、とんっと額を彼の背にあてた。


ブラッドは不敵な笑いを口元に刻んだ。


「……ありがとな。ぬくもり伝わったよ。おちついた。スカーレットは、いつもオレを本気で奮い立たせてくれる。少しちびっこいけど、勝利の女神みたいなもんだ。だから、成功を祈っててくれ……!! いくぜ……!!」


私達は固唾をのんでブラッドの試みを見守っ……。


「……あっつぅ……!?」


ブラッドが悲鳴をあげてのけぞった。


え1? いくら私が子供体温でも、そんなに熱いわけが……。


「ス、スカチビ……!! ちょっと見せて」


振り向いたブラッドが、私のドレスの襟に手をかけ、胸元を開こうとした。


「ちよっと!? 私の胸をはだけてどうすんの!? 治療するのはローゼンタール伯爵夫人でしょ!?」


「……ちがうって……よく見ろ。真祖帝のルビーが……!!」


ブラッドに言われ、私はドレスのなかにしまいこんだ真祖帝のルビーが、布地を通すほどに輝きはじめていることに気づいた。まるで小さな太陽だ。そのまま、ひとりでに飛び出し、あたりを真紅の輝きに染めあげた。


ローゼンタール伯爵夫人が宝物にしてきた色褪せた薔薇のコサージュが、咲き誇るように鮮やかに発色した。


それだけではない。


「……綺麗……ヴェンデル様に買ってもらった、あの日のままの色……」


お父様の腕のなかで、ローゼンタール伯爵夫人が瞬きし、夢見るように呟いた。


い、意識が戻った……!? 


ルビーの強い光に染まり、ローゼンタール伯爵夫人の蝋のようにまっしろだった頬もまた、可憐な冬の薔薇のように色づいていた。人形に突然命が宿ったほどの劇的な変化だ。私は思わず目をこすった。ふと気配を感じて横を見ると、アーノルドが同じ動作をして、ぽかんと口を開けていた。


「おい、夫人の顔色、別人みたいによくなってねぇか……。今、死にかけてたんだよな……」


アホノルド、ものの言い方!!


だけど、私の気のせいじゃなかったんだ。


ブラッドも驚嘆して唸っている。


「……心拍に力が戻ってる。ルビーの光が生命力を活性化させた……? すごいな。〈治外の民(ちがいのたみ)〉の秘術でも、正攻法じゃ、もう手のほどこしようがなかったのに。だけど、治療だけでこんな回復がありうるのか」


うん、私もそう思う。まだなにか他に理由が……。


首を傾げていたブラッドが、思い当たったように、ぽんっと手をうった。


「そういえばさ。ルビーを身につけたスカチビとぴったりくっついてるときは、オレも身体能力がアップする気がしてた。納得がいったよ」


このメイド女装野郎。

考証を放り投げ、よけいな寄り道を。

誤解されるようなことを言うな。

アーノルドが唖然としてるじゃない。

納得いかぬ、とかセラフィが時代劇口調に変わってるし。

これは、おんぶとか肩車で、色気とは無縁の話なんだからね。


「なんにせよ、よかったな。だけど、オレ、意気込んでたのに、ぜんぶルビーにかっさらわれちゃった。かっこわる」


ブラッドはおどけて、ぺろっと舌を出した。もしかして、ちょっといじけてる?


……格好悪い? ううん、私のなかでは、あなたは最高のヒーローだったよ。


うん? ブラッドの耳が赤い?


ぎゃああっ!! また許可なく私の心読んだな!!


乙女の秘密を暴くとは不届き千万の極悪人!! 刀の錆びにしてくれるわ!!


「……私、死んだんじゃ……? それに、これは……」


事態がのみこめず、めざめたローゼンタール伯爵夫人は困惑していた。


そして、ブラッドにぽかぽかパンチを喰らわせていた私は、彼女の視線を追い、ようやく周囲の異常に気づいた。


ルビーの光のヴェールの向こうで、赤の貴族達の動きは停止していた。パニックの表情のまま凍りついている。ヨーク卿夫人が指示を出すあわただしいポーズのまま固まっているのがなんだかおかしい。必死の形相で、よく見ると目元に涙があった。本気でローゼンタール伯爵夫人を心配しているんだ。ドライな性格に見えたが、彼女なりの情もあるのだろう。


私達だけが不思議な停止の力を免れ、動けていた。


「……信じられない。周囲の時間が止まっている……? これも真祖帝のルビーの力のひとつなのか。こんなことが可能だなんて……」


ふだん冷静沈着なセラフィが狼狽しておろおろしていた。時代劇キャラはもうやめたのね。博識なだけに足元が瓦解した感覚なのだろう。だけど、私にはすぐわかった。これは時間停止じゃない。その証拠に普段よりゆっくりだけどちゃんと燭台の炎はゆらめいている。


「違うな。セラフィ。時間が止まってるんじゃない。これはアディスの技……。相手に認識されなくなる技〝幽幻(ゆうげん)〟だ。こんなことまで出来るなんて……。そうか。使い手がわからだと、こんなふうに相手が見えるのか」


アディスと直接の死闘を繰り広げたブラッドが、まっさきに真実にたどりつき、やや興奮気味にうなる。


七妖衆無貌のアディスは、見えない攻撃で、私達を一方的に翻弄した。あのときの私達と同じように、赤の貴族達には私達が見えていないし会話も聞こえてない。


真祖帝のルビーの底知れない力にあらためて私は戦慄した。人間離れした七妖衆の〝幽幻〟を、私達全員にまとめて発動するなんて……。


「たぶん〝幽幻〟のなかでは、ダメージが伝わるのも遅くなるんだ。きっとルビーはそのために発動したんじゃないかな……。そしてルビーの治癒が上回った。だから、伯爵夫人は意識を取り戻した」


私もブラッドの考察に同意だった。

アディスの不死身ぶりも説明がつくし。


「ロナ!! よかった……!!」


「……ヴ、ヴェンデル様……!!」


歓喜するお父様に抱きしめられ、まっかになったローゼンタール伯爵夫人は、しかし、すぐにはっと顔をこわばらせた。


「失礼しました。コーネリアさん。……いけませんわ。ヴェンデル様。愛妻家で名高いあなた様が、たわごとを真に受け、私なんかを腕にされては。ふふ、私も海千山千の悪い女ですが、コーネリアさんの鋭い目の前には、演技なんか見抜かれてしまいますわね。私、これ以上、コーネリアさんと敵対する勇気はありませんわ」


そう言うとお父様の腕から抜け出し、長椅子に自力で座ろうとはかる。


私達はあわてた。お父様もだ。


「動いちゃ駄目だ。ロナ……!!」


死にかけていたのだ。無茶にもほどがある。


だが、伯爵夫人の意志は固く、んーっと必死にお父様の胸を押しのけ、脱出しようと必死だ。


あの。海千山千の悪女はそんなリアクションしないと思うけど……。

女学生が、親友の彼氏とたまたま話してるのを見られ、大慌てで立ち去ろうとしてるみたい……。


伯爵夫人は必死になりすぎて咳き込み、私達はぎょっとした。

びっくりした。吐血したかと思ったよ。

力づくで制止してなにかあったら大変だし、どうすんのよ、これ……。


伯爵夫人をなだめるのに成功したのは、お母様だった。


お母様は両手をいっぱいに広げた。

そして、ローゼンタール伯爵夫人を、お父様ごとふわりと抱きしめた。


「……ローゼンタール伯爵夫人、これが私の気持ちです。あなたは悪女なんかじゃない。ヴェンデルがいつもどれだけ私達に、ロナさんという素晴らしい女の子のことを語ってくれたことか。守れなかった、謝ることさえもう出来ないと涙を浮かべて……。あなたたちが再会できて本当によかった……」


「……コーネリアさん……あなたって人は……」


うん、さすが私のお母様。ローゼンタール伯爵夫人が涙を浮かべ、一発でおとなしくなった。こういうときは千の言葉より、優しい一の抱擁だよ。お母様が女神様に見えてきたよ。


「……瞬時に標的を無力化した。さすが師匠、伝説の戦装束の継承者なだけのことあるぜ……」


アホノルド、ごくりと生唾のむな。

台無しになるから、あんたは黙ってなさい。


せっかく私がお母様に対して抱いた、白いヴェールをまとった清楚な女神様のイメージが、例のメルヴィルの破廉恥衣裳の荒ぶる戦女神様のイメージに、さま変わりしちゃったじゃない!!


とにかくね!! いじめにあって苦しんだお母様は、そのぶん人の心の痛みがわかるの。ロナだって本心では恋い焦がれたお父様との再会の抱擁を望まないわけがない。そんな恰好いいお母様の娘であることを、私は心から誇りに思うよ。


お母様は、そっとローゼンタール伯爵夫人から離れた。


「さあ、ヴェンデル……」


うながされたお父様もうなずき、ローゼンタール伯爵夫人を抱きしめる腕に力をこめた。


「……すまなかった。ロナ……。 ずっと会いたかった。謝りたかった。なのに、僕はこんな近くにいた君に気づかず、憎み続けて……!! なんてひどいことを……!!」


お父様の慟哭に、ローゼンタール伯爵夫人も嗚咽し、声を詰まらせた。


「……謝るのは私です……。あんなに世話になったヴェンデル様にも、マリエルさんにも、お爺さんたちにも、何も言わずに……。迷惑だけかけて、いなくなるなんて……。さぞ恩知らずと……。ごめんなさい……!!」


「……ロナ、なにか話せない深いわけがあったのだろう? 君の誠実さはわかっている。僕だけじゃない。じい達みんながだ。誰もロナを恩知らずだなんて思うものか。生きていてくれさえすればいい。どんな形でも帰ってきてほしい。それだけがみんなの願いだった」


「……みなさん……が……? ……ヴェンデル……様……!!」


震えるローゼンタール伯爵夫人は迷子の小鳥のようだった。

どれだけ傷ついた翼で、孤独に飛び続けてきたのだろう。

だけど、彼女はやっと止まり木に戻ってこれたのだ。


今のローゼンタール伯爵夫人は、年齢よりずっと幼く、少女のようにはかなげに見えた。きっとお父様と別れた炎の夜に心が戻っているのだろう。社交界の女王として決して見せなかったぐしゃぐしゃになった表情の彼女に、お父様がほほえんだ。


「……もう泣かないで。大切な言葉を忘れていた。あのときの仲間達は、もう僕ひとりになってしまったけれど、ずっとみんなが口にしたかったことだ。……おかえり、ロナ」


きっとそれは彼女が何十年も思い焦がれた言葉だったのだろう。


「……ヴェンデル様……!! ……私……!! 私……!!」


あとは感極まってまともな言葉にならなかった。


「……ただ……いま……!! ……ヴェンデル……様……!!」


かろうじてそう返事をしぼりだし、ローゼンタール伯爵夫人は、お父様の胸にしがみついて童女のように大声で泣きだした。


「……ごめんなさい……!! 私……泣くの、我慢できなくて……!!」


「……いいんだ。僕が悪かった。かわいそうに……どれだけつらい思いを……。いくらでも泣けばいい。君が泣くために胸を貸すことぐらいは、僕にでもできるから……」


そう口にするお父様のまなじりにも光るものがあった。


ひとしきり号泣したあと、少し落ち着いたローゼンタール伯爵夫人が、しゃくりあげながら語り始めた。


「……ほんとうは……すぐに名乗りをあげたかった……。みんなのところに戻りたかった。でも、出来なかった……!! 出来なかったの……!!」


私は胸をつかれた。ロナがどうして身分を明かせなかったか……。お父様の元に帰らなかったか。聞かされた話から、悲しすぎる理由の見当がついたからだ。


「わけを話してくれるかい。ロナ。みんな、ロナを探し続けていたんだ。忘れない日はなかった。マリエルさんは、せめてロナのような子を救おうと孤児院をつくって……」


お父様に言われ、ローゼンタール伯爵夫人はうなずき、寂しそうにほほえんだ。


「知っています。孤児院の子達に聞きました。ずっと私のことを妹のように思ってくれていたって……。私も、マリエルさんのことを、ずっとお姉さんのように慕っていました。生きているあいだに、せめて、もう一度だけでもお会いしたかった……」


そう言うと幾筋も涙を流した。


「……だけど、あの炎の海で、私が生き延びたんです。だったら、あの異端審問官マシュウだってきっと生きている……。毒蛇みたいなあいつは諦めない。私がいれば、きっとまたみなさんを巻き込んでしまう。私のせいで……また……!! もし、みなさんが弟達のような目にあったら、そう思うと……!!」


悪夢の夜のことを思い出したのだろう。再び震えがとまらなくなるローゼンタール伯爵夫人を守ろうとするかのように、お父様は彼女の肩を強く抱きしめた。


「……マシュウのことは僕らも注意していた。あの悪魔はあのときたしかに死んだ。間違いない。教会の死亡記録も何度も確認した。ロナは弟達の仇を見事に討ったんだ」


ローゼンタール伯爵夫人はお父様の胸に顔をうずめたまま、いやいやをするように悲しい叫びをあげた。


「……弟達の仇を討てたのは、ヴェンデル様たちのおかげ……。私は弟達になにもしてあげられなかった……!! ……私も、ずっとあと、寵姫になってから教会の秘録で、マシュウの死を確認しました。だけど、それがなんになりましょう。だって、もう……弟達は戻ってこない……!! 私のせいで……!! どうして、あんな優しいロニーとテディーが死んで、こんな汚れた私なんかが生き残ったの……!!」


ローゼンタール伯爵夫人の慟哭を止めようとするかのように、お父様が腕に力をこめた。


「汚れたなんて言うな。私なんかがなんて言うな。君はなにも悪くない。あの夜、君は命をかけて弟達を救おうとした。僕はそれをよく知っている。……君はずっと綺麗だ……!! 誇り高く咲く冬の薔薇のままだ」


お父様がそう慰めたが、ローゼンタール伯爵夫人はうなずかなかった。ただお父様の褒め言葉に嬉しそうに笑った。


お父様が蒼白になった。お父様にもわかったんだ。これは死にいく者の笑顔。彼女は自分を許さないまま、お父様との再会を人生の手向けとして逝くつもりだ。


「……ふふ、宮中の毒蠍にそんな台詞、笑われますわよ。だけど、嬉しい。橋の上から身投げしようとしたとき、ヴェンデル様は、同じことを私に言ってくれました。どんなに嬉しかったか。よごれきった私のなかで輝く綺麗な思い出。……また聞けるなんて夢みたい。もう、私……思い残すことなんて、ありません……」


「ロナ……!! 駄目だ!! まだ逝くな!! 話したいことがまだたくさん……!!」


お父様の呼びかけにも、ローゼンタール伯爵夫人は困ったようにほほえみ、申し訳なさそうにかぶりを振るばかりだった。


……彼女の心のなかでは、弟さん達を喪失した、自責と悲しみの雨が降り続けている。自分を許す気も救う気もないその意志は、お父様でも止められない。


だけど、もしかしたら真祖帝のルビーなら、ローゼンタール伯爵夫人の悲しみの雨をやませ、その心を救えるかもしれない。亡くなった三老戦士達の記憶を、みんなが見せられたときのあの力があれば……!! 


