小さなしあわせ、そして悲劇の序曲。
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※赤ちゃんスカが、かわいい百面相で大活躍!!
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第5話、その①が本日の11時に解禁です。
怒涛の攻めのメアリー、防戦一方のお母様。戦いの行方は!?(笑)
もちろん電撃大王さまサイトでも!!
公開期間限定の回もありますので、お見逃し無いよう!!
そして
【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻、KADOKAWAエンターブレイン様より発売中!!】
とさりげぶっこみしつつ、いちばん大事な
「ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!」
そこは小じゃれたタウンハウスだった。
整然と隙間なく、同様の高級住宅が立ち並んでいる。
その白亜の壁の連続は、宮廷の廊下を思わせる。
屋敷の大きさよりも、ここが住所であることがステータスだ。
貴族や大金持ちだけに許された、街の別荘区画なのだ。
街路も立派な石畳がきっちり詰め込まれており、水たまりの一つもない。
道路掃きや屑拾いの子供たちの仕事など皆無である。
清潔でしずしずと万事が運ぶ理想郷だ。
限られた敷地を建蔽率に最大活用するため、庭こそないが、それぞれの家の玄関前は、馬車を寄せるスペースがじゅうぶん保たれている。なので二輪馬車をあやつる紳士が、雑踏をぬい、鮮やかな縦列駐車を決め、前に座らせた貴婦人を感嘆させる必要もない。
「……おい!! 頼む!! 開けてくれんか!! マリエル!!」
そんな取り澄ました閑静をぶち壊す胴間声が、分厚い樫の扉を震わせた。
老人の声だったが、地を震わす迫力があった。
すぐに反応がかえってこないのに苛立ち、拳で扉を直接叩き始める。
火でもついたような性急さだった。
ここが物見高い下町だったら、住人全員が窓から顔をのぞかせたろう。
呼びかけているのは白髭の老戦士ブライアンだ。
いつもの冷静さをすっかり失っている。
戦場育ちの馬鹿力で蝶番が軋む。
いっそ力任せにもぎ取って侵入しようかと迷った瞬間、不機嫌そうに扉が開いた。
「……どこの馬鹿だい。ドアノッカーも使わない野蛮人は」
三十前半くらいに見える黒髪に黒瞳の女性が、用心深い猫のように、半開きにした扉の向こうから様子を窺っていた。くつろぐためのナイトガウンの前襟を、隙なくぴっしり合わせている。不法侵入をはかる不届きものなら、すぐに扉を盾にする態勢だ。やや吊りめの大きな瞳が驚きに見開かれる。
「……ブライアン!? なんだい!! 来るなら来るって言ってよね」
伝法な言葉はそのままだが、声が喜色を帯びた。
寝起きで髪がぼさぼさなのに気づき、赤面し、慌てて両手で撫でつけようとする。
表情が一気に幼くなり、二十代前半の印象になった。
女性の後ろでごとんっと音をたて、長柄の手斧が転がった。
薪割用だ。
もし不埒な訪問者だったら、背後に隠したそれで、ぽかりと喰らわす気だったのだ。
並の男なら震え上がる過剰防衛の武器さえ目に入らず、ブライアンは女性の細肩をがっと掴んだ。
「マリエル!! 頼みがある!!」
「な、な、なにさ。いきなり」
マリエルという女性はあわてた素振りをするが、何かを期待して、くにゃりとボディラインが柔らかくなった。瞼を染めてブライアンの厚い胸板に顔を埋めかけるが、続いて吹雪とともに飛び込んできた黒髭ボビーと茶髭ビルを見て、はっと表情を引き締めた。
「ボビーにビルまで……。その娘は……!?」
黒髭ボビーは毛布にくるまれたブルネットの髪の少女を抱えていた。
蒼ざめてぐったりしている。
ロナだ。
励ますようにヴェンデルが手を添えている。
それまで心も身体も無理をしすぎていたロナは、橋の上での出会いのすぐ後、気が緩み、ヴェンデルの腕の中で失神してしまったのだ。
