思い出のメヌエット。幸福の記憶に、ロナは自分を責め、慟哭するのです。
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コミックウォーカ様のフロースコミックや、ニコニコ静画様などで、無料公開もやってます!!
第5話、その②が現在無料公開中です。
セラフィ登場、あとweb版では出てこなかった赤ちゃんアリサも。
もちろん電撃大王さまサイトでも!!
公開期間限定の回もありますので、お見逃し無いよう!!
そして第4話のお母様の雄姿(笑)を見逃しちゃったという方。
pixivコミックのほうでは第4話の②がまだ見られたりします。(2月19日現在)
あと今回John Barleycornさまよりアリサと、七妖衆のブラッドの兄さんのFAいただいております。
迫力です!! ありがとうございます!!
と【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻、KADOKAWAエンターブレイン様より発売中!!】
とさりげぶっこみしつつ、いちばん大事な
「ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!」
※このFAはアリサとブラッド兄です。
迫力……!!
今回の本編に二人は出てきません。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……いやあああっ!! 見ないで!! 見ないでください!!」
半裸のロナが悲鳴が響き渡った。
ヴェンデルは呆然と立ち尽くした。
その手には所在なげに赤い薔薇の花束が揺れている。
白い肌とからみつくブルネットの髪が、目にとびこんできた。
その手脚と肩は女性というには細すぎ、まるで枝のようだ。
浮いたあばらと背骨が痛々しい。
駆け込みがしらの不幸な事故だった。
「……若様、お待ちくだされ。今、ロナは湯浴み中で……」
あわてて追いすがってきた茶髭ビルが、時すでに遅しと知り、あちゃあと顔を片手で覆い、天を仰いだ。
朝市から帰って来たヴェンデルは、ちょうどロナが目覚めたとビルから聞いて喜んだ。
ビルが背後で叫ぶ声の内容も耳に入らず、ロナの元に急いだ。
ヴェンデルは、一晩中昏睡していたロナに付き添っていた。
少し仮眠を取るようにと、とうとうマリエルに諭され、追い出しをくらった。
だが、心配で眠りもつけなかった。
せめてロナの枕元を華やかにと思い立ち、市場で薔薇を見繕ってきた。
そして、病室で目覚めた患者を見舞う感覚で入室して、この状態に陥ったのだった。
ここはマリエルの寝室だ。
そこに小さなバスタブを持ちこみ、ロナはマリエルに髪と身体を洗ってもらっていた。
プライベートな寝室で身だしなみの一つである湯浴みをするのは、この国ではあたりまえのことだ。
だが、ヴェンデルの暮らすヴィルヘルム領の別宅には、珍しい独立した浴室が備わっていた。
そこで育ったヴェンデルは、寝室で入浴という事態に、逆に戸惑い仰天していた。
そのうえ、腰巻のようにタオル一枚を巻いたロナが、どうしてかバスタブから飛び出してきた。
見ないで、と悲鳴をあげながらだ。
そしてバスタブに覆いかぶさった。
タオルが床に落ちて、お尻が丸見えになったが、それも気づかないほどロナは必死だった。
まるで意味がわからず、ヴェンデルは混乱した。
目をそらす礼儀さえ忘れていた。
見かねたマリエルが自分用のバスローブをかけ、ロナの裸身を隠そうとする。
が、ロナはそれすらもバスタブを覆うのに使おうとした。
ついにはロナはバスタブに突っ伏したまま、すすり泣きはじめた。
ヴェンデルは彼女をひどく傷つけてしまったと気づき、狼狽した。
「……ごめん。後でちゃんと謝るから。本当にごめんね。これ、よかったら」
薔薇の花束を隣のサイドテーブルに置き、部屋を飛び出す。
月並みな言い回しはそのへんの男の子と変わらず、所作も華麗さに欠けていた。
入り口の角に小指を思いきりぶつける。
冷静なヴェンデルが滅多に見せない醜態だった。どれだけ動揺したか窺えた。
「しもうたのう。はっきり伝えなんだわしのせいじゃ。若様を悪う思ってくれるなよ。一晩じゅうロナに付き添っておったんじゃ。目覚めた喜びもひとしおだったろうて」