「お願い、こたえて……!!」


すがるような気持ちで私はルビーに祈った。


だって、こんなの悲しすぎる……!! なにより彼女の弟さん達がこんな結末を望むはずがない!!


でも……ルビーの反応はまったくなかった。


ルビーとの仲介をしてくれる光蝙蝠族(ひかりこうもりぞく)の霊達が沈黙している今、私ではルビーの力を自由に発揮できないんだ。今の治癒と〝幽幻〟も私が狙って発動させたわけじゃない。


なんて無力なんだろう。これじゃ守られてるだけの赤ちゃんのときと変わりやしない。


落胆と悔しさで唇を噛みしめる私に、


「違うぜ。ひとりで頑張ることだけが強さじゃないんだ。ルビーを前に出しな。スカーレット」


とブラッドがおだやかに呼びかけ、私の頭をぽんっとした。


いぶかしげに私が言葉に従うと、こともあろうに、彼は真祖帝のルビーに自分の手を重ねた。


「ブラッド!? やめて!!」


真祖帝のルビーの呪いが発動する!!


悲鳴をあげてルビーをひこうとした私の手を、ブラッドはもう片方の手でおさえた。


「たぶん大丈夫。さっき布越しにだけどルビーが背中に触れたとき、なんだか力を貸してくれる気がしたんだ」


ブラッドの言うとおりだった。ルビーは輝きを増したが、ブラッドに異変はない。前に触れたときは全身が炎に包まれたのに……。


「……な、スカチビ。ひとりじゃ出来ないなら、オレ達も力を貸す。おまえはオレに〝血の(あがな)い〟のきっかけをくれた。だったらその逆だって出来るはずだ。男の勘ってやつ?」


ブラッドは悪戯っぽくウインクした。


男の勘なんてはじめて聞いた。なによ、あんただけ大人もになりそこねて、あいかわらずの女装姿なんてしてるくせに。今の成人姿の私とそんなに背だって変わらないじゃない。だけど、彼の言葉にはあたたかさがある。なぜか説得力がある。さっきブラッドは、私が奮い立たせてくれるって言ってくれたけど、逆だよ。いつも私に勇気をくれるのはブラッドのほうなんだ。鼻の奥がつんとした。うん、なんとかなる気がしてきたよ。


「……セラフィもアーノルドも協力してくれ。ルビーに手を重ねるんだ。オレたちの気合で、スカチビを支える。きっかけさえあれば、こいつなら、きっと奇跡をやってのけるはずさ」


ブラッドにうながされ、二人も加わり、出陣式のようにルビーに手を伸ばした。


さすがにセラフィは片頬がひきつっている。真祖帝のルビーといえば、大陸最悪の呪いアイテムとして名を轟かせた。500年のあいだに殺された人間は数知れない。いくら私の継承後に呪いが緩和されたとはいえ、よくためらわず手を伸ばした。ライオンの口に手をつっこむほどの勇気がいったはずだ。なのに、セラフィは、先に伸ばしかけていたアーノルドの手の前に無理に割りこんだ。自分の身体でまず呪いを確かめようとしたんだ。


呪いは発動しなかった。

平静を取り戻し、セラフィが苦笑する。


「気合ではなく、想いというべきでは? あいかわらずブラッドは感情論ですね。だけど悪くない。ボクの勘も正解だと告げているし、なにより女性の心の涙を晴らすのは紳士のつとめです。やれる可能性はすべて試すべきです。」


嬉しい。クールに見えてもセラフィは情に厚い。ローゼンタール伯爵夫人の苦境を見過ごすはずがないんだ。


アーノルドは歯をむいて獰猛に私に笑いかけた。


「いいねえ、同感だ。女の涙は男の恥よ。さすが俺様の親友だぜ。ま、俺様はよ。ブラッドやセラフィたちと違って、スカーレットとはそんなにつきあいが長くねえ。けどよ。背中がぞくぞくしやがるんだ。きっととんでもない事をしでかすにちげえねえってな。セラフィが船乗りの勘なら、こっちはさしずめ狩人の勘ってやつだな。スカーレットに託すぜ。もってけよ。俺の想い……いや、やっぱ気合のほうがしっくりくるな」


セラフィと違い、真祖帝のルビーの呪いを知らないだけに元気いっぱいだ。


「……それに、最悪の呪いのルビーに触るんだ。気合だって必要ってもんだぜ」


えっ!? 知ってたの!? よく見ると顔色が悪い。無理して元気をよそおってたのか。


「セラフィに感化されて勉強なんかはじめるんじゃなかったぜ。おかげで怖いもの知らずじゃなくなっちまった。それとな。セラフィ。次に同じことをしたら殴る。俺は親友を盾になんかしたくねぇんだよ」


セラフィが苦笑して謝った。

アーノルドもルビーに触れることはためらわなかった。


野性味あふれるあんたなんかの気合をもらうと、清楚な私が野獣化しそう……。だけど、そのまっすぐな信念と雄々しいまでの優しさを、今は私に貸して。


……まったく、たいした男の子達だよ。


しあわせに背を向け、孤独に暗闇のなかを歩んだロナと違い、私にはこんなにたくさんの頼れる仲間たちがいる。みんなのあったかい心が息遣いと体温を通して伝わってくる。私を後押ししてくれる。どんなに国を守ろうと努力しても、国民にそっぽを向かれた女王時代とは違う。


私はルビーを両掌にのせたまま、指先をたて、みんなの手に触れた。


ブラッドの言う通りだ。

ひとりで戦うことだけが強さじゃない。

そして、今の私はもうひとりじゃないんだ。


私がみんなからそうしてもらったように、私もロナに手を差し伸べたい。旅立ちは蒼天のしたであるべきだ。あなたの悲しみの涙雨、私が吹き飛ばしてあげるから……!!


そう心から願ったとき、ぼうっとブラッド達の体が薄く白く光った。なにか凄まじい力が目覚め、ゆっくり身を起こすのが感じられた。地鳴りのような予兆がびりびりと大気を震わす。


「……これは……!?」


セラフィとアーノルドは驚きに息をのむが、ブラッドは思惑通りというふうに微笑み、重ねていないほうの手でサムズアップした。


「……やっぱりな。スカーレットとオレ達には妙なつながりがあると思ってた。くるぞ。力の扉がもうすぐ開く。オレが〝血の贖い〟に覚醒したときみたいに……。……やってみな。おまえの思う通りに。なにかあっても、オレたちが、きっとおまえを支えるから」


セラフィが、アーノルドが、視線を私にあてて頷く。


「彼」の言葉が、稲光のように脳裏によみがえる。


「―真祖帝のルビーは、世界の境界(かべ)を打ち壊す。生者と死者の想いさえつなげられるおまえの本当の力。それにふさわしい護帝宝石だー」


あのときの「彼」との邂逅は心の世界での出来事だった。そのせいか会話の内容を今までほとんど忘れていた。いや、たぶんリミッターをふりきった力を発動し、私に負荷がかからないよう「彼」がなんらか記憶の操作をほどこしたのだろう。


だけど、もし、私に本当にそんな力があるのなら。今は、今だけは。


「……お願い、真祖帝のルビー。私に力を貸して……!! 悲劇に翻弄されたひとりの女性の悲しい夜を終わらせるために……!!」


私は祈った。


〝……そうよ。誰かのために祈るとき、あなたに出来ないことなんてない。だって、それがあなたの力の源だもの。だからこそ、あなたは真祖帝のルビーの後継者……。そして今ここに、五人の勇士の三人までが集っているわ。まわして。彼らとともに、もう一度、運命の星々を……〟


アンノ子ちゃんの声が、私の耳元で優しくささやいた。


私とブラッド達の手とルビーが重なっているところで、ごおっと力の塊がふくれあがり、私めがけて雪崩れこんできた。


「……ルビーの目が……開く……!!」


はじめて目撃したアーノルドが驚きの声をあげる。


真祖帝のルビーの閉じていた瞳が、ゆっくり開かれていく。


重い錠ががちゃんとはずれた衝撃が、私の背筋を貫き、のけぞらせた。見えない感覚の扉が開き、すさまじい力が龍になって渦巻く。ブラッドがはじめて〝血の贖い〟を使用し、私が感覚を共有した時と同じだ。


「くるっ!! みんな、スカチビを守れ!! 手を離すなよ!!」


「おうっ!! まかせやがれ!! 死んでも離さねエ!!」


「……っ!!」


帯電したように私の髪が逆立った。


強い光と激しい風が発生し、私は吹っ飛びそうになったが、重ねた手を握りしめて、ブラッド達が支えてくれた。それだけでは足りないと察し、ブラッドとセラフィは空いてる片手を私の背中にまわし、守ってくれた。ぎゃああああっ!! アホノルド!! 掴むとこないからって髪の毛を掴むな!! 離せ!! 私の毛根がハゲて吹っ飛ぶ!!


強風はすぐにおさまったが、ルビーの輝きはそのままだった。私からブラッドたちが手を離しても変らない。


……嵐のような衝撃は一瞬で通り過ぎ、万華鏡のような光が、道が、私に繋がった。ルビーから輝きの雨となってあふれだし、私達に降り注ぎ、胸を貫いた。三老戦士のときと同じだ。


それはあまりに切ない、ロナの、ローゼンタール伯爵夫人の記憶の花吹雪だった。


アーノルドが驚きに息をのむ。


「……すげえ。光の羽根がいっぱい降ってるみてぇだ。これがスカーレットのやりたかったことかよ」


「ちがうよ。これもそうだけど、私が本当にしたかったのは……」


私は言いよどんだが、押し寄せる悲劇に圧倒されて、言葉を失った。わずかのあいだに、私達はロナの人生を追体験し、共有した。


……幸せだった何ひとつ不自由のない幼年期。父親の借金による理不尽な没落。落ちぶれて流れ着いた貧民街。酒浸りになった父親の暴力。それでも精一杯の愛と教育をそそいでくれた母親、双子の弟達と支え合って生きてきた、貧しいけれど優しい日々。ロナの母親と弟達へのあたたかい気持ちが伝わってくる。


「……!!」


母親への思い入れの深いセラフィは、すでにつらそうに唇を引き結んでいた。彼もまた、没落の苦汁を舐めさせられた。天涯孤独になったが、友と仲間に恵まれ、力をあわせてどん底から這い上がった。両親の仇ともいうべき魔犬も討った。


けれど、ロナにとって良心的な大人は母親ひとりだった。母親の過労死のあと、助けてくれる大人は誰もいなかった。酒で正気を失っている父は、ロナ達を我が子ではなく道具としか考えておらず、幼いロナは春をひさぐことを強要された。


「……くそったれのど外道が……!!」


正義感の強いアーノルドの髪が怒りで逆立った。


男達の欲望を叩きつけられるにはロナの体は未熟すぎた。恐怖。流血。狂いそうな自己嫌悪と日増しに激しくなる痛みで、眠れぬ夜……。男達に壊れた玩具のようにぞんざいにあつかわれ、身を丸めて何度も嘔吐した。なのに稼いだ金すべてが、父親の酒代に吸い上げられた。


「……い、いや……こんな汚い私の記憶を……見ないで……」


弱弱しく呟き、涙を流すローゼンタール伯爵夫人の震える体を、お父様は強く抱きしめた。


「ロナ、何度も言わせるな。君は昔からずっと綺麗なままだ。その魂の気高さは、たとえどんな境遇でも汚すことはできない。同情じゃなく、僕は君を心から誇りに思う。なにがあってもその気持ちは変わらない。なにがあってもだ……!!」


血を吐くような叫びだった。彼女のほつれ毛を直すお父様の指先は震えていた。


お父様がどんな思いでロナを守りたかったと口にしていたか。ようやく私達は正しく理解した。お父様はロナの過去を知っていたのだ。


父親の暴力で歩けなくなった弟のテディーを守るため、ロナは逃げるわけにはいかなかった。稼ぎ頭のロナがいなくなれば、テディーももうひとりの弟のロニーも飢え死にしてしまう。まだ幼かったロナは母親の代わりを果たそうと必死だったのだ。


……弟達を守りたいがゆえに、ロナは絶望しながら、地獄に踏みとどまり続けた。


そして治療もできない傷が膿み出し、発熱が続くようになったロナは、自分がもう長くないと悟り、弟達に少しでもまとまった金額を残すため、異端審問官にあこがれる狂人に自らを売り、箍が外れた行為で致命傷を負った。


「……!!」


白馬の王子様を夢見ていた元良家の子女がたどった救いがない過去……。その情景に、女のお母様と私は立ちすくむしかなかった。女にとっては死んだほうがましな最低の屈辱と苦悶の道だ。自暴自棄になっても、自殺してもおかしくない。なのに、ロナはひたすらに歯を食いしばり、弟達のために孤独にもがき続けたのだ。


激情家のアーノルドは、ロナのけなげさに拳を握りしめて、大声でもらい泣きをしていた。


「……あんたは何ひとつ汚れてなんかいやしねぇ。誰かを守るためについた汚れは汚れなんて言わせねえ!! なんなんだよ、これは!! くそったれが!! ひどすぎるじゃねぇか!! あんたはまだ小さな女の子だったのに、ひとりぼっちで全部背負ってよ……!! ちくしょう……!! せめて、俺がそこにいたら……!! ろくでなしどもをみんなぶっ飛ばして……あんたを救ってやれたのによ……!!」


