日陰に咲き誇る薔薇。ローゼンタール伯爵夫人は悪女として醜く死ぬ覚悟を決めます。その悲愴な決意は月光のように私達の心をうつのです。
ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!
【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】2巻が12月17日に発売です!! 鳥生ちのり様作画!! KADOKAWAさまのFLОSコミックさま発刊です!! 1巻ともども、どうぞよろしくお願いします!! ちなみに連載誌は電撃大王さまです。
またコミックウォーカー様やニコニコ静画様で、12月2日に11話①を無料公開開始しました。ピクシブ様やピッコマ様で読める回もあります。もちろん電撃大王さまサイトでも。ありがたや、ありがたや。どうぞ、試し読みのほどを。ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「こいとうたたね」も少し読めます。応援よろしくです……!! 原作小説の【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻】はKADOKAWAエンターブレイン様より発売中です!!
なお79話のおまけは、今回の更新をもって削除させていただきます(笑)
……顔には出さなかったが、ローゼンタール伯爵夫人は激痛に耐えていた。嘔吐感と眩暈も絶え間なく続いている。少しでも気をぬくと、その場にへたり込んで動けなくなるだろう。
魔眼を発動したときから覚悟していたことだ。わかっている。自分の命は今夜いっぱいで燃え尽きる。
身体の底から不気味な寒気が浸食してくる。生命力がゆびのあいだの砂のように、急速にこぼれていく。体温が失われつつある。だが、コーネリアに希望の光を見出したローゼンタール伯爵夫人の心はあたたかだったので、冷たい死期が刻一刻と迫ってくるのも気にもならなかった。それに慕っていたヴェンデルに憎まれ続けたこの十四年の苦しみに比べれば、こんなものどうということはない。
「魔眼は強力ですが、大変危険な能力です。限界を超えた使い方をすれば、対価として貴女の命を残らず吸い尽くすでしょう。一度そうなれば死ぬまでもう止まりませんよ。そして発狂するほどの激痛をともないます。人魚姫が足を得た以上のね……。思い直すなら今のうちです」
と彼女に能力を授けるとき、ソロモンはそう忠告した。
ローゼンタール伯爵夫人は躊躇らわなかった。大きな力が代償無しで与えられると無邪気に信じられるほど彼女は子供ではなかった。
「人魚姫? ふふ、私はどちらかというと邪悪な魔女のほうよ。だから、声が対価ならやめておくわ。悪役はやっぱり憎らしい台詞が吐けないとね。……でも命ならくれてやるわ。少しだけもてばいい。たとえ貴方が悪魔で、命どころか魂を求めてきても、私は喜んでこの手を取るわ」
そうあでやかに笑い、魔眼を受け入れた。その魔眼の力こそが、彼女がかつて犯した、十四年前の舞踏会の夜のあやまちを償う唯一の方法だったからだ。あのとき自分がコーネリアを助けなかったことが、破滅を招いたのだとずっと悔やんでいた。
〝あぶくみたいな私の命ひとつで、望みがかなうなんて、これほど安い買い物はないわ〟
彼女は強がりでなく、本気でそう思ったのだった。
……魔眼の真の力は、単純な幻覚や催眠ではない。
魔眼の結界内でおきた出来事が、魔眼をといても、すべて現実のものだったと記憶されることだ。たとえそれが過去の再現であろうとだ。……つまり、もし今夜の舞踏会でコーネリアが堂々とふるまえば、それが本当の十四年前の過去の出来事だったと、赤の貴族達の記憶は上書きされる。たとえ魔眼の主のローゼンタール伯爵夫人が死んだ後でもだ。それは過去のやり直しに等しい。
ローゼンタール伯爵夫人はずっと懸念していたことがあった。
十四年前の舞踏会は、コーネリアの心に深い傷を残しただけでなく、いじめに加担した赤の貴族達に、コーネリアを侮る記憶をうえつけた。奴らは陰険で嫉妬深い。この先のコーネリアが名声を高めれば高めるほど、必ず汚物にまみれ震えうずくまっていた姿が真実のコーネリアだと、周囲に面白おかしく吹聴してまわるだろう。現に何人かはすでにその噂を流しているのだ。社交界は、光が強まるほど闇も深まる。それはコーネリアの喉元に刺さった骨だ。
これ以上、つまらない奴らにコーネリアの足は引っ張らせない。
コーネリアがこれから先、ヴェンデルとともに明るい人生を歩むために、噂の源の貴族どもの記憶を、侮蔑から驚きと称賛に書き換える。それがローゼンタール伯爵夫人の真の狙いであり、はなむけだった。
だが、もしコーネリア本人が名誉の挽回よりも、復讐を望むような女性だったら……。
だから伯爵夫人は馬車のなかでコーネリアに問いかけたのだ。
答えは望んだもの以上だった。コーネリアは復讐よりも、愛する人達のために生きたいと口にできる人間だった。
ローゼンタール伯爵夫人の胸を喜びと誇らしさが満たした。迷いは消えた。コーネリアはやはりヴェンデルにふさわしい伴侶だった。自分が残された命を懸けるに値する人間だった。
十四年のときを経て、話してみたコーネリアは、彼女なりの信念をもった尊敬できる女性だった。あの夜の舞踏会での醜態は、義父母のバイゴッド侯爵夫妻の薄汚い罠にはまっただけだったのだ。たぶん友人にだってなれたはずだ。なんという無駄な回り道だったのか。思い返すと、心のなかに哀しく寂しい風が吹く。人生がむちゃくちゃになったのは、ヴェンデルとコーネリアだけではない。ローゼンタール伯爵夫人もまたそうだった。
……すぎさった過去に思いを馳せる。
ローゼンタール伯爵夫人は半生を、ただヴェンデルを守るために生きた。恋も平穏もプライドも捨てた。身分も金もない彼女が唯一、恵まれていた容姿を使い、男達のあいだを渡り歩き、ついに先王の寵姫の座までのぼりつめたのは、そこまでいかないと、ヴェンデルを陰から守れる権力は手に入らなかったからだ。その道程で何人もライバルを蹴落とした。全財産を自分にそそぎこんでくれた男に、行かないでくれと足にすがりつかれたのに、冷たく見捨てたこともあった。
ロナの純粋だった心はすっかりすり減り失せてしまった。けれど、時々、真夜中にひとりぼっちでいるとき、ふと少女の優しさがよみがえることがあった。そんなときは、自分の罪の重さに愕然とし、こらえきれず嘔吐した。
ごめんなさい!! ごめんなさい!! 許してください!!