茶髭ビルがため息をついてフォローを入れ、ヴェンデルの後を追った。
ばたんと後ろ手で扉を閉める。
「……しょうがない男どもだね。いきなり寝室に踏み込んでくるなんて。まあ、落ち度はあっちにあるけど、ロナちゃんを助けたのは若様だ。なんとか許してあげてよ。裸を見られてショックなのはわかるけどさ……。あれは相当反省してたしね」
ロナの震える肩をさすりながら、マリエルは語りかけた。
ロナはばっと泣きべそ顔をあげた。
「……違います!! 私……この汚れたお湯を見られるのが恥ずかしかったの!! 不潔な女だって思われたくなかっただけなの……!! どうしよう……そんなつもりなんてなかったのに」
ロナはこの世の終わりのように悲嘆にくれていた。
マリエルは合点がいった。
マリエルは空のバスタブにロナを座らせていた。
片手持ちの水差しでお湯をかけながら、丹念にロナを洗った。
ロナは貧しい暮らしをしていたわりには、虱もノミもいなかった。
本人の綺麗好きが窺えた。
とはいえ、さすがに洗面もままならぬ生活のうえ、肌と髪が血と泥にまみれていたので、シャボン混じりの湯は、瞬く間に錆とも垢ともつかない色に染まった。
バスタブの中、膝までたまったその汚水を、ロナはヴェンデルにだけは見られたくなかったのだ。
「……そっか。だから、身体じゃなく、バスタブを隠したのか。ロナちゃんは女の子だもんね。気が回らなくてごめんね」
マリエルは目を細めた。
少女らしい含羞を好ましく思った。
本当にすれた子はそんなことを思わない。
この娘は元々は貧民ではないのかもしれない。
品の良さがところどころに顔を出す。
「……私、あの方に謝ってこなきゃ……!!」
ロナは決心し、唇を噛みしめ、バスローブ一枚で飛び出していこうとする。
「待ちなさい。どうもあんたは鉄砲玉の気があるね。どうせなら、うんと綺麗にして謝りにいこう」
マリエルはロナの手をひいて引き留めた。
自分がロナに肩入れしつつあるのを感じた。
「……私……やっぱり汚いですか……」
ロナは泣きそうな顔で足をとめ、うつむいた。
カレイドスコープのように目まぐるしく変わる表情は、人の心を惹きつけるものがあった。
ひたむきなのに脆く、つい放っておけなくなるのだ。
〝……どうにもまいったね。この子は無自覚な年上の同性たらしだよ〟
マリエルは心の中で苦笑し、濡れるのもかまわずロナを抱きすくめた。
「わ、私、びしょびしょだから……」
もがく細い身体が折れそうだ。ろくに食べてられていないのだろう。
憐憫の思いがこみあげる。
「ね、汚い子にこんなことしやしないよ。見ず知らずのあたしだけど、ここはひとつ信用して身をまかせてくれないかい。悪いようにはしないからさ」
マリエルは強引に押し切ることにした。
ロナのように感受性豊かな娘は、ともすれば他人に遠慮しすぎる。
ときには有無を言わせない親切の押し売りぐらいがいいと経験上わかっていたからだ。
マリエルは勇ましく腕まくりをすると、ロナの洗浄作業を再開した。
〝治外の民〟出身のマリエルはたおやかな外見に似合わず、おそろしく力が強い。お湯のたっぷり入った水差しを軽々と片手で支え、徹底的にロナの身体を磨き上げた。
貧乏だったロナにとり、身体を綺麗にするためにこんなにふんだんに湯を使うというのは、信じられない贅沢だ。いい匂いのする石鹸までもついている。
しかも薪の炎が明々とした暖炉の前だ。
後ろにあるマリエルのベッドは天蓋つきだ。
花嫁のヴェールのようにふわりとレースが垂らされている。
この寝室の調度品の煌びやかさだけで目がくらみそうだ。
夢の中を漂っているようでどうにも腰が落ち着かない。
「あ、あの……」
ロナが遠慮しようとしても、マリエルは微笑で押し切った。
ロナはついに抵抗をあきらめ、マリエルに身をまかせた。
密着しているのでマリエルのやわらかい胸があたる。いい匂いがする。
ロナは鶏がらのような自分の身体を強く意識してしまった。
今さらながらヴェンデルに貧相な肢体をさらしてしまったと気づく。
羞恥というより、情けなく悲しくなった。
「……こんなみっともない裸……あの方に、見られたんだ……。きっと気持ち悪いって思われた」
落ち込むロナをマリエルは励ました。
「安心おし。ロナちゃんは美人だよ。まだ自分の磨き方を知らないだけ。ほら、綺麗なブルネットの髪してるじゃないか。あとで櫛をかけたらもっと輝くよ。さあ、奥の手の仕上げといこうか」