急速に顔色も悪くなり、体温も下がりだした。
脈も弱っていく。
「見ての通りじゃ。力を貸してくれ。元〝治外の民〟のおまえの治癒術を」
周囲に聞かれぬよう、声をひそめ、白髭は頼み込んだ。
ロナの負った怪我の内容を、三老戦士達は察していた。
男の町医者には診せられない。
かといって助産婦にもどうか。
年齢的にあらぬ詮索をされるだろう。
そもそも探してからで間に合うのか。
戦場で培った老人達の勘では、これはかなり危険な状態だ。
一刻を争う。
悩んだあげく、彼らはもっとも信頼するこのマリエルの元に駆け込んだのだ。
〝治外の民〟出身のマリエルが、血液コントロールの医術であまたの命を救ったのを、目撃してきたからだった。
そしてマリエルは彼らのすがるような期待に見事に応えた。
「ビル!! ぼやぼやしないで、そこのソファーを暖炉の前に!!」
「お、おう」
「ボビー、なにぐずぐずしてんだい。早くその子をソファーに!!」
「い、いや、これ高いんじゃろう。シーツとかひかんでええんか……」
三老戦士は地元に帰れば名士でもある。
豪放でも知識階級なのだ。
もちろん家具の目利きもできる。
高価な代物だ。
もし貧しいロナが起きていたら、床に額をこすりつけ、腰を下ろすことを固辞したろう。
まして今のロナは血まみれだ。
マリエルはかんらかんらと笑い飛ばした。
「黒髭ともあろうものが、なにをつまらないことを。いいんだよ、家具は人間のためにあるんだ。人が汚して何が悪い。浮浪児だった頃のちびのあたしを、そう言って高価な椅子にエスコートしてくれたのは、あんただろ。今さら血のひとつやふたつでがたがた言いなさんな。そんなことで目くじら立ててちゃ、女なんてやってらんないんだよ」
「おまえは変わらんの」
歯に衣きせぬ物言いに、黒髭ボビーが懐かしそうに目を細める。
「せめてそこはいい女になったって言ってほしいね。ああ、ブライアン、少し火のついた炭を取っといておくれよ。竈に火を入れてお湯を用意しなくちゃいけないから」
「おう、わしが用意しておこう。マリエルはその子を診てやってくれ。台所に薪はあるか」
「ああ、好きに使っとくれ」
暖炉前にしゃがみこみ、灰をかきわけ埋め火していた炭を取り出し、追加した薪に燃え移らせる作業をしていた白髭ブライアンが顔をあげた。片手鍋に似た台十能に種火をいくつか放り込み、別室にのそりと移動する。
勝手知ったるその様子に、黒髭ボビーと茶髭ビルが顔を見合わせる。
察したマリエルが吹き出した。
「あんたらが想像するようなことは何もないよ。たまに訪ねてきてただけ……。あたしに手を出すほど甲斐性があるなら、とっくに所帯を持ってたさ。別にあんたら二人のどっちかが娶ってくれても、あたしは良かったけどね」
「む、むう。おい、ビル」
「いや、その、わしは、ボビー、おまえこそ」
押しつけ合うが、何が言いたいのかさっぱり要領を得ない。
話をふられしどろもどろの黒髭と茶髭を、マリエルは軽くねめつけた。
「右も左もわからない小娘に色々仕込んで惚れさせておいて、そのまま三人そろって知らんふりなんて、阿漕な話じゃないかい。おかげであたしは今は市長の愛娼なんて日陰者さ」
それが軽口であることは口元の微笑でわかるのだが、戦場無双の老戦士二人は、気の毒なぐらい動揺していた。
「ご、誤解を招く言い方はやめてくれんかのう……」
ヴェンデルの手前もあり、目が四方八方に泳ぐ。
ただそれは昔の恋人にではなく、娘に頭のあがらない父親というふうだった。
「今度はこんな小さな娘を女に育て上げる気かい。三人とも、女たらしの癖は治ってないねえ」
マリエルは喋りながらも暖炉に薪をくべ、炎を大きくしていく。
煙を失神しているロナに流れないよう慎重にだ。
しゃがんでいるマリエルの袖を、躊躇いがちに幼いヴェンデルがひく。
「……あの……ブライアンとボビーとビルを悪く言わないで。その女の子を助けてくれるよう頼んだのは、ぼくなんです。三人を責めないでください」