アーノルドの叫びは、私達みんなの想いの代弁だった。


……致命傷と引き換えに、弟達に遺すお金を得たロナは、死が迫った自分のことを忘れてもらうため、弟のテディーにわざと悪態をついた。ロナは泣き顔を悟られないよう弟に背を向け、「もうあんた達の面倒を見るのはうんざり。私はこれからは自由に生きるから」と冷たく吐き捨て、別れを告げた。そして弟に声が聞えないところまで離れたところで、泣きじゃくり弟達に謝りながら、死にかけの体を引きずり、母との思い出の橋から身投げしようとした。


「……ひどい女でしょ。弟達を平気で傷つけて。自分だけ勝手に死のうなんて……」


自嘲するローゼンタール伯爵夫人の言葉を、たえきれずお母様が遮った。


「……ひどいなんて思えるわけない……!! 全部、弟さん達を守るための優しさじゃないの!! あなたを非難する資格なんて誰もない!! ……私だって、他に道がなければ、きっと貴女と同じことをしたわ……!!」


メルヴィルの家は家族への情が深い。おのれのすべてを擲ちながら、弟達のために憎まれ役までしたその愛に、お母様はローゼンタール伯爵夫人に身を寄せて泣いた。


……だが、その人生のどん底で自殺しようたとき、粉雪が舞う凍えた橋の上で、ロナは少年の頃のお父様に出会ったのだ。


ロナにとってそれは奇跡のはじまりだった。


そして、危険もかえりみず引き上げてくれ、「自分が嫌い。死にたい」と泣く彼女を、「君の瞳は綺麗だ」と、抱きしめてくれた貴族の少年に、一生に一度の恋をした。ロナはお父様のもとに引き取られ、生きる喜びを知った。ローゼンタール伯爵夫人がどんな宝物よりも大切にしている古びた薔薇のコサージュは、そのときお父様が贈ったものだった。


私達は息をのんだ。


ロナの記憶が魔法をかけられたように輝いていく。


ロナに安らぎを与えてくれたのはお父様だけではない。お父様の後見人だったブライアン、ビル、ボビーの三老戦士。それに瀕死のロナを治療し、いろいろなことを教えてくれた元〈治外の民〉のマリエル。優しく頼れる大人達がこんなにいるのだと驚き、大好きなお父様と一緒に笑い合った日々。とても短いあいだだったが、ロナにとってかけがえのない想い出たち。マリエルの奏でるゆるやかな調べにのり、三老戦士が笑顔で見守るなか、お父様とメヌエットを踊ったロナは、頬を染め、胸がしめつけられるくらい幸福そうに微笑んでいた。タウンハウスのその一室は、どんな煌びやかな舞踏の間より、ロナの記憶のなかで美しかった。


「……そうだったの……。だから、貴女は良人の……ヴェンデルの踊りを知っていたのね」


お母様の言葉にローゼンタール伯爵夫人は恥ずかしそうに頷いた。


たぶん彼女は何万回もその色褪せない記憶を反芻したのだ。お父様のわずかな癖さえも気づくほどに。いじらしいまでの恋心だった。その思い出を垣間見た私達は、幼いロナのしあわせを祈らずにはいられなかった。


……だけど、おそろしい破滅の夜はやってきた。


お父様は、ロナの弟達も呼び寄せ、姉弟三人でずっと仲良く暮らせる手筈を整えていた。マリエルは弟の足を治せると言ってくれ、三老戦士は一人前の戦士に鍛えてやると笑いかけてくれた。


「……自分で言うのもなんだけど、〈治外の民〉のなかで、宗家の技量は別格だ。だけど、たまに強い思いがきっかけでさ。宗家以上の奇跡を起こす人が出てくるんだ。このマリエルさんもそうだ。宗家のオレが保証するよ。たぶん弟さんの足も治せたはずだ。よっぽどロナさんに思い入れがあったんだろうな……」


一連の過去の記憶を見て感慨深げにつぶやくブラッドに、ローゼンタール伯爵夫人は誇らしげに頷いた。


「……マリエルさんは……見ず知らずの私を本当に可愛がってくれたわ。三人のお爺さん達も。……強くてあったかい本当の大人の人達だった……。あの恩は一生忘れないわ……」


そうだ。ロナの苦労がむくわれるときは、希望に満ちた明日は、手を伸ばせば届くところまで来ていたのだ。だが、魔女狩りが、ロナの希望を木っ端みじんにした。


……そこからは目をそむけたくなる酸鼻をきわめた記憶の連続だった。


ロナ達姉弟はスケープゴートとして、異端審問官マシュウに目をつけられていた。きっかけは、ロナの客で、魔女に見立てた彼女を、異端審問官きどりの行為で殺しかけた狂人だった。薬物で正気を失った人間の告発を、審問所は信頼に足ると判断した。人の謀略と欲望と狂気が渦巻くさまに気分が悪くなった。


「……ひでえ。吐き気がする。なんで学があるはずの教会の連中が、魔女なんて頭から信じてるんだよ!? ちょっと調べりゃありえないってすぐわかるだろうによ」


不快なおぞましさに、アーノルドの金色の目が怒りでつりあがっていた。セラフィが長いため息をつく。彼のエメラルドの瞳も嫌悪で曇り、肌はそそけだっていた。


「……異端審問官だって魔女なんて信じちゃいなかった。……だけど魔女と認定した者は、処刑か拷問で好きに殺せる。たとえどんな資産家だろうとだ。そして死んだ魔女の全財産は異端審問所が没収できる。それが本当の狙いだ。それに死人に口なしで、どんな非道な言いがかりも当事者を殺してしまえばすべてうやむやに出来る」


膨大な戦費がかかる戦争に比べ、魔女狩りの費用はおそろしく安く済む。良心さえ捨てれば、きわめて効率的な金儲けなんだと、吐き捨てるセラフィの説明に、アーノルドが激昂した。


「財産狙いで魔女狩りをでっちあげたってのか!? 狂信者よりタチが悪いじゃねえか!! 人は物じゃねえ!! ひとりひとりの人生と命があるんだ!! それがわからねぇ教会なんぞ、地獄の業火で焼かれちまえ!!」


……アーノルドの怒りはもっともだ。だが、補足がいる。


「魔女狩り」で暴走したのは、教会中央ではなく、地方の異端審問所だ。


中央では「魔女」を殺しはしなかった。せいぜい厳重注意か、わずかな罰金ですませていたのだ。ひとりよがりではあったが、すべての「魔女」を、彼らの思う「正しい信仰」に導こうと本気で考えていたからだ。殺してしまってはなんにもならない。


いっぽう地方の異端審問所にとって、「魔女」とは、教え正すべき者ではなく、ただの金づるだった。しかも殺してしまえば罰金だけでなく、全財産を没収できる。「魔女」が増えれば増えるほど、連中は潤ったので、讒言、密告、でっちあげ、あらゆる汚い手が横行した。だから、「魔女」の発見はたいてい一人では済まず、街中に「魔女狩り」が吹き荒れることになった。


のちに見かねた教会本部が、地方異端審問所と対立し、彼らから「魔女」の財産没収の権利を取り上げるまで、この悲劇の連鎖は止まらなかった。


教会中央に縁がなかったロナにとってはなんの救いにもならない話だ。そのうえロナ達姉弟がひきあてた不運は、極めつけに最悪のヤツだった。


ロナ達をはめた異端審問官マシュウは、三老戦士をして、「人間の悪のごった煮」と言わしめた元傭兵だった。


マシュウは、ロナが命を懸けて守りたかった弟達に、「姉を魔女として処刑されたくなかったら、自分に協力しろ」と迫った。彼らは愛する姉を助けようと、涙ながらにその言葉に従った。


ロニーは、街に尽力した有力者達を魔女として告発し、街中の怒りをかい、リンチにあった。テディーは、獄卒に面白半分に拷問され、人の形さえ留めず死んだ。


……彼らの酷すぎる最期はとても詳細を口にする気になれない。


そして、姉に幸あれと最後まで願った彼らの死に際に叩きつけられたのは、最初から口封じで姉弟とも殺す気だったという嘲笑だった。ロナはマシュウの高笑いの響くなか、魔女の処刑台の炎の前で、その事実を知らされた。


「……ほんとうにいい子達だったのよ。あなた達みたいに。だけど、私のやったことが、弟達を死に追いやってしまった。あんなひどい死に方をしていい子達じゃなかったのに!! 全部、全部、私のせい。……私がいなければ、ロニーもテディーもきっとまだ生きていた。私なんか……生まれてこなければよかったのよ……!!〟


ローゼンタール伯爵夫人の悲痛な思いが、すすり泣きが、私達の胸に突き刺さる。


「ロナ、もうやめろ!! そんな悲しいことを言うな!! 君はなにひとつ悪くなかった!! 僕は誰よりそれを知っている!!」


お父様が抱きしめた腕に力をこめて慰めるが、ローゼンタール伯爵夫人はがんぜない幼児のように、涙をぽろぽろ零し、首を横にふるばかりだった。


「……ごめんね……!! ロニー……!! テディー……!! ごめんね、最低なお姉ちゃんで……!!」


果てることのない後悔と慟哭……。その炎の夜から、ロナが弟達のことを思い出し、涙しない日はなかったのだ。


……私は、奇跡的に生き残った彼女が、お父様達のもとに戻れなかった本当の理由を悟った。予想通りだった。贖罪だ。弟達が死んだのに、自分だけしあわせになることが許せなかったんだ。


なんて悲しい優しさ……!! 


だから、あたたかい場所に自分から背を向け、何十年もひとりぼっちで苦しんできたんだ……!! 本当はすぐにでも飛んで戻りたくて、でも、どうにも出来なくて……!! 


彼女の心に降り続けていた悲しみの雨が見える。


追憶に焦がれ、マリエルの家の近くまで行き、豪雨のなか、涙を流して何時間も立ち尽したこともあった。三老戦士が教官をつとめていた王家親衛隊の教練場を、遠くの馬車のなかからひそかに窺ったりもした。会いたくてたまらなかったけれど、死んでいった弟達を思うと、どうしても出ていくことができなかった。 


……やっと頼れる大人達との再会の夢がかなったのは彼らの死後だった。三老戦士のお墓の前で、そして葬儀前のマリエルの亡骸にとりすがって、謝罪の声をあげて泣いているローゼンタール伯爵夫人の寂しい後ろ姿は、見るのさえつらいものがあった。


……そして、ロナは、先王の寵姫ローゼンタール伯爵夫人にのしあがった。暴君だった先王に疎まれていたお父様を、陰から権力で守るために。


……先王の側にはべり、表ではお父様を冷たく嘲笑いながら、裏で手をまわし、必死にお父様を窮地から救い続けた。何度もお父様のそばに駆け寄りたいと切望し、だけど、そのたびに想いを押し潰し、悪女の仮面をかぶりなおし、誰にも見られないところで、薔薇の髪飾りを抱きしめ、声を殺して泣いてきたんだ。


「君は僕のために寵姫になったのか……!! なんで、そこまで……!!」


はじめて知る切ない真実に、お父様は涙を流し、彼女を抱きしめるしかなかった。


初恋の人のために半生をかけた彼女だが、運命はどこまでも冷たかった。


お母様をいじめから救おうとしたときは、お母様の得意分野の弓矢を持ち出したところを、お父様に目撃され、いじめの首謀者と誤解され、憎しみを一身に受けた。ローゼンタール伯爵夫人の胸が張り裂けそうな記憶に、お母様は滂沱の涙を流した。


「……やはりあなたは、あの舞踏会で、私を助けようとしてくださったのですね……。あのとき、私は味方など誰ひとりいないと絶望していた。一番の味方はすぐそばにいてくれたのに!! 私が勇気を出して、あなたをしっかり見さえすれば、こんなことには……!!」


誤解していたお父様の悲痛はもっと深かった。


「……あの夜、君が弓矢を手にしていたのは、コーネリアを助けようとしてだったのか……!! なのに僕は……!!」


苦悩するお父様とお母様に、ローゼンタール伯爵夫人はほほえんだ。


「私のあだ名をご存じでしょう。宮中の毒蠍ですわ。やってきたことを思えば、誤解されて当然。いわば、悪事のつけを払っただけ。おふたりは何ひとつ悪くありません」


そうなだめるローゼンタール伯爵夫人のおだやかな語調の奥底には、自身への嫌悪が流れていた。この人は弟さん達を救えなかった自分を許せてないんだ。心のどこかで常に罰を求めている。だから不幸を当然と受け入れてしまう。誰よりも愛情深かったこの人は、自分に永遠の呪いをかけてしまったんだ。


みんな、そんなことは望んでいないのに。

亡くなった弟さん達だって喜ぶはずがない。むしろ誰より悲しむよ。


だけど、ローゼンタール伯爵夫人の悲しみの元凶を取り除くのは、この場にいる誰にもできない。それが出来るのは……。


気がつくと、こらえているつもりの涙が、私の頬を伝っていた。


私の涙のしずくが、ティアドロップ型の真祖帝のルビーに落ちたとき、さらなる光が放たれ、波紋になって広がった。引っ張られるように、私の知覚がぐんっと一気に拡大した。霧が晴れたよう感覚が鮮明になる。


私は、悲嘆に暮れるローゼンタール伯爵夫人に寄り添うように、ずっと小さなふたつの光が動き回っていたことに気づいた。まるでホタルのように瞬き、伯爵夫人に気づいてもらおうとしていたが、輝きは今にも消え入りそうだった。


「……見つけた。やっばり、ここにいてくれたのね……」


予感したとおりだった。私はすでにその正体がわかっていた。


たとえ死んでも人は愛していた者への思いを遺す。私はそれを見つけられる。「彼」はそう私に教えてくれたのだ。


手を差し伸べると、光は子猫のように身をふるわせ嬉しそうに私に近づいてきた。真祖帝のルビーが慈しむようにきらめく。指先で光に触れると、おだやかな気持ちが私に流れこんできた。