ローゼンタール伯爵夫人は、両手で顔をおおい、髪をかきむしり、慟哭した。どんなに謝罪の悲鳴をあげても、怨みと悲しみに満ちた犠牲者達の瞳が忘れられない。脳裡でぎらぎらと睨みつけ、呪詛を投げかける。ローゼンタール伯爵夫人は胸をおさえ、吐瀉物にまみれ、床をのたうった。
幼いロナだったときも、たくさんの男達が、彼女のうえを通りすぎた。穢されて死にたいと思った。だが、それは父親に強制されてだった。身体を使って誰かを篭絡するなど考えもしなかった。身は穢れても心は綺麗だった。だが、今のローゼンタール伯爵夫人は、もはや被害者ではなく、無数の恨みをかう加害者だった。
ずっと苦しかった。華々しい社交界にいても、笑みは仮面だった。もう何年も心から笑ったことはなかった。優しかった記憶のなかのヴェンデルのまなざしが、侮蔑と憎悪の瞳の色に塗り替わっていく。もう少年のときの笑顔が思い出せない。頼れる人が誰もいない。孤独で胸に穴があいたようだ。ヴェンデルから贈られた色褪せた薔薇の髪飾りを両手で胸元に握りしめ、失った過去を想い、ローゼンタール伯爵夫人は、少女のようにひとり泣いた。
それでも、その修羅の地獄を生き抜けたのは、権力者として裏から手をまわすことで、敵が多いヴェンデルの苦境をわずかながらも救えているという自負があったからだ。
そのちっぽけな誇りは、ローゼンタール伯爵夫人の生きる支えだった。それなのに、あの舞踏会の夜、自らの手でそれを叩き潰してしまったのだ。
〝権勢を誇ったあのころの私なら、赤の貴族たちのいじめから、コーネリアを救い出すなど造作もなかった。だけど、私は……彼女のぶざまを許せなかった。あのヴェンデル様が伴侶として選んだ人が、こんな連中に屈するのかと。そして、少しくらい痛い思いをすればいいと思ってしまった。それが取返しのつかない事態を招いてしまった……、〟
ロナだったころの自分ならためらわずコーネリアを助けたろう。あのとき一歩が踏み出せず、一度コーネリアに背を向けたのは、自分の心が薄汚れたからだ。そのあいだに事態は、取り返しのつかない破滅に突っ走っていた。
痛恨が心を焼く。
愛妻のコーネリアの心が壊れ、表に出れなくなったことで、ヴェンデルは十年も苦しむことになった。
〝私は……ずっとひそかに恋慕い、力になりたいと切望していた恩人のヴェンデル様を、こともあろうに……自らの手で地獄に突き落としたんだわ〟
あのとき、自分にコーネリアに落胆するのをもう少しだけ思いとどまり、その気持ちをよく確かめる優しさがあれば、こんなことにはならなかった。きっと自分の欲しかったものすべてを持っていたコーネリアへの嫉妬もあったのだと思う。そんなつまらないことで、ヴェンデルの幸福だったはずの新婚生活をむちゃくちゃにし、人生をも狂わせてしまった。そして、コーネリアいじめの首謀者とヴェンデルに誤解され、今も憎まれ続けている。
〝これは、きっと、たくさんの人達を、目的のために、無慈悲に踏みにじった天罰……。私はおろかだったわ。でも、もう遅い。後悔しただけで許されることじゃないし、私に時間は残されていない。そして穢れすぎた。あなたの友達にはなれないわ……〟
コーネリアは闇から這いあがれない自分とは違う。光かがやく道を生きられる女性だ。現に魔犬ガルム襲来のとき、愛娘のスカーレットを守るため、堕ちた天才は再びよみがえった。
コーネリアが、赤の貴族たちへの復讐を考えていない、と言いきったときは嬉しかった。力あるものが報復の誘惑を断ち切るのは簡単ではない。他ならぬローゼンタール伯爵夫人も、さんざん自分を這いつくばらせたライバル達を権力で凌駕し、ついに足元に額づかせたとき、暗い快感をおぼえてきた。人間は受けた屈辱と恨みを忘れない。血走った目で常に復讐の機会をうかがう獣を、心に棲まわせてしまうのだ。
獣は恨みのうなり声をあげる。
おまえなんかがよくも!! あんたなんかがよくも!! オレを否定した!! 私をバカにした!! 見くだした!! 偉そうに!! わかったつもりで!! 上から目線で!! みじめだった!! 傷ついた!! 許せない!! なぜ自分だけがこんなに苦しまなければいけないのか。理不尽な扱いを受けねばならぬのか!!
復讐したい!! やられたように笑い返したい!! 上から見下ろしてやりたい!!
獣は怒りに吠える。
ああああ、おまえを同じように苦しめて、すっきりしたい!! ざまあみろと指を突きつけて嗤ってやりたい!! おまえを全部否定してやりたい!! オレが!! 私が!! 正しかったと思い知らせてやりたい!! だから、もがき苦しめ!! ひいひい泣いて謝れ!! おちぶれてしまえ!! もっとオレを!! 私を!! 優越感にひたらせろ!! あいつが周りの人間すべてに糾弾されればいいのに!! あいつが世界中から馬鹿にされたらいいのに!!