マリエルに触れられた箇所はぽかぽかと温かくなる。
緊張した気持ちがほぐれていく。
効果もめざましい。
血色の悪かった頬が桃色になっていくのが自分でもわかった。
「驚いたかい。血液コントロールってやつさ。こいつがあると無しじゃ、回復の度合いも天と地ほども違う。だけど大っぴらになったら異端扱いされちまうからね。内緒にしといておくれよ」
マリエルはウインクした。
ロナに医療のことはよくわからない。
けれど、自分が死にかけるほど重傷だったのはよくわかっている。
だからこそ弟達の足手まといになるまいと自ら死を選ぼうとした。
なのに今、痛みは嘘のように去っていた。
重い泥を拭いとったように身体が軽い。
春を売る以前に戻ったかのようだ。
聞けば、あれからまだ一日しか経っていないという。
宮廷医師でもこんな奇跡は起こせないだろう。
マリエルの医術にどれほど価値があるのか考え、ロナはだんだんおそろしくなってきた。
「……あの、マリエルさん……どうして私なんかのために、こんなによくしてくださるんですか。私、こんなすごい治療していただいても払えるお金なんかないんです」
ロナはおそるおそる切り出した。心の中で謝りながら。
マリエルのようないいひとに嘘をつく最低な自分が嫌になる。
だが、それでも最後に春を売って得たお金だけは、弟達に残したい。
どうしても渡すわけにはいかなかった。
マリエルは優しくほほえんだ。
彼女はヴェンデル達からの話と、ロナの人柄、そして血液の流れによる簡易な読心で、おおよその事情をすでに把握していた。
「お金なんかいらないよ。生活には不自由してなくてね。ま、あたしはあの三人の爺さん達には返しきれないほど借りがあるんでね。頼まれたら断れないのさ。そうさね、礼なら、あのヴィルヘルム領の若様に言いな」
「……若様に……」
紅い瞳の優しい笑顔の男の子を思い出し、ロナは胸の高鳴りをおぼえた。
橋の上から身投げしようとしていた自分を命懸けで救ってくれた。
こうして治療の手筈まで。
なのに自分は若様の思いやりを拒絶した。
心配して薔薇の花束まで買ってきてくれたのに。
「……どうして、こんな最低な私なんかを……?」
「……こら。〝私なんか〟も〝最低〟も、年頃の女の子が、自分を表すのに使っていい言葉じゃない。医療費なんかいらないから、それをやめなさい」
「だって、私は本当に……」
「だっても、ヘチマもあるかいね」
マリエルはつんとロナの額を指で突いた。
「あうう……」
「いいかい。男の子が困ってる女の子を救うのに理由なんかいらないんだ。未来の紳士なら当然の心掛けさ。その男意気をありがたく受け取るのは、むしろ女の子の礼儀だよ。だけど、受けた恩は忘れちゃいけない。そして、いつかロナちゃんに出来る範囲で、若様に恩返ししておあげ」
「……恩返しを……」
それまで座りが悪そうに目を泳がせていたロナが、ぴたりと動きを止めた。
突然、硬質な人形と化したようだった。
「……私にできるでしょうか……ううん、恩返し……します。きっと。命に代えても」
一言一言区切るように呟く。
自分に言い聞かせているようでもあった。
その目の光はどこか一点を睨むように思いつめていて、マリエルは不安をおぼえた。
何か得体の知れないものを、小さなロナの中で目覚めさせた気がしたのだ。
「……あの……若様は、なんてお名前なんですか」
だが、すぐにロナが赤面し、何度も俯き顔を上げを繰り返し、ようやく意を決して質問してきたので、マリエルはその違和感を忘れた。名前を尋ねるだけで、崖から飛び降りるような悲愴な顔をしているロナの初々しさに、ほほえましさを抱いた。
あのときもっと注意していればと後悔したのはずっと後のこと。
ロナの我が身を顧みないほど一途な気持ちに気づいてからだった。
「……あの方は、ヴィルヘルム侯爵領のヴェンデル様だよ」
「……ヴェンデル様……」
ロナは噛みしめるかのように、何度もヴェンデル様と口の中で繰り返していた。
「ヴェンデル様もお気の毒な御子でね。名門リンガード家の跡取り……のはずだったんだけどね。あの紅い瞳と赤髪だろ。うかれて欲に目がくらんだバカな両親がやらかしてさ。うちの子こそ正統な王家の後継者って主張して、王家の怒りを買っちまったんだよ」