「……そうだったの……。 それが、あなた達の願い……!!」


そのあまりに美しい感情に、私はまた泣きそうになり、光をぎゅっと胸に抱きしめた。


「……なにしてるんだ? スカチビ。……!! もしかして……!!」


いぶかしげに尋ねたあと、はっとなったブラッドに、私は嗚咽をこらえ、やっとの思いで答えた。


「……うん、そうだよ。……これは、ロナさんの双子の弟さん達……。ロニーとテディーの記憶よ。ずっと……ロナさんの側にいたの」


はじかれたようにローゼンタール伯爵夫人が身をおこした。


彼女が目を凝らすと、ふたつの光は強さを増し、誰の目にも見える光球に実体化した。それは蝋燭が燃え尽きる前の最後の輝きだった。


「……ロナさん。……この光を、この子達の記憶を、抱きしめてあげて……。わかって、この子達がなにを望んでいたかを……!!」


差し出そうとしたが、ローゼンタール伯爵夫人はまっさおになった。


「……い、いや……!! 私に、ロニーとテディーの記憶に、触れる資格なんてない……!! だって、私のせいでふたりは……!! ……ごめんなさい……!! ロニー、テディー……!!」


泣き崩れるローゼンタール伯爵夫人を私は叱咤した。


「……泣くほどふたりを愛してるなら、どうして抱きしめてあげないの!! これは最後の輝き。この子たちの記憶はもういつ消えてもおかしくないのよ。それとも本当は愛してないの!? だったら、あなたには渡さない。……消えるまでずっと私が抱きしめていてあげる」


荒療治で気がひけるが時間がないのだ。弟さん達の記憶もそうだが、ローゼンタール伯爵夫人の命もいつ尽きてもおかしくない。


「……!! あんたなんかに何がわかるの……!!」


ローゼンタール伯爵夫人は顔をあげ、私を睨みつけた。私も負けじと睨み返した。火花が散るようだった。自分でもひどいことを口にしているとわかっている。だけど、ここで引くわけにはいかない。引けばこの優しい姉弟たちがむくわれなくなる。


睨み合いの末、折れたのはローゼンタール伯爵夫人だった。こわばった表情がぐしゃぐしゃになり、ぼろぼろと大粒の涙が零れだす。


「……愛してないわけないでしょ……!! どんなに憎まれたって、恨まれてたっていいわ……!! お願い、ロニー、テディー……!! おねえちゃんに……抱きしめさせて……!!」


両手を広げ、ローゼンタール伯爵夫人が呼びかけると、ふたつの光が嬉しそうに私の腕のなかではね、ひとりでに飛び出し、彼女の胸にとびこんだ。


「……よかったね。やっと帰るべきところへ帰れて。ごめんね、優しいおねえちゃんにひどいこと言って」


私がほほえんで謝ると、光はお礼とお別れを告げるように明滅した。私は涙をのみこんでバイバイと軽く手をふった。これはあくまでふたりの記憶であって魂はとっくにどこかに旅立っている。だけど、私にはとてもそうは思えなかったのだ。


「……ああ、ロニー……!! テディー……!!」


ローゼンタール伯爵夫人は、私に小さく頭をさげ、もう二度と離すまいと光をきつく抱きしめた。応えるように、ふたつの光はひとつになり、穏やかな木漏れ日のように、彼女を包みこんだ。


……ロニーとテディーの、ロナを慕う記憶があふれでる。弟達視点のロナは、彼女のくだす自己評価よりもはるかに気高く、慈愛にみち、美しかった。


ロナがどれだけ弟達を愛し、守ろうとしてきたか……弟達がどんなに感謝していたか。過去のその情景が見える。


ふりそそぐ父親の暴力から、小さな体で両手をいっぱいに広げて、おおいかぶさって弟達を守ってくれた。自分は食べたふりをして、わずかな食べ物を与えてくれた。ロナが当然と思い、自身の記憶のなかではスルーしていた日常の行為は、まるで聖女を思わせた。大好きな母親が亡くなったあとも、弟達の前では心配かけまいといつも笑顔だった。そして、我慢できないときは、弟達のいないところで声を殺しひとりで泣いていた。


彼らふたりにとって、姉のロナは人の良心の象徴だった。


凍える夜も身を寄せ合ってあたためてくれるロナのおかげで、心はあたたかだった。


ふたりの会話が聞こえる。


「……ぼくは子供なんか早くやめたい。一人前の大人になって、ロナねえに恩返しをしたいんだ。お金をうんとためて、ロナねえに繕いなんかない服を買ってあげて……。そしたら、ロナねえならきっと優しい人に見染められて、しあわせな花嫁になれると思うんだ……」


ロナは弟達を優先し、いつもつぎはぎだらけの服を着ていた。ため息をつくロニーにテディーは笑いかけた。


「姉ちゃんは本当はすごい綺麗だもんな。気立てだっていいしさ。怒るとちょっぴりこわいけど。でも、いつもオレ達のことばっかりで、自分の身なりは後回しにして……。なあ、オレは来月から働くよ。足の速さを見こんでくれて、使い走りに雇ってくれそうなとこがあるんだ。その人にお金を預かってもらえば、親父の酒代にまきあげられずに済むしさ」


ふたりは誓いあった。力をあわせてお金をためてこのスラム街から抜け出る。父親の暴力をふりきれるくらい強くなり、今まで人生を犠牲にして自分達に笑顔をくれた姉を、自由にし、今度は自分達が一生分の笑顔をあたえてあげるのだと。


路地裏の石段に座り、寒い星空のもと頬を紅潮させ、希望に満ちた未来を語り合うふたりの表情は晴れやかだった。ロナにしてあげたいことを、彼らはときも忘れ語り合った。


帰ってこない二人を心配して探しに来たロナの呼びかけに、「今、帰るよ」と元気いっぱいに返事し、白い息をはずませて競うように駆けていく笑顔がまぶしい。


「……あああっ……!! ……ああっ……!!」


二度と戻らない姉思いの弟達の懐かしい姿に、ローゼンタール伯爵夫人はたまらなくなり、歯を食いしばって大声で泣きだした。


……運命は残酷だった。


父親のうっぷん晴らしで自慢の足を折られ、テディーは這うことしか出来なくなった。なのに元凶の父親は、今までどおりの稼ぎをテディーに要求した。「怠けるな、早く酒代を手に入れてこい」と、動けないテディーを執拗に蹴りあげた。そのままではテディーが殺されてしまう。ロニーはテディーのぶんもむちゃなノルマをひきうけ、衰弱していった。父親は酒しか見えておらず、子供は食事をしないと死んでしまうものだとさえ理解していなかった。


そしてアルコールに貪欲な父親が、さらに酒代を欲し、ついにロナを男達に売ることを思いついたとき、たえかねたロニーははじめて父親に立ち向かった。


「こんなに頑張ってきたロナねえを、どうして!! ……あんたなんか……親じゃない!!」


どんなに殴られても顔が腫れあがっても、泣きながら血みどろで立ちあがった。


「姉ちゃん!! 早くここから逃げて!! もう戻ってきたらダメだ!!」


テディーは動かぬ体をひきずり、父親の足にしがみつき、動きを封じようとした。


姉弟達全員が幸福になる未来はもう来ないと彼らは気づいていた。だけど、姉のロナだけはこれ以上の地獄に堕とさせはしない。幼い弟達は、男の矜持を胸に決死の戦いを挑んだ。


「……えれぇ……!! それでこそ男だ。最高だぜ、おまえたちはよ……!!」


その悲壮な決意を見たアーノルドは号泣した。


だが、酒がからむと狡猾になる父親は、最初から弟達に暴力をふるい、ロナの心を折るのが目的だった。意志の強いロナを売春に頷かせるのは容易ではない。無理強いすれば自害するだろう。だが、弟達のためなら、ロナはどんなひどい条件でものむ。


「……やめて!! なんでも言うとおりにするから……!! だから、もう二度とロニーとテディーに暴力をふるわないって約束して!!」


思惑どおりのロナの悲鳴に、醜い笑みを浮かべる父親を見て、ロニーとテディーは、自分達こそが姉を地獄に堕とす決定打になってしまったのだと悟った。絶望の日々がはじまった。守りたかった自慢の姉が、自分達のために、安価な娼婦がわりに男達に弄ばれ、嘲笑われ、心も体も壊れていくさまを、ロニーとテディーは心のなかで血の涙を流して見ることになった。


「ロニー……頼む。オレを殺して……。オレのせいで、姉ちゃんが……!! オレはもう耐えられないよ……!!」


元気いっぱいだったテディーは笑わなくなった。泣いてばかりいるようになった。


ロナに悟られないよう懇願するテディーを、ロニーは抱きしめた。


「……ロナねえが救われるなら、ぼくだって喜んで死んでやる。だけど、父さんが生きてる限り、ロナねえは食い物にされる。だから、同じ死ぬなら、あいつを道連れにしてやる。テディーひとりでは逝かせない。死ぬときはぼくも一緒だ」


ふたりは抱き合って泣いた。


希望に満ちたあの日の星空の誓いは、悲しい決意に変わった。


彼らはロナのために命を捧げるつもりだった。だから、魔女狩りにロナが巻きこまれたとき、ためらわずに犠牲になってロナを救おうとした。姉を想う心を、異端審問官マシュウに利用される悲しい結果にはなったけれど、ロナを恨む気持ちなど、これっぱかしもあるはずがなかったのだ。


ただ姉のしあわせだけを願ったふたりの気持ちは、魔女狩り騒ぎのどす黒い闇のなかで、小さな星のように美しく瞬いていた。あの手を伸ばせば届きそうだった冬の星空のように。


最後まで愛する人を思い続けたその生きざまに、私達はただ涙するしかできなかった。


だけど、どんなに同情しても義憤にかられても、もう彼らは死んでしまった。ただ優しい記憶だけを残し消えてしまった。そのわずかな痕跡さえも、おぼえている人がいなくなれば、すぐに無にかえってしまう。


……ロニーとテディーの記憶が、不鮮明になりだした。砂像が風化するように急速に崩れていく。ローゼンタール伯爵夫人は泣き声をあげ、抱きしめて留めようとしたが、指のあいだから、さらさらとふたりの思い出はこぼれ落ち、容赦なく散らされていく。


最後に彼女の手に残った光は、ロニーとテディーのおぼえている最も古い姉との思い出だった。


ロナ達家族が父親の借金のため、家を追われ、貧民街に流れ着いたころのこと。


「……ロナねえ、かあさんは、今日もおでかけなの?」


まだたどたどしい口調でロニーがぐずっている。


「オレ、こんな家やだ。おもちゃも本もない。いつになったら、もとの家にかえれるの」


テディーも顔をまっかにして泣いていた。


「……もうちょっとだけ我慢して。すぐに昔みたいに、みんなで仲良く暮らせる日がくるからね……」


ロナは不憫さで胸がいっぱいになり、そうささやくと幼い弟達を強く抱きしめた。


「……お父さんだって、きっと元通りに……」


朝から晩まで働きづくめの母親をよそに、酒に逃避し、高いびきをかいてふて寝している父親を横目に、ロナは声を詰まらせた。


そんな日はもう戻ってこないことをロナは悟っていた。物心もろくについていない弟達と違い、ロナは自分達の状況をよくわかっていた。弟達がかわいそうでならず、ロナは気がつくと涙を流していた。


「ロナねえ、なんで泣くの。かなしいことがあったの」


「オレが泣くからこまったの? じゃあ、オレもう泣かないから……」


自分達が泣くのも忘れ、おろおろして気遣ってくれるロニーとテディーに、ロナはあわてて涙をぬぐってほほえみかけた。


「おねえちゃんは、悲しいから泣いてるんじゃないの。だーい好きなロニーとテディーが一緒だから、嬉しくて泣いちゃったんだよ」


歓声をあげ、はしゃいで抱きついてくる弟達に悟られないよう、ロナは上を向いて懸命に涙をこらえた。


神様、私はどうなってもかまいません。どうかこの子達にだけは、悲しみではなく、喜びで涙を流せるような明日をあたえてあげてください。


穴のあいた屋根からのぞく満天の星をとおし、ロナはそう心のなかで祈った。


「……ねえ、ロニー。テディー。忘れないで。壊れて直らないものはたくさんあるけど、あの星空のようにずっと変わらないものもきっとあるのよ。おねぇちゃん、なにがあっても、ロニーとテディーのことが大好きだよ」


それは幼いロナに出来るせいいっぱいのメッセージだった。


「ぼくも、ロナねえがだいすき!!」


「オレも……ねえちゃんのこと、だいすき」


無邪気にはしゃぐロニー。少し照れて口にするテディー。


そんな二人の声と姿が急速に薄れていく。記憶が留まる限界がきたのだ。


あの夜、ふたりにせがまれて歌った子守歌を、ローゼンタール伯爵夫人は、涙でかすれた声で口ずさんだ。ロナの母親がクロウカシス地方の出だったのだろう。哀調をおびたメロディーは、メアリーがうたっていた、亡くなった人の魂が渡り鳥の翼にのって天にかえる歌だった。


歌の意味を教えてもらった幼い弟達は、ロナの胸にしがみついたまま、寝ぼけまなこでつぶやいた。


「ぼく、おじいちゃんになって死んだら、天にいかないで、ロナねえにまた会いにいく」


「オレも、必ずねえちゃんのとこに戻ってくるよ……」


気が早い弟達にロナは笑い声をあげた。


「ばかね。おねえちゃんのほうが年上なんだから、絶対にあなた達より早く死ぬのよ。……でも、約束。私も生まれ変わったとしても、きっとまたあなた達に会いにいくわ」


「やくそくだよ……」


「うん、やくそく……」


満面の笑顔で眠りにおちたふたりの弟の体温の熱さを感じながら、そのときロナは再び弟達に幸あれと祈らずにはいられなかった。


だけど、その願いはかなわなかった。


「……弟達は、私より先に死んでしまった……!! まだ子供だったのに……!! かなえたい夢だって、たくさんあったはずなのに……!! 私……なにひとつ……なにひとつ……してあげられなかったのよ……!!」


号哭するローゼンタール伯爵夫人に、まるで頬ずりするように光が寄り添う。


〝オレたち、ねえちゃんの弟に生まれて、しあわせだったよ〟


〝忘れないで、ロナねえ。ずっと、ずっと大好きだよ〟


記憶のなかの彼らの朗らかな笑い声は、まるでローゼンタール伯爵夫人に再会するため、魂が訪れ、話しかけたように思えた。


そしてロニーとテディーの記憶は、満足そうに一震えすると、シャボン玉のようにはじけた。光の粒子が帯になり、宙にのぼっていく。まるではるかな星空をめざしているかのようだった。


「……ロナ。君は彼らに何もしてあげられなかったと言った。違うよ。君がいたから、弟達はあんなに強く優しく生きられた。君は抱えきれないほど、たくさんのものをあげたんだ。それを否定するのは、彼ら自身を否定することだ。君はあの子達を否定できるのかい」


