つらい夜のはじまり
ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!
【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】1巻が発売中です!!
鳥生ちのり様作画!!
KADOKAWAさまのFLОSコミックさま発刊です!!
どうぞよろしくお願いします!! ちなみに連載誌は電撃大王さまです。
またコミックウォーカー様やニコニコ静画様でも無料公開してますので、どうぞ、試し読みのほどを。本日、6月3日、第8話の①公開予定です。
ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「恋とうたたね」も少し読めます。
才能ある作家さんなんで、注目株ですよ……!!
原作の【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻】は
KADOKAWAエンターブレイン様より発売中です!!
「テディー!! ここから早く逃げ出そう!!」
そう叫んでロニ―が、あわただしく自宅に転がりこんできたとき、双子のかたわれのテディ―は膝を抱え、横倒しになり震えていた。二人はロナの弟たちだ。
「……よかった!! 父さんは酒漁りに行って留守か。今のうちだな」
「……? ……!!」
素早くあたりを見渡し、ほっと息をつくロニーを見て、テディ―はゆっくりまばたきをする。消えていた目の光が戻ってくる。脚の不自由なテディ―は自分では食事にありつけない。双子のロニーが消え、姉のロナもいないあいだ、彼がもらったのは、酔った父親の腹立ちまぎれの蹴りだけだった。もともと栄養失調にくわえての虐待は、あばら家の容赦ない寒さとあわせて、テディ―の生命活動をいちじるしく弱らせ、意識を朦朧とさせていたのだ。
「ロ、ロニー……? どうしたんだよ。その顔……。それに姉ちゃんは……」
ようやくロニーを認識したテディ―がそう問いかけずにはいられないほど、ロニーもまたひどい有様だった。顔は紫色に腫れ、左の五本の指先の爪がはがされている。ロニーは痛みに顔をしかめながら苦笑した。
「……異端審問官につかまって拷問されたんだ。あいつらが追ってくる前に、ここを離れなきゃ。あのロナねえに執着してたチビのおっさん……!! あいつが、ロナねえを魔女だってでっちあげて密告しやがったんだ。それでぼくも魔女の仲間だって」
いつもおだやかなロニーに似合わぬ殺意をはらんだ語気だった。
それを聞き、テディ―の顔色がさっと変わった。
貧民街でも異端審問官の悪名はとどろいている。
拷問にかけられたら、よくて一生不具者、悪ければ生きて帰れない。
「じゃあ、まさか姉ちゃんは……!?」
ロニーは歩けないテディ―に肩を貸しながら、安心させるため語りかけた。
「心配ないよ。ロナねえはつかまってない。ぼくもマシュウって異端審問官に、ロナねえの場所を教えろって拷問されたんだけど、答えなかった。ていうかどこにいるかわかんないんだけどさ。そしたら、子供好きのジョンって人が、かわいそうだからって逃がしてくれたんだ。絶対逃げきってやる。ロナねえも見つけて、三人でしあわせに……」
「……いいや、鬼ごっこはここで終焉だ」
その腹にずしんと嫌なふうに響く声に、ロニーは凍りついた。
「子供とはなんと愚かな生き物だ。わざと泳がされたのも気づかず、希望の明日を、熱に浮かされたようにぺらぺらと語る……くく、なんと無垢で愛おしいことか。なあ、従順な羊は人間のためにある。では、従順な人間は、何者のためにあるのだろうかね。神か? あるいは?」
謎かけのような問いと人影が陰鬱に床に這う。
みおぼえのある山高帽と黒い外套を身にまとった異端審問官マシュウが、陽光をさえぎって戸外に立っていた。
「……マシュウ、どうしてここに……」
呆然としてうめくロニーに、マシュウは片目をつむり、口髭をなでつけて答えた。
「おやおや、君はもう答えを知っているだろう。それとも現実から目をそらしたいのかね。つらいことに向き合わなければ、人間は成長しないぞ。だが、私の名前をしっかりと心に刻みこんでいることは褒めてやろう。どうだ。私の言った通りになったろう。二度と忘れられない名前になると」
そしてマシュウは背後に振り向いた。
「ジョオオン。お手柄だ。仔羊が二頭になった。用が済んだら、好きなほうをやろう」
独特なイントネーションで呼びかけると、人相の悪い男がにゅっと顔をだした。
友好的とお世辞にもいえない邪悪な嗤いを見て、ロニーは立ちつくし、呻いた。
「……ジョンさん!? まさか、だましたのか……!? ぼくを……!!」
「ふん、おまえのような貧民のガキが、なんの見返りもなく、助けてもらえるわけねえだろ。これが人生勉強ってやつさ」
ジョンは悲痛な声をあげるロニーを鼻で笑った。
そして、テディ―に目をとめ、あさましい嗜虐的な笑みを浮かべる。
「オスガキは顔が綺麗に限る。拷問で顔が歪んじまったヤツは遠慮しときます。そっちの新顔のほうをいただきまさあ」
ジョンに裏切られただけでなく、テディ―まで巻き込んでしまったと知り、ロニーは蒼白になった。
マシュウは眉をひそめた。
「おまえとは趣味があわんな」
むろんロニーたちに同情したからではない。
そんな人間らしい心はマシュウにはないと、ロニーは拷問で知り尽くしていた。
その知的なたたずまいは、下卑て粗暴なジョンよりはるかにおそろしい。
ジョンと背丈は変わらないはずなのに、倍の大きさに感じるほどの異様な迫力がある。
「おお、かわいそうに。脚が不自由な子ではないか。ジョオオン。これではダメだ。人を真に理解するにはな。五体満足なものを壊さねばならん。なぜなら、人体とは毛のひとすじにいたるまで神の創りたもうた奇跡だからだ。そして、拷問こそが、人間が身も心もさらけ出してくれる唯一の方法なのだ」
熱弁をふるったあと、マシュウはじいっとロニーを見た。
夜行性の猛禽が狙いつけるような目だった。
「……おお、ロニー君。その顔だ。君のいつわらざる本音が見える。私は胸をゆさぶられた。そうか!! 自分のせいで兄弟まで地獄に道連れにしたという、絶望と後悔があふれだしているのか」
