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占い師〝マザー〟登場。少しづつ明らかになる「真の歴史」、動き出す私達の恋模様。さまざまなものを抱え、舞踏会の夜が幕を開けるのです

ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!

【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】1巻が発売中です!! 鳥生ちのり様作画!! KADOKAWAさまのFLОSコミックさま発刊です!! どうぞよろしくお願いします!! ちなみに連載誌は電撃大王さまです。

またコミックウォーカー様やニコニコ静画様で、9話の④を無料公開してますので、どうぞ、試し読みのほどを。無料更新日は、本日9月2日予定です。ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「こいとうたたね」も少し読めます。応援よろしくです……!! 

原作小説の【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻】はKADOKAWAエンターブレイン様より発売中です!!


……すみません。今回の投稿分、かなり長いです。

切りのいいところまで、なんとしても終わらせたかったので。

申し訳ございません……。

「……ブラッド、あんた……!!」


私は息をのんだ。


馬車の中で、私と顔を見合わせていたのは、見慣れたメイド姿の少年ブラッドではなかった。

「108回」で何度も私の命を奪った、成人したブラッドだった。


忘れるわけがない。暗殺集団〈治外(ちがい)の民〉の最高傑作、いつも険しい表情をしていた孤高の戦士。女王の私を何度も窮地に追いこんだときと同じ、フードつきの漆黒の外套がひるがえる。悪夢の記憶がよみがえる。


「……むにゃ……もにゃ……」


アリサは幼女形態のまま、床に転がって爆睡中なので、まだよかった。こいつまで「救国(きゅうこく)の乙女」のときの成人姿で現れたら、トラウマ連発で私が死ぬ。


若返ったお母様と、熱心にかき口説いているアーノルドは、まあ、いったん置いとこう。あのデレた闇の狩人を見たら、トラウマの恐怖の叫びをあげるのがあほらしくなったよ……。+


「108回」の成人ブラッドは、女王軍から、黒の死神とおそれられた。神出鬼没のうえ、常識外れの神速もちだったからだ。通常なら絶対安全圏であるはずの距離が、まったくあてにならないのだ。私の親衛隊はいつも頭を抱えていた。あいつは30メートルほどを一瞬で詰めてくる。しかも人混みをすり抜けながらだ。ライオンより危険だ。もはやホーミングな人間飛び道具である。現れたら即、堅牢な密室に逃げ込むぐらいしか手がない。


馬で逃げてもダメだった。私の馬術の腕前は王家親衛隊に匹敵したのに。逃走特化ではあるけれど……。


そして私の女性用の鞍は特別製だった。ふつう貴婦人はスカートなので鞍を跨げない。横座りになり、上体をねじって前に向ける。だが、これでは自走するとたやすく落馬する。鞍に握るための角をつけたり、革紐で馬に身体を固定しても、腰がまったく安定しない。馬の口を引いてくれる人がいるか、ゆっくり騎行が前提の、まさしく花嫁さん乗馬である。


対して私は、コペンハーゲンの人魚像が、左斜め下に足を投げ出したような乗馬姿勢をとっていた。そして曲げた右ひざをやや上に引き上げていた。なので、あぶみを踏んでいるのは左足だけになる。だけど、鞍には右と左の腿をそれぞれ挟みこめるUの字があり、身体を安定させていた。これにより、スカートで横乗りしても、馬を全力疾走させる事が可能になった。


そのスカートも風でまくれあがらないようボタンであちこち留められるようになっていた。ちら見え防止ではなく、逃走の妨げにならないようにだ。女のドレスにはいろんな秘密が詰まっているのだ。そして、日々欠かさない避難訓練により、私は走りながら、スカートを乗馬形態にチェンジすることができた。横乗り騎乗と同時に、お馬さん猛スタートダッシュである。


ハイドランジアに令嬢貴婦人数多かれど、ロングスカートを履き、このスピードで逃避完了出来たのは、私ただ一人だ。馬による障害跳びだって大得意で、立ち塞がる大男の頭上を飛び越えたり、急斜面を駆け下りたり、船の舳先から舳先に飛び移ったことだってある。ひよどりごえに八艘飛びだ。


その大技に、敵味方が争いをやめ、やんやと拍手喝采してくれたことだって何度もあるのだ。


なのに!! ブラッド相手には時間稼ぎがやっとの体たらくだった。あいつ、馬より脚速いんだもの!! 無表情にぐんぐん迫ってくる追跡マシーンだ。あんなのに追われる身にもなってほしい。唯一、女王軍側であいつとやり合えたマッツオが側仕えしてくれてなかったら、私の命は百あっても足りなかったろう。


109回の今になってみてよくわかる。あいつから逃げきるには、お父様の神域レベルの馬術が必要だった。あるいはパルティアンショットを百発百中でかませるお母様の弓の腕前が。もともと無理ゲーすぎたのだ。


なのに、今、成人ブラッドと私は鼻先同士があたるほど近接していた。奴にとっては一撃必殺の距離。殺意があれば絶体絶命である。人間を視線で殺せそうなあの瞳を思い起こし、私は、ひええっと引き攣った声を漏らした。下も漏れそうだ。そして、ほぎゃあああっと恒例のトラウマシャウトをあげるべく大きく息を吸い込んだ。


なのにー、


「おっ、久しぶりだな。スカチビの大人バージョンの姿。やっぱり成長したら、すごい美人だな。前に言ったろ、オレの予感はよく当たるって」


予想に反し、ブラッドはいつもの朗らかな笑みを見せた。


まるでその笑顔こそが本当の大人のブラッドだったように違和感がない。


「だけど、ガルム戦のときは〈治外(ちがい)の民〉の晴れ着だったのに、今日は普通のドレスなのな。ま、それもよく似合ってるけどさ」


大人に変身した私は「108回」で愛用していた赤いドレスをまとっていた。

屈託なく私に笑いかけるブラッドを見て、拍子抜けし、腰が抜けた。


こっそり本音を言うと、再び、キリングマシーンだったときの冷たい瞳でブラッドに睨まれたら、私は心が折れたと思う。それは殺されるよりおそろしい事だった。知らないあいだに、あほブラッドは私の心の中を大きく占めていたのだ。……あとで家賃を請求してやるんだから。


「……褒めてくれてありがと。大人になったブラッドも、まあ、恰好いいんじゃない? ……ちょっと顔が近いよ。まあ、成長したこのハイドランジアの宝石に、見惚れるのは当然至極だけどね?」


私は身をくねらせ、セクシーポーズをとった。


だって、こいつ、おもしろがって私の長くなった髪をくるくる指に巻いて遊びだしたんだもの。今はレディなんだって気づかせてあげなきゃね。


大人ブラッドとまた目が合う。私は急に気恥ずかしくなり、顔をそむけてしまった。座っているのに、なんだかお尻が落ち着かず、ぐらぐらと身体が揺れる。


「あぶないって」


ブラッドが腰に腕をまわして支えてくれる。


私は、ど、どうも、とごにょごにょ口ごもって礼を言った。平静をよそおってはいるが、うろがきそうだ。だって、背丈のない幼児姿とのとき違い、ブラッドがアクションするたび、顔が急接近するんだもの。目をちょっと閉じたらキスされそうで、私は瞳をくわっと見開いていた。


「あのさ、スカチビ」


「……なに!?」


「……たしかにすごい美人になったけど、なんでそんな怖い表情してんだ。もったいないだろ。スカチビは子供の時でもかわいかったけど、笑顔のときが一番だった。だから、ほら、ちょっと笑ってみな。……ほらな、思った通りだ」


こ、こいつはまた照れもせず、こんなセリフを……!!


憎い!! 嬉しくなって、不覚にも微笑み返してしまった私のちょろい乙女心が憎い!!


だが、できる女はめげない。くじけず、すかさず反撃だ!!


「もう、チビじゃないもん……。ふんだ、そんなに私の笑顔が好きなの。口説き文句のつもり? まあ、このハイドランジアで一番の美女と化した私に、心を奪われちゃうのは、男として当然なんだけど」


嘘です。ほんとはそこまで自惚れてません。……だけど勝負にはったりは重要なのだ。ブラッドめ、おぼえたか。これぞ女の子のロマン砲「私のこと好きなの?」攻撃だ。くく、奴のうろえたる顔が目に浮かぶわ。ここですかさずとどめの一撃だ!!


「……でもね。私をお嫁さんにするんなら、ハイドランジア一どころか、世界で一番くらいに、とっても愛してくれることを要求します」


びしっと指を突きつけ宣言してやった。私は自分を安売りはしないのだ。どうだ。びびったろう。世界一だぞ。毎日、好きだよって千回くらいは言ってもらうんだから。お会計、五千万円です、と飲み屋で言われたくらいショックだろう。恐れおののくがよい。


「……ははっ、世界で一番愛するなんて想像がつかないな。でも、スカーレットをお嫁さんにすると、毎日が楽しいだろうな。苦労はするだろうし、あのやばい親父さんの許可もらうのは命がけだけど、それぐらいする価値はあるかな」


「ほあああっ!?」


こいつ、勇者か!? ハートがオリハルコン製なのか!? 思いっきりふっかけたのに。


……それに冗談のつもりだったのに。


なんで臆面もなく笑顔でこんな返しを言えるかな。

こっちのほうが赤面する。


私だって女の子だから褒められたい。だけど、私には自分でも嫌になるほど冷たい面がある。女王業をやったせいで、虚々実々の心理戦が当然になっている。外交相手の真意を見極められないと、足元をすくわれどころか、家臣や国民の命が失われるときだってあった。だから、私は笑顔のまま、冷たい猜疑心も抱けるようになった。人の言葉を鵜呑みしないための、とげとげの氷のフィルターだ。


だけど、ブラッドの誉め言葉は、あったかいお日様みたいに素直に心にしみてくる。こいつの言葉は信頼できるって、女の勘でわかるからだ。


ふん、こいつ、ぜったい無自覚な女たらしになるよ。鉄の自制心の私には無効だけど。


私は冷たい一瞥をくれてやろうと思ったができなかった。急に心臓が早鐘をつくように高鳴り出したからだ。私はおおいに慌てふためいた。……まさかこの若さで不整脈になったのか!? 最近、新料理開拓のため、おいしいものを食べすぎた。でも、なんか違うっぽい。そうだ。きっと、女王だった私を何度も殺した大人ブラッドの顔で、いつもの気のいい少年ブラッドが喋ってるから、トラウマシャウトするか、軽口たたいてどつくか、脳が迷って大混乱し、バグったんだ……!! ほ、他に可能性は・……!! 断じてブラッドなんかにときめいたりしてないんだから!!


いや、さらにちょっと待って。この……懐かしさがまるでマグマのように噴出する感覚は……。


〝……そうよ!! これが、私が大好きだった本当のブラッドの笑顔よ!! いつも私を守ってくれた!! 励ましてくれた!! ずっと見たかった。やっと、やっと、夢がかなった……!!〟


突然、燃えあがるような歓喜が、私の全身を包んだ。


おわっ!! びっくりした!!


「……!?」


耳に大音響の目覚ましを押しつけられたような衝撃に、私は心臓が止まりそうになった。脳裡に〈治外の民〉の晴衣装がひるがえる。強い意志と悲しみを秘めた紅い瞳がこちらを見ている。


……やっぱり!! ひさかたぶりのアンノ子ちゃんか!!