マリエルはため息をついた。
少し難しい話なので続けるか躊躇ったが、ロナに貧民の子にありがちの落ち着きの無さはない。
逆にじっと耳を傾けている。
ヴェンデルのことを一言一句も聞き逃すまいと集中するあまり、マリエルに成されるがままの着せ替え人形と化していた。まるで聖典に聞き惚れる熱心な信者だ。
いろいろ都合がいいので、マリエルは説明をしながら、洗浄作業を並行することに決めた。
……かつて歴史上唯一この大陸を統一した「真祖帝」は、赤髪、紅い瞳の異相であった。
だが、その特徴をそなえた者は、ハイドランジア王家にも現れたことがない。
再来を待望するあまり「真祖帝」の血族の流れをくむ中に、その特徴を受け継いだ者があれば、王位継承権を優先させるという古い言い伝えが生まれた。
だから、ヴェンデルが生まれたとき、欲深の父母は躍り上がって喜んだ。
次のハイドランジア国王はヴェンデルだと声高に主張したのだ。
だが、現代は、言い伝えが絶対だった神話時代ではない。
貴族院議会まで存在する今のハイドランジアで、そんな主張が通るはずもない。
まともな連中は誰も取り合わなかった。
そんなものを拠り所に本気で国政を乗っ取ろうとすれば、王家と議会に叩き潰されるのは明らかだったからだ。
夫妻の主張に寄って来たのはあやしい連中ばかりで、騒ぎはあっさりと鎮圧された。
もともと鼻つまみ者だったこの夫妻、ヴィルヘルム侯爵夫妻、のちのバイゴッド侯爵夫妻は、危険分子として貴族議会から追放された。粛正されなかったのは、ヴェンデルの祖父である前ヴィルヘム領主の功績があまりに偉大だったからだ。
バイゴッド侯爵夫妻は貴族社会の笑い者になった。
せっかく「真祖帝」の相を持つヴェンデルという好カードを手にしたのだから、それを箔付けに使えば、王族か大貴族と婚姻関係を結べたはずだった。なのに、妙な欲をかき、王家からは睨まれ、先祖代々籍を置いた議会からは除名され、、ヴェンデルの祖父にはこっぴどく叱責された。
その散々なさまは、まさに昔話の意地悪爺さん婆さんそのものだった。
プライドをずたずたにされたバイゴッド夫妻は、その鬱憤をこともあろうに何も知らなかった息子のヴェンデルにぶつけた。
ヴェンデルは、それまでの下にも置かぬ扱いから、うってかわって冷遇されるようなった。
本邸を追い出され、別邸に住むようになった。
まだ幼児だったのにだ。
ヴェンデルの祖父と三老戦士の睨みと援助がなければ、もっと悲惨な境遇に陥ったろう。
別邸には最低限にも達しない数の使用人しかいなかった。
あまりの仕打ちに、議会からヴェンデルへの同情論が出たほどだった。
「ただ、今の王様は、真祖帝伝説を毛嫌いしててね。あの王様がいる限り、ヴェンデル様は不遇のままだろうねえ。元凶の両親は、息子のヴェンデル様に冷たくすることで、謀反する気なんてありませんって必死にアピールしてるしね。息子を弾避けに、自分らだけ助かろうって肚さ。ヴェンデル様は後継ぎをはずされるって話もあるくらいさ」
話を聞いてロナは胸がふさがる思いだった。
なんとかしてあげたい。
だけど王様なんて雲の上すぎる話だ。
ヴェンデルはロナを住み込みのメイドとして引き取ると言ってくれた。
弟達ともどもだ。
嬉しい。その恩に報いたい。
だが、メイドとしての仕事をどれだけ覚えても、王様なんてどうしようもない。
もどかしい。
私は、ヴェンデル様のつらい気持ちが誰よりよくわかるのに……。
「……私も父親に売られました」
つい口をついて出たロナの短い告白に、マリエルは睫毛を伏せた。
薄々予想はしていたが、本人の口からだと衝撃が大きかった。
「ヴェンデル様は、ロナちゃんに似たものを感じたのかもしれないね」
そう言うとマリエルは、ぎゅっとロナを抱きしめた。
「つらかったね。嫌な過去を語らせてごめんね。ここにはロナちゃんを傷つける人間はいない。我が家と思ってくつろいでいいんだよ」
「マリエルさん……」
口調と態度こそ違えど、マリエルはどこか亡き母のような雰囲気を感じさせる。
ロナは鼻の奥から懐かしくなり、その豊満な胸に甘えたくなった。
はっとなって気を引き締める。
急に腕の中で身を強張らせたロナに、マリエルはあわてて身を離した。
「ごめん、ごめん。嫌だったよね、こんなオバさんにべたべたされちゃ」