マシュウは、高笑いしたあと、ぴたりと黙った。
とがったブーツの踵を処刑の奏楽のように鳴らし、室内にゆっくりと入ってきた。
「……お邪魔するよ。ふむ」
高揚が嘘だったかのように冷静な口調だった。
室内の様子や転がる空き瓶を鋭く一瞥し、にやりと笑う。
「おおよそ理解した。君たちは没落した元富裕層か。父親は酒浸りで育児を放棄。生活痕跡から推理するに、母親は一年内に死亡。姉が弟たちの面倒を見ている。それもおそらく春をひさいで。まあ、そんなところか」
「ど、どうして、それを……」
家庭の事情を言い当てられてロニーは呆然とした。
マシュウは得体の知れない太古の彫像のような笑みを見せた。
「なあに。ちょっと観察すればすぐにわかることだ。猟師は罠をかけるのに、動物の習性を利用するだろう。人間もまあ同じようなものだ。一人一人違うようで、じつは行動のパターンがある。それを事象にあてはめれば、おのずと答えは導きだされる。……幼い姉弟たちが身を寄せ合い、必死に生きてきたとは健気だ。じつに健気だ」
マシュウはにこやかに足を進め、黒い外套の裾をひるがえした。
「健気すぎて反吐がでる。魔女の眷属が人間のふりをしおって」
ロニーにはなにが起きたかわからなかった。
ぐるんと視界が回転し、肩を貸していたテディ―を放り出すようにし、床に崩れ落ちていた。
マシュウは脚をはねあげ、爪先でロニーの顎を揺らし、脳震盪を起こしたのだ。
その動きを追える動体視力と格闘に精通した人間はここにはいなかった。
「……な、なにが……!? テディ―……!!」
「ロ、ロニー!!」
互いをかばいあうように近づいた二人の指先を、マシュウが分断した。
「おっと、君は自力では立てないのだな。よし、私が手を貸してやろう。遠慮はいらない」
マシュウはテディ―を恋人のように優しく受け止め、ひきおこした。
小鳥のように震えるテディ―に破顔した。
「……なあ、人類の裏切り者ども。悪魔の手先よ。おまえたちは徹底的に駆除すべき毒虫だ。そうせねば、人間は悪魔にあやつられ、滅ぼされてしまうからな。だが、正直に話し、許しを乞うのなら、情状酌量の余地はあるぞ」
笑顔のままドスのきいた声で、床で這いつくばってうめくロニーに語りかける。
「……違う。ぼくらは悪魔なんか知らない。ロナねえも魔女なんかじゃない……!!」
必死に否定するロニーに、マシュウは告げた。
「やれやれ、ロニー君は頑固だな。いくら拷問してもその一点張りだ。神よ。迷える羊にお導きを。・……少し趣向を変えるとするか」
枯れ木をへし折るような音がし、マシュウの腕の中でテディ―が身をそらせ悶絶した。
「ぎゃああああああっ!!!」
「テディ―!?」
マシュウが笑顔のままテディ―の左腕を折ったのだ。
「……君たちは双子のようだ。双子は痛みを共有するというほど一心同体という。ならば、こちらの坊やを罰するのは、君を罰するのと同じこと。ロニー君、どうかね。痛みは伝わったかね。ふむ、痛くて泣いているのか。悲しくて泣いているのか。それではわからん。しかたない。噂の真偽をたしかめるには、もう少し検証が必要だな」
マシュウはテディ―の耳元でささやいた。
テディ―は腕から逃れようと必死に身をくねらせるが、マシュウの抱擁は大蛇のしめつけのようだった。
微動だにしない。
また胸の悪くなる音がした。
左手の小指を折られ、テディ―がのけぞった。
「……!!」
だが、ロニーに負担をかけまいと、今度は歯を食いしばり、声をたてなかった。
「おお、がんばりやの仔羊だ。だが、双子の兄弟が頑固だと苦労するな。歩けないうえ、このままいくと両腕も使えなくなる。いもむしのように這いずって生きるしかなくなるぞ。ジョオオオンはそういう少年を愛玩するのが好きらしいが……。よし、ヤツに引き渡すか。あいつは愛情表現が過剰だ。三日と生きてはいられまいな」
マシュウはわざとらしく嘆息した。
ロニーは悲鳴をあげた。
「やめてくれ!! テディ―に手を出すな!! やるならぼくだけを……!!」
そんなロニーをかばうようにテディ―も泣きだした。
「いいんだ。ロニー、オレはこれから先、生きていてもずっとお荷物になる……。オレがいなければ、姉ちゃんだって、あんなことに……!!」
そしてテディ―はマシュウから目をそらさず叫んだ。
「……お願いです。オレはどんな殺され方をしてもいい。ロニーを許してあげてください」
ロニーが床から泣き叫び、テディ―がマシュウに抱擁されながら懇願した。
だが、この悪魔の心は一寸も動かなかった。
「仲良きことは美しきかな。思い合う兄弟の絆、しかと見せてもらった」
マシュウはいたく感じ入ったという風に語りかけ、ロニーは見逃してもらえるのでは、と淡い期待を抱いた。そして、すぐ絶望に叩き落とされた。マシュウはぬうっと顔を突き出すようにしてロニーに言った。
「……私は騙されん。きっと悪魔が憐れみをかう芝居をするよう、君たちに入れ知恵しているのだな。人の情につけこもうとは、なんと腹立たしい。悪魔というのはじつに狡猾で油断ならん。背筋が寒くなるよ。最前線の我々異端審問官は常に勇気を要求される。人類を守るために。……さて、二人そろって喚かれるとうるさくてかなわん。よし、君にはしばらく黙っていてもらおう」
マシュウはテディ―の顎をがくんっとはずした。
「おおっ、この舌にあるあざは、ひょっとして悪魔との忌むべき契約印か? とんでもないものを見つけてしまった。舌を切り取って確かめねばならんな」
マシュウは必死にかぶりを振って逃れようとするテディ―の舌をむりやりつまみ上げた。
「ジョオオオン!! ナイフを持ってこい。いや、針だな。聖トマスいわく、悪魔の印は、突き刺しても痛みを感じない。確かめよう」
ジョンから人を殺せるような太さの針を受け取ると、マシュウはそれをテディ―の舌先に突き刺した。
「どうだ、痛むか」
えぐって、そして強くひいた。
舌の肉がぶちっと引き裂きさかれ、針がはずれた。
テディ―の背がびくんっとのけぞった。
鮮血がよだれと混じり、だらだらと流れ落ちた。
「ふむ。血は出るが、痛いとはひとことも言わん。やはり悪魔の印か」