それは多かれ少なかれ誰もがもつ醜い衝動だ。その獣にふりまわされるのが人の悲しいさがだ。
「……っ……!!」
ローゼンタール伯爵夫人は苦痛の呻きをもらした。
「あの……お具合が悪いのでは?」
心配そうにのぞきこむコーネリアに、伯爵夫人はなんでもないわ、と苦笑した。
魔眼の代償に絶え間なく身を焼くこの痛みのように、恨みは人をむしばみ正気を失わせる。社交界でのしあがった伯爵夫人にはなじみの光景だ。
だが、たとえ綺麗ごとと嘲笑われても、そうでなかった人達を伯爵夫人はよく知っている。ロナの大好きだった母親、弟ふたりは、不幸な境遇を恨まず、自分のためではなく、愛する家族のために生きた。
そしてコーネリアは彼らと同じ選択をしてくれた。
ローゼンタール伯爵夫人は、あたたかかった人達の懐かしい笑顔を、コーネリアの向こうに見た。自分は彼らになにひとつ恩返しができなかった。ずっと悔やんでいた。しかし、希望の灯りが今、胸にともされた。ローゼンタール伯爵夫人は、心のうちで亡き家族に語りかける。
〝お母さん、ロニー、テディ―……みんなのような生き方を、私もしたかった。でも、できなかった。できなかったのよ……。その生きざまを誰かに伝える資格さえなくしてしまった。私みたいな悪女の口から出れば、すばらしかったみんなの人生まで汚れてしまうもの。だけどね、私はみんなと同じ生き方を選んだ人を見つけたの。だから、私は、最期にその人の力になって死ぬわ〟
ローゼンタール伯爵夫人は、いわば想い出の彼らの魂を、コーネリアに託した。
〝みんなみたいな生き方は正しかったんだって、理不尽な闇にも負けずこんなにも輝くんだって、私はコーネリアを通し、命をかけて証明するわ。それがこんな私がお母さんたちにできる、たったひとつの身勝手な恩返しよ。そのためになら、私はどんな最低な敵役にもなってもいい。汚れた役なら誰にだって負けやしないわ……〟
それは悲しいまでの女の意地だった。
ローゼンタール伯爵夫人は、憎らしい引き立て役として、踏み台になり、コーネリアをより輝かせる道を選んだ。ずっと和解を望んでいた相手に、極悪人と思われたまま人生を終えてかまわないと決意した。コーネリアの気高い選択に、どんな汚泥にまみれてもかまわない気概で応じたのだ。
地獄も味あわずに摑めるものなど、たかが知れていると彼女は知っている。自分はコーネリアやスカーレットのような天才ではない。我が身を削らないと、何かを得ることなどできないのだ。
〝私は……少女のころ憧れていたお姫様にも、物語のヒロインにもなれなかった。汚れて、堕ちて、最低の女になった。だけど、せめて……悪党として胸をはって舞台に立とう。ここが私の人生のフィナーレよ〟
そこはスポットライトの当たらない暗い場所だ。観客の拍手と喝采とも無縁だ。悪女が最期を迎えても、せいせいしたと笑われるだけで、誰も涙などこぼしてくれないだろう。けれど、ローゼンタール伯爵夫人はここをひとりぼっちの死に場所と定めた。
手加減すると赤の貴族達に見抜かれる。彼らは悪意に敏感だ。本気でコーネリアを罵倒し、敵対するしかない。
〝許してくれなくていい。だけど、私みたいな小悪党に負けたら承知しないわよ。コーネリア〟
ローゼンタール伯爵夫人は、しばらくコーネリア達と語ったあと、心のなかでそう激励し、豪奢な黄金の馬車を降りた。
「……たいした馬車だったこと。お礼に、このローゼンタール伯爵夫人が、直々にあなた達をもてなしてあげるわ。赤の貴族の流儀でね……。夜は長いわ。楽しみにしておくことね」
降りざまにそう不敵に宣告し、背筋をぴんと伸ばし、堂々とコーネリア達に高笑いするローゼンタール伯爵夫人に、様子をうかがっていた赤の貴族達が感銘を受けどよめいた。
赤の貴族達は、スカーレット達一行に、王家親衛隊、王家の紋様つき八頭立て馬車、幻のアトラスシルクと驚天動地の連続を見せつけられ、気圧され怯んでいた。富と権力に縁遠い野人と侮っていたコーネリアのはずなのに、そのバックに王家を動かすほどの力があることをまざまざと見せつけられたのだ。しかも頼みの綱の伯爵夫人は、ひとりでコーネリア達の馬車に乗りこんでしまった。伯爵夫人がコーネリアの味方につき、自分達に牙をむいてくる恐怖に、赤の貴族達は震えた。だが、ローゼンタール伯爵夫人が、はっきり敵意をうちだし、しかもいささかも臆していないことに、不安を払拭されて元気づいた。
ローゼンタール伯爵夫人は扇を打ち鳴らした。
「……栄光ある赤の貴族達ともあろうものが、なにを葬式のように静まり返っているのかしら? たしかに目を見張るほどの馬車だったわ。でも、どんな上等な食器でも、そこに生焼けの田舎くさい肉料理がのっていたらどうかしら。素晴らしい料理と言える? ふふ、たとえ食器が、豪華絢爛な馬車でも幻のアトラスシルクでも、そんなものは料理と呼べないわ。むしろ皿と不釣り合いで寒々しいわ。みなさん、そう思いませんこと」
突然のローゼンタール伯爵夫人のあおりに、赤の貴族達がどっとわく。山育ちのコーネリアを痛烈にあてこすっていると気づいたのだ。
「なるほど、さながら黄金の首輪をしたうすぎたない野良犬ですな」
「いやそれを言うなら豚に真珠でしょう」
「いやいや、この方は狩りが得意と聞く。きっとドブネズミも大量に殺せましょう。やはり野良犬がふさわしい」
「ああ、犬が何匹ネズミを殺せるか賭けをするいかがわしいバーで、チャンピオンの犬になれるかもしれませんな」
調子にのって口々に囃し立てる。さながら十四年前の夜の再現だった。
「……てめえら、なんつった……!!」
コーネリアは少し蒼白になっただけで侮辱を吞みこもうとしたが、アーノルドがブチ切れた。ローゼンタール伯爵夫人を睨みつける。
「あんた、師匠と仲良く話すふりしといて、やっぱり敵かよ!! いい顔しといて人を裏切る奴が、俺は一番許せねえんだ……!!」
「……よせ!! アーノルド!! たぶん、この人は……」
セラフィがなるべく目立たないよう控え目な制止をしたのが仇になった。伸ばした手を振りきり、アーノルドが、ローゼンタール伯爵夫人の前に飛び出してしまった。
「は!! この手の悪党はな!! 引けば引くだけつけあがるんだ!! 即ぶちのめすのが正解なんだよ!!」
殺気をみなぎらせた長身のアーノルドは黒豹を思わせた。大の男でも腰を抜かす迫力をはらんでいた。暗闇で出くわす原始人のようにおそろしかった。距離があるのに赤の貴族達数人がまっさおになり後退る。