お父様の問いに、ローゼンタール伯爵夫人は涙を浮かべてかぶりを振った。


お父様は微笑してうなずいた。


「いい子だ。ならば、つらいだろうけど、涙をふいて笑顔で見送っておあげ。それが何よりの手向けになる。この世で君にしかできないことだ」


ローゼンタール伯爵夫人のまなじりの涙をすくいとりながら、お父様がうながす。


ローゼンタール伯爵夫人がうなずいたとき、四つの気配がふうっと彼女の背後に立った。三老戦士とマリエルが優しく彼女を見おろしていた。


〝若殿のおっしゃるとおりよ。本物の男はな。逝くとき自分のことなぞどうでもいいんじゃ。ただ大切な人間が泣いたままじゃったら、つらい。死んでも死にきれん〟


〝ロナに幸せになってほしうて、自分達は幸せだったとずっと伝えようとしてたんじゃな。弟の鑑じゃわい〟


〝さすがはわしらの教え子よのう〟


〝弟さん達が一番望んだもの。ずいぶん遠回りしたけど、もうわかったでしょ。まったく最後まで世話が焼ける不器用でかわいい「妹」ね。あなたは、しあわせを感じてもいいの。それが何より弟さん達のためになるわ。それとね。大切な思いは、遠慮しないで口にしないとダメよ〟


笑い合う三老戦士とマリエルは、ローゼンタール伯爵夫人を激励し、ふっとすぐに消え失せた。錯覚や幻聴ではなかったのろだろう。だって、振り向いたお父様が驚きに目を見張り、ローゼンタール伯爵夫人は鼻をまっかにし、号泣しそうになったのだから。


けれど、彼女はもう泣かなかった。


お父様に肩を支えられ、懸命に涙をこらえ、おずおずと、でも、とても素敵な笑顔を浮かべた。弟達への愛がこぼれだすような晴れやかな笑みだった。


私にはわかった。彼女の悲しみの傷は誰にも癒せない。だけど、彼女が自分自身にかけた呪いの雨はやっとあがったのだ。


光の粒子が消え失せても、しばらくそちらの方向を向いたまま、彼女は微笑み続けた。


「……ロニー、テディー。ごめんね。私はたぶん地獄に落ちる。だから、あなた達との再会の約束は果たせない。だけど、あなた達を愛する気持ちは、たとえこの身が滅んでも、決して変わらないわ……」


彼女にそんなことはないと安易に否定することは、この場の誰にもできなかった。


彼女の弟達とお父様への愛はまぎれもない本物だった。


けれど、たった十年ほどで零から王の寵姫になるのは、まっとうではなしえない。実際「108回」では、ローゼンタール伯爵夫人の私設の暗殺団に私は殺されかけた。今世の彼女の記憶の欠片からも謀略、色仕掛け、買収、讒言、あらゆる手段をこうじた事がうかがえた。どれだけの恨みをかってきたか想像もつかない。


すべてを大団円に終わらすには、彼女は罪をおかしすぎていた。


私達はローゼンタール伯爵夫人の哀しい生きざまに涙を流した。


「……どうしようもないお人よしのお馬鹿さん達ね。こんな悪女のために泣いてくれるなんて……。まったく……記憶を丸裸にされた私の気持ちにもなってほしいわ」


泣いている私達に、ローゼンタール伯爵夫人は皮肉を吐き捨てた。だが、口調はやわらかく、目には涙が浮かび、そして、少し照れくさげだった。


「……ロナさん、良人と私へのあなたの恩は、生涯忘れません。弟さん達のことも……。その生きざまは、私が生きている限り、ずっと私の心とともに」


お母様はそう誓うと、ローゼンタール伯爵夫人を抱きしめているお父様に向き直った。


「……ヴェンデル。どうかロナさんに……口づけをしてあげて。ずっと抱いてきた彼女の初恋にこたえてあげて」


……私にはわかっていた。お母様ならそう言うだろう。だけどローゼンタール伯爵夫人は、お父様が反応するより早く、その唇に指先をあて、動きを制してほほえんだ。


「……ヴェンデル様、大好きです。ふふ、やっと言えました。……悲しい恋だったけど、この気持ちはロナの頃から変わらず私に残されたもの。後悔もないし、ずっと私と一緒だったの。だから、この恋は叶わないまま、私がともに地獄まで連れていきます」


そしてローゼンタール伯爵夫人は、万感の思いをこめて、お母様を見つめた。


「……そして私の夢はここに置いていくわ。ずっとヴェンデル様のお力になりたかった。でも、コーネリアさんがいるならもう何も心配はいらないもの。お願い、〝雷鳴のポルカ〟第四段……恋の成就を……ヴェンデル様と踊ってみせて。私はもう踊れない。どうか私が認めたあなたの踊りを、最期に目に焼きつけさせて……」


ローゼンタール伯爵夫人の願いに、お母様はうなずき、差し出された手を両手で握りしめた。


「言ったでしょう。ロナさん……いえ、ローゼンタール伯爵夫人。あなたは私の心とともにあると。あなたの思いも連れていきます。さあ、私と一緒にヴェンデルと踊りましょう」


涙ぐみながら、お母様は笑顔をおしあげた。はらはらと落涙がローゼンタール伯爵夫人の手にふりかかる。


「困った泣き虫さんだこと」


そうローゼンタール伯爵夫人はからかった。


「お互い様です。あなただって、大泣きしてるじゃないですか」


お母様は言い返し、ふたりは十年来の親友のように微笑みあった。共にすごした時間はわずかでも、悲しい過去をこえてきた同士、誰よりも互いを深く理解できた。


お父様はローゼンタール伯爵夫人の身体を長椅子に横たえ、彼女のそばに膝をつき、ずれた薔薇の髪飾りを直した。


「……ロナ、僕はあの日、君と踊ったメヌエットを忘れたことはないよ。これからもずっと忘れない」


「……嬉しい……。……私もです。ずっと……ずっと忘れない……。本当に幸せな記憶……私、ヴェンデル様を好きになってよかった……」


長い苦しみの果てに、ロナは思い出を幸せだったと口にすることが出来た。弟達の思いを知ることで、やっと彼女は哀しみの呪縛から解き放たれたのだ。


ほほえむローゼンタール伯爵夫人の手を取って、お父様は涙をこらえ、恭しく手の甲にキスをした。


「……ロナ嬢……ダンスを申しこんでもいいかな。どうぞ、僕の……手を取って……」


「……はい……よろしくお願いします……。ふふ、まさか憶えていてくださるなんて。光栄ですわ」


平凡なやりとりだったが、それは少年だったお父様が、ロナをたった一度だけのメヌエットに誘ったときの再現だった。もう二度と戻れないとわかっている遠い昔の若き日々に立ち戻り、ふたりは、笑っているつもりで泣いていた。


連れ立って舞台の中央に出ていくお父様とお母様を、ローゼンタール伯爵夫人はおだやかな表情で見送った。


「……ねえ、スカーレットさん。私、あなたを刺客に命じて殺す夢を何度も見たの」


突然に物騒な言葉をかけてきたローゼンタール伯爵夫人に、私はぎょっとした。なにか含むものがあるのかと疑ったが、沈鬱なまなざしでそうでないとすぐにわかった。


「……本当にひどい夢だった。怖いぐらいに生々しいの……。あなたを産んでコーネリアさんはすぐに亡くなって……。傷心のヴェンデル様は、何度も森のなかのお墓に詣でて、とうとう雪崩にまきこまれ、事故死を……」


私は息をのんだ。細部は違うが、ローゼンタール伯爵夫人は、夢をとおして、ループの記憶を垣間見たのだと直感した。


「……私、コーネリアさんが許せなかった。十年間ひきこもってヴェンデル様を苦しめ、死んでからもずっと悲しませて、その命まで連れていくなんて。だから私はコーネリアさんの血をひくあなたを憎んだ。愚かだったわ。あなたこそヴェンデル様が遺した宝物だったのに」


ローゼンタール伯爵夫人の独白で、私はなぜ「108回」の彼女が、私を目の敵にしていたか理解した。うすうす当たりをつけていたとおりだった。伯爵夫人にとってお父様の喪失は大きすぎ、誰かを憎まないととても心がたもてなかったのだ。


「あなたを殺そうとしながら、私の心のなかでは、少女の頃の自分が泣いているの。『やめて、ヴェンデル様の忘れ形見を殺さないで。私はそんなことがしたかったんじゃない』って。でも、憎しみに狂った私は止まれなかった。……なんてひどいことを……!!」


嗚咽で言葉を詰まらすローゼンタール伯爵夫人の手を、私は両手で握りしめた。


「108回」で私を殺そうとしたときのローゼンタール伯爵夫人は、常に底意地悪く、色と権力欲にまみれた鼻持ちならない女性だった。厚化粧で誤魔化していたが容姿も荒んでいた。酒と不規則な生活で健康も損ねていたのだろう。薬にも手を出していたかもしれない。美しく誇り高い今の彼女からは想像もつかない。お父様の死は、伯爵夫人の人生すべてを破壊するほどのショックを与えたのだ。


この人は愛ゆえに道を踏み外した。私にはとても責める気になれなかった。


「……悪い夢を見ただけよ。だから、目を覚ませばそれで終わり。今のあなたは、お父様の誤解が解け、お母様の大切なお友達になった。ふたりともあなたに感謝している。それが正しい真実よ」


ローゼンタール伯爵夫人は目を見張り、それからおずおずと微笑んだ。


「……そうね。そのとおりね」


伯爵夫人は強く私の手を握り返した。


「……ありがとう。私、あなたを殺すようなことにならなくて本当によかった」


ローゼンタール伯爵夫人はひとすじの涙を流し、そう言った。


舞踏場では、お父様とお母様のダンスがはじまろうとしていた。オーケストラの楽団員は停止したままだが、ダンスの名手のお父様に影響はない。


「〝雷鳴のポルカ〟のリズムと旋律は体でおぼえている。僕がリードするから、コーネリアはついておいで」


あんなこと言ってます。〝雷鳴〟シリーズはダンスの最高峰で、普通は曲に置いていかれないようにするのも精一杯なんですけど……。本当に人間なんだろうか、この人。


お母様はやや緊張した面持ちだが、うなずくその瞳に恐れはない。


こんな大事の場面で、一心同体のこの夫婦が失敗することはありえまい。ふたりはローゼンタール伯爵夫人のほうに向き直り、優雅に一礼をした。もう立ちあがれないローゼンタール伯爵夫人は、座ったままだが嬉しそうに会釈を返す。


「……綺麗。私もヴェンデル様と〝雷鳴〟を踊る日を……夢見てきたわ。でも、やっぱりあの二人が一番お似合い……。コーネリアさんは弓矢だけじゃないって、これから宮中のみんなが認めるわ。きっと社交界の伝説をつくっていく。悔しいけれど……」


息もぴったりのお父様とお母様のダンスを見守りながら、ローゼンタール伯爵夫人は口にする。だが、ちっとも悔しそうではなく、むしろ妹の門出を見送る姉のように、誇らしげだった。


私はちょっと騙しているみたいで胸が痛んだ。


ローゼンタール伯爵夫人は、自分のパートナーをお母様がつとめきったことで、お母様が〝雷鳴のポルカ〟を完全にマスターしたと勘違いしている。だけど、私の見立てでは本来は八割程度の完成度だった。


あの三段のダンスの出来栄えは、お母様のローゼンタール伯爵夫人への想いが呼んだ奇跡だ。さすがのお母様なのだが、伝説を不動にするためには、さらなる地獄の特訓の日々が必要になるだろう。


私の心配をよそに、お母様はお父様の胸に寄り添い、耳元でなにごとか囁いていた。仲睦まじいのはいいことだけど、お母様が積極的なんて珍しい。お父様もなんか吃驚した顔してるよ。でも、今は目まぐるしい〝雷鳴〟の最中だよ。危ないですって。あ!! ほら、ステップをミスした!! しかも、なんで横に!?


私は悲鳴をあげそうになり、ローゼンタール伯爵夫人に気づかれまいと、あわてて飲みこんだ。おそるおそる様子を横目で窺うと、口を真一文字に引き結んでいた。もしかしてバレた!? だが、ローゼンタール伯爵夫人の口の両端が震えているのは怒りのせいではなかった。泣くまいと必死だったからだった。


「……メヌエット……。……私のために……」


こらえられず伯爵夫人は嗚咽を漏らした。


それを踊るお父様とお母様が優しく見ていた。


私は遅ればせながら悟った。


ミスではなかった。ロナの思い出のメヌエットを、ふたりは〝雷鳴のポルカ〟の四段、恋の成就のなかに落としこんだのだ。それはこれから自分達が一生涯寄り添って生きていく。けれど、ロナのことは決して忘れない、というお父様とお母様からのメッセージだった。


さっきお母様が囁いたのは、このためだったんだ。


「……たしかに社交界の伝説になれるかも……」


感嘆の呻きが出た。恥ずかしい。お母様を侮っていたのは私だった。穴があったら入りたい。


「当然よ。ヴェンデル様の妻で、私の大切な友人で、そして、なにより……、あなたみたいな素敵な娘を育てたお母様なんだもの」


落ちこんでる私をローゼンタール伯爵夫人が励ましてくれた。


まさか「108回」で仇敵だった彼女と、こんな理解しあえる日がくるなんて。


でも、それだけに迫る別れが寂しい。私はまた泣きそうになった。


「……バカね。お人好しもたいがいにしておきなさい。これ以上の涙のお土産はいらないわ。あの世まで抱えきれやしない」


そう揶揄うとローゼンタール伯爵夫人は私の頭を撫でてくれた。


「……私は子供を産めない体なの。でも、もし子供がいたのなら、あなたみたいな娘がほしかったわ……」


「……ローゼンタール伯爵夫人……」


そんなこと言わないで!! よけい泣けてきちゃうじゃ……。


「……なにかとてつもなくヤバいヤツがくる……!!」


突然ブラッドが血相を変えて警告した。。冗談でないと一発でわかった。雰囲気が尋常じゃない。すでに冷や汗で全身ぐっしょりだった。


「……桁外れだ。みんな避難を……!! ダメだ。間に合わない。くそっ」


緊張で目はつりあがり、無意識に歯軋りをしていた。恐怖の震えを噛み潰そうとしていると気づき、私はぞっとなった。いつも飄々としているブラッドは、無貌のアディスと相対したときでさえ、こんな切羽詰まった反応を示さなかった。


お父様とお母様も足を止めている。


「……いったい何がくるの。ブラッド。まさかアディスみたいな〝幽幻〟の保持者?」


私は涙をぬぐい、気を取り直して質問した。


だとすれば脅威だ。あの見えない攻撃を、ブラッドと私のコンビは破れていない。


だが、こちらの陣営には、風の変化と未来予測で、敵の攻撃予定位置をわりだせるセラフィがいる。いわば〝幽幻〟の天敵レーダーだ。セラフィはすでに臨戦態勢に入り、集中して気配を探ろうとしている。さすが圧倒的な自然を相手どる海の男だ。いかに早く予兆を読み取れるかが勝負どころなのだ。


「セラフィ、敵の場所がわかったら教えろや。このダンスだけは邪魔させちゃいけねえ。先制で一発ぶちかまして終わりにしてやる」


アーノルドが歯をむきだし、指示に合わせるべく矢をつがえる。連携慣れした動きだ。私もルビーで相手を麻痺させるべく、投擲の構えを取った。迎撃準備完了!!