マリエルはひどく驚いた顔で振り向いた。肌が総毛だっていた。
「あたしの腕を気づかれずに取った……?」
その視線を受け、黒髭ボビーと茶髭ビルが重々しく頷く。
「リンガード家の嫡子、ヴェンデル様じゃ」
黒髭ボビーが誇らしげに口にする。
「なるほどね。例の王位継承騒ぎのあと、侯爵家に冷遇されてるっていう御子息様か。当代嫌いのあんたらが付き従ってるってことは、何かあるとは思ってたけど……大殿様の馬闘術かい」
「すでに力の流れは摑んでおられる」
茶髭ビルの口調は孫自慢のようだった。
大殿とは、すでに引退したヴェンデルの祖父のことだ。
三老戦士は当代、後のバイゴッド侯爵のことは毛嫌いしているが、偉大な先代には心酔していた。
それは世話になったマリエルも同様だった。
「そう大殿様の……。うん、面影があるよ。この年齢で末恐ろしいね。赤い髪と紅い瞳は伊達じゃないってことか。あのですね、若様」
表情と言葉を正し、貴人への礼を取ると、マリエルはヴェンデルに話しかける。
「この三人の爺さんがバカだけど善人ってことは、この私が誰よりも存じています。からかっただけですよ。身の程知らずに〝治外の民〟の里を飛び出して、途方に暮れていた子供の私に、無償で手を差し伸べてくれたお人好し達です。神に誓って紳士でしたよ。私が勝手に惚れてただけです。おかげで私は教養を身に着け、こうやって曲りなりにも生きていける。感謝しても感謝したりません」
「……マリエル、おぬし……」
「いつも憎まれ口を叩いたのに、そんなふうに、わしらのことを」
感動に身を震わす黒髭ボビーと茶髭ビルに、しまった言い過ぎた、
というふうにマリエルはぺろっと舌先を出した。耳が赤い。
「なに本気にしてるんだか!! 社交辞令だよ。バカって言葉が聞こえないなんて、都合のいい耳だこと。さあさ、男どもは背を向けた!!」
ヴェンデルはじめ男達全員が、あわててくるりと回れ右をする。
マリエルは照れ隠しに叫ぶようにしたあと、ソファーに横たわるロナのスカートの裾をつまみ上げた。
のぞきこんだその眉が曇る。
ため息をついてスカートの布地をそっと放す。
「……ひどいね。普通の傷、じゃない。……まさか魔女狩りの拷問から、救出したのかい? だいじょうぶかい。魔女をかくまうだけで、魔女の仲間と認定されるんだよ」
ロナの傷は、かつて異端審問で実際に使われていた拷問具によるものだ。
ある意味マリエルの見立ては正しかった。
だが、思いもかけない言葉に、黒髭と茶髭の老戦士達は顔を見合わせた。
「魔女狩りじゃと? ……この娘は橋から身投げしようとしたところを、若様がお救いしたんじゃ。汚れたから死にたいと、泣き叫んではおったが……」
「胸糞悪い目にあわされたのは間違いないようじゃのう。しかし、ハイドランジアには異端審問官は派遣されておるまい?」
マリエルの厳しい表情に、黒髭と茶髭は戸惑った。
今、大陸はヒステリックな魔女狩りの嵐の最中だ。
ただハイドランジアは島国なので影響を免れている。
他の国では、街のすぐ外の丘に煙が幾条も立つ。
胸の悪くなる臭いがする。
人が焼かれているのだ。
ときには生きたまま燃やされての絶叫が加わる。
凄惨な火刑だ。
魔女は焼いて浄めねばとされている。
その魔女狩りの中心になるのが、異端審問官だ。
「……最近になって、急に聖都から異端審問官が、このあたりに派遣されてきたんだよ。マシュウ・グロウスっていういやらしい口髭の最低野郎さ。山高帽に黒マントをしててさ。鼻につく慇懃無礼さで、薄気味悪い笑いを浮かべているからすぐわかるよ」
マリエルの言葉に、黒髭ボビーと茶髭ビルの眉間がみるみるうちに険しくなった。
異端審問官は、魔女かどうかを判断する役職だ。
だが、その手段を問わないやり口は悪逆無道で有名である。
それでも審問官が狂信者なら実はまだマシだ。
少なくとも魔女の実在を信じ、神の世のために抹殺しようと本気で思っている。