私だけに見える、「108」回以外のもう一人の私、私が覚えていない正体不明娘。アンノウンのアンノ子ちゃん、久しぶりの登場である。


私とアンノ子ちゃんの意識が、魔犬ガルム戦のときのように重なり合う。アンノ子ちゃんの感情と記憶が、津波のように私に雪崩れ込む。


〝……だけど、私には……〟


大人ブラッドの笑顔に再会した喜びが嘘のように、言いようのない哀しみと後悔が、胸をしめつける。


〝……私には、彼の笑顔が大好きなんて、言う資格はない……。 だって、私……!!〟


あふれだすアンノ子ちゃんの激情に、私は圧倒されていた。


ストップ!! アンノ子ちゃん!! 極端から極端に突っ走りすぎる!! 


胸がときめいたり、張り裂けそうになったり、大忙しだ。アッパーかダウナーかどっちかひとつにしてください。私のミニマムな胸が爆発寸前です。将来の発育に悪影響が出たらどうすんの!?


〝……だって、私……!! あんなに優しかったブラッドを……見殺しに……した……!!〟


アンノ子ちゃんは慟哭していた。


えっ!? なんか今、アンノ子ちゃん、おそろしく不穏なこと言わなかった?


……いきなり脳裡に浮かぶのは、炎上する城の記憶―。


アンノ子ちゃんの思い出劇場のはじまりである。


あれ? これ「108回」で女王だった私の居城か? でも、財政難だった私のときと違い、ずいぶん豪華なしつらえになっている……。もしかして、アンノ子ちゃんが女王だったときとか。ずるくない?……。うわ、この絵画、超有名画家のやつだ。どうせ燃えちゃうなら、もらって帰ってもいいですか? だって、どっちも「私」なんだもの。赤の他人なんて冷たいこと言わないよね。せめて桃色の他人よね。アンノ子ちゃんのものは私のもの……。


無念。触れられなかった。アンノ子ちゃんの思い出だから、アンタッチャブルらしい。火に包まれたタペストリーや高価な絨毯。割れ砕ける陶磁器。なんてもったいない。私は悔し涙を流した。あれは金貨千枚分、あれなんか三千枚分よ……!! 半分焼け焦げててもいいから持って帰りたい。消失した部分をうまく隠して飾り、ヴィルヘルム公爵邸のはったりを充実させるのだ。


アンノ子ちゃんのあきれ顔が見えた気がしたが、きっと気のせいだろう。


〝まじめに見て。お願い……〟


そ、そんな泣きそうに言わなくても……。私、いつも真面目に生きてるつもりなんですけど……。


激しい愛、悲しみ、怒り、絶望、渦巻く気持ちのなにもかもが、ルビーの光にのみこまれていく。


人類史上最大の大戦をひきおこした「彼女」との最終決戦。

アンノ子ちゃん……ううん、私達は「彼女」をやっと追い詰めたが、仲間のほとんどを失っていた。


そして、瀕死の重傷をおったブラッドから私へのプロポーズ。……別れ。


「……我ながらみっともないな。セラフィたち、みんなが死んでからプロポーズなんてさ。あいつらも苦笑するだろうな。これじゃ、まるで隙をうかがうハイエナだ。せめて、もっと正々堂々と申し込みたかった……」


血が伝う顔でブラッドは苦笑した。


アンノ子ちゃん……私に、告白してくれたとき、すでに彼には死相があらわれていた。


「卑怯だって軽蔑してくれてもいい。けど、今言っとかないと、きっと後悔するから……」


ブラッドは相討ちに近い形で、「彼女」に一矢むくいたが、引換えに致命傷を負わされた。


私は涙を浮かべ、かぶりを振った。


〝……ううん、違うよ。あなたは生涯で卑怯なことなんて一度もしなかった。卑怯なのは私よ。みんなが私を愛してくれたのに、ずっと答えを引き伸ばした。誰か一人を選んで、他の人達が傷つくのが怖かった。なのに、そんな優柔不断な私を守って、みんな……死んでしまった。それも私のあの呼び名の旗のもとで……!!〟


私は天を仰いで慟哭した。


「……ごめんなさい……!! セラフィ……アーノルド……ルディ……ソロモン……!! 私にもっと勇気があれば、きっと、みんな、とっくに違う道を選び、死なずにすんだんだ!! 私……私、最低だ……!! 私を命がけで愛してくれたみんなの人生を、弄んだだけで終わらせちゃった……!!」


髪をかきむしって悲嘆する私の手を、ブラッドはそっと抑え、私を抱き寄せた。


「……もう泣くな。あいつらは、たとえおまえが誰か一人を選んでも、最後まで去らずに、そばに残って戦ったさ。断言できる。俺だってそうするつもりだったからな。それに、おまえは、全員が大好きだから、ずっと答えを出せなかったんだろ。みんな、よくわかっていた。だから、自分を責めるな」


彼はそう慰め、号泣する私の頭を、いつものように優しく、ぽんぽんと軽く叩いた。


「……フローラのこともな」


はっと顔をあげた私に、ブラッドは穏やかな目をして頷いた。


……フローラ。


私が妹のように可愛がっていた子。本当の父や母のように私によくしてくれたマッツオとメアリーの遺した一人娘。二人の恩にむくいるためにも、絶対にしあわせにすると誓った。いつも「スカーレットお姉さま」と穏やかにほほえんでいた。


だけど、激しい炎もうちに秘めていた。私の力になりたいと、自分を高める努力を怠らなかった。実際優秀な子だったが、自身に求める理想が高すぎ、苦しんだこともあった。


私の付き人のようなことをしてくれていたフローラは、私と「彼女」の争いを見て育ったのだ。それはフローラにとって不幸だった。「彼女」は桁違いすぎたのだ。私だって、この世にこんな怪物がいるのかと驚愕したのだ。努力や才能なんて言葉じゃあらわせない。ただ怪物としか言いようがない。天才と名高いマーガレット王女でさえ、まるで歯がたたず、育てあげた組織と人員をそっくり奪い去られた。


フローラはじゅうぶんな働きをしてくれていたのに、まだほんの少女だったのに、せめて「彼女」の足元ぐらいには近づきたいと願ってしまった。このままでは、恥ずかしくて、私の力にはなれないからと。それは天の星に近づこうとする無謀な行為だった。私もみんなも必死に止めたが無駄だった。


そして、根を詰めすぎたフローラの心は壊れてしまった。私を支えられる自信がなくなったと嘆き、引きこもってしまった。見かねたセラフィが教育係を買って出てくれるまで、見ていられないほど憔悴しきっていた。セラフィは教え方も天才的だった。幼い頃からオランジュ商会を率いて商人の世界で成り上がったから、格上の相手達とやりあう恐怖もつらさも経験していた。いわばフローラの先駆者だった。


セラフィに師事してから、フローラはめきめきと力をつけ、幼い頃のような笑顔を取り戻した。私は、頑張り屋のフローラをとても愛しく、そして誇りに思っていた。


……だけど、私を「彼女」から守って、フローラは亡くなった。


もう助からないから、置いて行ってください、とフローラは必死に懇願した。このままでは二人とも無駄に死んでしまうからと。私には、とてもできなかった。だから、一度はフローラに押し切られて離れたが、すぐに引き返した。


そこで私は、セラフィの名を呼ぶフローラの悲痛な叫びを聞いた。


「……セラフィお兄ちゃん……!! ……私、まだ死にたくない……!! ……ずっと、お兄ちゃんが好きだったの……!!  ……セラフィお兄ちゃんが教えてくれたから、私いくらでもがんばれた……!! ……私、どうしてもっと勇気を……!! いやだ!! なにも伝えられないで、死ぬなんて……!! ……会いたいよ……!! ……セラフィお兄ちゃん……!! ……死ぬなら、せめて……セラフィお兄ちゃんのそばで……!! ……セラフィ……お兄ちゃ……ん……セラ……フィ……おにい……ちゃ……!!」


血を吐くようなふりしぼった声だった。もう私が行ってしまったと思い、フローラは本心をぶちまけたのだ。私に心配かけまいと押し殺していた気持ちを。誰も聞く者がいないところで、たった一人。


そして、フローラは事切れた。セラフィの名前を最期まで呼び続けて。


いつも私の横にいて、メアリーゆずりの笑顔で、優しく微笑んでいたフローラが、こんなにも悔しそうな表情をして。目を見開いて涙を流したまま。


「……フローラ……!! ごめんなさい……!!」


私はフローラの瞼を閉じ、亡骸を抱きしめて慟哭した。


セラフィはもうとっくに死んでいたのだ。

私を守るため、海峡を埋め尽くす大船団をすべて道連れにして。


フローラがセラフィに懐き敬慕していたのはよく知っていた。だから、私は、ショックを受けないよう、セラフィがすでに亡くなっていることをフローラに伏せていた。最後の出航前に、セラフィにそう頼まれたからだ。彼らは本当の兄妹のように仲がよかった。セラフィに褒められているとき、フローラはとても嬉しそうだった。


けれどセラフィも、そして私も、フローラのひそかな恋心には気づいていなかった。私はなんて残酷なことをしたんだろう。フローラを子供扱いしたばっかりに、彼女は身を焦がすほど恋した人が戻ってくる日を、亡くなったことも気づかず、ずっと待ち続けていたんだ。そして、気持ちを伝えられなかったことを後悔しながら、ひとりぼっちで死んだ……!!


私はフローラの手に、セラフィに託された髪留めを握らせた。


……ガザニア、この国に入ったばかりの異国の花を模した髪留め。その花言葉は、「あなたを誇りに思う」。勲章を思わす形からつけられた花言葉だ。引っ込み思案な教え子であるフローラへ、セラフィが残した最後のメッセージだった。フローラが自分の死を受けとめられるようになったら渡してくれと、セラフィに頼まれていたものだった。


私がフローラが傷つくことをおそれず真実を伝えていれば、せめて生きているうちに、この髪留めを手渡すことだけは出来たのに……!!


「……おまえの顔を見れば、だいたいなにがあったかは予想できる。だけど、悲しみ、後悔するだけじゃ、それこそフローラの死が無駄になる。わかるよな」


私がなにも話さなくても、ブラッドはすべてを察してくれていた。彼はいつもそうだった。フローラの死を思い出し、しがみついて泣く私を、ブラッドは慰め、静かになでた。


だけど、その指先はこまかに震えていた。顔から血の気がひいていく。


「……おっと、忘れるとこだった。俺のさっきのプロポーズの返事はいかに。お姫様」


冗談めかしていたが、口調もかすれていく。私は蒼白になった。ふだんの彼は、私への慰めを途中で打ち切り、自分の要求を通そうとなんて絶対にしない。その意味することはひとつだった。ブラッドにはもう時間がないんだ。


私はブラッドにすがりついた。少しでも自分の体温を分け合いたかった。


「もう私……とっくに姫じゃないし、ただの行き遅れだよ。最低の性格で、私、自分で自分が大嫌い。ろくに役目だって果たせなかった出来損ない。もうこの身一つしか残っていない。それでも……私をもらってくれますか?」


もうすぐブラッドは逝ってしまう。私に残された唯一の財産の、このやせっぽっちの身体で慰撫してあげる時間さえない。もうブラッドに何一つ報いてあげられない。私はがたがた震え出した。喪失感で胸に大穴が開いたようだ。


なのに、ブラッドはとても嬉しそうにほほえんだ。


それでいい。ただのスカーレットがいれば、他になにもいらない。おまえが自分を嫌いでも、俺がその何倍もおまえを愛するよ。だから、胸を張って、俺のもとに来てほしい。おまえは最高の花嫁だ。


そう言って、心の穴を埋めるように、私を抱きしめてくれた。


「……それに今、一生分のしあわせを貰ったからな。俺にはすぎた持参金だ」


「私もよ。ブラッド。あなたが好き。大好き。そして、しあわせよ。今、ここで死んでも悔いがないくらい」


私達は、悲しい誓いのキスをかわした。これから一緒に歩むはずだった一生分の想いをこめたキス。参列者が誰もいない、二人ぼっちの結婚式。花や紙吹雪のかわりに火の粉が舞い、祝福の拍手のかわりに壁や天井が焼け落ちる音が耳を聾した。門出を祝ってくれるはずの人達は、みんなもういない。そして、私の頬を伝う、花嫁としての喜びの涙は、愛する人との別離の涙でもあった。


「約束してくれ。なにがあっても生き残るって」


長いキスのあと、唇が離れるとき、彼はそう言った。


そして、私は……私は……!! 扉に背をあずけ、座りこんだ彼を置き去りにした……!!