顎がはずされてはまともに返答できるわけがない。
あーあー、とだらんと口を開いたまま、くぐもった泣き声をあげるテディ―の目に、マシュウは針先を近づけた。だが、その視線は冷酷にロニーの反応をさぐっていた。
「……子供らしく泣けば大人が許すと思っているのか。私は悪魔の奸計には騙されん。これ以上、私の手をわずらわすな。寛大さにも限度というものがあるのだぞ。どうしても悪魔の手先であると白状しないなら、一つずつ顔のパーツをえぐっていくとしよう。悪魔がどこかにひそみ、おまえたちに指令を出しているかもしれんからな」
マシュウの脅しがすべて終わらないうちに、テディ―は泡をふいて痙攣しだした。
「テディ―!?」
愕然とするロニーの目の前で、マシュウは困ったというそぶりで、手にした針をためつすがめつ眺めると、わざとらしくため息をつき振り向いた。
「……ジョオオオン。困ったヤツめ。これは試しの針ではなく、処刑用の毒針だぞ。このままでは呼吸が止まって死んでしまう。解毒剤は拷問室にしか置いていない。さて、どうしたものか」
「やめてください!! テディ―を助けてください!! 白状します!! なんでも言いますから!!」
ロニーが悲鳴をあげた。
余裕が消し飛び、金切り声をあげていた。
マシュウが本気でテディ―を殺す気だと悟ったのだ。
マシュウに屈するしか、テディ―を救う道はなかった。
いくつもの拷問に耐え抜いたロニーの意志は折れた。
今はあわれな怯えた子供の瞳をしていた。
自分一人ならどんな責め苦にも耐える人間も、愛する人を目の前で傷つけられることには耐えられない。
マシュウはそれをよく知っていた。
ロニーの屈服を確認し、マシュウは満足げにうなずいた。
「……じつに従順な目だ。神もお喜びになるだろう。ジョオオン。ナイフはやめだ。かわりに友好の手を差し出そうではないか。……さて、ロニー君。私も鬼ではない。君は悪魔の誘惑をはねのけ、協力を申し出た。じつに喜ばしい。その勇気に免じ、君のおねえさんと、この双子くんは特別に見逃してやろう。そのかわり、君を見こんで頼みたいことがある……」
マシュウは取引をもちかける悪魔のように、友好的な物腰で、ずいっとロニーに顔を近づけた。ロニーは、人間を丸のみにできる大蛇にのぞきこまれている気がした。
「この街には、巨悪がひそんでいる。私がひそかに調査したところによると、町長や大店の商店主など、名士の皮をかぶった悪魔の手先が大勢いるのだ」
ロニーは目をぱちくりさせた。
マシュウがなにを言っているかわからない。
町長は率先して貧民への慈善活動を頻繁におこなうし、悪魔崇拝がこの街にはびこるなど聞いたことがない。唖然としているロニーにかまわず、マシュウは滔々と語る。
「奴らは指導する立場を利用し、より多くの無知な羊たちを悪の道にひきずりこもうとしている。とうてい許せることではない。……つまり、ロニー君には、奴らが魔女の眷属であると告発してもらいたいのだ。多くの無辜の民を救うために。君はヒーローになるのだ」
ロニーはまっさおになった。
マシュウは、街の名士たちを悪魔崇拝者にでっちあげる手伝いをしろと迫っているのだ。
できるわけがない。
異端審問所に引っぱられるとどうなるか、今まさに自分が身をもって体感している。
街のために尽くしてきた名士達が、理不尽に破滅に追いやられる。
魔女と認定されれば、死刑になり、財産は異端審問官に没収される。
家族は、愛する人を奪われ路頭に迷う。
そしてロニーは永遠にこの街の住人から呪われるだろう。
「……なあに、悪魔崇拝者どものリストはこちらで作成してある。君はただそれを読みあげるだけでいい。じつに簡単なお仕事だ。さあ、どうする? 君がわずか数名の名前を口にするだけで、おねえさんと双子くんは助かるぞ。迷うことはあるまい。断るなら、異端審問所の総力をあげ、君たち姉弟に地獄をみせてやろう」
そう言うとマシュウは、ロニーが味わった拷問など比較にならないおそろしい拷問方法を次々に口にした。ロニーは震えあがった。それは罪人が「頼むから楽に殺してくれ。なんでも話すから」と絶叫する代物だった。
「……とりあえず急がないと双子くんは死ぬな。よおおおく考えたまえ。人間はすべてを守ることはできない。君がほんとうに守りたいものは誰かね?」
痙攣するテディ―の首を、マシュウは片手で鷲掴みにした。
軽々とつりさげ、見せつけるように空中でぶらぶらと振る。
「ほぉらほら。ためらっている時間はないぞ。家族を守るため我が身を犠牲にしようとしたテディ―君を助けるか。顔もろくに知らない連中に義理立てし、テディ―君を見捨てるか。選べるのは君だけだ。男らしくばしっと決めたまえ」
がたがた震えて返答できないロニーを見て、マシュウは笑った。
「テディ―君は具合が少し悪いようだ。私が代弁してあげよう。おにいちゃああん、ぼぉくを助けてよおおお。む、ボーイソプラノは私には少々きついな」
とマシュウは気持ち悪い声色をつかい、腹話術人形に見立てたテディ―を乱暴に揺らした。
テディ―の顔色がチアノーゼで紫色にそまっていく。
マシュウが笑う。
「おや、テディ―くん、お化粧直しかね」
「テディ―……!!」
ロニーは声をあげて泣きだした。
絶望の縁に立たされた人間は正常な判断力を失う。
肉親を見捨てることもできない。
そこにもし希望めいたものが吊り下げられると、咄嗟にそれにすがろうとする。
マシュウはそれをよく理解していた。
「……ぼくが言うとおりにすれば、ほんとうにロナねえとテディ―は助けてくれますか」
ロニーは悪魔の誘いにのってしまった。
マシュウは満面の笑みを浮かべた。
「おおっ!! もちろんだとも!! よく決意してくれた!! では、さっそく調書を取らねばな」
ロニーはうなだれ、うなずいた。
ぽたぽたと涙が膝におちる。
ロニーはもう自分が生きて助かることはあきらめた。
マシュウの残酷な性格はわかっている。
これから自分はさっきマシュウが脅しで口にした拷問にかけられるだろう。
〝魔女や眷属は常に悪魔のささやきを受け、我らをたぶらかそうとする。それに対抗し、真実を引き出す手段は拷問だけだ。そして、拷問でひきだした自白は、もっときつい拷問にかけても同じ自白をするかどうかで、真偽を見極めることができる〟