「違います!! イヤなわけないです。私、マリエルさんのことは好きです」
ロナは驚くほど大きな声で否定した。
そのストレートすぎる感情は、不意打ちの楔のようにマリエルの心に深く打ち込まれた。
マリエルが赤面するほどだった。
「だけど、私は汚いから……男の人からお金をもらっていたから」
反対にどんどんロナの声が消え入りそうになる。
マリエルは心底憐れになった。
心の傷がこの知的な娘を不安定にしていると察したのだ。
浮浪者や貧民の子供達は性のモラルに欠けている場合が多い。
貧困の泥の中に教育の光はない。
年上の悪い影響を指針に彼らは育つからだ。
そんな彼らなら自らを商売道具にすることに悩みもしなかったろう。
だが、泥の中でも蓮の花のように気高くあろうとしたであろうロナが、誰よりも早く身を売らざるを得なくなり、心の中で血の涙を流している。人生はどうしてこうも残酷なんだろうか。
「……私なんかに、マリエルさんみたいな上品な人が触れたらいけないんです……。だって、マリエルさんまで汚れちゃう……」
ぶふぉーっとどこかで吹き出す声がし、しんみりした雰囲気を台無しにした。
マリエルは金属製の洗面器を引っ掴むと投擲した。
ブーメランのように鮮やかな軌跡を描き、扉のわずかな隙間から飛び出していく。
かああんっと威勢のいい音と「あ痛っ」という白髭ブライアンの声がした。
心配になり、近くに潜んでこっそり聞き耳を立てていたのだ。
「のぞき見なんて感心しないね!!」
「……のぞいとらんわい。ちっと盗み聞きしとっただけじゃ」
憤慨する白髭ブライアンに、マリエルは怒鳴り返した。
「今は女同士の話の真っ最中だよ!! 戦士の決闘と同じで、ここは女の聖域だ。男は立ち入るんじゃない。呼ばれるまで向こうに行ってな」
「……む、むう……」
白髭ブライアンは扉の向こうで黙りこんだ。立ち去る気配がする。
「今の聞こえたろう!! どうせそのへんにいるんだろ。黒髭もだよ!!」
「……お、おう……」
続いて壁の向こうで何かが渋々というふうに動いた。
隣の部屋で黒髭ボビーが壁に耳をつけ、様子を探っていたのだ。
マリエルは三老戦士の取り扱いを熟知しているのだ。
それからマリエルは、がっとロナの両肩を摑んで語りかけた。
「ロナちゃん、自分を否定するのはおやめ。よくお聞き。あたしは愛妾ていってね。早い話が、特定の男の人に囲ってもらってる娼婦みたいなもんさ。上品なんかと対極だよ。お高い御婦人様には軽蔑される。だけど、あたしは卑屈になんかならない。男の人の快楽だけじゃなく、プライドも満たしてあげてる自負があるからだ」
マリエルのような愛妾は高級娼婦の先にある存在だ。
遊女でいうと超高級客だけを相手にした太夫に近い。
ただ美人なだけではつとまらない。
上流階級の男達を飽きさせない知識と気品が必要だ。
そして太夫と違い、店に所属しておらず、パトロンを持って独立している。
ある種の権力を持ち、ときには政敵同士を結び合わせるほどの人脈と機知をも発揮する。
巨額の援助を男冥利だと思わせほどいい女であること。
それが愛妾になる資格だ。それしかないとも言える。
保障などない。相手の男を幻滅させれば、すべて終わる。
「あたしは市長のケチな愛妾だけどね。中には王様の愛妾になった貧民出身の女性もいたんだ。そうすれば王様を動かせる立場だ。貴族達さえ顎で使えるようになる。純潔だけが女の人生のすべてじゃない。汚れた女だからこそ登れる道だってあるんだ。ましてロナちゃんはこんなに若い。まだいくらでもやり直せるし、いろんな可能性があるんだ。ずっと俯いてちゃ駄目なんだよ」
もちろんマリエルは、華やかだが日陰者の愛妾など勧めるつもりは毛頭なかった。
純潔を失ったことで卑屈になっているロナが気の毒で、少しでも勇気づけたかった。
ヴェンデルに引き取られ、メイドとして生きていくにあたり、ロナに前向きになってほしかっただけだ。
「……王様を動かせる……」
だから、ロナの目に剣呑な光が流れたのを、マリエルは見落とした。
もし、ロナが心に抱いたのが我欲なら、ヴェンデルの愛人や、あるいは贅沢がしたいがゆえに愛妾を望んだのなら、マリエルは即座に見抜いたろう。
しかし、ロナの情念は、忠犬のような愛だった。
狂気でも無私であり、それゆえにマリエルにも読めなかった。