だが、ローゼンタール伯爵夫人は、びくともしなかった。
「ふん、気に喰わないと、女に暴力をふるって言うことをきかせるの。それが戦士の男だと思うなら、いえ、師のコーネリアの教えだというなら、気の済むまで殴ればいいわ」
ぐいと顎を突き出され、アーノルドは怯んだ。
粗暴に見えてももとより女を殴れる人間ではない。誇り高い戦士だ。まして尊敬するコーネリアの名前まで出されては、もう手も足も出せなくなった。
「どうしたの? ほら、早くなさいな。偉そうなのは口だけ?」
「……ぐ……ぬっ……!!」
挑発され、頭から湯気が出そうな憤怒の表情で、その場にかたまったアーノルドに、ローゼンタール伯爵夫人は氷の一瞥をくれた。
「ふふん、命拾いしたわね。あんた、もう少しで師匠のコーネリアに土下座させるところだったのよ。自分の怒りにまかせて行動するのなんか、ガキだってできることだわ。まわりの人の気持ちにまで配慮できて、はじめて本当の男と名乗れるのよ。単細胞のおちびちゃん」
伯爵夫人は胸をそらして、頭四つ分は高いアーノルドをねめつけ、ふんと小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
〝……ねえ、ブライアンさん、ビルさん、ボビーさん。あなた達ならきっとそう大笑いしましたよね〟
彼女の脳裡に、今は亡き三老戦士がよぎったことを、アーノルドは知る由がない。
アーノルドは悔しそうに、ちらっとコーネリアを見た。
「アーノルド、あなたの気持ちは嬉しいのですが……」とコーネリアは申し訳なさそうに微かに首を横に振った。理由はどうあれ、丸腰の貴族女性を力をちらつかせて脅すなど論外だ。いかに悪党たちとはいえ、ここにいるのは貴族達だ。場末の酒場のいざこざとは違う。こらしめるには、貴族の認めたルールのなかでおこなわないと、一方的に悪者あつかいされる。
そう短くセラフィに耳打ちされ、アーノルドは切歯扼腕して黙りこむしかなかった。
「男じゃ女に口で勝てないわ。暴力しか頭にないあんたみたいな馬鹿、その手段を取り上げられたら、あとは歯軋りでもしてるのがお似合いよ。せめて、あと二つ三つぐらい別の手段も用意なさいな。無理でしょうけど」
居丈高に伯爵夫人に吐き捨てられ、アーノルドは青くなったり白くなったりし、口をぱくぱくさせた。かろうじて声にするのは堪えたが、女はずるいと地団太踏みたいところだろう。
ぎりっぎりっという歯軋り音に、ローゼンタール伯爵夫人は苦笑し、そして心のなかでアーノルドに詫びた。
魔眼をもった彼女には、アーノルドが本当は大人ではなく、ほんの子供だということがわかっている。これだけ悪しざまに言われてよく耐えたと思う。師を侮辱されて、くってかかろうとしたことは、むしろ男の子らしく好ましかったくらいだ。
心がちくりと痛い。父に歩けなくさせられる前の弟のテディ―もそんな正義感の強い熱い少年だった。テディ―はいつか王家親衛隊に入って活躍し、姉のロナ達を不幸な境遇から救うことを夢見ていた。大切な家族を守るため、どんな相手にも立ち向かうヒーローになりたかったのだ。それなのに、足手まといになった自分がいるせいでロナ達が地獄から抜けられないと泣き暮らし、最期は異端審問官たちの嘘を信じ、ロナ達をかばうために四肢を切り落とされ、人でない姿になって死んでいった。伯爵夫人はその最期さえ看取ってやれなかった。テディ―はたったひとりで、かびくさい暗闇のなか、激痛と絶望にさいなまれ息を引き取ったのだ。
〝……アーノルドといったわね。きっとあなたはいい戦士に成長する。テディ―はあなたみたいな少年になりたかったのよ。見届けられないのが残念ね……〟
胸をしめつけられる郷愁と後悔と苦しさともにそう思う。
「……!!」
凄まじい痛みにローゼンタール伯爵夫人が襲われたのはそのときだった。
それはまさに痛みのダムの決壊だった。衝撃に呼吸が停止した。幾千のナイフが脊髄に突き立ち、一斉にえぐられたような気がした。全神経が火箸でかきまわされたようだ。先ほどまでの痛みは前兆にすぎなかった。ソロモンが警告した魔眼の代償の痛みはこれのことだったのだ。幼いときに凌辱された、あの身体を内側から引き裂かれるトラウマがよみがえり、悲鳴をあげそうになる。あのときは亡き母に助けを求めた。だが、もう自分にはそんな資格はない。ひとりで戦うしかない。ぶわっと冷汗が全身にふきだすが、伯爵夫人は顔に出すまいと必死にあらがった。
気づいたときは、大きく身体をぐらつかせ、転倒しかけていた。あまりに激痛に平衡感覚に狂いを生じたのだ。立て直そうも膝に力が入らない。魔眼は彼女の体力まで奪い取っていた。
しまった、と伯爵夫人はほぞを噛んだ。コーネリアを輝かせるには、自分がふてぶてしくしぶとい悪役をはることが肝要だ。これでは舞台が台無しだ。
たぶん……一度倒れるともう二度と立ち上がれない。
私の命なんかでは足りないの!? 悪女としての役目さえも許してくれないの!?
胸が張り裂けるような心の悲鳴をあげ、朽ち木のように倒れかけたその身体が、そっと抱きとめられた。周りからわからないくらいさりげなくブラッドが支えてくれた。
「……あなたはいいのか。それで本当に後悔しないのか? 今なら、まだ……」
すっと触れた手からあたたかさが伝わり、痛みが嘘のようにひき、一気に体が楽になった。ローゼンタール伯爵夫人は泣きそうになった。
〝……マリエル……さん……!!〟
忘れるわけがない。それはかつて瀕死の自分を癒してくれたマリエルの血流操作だった。
ロナちゃんはほんとにいい子だね。
明るくって、優しくって、よく気がついて。
きっとお母様の仕込みがよかったんだねえ。
昨日のことのようにマリエルの朗らかな声がよみがえる。
魔法のような手さばきで、血と泥に汚れていたロナを嫌な顔ひとつせずに洗い、髪をくしといて整え、お洒落をさせてくれ、「どうだい、ロナちゃんは、誰にも負けないくらい美人だろ」と我がことのように誇らしげに、ヴェンデルと三老戦士にお披露目してくれた。あのあとマリエルの伴奏で、自分はヴェンデルとメヌエットを踊ったのだ。それを三老戦士が優しく見守っていてくれた。
「……あ……! ……ああっ……!」
まるでマリエルがブラッドを借りて、自分を助けにやってきてくれたような気がし、ローゼンタール伯爵夫人の視界が涙で曇った。こらえきれない小さな嗚咽が喉からこみあげた。もう一度あの場所に帰れたら、どんなに……!!