もう動けないとわかっていたのに!! フローラと同じように……!! 


「……先に行ってくれるか。……おまえは強い。一人で歩いて行ける。だから、行け。しあわせを摑むために。後ろを振り返るな。俺も少し休んだら……必ずあとから追いつく」


彼は私をうながした。

だけど、そんなことが出来るはずがない。

彼は残された生命力を、私を生き残らせるために、脱出させるために、すべて私に託したのだから。


「心配ないって。世界一かわいい花嫁をおいて、俺が死ぬわけないだろ。すべてが終わったら、また、いつか二人で、あの花の咲く……思い出の丘に出かけよう。セラフィ達の魂も、きっとそこで待っててくれている。……さ、早く行きな」


ブラッドははじめて私に嘘をついた。

彼が自分の死期を見誤るはずがない。

私に心中の道を選ばせないために、そして、自分の死に顔で、私の心に傷を残さないために、そう口にしたのだ。


そして、泣きたかったはずだ。自分のためでなく、私のために。


ブラッドがどれだけ私を愛してくれていたか、誠実だったか、私は誰よりわかっていた。守ると口にしたら、一生その誓いを破らない人だった。無念だったろう。心配だったろう。私を置いて旅立つのは。


だけど、その悔しさをすべて押し殺し、笑顔で私を送り出してくれた。


……なのに……!! 私はブラッドの気持ちを踏みにじった。脱出するためではなく、「彼女」と決着をつけるため、渡されたその力を使ってしまった。ううん!! それだけじゃない!! 私は……はるか高みにいる「彼女」に対抗するため、もっと許されないことをした……!!


剣と剣がぶつかりあう。


ここで「彼女」を逃がすわけにはいかない。たとえすべてを失っても、生きている限り「彼女」なら不死鳥のように甦る。ブラッドの死が、みんなの死が、無駄になってしまう……!! それだけは許せなかった。そのためなら、私は……もう、どうなってもいい……!!


私の胸元の真祖帝のルビーにひびが走り抜ける。私は「彼女」の剣をはじきとばした。きらめく破片を彗星の尾のように散らし、私は「彼女」をはじめて自力で後退させた。 


炎のなかで距離をとり対峙した「彼女」が私に問いかける。


「驚いた。あなたが血の(あがな)いを使うなんて……。 ……のしわざね。どうりで最後の一撃の詰めが甘かったわけだわ。あなたに渡すため、力を温存していたのね。たいした男だわ。でも、この力、血の贖いだけじゃ、説明がつかない……。なにをしたの?」


私は答えられず呆然としていた。


「彼女」が口にした名前が、誰のことかわからなくなっていた。


いや、それだけではない。私が人生で愛した人達、愛してくれた人達、あったはずの大切なたくさんの思い出……。なのに、なにも、なにも思い出せない……!!


「……スカーレット、あなた、……のことを忘れてしまったのね。その力の源、読めたわ。今すぐやめなさい。廃人になるより、もっとひどいことになるわよ。……スカーレット? そう、もう自分では発動が止められないのね……」


傲慢で冷酷な「彼女」が憐れみをこめてつぶやいたのが印象的だった。


「かわいそうに……。そう本気で口にするのは、ひさしぶりだわ。もし神様とやらがいるのなら、ずいぶん残酷な切り札を、そのルビーにあたえたものね」


それは「彼女」の本音だったのだと思う。絶対強者の「彼女」が、そんな顔をするのをはじめて見たからだ。


「あはあっ、いいわ。スカーレット。最高よ。あなたは文字通り、自分のすべてを私との勝負に賭けたのね。あははっ、あはあっ……だから、特別よ。私も奈落までつきあってあげる。さあ、最後まで私を忘れないでついてきて。あなたの宿敵はここにいるわ」


そして狂ったような哄笑が響き渡る。


「あはあっ!! おいで、スカーレット!! 踊りましょう。私達ふたり!! この世界の分岐点で!!」


「彼女」は、他人の人生を平然と踏みにじる悪魔だった。が、時々、不思議な優しさもみせた。あるいは余裕かただの気まぐれかだったのかもしれない。ただ、そのときも、あえて剣の勝負に真正面からつきあってくれた。百戦錬磨の「彼女」なら、その気になればからめ手で、いくらでも私をなぶり殺しにできたはずのに。だからだったのかもしれない。私は、どんなに恨んでも、憎んでも、「彼女」のことを心底嫌いにはなれなかった。口にするのさえ許されないことだが、その自由奔放で鮮烈な生き方に、ほのかな憧れさえ抱いていた。


そして、私と「彼女」は死闘のすえ、互いの身体を刺し貫き、炎の海に堕ちていった……。


薄れゆく意識の中で、私は彼に謝り続けた。


ごめんね。ごめんなさい。もう顔も名前も思い出せないあなた。

こんなことになるなら、私の身体なんかとっくに許せばよかった。私が勇気を出せば、きっと機会はいくらでもあったのに。覚えてないけど、心でわかるよ。私、抱えきれないほどたくさんのものを、あなたに与えてもらったのに……!!


私、最低だ。あなたを死なせただけじゃない。


「彼女」と戦うために、なによりも大切なふたりの想い出まで燃やしてしまった……!!

胸が痛くなるほど切ないのに、もう……なにひとつ思い出せない。私、二回もあなたを失った。ううん、私が殺したも同然だ。つらい……つらいよ……。なんで泣いてるかもわからないことが、こんなに悲しくて、苦しいなんて……!! ごめんなさい……!! ごめ……!!


「ど、どうしたよ。スカチビ」


ブラッドに両肩を摑んでゆさぶられ、私は自分がぼろぼろ泣いているのに気づいた。


あれ? 私、なんでこんな……。なにか大事なことを思い出していたような……。


「ご、ごめん。急に変身なんかしたから、身体の調子が狂ったみたい」


よくわからないけど、きっとそうに違いない。

ハードボイルド幼女な私に涙なんか似合わないのだ。


身体がぐらぐらするのを、気を張り、必死に支える。


私が自分に言い聞かせるように答えると、ブラッドはそれ以上追求しなかった。


「……無理ないさ。オレだって、自分が急に大人になってびっくりしたもん」


涙をぬぐってくれ、ぽんぽんと私の頭を軽く叩き、苦笑して両手をあげる。


「と、わりい。こういうことしちゃいけないよな。今は立派な令嬢の姿だもんな。失礼。レディ・スカーレット。ご無礼、平にお許しを」


ちょっと気取った言い回しに、私は思わずふきだした。


「いいよ。べつに変に気をまわさないでも、中身は同じ私だもん」


なんかちょっぴり懐かしい。いつもやられていることなのに。そして少し胸が痛い。


「うーん、でも、お互い大人の姿同士だと、ちょっと、この格好はなあ。こんなとこスカチビの親父さんに見られると誤解されて殺されそうだ。偶然こうなっちゃっただけで、わざとじゃないんだけど」


「……恰好ってどういうこと? ひゃあっ!?」


その言葉で、視線を走らせ、状況を確認した私は、レディらしからぬ素っ頓狂な悲鳴をあげた。


ブラッドの懸念も納得だ。


私は、貴婦人用の鞍に横座りするようにして、腰をおろしていた。


……座席にではない。こともあろうに、ブラッドの膝、というか腿のうえに……。ブラッドは足をやや開き気味にしていて、私はその間に入りこむようにして、彼の片足にちょこんとお尻をのせていたのだ。私の身体がぐらつくのも当然だった。


「な、な、な……!!」


驚きのあまり言葉が出ない。


「な、笑っちゃうだろ」


笑えるか!! こんなもん!! なにがどうしてこうなった!?


激昂して食ってかかろうとした私は、ブラッドとキスしそうになった。二人ともあわてて顔をそむけたので、ほっぺの擦れあいだけで済んだ。回避方向を間違えていたら、重大な接触事故になるところだった。


そりゃあ、ブラッドの顔がずっと近いわけだ。こんなの、彼の首に両腕をまわして倒れこめば、あっという間に濃厚ラブシーンに突入である。


……冷静になって、なんでこうなったか考えよう。


ブラッドが空中で私を受け止めてくれたときは、彼は少年、私は幼女だった。今は私も彼も大人だ。いくら豪華馬車が広いとはいえ、長身になったブラッドが、頭をつかずに跳躍できるほど、天井は高くない。彼は身を丸くし、私を抱えたまま、尻もちをつくように着座せざるをえなかった。衝撃をやわらげるため、座席のクッションを利用したのだ。そこで私の身長が伸びると、お膝だっこな今の状況が出来上がり、と。うん、考証おわり。不可抗力だ。若きお母様と一緒にブラッドの膝にのっていないだけ、まだマシである。


しかし、「108回」の成人ブラッドへの恐怖と、アンノ子ちゃんに振り回されたとはいえ、私ともあろうものが、この窮地に気づかなかったとは。大不覚だ。濡れ場必至の大ピンチである。


でも、だいじょうぶ。女王業までやった私なら、クールビューティーに切り抜けられる。


〝……がんばれ!! がんばれ!! 小さな私!!〟


心の中で、アンノ子ちゃんが拳を握り、応援してきた。


まかせて、私がんばる!! 


〝……チャンス到来だよ!! 勇気を出して、もう一歩だけ大胆に!! いつもと違う自分を見せて、無自覚な彼に、私は女の子だよってアピールしちゃおう〟


言葉にするとそういう思念だった。


私はずっこけそうになった。そっち方面の応援!? なんかジュニアファッション誌の、夏のコーデで彼氏ゲット特集みたい……。悲劇のヒロインのイメージしかなかったけど、もしかしてアンノ子ちゃん、恋に恋する女の子タイプ?


私は慌てふためいた。


アンノ子ちゃんはとんでもない誤解をしている!!