最悪なのは、財産没収が目当てで、魔女をでっちあげていく輩だ。
そういう奴らは魔女など信じていない。
それなのに、金儲けのために、無実の人々に魔女の汚名をかぶせ、流れ作業で命をローストしていくのだ。
疑わしきを罰するのではなく、自分が財産を奪いたい相手をおとしめ、拷問し、殺し、名誉を踏みにじり、墓に入れることさえ許さない。それで神の正義を名乗るのだ。これほどの厚顔無恥な非道は、悪魔でさえ行わない。
マリエルの続く話は、マシュウが後者であると示した。
老戦士達が不快な呻きを漏らすほどひどかった。
「マシュウはね。魔女に仕立て上げたい人間の息子や娘を拷問にかけるんだ。なるべく幼いのを選んでね。そうやって父さんや母さんは実は魔女だったって言わせちまうんだ。もっとも親しい肉親からの証言だから、魔女ってことは間違いないって、親は即処刑場行きさ。マシュウは、子供のほうも殺しちまうつもりだから、拷問は容赦ない。偽証言の生き証人だから、消えてもらいたいのさ。子供達は、親を売ったことを後悔しながら、涙を流して苦しんで死んでいくんだ」
……このマシュウが、後にロナを絶望の底に突き落とすことになる。
だが、そのことを予測できるものは、今この時点では誰もいなかった。
義侠心あふれる老戦士達は、話だけでマシュウに憤慨した。
「……胸糞がすぎるのう」
「なぜじゃ。なぜ、そんな外道が野放しになっておるんじゃ」
二人の老戦士は、今すぐマシュウをぶった斬りに行きたそうだった。
マリエルは深いため息をついて、種明かしをした。
「マシュウはね。地方のトップ連中とグルなんだ。領主や裁判所とね。魔女狩りで殺した人間達の財産をそいつらが仲良く分け合ってる。わかるだろ。これは魔女狩りを大義名分にした、権力者どもの略奪行為なんだ。取り締まる側がマシュウの味方なんだ。大貴族の共犯者も多い。マシュウはそのやり口で勢力を伸ばしてきた。あたしの知り合いもだいぶやられたよ」
「……よし、わかった。わしら三人で今夜にでも闇討ちじゃ」
一番ひょうきんに見えて、実は一番血の気が多い黒髭ボビーが物騒な提案をした。
マリエルは心底あきれた顔をし、すぱーんと黒髭の後頭部を平手打ちした。
「な、なんじゃ。痛い……」
「あほか。血の気の多い爺さんだね、少しは頭を冷やしな。そんなことしたら、あんたらの若様が、魔女扱いされて処刑されるよ。あんたら自分がどれだけ有名なのかわかってないだろ。身元なんか即バレだよ。それにマシュウは狡猾だから一人でいることはない。いつも周囲にたくさんの仲間を潜ませている。そいつらを全部口封じで殺すなんて無理だろ」
老戦士達は言葉に詰まった。
先代ヴィルヘルム卿の血が濃いヴェンデルは、三老戦士の希望の星だ。
なんとしても失うわけにはいかない。
「……迂闊には暴れられんというわけか。しかし、屑めらが。気分が悪いのう」
火を噴きそうな顔で黙りこんだ黒髭ボビーの肩を叩き、茶髭ビルがなだめる。
「ぼくは魔女の仲間と疑われてもかまわない。だけど、どうかロナの治療を……ロナだけは助けてあげてください」
それまで黙っていたヴェンデルがきっと顔をあげ言い切った。
その瞳をじっと見つめ、マリエルは破顔した。
「いい目だ。爺さん達が可愛がるだけのことはある。男の子は女の子を守るため、身体を張る。そこに理屈も計算もいらないんだ。そういうバカな男は女の心を震わせる。どうか心掛けを忘れず、そこの爺さん達みたいな男になってくださいな」
思いがけないマリエルの誉め言葉に、黒髭と茶髭は、おう、とか、むう、とか呻き、そっぽを向いた。飲んだくれたようにまっかになっている。まるで初心な男の子の反応だ。
「……まあ、冷静に考えれば、マシュウに拷問されて、生き延びられるわけがないしね。この娘は魔女じゃない。いや、たとえ魔女と認定されていようが、かまうもんか」
マリエルは激した感情を抑えるように一息つき、話を続けた。