異端審問所の地下でロニーが聞いた言葉だ。
もし奇跡的に拷問から生きて帰れても、街の住人がロニーを八つ裂きにするだろう。
それでも姉と弟だけは救いたかった。
ロニーは死を覚悟していた。
協力すれば情状酌量するというマシュウの言葉を、額面通り受け取るほど愚かでもなかった。
だが、マシュウの悪辣さは、ロニーの予想をはるかに上回るものだった。
ロニーが命をかけた約束を、マシュウはひとかけらも守る気がなかったのだ。
どんな協力的になろうと、ロニーもテディ―も最初から殺す方針だった。
〝「死」はすべての約束を反故にできる免罪符である。死人は文句を言わないから、すべて殺してしまえばなにもかもうまくいく〟
それがマシュウの呪われた人生哲学だった。
その心には、ロニーの悲しい自己犠牲も響かない。
人々を無実の罪でおとしいれる罪悪感も、まったくない。
神を口にしながら、マシュウの心に神はいない。
なにかをおそれる敬虔さが欠如しているのだ。
その心には自分しかいない。
狂信者よりももっと性質が悪い。
もっとも自分がすべてという考えだけでは、精神が未熟な幼児と変わらない。
ただの群れの不適応者だ。
成り損ないで、まともに群れに入れずはじかれるだけだ。
欠陥品が淘汰されるのは自然の摂理だ。
だが、もし、そいつが、群れを好きにあやつれるほど、人並みはずれた存在ならば。
そして、そこを餌場とするのなら。
そいつは、淘汰どころか、人間社会という群れを自由に食い荒らす、おそろしく危険な怪物となる。
アリに擬態し、群れにまぎれ、アリを捕食するクモがいる。
マシュウとはそういう存在だ。
他者への憐れみをもたないマシュウにとり、魔女狩りは、街すべてを狩場にできる、炎と血と疑心暗鬼の狂気にみちた心躍るゲームだ。しかも魔女や眷属として死刑にすれば、その人間の財産をすべて没収することができるボーナスつきだ。
マシュウにとっては趣味と実益を兼ねた最高の娯楽なのだった。
「……魔女は拷問にかけるだけで次々に増やせる。しかも育てる手間もなく、こちらは根こそぎ奪うだけでいい。これほど優秀な収穫物はないな。……おい、いるな?」
ロニーとテディ―を両肩にかついで運ぶジョンの後ろを、マシュウは少し離れて歩きながら、低く抑えた声で呼びかけた。
「……はっ、ここに」
建物の物陰から応える声がいくつかあった。マシュウの配下のものだ。
「あさっての夜、この貧民街を焼き払え。姿は見られないようにしてな。町長一派の報復と流言すれば、ここの連中は本気にし、すぐに暴徒と化すはずだ。私もそれまでに仕込みを終わらせておく。この街をまっぷたつにするぞ」
邪悪な命令をくだしたあと、マシュウはすっと目を細めた。
「互いを思いやり、一致団結した群れは強い。魔女狩りなど歯牙にもかけてもらえんだろう。だがな、ひとたび対立し、不安と疑心暗鬼がうずまけば、群れは、互いを傷つけあう地獄に変わるのだ。我々としては大輪の魔女狩りの花を咲かせるため、勤勉に下地づくりに励まねばな。……おお、こんなところにいたか。さて、最後の仕込みといこうか」
マシュウは足を止め、泥酔して地面に座り込んでいる男を見おろした。
背中を塀にあずけ、焦点のあわない目をし、涎をたらし、呂律のまわらない独り言を呟いている。すえたアルコール臭がした。周囲には酒瓶が転がっている。
「はじめまして。あなたがロナちゃん、ロニーくん、テディ―くんの御尊父ですな。いやあ、立派なお子さんたちをお持ちでうらやましい」
マシュウがにこやかに話しかけると、ロナの父親は酔眼で睨みつけ、指をつきつけて喚いた。
そのみぞおちにマシュウのブーツの爪先が突き刺さった。
「……おい、身の程を知れ。糞尿製造機ごときが、この私を指さすな」
たまらず身を折ってげえげえと戻すロナの父親の背中を、マシュウは笑顔のまま踏み潰した。ロナの父親の顔が自らの吐瀉物に押しつけられる。
「おっと失礼。反吐も製造できたか。このまま死ぬか? おお、この反吐は酒しかないではないか。大好きな酒の海で溺死する……クズにしては最高の末路だろう? 少々臭いが鼻につくが」
悶絶するロナの父親にマシュウは笑いかける。
おそろしい悪魔の笑顔をしていた。
「だが、ありがたく思いたまえ。そんな日陰ものの君に朗報だ。子供たちの命の綱を特別に握らせてやる。嬉しいだろう? おまえにはすぎた見せ場だ。これはゲームだ。おまえが家族愛とやらに目覚めるなら、子供たちは無条件で助けてやろう。心躍る結末を期待しているよ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夜風が吹きだした。
だが、高級住宅地にある屋敷の中はあたたかかった。
隙間だらけのロナの家とは大違いだ。
「うん、綺麗な字だね」
「……ひゃいっ!?」
文字を書いているところを、ヴェンデルの紅い瞳にひょいとのぞきこまれ、ロナは奇妙な声をだし、それに気づいてまっかになった。
「恥ずかしいです。貴族のヴェンデルさまに、こんなもの……」
視線と変な声をたてたことを強く意識し、ばっと上半身全体で書面を覆い隠すようにした。
「どうです。ロナちゃんはたいした達筆でしょう」
我がことのようにマリエルが胸をはり、ヴェンデルは同意してうなずいた。
「たしかに」
「いえ、ほんとに、もう、なんか、ごめんなさい」
なかばパニックになり、わけがわからなくなったロナは謝りだし、顔まで机に突っ伏した。
ヴェンデルはほほえみ、近づくと軽くロナの頭をなでた。
「隠すことなんてないのに。字は人をあらわすっていうけど、本当だね。まっすぐで優しいロナにそっくりだ」
まっかになった顔を見られまいと突っ伏したのに、そんなことをされたからたまらない。
ひぃやあああっと声が漏れそうになるのを、ロナは両手で口をおさえて必死にくいとめた。のぼせて失神寸前だ。
ヴェンデルの「綺麗な字だね」と「字は人をあらわす」という声が、ロナの頭のなかでリフレインした。
もしかして、遠回しに私のこと、綺麗だって、言ってくれてるのかな?