あほブラッドと私は、つき合うよりもど突きあう間柄。こいつは私の不倶戴天の宿敵なのです。まあ、ピンチのときはいつも助けてくれるし、時々すごく恰好いいけど……。


だ、だいたい私、四歳の幼女ですよ!! 色ぼけアリサじゃあるまいし、さすがに恋愛はちょっとまだ早いです。


「……もにゃ、むにゃ、ごにょ……」


アリサが寝言でタイミングよく返事する。

なんでこいつだけ大人の姿にならないんだろう。あいかわらず規格外の奴だ。


と、とにかく、もし私とブラッドが、まかり間違って恋人同士になりでもしたら、ブラッドが、女装少年メイド武道の達人ロリコンという属性てんこもりなクリーチャーになってしまう。。


あれ、でも、今は私もブラッドも大人の姿だし、べつにいいのか。だって、私の心は享年28歳。いや、よくはない。それじゃ私が年下ブラッドに手を出すショタコンということに。あれ、でも、身体年齢的にはブラッドのほうが上だから……。頭の中がぐるぐる回る。


ぴょこっと記憶のなかから、「108回」でアリサが私のベッドに勝手に用意した、新郎新婦のクマのぬいぐるみが飛びだした。私は耳までまっかになった。卑猥に重なり抱きあっていたあの二頭……。私達は今、あのぬいぐるみ達とほとんど変わらない状況にある。タキシードとウェディングドレスがはだけられていたあのクマたち……。


「わっ、わっ、わっ……」


再び冷静さを失った私は、あわを食ってブラッドの膝からお尻をどけ、立ち上がろうとし、不覚にも足をもつれさせた。私らしからぬ失態。しかも仰向けにだ。視界がぐるんっと流れ、天井が見えた。


このままでは後頭部を床に強打する。溺れる者は藁をもつかむ。伸ばした指先がなにかに触れ、私は無我夢中でそれに抱きついた。と同時に、背中が弓なりになる勢いで、ぐんっと身体が引き上げられた。ぎゅっと頬がなにかに押し当てられる。それはブラッドの胸板だった。私の心臓がとくんっと鳴った。私は彼に抱きすくめられていた。


「……どうした。おまえらしくないな。わかった。急に伸びた手足に戸惑ってるんだろ」


……おだやかな声が肌ごしに伝わる。少年のときより、もっと静かで深い響き。だけど、その優しさは変わらない。


ブラッドが電光石火で飛びだし、私の腰に手をまわし、自分の懐に引き寄せたのだ。そして、私が夢中でしがみついたのはブラッドの背中だった。


「いきなり身体の感覚が違うのって怖いよな。ふりまわされるっていうか。オレも血の贖いをはじめて使ったときは、そんな感じだったよ。だいじょうぶ。すぐ慣れるから。オレもサポートする。オレの背中に手をまわして。接触面が多い方がうまくいく。しばらくじっとしてな」


…そうか。さっきから妙にふわふわしていたのは、そのせいだったのか。


自分を納得させられた私は、どうしようか迷っていた両のてのひらを、そっとブラッドの背に沿わせた。他意はない。身体操作のエキスパートの言葉に、素直に従ったまでだ。


〝……え? でも、ルビーの正式な持ち主の私には、そんな影響はない……〟


ちょっとアンノ子ちゃん!? 今さら言わないで!! この手、もう引っ込みがつかないじゃない!! そして、それじゃ、このふわふわ感はなんなの!?


「オレに呼吸をあわせて」


ブラッドの指示に私はうなずき、彼の背に両手をまわしたまま、集中するため瞼を閉じた。


もういい。やけくそだ。私、開き直った。


彼の息遣いを感じる。長年連れ添ったパートナーとダンスをしているような不思議な感覚。着やせするんだろう。思ったよりずっとがっしりした身体だ。上下するぶ厚い胸板に顔を押し当てているだけでも、鋼の筋肉の動きが伝わってくる。


「……けっこう胸おっきいんだ……」


つい何気に呟いてしまい、私は急に気恥ずかしくなり、ブラッドの胸から顔を離した。ブラッドが怪訝な面持ちをしているのがわかる。頬がやけに熱い。


「……そうかな。スタイルはいいけど、そこは子供の頃とあまり変わらない気が……」


私の頬の温度が一瞬で冷めた。熱き血潮のすべてが、頭のてっぺんにのぼったからだ。


失礼なことに、ブラッドの目線は私の胸元におちていた。誰が私の胸の批評をしろと頼んだ。


……よし、殺そう。


やっぱりブラッドは私の不倶戴天の敵である。


私のなかのメルヴィルの血脈が、貧乳のタブーに触れたものを許すなと叫ぶ。頭のなかで処刑メロディが鳴り出した。喰らえ、幼女パンチあらため、必殺令嬢パンチ。そして死ね。だが、私の渾身の右ストレートは、残念ながら不発に終わった。


「……離しなさい!! 私にはヴェンデルという最愛の良人がいる!!  いきなり見知らぬ男に押し倒されるほど、彼の妻の座は安くはない!!  その誇りをけがすものは許さない!! どかねば、高位貴族といえど射殺す!!」


反対側の座席でドレスの鮮やかな緑が揺れる。

若きお母様に大人になったアーノルドがのしかかっていた。


「はあっ!? なにやってんの!? アーノルド!!」


そして、お母様の目が完全に殺意モードに入っている。


理由はわからないけど、弟子入りしたアーノルドのことは、すっかり記憶から飛んでいるらしい。まあ、記憶があっても、こんな不埒な行い許してくれないだろうけど。


ブラッドを殴っているどころではなくなった。


このアホノルドめが!! 失望したよ。「108回」でのアーノルドは戦闘狂だが、決して女性や弱いものを傷つけなかった。最終決戦前に私が城から逃がした侍女達に対しても見て見ぬふりをしてくれた。本物の戦士の矜持を持った奴だったのに。それが女性を押し倒すとは!!


「……喰らえ!! そしてぶっ飛べ!! お仕置き令嬢キック……!!」


落ちぶれた好敵手など見たくない。私が引導を渡してくれる。


だが、身をひるがえし、アーノルドを蹴り飛ばそうとした私を、ブラッドがとめた。


「あっぶなぁ……。おまえ、手足が伸びると蹴りの威力半端ないな。〈治外の民〉の女衆以上だ。さすがあの親父さんとコーネリアさんの血をひくだけはあらあ。ちょっと、ひやっとしたよ。ま、少し気を静めて、アーノルドの様子を見てみ」


心外だな。かよわい私を、人外魔境の住人と一緒くたにするな。え、アホノルドの様子って?


「……誤解です。師匠……!! ちくしょお……手足が言うことをきかねえ……どうなってやがる」


アーノルドが額に脂汗を浮かべ、苦しそうにもがいている。


私ははっとなった。彼はお母様を故意に押し倒したのではなく、偶然そこに倒れこんだだけだったのだ。


ブラッドがさっき言ってたのはこれか。急に大人になったため、身体の感覚がついてこないんだ。


だが、若きお母様はそんなことは気づかない。


「さっきから師匠、師匠と戯言を。どうしても殺されたいようですね」


やばいって!! もし、スカートの下の隠し弓に気づいたら、本当にアーノルドを射殺しちゃう。


「……ブラッド!!」


「はいよ」


飛び出したブラッドが、ぱあんっとアーノルドの背中を叩いた。


「血流を調整した。これで動けるはずだぜ」


「……!!」


アーノルドがかっと金色の瞳を見開いた。海老のようにぴょおおんっと後ろに飛び退った。飛び過ぎて後頭部を壁に強打したが、かまわず反動を利用して戻ってきて、お母様の足元の床に這いつくばる。無理矢理に長身を曲げて隙間に入ったので、折り畳まれた衣類みたいになっていた。その状態で土下座したので額が膝と床にぶつかり、ごちいいんっと音がし、馬車の床が揺れた。


「申し訳ねえっ!! 男アーノルド、一生の不覚!! 誓ってわざとじゃねぇんだ!! 死んだって、尊敬する師匠を押し倒したりなんかしねえ!! どうか勘弁してくれ!!」


アーノルドの顔の下に血が広がっていく。こいつ、まさか鼻柱が折れたんじゃ……。なのに、自分を罰するようにごりごりと額をすりつけ続けている。


だが、その身体を張った誠意はお母様に伝わった。


「わかってくださればいいのです……もう顔をあげてください。師匠というのがなんのことかはわかりませんけど……」


お母様の許しがなければ、アーノルドは額の皮が破れても、謝罪をやめなかったろう。


「ありがてぇ!!」


がばっと顔をあげたアーノルドは鼻血まみれで、額はまっかになっていた。


やっぱり「108回」と同じ直情径行のバカのままだった。ちょっぴり嬉しい。


「……バカね。ほら、顔をあげて。鼻血ふいてあげるから」


私は苦笑すると身を屈め、ハンカチでアーノルドの顔を拭いてあげた。よかった。鼻は折れていない。


アーノルドは私を見上げ、ぽかんとしている。それがおかしくって、私はくすっとした。「108回」の少女時代に拾った鷹のヒナを思い出した。なかなか懐かなかったあの子の表情にそっくりだ。


巣ごと地面に落ちたそのヒナは、最初は近づくだけで私を威嚇してきた。それでもめげず世話を続けると、二つの季節がすぎるころには、彼は私の肩に乗るまでになった。彼なりに手加減しても、その鋭い爪はドレスを何枚もボロボロにしたが、私は大満足だった。私達はどこに行くにも一緒だった。どんなに離れても、呼べばすぐに戻ってきてくれた。私の自慢の子だった。


「こら、動くな。ピースケ」


私はアーノルドを叱った。


「お、俺様はピースケなんて名前じゃねえ……」


おっとうっかりしてたよ。まったく、賢かったあの子と違い、こっちの俺様っ子はしょうがないなあ。おねえさんの手当て中は、じっとしていること。あんまり聞き分けがないと、デコピンするんだから。


……まったく、こっちは回想の途中だってのに。


はい、ここから回想の続き。


だけど、ピースケはいつまでも雛鳥ではなかった。ある抜けるような青空の日、甘えるように一声高く鳴くと、そのまま天高く舞い上がり、二度と帰ってこなかった。私は彼の名を呼ばなかった。それが別れの挨拶だとすぐにわかったからだ。頭上で旋回する彼が心配しないよう、私は笑顔で彼の旅立ちを見送った。泣いちゃダメだ。私はあの子のお母さん代わりだったんだもの。あの子には地面よりも、果てしない大空こそがふさわしい。

そして、私はひとり自室に帰った後、カーテンを閉めきり、ベッドに突っ伏し、声を殺し、歯を食いしばって泣いた。


「ほら、いつまでも落ち込まないの。男の子でしょ。しょげた顔なんて、ふてぶてしいあんたに似合わないよ。まったく、いきなり結婚なんて言うから、こういうことになるんでしょ。それは女の人にとっては、一生に一回の、とっても大切な言葉なの。軽々しく使うと、心が傷つくことだってあるのよ。だから、あんたも本当に運命の相手だって思う人のために、大事に取っておきなさい。わかった?」


ピースケを世話していたときの気持ちで、私はアーノルドを諭した。


「返事は?」


「は、はい……!!」


アーノルドは飛びあがるようにし、しゃちほこばって返答した。世話というか、しつけをしている気分だ。


「よくできました」


私は破顔し、アーノルドの頭を撫でて褒めてあげた。

鞭と飴の使い分けは、しつけの基本である。


アーノルドはくすぐったそうに肩をすくめたあと、上目遣いで私を見た。でかいなりしてるのに、ほんとあのヒナとイメージがかぶる。あんた、あの子の生まれ変わり? 時間的にありえないか。


「……わりぃ……迷惑かけた。……兄貴がさ。『結婚しよう』って言葉は、女の人への最高の誉め言葉だって教えてくれたから……。まさか、女の人を傷つけるかもしれない言葉だなんて、思わなかったんだよ……」