〝……私なんかでも、王様の愛妾になれば、ヴェンデル様の助けになれる……!!〟
正気の沙汰ではない覚悟の鬼火が、ちろちろとロナの芯に灯った。
ロナはヴェンデルのために必要なら、平然と崖から身を躍らせたろう。
それはまさに己を燃やす恋だった。
夢見がちだったかつての無垢な少女は、純粋さを保ったまま、修羅の夢を見るようになった。
マリエルはロナに普通に幸せを掴んでほしかった。
そう説得したつもりだった。
だが、その思いやりは、呪われたかのように意図せぬ効果をもたらしてしまった。
弟達と一緒に幸せになるという目標がなかったら、ロナはすぐに王の愛妾になる方法を探し始めたろう。
それにマリエルは気づかないまま、ロナの気持ちを晴らそうと、腕によりをかけてロナを飾った。
「ほら、出来た。鏡を見てごらん。そんじょそこらのお嬢様には負けやしないよ」
おそるおそる鏡をのぞきこみ、ロナは思わず息をのんだ。
マリエルは嘘を言わなかった。
スカートの花柄の刺繍が、舞う花びらのように脚を彩る。
靴はつくりたての光沢を帯び、きらきらと清潔に光をはじいた。
ちらりとのぞく足の甲の肌まで上品に見える。
ところどころ穴が開き、身なりの良い娘たちの失笑で身をすくめていたこれまでの靴とは大違いだ。
フリルで彩られたエプロン。
そして、ちょうちん袖のブラウスはしみ一つなく、ひたすらに純潔を主張していた。
マリエルはロナにタータンチェックのストールを羽織らせた。
片側に結び目をつくり、反対側の端を通し、整え、ふわりとした羽衣のように仕上げる。
綺麗に編み込まれたブルネットの髪は誇らしげだ。
マリエルが丹念に磨きあげ、血流コントロールの仕上げをほどこされた肌は、新雪の中の花のようだ。
ヴェンデルにもらった薔薇のコサージュが、髪の分け目で輝く。
まるで自分ではないようだ。
生まれながらの令嬢に見えた。
「あたしの子供の頃の服がぴったりでよかったよ。びっくりしたかい。女はね。化粧や服、姿勢、雰囲気、いろんなものを駆使すれば、なりたいものに化ける魔法が使えるんだ。汚れた女が清楚になることだって許されるはずさ」
そしてマリエルはロナの両頬にそっと指先をあて、くいっと吊り上げた。
「……だけど笑ってなくちゃ、魔法は解けちまう。女の笑顔は、自分に幸せを呼びこむだけじゃない。人の心を癒し、勇気づける最高の魔法だよ」
ロナはぎこちなく笑おうとした。
だが、できなかった。
ロナにはつらいことがありすぎた。
「悲しかったことじゃなく、嬉しかった頃を思い出してごらん。今は失っても、それは確かにあったことなんだから。忘れてしまったら可哀そうだよ」
マリエルがそっと手助けする。
ロナは瞼を閉じた。
いつか聞いた母のピアノの音を思い出す。
母の膝の上に座り、リズムにのって身を揺らしていた記憶。
あたたかいぬくもりと甘く懐かしい匂い。明るい陽だまり。
鼻につんとしたものを感じながら、ロナは恥ずかしそうにとても魅力的な笑みを浮かべた。
マリエルは満足そうに頷いた。
「いい笑顔だ。とても幸せな思い出だったんだとわかるよ」
そのあと簡単な作法の手ほどきをして、ロナをエスコートして二階から一階に降りた。
息をひそめて書斎で待っていた男達は、入室したロナの姿に感嘆した。
ロナはスカートを両手でつまみ、身をすっと屈める優雅な礼で皆に応じた。
「なんとのう。娘御は変わるもんじゃ……。しかし、あの服どこかで見たような」
「あれは子供だったマリエルにわしらが贈った服じゃろ」
「あの当時のままじゃ。今まで大切に取っておいてくれたのか……」
感慨深げな三老戦士に、マリエルは照れ隠しで毒づいた。
「なんとなく捨てそびれて、タンスの肥やしになってただけだよ。……さて、若様」
マリエルは寝室に置き去りにされていた薔薇の花束を、ヴェンデルに投げた。
片手を伸ばし、吸い込むように空中でキャッチしたヴェンデルに、マリエルは諭した。
「こういうのは自分の手で渡してあげなくちゃ駄目ですよ。さっきのことをロナちゃんに悪いとお思いなら、楽しい思い出を増やしてやってくださいな。メイドとして若様のお家に勤めだしたら、気軽に声はかけられなくなるでしょうから」
冷たいようだが、使用人は階下の下できっちり組織をつくっている。
たとえヴェンデルが望んでも、ロナに気安くすれば、ロナは分を弁えない異端者として、組織での居場所を失くすことになる。