「……あたしだって本音はあんたらと同じさ。隣町でやられたのは、あたしの知り合いの宿のおかみだ。無一文の頃には奢ってもらったもんさ。子供がいないからって娘みたいによくしてくれた。親切ないい人だったのに、川に放り込まれて、浮かんだから魔女って確定だってさ。あほらしい。沈んだら溺れ死ぬんだから、誰だって必死に泳ぐに決まってる。梯子に吊るされて生きたまま焚き火であぶり殺されたそうだよ。あの人は次の魔女をでっちあげようとするマシュウの拷問にも屈しなかったし、最期まで魔女であることを否定した。女の身で一矢報いたんだ……」
マリエルは在りし日のおかみを思い出し、まなじりに涙を浮かべた。
「なんと天晴な女丈夫じゃ……」
黒髭ボビーと茶髭ビルは憤慨も忘れ、市井の勇者に黙祷を捧げた。
その後、心配そうにマリエルに尋ねる。
「マリエルも気をつけにゃ。おまえの〝治外の民〟の治療の技は優秀すぎる。魔女狩りの恰好の餌食になりかねんからのう」
マリエルは明るく笑い飛ばした。
「心配してくれてありがと。でも、あんた達だって、あたしにその治癒術を期待してきたんだろ。この娘の傷は町医者じゃ手に負えない。それにね、あたしもおかみさんみたいな人間でありたいのさ。いつかあの世に逝ったとき、ほんとの神様に胸を張って会えるようにね。さて、手遅れになる前にはじめるか」
話をしている最中も、マリエルはロナの胸のあたりに両手を置いていた。
ロナの血の流れをずっと探って、治療方法を模索していたのだ。
うなずいて顔をあげる。
「……血流は掴めた。だけど心拍強化と止血、両方同時にする必要がある。まいったね。宗家並みの手腕がいるよ……。落ちこぼれにゃ荷が勝ちすぎるが、なにくそ、女は度胸。少し荒業でいくよ。っとその前に……若様」
「は、はい」
ふいにマリエルに呼びかけられ、ヴェンデルがびっくりする。
その見開いた紅い瞳に、マリエルは笑いかけた。
「よかったら、この娘の手を握って励ましてあげてくださいな。口にしなくても無事を願ってくれるだけでいい。ロマンスは昔から女の子へのなによりの特効薬さね。この治療は困難だ。もし瀬戸際になったとき……その奇跡の一押しがきっと決め手になる。女の勘だけどね」
「……ぼくなんかでよければ……」
ヴェンデルは迷うことなく、ロナの傍らに片膝をついた。
ロナは悪夢でもさまよっているのか苦しげに呻いている。
ヴェンデルはロナの額に張りついたほつれ毛を直し、ずれかけた薔薇の髪飾りを直した。
ロナの目尻の涙を指先で拭う。
「ロナ……」
自分でも戸惑うほどの憐憫の情に胸をつかれる。
瞼の下の優しく勇気ある瞳は今どんな色をしているのか。
きっと大切な誰かを守るため、自ら傷つき、人知れず泣いているのだろう。
どう励ませばいいのか。
月並みにがんばれとでも言うのか。
それとも負けないでとでも。
ロナとは出会って間もない。
橋の上で交わした会話もごく短いものだった。
ロナという名前と弟達がいることしかわからない。
ロナはすぐ気絶したからだ。
だが、ヴェンデルには彼女の気持ちが伝わった。
ロナはとても傷ついていた。
羽根が折れた小鳥のようだった。
自殺をはかるほど追い詰められていた。
なのに、自分の悲運は一顧だにせず、弟達のことばかり案じていた。
傷つけてしまったと泣いていた。
きっと弟達を守るために心を押し殺し、嘘をついたのだと、ヴェンデルにはわかった。
優しさゆえにロナは傷つき、なお自分を責め続けている。
なんて気高く強い魂なんだろうと思った。
「君にいくあてがないのなら、ぼくのところで働けばい。君が弟たちと住める場所も用意する」
あのとき言葉は自然と出た。
祖父をのぞく肉親に疎まれたヴェンデルには、弟達を身を捨てて守るロナが眩しかった。
たとえ地の底にいても、その魂は空行く大鷹の翼より尊い。
そのために人一倍心と身体に傷を負う。
そんな彼女を守ってやらなきゃと思った。
冬空の下、ロナはぽろぽろと涙をこぼしていた。
「……信じられません。見ず知らずの私にどうして……。だけど、その言葉が本当なら、私、死んだっていい」