目を見開き震えだしたローゼンタール伯爵夫人に私は笑いかけた。


「心配しないで。これだけの面子がそろってるんだもの。どんな襲撃者だとしても、瞬殺してダンスが再開できるはずよ」


ローゼンタール伯爵夫人の最後の願いの邪魔はさせない。


「……だ……だめよ……!! あれに手を出しては駄目……!!」


だが、私が声をかけても、彼女は怯えきり、必死に私達を引き留めようとした。


だいじょうぶだって。こちらにはスーパーアーチャーのお母様もいるし、ジョーカー的なお父様だっているのだ。戦力てんこ盛りで、不覚を取るなんてありえない。


だが、探知役のセラフィは驚愕のうめきを漏らし、立ちすくんでいた。


「どうなってるんだ……!? 周囲の風の気配が完全に途絶えた。こんな不気味な現象は、海でもあったことがない。まるでなにか巨大な穴に吸い込まれたみたいだ。それに未来もまったく見えない。これは……」


私は戦慄した。それって私達が死ぬってことじゃ……!!


セラフィも私と同じ結論に達したのか、まっさおになっていた。


「……ブラッド、撤退は可能?」


私は方針転換しようとしたが、ブラッドはひきつった笑みでこたえた。


「……無理だ。言ったろ。とてつもなくヤバいって……!! 背なんか向けたら一瞬で全滅させられるぞ。円陣をくむんだ。女の人たちだけでも、なんとか守り抜かなきゃ……!! ……気を抜くな。くるぞ!!」


決死の面持ちで、だんっとブラッドが床を蹴って跳躍した。


そして、奇妙で絶望的な戦いがはじまった。


◇◇◇◇◇◇◇


舞踏の間で何が起きているか、真実を見抜けるものは誰ひとりいなかった。


水中を泳ぐ小魚たちは、真上を飛翔するカワセミの腹部の青い輝きを、川面のきらめきとしか認識できない。存在そのものに気づけないのだ。


それほどまでに襲撃者の幼女の強さは、次元の違う高みにあった。


「……あはあっ、コーネリアだけでなく、まさかあの女までもが、これほどのダンスを見せてくれるなんて。予想外の驚きは、感動を割り増ししてくれるわ。愉しめたご褒美よ。私も少しだけ本気を出してあげる」


金髪を輝かせ、碧眼と同じブルーのハイウエストのドレスをまとい、アリサは上機嫌でくすくす笑った。


腰の大きなリボンを妖精の羽のように悠然となびかせ、停止した人混みを横切っていく。


彼女はまさに小さな女帝だった。


真祖帝のルビーによる〝幽幻〟の束縛もまったく意に介さない。上位の〝幽幻〟もちに、下位の〝幽幻〟は通用しないからだ。もちろん〝幽幻〟非保持者では話にもならない。


その愛くるしい姿と裏腹に、アリサは〝幽幻〟を極めている。つまりどれほど強くてもアリサと同等以上の〝幽幻〟をおさめていないと、影も形もとらえることは出来ない。紅の公爵や、ルビーの後継者のスカーレットでさえ例外ではない。


「……ふふ、例外は、セラフィの風読みと未来予測。ねえ、スカーレット。それに気づいたのは悪くなかったわ。だけど、私はアディスとは違うのよ」


セラフィの感知は、未来の風の変化を読みきり、そこから敵の進路を予測する。船の舳先の先触れの波から、その船の大きさ、形、速度、次の動きを割り出せる超性能のシュミレート能力のようなものだ。これならたとえ敵本体を見ることはできなくても、動きは捕捉でき、現にアディスの不可視の猛攻からもスカーレット達の救出に成功している。


だが、アリサは、〝マザー〟の感知結界をもあざむく〝牙なぎ〟を使える。風も空気も音も光も、すべてがアリサの前にかしずき、アリサに関わる情報を漏らすことを拒むのだ。


アリサは停止した〈赤の貴族達〉のまっただなかで、首をかしげ、少しだけ立ち止まった。


「この全員を血飛沫に変えたほうが、舞台が映えるかしら」


テーブルクロスの模様替えを検討する口調だった。


ヨーク卿夫人を含め、数人に目をやり、ぷいっとまた歩き出す。


「ふふ、やっぱりやめたわ。まだ生かしておいたほうが面白そうな人間が何人かいるみたいだし。それに美しい結末に余計な飾りは無粋というもの。コーネリアとおなかの赤ちゃんの血が目立たなくなるもの」


アリサは口角をつりあげ、おそろしい三日月の嗤いを浮かべた。


「ねえ、コーネリア。今あなたが死ねば、最高の母親像として、永遠にスカーレットの心に刻まれるわ。あの子は憎しみに燃えあがるかしら。悲しみに凍りつくかしら。コーネリアが貫かれる瞬間の絶望の顔を、誰も目撃できないのが少しだけ残念ね」


アリサは指をそろえ貫手をつくつた。コーネリアに向けて歩を進めるうちに、その姿が幼女から大人に変わる。ブルーのドレスがひるがえり、冷たい蒼色の瞳が、さらなる氷結地獄の蒼となって燃える。


しかし、何者にもとめられないその動きが停止した。アリサは凍りつく一瞥を、ローゼンタール伯爵夫人にくれた。彼女の怯えたまなざしが自分をはっきり捉えていると気がついのだ。


「……まさかよりによって、貴女ごときが私を認識できるなんてね。ソロモンめ、〝魔眼〟になにか仕掛けたか。余計な真似を。……あら、まさか貴女、コーネリアとおなかの子をかばう気?」


「あんたが誰か知らないけれど、コーネリアさんは私の大切な友人よ。まして、おなかにヴェンデル様との赤ちゃんがいるんだもの。私の命にかけても、手出しはさせはしない」


蒼白になりながらもアリサを睨むローゼンタール伯爵夫人に、アリサの金髪がぶわっと逆立つ。その殺気に呼応し、燭台の蝋燭の炎が、次々と天井高くまで噴きあがった。


「挑戦状をたたきつけるの? 死にぞこないの分際がこの私に」


アリサは舞踏の間全体にはじけるような高笑いを響かせたあと、ローゼンタール伯爵夫人をぎょろりと見た。


「……この愚か者が。よくも私の気分に水をさしてくれた……。少しはダンスで見直しかけたけど、やっぱり度し難い身の程知らずだわ。罰をあたえてあげる。踵で後頭部にキスをしたぶざまな死と共に、私への恐怖を思い出すがいい」


アリサの一瞬紅くなった瞳に見据えられた途端、ローゼンタール伯爵夫人の全身を、発狂しそうな衝撃が貫いた。それは「108回」でアリサの逆鱗に触れ、背中からまっぷたつにへし折られ、内臓と血反吐をはいてのたうちながら死んだ記憶だった。


「……ひっ……!!」


口中に鉄臭さと苦みと酸味と生臭さがよみがえり、伯爵夫人は悲鳴をあげながら長椅子から転げ落ちた。


自分がスカーレットに今語った夢だと思っていたものは、かつて実際に起きたことの記憶だったのだ。そして、スカーレットを殺したと確信し、ほくそ笑みながら化粧直しをしようとしたところで終わっていた記憶には、その先がまだあった。


のぞいた姿見に、刺客の生首をぶらさげたアリサが、背後に立って嗤う姿が映っていた。


『こんばんは。あなたの人生の閉幕記念の花束よ。受け取りなさい』


とその生首を伯爵夫人に押しつけ、むりやりキスさせた。生首の口からいも虫のように転がり出るものがあった。アリサは刺客の両手の指を切断し、口のなかに詰めこんでいた。


たまらず嘔吐すると、「あはあっ、無作法だこと。あなたには地べたから見上げる光景がお似合いだわ。這いつくばりなさい」と吐しゃ物のなかに顔をつっこまれた。お花畑令嬢と馬鹿にしていたアリサは、裏社会の顔役をきどっていた自分など足元にも及ばぬ禁忌の化け物だった。


『つまらない女。私、もう飽きたわ。帰りましょう。おばあさま』


興味をなくして隣の王太后をうながすアリサの声が冷たく響く。背骨がひとりでに反って次々にへし折れていくおそろしい音。息もできぬまっかな苦悶。


ヴェンデル様を失って心がすさみ、色と欲に溺れ、あげく彼の娘さえ殺そうとしてたどり着いた末路がこれか。自分はどこで道を間違えてしまったのだろう。


『死ぬ間際に泣言? 笑わせるわ。その程度の人間が、私の尊敬するおばあさまを貶めたの?』


虫に向ける目で、ローゼンタール伯爵夫人を見下し、アリサは刑罰の途中で去っていった。そして伯爵夫人は暗闇のなか、はみでる内臓に喉をふさがれて声も出せなくなり、ひとりぼっちでみじめに死んでいったのだ。


「……思い出したようね。あれは夢ではない。すべて現実で起きたこと。だから言ったでしょう。身の程を知りなさいと」


アリサは冷たく鼻を鳴らした。


「……だったら……なおさら……!! ……今度は、道をまちがえるわけには……いかないのよ……!!」


ローゼンタール伯爵夫人は、コーネリアを助けにいかねばと必死に立ち上がろうと試みた。だが、指先がかりかりと力なく床をかくばかりだ。


「……なんで……よ……なんで、立てないの……!!」


どんなに努力しても、手足は言うことをきかない。


「……ローゼンタール伯爵夫人!! もしかして、敵が見えているんですか!! 教えてください!! 相手はどこです!!」


セラフィが呼びかけるが、その声すら届いていなかった。蜂に刺されたいも虫のように、全身に力が入らない。ぶるぶると痙攣するしか出来ない。


〝……あれだけ悪行を重ねながら……!! なんで、肝心なところで……私は……!!〟


伯爵夫人は、自らの無力と不甲斐なさを呪い、涙した。


だが、彼女は勘違いしていた。この反応は不可抗力だ。死の恐怖ですくんでいるのではない。七妖衆さえ平伏させるアリサの鬼気は毒ガスに等しく、ぶつけられた者の神経と運動機能を狂わせる。屈強な戦士がその場で昏倒するほどなのだ。まして伯爵夫人は、鋭敏な〝魔眼〟の感覚で直撃を受けた。失神しないだけでも賞賛に値する。


あきらめず、力なくもがく足元のローゼンタール伯爵夫人に、アリサはぷいと背をむけた。


「あはあっ、しつこい虫けらね。そこで這いまわりながら、私がコーネリアを殺すところを眺めているがいい。まったくスカーレットもとんだお人好しだわ。殺されかけた恨みを忘れ、こんな女に肩入れするなんて」


愕然とするローゼンタール伯爵夫人に、アリサは侮蔑を投げかけた。


「あきれた。まだ気づいてなかったの。スカーレットはループの記憶があるの。貴女に何回も殺されかけた事だって残らず憶えているわ」


その言葉は、ローゼンタール伯爵夫人に、稲妻のように突き刺さり、死にかけた心と体に火をつけた。それが羞恥なのか自分への怒りなのかはわからなかった。


〝悪い夢を見ただけよ〟と手を包みこんでくれたスカーレットの笑顔が、何度もリフレインされた。


……あの子は、すべてを知りながら、こんな私を許してくれたの。私のために泣いてくれたの。ヴェンデル様と同じ、紅い瞳に、赤い髪のあの優しい子は……!!