そしてマリエルは立てかけてあったリュートを手にし、壁際の椅子に腰かけた。
巨大なアーモンドを真っ二つにしたような胴を膝にのせる。
二十本以上ある弦をゆるやかに試し鳴らしした。
「ロナちゃんの治療は終りました。ですが大怪我だったので、身体を動かしてもらって問題ないか確かめてもらう必要があります。若様、ロナちゃんのリハビリにお付き合いいただけますか」
子供とはいえ聡いヴェンデルは、マリエルの意図を汲み取り、頷いた。
三老戦士が重たい机を移動し、場所を開ける。
展開が読めないロナはきょとんとしていたが、気を取り直し、ブルネットの髪を揺らすと、耳朶を染め、ヴェンデルに頭を下げた。
「ヴェンデル様、先ほどは失礼いたしました。私をお救いいただきましたこと。働き口を与えてくださったこと。この場にいない弟達とあわせて、心から御礼申し上げます」
ヴェンデルは優しくほほえんだ。
「こちらこそごめん。君が治って本当によかった。ぼくのあげた薔薇の髪飾りをつけてくれてるんだね。嬉しいよ。こちらの薔薇も回復のお祝いとして受け取ってくれるかな」
「は、はい……!!」
一オクターブ高い声で返事したロナの緊張は、花束を渡されるとき指が触れ合ったことで、リンゴのような頬の紅潮に変わった。熱くなった顔をあわてて花束で隠すロナに、ヴェンデルは片足を後ろに引き、胸に手を当てて一礼した。
「では、ロナ嬢。快気祝いにダンスを申し込んでもいいかな。どうぞ、ぼくの手を取って」
夢で見たのとそっくりの展開に、ロナは我が耳を疑った。立ちすくんだ。
王子様のようなヴェンデルが、自分にダンスを申し込むなんてあるはずがない。
「……-ぼくじゃ嫌かな」
憂いを含んだヴェンデルに悲しげに見つめられ、ロナは慌てふためいた。
夢ではない。現実だ。
「い、嫌なはずないです!! でも、私、ダンスなんてしたことが……!!」
「では断らないでほしいな。二度も続けてだと、ぼくも傷つく」
「す、すみません。だけど……」
ロナは動揺のあまり花束を床に取り落した。
空を飛んだり、落とされたり、薔薇には受難の日だった。
「ご、ごめんなさい」
花束を拾おうと伸ばしたロナの手を、ヴェンデルは先回りするようにし、そっと握った。
「これは受けてくれるということでいいんだよね。薔薇が床に落ちてまで、恥ずかしがりやの姫を引っ張り出してくれたんだ。その犠牲を無駄にしないでほしいな。心配ない。踊りはぼくがリードする」
強引もいいところだが、物語のようなシチュエーションに、元夢見がち少女のロナは、完全にのまれてしまった。
「は、はい。よろしくお願いします」
ぽうっとなり、乞われるままにヴェンデルに手をひかれ、ロナは広いところに進み出た。
頃由とマリエルがリュートをゆるやかにかき鳴らし、書斎を舞踏会場の雰囲気に変えた。
「ロナちゃん、殿方をじらして駆け引きをするにはまだ早いよ。素直になって踊っておいで。きっと忘れられない素敵な思い出になるから」
マリエルの言う通りだった。
さすがにはじめてでワルツは踊れず、メヌエットの簡単なものになったが、そのあと何千回、何万回と踊った時間すべてより、この日の短いダンスは、ロナの記憶の中で輝くことになった。
ヴェンデルの指が離れるとき、心が苦しくなった。
Zの軌跡を描き、再び巡り合って触れ合うと、心臓が歓びで飛び出しそうになった。
互いの両手を取り、くるくると遊園地のティーカップのように回ったときは、足元がふわふわしすぎ、魂がはじき出されるかと思った。
密着するワルツだと気絶したかもしれないほど、ロナはときめく時間を過ごした。
まるで一生分の恋を燃やしつくすように。
「……ずいぶんあの娘に肩入れしているな。マリエル姐さんともあろうものが。ほだされたか」
娘の小さな恋を見守る表情で演奏するマリエルに、からかうように白髭ブライアンが問うた。
マリエルは視線を動かさないまま、声を抑えて答えた。
「……治療は成功したけど、あの子はもう子供が授かれないの。本人には言えなかった。あたしの力不足のせい……。だから、これはせめてもの罪滅ぼし。いっぱい幸せな思い出をつくってほしいのよ。亡くなるときに、そんなに悪くなかった人生だったって思えるように」
白髭はぽんとマリエルの肩に手を置いた。