ううん、私みたいな人間が、そんなうぬぼれ恥かしすぎる。
でも、もしかしたら……!! だけど……!!
高揚して胸が高鳴り、自己嫌悪でおちこみ、また高揚を繰り返す。
鼓動が指先までじんじんと痺れさせた。
ロナは戸惑い、切なくなり、情緒不安定な自分を恥じた。
ロナの自覚しない初恋の相手として、自分の魅力に無頓着なこの幼い貴公子はあまりに手強すぎる相手だった。
感情に圧し潰され、黙りこんでしまったロナに、ヴェンデルがはっと手を止める。
「ごめん。ロナのブルネットの髪がきれいだから、つい触ってしまって。不快だったよね」
「不快なわけないです!! むしろご褒美です!! ずっと触っていてもらいたいくらいです!!」
落ちこんだヴェンデルに、ロナは恥ずかしさも忘れ、がばっと身を起こして叫んだ。
本人が何を言っているかよくわかっていない。
とにかくヴェンデルを傷つけたくない一心だった。
その剣幕におされ、ヴェンデルはたじたじになりながら、ほほえんだ。
「嫌われなくてよかった。そうか、ロナは髪の毛をなでられるのが好きなんだね。櫛でとかしたほうがいいかな? それとも手のままのほうがいい?」
「……うぅ、そ、そのまま手で撫でてください……」
ヴェンデルに見つめられ、引っ込みがつかなくなったロナは、ゆでだこのように全身を染め、身をまかせるしかなくなった。
その様子を横目で見ていた白髭ブライアンが声をひそめ、隣のマリエルに言った。
「な、なんか見てるとむず痒いのう。わしも齢かのう。若い頃はあんなんだったんじゃろか」
「安心しな。あれは若い頃に見ても十分むず痒いよ。おたくの王子さまは、うさぎでも愛でる感覚でロナちゃんを撫でて、ロナちゃんは恋心を自覚できず、王子さまの一挙手一投足に一喜一憂ときた。前途多難だよ。まったく……」
マリエルはため息をつき、苦笑した。
「でも、ロナちゃんに思ったより色々なメイドの適性があったのは嬉しい誤算だったよ。きっちり仕込めば、少しはあの若様に近いところに勤められるだろうさ。スカラリーメイドなんかになったら、それこそ若様の顔なんか滅多に拝めなくなるからね。それは……一途なあの娘にゃつらすぎるだろうさ」
スカラリーメイドは最下層のメイドだ。
膨大な食器の洗い物に明け暮れ、使用人達の雑務をおしつけられる過酷な仕事になる。
ヴェンデルのところでメイドとして働くにあたり、ロナになにができるか把握するため、いろいろとマリエルは試してみた。得意なものを伸ばし、できるだけ有利な立場にしてあげたい親心だ。一口にメイドといってもいろいろな役割があり、待遇にかなりの差がある。結果は最良だった。内心はらはらしながら見守っていたマリエルが驚くほどだった。
「……よし、以上で試験は終わりだよ。おつかれ、ロナちゃん」
立ち上がり、緊張した面持ちで評価を待つロナに、マリエルはにっこりした。
「文句なしの合格だよ。刺繍もでき、読み書きもできる。センスも悪くない。ちょっとした拾い物だよ。本当なら奥様お嬢さまおつきのレディースメイドあたりがふさわしいけど、あいにく若様は男だしねえ。だから、いっそそこの三人の爺さんたちの世話係を兼ねたハウスメイドあたりがいいと思う。ロナちゃんは料理もできるし。枯れた爺どもと小っちゃなロナちゃんの組み合わせなら、変な邪推もされないだろうさ」
「おい、マリエル。枯れたとはなんじゃ。わしらは誰かの世話が必要なほど耄碌してはおらんぞ」
茶髭のビルが憤慨したが、マリエルは一喝してはねのけた。
「バカだねっ!!使用人には使用人の上下のしきたりってもんがあるんだよ。上を差し置いて、貴族の若様と親しくしたら、余計な敵をつくっちまうよ。ましてロナちゃんは若すぎる。一応あたしの家で勤務経験ありって紹介状の箔はつけるけど、上級使用人にはなれないだろうさ。でも、爺さんたちの私室でなら、他の使用人の目はない。ロナちゃんも若様と気兼ねなく会話できるだろう?」
「……うむ、わしはマリエルの案に賛成じゃ。男やもめばかりでロナが嫌でなければの。二人とも文句はあるまいな。若殿もそれでよろしいですかな」
「ロナがマリエルに感化されて、深酒に文句つけなけゃ、問題なしじゃ」
「やれやれ、これからは裸で高いびきってわけにはいかんのう。我らが穴ぐらへようこそ、ロナ」
白髭ブライアンを皮切りに、黒髭ボビーと茶髭ビルも賛同した。
ブライアンに同意を求められたヴェンデルもうなずいた。
「よろしくね、ロナ。つらいことや困ったことがあったら、遠慮なくぼくに相談して。じい達の部屋での秘密のお茶会のときにね」
「あの、わしはお茶より酒が……」
と口にした黒髭をマリエルが無言でどついた。
「……は、はい!! みなさん、よろしくお願いします!! 私、がんばります!!」
ロナはぺこりと頭を下げかけ、とりやめた。
スカートの両端をつまみ、すっと身体を屈める優雅な礼にきりかえる。
その野の花のような可憐さに、その場の全員が微笑まずにはいられなかった。
「……だいぶ板についてきたね。それにしても、ロナちゃんはずいぶん色々なことを知ってるね。その齢でたいしたもんだ」
マリエルの感嘆にロナははにかんだ笑みを浮かべた。
「……お母さんがいろいろ教えてくれたんです。ただ礼儀作法だけは、お父さんが、落ちぶれた俺への当てつけか、ってぶつんで、簡単なテーブルマナーしか教えてもらえなかったんですけど……」
ロナの適性は母親が遺してくれたものだった。
ロナの母親は、貴族ほどではなくてもかなり裕福な階級の出身だった。