灼熱の想いに突き動かされ、ローゼンタール伯爵夫人は、アリサの威圧に抗い、歯をくいしばって立ちあがろうともがきはじめた。


〝罪滅ぼしをするまでは……私は、死んでも……死にきれないじゃない……!!〟


蟻の這う速度だがじりじりと確実にアリサににじり寄っていく。


その執念に、アリサが思わず振り向いた瞬間、横から黒の疾風が飛びこんできた。


「……させるかよ!! っの野郎……!!」


ブラッドだった。アリサが見えているわけではない。ローゼンタール伯爵夫人の血流から思考を読み、アリサの位置のあたりをつけたのだ。だが、悲しいかな。スカーレットに対するのと違い、読める情報は、非常におおざっぱなものだった。彼の空中回し蹴りは見事だったが、アリサは軽々と身をそらしてかわした。


「あはっ、当てずっぽうにしては見事よ。片足のみだけど、よく私の領域に踏みこんできたわ。でも、私とダンスするにはまだ力不足ね。殺さないであげるから、もっといい男になって出直していらっしゃい」


後方に下がりながら、アリサはブラッドの腹を軽く撫でていった。


踏み込みもなし、しかも手加減した一撃だったはずなのに、ブラッドの腹部で、猛牛に突進されたほどの衝撃が爆発した。


「……ぐっ……!! ……のっ!!」


咄嗟の判断で、被弾箇所の筋肉を硬直させ、かつ体全体を回転することで受け身のようにエネルギーを散らさなければ、ブラッドの内臓は破裂していた。衝撃のすべては殺しきれず、瞳の焦点がぐわんぐわんと揺れた。


「……あとは……頼んだぞ、セラフィ……!!」


なんとかそう言い残すと、ブラッドは失神し、向かい側の長椅子に激突し、ど派手に破片をまき散らして動かなくなった。


「まかせろ……!! あそこだ!! 仰角二度でやれ!! アーノルド!!」


「応ッ!!」


セラフィの支持が飛び、アーノルドの剛弓の弦がうなりをあげた。三本ほぼ同時発射の矢は、正確にアリサめがけて襲いかかった。


「私の居場所をつかんだ? そう……飛ばされたブラッドから、位置を割り出したのね。悪くないわ」


アリサが感心する。


ブラッドは最初から被弾覚悟で突っこんできたのだ。セラフィに逆算させ、より正確にアリサの居場所を特定するために。しかも、それだけではない。セラフィは室内のわずかな気流の流れを読みきっていた。


アリサが嗤う。


「ふふっ、風のあいだを通させて威力をあげたの。たいした読みと弓威だわ。でもね」


アリサは優雅に旋回した。先ほどスカーレットがブルワー子爵を失神させたものと同じ、回転を力に変える天舞の動きだ。だが、その威力は段違いだった。業火に触れ、水蒸気をあげて燃え失せる若木のように、アーノルドの矢が爆裂して次々に消えていく。


「バカな……!!」


会心の出来の三矢のまさかの結末に、呆然自失するふたりに、アリサはにまりとした。


「力だけの矢では何万射ても私にはかなわないわ。いい経験になったでしょう。ブラッド同様、ふたりとも将来に期待ね。体に教えてあげる。これが本当の技というものよ」


アリサは回転しながら、ふわりと手刀を振った。


空気が、びしいっと不気味に軋んだ。アリサの指先からセラフィとアーノルドの立つ空間までの景色が、ぐにゃっと歪んだ。


「……いけない!! 伏せろ!! アーノル……!!」


セラフィが警告するより早く、衝撃波が走り抜け、セラフィとアーノルドをおが屑のように吹き飛ばし、壁にしこたま背中を叩きつけた。ふたりは、ごほっと肺の空気を残らず吐きだし、気絶した。


空気を媒介にして拳威を遠くまで届かせる技、〝伝導(でんどう)〟だ。


ブラッドほど挌闘に長じていないふたりに直撃させては死亡する。だから、アリサは〝伝導〟をセラフィとアーノルドのあいだに放った。しかも手加減してだ。しかし、強固な床をめくりあげながら進む威力は、その余波だけで、ふたりの意識を絶つには十分だった。


「……ちょっと成長をたしかめる味見のつもりだったけど。……ふふっ、嬉しいぐらいに極上よ。これなら、『真の歴史』のときを超えるかも……。ああ、ふたりとも今すぐ殺してあげたいぐらい気に入ったわ。……あら?」


舌なめずりをやめ、アリサは苦笑した。


ぽとりと真祖帝のルビーのペンダントが落ちてきて、アリサの手首に鎖を巻きつかせたのだ。


スカーレットは投擲したポーズを取っているが、さすがにそのままのルビーの軌跡を見逃すほどアリサは間抜けではない。


「……アーノルドの鏃に、真祖帝のルビーを引っかけさせて、上空にはじいたのね。時間差で落ちてくるように。矢も囮だったのね。これが本命の攻撃。とっさに三段がまえの罠なんて、相変わらずいやらしい性格してるわ。それでこそスカーレットよ」


策を見抜いたアリサは嬉しそうに口角をつりあげた。


真祖帝のルビーは、正当継承者以外が触れることを許さない。呪いによる麻痺が即座に発動する。七妖衆のアディスでさえ、その効果から逃れることは出来なかった。だから、未知への敵にも必ず通用すると踏み、スカーレットとセラフィは目くばせで、この共同策を立てたのだ。


だが、アリサは悠々と指先で真祖帝のルビーをつまみあげ、開いた瞳をのぞきこんで、にんまりと笑った。


「……けれど残念ね。ルビーの呪いは私には無効よ。ルビーと縁はなくとも、私にも継承者の資格があるもの。同じ〝幽幻〟を究めた者でも、〝マザー〟になら一矢むくいられたかもしれないけど、やったら、皆殺しにされていたわね。あの女は、弱者に手負いにされることを、決して許さないもの」


アリサの目に嫌悪の色が走る。


「あの恐竜女にとっては、強さがすべて。それは、たしかに世界の真理よ。けれど、人はときに強さをもこえた力を発揮する。それこそが、かつてスカーレットが私を追いつめたもの。人という宝石の見せるきらめき……奇跡よ。私はそれがなにより見たいの」


アリサは人間の可能性を評価する。それはアリサの美点。だが、彼女はやはり狂った存在だ。


アリサは恍惚として、ゆれるルビーの向こうに映るスカーレットを見た。


「……あはっ、ねえ、スカーレット。すてきなゲームを思いついたわ。あなたはもうすぐ四歳になるのに、私、誕生日プレゼントを忘れていたの。もちろんあなたの一番の望みはわかっているわ。母親と赤子の無事よね。……だから、齢にちなんで、あなた達が四つの奇跡を見せてくれるなら、コーネリアは殺さないでいてあげる。まずは今の連携で、奇跡がひとぉつ……」


アリサは真祖帝のルビーを人質のように振って、くすりと笑った。


「……ルビーを戻すとあなたは何をしでかすかわからないから、ゲームのあいだは預からせてもらうわ。そのかわり私も〝予知〟と〝読心〟は使わないであげる。さあ、必要な奇跡はあと三つ。頑張らないと、私がコーネリアの元にたどり着いてしまうわよ。……!!」


コーネリアに向き直り、歩き出そうとしたアリサの視界いっぱいに、青白い雷光が広がった。今のわずかに目をそらした隙をつき、コーネリアが放った矢が、アリサに迫っていた。先ほどローゼンタール伯爵夫人に渡された弓矢を使ったのだ。その技の正体をアリサは看破して、にたりと笑い、迎撃のため、ぐっと半身をねじった。


「……雷爬(らいは)……」


電気を帯び、空気の層を波乗りするようにして矢を加速させるメルヴィルの奥義だ。


「……愛用の弓でないのに、よくぞ奥義を放った。しかも風の薄い室内で。ふふ、子を守ろうとする母親の底力かしら?」


電光に青く照らされながら、アリサは上機嫌で神速の手刀を二度ふった。


「雷爬は、感電と致死毒と貫通をあわせもつ。かわすのも撃ち落とすのも厄介な初見殺し。魔弾のメルヴィルを象徴する技だわ。だけどね……」


アリサが再び放った〝伝導〟は、空を唸らせる蛇となり、飛翔する矢と激突した。矢は宙で二度がくんと揺れた。陽炎のように景色がゆらぐ。雷光が四散し、ぼしゅうっと蒸気のように鏃から何かが剥がれ落ちた。


「……雷爬では、七十二回のループのとき、アーノルドにずいぶん苦汁を飲まされたわ。だから、対応策は考えておいた。先に雷を散らし、次に毒の構造を破壊してしまえば、ただ加速するだけの矢と成り果てる」


アリサは拳威の二連撃をとばし、着弾前に雷爬の電光をはぎとり、毒素を破壊したのだ。


「……単純な速度や力だけでは私には通用しない。この矢はもはや牙と爪を失った鳥。撃墜はたやすいわ」


アリサは指先をたて、鼻先で無造作に鏃を受けた。矢は木っ端みじんどころか霧状にまで粉砕された。煙が流れたあと、あらわれたアリサはまったく無傷だ。


だが、とてつもない神業を見せつけながら、アリサの表情は晴れなかった。苦笑さえ浮かんでいる。


「……とはいえ、これは反則みたいで後味が悪いわ。本当に初見だと、どうなったかわからないもの。奇跡二つめに数えておいてあげる」


それから興味深げに、驚愕の表情を浮かべながらも、次の矢をつがえようとしているコーネリアを見た。


〝幽幻〟の外にいる者独特ののろのろした動きだが、たしかにアリサに狙いを定めている。


「……不思議ね。どうやって私の位置を把握しているのか……」


〝幽幻〟を見破るには、同格以上の〝幽幻〟に達するか、あるいは〝魔眼〟のような力で、術者を認識する必要がある。ローゼンタール伯爵夫人は後者だ。だが、彼女は床でもがくのがやっとで、視線でアリサの位置を誰かに知らせることは出来ない。心を読んでサポートできるブラッドも気絶している。


眉をひそめて、コーネリアの視線をたどっていたアリサは、はじけるように笑いだした。


「あははっ!! そういうこと!! 私を見ていたわけではなかったんだわ。真祖帝のルビーは、縁が深い者と惹かれ合う。その特性をマーカーがわりにしたのか。それでこそ私のスカーレット。四段がまえの罠だったってわけね」


現在ルビーと〝幽幻〟を共有しているコーネリアは、疑似的だがルビーと深く繋がっている。スカーレットのように、離れてもルビーがひとりでに戻ってくるほどでの仲ではなくても、ルビーの所在をおおよそ掴むことぐらいは可能だ。あとは狩人の勘で、ルビーを手にしたアリサの居場所を割り出せたのだ。


「……よくルビーの特性に気づいたわ。正当継承者の直感かしら。でも、あきれた。一国以上の価値があるとうたわれる真祖帝のルビーよ。矢の的がわりになんてしないで、もう少し大切になさいな。私に届きうるための唯一の鍵なのだから」


アリサはわざとらしく嘆息すると、大きく山なりを描くように、スカーレットに真祖帝のルビーを投げ返した。


「取り上げても罠に利用するなんて厄介な子。まあ、いいわ。ルビーがあなたの手元に戻るまでに勝負をつけるから」


それから、弓をかまえたコーネリアに向け、邪悪な鮫の嗤いを浮かべた。


「……まだゲームの途中だから殺さないつもりだったけどね……。でも、時間がなくなったの。それに二回も毒矢を向けられて見逃しては、七妖衆(かわいいこたち)を落胆させてしまうしね。かわいそうだけど、種も割れたし、もうお死になさい」


アリサがぱちんと指を鳴らすと、凝縮された圧力の塊が宙を飛んだ。コーネリアの手前で炸裂し、弓をはじきとぱし、弦を切断した。


「……次はこの〝鬼弾(きだん)〟をあなたの心臓に直撃させる。優しくね。安心なさい。傷一つない美しい死体にしてあげるわ」


だが、実行にうつす寸前、がくんっと後ろに引っ張られるように、アリサの動きが急停止した。振り向いたアリサから笑顔が消え、悪鬼羅刹の表情になる。


「……コーネリアは、私に、友達って言ってくれた……!! ……手を出すな……!!」


いまだ床に這ったままだが、なんとか両腕を突っ張るようにして上半身をあげ、アリサを睨むローゼンタール伯爵夫人の瞳が、異様な輝きを放っていた。残りの力をふりしぼり「魔眼」を発動したのだ。負荷にたえきれず眦から涙のように血が流れ落ちる。だが、命を賭した特攻は、わずかな足止めにさえならなかった。


「……私に命令するな。こうるさい蠅が。おまえなど〝幽幻〟の特殊な流れでなければ、とっくに死んでいるのよ。死人らしく消えろ」


アリサは冷たく吐き捨て、コーネリアに向けるはずだった〝鬼弾〟をローゼンタール伯爵夫人に放った。

今度は手加減なしだ。


「おまえを美しく殺してあげる義理はない。柘榴のような顔面をさらし醜く果てるがいい」


だが、〝鬼弾〟はアリサの指先から放たれた瞬間に爆発した。さっと上体を屈めたアリサの頭上を白刃が吹きすぎ、金髪数本を切り飛ばした。


片手剣をかまえて迫る紅の公爵を認め、アリサは喜悦でぎらついた笑みを向けた。


「……ロナ。ありがとう。コーネリアを守ろうとしてくれたんだな。僕ら夫婦は君に助けられてばかりだ。……ここからは、妻も君も僕が守る」


ローゼンタール伯爵夫人はほほえみ、がくりと突っ伏すように崩れ落ちた。


「……へえ、私の〝鬼弾〟を初太刀で断つなんて……。見えてもいないのにさすがだわ。よく考えてみれば、今までのループでは、病身か、妻を亡くして腑抜けたあなたとしかやりあったことはなかったわね。期待以上よ。〝幽幻〟なしの互角な条件でないのが残念なくらい……」


感心するアリサに、紅の公爵は、稲妻のような刺突を連続で繰り出した。アリサの〝幽幻〟に追いついていないとはとても思えない速さだ。しかも、すべての攻撃が致命傷を狙っている。さしものアリサでさえ、カウンターを狙えず、回避に専念するしかなかった。


「……おかしいわ。今の私はルビーを持っていない。なのにどうやっててこうも正確に位置を……」


紅の公爵がアリサ級の〝幽幻〟の習得者ならすぐにわかる。だが、明らかにそうではない。なのに狙いが正確すぎる。じぐざぐに後退して居場所をぼかしても、なおしつくこく追いすがる紅の公爵に、アリサは小首をかしげ、彼の鼻孔がぴくついているのに気づき、爆笑した。


「……あはっ!! とんだ英雄もあったもんだわ。矢についていたコーネリアの残り香を嗅ぎわけていたのね」


その矢を至近距離で爆砕したため、アリサにもまたわずかに匂いがついたのだ。


「これもスカーレットの計算? だとしたら、ちょっと空恐ろしくなるわね……」


「……おまえはコーネリアとロナを殺そうとした。今すぐ死して償え……!! 何者かなどもはやどうでもいい」


点の刺突ではとらえきれぬと判断し、紅の公爵の剣閃が、竜巻のような切り払いに変わる。アリサは声をあげて笑った。風に舞う天女のようにふわりと回避していく。円を描くその爪先はほとんど地についていない。


「……あははっ、剣舞も嫌いじゃないわ。でも、今あなたと踊っているのは私よ。他の女の名前を出して、私にはどうでもいいなんて少し傷ついたわ。お仕置きが必要ね。だけど、怒りを爆発させたときの表情と殺気、スカーレットに笑えるほどそっくり。さすが父娘だわ」


だが、口元こそ吊り上がっていても、アリサの目はもはや笑っていなかった。紅の公爵の剣先がどんどん鋭くなり、初撃以外は余裕でかわしていたアリサの身体をかすりだしたのだ。