「……よせ、ブラッド。ボクらが口を出しちゃいけない」
後ろにいたセラフィが声をかける。
「見届けよう。忘れないでいよう。それだけがボクらにできることだ」
おさえたセラフィの言葉に、ブラッドは唇を噛みしめ、すっと伯爵夫人から離れた。
ぱっと聞いただけでは、ブラッドが横暴な伯爵夫人を諫め、セラフィが、余計な事をするな、と不要な争いを避けようとしたようにしか聞こえまい。だが、そうではないとローゼンタール伯爵夫人にはわかっていた。
ブラッドは伯爵夫人を救おうとし、セラフィはその覚悟を無駄にしちゃいけない、と言ったのだ。セラフィは外海をいく船乗りだ。沈みゆく船から最後まで逃げず、責任を果たすため、運命をともにした勇敢な船長たちを何人も知っている。それと同じ覚悟と鋼の意志を、伯爵夫人に見たのだ。
少年ふたりは、伯爵夫人が命を捨てて悪役に殉じようとしていることを察していた。
なんて聡い子達なんだろうと心が震える。そして、伯爵夫人がそこまで覚悟するならば、同情はみじめになるだけと、誰にもわからぬよう口を閉ざしてくれている。それは大人の男の優しさだった。
だから、伯爵夫人もその心遣いをありがたく受け取り、礼ひとつ言わず、なにごともなかったように、ただ前を向いて歩きだした。羽根扇で隠して涙をぬぐう。彼女が未来ある子供なら、また違う道もあったろう。だが、もうなにもかも遅い。どんなに望んでも、失った過去は取り戻せない。年を取るということは、選べる道が減ることなのだとつくづく思う。
〝きっとあなた達が年頃になったら、たくさんの少女たちが胸をときめかせるでしょうね。あなた達みたいな男の子、女の子なら好きにならずにはいられないもの〟
そして、〝ロニーだったら、きっとあなた達と仲良くなれたわ。とても優しい弟だったのよ〟とそっとつけ加えた。姉の自分をかばい、炎の中に笑って消えた弟。すれきったつもりのローゼンタール伯爵夫人だったが、彼らのような少年を見ると、あの悲しい炎の夜を思い出さずにはいられないのだった。
そのときの炎の記憶よりも紅い瞳が、ローゼンタール伯爵夫人の目の前に立ちふさがった。風になびく赤のつややかな長髪が、輝きをました月の光をはじく。はっとなるほど鮮やかだった。
それは魔女狩りで火刑にされようとしていた自分を助けにきてくれた思い出のなかのヴェンデルと同じ瞳の色と髪の色だった。
スカーレットが両手を広げ、ローゼンタール伯爵夫人の行く手をはばんでいた。
「伯爵夫人、聞かせて。あなたは本当はお母様の敵ですか……!! それとも……!! あなたの表情は信念に殉じる人の顔よ。いじめを楽しめる人の顔じゃない。私は……よくわかる。もしなにかわけがあったなら、お願い、話して……!!」
夜の雲をとばす風が、とばりのように、二人の会話を赤の貴族達からへだてる。スカーレットの赤の髪と、ローゼンタール伯爵夫人のブルネットの髪の先端が、風になびき、そっと触れ合う。
ローゼンタール伯爵夫人は知らないが、スカーレットは「108回」でハイドランジアの女王を何度も経験している。たとえ民から暴虐とそしられようとも味方がみな散っても、最期まで責務から逃げなかった。だから、同じような覚悟を決めた伯爵夫人に共鳴した。ブラッドやセラフィに比べ、少し気づくのが遅れたのは、今のローゼンタール伯爵夫人と、スカーレットの知る「108回」の残酷な彼女があまりに違いすぎて戸惑っていたからだ。
ローゼンタール伯爵夫人は足を止めた。気持ちをこらえるため、少しうつむく。スカーレットの言葉は、ヴェンデル本人にかけてもらいたいと長年切望した言葉だった。もしヴェンデルの誤解が解け、一度だけでいいから、少年の頃のように笑いかけてくれれば、もう死んでもいいとさえ思っていたのだ。それをあの日のヴェンデルを誰よりも思いださせるスカーレットが口にしてくれた。
〝……ありがとう。こんな私に……。長年の夢がかなったみたいだわ。だけど、私はあなたの思いやりを受け入れられない。だって、受け取ったら、きっと、心が折れてしまう。悪女としてあなた達を罵れなくなってしまう。だから、私は……。……ごめんなさい。あなたのような優しい子を、あの夢のように殺そうとすることにならなくて本当によかった……〟
もしコーネリアとスカーレットに駆け寄り、すべてを打ち明けて泣き崩れることができたら、どんなに嬉しいだろう。楽になれるだろう。きっとこの母娘なら快く自分を許してくれるだろう。残ったわずかな時間を優しさに包まれて、共に過ごすことができるはずだ。思い残すことなく死んでいけて、二人は自分のために涙してくれるかもしれない。
くらくらする甘い誘惑に、ローゼンタール伯爵夫人は必死にたえた。
だけど、それでは駄目だ。悪役に徹さなければ、コーネリアのためになにも残せない。たとえ悪党としての末路で、亡くなっても悲しむ者とて誰ひとりいなくても、それこそが自分の選んだ最後の舞台だ。伯爵夫人は心を鬼にして、顔をあげスカーレットを睨みつけた。
「……あんたみたいな小娘に同情されるほど落ちぶれていやしないわ。見当違いの心配をするより、自分の粗末な胸の将来の心配でもするのね」
「……なっ……!?」
傲然と尖った胸をそびやかすローゼンタール伯爵夫人に、スカーレットは目を白黒させた。直撃だ。
「……うっ……!!」
はらはらして様子を見ていたコーネリアが、ふらふらと後退った。流れ弾に被弾したのだ。
蒼白になった胸ぺた母娘に、心から申し訳なく思いながら、ローゼンタール伯爵夫人は自嘲した。
〝……最低な女ね、私は。まるで、あのおぞましい夢のなかの、性悪なローゼンタール伯爵夫人そのものだわ〟と。
それは魔眼を得てから、ローゼンタール伯爵夫人が、何度も悲鳴をあげて飛び起きた悪夢だった。
……その夢では、コーネリアは十年ひきこもったあと、スカーレットを産み落として死亡していた。そのあとヴェンデルは愛妻を失ったことを悲しみ続け、足繁く大木の下にある墓前を訪れ、ついに季節外れの大雪崩にまきこまれて事故死した。生きる目的と想い人を失ったローゼンタール伯爵夫人の心は音を立てて壊れ、なにもかも忘れようと、色と権力欲に耽溺した。そして、ヴェンデルを殺した元凶としてコーネリアを激しく憎悪するようになった。
あの女は、ヴェンデル様の人生の苦悩の大半の原因となり、死して悲嘆に暮れさすだけでは飽き足らず、とうとうヴェンデル様の命まで奪い去ったと……!!