おどおどと謝るアーノルドに、私は唖然とした。


そういえばアーノルドの奴、私にも結婚しようって叫んでたっけ。あれはお母様目当てだけじゃなく、私にもお世辞を言ってるつもりだったのか。


「これからは……結婚って言葉は、ほんとうに好きな相手にだけ、言うことにする」


ちらちら私を見ながら、頬を赤らめてアーノルドは断言した。自分の行いを恥じているらしい。私は満足し、笑顔でうなずいた。アーノルドは照れたように、さっと目をらした。胸を押さえ、不思議そうに首を傾げている。うむ、心に語りかけ、内省しているのだろう。俺様キャラだが、行いを顧みて、あやまちを正せるいい子だ。


それにしても許せないのは、軽佻浮薄なアーノルドの兄だ。女の敵だ。うちのピースケ……じゃなく、アーノルドに変なことを吹き込まないでほしい。


……そういえば、「108回」の女王時代に、アーノルドには、早逝した兄がいたって聞いたことあったな。アーノルドに比肩する孤高の弓の天才だったって。今の時点では存命してるってことか。でも、なんかイメージがガタ崩れしたよ。


「……失礼。スカーレットさん。すみません。アーノルドの兄上は悪い人ではないんですが、女性関係では真性のダメ人間なんです。なのに、変な女性哲学でいつもアーノルドを啓蒙しようとして……」


いきなり、ばあんっと馬車の扉を開き、セラフィが顔をのぞかせた。


セラフィも大人の姿になっていた。いつもの船長服ではなく、アーノルドと同じ貴族服に変わっていた。


ああ、この馬車さっきから停車してたんだ。次々に登場人物が扉の向こうから現れるなんて、まるで馬車を舞台にした劇を演じている気分だ。


「今回も、ほんとうは彼の兄上のほうが、ボクと一緒に、スカーレットさん達に加勢する予定だったんです。弓の天才の公爵夫人を口説いてものにする絶好のチャンスだって、それは大はりきりで」


うわ、クズ野郎だ。


「へえ……私が本当に弓の天才かどうか、弓矢の的にして、身体で確かめさせなきゃ……」


お、お母様、お顔、むっちゃこわいです……。


「もちろんアーノルドとボクで必死に止めたんですが、聞く耳持たずでした。さいわい、痴話喧嘩で女性に腿を刺され、同行できなくなりましたが……。それでもベッドから執念深く這い出そうとしてきたんで、縄でくくりつけて置き去りにしてきました」


セラフィがため息をつく。アーノルドがこくこくと頷く。


あきれた。最悪の兄だ。意味がろくすっぽわからないままプロポーズしたアーノルドと違い、ガチでお母様にちょっかい出すつもりだったのか。あんたらも見えないところで苦労してんのね。


「だから……アーノルドをあまり責めないでやってください。彼の兄上の暴走を止められなかったのは、ボクの責任でもあります」


セラフィはぺこりと頭を下げた。


たぶん外で聞き耳を立てていて、アーノルドが追い詰められたと察し、あわてて飛びこんできたんだ。いつもなら必ず伺いをたててから、入室してくるもの。友情にあつい奴だ。


「セラフィ、おまえ……」


アーノルドが感涙している。


「いいんだ、君に受けた恩は、まだまだ返しきれない」


セラフィも涙を浮かべ、二人はがっしり抱き合った。


「「友よ!!」」


走れメロスか、あんたらは。

あいかわらず仲良しな二人組だ。


「……それにしても、成人女性のスカーレットさんは、やっぱり息をのむほどお美しいですね。眼福です。もちろん、いつもの姿も大変可愛らしいですが」


そのあとセラフィは私を褒めた。いつもなら開口一番、挨拶代わりにまず私を褒めるのに。だけど後回しにされたことで、私の好感度はかえって上昇した。セラフィは、おのれの評価をあげることより、友に助け船を出すことを優先した。男前である。


ちなみに、ブラッドやアーノルド、それにお母様の変身については、「海では不思議な事がいくらでも起きる」から、セラフィは気にしないそうだ。端折るのにいろいろ便利なセリフである。まあ、以前にルビーによる私の変身を見ているし、自身の姿が変化したことと、私達の会話から、馬車の中で起きたことにおおよそ当たりをつけていたのだろう。セラフィ君は一を聞いて十を知る天才なのだ。


それにしても大人になると、セラフィってずいぶん背が高くなるんだ。それにかなり美形……。オレンジがかった前髪で、額の疵ごとなかば顔が隠れているのは変わらずだが、上背があるせいで、前より瞳がよく見える。エメラルドを思わす優しい色は、女の子に狂おしい独占欲を抱かせる宝石だ。額の疵がコンプレックスらしいが、本人が思うほど目立ってはいない。むしろ「気にしなくていいのよ。あなたの価値は、そんなもので少しも損なわれたりしない」とイベントフラグっぽい台詞をつい言ってあげたくなる。


「108回」で命を狙われたときは、容姿なんか気にする余裕はなかったけど、これはモテるだろう。さらに神がかった商才と操船能力がプラスだ。年頃の商会の娘達にとっては、殺し合ってでも奪いたい超優良物件だろう。事実、唾をつけようとしている大商会が無数にあると聞く。しかも、セラフィは誠実で博学だ。幼児のうちから、絶海を往く世界最速のブロンシュ号を指揮していたので、胆の据わりと実行力も半端ない。


コミュニュケーション能力もずば抜けている。苦労人なので人の心に通じているのだ。話術や語学にも長けるので、折衝役としても有能だ。目端が利くし、情報通なので他人に騙される心配もない。フェミニストだが、優しいだけではなく、必要なときには女性をリードする強引さも発揮するし、逆に慰めに徹することもできる。


……ほんと美点を挙げるときりがないな。


直接戦闘以外、ほぼ穴がないオールマイティーっぷりだ。才能の多彩さは、ハイドランジアでも、一、二を争う。あの天才マーガレット王女が、「天才君」と呼び、将来の懐刀として陣営に取りこもうと切望するほどだ。なまじのぼんくら大貴族の子弟なんか、血統こみでも足元にも及ばない。将来性が桁違いだからだ。平民出だが、その気になれば、爵位なんかそのうち自力でもぎ取っていくだろう。


なにせ、あの厳しい人物評をするお父様が、セラフィ君に嫁ぐのが、私にとって一番幸せになる道、と断言したぐらいだ。妻ラブのいかれた人だが、あの紅い瞳は、たまに予知能力めいた力を発揮する。実際、何度もそれで絶体絶命の危機を切り抜けたらしい。


じつは、お父様に言われなくてもわかっている。私の知識チートを、一番有効に使えるのはセラフィと組んだときだ。しかも、私に好意を抱いてくれている。最初は知識だけが目当てと思ったが、どうも私本人にも惚れているらしいとわかってきた。セラフィ、あんた、ロリコン? まあ、ブラッドよりは私と齢が近いけど。しあわせな家庭を築くのが夢だと語っていたし、生涯パートナーにすればこれほど心強い人間はいないだろう。完璧なだけでなく、可愛げもあるし、理想の旦那様だ。


だけど、なんだろう。セラフィは嫌いじゃなく、むしろ好きなのに、彼とのゴールインを想像すると、妙な罪悪感がわくんだ。まるで妹の片思いしている人を奪ったみたいな……。私に妹なんていないのに……。


ちなみに、たまたま近くにいた恋愛大好きメアリーが大興奮し、ブラッドとお嬢様はどうでしょう!? とお父様に問いかけたが、困ったように眉をひそめ、まったくわからない、と答えていた。そりゃあ、女装メイドをしてる風来坊だもんね。ブラッド、あんたの将来、だいじょうぶ?


「……あの、あなた達はいったいどなたなのですか……。どうして、私はこんな屋根のある知らない馬車に? 私はお義父さま、お義母さまが用意された一番いい無蓋馬車に乗って、ローゼンタール伯爵夫人邸の舞踏会に向かっていたはず……」


若きお母様が怯えたように身を縮めた。

やっぱりお母様は私達のことを忘れている。

姿とともに記憶まで昔に戻ってしまったらしい。

それもどうやらあの十四年前の舞踏会の夜の時点に。


私をおぼえていない悲しさと、祖父母のバイゴッド侯爵夫妻のお母様への仕打ちのひどさに、私の胸は張り裂けそうになった。無蓋馬車。屋根なしの馬車のことだ……!!


「……無蓋馬車で、夜の舞踏会に送り出したのか。ひどいですね……」


セラフィも絶句した。セラフィもすぐに意味がわかったんだ。


許せない。あの人達は最初からお母様を罠にはめるつもりだったんだ。


事情を知らない人が聞くと、同じ馬車なのになんの問題があるのかと思うだろう。


だが、これは葬儀の場に思いっきりドレスアップして出かけるようなものなんだ。


社交界に疎い当時のお母様は知らなかったのだろうが、夜に行われる正賓会や舞踏会に、無蓋馬車の乗りつけはタブーだ。特にしきたりや格式を重んじる貴族には大問題だ。笑われるなんてもんじゃない。


夜や正式な催し事には屋根つき馬車で。屋根なし馬車は昼に。さっと近所に出かけたり、独身の男性貴族用には、小回りのきく二輪馬車で。このように貴族は馬車の使い分けにこだわる。。


なぜなら、貴族にとって、馬車はステータスシンボルのひとつだからだ。


その理由は、びっくりするほど値段と維持費だ。馬の世話の経費と御者や馬丁などの人件費も加わるから余計にだ。だからこそ、正しく用途にあわせての複数の馬車を常備することに、貴族はこだわる。力の誇示なりうるからだ。それなのに、わざと間違った馬車で送り出すなんて。


十四年前のお母様が、どれほどの貴婦人達の冷笑にさらされたか想像し、私の顔から血の気がひいた。


「ヴィルヘルム公爵夫人が、屋根なし馬車でいらしたんですって」


「まあ、この月夜に日傘をさしてかしら」


「ご立派ですこと。野生育ちは外が見えてないと落ち着かないんでしょうよ。それとも野の獣に、御自分の晴れ姿を見せびらかしたいのかも」


「あら、どうりで森が騒がしいわけね。きっとネズミやコウモリが、自分達のお仲間がついに社交界デビューしたって、大喜びしているのよ」


くすくす笑い合う声が聞こえた気がし、私は怒りと悔しさで唇を噛みしめた。


バイゴッド侯爵夫妻が、一番いい無蓋馬車を用意したというのが、また底意地が悪い。場違い感をより際立たせるためにやったんだ。


……こんにゃろう。


私は拳を握りしめた。


これが幻覚だろうが、タイムスリップだろうが、もうかまうもんか。今のお母様には私がついてるんだ。赤の貴族達の笑い者になんて二度とさせない。あれだけ激しい戦闘をくぐりぬけたのに、この八頭立ての豪華馬車が無傷だったのは僥倖だ。銀山と貴金属細工工房を所有するうちの領で製造したから、まだ安くついたが、他の領なら経営が傾きかねない価格になる代物だ。王家の公式行事用に匹敵する。これならどんな貴族の馬車にも後れは取らない。神様が仇を討てと言っているのだ。捲土重来、奴らの度肝を抜いてやる。


と、その前に、


「ブラッド。血流操作でお母様の記憶、なんとかならない?」


困ったときのブラッド頼み。


「やってみる……くっ!?」


私のリクエストに応じ、お母様のほうに踏み出しかけたブラッドが、突然、胸をおさえて苦しそうにうめいた。


「ブラッド!?」


しゃがみこんだブラッドに駆け寄ろうとした私達は凍りついた。


ブラッドが縮んでいく。背丈も服も。そして、ざあっと漆黒のドレープが背中に流れた。それはマントが生えたのかと思ったほど長い、腰ほどもある黒髪だった。伏せていた顔をあげると、あどけない表情があらわれた。睫毛に憂いを含んたアーモンド型の瞳が印象的だ。


……なんだ、いつものブラッドだよ。だけど、その格好と髪は……。


「うわっ、今度は髪が伸びちまった!?」


仰天している私達をよそにブラッド本人はあっけらかんとしていた。ぱっぱと自分の胸と股間をさわり、ほおっと安堵の息を漏らす。


「だいじょうぶだ。ふくらんでないし、なくなってもいない。髪とドレスだけが変わったんだな。スカチビ、これ、まさか真祖帝のルビーの力か?」


げ、下品な……。ストレートすぎる……。


「私にもわかんないよ……」


少年に戻ったブラッドは、黒のハイウエストなドレスをまとっていた。ショートケープと見まがうばかりの大き

く垂れたレースつきの襟、フォーリンカラー。デコルトはおとなしめなので、胸元で性別がばれる心配はない。肩口がふくらんだジゴ袖に、胸を飾る大きなリボンを筆頭にしたリボンの群れ。スカート部分は長めの一層をたくしあげて後ろでまとめることで襞をつくっている。


なにこれ? 「108回」の女王時代でも見たことのないタイプのドレスだ。

あんただけ世界観がちがう服装してない?