貧しいなかでも、読み書きの教育と裁縫などできうる限りのことをロナに伝えていたのだ。
「……立派なお母さんだったんだね。貧乏暮らしをしながら、なかなか出来ることじゃない。その教えが今、ロナちゃんを助けてくれるんだ。感謝しな。ロナちゃんは本当に愛されてたんだ」
マリエルはロナの母親に敬意を抱かずにはいられなかった。
つい称賛を口にすると、芯の強いロナが立ったまま、おさな子のように声を出して泣きだした。
「ご、ごめんよ。気に障ったかい」
あわてるマリエルにロナはぶんぶんとかぶりを振った。
「……ちがうんです……!! ……マリエルさんがお母さんを褒めてくれたから、私、うれしいの……!! だって、私の自慢のお母さんだったんだもの……!!」
マリエルはたまらなくなり、しゃくりあげるロナを胸に抱き寄せた。
「もしロナちゃんのお母さんが今の言葉を聞いたら、うれしくって、きっとこうやって抱きしめたろうさ。あたしがロナちゃんと巡り合ったのも、きっと心配したお母さんの導きだよ。役不足だろうけど、これからはあたしをお母さん代わりと思って頼っておくれ」
「マ、マリエルさんみたいに若くて綺麗な人を、お母さんなんて……」
鼻を赤くしてあわてるロナに、マリエルは爆笑した。
「あははっ!! 嬉しいこと言ってくれるね。これでも、ロナちゃんよりもっと大きな子がいても不思議じゃない年齢なんだけどね。でも、まあ、気になるってんなら、おねえさんって呼んでくれてもいいんだよ。ほら、遠慮しないで言ってみな」
どうもロナは人に気を遣いすぎる、
そう案じたマリエルは、涙を拭ってやり、ロナを優しく見つめ、うながした。
「……マ、マリエル……お姉さま……?」
ロナは頬を染め上目遣いでおずおずと口にした。
「……!!」
思わぬ妹属性な破壊力に、マリエルは目をそらした。
「……マリエルお姉さまじゃと!? あのマリエル姐御がお姉さま……!! こ、これは笑える。いい酒の肴になるわい……あだあっ!?」
ぶほおっと吹き出した黒髭ボビーの額に、マリエルが投げつけた空の花瓶が命中した。
「……ねえ、ロナちゃん、お姉さまはやめときましょう。お姉さんとか、姐さんぐらいのほうが、私も気が楽だし、家族って感じがするわ」
血流コントロールで頬の赤みを誤魔化しているが、マリエルは内心かなり動揺していた。
つき合いの長い黒髭ボビーは、しっかりそれを見抜いて野次をとばした。
「マリエル、『素』になっとるぞ。なあ、ロナ、いいことを教えてやるわい。この姐さんはいつもわしらと出会った頃の伝法な口調で悪ぶっとるがな。じつは今の中身はすっかりおしとやかなんじゃ。酔っ払ったり、動揺したりすると、ぽろっとそれが出てきおる。普通、逆じゃろ。なかなか可愛いとこのある姐さんなんじゃ……あ痛あっ!?」
「う、うるさいよ」
二発目の空花瓶が黒髭をまたも撃沈した。
「気軽に人の頭にぽんぽん物をぶつけおって。ロナが真似たらどうするんじゃい!?」
「がんばります。私、マリエルお姉さんみたいになりたいから」
拳を握りしめ鼻息を荒くするロナに、黒髭は悲鳴をあげた。
「そこはがんばらんでええんじゃ!! マリエル二人を相手にするなど、大軍相手のほうがまだ勝ち目があるわい」
みんなが笑い合い、ロナはその輪のなかに自分がいるしあわせを神に感謝した。
あの暗くつらく絶望しかなかった日々が、まるで嘘のように遠く感じる。
そして強く思う。
弟のロニーとテディ―も早くこのああたかい輪に加わってほしいと。
しかもロナからテディ―の症状を聞いたマリエルは、たぶんその脚は治せる、と言ってくれたのだ。
それを聞いたとき、ロナは喜びのあまり、その場で泣き崩れた。
「……もし、テディ―の脚が治るのなら……私……私、どんなことをしてでも、絶対に恩返しを」
「じゃあ、しあわせにおなり。ロナちゃんの笑顔は、人を気持ちよくする笑顔さ。あたしゃ、それがたくさん見られりゃ満足さ」
照れ隠しで吐き捨てるマリエルに、ロナは心から感謝した。
喜び勇んだロナは、茶髭ビルにつきそわれ、ロニーとテディ―をすぐに自宅に迎えに行った。茶髭がロナの後ろをついてくるだけで、しょっちゅうロナにからんできた貧民街の下卑たちんぴら達は目をそらし、こそこそと姿を消した。どれだけ束になっても勝てない相手と本能で察知したのだ。獅子を見た野良猫たちがあわてて逃げ去ったようだった。
「……失礼な奴らよのう。戦場でもないのに暴れたりせんわい」
不満げな茶髭ビルに、ロナは笑いそうになった。
酔った父親がもし家にいて怒って襲いかかってきたら、と身がすくんでいたロナだが、だんだん怯えていた自分がおかしくなってきた。この頼もしい茶髭のおじいさんにかかれば、父親が百人いてもものの数ではないだろう。自宅にたどりついたときには、ロナの足取りからは、おそれはまったく消えていた。
ロナは息をはずませて叫んだ。
「ロニー!! テディ―!! 迎えにきたよ!! おねえちゃんと一緒に行こう!!」
だが、弟二人の姿は見当たらなかった。
父親もいなかったが、飲んだくれて寝ているか、酒漁りに外に出て不在か、どちらかしかないので、これは不思議はない。
ロナは落胆したが、それほど心配はしていなかった。
テディーにお金を押しつけて、ここからロニーと逃げるよう暗にうながしたのは、ロナ本人だ。二人とも賢いし用心深い。悪い連中に騙されることもないだろう。渡したあのお金があればしばらくは食うに困らないはずだ。
怖いのは街の外に出ていかれ、行方が追えなくることだが、