その狂おしい怨念は、コーネリアの血をひくただひとりの人間、スカーレットにぶつけられることになる。そして、ついには、父の亡きあと、たった一人で健気に生きていたヴェンデルの忘れ形見でもあるスカーレットを……。
憎しみにまみれた自分の哄笑する声が聞こえる。
〝……なにが女王候補か。あの女の血をひく分際で……。自分にかかればひとひねりだ〟
心の奥底に残っていた少女のロナが泣き叫ぶ。
〝やめて!! ヴェンデル様の遺したたったひとつの宝物を壊さないで!! 私は……こんなことがしたかったんじゃない……!!〟
だが、その悲鳴は、ローゼンタール伯爵夫人には届かない。そして……。
「……!!」
眠りからとびおきたローゼンタール伯爵夫人は、呆然と自分の両手を見つめ、今のが夢であったことに心から安堵の息をつくのだった。
〝最低の夢……ありえないわ。私がヴェンデル様のお子を殺そうとするなんて……〟
天才児と名高いヴェンデルの子供の活躍を、伯爵夫人は誇らしく思っていた。王家を動かし、赤の貴族達を戦戦兢兢させるたびに、胸を躍らせ、自慢してまわりたいのを堪えたくらいだ。憎んで、まして殺すなどありえない。
だが、笑いとばすには夢はあまりに生々しく、あるいは自分でも気づかない深層意識で、ヴェンデルとコーネリアへの恨みがあらわれたのかもと考え、背筋が寒くなった。恨みが人を鬼にするおそろしさを、彼女は誰よりもよく知っていた。
まさかそれが「108回」で実際に起きた出来事であり、伯爵夫人の死期が近づいたことと魔眼の影響で、その光景を垣間見たなどわかろうはずがなかった。
伯爵夫人はその夢を見ていたため、間近で魔眼に映したスカーレットの本当の名前と性別に、さほど驚かなかったのだ。
こんな優しいスカーレットを手にかけることにならなくて本当によかったと、あらためて強く思う。
〝コーネリア……こんなすばらしい娘さんを授かれたということは、やっぱり神様は、地獄におちたあなたを見放されてはいなかったんだわ。幸薄かったたぶん、これから幸せにならなきゃダメよ。そのための道は、お詫び代わりに、私が鬼になって切り開いてあげる〟
魔眼を最大出力で発動しているローゼンタール伯爵夫人の直感は、ブラッドやセラフィに比肩しうるほど研ぎ澄まされていた。自分の発言がどう波紋を広げるか、手にとるようにわかる。だからあえて心を……胸をえぐるような発言をした。それはろうそくが燃え尽きる前の最後の輝きだった。
「……バカヤロウ!! どっかの女部族はな、弓をひくために自分で左胸を切り落とすんだ。けどよ、弓の大天才のコーネリア師匠には、そんな小細工はいらねえ。生まれながらに弓のために体が適応してんだよ。この貧乳は進化のあかしってヤツさ。これぞ魂にまで刻みこまれた弓のメルヴィルの血統よ。どうだ、おそれいったか」
おちこむ胸うす母娘を見かね、アーノルドがわってはいり、まわりに誇らしげに胸をはった。
「……追い討ちかけやがった……鬼かよ……」
無自覚なとどめの一撃に、ブラッドがため息をついた。
セラフィが、あのバカ……というふうに顔を片手で覆い、呪われた血筋をあらためて自覚したコーネリアとスカーレットがさらにどん底に落ちこむが、おおよそローゼンタール伯爵夫人の狙いどおりの展開になった。
「どうです!! 俺が師匠の気持を、あいつらに代弁してやりました!! 褒めてください!! し、ししょお……? あだっ!? あだだっ……!!」
「……ふふ、ありがとう、アーノルド。この握力もメルヴィルの血統よ。とくと魂に刻みこみなさい」
「私からも礼を言うね。これはほんの挨拶がわりよ……。地獄にいっても忘れるな」
コーネリアが前からスカーレットが後ろから、母娘共演アイアンクローをかまし、こめかみをメキメキいわされたアーノルドが悲鳴をあげるまでは予想していなかったが。
ローゼンタール伯爵夫人はため息をついて切り出した。
「伝説のアマゾネスにたとえるなんて、よほど自信があるようね。せっかくだから、音に聞こえた公爵夫人のその弓の腕を、私どもも拝見させていただきたいわ。……あら、いいことを思いついたわ。先王様からたまわった由緒ある弓が、私の屋敷にはあるの。せっかくだからそれを使っていただきたいわ」
なるべく嫌味っぽく言い放つ。
「まさかお嫌かしら。公爵夫人は、国王陛下の即位式典で、矢を横や縦にくねらせ、障害物をかわし、的に命中させていらしたわね。……あのトリックもどきは、やはりご自分の弓矢でないと出来ないわよねえ」
嘆息するローゼンタール伯爵夫人の狙いを悟り、赤の貴族達がにやにやしだす。
弓矢には多かれ少なかれ癖がある。はじめて手にする弓で、しかもドレス姿で、普段のパフォーマンスを要求するなどむちゃぶりもいいところだ。ましてメルヴィルの弓技は精妙さが命だ。手元の数ミリ単位の誤差が、遠くの的に届くまでに、数メートル単位の誤差になりかねない。
だが、この話の流れで断れば、即位式典で見せた弓技は、実はトリックだったと認めたと受け取られかねない。どちらに動いてもコーネリアは詰む。
「きったねえぞ……!!」
アーノルドが憤慨するが、コーネリアは「お受けしますわ」と、そびえたつ屋敷を背景にした突然のゲームを静かに受諾した。
スカーレット、ブラッド、セラフィは黙って見守っていた。
「おまえら、平気なのかよ」
アーノルドの心配そうな表情とは対照的だ。
この三人は、魔犬ガルム戦でのコーネリアの、危機におちいるほど冴えわたる弓技を直に体験している。
「アーノルド、あなたが師と定めた人間の、弓の技量をその目で見届けなさい」
コーネリアは一言でアーノルドの不安を払拭した。もうその瞳にはおそれも戸惑いもない。わずかに目を細めているのは、すでに風の流れを摑んでいるからだ。凛としたその美しい横顔に見惚れ、アーノルドは言葉を失う。