「変身した!? あ、あなた達は魔法使いかなにかですか……!?」


お母様が顔をひきつらせてたずねた。


そっか、私達が大人になると同時に、お母様も十四年前の姿と記憶に戻ったから、変身を見るのははじめてになるのか。


「ま、まさかこの馬車もカボチャでできてるとか……」


それはシンデレラです。どんなときもぼけを忘れないその姿勢。血統を感じます……。


「なにがどうなってるか、私にもさっぱりだよ。それに外はどうなってるの? ねえ、セラフィ。王家親衛隊やオランジュ商会のみんなは?」


遅れて馬車に入って来たセラフィなら様子を知っているだろう。


だが、セラフィの口からは思いがけない言葉が飛び出した。


「それについては、ボクより説明に適任な方がいらっしゃいます。〝マザー〟お願いします」


セラフィが半開きだった馬車の扉を、大きく開け放つ。月夜の森が見える。


すううっと音もなく移動し、彼女は馬車の入り口に立った。豪華馬車の室内とはいえ、これ以上は定員オーバーだ。セラフィが飛び降り場所を空けようとしたが、彼女は外でいいというふうに手振りで制した。


ブラッドが驚きに息をのむ。


「……うそだろ。今までまったく気配を感じなかった……!!」


見事に巻き上げた金髪と、ロマリア時代を思わす薄手のゆったりした衣装を、月光に光らせ、切れ長の瞳の美女が艶然とほほえんだ。まるで発光しているように見える。そんなことはないのだが、彼女の存在感がそう錯覚させるのだ。


「やっと出番ですか。待ちくたびれました。ふふ、みなさま、こんばんは。私は〝マザー〟。魔法使いではなく、しがない占い師ですが、どうぞよろしくお願いします」


自己紹介など不要だった。


ブラッド以外、みな彼女を知っていたからだ。ハイドランジアの貴族のあいだでは、国王陛下以上の有名人かもしれない。ハイドランジア一の占い師。おそろしい的中率を誇り、大貴族のみならず、王家までもが召し抱えたいと破格の条件を提示するも、本人は宮仕えをよしとせず、気ままな放浪暮らしを続けている。業を煮やしたたちの悪い貴族が拉致しようとしても、容姿目当ての悪党がさらおうとしても、占いですべて危機を回避し、飄々としている。もはやなかば伝説上の人物だ。


「セラフィ、あなた、〝マザー〟と知り合いだったの?」


私はびっくりした。〝マザー〟の予定をおさえるなんて、王家だってできやしない。


だけど、セラフィは、違います。今お会いしたばかりです。と答えた。


は!? そんな都合のいい偶然あるはずないでしょ!? しかも、この森は、七妖衆(しちようしゅう)と魔犬どもが封鎖してるのよ!! 女の身ひとりで、こんな夜にこんなところにいるなんてありえない!!


「……私は占い師。危機回避はお手のものです。それに長く生きてますと、ちょっとした裏技も心得るものですし。そして、大きな力の流れがあるところに、自然と引き寄せられるさだめなのです。偶然に見えても、必然なのです。だからこそ、放浪生活を続けているのですよ」


私の心を読んだかのように、〝マザー〟はくすくす笑った。そして、お母様のほうに向きなおった。


「……コーネリア嬢、いえ、今は公爵夫人でしたね。お久しぶりです。私をおぼえておいでですか。陛下の即位式典以来ですね。あのとき披露されたあなたの弓の神業は、今でも目に焼きついて離れません……。まあ、少し意識が混濁しているようですね。失礼」


お母様が挨拶を返すより早く、〝マザー〟はほっそりとした長いひとさし指を、お母様に向けた。白蛇を思わす指だ。〝マザー〟の口端がきゅっと吊り上がった。


「コーネリアさん!! あぶない!!」


ブラッドが血相を変えてお母様の前に飛び出した。だが、無意味だった。


〝マザー〟とずいぶん離れているのに、お母様がのけぞり、がくんっと項垂れた。


「……どかん。なんちゃって。ふふ、ごめんなさい。無害なものですよ。年寄りは若い人をからかうのが唯一の楽しみなのです。気を悪くしないでね」


空気のかたまりが〝マザー〟の指先から発射されたかのようだった。


「遠当てを使えるのか……。それも狙ったところに自由に……」


ブラッドが戦慄のうめきを漏らす。


彼はお母様をガードするのに間に合った。

なのに、〝マザー〟の一撃は、射線上にいたブラッドを無視し、背後のお母様のみを狙い撃った。


〝マザー〟がからかうように微笑む。


「長年、占い師をやっている、おまけみたいなものです。とってもいい反応のナイトさん。あなたが近い将来習得するものとは比ぶべくもなし」


私達はのちに〝マザー〟のその言葉の正しさを知ることになるが、それはまた別の話だ。


「さて、目覚めなさい。公爵夫人。挫折を知らない天才だった昔のあなたより、母親としての愛と強さで立ち直った今のあなたのほうが、私は好きですよ」


〝マザー〟はぱちんと指を鳴らした・


「……!?」


お母様ははじかれたように顔をあげた。

私達を見た目が不思議そうに瞬きし、驚きに見開かれる。


「スカーレット!? また大人の姿になったの!? それにブラッドにセラフィさん、アーノルドまで!? その姿はいったい……」


お母様の記憶が戻った!?


外が夜のせいで、馬車の窓は、鏡のようにお母様の姿を映している。


「こ、これは十四年前のあの舞踏会のときのドレス…!? それに私も若返ってる……。〝マザー〟!? どうしてここに。これは、あなたのしわざですか」


たしかに年齢不詳でいつまでも若いままの〝マザー〟ならば、やってのけそうだ。二十歳後半くらいに見えるが、もう百歳を超えているとの噂もあるくらいだ。


「まさか。私にそんな大それた力はございません。この怪異の元凶はローゼンタール伯爵夫人。彼女は魔眼を手に入れたのです。そして、ここはもう、彼女の屋敷の周囲の結界のなか。伯爵夫人は十四年前のあの舞踏会をもう一度やり直そうとしています。かつてその舞踏会に関わった人達は、ひとたび結界に踏みこめば、たちまちに十四年前の心と姿に戻されます。そして関わりのなかった人達は、結界の外にはじきとばされてしまうのです。立ち入れなくなるだけですので、心配はいりません」


思いがけない説明に私は仰天した。


ローゼンタール伯爵夫人には、「108回」で命を狙われたけど、そんな特殊能力は初耳だ。でも、〝マザー〟が言うならそうなのだろう。とするとお母様以外の私達がはじきとばされず、姿が変わったのは……。


〝マザー〟は私のルビーを見て眩しそうに目を細めた。


「……そうです。その真祖帝(しんそてい)のルビーが、ローゼンタール伯爵夫人の魔眼から、あなた達を守ったのです。伝説以上の呪物ですね。私のような職業のものには、まるで太陽を直視しているようです。大人の姿に変わったのは、はじきとばされないよう舞踏会の波長にあわせたためですね」


イノシシの群れに入りこむために、イノシシの皮をかぶるみたいなもんか。


それにしても、ブラッドだけ大人になったり、そのあと元の姿になって髪が伸びてドレスアップしたり、何度も変化したけどどうなってんの。それにアリサの奴は、ずっと幼児のままで眠りこけてるんですけど。


「……彼は……秘めた力が強すぎるのです。ゆえにルビーの力の影響を受けても、すぐに復元してしまいます。だから、ルビーは妥協してその姿で手をうったのでしょう」


妥協って……。ブラッドという強力なバネは、手で押さえつけて変形させようとしても、すぐに跳ねあがっちゃうということか。で、仕方なくバネにいろいろオプションつけて、もっともらしく体裁を整えたと。てことは、ブラッドの今の恰好は、真祖帝のルビーの趣味か。


抗議するようにルビーがぶううんっと震えた。


いいって、いいって。照れないで。このセンス、嫌いじゃないよ。


「ははっ、秘めた力だって。ちょっと少年心をくすぐるよな」


でも、結果はよりいっそうの女装化よ。ブラッド、あんた、よくのんきにしてられるね。さすが風来坊だ。適応能力が高すぎる。


「うん、この格好も悪くないかも」


ブラッドは、さっそくスカートをまくりあげ、可動範囲を確かめだした。脚が膝上まで丸見えだ。はしたないヤツめ。


うん、まあ、でも、ブラッドのことは納得いった。

じゃあ、アリサは?


「わかりません。まったく。ローゼンタール伯爵夫人の魔眼の力は、この子をすり抜けてしまっているのです。はじくならまだわかるのですが。こんな現象ははじめてです。多分これは……」


不世出の占い師の〝マザー〟が困り果てていた。


さすがアリサだ。シリアス漫画にギャグキャラがまぎれこんだようなものなのだろう。


ばんばんっと異音がし、〝マザー〟の足元の土が爆ぜた。


うおっ、びっくりした!!


「あら、これ以上よけいなお喋りは許してくれなさそう。こわいこわい」


まさか、ローゼンタール伯爵夫人が、口封じをしようと、攻撃をしかけてきたのか!?