「……ふん、もどかしいわね。しょせん仮初(かりそめ)の身体。楽しい時ほどはかないわ。もっとあなたと踊りたかったけど、ここまでが限界ね」


アリサは嘆息した。この成人姿は本来のものではない。ブルーダイヤで顕現させた仮のものだ。リーチの利点はあるが、わずかに反応の伝達が遅れるデメリットのほうが大きい。コンマ一秒差が死に直結するレベルの戦いになると、どうしても後手にまわってしまう。〝マザー〟戦のアリサが、本来の幼女の姿で戦ったのもそのためだ。


ぱんっと再びアリサの髪の先端が切り飛ばされた。宙に浮きっぱなしだったアリサの足が地につく。回転が鈍った。


「……もらった……!!」


戦場の勘で、ここが攻めどころと察知し、紅の公爵は、ひゅううっと呼気を鳴らし、全精力をこめた必殺の剣閃をはねあげた。かつて少年のとき、異端審問官マシュウの腕を、剣もろともに両断した技だが、あのときの威力を蛇とするならば、英雄としての経験を上乗せされたこれは龍だ。その牙の前には、鎧も盾もなんの意味もなさない。ましてアリサは薄絹のドレス姿だ。腕に覚えのある目撃者がいたら、アリサは背骨ごとまっぷたつにされたと確信したろう。しかし。


「もらう? あはははっ、私をお嫁にでももらってくれるのかしら」


アリサは嘲笑した。


「……限界なのは、私じゃないわ。あなたの剣の耐久力よ」


彼女に届く直前、刃は異音を発し、ひとりでに根本から折れ飛んだ。アリサは触れてもいない。刃は回転しながら宙に舞い、天井に突き刺さる。


「……馬鹿……な……!!」


呆然自失とする紅の公爵の懐に、アリサは飛びこみ、寄り添うように胸に両手をあてた。花におりた可憐な蝶を思わせた。だが、この蝶は、花の蜜ではなく、命を思うがままに吸い尽くす絶対強者だ。アリサは頬を染め、うっとりと瞼を閉じる。戦いの余韻を情事のあとのように味わっている。


「……馬鹿はあなたよ。見誤ったわね。私じゃなく、あなた自身の力を。その剣では、本気になったあなたに長時間は耐えられない。私の〝鬼弾〟を切ったんだからよけいにね。愛用の棍を持ってくるべきだったわね」


そう睦言のように囁くと、かっと目を見開いた。鬼の笑いがこぼれる。アリサの掌に力が渦巻く。


「……さあ、失った剣のかわりに、私からのすてきなプレゼントよ。あなたは受けきってくれるかしら。それとも死んでしまうかしら。……〝無惨紅葉(むざんもみじ)〟」


心臓めがけて叩きこまれる衝撃に、紅の公爵の身体がどんっと大きく揺れた。


「あははっ!! どうやら答えは死のようね。さようなら。はじけなさい。紅の公爵の名にふさわしい、まっかな大輪の薔薇になって」


〝無惨紅葉〟、は敵の心臓を強制拍動させ、その血流で体を自壊させる。威力は絶大だが、複雑な予備動作と長い溜め、技後しばらく動けなくなるリスクと引き換えのため、まず実戦では使えない。アリサはそれを軽々と放った。リスクも負わない。〈治外の民〉なら見るだけで戦意喪失におちいる超絶の技量だった。


「……ぐっ……!?」


爆発が生じたようだった。紅の公爵はアリサから吹っ飛び、壁に叩きつけられた。血反吐をはいて失神する。


だが、アリサの勝ち誇った笑い声は途中でやんでいた。痺れた片手を持ちあげ苦笑している。


「……やる。読み違えたのは私か。さすがはスカーレットの父親。まさか私の〝無惨紅葉〟を受けて、死以外の答えを出せる人間がいるとは」


声に揶揄は一切なく、感嘆のみがあった。


アリサの言うとおり、気絶こそしたものの、紅の公爵はほぼ無傷だ。〝無惨紅葉〟は不死身に近い魔犬ガルムさえ、内部から削り殺した。文字通りの必殺技だ。まして今回の使い手はアリサだ。無傷など絶対にありえない光景だ。


「……馬闘術(ばとうじゅつ)の極意は、力の流れのコントロール。外からの力さえ吸収し、自分のものにするとは知っていたけれど……。ふふ、まさか〝無惨紅葉〟まで取りこみ、私にはね返すなんて……。正解よ。狂気の勝負勘ね。私と同じ」


口調が親近感を帯びていた。


アリサに〝無惨紅葉〟を体内に叩きこまれた瞬間、紅の公爵は、そのエネルギーが心臓に到達するぎりぎりで、合気のように方向を変えた。たとえ見えないアリサからの攻撃だろうと、自分の身体のなかに入った異質な力の流れを、彼は決して見逃さない。すべてをアリサにはね返せたわけではなく、幾分のダメージこそ残ったが、完全に人間技ではない。


……だが、アリサはその上を行った。


「……惜しかったわ。私でなかったら勝てていたかもね。念のために右手を残しておいてよかったわ」


アリサは〝無惨紅葉〟を左手のみで放ち、右手は万が一の反撃に備えていた。なので反射された力を即座に握りつぶすことができた。その衝撃で紅の公爵は吹き飛ばされたのだ。


アリサは最強の高みにありながら隙がない。嵐におおわれた氷の絶壁だ。だが、挑む者ことごとくを絶望に叩き落とす女帝は上機嫌だった。


「……〝幽幻〟なしでここまで私といい勝負をするなんてね……。奇跡三つめ、認めてあげるわ。七妖衆であなたに勝てるのは、たぶんアゲロスだけね。愛馬と棍があれば、それさえもわからないわ。あなたには武才をこえた凄みがある。誇りなさい、コーネリア。これほどの良人をもったことに」


アリサは微笑んだ。その表情は心優しい美少女そのものだった。だが、細められた瞳のブルーは凍てつく宇宙の色をしていた。


「……彼の妻であった幸せを抱きしめて逝くがいい。思いのほか楽しめたけど、ゲームは私の勝ちよ」


アリサは称賛の拍手をしながら、コーネリアに近づいていく。碧眼とブルーダイヤがテールランプを思わす曳光になって走る。足さばきがゆっくりに見えるのは、重心がまったくぶれないせいで、実際は凄まじい速度だ。


「だって、全員にもう打つ手がないものねえ。奇跡はこれでうちどめよ」


ブラッド、セラフィ、アーノルド、紅の公爵は倒れた。コーネリアは弓を破壊された。スカーレットはルビーを取り戻せていない。もうアリサを止めるどころか認識することさえ、この場の誰もできない。


「せめて最期は、あなたにふさわしい舞で飾ってあげる」


アリサが優雅に旋回する。


「……!!」


いや、殺人技の〝天舞〟を発動したアリサを、食い入るように見ている者がひとりだけいた。


ローゼンタール伯爵夫人だ。


伯爵夫人は〝幽幻〟で隠蔽されたアリサの姿を見ることができる。だが、その動体視力では、桁外れのアリサの動きはまるで追えない。


ローゼンタール伯爵夫人の全神経は、アリサの踏むステップと音にのみ注がれていた。


〝……このリズムは……雷鳴……!?〟


天啓のように答えが閃く。


〝……だったら、わかる……!! 次の動きが……!!〟


アリサの得意とする〝天舞〟は、歴史の闇に葬られた刺姫たちの技だ。その唯一の生き残りの少女が、せめて親友達や姉妹の墓標がわりにと、彼女らの得意とした型をダンスに忍ばせ、後世に伝えた。それが〝雷鳴〟の隠された秘密だ。もちろんローゼンタール伯爵夫人はその真実を知らない。


〝お願い!! ロニー!! テディー!! 私に……最後の力を!!〟


ただ無我夢中で飛び出した。


アリサの殺気にあおられ、燭台の炎が次々に渦巻き、ローゼンタール伯爵夫人の視界を紅蓮にさえぎる。


だが、ヴェンデルに恋い焦がれ、数限りなく孤独に練習し、心と体に染みついた〝雷鳴〟は、彼女を正しい進路に導いた。まるで、むくわれなかったロナの恋心を憐れむように。


少年の日のヴェンデルと、踊ったあの日を、ローゼンタール伯爵夫人は思い出していた。はにかむ少女の自分を悪戯っぽくのぞきこむ彼の目は笑っていた。三老戦士の笑い声。マリエルの優しい声。一日だって忘れたことはない。


〝またはじまったよ。姉ちゃんの王子様病が。そんな出会いあるわけないって〟


白馬の王子様の物語を読み終えうっとりしているところを、弟達にからかわれ、むきになって追いかけまわした日々が心によみがえる。それを笑いながらなだめる母親もそばにいた。


〝……ねえ、お母さん。ロニー。テディー。私、王子様に出会えたんだよ〟


ローゼンタール伯爵夫人は、亡き母と弟達に語りかけながら、髪やドレスに引火するのもかまわず、炎の海を突っきった。


〝……もう一度踊る夢は、とうとうかなわなかったけど、でも、いいの。……だってね。その王子様は、また私を助けてくれた。私のこと、ずっと綺麗なままだって褒めてくれた。冬の薔薇だって言ってくれたのよ。昔と同じ笑顔で、私のために涙まで……。私もう死んでもいいって思うくらい幸せだった。……だけど、さんざん悪いことしてきた報いね。やっぱり私、みじめでみっともない死にざまをさらして逝くことにするわ……〟


ローゼンタール伯爵夫人は、〝雷鳴〟のステップを踏み、コーネリアをかばうようにその前にとびだした。その刹那、アリサの白い繊手が閃き、ローゼンタール伯爵夫人の胴体を深々と貫いた。ローゼンタール伯爵夫人は弓なりにそり、大きく痙攣した。唇から大量の血がごぼごぼと零れる。しかし、髪とドレスを炎に包まれた彼女は、やりきったという会心の笑みを浮かべていた。


〝……たとえ王子様と踊れなくてもいい。……だって……私は……彼のいちばん大切な家族を守れたもの……。それにね。私も……彼女のことを、妹みたいに思ってたのよ。……最低の悪女のラストダンスとしては上出来よね……。ねえ、ロニー、テディー……あなた達も……少しぐらいは……そう思ってくれる?〟


奇跡的に炎をまぬがれた薔薇の髪飾りのはなびらが、はらはらと散り落ちる。


伯爵夫人の身体に縫いとめられ、アリサの指先は、コーネリアにわずかに触れたところで止まっていた。


消えゆく意識のなか、なおコーネリアに手出しはさせまいと、ローゼンタール伯爵夫人はずれ落ちながら、アリサに爪を立ててしがみついた。アリサは感嘆の表情をし、なされるがままになっていた。


「……ざまあみろ……止めてやったわ……虫けらにも……意地ってもんが……あるの……よ……」


その言葉にもアリサは怒らなかった。蒼い瞳から険が消え失せていた。指をぱちんと鳴らすと、ローゼンタール伯爵夫人にまとわりついていた火が消し飛ばされた。


「……見事よ。あなたは虫けらなんかじゃない。たしかに冬の薔薇だった。今のダンスはどんな宝石よりも価値あるものだったわ。……奇跡の四つめ、たしかに受け取った。私の名にかけて、コーネリアとおなかの子からは手をひくわ。禍根を残すとはわかっているけれど、これだけの執念に報いるには他に思いつかないもの。〝刻〟の奴を喜ばせるのは癪だけれどね」


ため息まじりの賞賛と宣言を、ローゼンタール伯爵夫人は青空のような解放感のなかで、遠く聞いた。砂のように体からぬくもりが流れ出ていく。がくりと崩れ落ちようとするローゼンタール伯爵夫人を、今度はアリサが背中に手をまわして支えた。


「……死ぬ前によくお聞きなさい。今、直接触れてわかったわ。コーネリアが妊娠しているのは、双子の赤ちゃん。両方とも男の子よ。生まれ変わりなんて信じないけど……こういう偶然もあるものなのね。あなたは……今度こそ、ふたつの命を守りきったわ。この私からそんなことが出来る者は、この世に何人もいない。ふたりに笑いかけて、自分を誇りながら旅立つがいいわ」


アリサのささやきは、彼女からこんな声が出るのが信じられないほど優しかった。


ローゼンタール伯爵夫人は驚きに大きく目を見開いた。


「……ふた……ご……? ……まさか……。 ……ロニー……。……テディー……。……あなたたち……あのときの、約束を……?」


ローゼンタール伯爵夫人の目から、涙がとめどなく零れ落ちる。


〝やくそくだよ〟


まっすぐに見つめて約束してくれたロニー。


〝うん、やくそく……〟


少し照れながら約束してくれたテディー。


ふたりの声がよみがえる。


いつか生まれ変わっても、必ずまた自分に会いにきてくれると言ってくれた、あの寒い星空の下での弟達の誓いを、身を寄せあった熱い体温ととともに、ロナは……ローゼンタール伯爵夫人は、あざやかに思い出していた。


「……よかったわ……ね。……あなた達は……きっと、しあわせに……なれるわ……。……だって、世界で一番のお母さんのもとに……生まれてくるんだもの……」


ローゼンタール伯爵夫人は、背後のコーネリアとそのおなかの赤ちゃんに振り向き、祝福した。遠い日に、幼い弟達に向けた笑顔と同じ優しいほほえみが、ローゼンタール伯爵のまっしろな頬に、美しい月のように浮かんでいた。


屋敷の上空からは、あのときと変わらぬ満天の星々の光が、散りゆく彼女の最後の戦いを見守るように降りそそいでいた。

お読みいただきありがとうございます!!

ガチで読みきった方、本当にお疲れ様でした!!


前書きで申しましたように、今回の話は、しばらくは削ったり、改変したり、色々いじらせてもらうことになると思います。ご了承ください。


では、よろしかったら、次回の更新のときもまたお立ち寄りください。

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[良い点] 今更の感想ですが…読み直し ロナの事が気に入っていたので過去話何回読んでも報われてほしいとおもってしまいます 死ぬけど行動が未来へと繋げる展開が好きです [気になる点] いつ誰が死ぬか…
[良い点] ロナの生き様!!そして散り様…… ロニーとテディーの記憶を胸に抱いたロナはきっと彼らの記憶のごとき聖女の姿だったのでしょう……美しく優しいお姉ちゃん…… けれどそこで終わらなかったところ…
[良い点] ついにロナ編決着! ロナが最後に守ったのがコーネリアだったのがもう…言葉が出ない! ローゼンタール伯爵夫人からロナに戻って、最後には守りたい人たちをようやく守れて…これ以上の終わり方は本当…
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