スカーレット達は知っていた。こうなったコーネリアは無敵だ。かつてコーネリアをあれほど怯えさせた赤の貴族たちの嘲笑も、今ははるか遠くに押しやられた。もはやそんなものはどうでもいい。超一流の戦士だけがまれに到達する神域に、今のコーネリアはいた。
「ずいぶん大きく出たわね。その鼻っ柱が折れて泣きっ面にならなければいいけど。……そこのあなた達、公爵夫人の腕前に、命をかける覚悟はあるかしら」
ローゼンタール伯爵夫人は、ふふんと笑うと、スカーレット達に声をかけた。
「公爵夫人にはりんごを弓矢で射てもらうわ。つまり、りんごを持つ相方が必要なの。射そこなったら串刺しかもね」
ローゼンタール伯爵夫人の言葉に、赤の貴族達からくすくす笑いがおきる。
「私がりんごを持ちます」
アーノルド達の機先を制し、ためらうことなくスカーレットが前に進み出た。伯爵夫人の言葉が終わるより早かった。これは会話の流れを読んでいたというより、「108回」で似たような貴族のいやがらせを嫌というほど受けた経験則によるものだ。
ローゼンタール伯爵夫人は、あから顔のでっぷりした貴族に振り向いた。
「ブルワー卿、申し訳ございませんが、居間に飾ってある弓を持ってきていただけないかしら。それとそばに置いてある矢を数本お願しますわ」
この展開になることを期待し、すでに弦は張らせてある。
衆目の前で使い走りを命じられたブルワー子爵は、酒やけした顔を不快げに歪めた。
彼は酒癖と性格の悪さで有名で、その嫌われっぷりはバイゴッド侯爵夫妻と肩を並べる。だが、唾をとばして猛烈に文句をつけようとしたとき、「私の家族も同然のつきあいの卿なら、私の家のどこに何があるか手に取るようにわかっているでしょうから」とローゼンタール伯爵夫人におだてられ、だらしなくやにさがり、うきうきと弓矢を取りにいった。彼は幾度となく伯爵夫人に言い寄り、つれなくされていたのだ。
今夜こそ脈があるのではと期待に胸ふくらませたブルワー子爵は、そっくりかえった普段に似合わぬ急ぎ足で、弓矢を握りしめ、笑みを浮かべて戻ってきた。
その早足に比べるとやけに帰りが遅かったことと、好色なへつらいの他の底意地悪い笑みに、ローゼンタール伯爵夫人は事情を察し、一瞬眉をしかめたが、そ知らぬ顔をして弓矢を受け取り、コーネリアに手渡した。
「……どうぞ。問題ないかしら。先王様からたまわった、王家に伝わっていた弓よ」
それはかつて会話に詰まったコーネリアの助けになるようにと、伯爵夫人が持参したが、いじめの現場に遭遇したことにより、誤解されたヴェンデルに殺意を向けられるきっかけになった弓だった。両端にとりつけた角に立派な装飾がほどこされたロングボウだ。
……長かった。やっとここまでたどりついたわ。さあ、あのとき私が見たかったものを見せてちょうだい。
万感の想いで指先が震えそうになるのを、伯爵夫人は必死にこらえた。
自分の身長ほどもあるその弓を、コーネリアは手に取り、反応をたしかめるようにそっと揺らした。重い。二十キロはゆうにこえている。これはフルプレートを射貫くことを想定したものだ。張力は七十キロ以上必要だろう。女性の膂力であつかえる代物ではない。
「……問題ありませんわ」
しかしコーネリアは承諾した。
目を皿のようにして弓矢に異常がないか見つめていたアーノルドの顔色がかわった。
あからさまなほどに矢羽根がむしりとられていたのだ。
「師匠!! その矢はだめだ!!」
あわてふためくアーノルドを見て、赤の貴族達が嗤う。その輪の中心で先ほど戻ったブルワー子爵がふんぞり返っている。言うまでもなく、持ってくる途中で卑劣にしこんでおいたのだ。
しかし、コーネリアは動じなかった。
「アーノルド、問題ないと言ったはずです。自慢できることではありませんが、メルヴィルの弓術の源流は殺人技です。敵から弓矢を奪って継戦することも想定しています。矢柄と弦さえ大丈夫なら、あとは腕でカバーします」
その言葉を裏づけるように、さすがにブラッドとセラフィは蒼ざめているが、スカーレットはまったく顔色を変えていない。標的用のりんごを受け取ろうと足を踏み出した。コーネリアの腕を信頼しきっているのだ。
赤の貴族達は一様に小馬鹿にした嗤いを浮かべた。嗤っていないのは、召使いからりんごを渡されているローゼンタール伯爵夫人だけだった。
彼らの常識でいうと、無謀をこえたおろかな試みだったからだ。まして矢羽根が破損している矢はいちじるしく安定を欠く。血を見るのが大好きな彼らは、美少女(大人の姿になったスカーレット)がまちがって射殺される期待で、興奮しきっていた。だが、涎を垂らさんばかりのそのあさましい貌は、すぐに凍りつくことになった。
ローゼンタール伯爵夫人は、スカーレットにりんごを手渡さなかったのだ。
数十歩その場から距離をおくと、りんごを儀式のクラウンのように胸元に両手で掲げ、コーネリアに向き直った。広い玄関にのぼる広い階段のうえで立ちどまった伯爵夫人は、ニンフの見事な彫像を思わせた。
「そこまでの腕前、ぜひ私自身で堪能してみたくなったわ」
とてつもない度胸に、彼女に批判的なアーノルドさえ息をのんだ。胸元のりんごを射貫くのは、頭に乗せたものよりも数倍の難度を必要とする。普通に矢を命中させるだけでは、あっさりりんごを貫き、相手の胸に刺さってしまうからだ。弓の達人のアーノルドから見ても自殺行為以外のなにものでもない。
「ロ、ローゼンタール伯爵夫人……それは……!!」
まっさおになったブルワー子爵をローゼンタール伯爵夫人は冷たく一瞥した。
「なにか問題が? 心当たりでもあるのかしら。もしこの私の頼みに、よけいな手を加えたとしたら、決して許しはしないわ」
ぴしゃりとはねつけられ、ブルワー子爵はごにょごにょと言い訳がましく口ごもり、黙りこんだ。
まるで目に入らないかのように、ローゼンタール伯爵夫人はコーネリアを見つめていた。
「……待たせたわね。公爵夫人。弓籠手は?」
「必要ありません。これでじゅうぶん」