「残念ですが、私はそのルビーの力に守られていないので、皆様にご同行はできません。ここで、この子と一緒にお帰りを待ちますわ。うーん、ほんとに残念」


〝マザー〟ははぐらかすように、残念と繰り返し、眠るアリサを見てくすくす笑った。


「さあ、いい子にしてましょうね」


私達は驚愕した。

彼女の左腕のなかに、いつの間にかアリサがおさまっていた。アリサのぷにぷにほっぺをつつき、感触を楽しんでいる。


まるで魔法だ。〝マザー〟は馬車の中に一歩たりとも踏み込んでいなかった。その場から動きもしなかった。なのにどうやって寝ていたアリサを抱き取ったのだ。


私達の疑問に〝マザー〟は短く答えただけだった。


「〝幽幻(ゆうげん)〟ですよ。私も使えますから」


私達の驚きはさらに深くなった。


〝幽幻〟は、七妖衆アディスが私達を苦しめたこちらに攻撃や姿を認識させなくする反則技だ。しかけられた方は、何が起きたかもわからないまま、一方的に蹂躙されることになる。


「……あんた、占い師なんて嘘だろ。いったい何者だよ」


ブラッドが警戒するのも当然だ。私達はアディスは撃退したが、その技の〝幽幻〟を破ってはいない。〝マザー〟がその気になれば、いつでも私達を害せるということだ。


「あんたは血の流れさえオレに読ませない。にこにこと巧妙に隠してるけど、おそろしくヤバい気配が微かに漏れ出てるぜ。そんな占い師がいるもんか。巨大な龍かなにかと向き合ってる気さえしてくる」


ブラッドは臨戦態勢に入っていた。冷汗が頬を伝う。〝血の贖い〟を発動しかねない勢いだ。


「スカーレット、もしあいつが襲いかかってきたら、オレが食い止める。なんとしても一分ぐらいはもたすから、その間に距離を取り、コーネリアさんとアーノルドの弓矢で反撃の用意を整えろ」


私達は顔を見合せた。


たしかに〝幽幻〟は使ったようだが、〝マザー〟は龍どころか、華奢な佳人そのものだ。悪いけど、その例えに関しては、ブラッドが空回りしているようにしか見えない。


「それでも無理と判断したら、かまわずオレを置いて逃げろ。勝てなくても、守るぐらいはやってやらあ」


笑いとばしかけた私は、ブラッドの言葉に顔を引き締めた。

彼はこんなときに冗談を言う人間ではない。


わかった。あんたの言葉に従う。でも、置いて逃げることだけは絶対にしない。私のない頭を振り絞ってでも、起死回生の奇策をひねり出してみせる。


〝マザー〟は艶然と笑った。


「ずいぶん過大評価をしてくれますね。ナイトくん。そして、スカーレットさんを守るため、命を張る覚悟。彼女もその心意気に応えようとした。私、どきどきしちゃいます。ふふ、でもね。あなたが感じる私の気配はただのはったりですよ。張りぼてみたいなものです。実力を隠す技もあれば、反対に実力以上に見せかける技もある。達人ほど引っかかるんですよ。おかげで余計な争いが避けられます。今、解除しますね」


私達には理解できなかったが、ブラッドが驚きに目を丸くする。


「……化物じみた気配が消えた……」


「言ったでしょう。私はただの占い師だと。長生きしたぶん、いろいろな技に通じているだけです。ずっと使わないと忘れてしまうので、これはという相手には披露して、びっくりした顔を見て楽しんでいるのです。ナイトくんの警戒はもっともですが、ただそれだけですよ。道化た年寄りのくだらない娯楽と思って見過ごしてください」


いたずらっぽく〝マザー〟は片目をつぶってみせた。


「ということで年寄りは疲れましたので、セラフィさん、結界の外にはじかれたオランジュ商会の幌馬車で休憩させてくださいね。さっき結界の外にいた彼らと話をつけてきているのです。全員の恋占いと引き換えに、御自慢のお茶とお菓子でおもてなししてくれるそうです。とても楽しみです」


「あいつら、また勝手なことを」


セラフィは片手で顔を押さえ、ため息をついた。


〝マザー〟はにこやかに彼をなだめた。


「……古今東西、男も女も気になるのは恋の行く末。息をするほどに自然なことです。おかげさまで食いっぱぐれません。そして、アリサさんは私が守るので安心してください。これでも女のはしくれ。戦いはともかく、逃げたりはぐらかしたりは得意です。たとえ七妖衆相手でも後れは取りません。また舞踏会の帰りに拾いに来てください。そのときに皆様の恋占いもしてあげましょう」


〝マザー〟は眠るアリサを抱き上げたまま、お菓子お菓子とハミングして、くるっと背を向けて歩き出した。なんか「108」回での私の〝マザー〟の記憶とだいぶ違う。やたら肌に接触したがるのは困りものだったが、もっと神秘のヴェールに包まれた雰囲気だった。こんなお菓子が楽しみでうきうきした足取りになる食いしん坊ではなかったはずだ。


「では、公爵夫人。よき舞踏会の夜を。仮面の下に隠された涙に、きっと今のあなたなら気づけるでしょう。どうか悲しすぎる一人の女性の心を救ってあげてください。そして、スカーレットさん、ブラッドさん、セラフィさん、アーノルドさん、あら、まあ、ふふ、うふふ、青春っていいですね。年甲斐もなく胸きゅんしてしまいます。捧げられる想いは、まるできらめく宝石ね。どれも純粋で尊く切ない。もし、ひとつだけなら、ためらわず胸に抱きしめられるほどに」


すっかり〝マザー〟に手玉に取られ、毒気を抜かれていた私達は、そのときになり、〝マザー〟が、初対面のはずの私達の名前や七妖衆のことまで、普通に語っていたことに気づき驚愕した。そして、〝マザー〟の残した謎めいたメッセージの詳細をあわてて確かめようとした。だが、〝マザー〟はそれ以上この件について話す気はないようで、振り返りもしなかった。


「……あまり細かく占いを説明すると、あとで顧客を丸めこむことが出来ませんから。私は自分の非才を補うため、いろいろなテクニックを身に着けているのです。なので、この程度なら手助けはできます。王家親衛隊のみなさま、出番ですよ」


〝マザー〟はそう言うと同時に、片手で空を薙いだ。


今度は私達にもはっきり見えた。蜃気楼のように景色がぐにゃりと歪んだのだ。


「今日ここに来ている王家親衛隊はあの夜の舞踏会とは無関係です。ですが、みな、十四年前の公爵夫人、当時のコーネリア嬢の熱烈な大ファンで、その記憶が鮮やかに残っています。なので、十四年前のコーネリア嬢に紐づけ、結界を欺くことができました。オランジュ商会と〈治外の民〉の皆様はさすがに無理でしたが。では、みなさま。また後ほどに」


私達は闇に姿を消した〝マザー〟を追うことが出来なかった。


「……!! 生コーネリア嬢だ!! 本物だ!! まさかこんな間近でお会いできるとは!!」


「おお、いきなり森で気がついたときは、魔物に化かされたかと思ったが!! いや、こんなラッキーな夢なら化かされる価値ありだ!!」


「私達は皆、コーネリア嬢に憧れ、いや恋い焦がれ……!! おお、麗しの弓の女神よ。あなたを称える詩を捧げたい」


「みんな落ち着け。我々は王家親衛隊、決してあやしい者ではござらぬ。ちなみに、私の名前は……」


「ずるいぞ!! 一人だけ抜け駆けは!! 俺だってコーネリア嬢に名乗りをあげたい!!」


突然に出現した、騎乗したままの王家親衛隊のみんなが、馬から飛び降り、争うように馬車の戸口に殺到したからだ。鮮やかな赤と青の胴甲(ブリガンディン)のトレードマークはそのままだが、全員顔が若くなっている!! 彼らも十四年前の姿と記憶に立ち戻ったんだ。


鼻息荒くして、我先に自己紹介しようとし、ついには掴み合いの喧嘩がはじまった。


なにやってんだ。このハイドランジア最強騎士団どもは……。


お母様はびっくりし、あわてて彼らをなだめようと声をかけた。


「わ、私はちゃんと王家親衛隊の皆様全員のお名前をおぼえていますわ。勇敢で誇り高いあなた達のお名前を忘れるはずがありません。それに、とっても良くしてくださってますもの」


お母様は彼らの顔を見つめながら、ひとりひとり名前を呼びかけた。


うん、ガルム戦以来、うちの公爵家と王家親衛隊とのつきあいも長いからね。


王家親衛隊の皆は、拳を握り、感激に身体をうち震わせた。


「……あのコーネリア嬢が、我等の名前を憶えてくださっているとは……」


「しかも、誇り高いと褒めてくれたぞ……」


「今日ほど王家親衛隊であってよかったと思った日はない……」


感極まって、天を仰いで涙を流している者までいる。静かな同意の声とうなずきが起きる。

さっきまでの騒ぎが嘘のようだ。


わ、悪い予感しかしない。まるで嵐の前の静けさのような。


お、お母様、これ、事態の鎮火どころか、火に油を注いだだけでは。だって、彼らは十四年前に戻っているのだもの。共に死闘を乗り越えた戦友ではなく、高嶺の花の憧れのアイドルとして、お母様を認識しているのです。もし、アイドルが自分の名前を憶えてくれていて、目をあわせて「あなたは勇敢で誇り高い」なんて微笑んでくれたとしたら、熱烈ファンがどんな反応をするか。 


……私の心配は、数秒後に的中した。


王家親衛隊のみなは、感動にひたりすぎ、言葉を失っていただけだった。


地をゆるがす大歓声と、コーネリアというシュプレヒコールで、あたりはカーニバル顔負けの熱狂に包まれた。


興奮しすぎ、奇声をあげて、馬術ウルトラCの妙技を披露する連中に、どうしてこうなったかわからず、呆然とするお母様。大喜びで拍手するブラッドとアーノルド。そして、私とセラフィは頭を抱え、顔を見合せた。どうせ二人のうちどちらかが尻ぬぐいすることになるのだ。優等生組の悲しいさだめである。


「あの、ボクが。スカーレットさんはこれから忙しいでしょうし」


セラフィが気をつかって手を挙げてくれたが、私はおしとどめた。セラフィはクールに見えるが、ものすごく情に厚いし、気もまわる。結果、いつも貧乏くじばかり引くので気の毒だ。


「お互い様でしょう。セラフィがどれだけ気を回していろいろ備えてくれているか、私はよく知ってるよ。だから、ここは一緒に事態を収拾しましょう。セラフィのサポートがないと、この馬車も元には戻せなかった。おかげ様で万全の態勢で舞踏会に乗りこめるよ。いつもありがとう。これからも力を貸してね」


私がほほえむと、セラフィは照れて頬をかき、よろこんで、と笑った。


そうだ。悪いことばかりじゃない。


「108回」の女王時代、たったひとりで城から逃げ落ち、あげく殺されたときに比べれば、今は頼れる味方がこんなにいるのだ。愚痴なんか言ってたら罰が当たるってもんだ。


さあ、決戦の開始だ!! 馬蹄の音をファンファーレがわりに轟かせよう!!