「ふむ、門番もここ数日は出ていく子供達は見てないと言っておるのう」
すぐに茶髭ビルがかけあい、状況を確認してくれた。
「なに心配はいらんわい。マリエルはこの街に顔がきくからのう。すぐ見つけだしてくれよう。それよりもロナもまだ大怪我から回復したばかりじゃ。メイドは体力勝負になるんじゃから、しっかり身体を休めるがよかろう」
茶髭ビルはそうロナを慰めた。
その言葉通り、マリエルはすぐに街の顔役たちに、ロニー達の行方探しを依頼してくれた。命令は顔役からその下に、さらに末端に向けて広がっていく。それはこの街を覆う情報のネットワークだった。
「情報が下からあがってくるまで、三日とかからないはずさ。それまで辛抱だよ。ロナちゃん」
つい先日まで見ず知らずだった自分のために、マリエル達がここまで骨を折ってくれるのだ。ロナははやる心を抑え、うなずくしかなかった。
……彼らのとった行動はベストに近い。
本来なら、ロニーとテディ―はすぐに保護され、ロナと歓びの再会を果たせたろう。
まさか異端審問官マシュウがひそかにこの街に入りこんでおり、いきなりロニーとテディ―を魔女の眷属として連行したなど、完全に想定の範囲外だった。
……誰もがすべてがうまくいくと信じていたのだ。
今日の夜を迎えるまでは。
あわただしいドアノッカーの音が不吉に響き渡り、黒髭ボビーのひょうきんな言動に笑いさざめいていた全員が凍りついた。
こちらからの誰何を待ちきれず、ドアの向こうでわめく声がした。
それはマリエルがみなまで聞かず、錠をはずし、ドアを開け放つほどの内容だった。
ドアの向こうにいたのは、町長の従者だった。
「……大変だ、マリエルさん!! 町長さんが魔女狩りで、マシュウって異端審問官にしょっぴかれちまった。町の他のお偉方たちも一斉にだ!! みんな殺気だって、とんでもないことになっちまってる!!」
「そんな……!! マシュウのヤツがどうしてこの街に……」
気丈なマリエルが立ちすくむほど衝撃的な知らせだった。
だが、男の後ろで身を寄せ合って怯えている婦人と小さな男の子を見て、マリエルは顔を引き締めた。
「……奥様と坊ちゃま。どうしてお二人がここに?」
町長の正妻と愛妾のマリエルは仲がいい。
表は正妻が、裏はマリエルが仕切ることで、互いにうまくやっているのだ。
戸外にとびだした三老戦士がぐるっと周囲を遠くまで睨む。その目がみるみる鋭くなった。
「庁舎のほうに火の粉と黒煙が見えるのう。それと、貧民街のほうも」
茶髭ビルが呻く。
地面に横顔をつけ、遠くの音に聞き耳をたてていた黒髭ボビーが、厳しい顔をあげる。
「大勢の人間が移動しているようじゃ」
「……暴動じゃな」
白髭ブライアンの言葉に、従者はあわててうなずいた。
「そうなんだ!! 町長さんが連れていかれた直後に、貧民街の連中が雪崩れ込んできたんだ。町長の命令で、この街の汚点の貧民街が焼き討ちされたって大騒ぎして……!! 話なんか聞きゃしない。奥様と坊ちゃまだけ救って、命からがら、ここまで逃げてくるのがやっとだった……」
「うちの人はたとえ殺されても、そんな命令はしません」
蒼白でありながら町長の正妻は毅然として答えた。
マリエルはうなずいた。
「わかってますよ。あの人は女にはだらしない以外は誠実な方だ。貧しいからって誰かを差別するような人じゃない。マシュウのヤツ、おかみさんのときみたいにはさせないよ。これ以上、あたしの大切な人達を殺させてなるもんか」
マリエルは、異端審問所が廃教会に設けられ、町長達がそこに囚われていると聞いたあと、町長の正妻と息子にほほえんだ。
「奥様、安心してくださいな。こう見えても、あたしは忍びの心得があるんです。すぐに町長さん達を解放してきます」
元〈治外の民〉のマリエルにとっては、牢屋に忍び込み、錠をはずすなど朝飯前だ。
「お願いします。私、妻なのにマリエルさんを頼るしかなくて……」
「なにをおっしゃいます。奥様はいつも平時に旦那さまを支えておられるんです。愛妾のあたしにもよくしてくださる、最高の奥様です。非常時くらい、あたしにまかせてください」
おちこむ正妻の手をとり、マリエルは励ました。
「ボクもお父さんを助けにいきたい」
町長の幼い息子が意を決したように、小さな身体で前に進み出た。
三老戦士は破顔した。
「……いい心掛けじゃ。じゃがのう。ここはわしらに譲ってくれんか」
「大人になってもその気持ち忘れるでないぞ」
不満げな息子にマリエルが笑いかけた。
「坊ちゃん。この爺さまたちは、こう見えてもハイドランジア最強の王家親衛隊を教える先生たちなんだ。荒事も滅法得意だ。とっても強いからまかせておいて安心だよ」
それを聞いて、町長の息子は目を輝かし、正妻と従者の顔色はぱあっと明るくなった。
「……さあさ、お疲れでしょう。まずは部屋でくつろいでくださいな。ロナちゃん、皆様を応接間に案内してもらえるかい」
王家親衛隊の名は絶大であり、皆が素直にマリエルの言葉に従った。
案内しながらロナも驚きを隠せなかった。
とんでもない人達のお世話をメイドとしてすることになった。
この国において平民から騎士にあがれる狭き登竜門、ハイドランジア王家親衛隊は、男の子たちが一度は夢見る憧れの職業である。大陸の四大国に武力で劣るとされるハイドランジアであるが、王家親衛隊だけは例外であり、一目おかれる存在だ。その威名はハイドランジアの誇りなのである。
ロナの弟テディ―も足を悪くする前は、「いつかオレも王家親衛隊に入って、姉ちゃんたちを楽にさせてやるんだ」というのが口癖だった。