コーネリアは羽織っていたアトラスシルクのショールを、くるくると無造作に引き手と反対の左腕に巻きつけた。そのシルクの価値を知る赤の貴族の女性陣が驚きに目をむく。金の延べ板をピクニックシートがわりにして放置するようなむちゃくちゃさだ。それはおそるべき示威行為として彼女達の目にはうつった。この程度は顧みる必要さえないというのか……。さいわいまっさおになったスカーレットとセラフィは彼女らの視界には入っていなかった。
実際は貴族女性のファッションに疎いコーネリアが、天文学的なアトラスシルクの価値をまったくわかっていないだけだった……。
「……いきます」
短く告げるとコーネリアは弓をかまえ、矢をつがえた。
赤の貴族の、特に男性陣の顔が驚愕にひきつる。その細腕をもってコーネリアは楽々と強弓をひいたのだ。彼らはほっそりしたコーネリアの身体が秘めたバネを知らなかったのだ。持続的には無理でも、瞬間的には並の男をはるかに凌駕する力をしぼりだせる。
まして今は、ガルム戦のときのように不安定な足場で猛撃を封じながら、矢の残数にまで気を配った過酷な消耗戦は必要はない。射ることだけに全力を傾けられる。余人には不可能に見えても、コーネリアにとっては接待ゲームに等しかった。
月を雲が隠し、夜の闇があたりをおおう。
固唾をのんで見ていた赤の貴族達は、ひっと悲鳴をあげた。
再び月明かりが顔をのぞかせたのを合図に、びんっと弦の鳴る音がし、二本の矢がローゼンタール伯爵夫人を貫通していた。りんごは落ちていなかった。コーネリアがりんごごとローゼンタール伯爵夫人を射殺した……!! 彼らが遠目にそう勘違いしたのも無理はなかった。コーネリアの神技はそれぐらい彼らの想像のはるか上を飛び越えるものだった。
「……さすが」
だが、ローゼンタール伯爵夫人は小さく呟き、うっすら笑みを浮かべた。彼女とスカーレット達だけがなにが起きたか正しく認識していた。
伯爵夫人は傷ひとつ負っていなかった。そしてりんごは先ほどと同じく伯爵夫人の胸にあった。二本の矢が左右に互いちがいに、りんごを貫いていたことだけが違っていた。
コーネリアは弦のうなりが一回にしか聞こえない早さで、ロングボウで二矢を続けざまに放った。矢は左と右にそれぞれ急激なカーブを描き、ローゼンタール伯爵夫人の掲げたりんごを同時に真横から貫いたのだ。着弾の衝撃が相殺しあい、りんごはほとんど揺れなかったため、伯爵夫人の手から転がり落ちさえしなかった。しかもやじろべえのようにバランスが取れるよう、矢は重心がまんなかにくる刺さり具合に調整されていた。わずかにでも矢じり同士が接触すれば、二本の矢ごとりんごは吹っ飛んだろう。矢じり幅を計算に入れ、かつりんごを支える伯爵夫人の指先には一切かすらせることなく、りんごを砕かず、落とすこともなく、二撃同撃を壊れた矢羽根で成す。
それだけの技を見せながら、コーネリアは気負うこともなく、静かに弓をおろした。彼女にとってはこれは出来て当然のことでしかないのだ。腕にまいたアトラスシルクのショールがほどけ、月光に虹色にきらめく。そのさまは、まさに勝利の旗を身にまとう戦女神の再来だった。
「……すげえ!! これが俺様の選んだ師匠……!! どんだけ底なしなんだよ……!!」
アーノルドが震えるうめきを漏らす。
「やるね」
ブラッドが誇らしげにほほえみ、冷静なセラフィが思わず称賛の口笛をふいた。
「お母様、すごい……!!」
スカーレットは赤の貴族達の耳目に注意することも忘れ、頬を上気させコーネリアに抱きついた。
コーネリアに駆け寄り、歓喜にわくスカーレット達と対照的に、赤の貴族達は呆然と立ち尽くしていた。あまりの神業っぷりに、度肝どころか魂をぶち抜かれたふうに気死していた。彼らのなかで腰を抜かしてへたりこんでいるブルワー子爵を、女優のように階段を降りてきたローゼンタール伯爵夫人が見おろした。
「これに懲りたら、妙な小細工はなさらないことね」
そう言い捨てると、赤の貴族達に両手を広げて語りかけた。
「みなさま、野蛮なショーでお目汚しをしてごめんなさい。まったくあの山育ちの公爵夫人は人間離れしていて呆れますわ。だけどご存じ? アトラスシルクの製法には、大量の『毒婦の頭巾』が必要ですの。たぶん公爵夫人は私達を何万回も皆殺しにできるほどの量の猛毒を所有していますわ。そして彼女の弓矢の腕前は見てのとおり……」
聞いているうちに赤の貴族達の顔から音をたてて血の気がひいた。
自分達がどれだけ危険な行為をしていたか気がついたのだ。
「毒婦の頭巾」の特徴はわずかでも致死量になることと、解毒方法がないこと、そして凄惨な最期を迎えることだ。それこそ矢じりに塗ってかすらせるだけで、あっさり暗殺の目的を果たせる。そして、それはは悪魔のような弓の名手のコーネリアにとっては、目をつぶってでも出来ることだと、彼らは嫌というほど思い知らされた。あんな化物じみた矢から逃げきれるわけがない。ちょっとその気になるだけで、コーネリアはあっさり彼らを殺せるのだ。
優位に立っていたのは、自分たち赤の貴族ではない。コーネリアのお目こぼしで、自分達は生かされていただけだったのだ。錠の壊れた檻の前で、おそろしい人食い虎をつついて遊んでいたのだと、肌があわだつ恐怖とともに、赤の貴族達は思い知らされた。
「……おお、おそろしい。皆様もお気をつけあそばせ。迂闊にからかうと、どこからともなく毒牙が飛んできてぽっくり……ということになりかねませんことよ」
ローゼンタール伯爵夫人は凄愴な笑顔を浮かべた。
それは夜空の三日月よりも蒼白く、そして美しかった。
お読みいただきありがとうございます!!
漫画の無料公開更新にあわせるつもりだったのに、少し遅れました。
12月2日公開を、12月4日と勝手に思いこんでいたのです。
あほすぎる……。
またよろしかったら、どうぞお立ち寄りください。