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



ローゼンタール伯爵夫人邸の大玄関。そこに続く大広間にはたくさんの紳士淑女が集っていた。まるで大聖堂を思わすアーチ状の天井一面をおおう少し退色したフレスコ画。後ろにひかえる大階段は立派だが、欄干がずいぶん古い意匠だ。それは建て直される前の、ローゼンタール伯爵夫人邸の姿だった。


だが、貴族達は誰もそのことを不思議に思わない。


伯爵夫人の魔眼の力により、彼らの姿と心は十四年前の舞踏会の夜に戻り、当時と同じ行動をそっくりなぞり直しているからだ。


普段ならクロークルームに外套と帽子をあずけたあと、応接の間でくつろいだり、思い思いの噂話に花を咲かせる貴族たちは、コーネリアが乗ってくる馬車を、今や遅しと待っていた。あのときと同じく笑いものにするために。


いうまでもなく、コーネリアが無蓋馬車でやってくることを、バイゴッド侯爵夫妻が、あらかじめふれまわっていたからである。


スカーレットがにらんだとおり、コーネリアは義父母の罠にはめられていたのだった。


淑女の一団が羽根扇で口元を隠し、くすくすと密談を交わしている。


「公爵夫人を褒めてさしあげなきゃ。なんてすてきな屋根なし馬車なんでしょうって。どんな顔をするかしら」


「おほほ、きっと大喜びして舞い上がるわよ。だって、あの人、貴族のルールなんてなにも知らないもの。頭のなかは弓矢のことばっかり」


「まあ、おそろしい。ずっと過ごしやすかった社交界なのに、しつけのなっていない野良犬が迷いこむようになったらおしまい。しかも、その野良犬が公爵夫人のクラウンをかぶっているなんて。ああ、マナーと教養という門番はどこに行ったのかしら。貴族の格式も地に堕ちたわ」


太った婦人がおおげさにため息をつく。

隣のひょろっとした女性が意地悪そうに目を光らせる。


「今こそ私達は心をひとつにすべきですわ。野良犬にしつけなど必要ありません。ただ追い払えばいいのです。夜は長いですわ。弓しか能のないエセ公爵夫人に、じっくり教えてさしあげましょう。これは貴族の責務ですわ。ここはあなたなんかの居場所じゃないって、心に刻みこんでやりましょう。きらびやかな社交界に二度と近づかないように。にせものには、暗くてじめじめした森こそがお似合いですもの」


そして彼らは目を輝かせ、額をつきあわすようにし、残酷なプランを次々と出し合った。


「まあ、とってもすてきな思いつき。憂鬱なはずだった夜だけど、きっと楽しい夜になるわ」


「あなたの計画こそとってもエレガンツ。……ふふ、相手は人間じゃない。公爵夫人と名乗っているだけのケモノですもの。男爵家であることさえ納得いかないくらい。遠慮なんかいりませんことよ」


おほほ、うふふ、と邪悪な笑いを浮かべながらも、なごやかだった雰囲気は、しかし、続く一人の令嬢の発言でがらりと変わった。


「バイゴッド侯爵ご夫妻が泣いて頼むのですもの。家名を守るため、野人の嫁を追い出してくれって。恩を売っておくのも悪くはないですわ」


「まあ、まさか、あなた、あの雌犬の後釜を狙っているの?」


「ほほ、さあ、どうでしょう。ただ紅の公爵様の伴侶には、それなりの淑女がふさわしいとは思いますけど」

自信満々のその切れ長の目の令嬢を、垂れ目の令嬢が鼻で笑う。


「あら、あそこに立派な姿見がございますわ。人は心の虚像に化かされがちとか。ご注意あそばせ」


「……どういう意味かしら」


「ほほ、さあ………?」


それまでの和気あいあいはどこへやら、令嬢達は扇のかげから睨みあい、オブラートに包んだ言葉の刃の応酬をはじめた。紅の公爵ことヴェンデルが貧乏であることは周知の事実だ。王家に危険視され、親のバイゴッド侯爵夫妻にも疎まれた彼は不遇だ。数々の功績の報奨金はまともに払われず、ぼろぼろの領地しか与えられていない。先代の国王に嫌われていたのはよく知られているが、今の国王の代になっての王女降嫁の話をヴェンデルが蹴ったため、不仲が決定的になったともっぱらの噂だ。


それでも、ヴェンデルの気品と端麗な容姿に、胸を焦がす令嬢はあとを絶たない。ヴェンデルと結ばれれば、彼の赤髪、紅い瞳、あの真祖帝の特徴をそなえた子供を授かれるのではないか、との期待もある。そして、ヴェンデルを狙っているのは令嬢達だけではない。


〝ふん、小娘どもが〟


にこにこしながら、令嬢達のやりとりを眺めている貴婦人達もそうだ。


ヴェンデルはステータスとして連れ歩くのに、まさに理想の若いツバメだった。うやうやしく彼がエスコートする女性は、すべての貴婦人達の嫉妬とため息を受けることになるだろう。想像するだけで自尊心がくすぐられる。実際、社交界で大きな力をもっているのは、美しさと若さ頼りの令嬢ではない。若さのかわりに巨大な財力と人脈、そして処世術を得た貴婦人達だ。社交界のルールをつくれる立ち位置の婦人達に比べれば、令嬢たちなど、いきがるのをお目こぼししてもらっている仔猫に過ぎない。


しかし、いつ果てるとも知れない狐と狸の化かしあいは、轟く馬蹄の音で中断された。


大広間まで伝わる震動に、紳士淑女はうろたえ、腰を浮かした。


舞踏会で聞く音ではない。軍隊でも攻めてきたのかと錯覚するほどだった。


しかし、彼らが本当に驚愕するのはそこからだった。


大玄関の前で、赤と青の胴甲(ブリガンディン)を彩る金の刺繍が月夜に輝く。同様の意匠の馬の飾り布もだ。ハイドランジアの国旗を模したその装備を許された騎士団はひとつしかない。


「……ハイドランジア王家親衛隊……!?」


一糸乱れぬ足並みで、ぴたりと十騎の騎士たちが、駿馬を停止させた。


それはありえない光景だった。


武力が四大国に劣るハイドランジア王国軍において、唯一の例外が王家親衛隊だ。武でもって平民が騎士に成り上がれる登竜門。ハイドランジアでも選りすぐりの猛者たちが、さらに苛烈な訓練でふるいにかけられ、研ぎ澄まされた超精鋭集団。その突進攻撃は、騎兵の天敵である超長槍、パイクをかまえた傭兵の群れさえ、正面から撃破してしまう。


戦場の常識破りにして、王家の最後の守り。ゆえに彼らは王家の権威の象徴とされ、国王の命令なくば、王城から動くことを許されていない。


それが十騎も、なぜ今夜の舞踏会に。


海千山千の貴族達の度肝を抜かれ、立ちすくんでいた。車寄せで来客の馬車の誘導をしていた使用人など、腰を抜かしていた。


王家親衛隊の連中は、馬上からそれを見おろしていた。うなじ側にひさしの突き出たサレット兜のバイザーを装着していることに気づき、使用人はふるえあがった。臨戦態勢のあかしだ。表情まではわからないが、のぞいているぎらつく目は殺気に満ちている。ふしゅううっと兜のすき間から蒸気があふれそうだ。


だから、彼らが一斉に巨大なランスを垂直に持ち直したとき、気の毒なその使用人は失禁しそうになった。振り上げるとき、槍の穂先がぶおんっとおそろしい音をたてた。鋼の鈍い輝きが残光の軌跡をのこす。抜き身だ。すでに事故防止用のカバーが取り外されている。


だが、さいわいにも、田楽刺しにでもされるのでは、との使用人の危惧ははずれ、王家親衛隊はざあっと左右にわかれた。


その場の全員が目を見張り、言葉を失った。


馬を手足のように動かした王家親衛隊の馬術にではない。

彼らのかげから、八頭立ての素晴らしく豪奢な馬車が現れたからだ。


はああっと女性陣から感嘆のため息が漏れた。


その瞬間、令嬢も貴婦人も、他人の目を意識することを忘れた。親が亡くなっても忘れないであろう、社交界で生き抜くための本能。それを吹き飛ばすほど驚きの度合いは大きかった。口元を隠し、密談をしあう羽根扇を取り落したことさえ気づかなかった。


そこにあったのは、少女の頃に誰もがあこがれ、大人になって、なお生涯に一度くらいは、と願う夢物語そのものだった。


蒼い月の明かりと緋色の屋敷の明かりが、馬車の輪郭をきらきらと彩る。扉だけでなく、車体のいたるところに金銀の精緻な細工が施され、それが光を乱反射しているのだ。宝石のカットのように角度まで計算しつくされている。まるで自ら発光する黄金のつたに覆われているようだ。御者台の真紅の飾り布は、金の刺繍が燃えあがっているようだ。


〝ああ、もし、この馬車が私のものになるのなら、残りの生涯、どんな首飾りも指輪も宝石も望まない……〟


戦士が名刀に見惚れるように、ほとんどの女性達は時がたつのを忘れた。


こんな馬車から降りてくるのは、いったいどんな高貴な方なのか。


「……!!」


だが、目聡い何人かの貴婦人達は、目配せしあい、さっとその場に背を向けた。彼女達は、馬車にヴィルヘルム公爵家の紋章がついていることに気づいたのだ。そして、馬車の主のコーネリアを敵にまわすのは得策ではないと考えを改めた。財源はわからないが、これほどの馬車を用意できた以上、もうコーネリアは侮っていい相手ではない。


公爵夫人という肩書がありながら、コーネリアが低く見られていたのは、社交界で戦う武器をなにひとつ持っていなかったからだ。いわば、爪も牙も抜かれた見世物のライオンだ。だから、安心していたぶることが出来た。


だが、今のコーネリアは、王家親衛隊を動かし、王族以上の馬車に乗る。おそらく本物のライオン以上の強力な牙を手に入れている。もしかすると、今夜の舞踏会の主催者のローゼンタール伯爵夫人よりも。うっかり手を出すと、逆にこちらが食い殺される。


だが、それを悟れない愚かな連中が、きっと予定通りにコーネリアを侮辱する。あのまま大広間にいたら、自分達まで馬鹿の仲間と思われる。馬鹿の自爆行為に巻き込まれるのはまっぴらごめんだ。


そう一瞬で判断し、彼女達は、足早に大広間のつきあたりの大階段をのぼった。


たぶん、まだコーネリアが用意しているであろうサプライズを見られないことを心残りに思いながら。この上に男性用の控えの間と女性用の間があり、さらにその先に舞踏の間がある。


そして、がらがらの男性の間を突っきっているとき、どおっという驚愕のどよめきが下から迫ってきて、彼女達は自分の予感が当たったことを確信した。あとでまた聞きでしか起きたことを確かめられないことを残念がりながらも、うまく退避できたことに、ほっと胸をなでおろした彼女達は凍りついた。


「……ふふ、期待以上だわ。それでこそ、あの人の選んだ伴侶。それでこそ、コーネリア。これこそが私の待ち望んだ夜よ。よく来てくれたわ。さあ、もっと、もっと、私の胸を高鳴らせてちょうだい」


ローゼンタール伯爵夫人がヘーゼルの瞳を輝かせ、ゆっくりとこちらに歩いてくる。彼女達など目に入らないかのように、真横を通り過ぎていく。彼女達は礼を取るのも忘れ、呆然としていた。


あのローゼンタール伯爵夫人が、社交界に君臨する権力者が、コーネリアを出迎えに行ったとわかったからだ。王族が訪れても、大階段の踊り場にも出てこず、平然と椅子に座って待ち受けるローゼンタール伯爵夫人がなぜ。


……いったい、コーネリアとは何者なのか。


あまりに自分達の理解をこえた出来事に、彼女達は蒼白になり、右も左もわからなかった令嬢時代のように不安な気持ちで、お互いの顔をおずおずと見つめるしかできなかった。


だが、これは、この夜の伝説じみた驚きの、まだほんの皮切りにすぎなかったのである。



お読みいただいてありがとうございます!!


9月27日発売の電撃大王さま11月号に、コミカライズ10話が掲載されます。

ついに対峙するスカーレット達と魔犬ども。

おや、メアリーの様子が……?


では、よろしかったら、また是非お立ち寄りください!!

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[一言] 冒頭のお前転生者だろ!?ネタオンパレードから、どうなってるの?の大人化、明かされるアンノ子ちゃん世界の話からの、あんまーい!?甘すぎるっ!ブラックコーヒーがマックスコーヒーにっ!?からの謎の…
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