「なんだい、やぶからぼうに。演奏の邪魔だよ」
「マリエルにまかせたわしらの目は間違いなかったと嬉しくてな。ロナの中では、きっとおまえもその幸せな思い出のひとつになっとるぞ。おまえがいなければロナは死んでいた。宗家を上回っていたとわしは思う。見よ、あのロナの幸せそうな顔を。ロナに未来を与えたのはおまえだ」
「ふん、それで慰めてるつもりなのかい」
白髭ブライアンの手に、黒髭ボビー、茶髭ビルの手が重ねられた。
「わしらにもたまには娘自慢をさせてほしいってわけじゃよ」
「ほんにマリエルは最高の娘に育ったのう」
マリエルはふんっと鼻を鳴らした。
「この齢で娘扱いされても嬉しくないんだよ。なんだい、雁首そろえて。重たいってば、バカ」
だが、マリエルは三老戦士の手を振り払おうとはしなかった。
白髭ブライアンは懐かしげに目を細めた。
「いいや、わしらにとってマリエルはいつまでも大切な娘じゃよ。大切すぎてとても嫁にはできなんだ。好いてくれとるのは嬉しかったが、親代わりとしては娘を不幸にはできん。わしらは戦場暮らしでいつ死んでもおかしくなかったからな」
茶髭ビルが苦笑する。
「血迷うて抜け駆けする馬鹿がおらんか心配でのう。いつも三竦み状態じゃった」
黒髭ボビーが照れ臭げに髭をしごく。
「手を出してしまったら、娘として育てた思い出をぶち壊してしまいそうで怖かったんじゃ。早くわしら以外のいい旦那に嫁いで幸せになってくれと、そればかり願っとったわ」
マリエルは瞼をピンクに染めてため息をついた。
「バカだね。惚れた男が三人もいて、嫁にいく気なんか起きるわけがないだろ。だけど、三人ともあたしを大切に思って手を出さなかったのはわかったよ。だから次はみんなと同い年に生まれてくるよ。年の差を理由に逃げられないようにさ」
マリエルは演奏を続けながら首を傾け、肩で重ねられた三老戦士の手に頬をつけた。
三老戦士は呵々大笑した。
「マリエルがわしらの幼馴染になるわけか。これは手強い」
「おうおう、三人そろって尻に敷かれる予感がするのう」
「そのときはわしらもこんなごつい顔じゃなく、若様みたいな美形になって、愛しのマリエル嬢に求婚じゃな」
含羞に頬を染め、息をはずませながら嬉しそうにダンスするロナと、それを優しく見守りながらリードするヴェンデルに、大人四人は自分達の姿を重ね合わせた。
あるいは過去。あるいは未来を。
ロナとヴェンデルは一対の人形のように踊り続けた。
これが、ロナが……のちのローゼンタール伯爵夫人が、ヴェンデルと踊った最初で最後のダンスになった。
リュートの物悲しくもおだやかな調べが風にのる。
ロナを見つめるヴェンデルの優しいほほえみが流れる。
仔犬のように懸命についていくロナ。
触れ合う指先。
見守るマリエルと三老戦士。
このときロナは確かに幸せだった。
いつまでもこの時間が続けばいいと願った。
だが、その後の人生で、ロナは、このたった一度のヴェンデルとのダンスの記憶さえ、幸せに感じることが許されなくなる。いっそ忘れられたらと何度願ったことか。けれど、記憶は鮮やかなほど幸せで、それゆえにロナの苦悶は増した。
ロナは……ローゼンタール伯爵夫人は、夜中に飛びおき、人知れず両手で顔を覆って泣いた。
何度も何度も弟の名前を呼び、慟哭した。
……ロナがささやかな幸せを嚙みしめていたちょうどそのとき、ロナを連れ戻そうとした弟のロニーは異端審問官マシュウの手に落ち、暗い冷たい石壁の部屋で死を迎えようとしていた。
執拗な拷問で身体を破壊しつくされても、ロニーは頑として姉を売らなかった。
それは過酷な運命に抗う小さな者の意地でもあった。
だが、狡猾なマシュウは、ロニーが姉のロナを守ろうとする優しささえ利用した。
ロニーは悪魔の甘言に乗り、取返しのつかない証言をしてしまう。
激怒した民衆に囲まれるなか、変わり果てたロニーを抱きしめるロナは、自分の行動がきっかけでロニーが破滅したという残酷な事実を突きつけられることになる。
悪魔の奸計により、魔女狩りの炎が街に吹き荒れようとしていた。
お疲れ様です!!
お読みいただきありがとうございます!!
今回(自分としての)予定より一日更新が遅れました。
申し訳ございません。
なんとバトルシーンがまったく出てこない……。
よろしかったら、またお立ち寄りください。