道理でちんぴら達が茶髭ビルに道を開けるわけだ。
三老戦士達は、ロナの弟達がこっちに来たら稽古をつけてやろう、と軽く言っていたが、テディ―が聞いたらどんなに喜ぶことだろう。
希望に胸をふくらませていたロナだが、用意したお茶を、応接間にもっていこうとしたとき、中から聞こえてきた町長の従者の言葉に、全身が凍りつくことになった。
「……まったく、町長さんたちを悪魔の手先だって告発した、ロニーって貧民のガキ、とんでもない奴だ。おかげで町は大混乱だ。川沿いの首括り台に吊るしてやるって、みんな騒いでたけど、火刑にでもしてやらにゃ、気が済みませんよ」
震えるロナの手からティーセットが床に落下し、悲鳴のような音をたてて割れ砕け、お湯をまき散らした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その頃、マリエルは三老戦士と言い合いをしていた。
「異端審問所はわしらだけで行く。マリエルはここに残って、町長の家族を守れ」
と白髭ブライアンが言いだしたからだ。
「おぼえのある外道の気配がするんじゃ」
「ああ、あの胸糞悪いやり口は忘れられんのう」
黒髭ボビーと茶髭ビルも同意する。
なんのことかわからず納得がいかないマリエルに、厳しい顔で白髭ブライアンが語った。
「昔、堕としたい町や砦があると、内側の仲間同士で仲たがいさせ、地獄をつくりだすのを得意にしていた外道がおったんじゃ。そいつは異端審問官ではなく、傭兵だったが。女子供ごと街を焼き払う正真正銘のくそ野郎じゃった。わしらの知り合いも巻きこまれたよ」
白髭ブライアンの目が憤怒に燃えた。
「わしらの戦士としての勘じゃが、この件、奴がからんでいる気がする。ならば、マリエルの手に負える相手ではない。忍び込むなど生易しいことをせず、異端審問所を建物ごと叩き潰す覚悟でないと足元をすくわれるぞ」
呆然とするマリエルに説明しながら、白髭ブライアンは戦闘用の籠手を腕にはめ、鎖帷子を編み込んだ外套を引っ掴んで身にまとった。黒髭ボビーも茶髭ビルもそれに続く。
「もしもマシュウとやらが、あいつだとしたら、人間の狡猾さを嫌というほど煮詰めた外道じゃ。有無を言わせぬ力尽くで、すべてを粉砕するしか対抗手段はない」
ぎらりと愛用の厚手の鎌を光らせ、懐にしまいこむ三老戦士に、マリエルも引き下がるをえなかった。殺気をまとった三老戦士は、マリエルでも止めることはできない。
「わ、わかったよ。ロナちゃん!! 爺さん達の支度を手伝っておくれ!!」
マリエルがあわてて奥に呼びかけたが、ロナの返事はない。
かわりにおずおずと町長の従者が顔を出した。
「あの、さっきのロナって女の子なら、血相変えて裏口から飛び出して行きましたけど。ひょっとして、俺がしてた話が原因かも……」
従者から詳細な話を聞き、マリエルは青ざめ、三老戦士は唸った。
四人ともロナから頼まれた弟達のことはずっと気にかけていた。
まさかこんな不幸な形で行方を知ることになるとは。
あまりのことに言葉を失っていた。
静かに口を開いたのは、それまで沈黙していたヴェンデルだった。
「……ぼくがロナを救いに行く。爺達はそのまま異端審問所から町長達を助けだしてくれ」
冷静な口調とは裏腹にその紅い瞳は強く耀いていた。
「ロナは悲しすぎる人生をおくってきた。だから、ぼくがロナの涙を止める。優しいロナにふさわしいのは、涙ではなく笑顔だから」
茶髭ビルと黒髭ボビーは、ヴェンデルの決意に耳を傾け、誇らしげに破顔した。歴戦の二人は尊敬する大殿と同じ血筋をヴェンデルに見た。
「さすが若殿。戦士の戦う理由をよく知っておられる。では、ロナは若殿におまかせするとしようかの」
「女を救うための初陣とは。まっことリンガードの後継ぎにふさわしい」
仰天したのはマリエルだった。
ロナの行先は、おそらく暴徒であふれかえっているであろう首吊り台だ。
守るべきあるじを、それもこんな華奢な少年を、そんな修羅場に一人でおくりこむなど正気の沙汰ではない。
「二人とも馬鹿なことを!! ブライアン、あんたなら冷静だろ。なにか言ってやりなよ!!」
だが、マリエルの期待に反し、白髭ブライアンは逆にマリエルを一喝した。
「黙れ、マリエル!! これは若殿の男の戦いだ。いかにおまえだろうと口出しは許さん!!」
その大音声はびりびりと夜を震わせた。
「女に譲れない戦いがあるように、男にも譲れない戦いがあるのだ。今がまさにそのときよ。ならば!!
我ら三人のおいぼれ、一命を賭してでも、あるじの願いをかなえるべし」
黒髭ボビーと茶髭ビルがうなずいた。
長くつらい戦いの夜がはじまろうとしていた。
お読みいただきありがとうございます!!
すみません。文字数がまたも……なぜだ?
次で過去編は終わらせます故……。
コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」の作者、鳥生ちのり様、先月末、手術で入院されました。
なので次の号の電撃大王様掲載分(6月3日に無料公開の8話でなく、9話がということです)は休載となります。鳥生様のツイッターにぜひ励ましや応援を。https://twitter.com/12_tori
悪口はなまくらのほうに。
ただし、おとしめるだけの平凡な悪口はつまらないです。
言われたほうが心ときめくほどの、才能を感じさせる悪口でお願いします。
手ぐすね引いてお待ちしております。