と声をあげ泣いていた。
他愛もないこんな提案にそこまで……。
ロナはいったいどんな過酷な運命を辿ってきたのだろう。
そう思うと悲しくなった。
ロナの髪をずっと撫でていてあげたかった。
君は汚くなんてない。
だって、こんなに気高い魂を持っているじゃないか。
ロナに報われてほしいと強く思った。
「……つらかったね。だけど、誰にだって幸せになる権利はあるんだ。願わくば、君がこれから悲しみではなく、喜びの涙を流せるように」
そう口にして祈らずにはいられなかった。
そうだ。自分があのとき、雪降る橋の上で、ロナに願ったことはー。
ヴェンデルの気持ちは決まった。
「……ぼくは、まだ君と出会ったばかりだ。だけど、ロナ。ぼくは心から願う」
ぎゅっと両手でロナの片手を包み、彼女に声が届くように顔を寄せた。
「ロナ、生きて。ぼくは、幸せなときの君の笑顔をまだ見ていない」
衒いも気取りもない心からの言葉に、マリエルは破顔した。
「いいね。ボーイ・ミーツ・ガールだ。そして男の子は励ますだけじゃなく、ちゃんと自分の気持ちを口にしなくちゃいけない。女の子はそれを心待ちにしてるんだ。こっちまで勇気もらったよ。あたしのときは、ボーイでなく、爺さんどもに心ときめかせたけどね。だけど奴らは荒事にゃ滅法強いくせに、女にゃすぐに腰が引けるんだ。ねえ、どう思う、ボビーにビル」
マリエルの言葉に、黒髭ボビーと茶髭ビルが身をすくめる。
「……おのれ、ブライアンめ、こうなるのがわかっておったな」
「……敵前逃亡しおってのう。一杯の奢りではすまさん」
とぼやき、台所に姿を消したままの白髭ブライアンを小声で呪う。
「ああ、やだねえ、齢を取るとひがみっぽくって。あたしは昔を思い出して、元気になったけどね。頑張れば不可能なんてないって思ってた、若い頃の熱い気持ちをさ」
マリエルは軽口とは裏腹に意識を集中した。
すうっと息を吸い込む。留める。吐く。調息だ。
黒髭ボビーと茶髭ビルが押し黙り、固唾をのんで見守る。
「……ふっ……!!」
鋭い掛け声とともに、ロナの胸に置いた両手から、ぱあんっと乾いた音がした。
ロナがびくんっと弓なりになる。
血色がよくなっていく。
「……通った……!!」
呟いたマリエルの会心の笑みが凍りついた。
ロナが痙攣しだし、ひゅーっと笛の音のような音を響かせたあと、息が止まった。
顔がどんどん蒼ざめ、紫色になっていく。
マリエルの顔が厳しくなる。
「……まずいね。チアノーゼだ。この娘、心も身体も衰弱しきってたね。これ以上の治療は無理だ。負荷に耐えられないんだ。続けると、治すどころかここで死ぬことになる。かわいそうだけど、あきらめよう……」
手をひこうとしたマリエルを、じっとロナを見ていたヴェンデルが止めた。
「……大丈夫。このまま続けて。今、ロナがぼくの手を握った。ロナの心はまだ死んじゃいない。きっと可能性は生まれる」
そう断言したヴェンデルの紅い瞳が、底光りするように煌めいた。
子供の無責任な願いと一笑に付せない重みがあった。
マリエルは後で思い知った。
ヴェンデルは時々不思議なことを口にするが、真実を言い当てる。
その紅い瞳には、他人には見えない何かが見えているのだ。
どんな戦場からも生還する英雄の片鱗がすでに現れていた。
もちろん黒髭ボビーと茶髭ビルはそれをよく知っている。
だからマリエルに治療を続けるよう目で促してきた。
マリエルは苦笑した。
「……わかったよ、三対一で私の負けだ。やっちゃみるけど、結果を恨まないでよね」
ヴェンデルは力強く頷いた。
「マリエルさんは負けない。ロナも。……ぼくも呼びかけます。……ロナ、生きることは不幸かもしれない。でも生きてなきゃ、幸せにだってなれないんだ。だから、ここに帰っておいで」
「……ロナちゃん、あんたがそうとうつらい目にあってきたのは想像つくよ。もう死にたいって思うのも当然かも知れない。だけど、あんたの帰りを望む男の子がいるんだ。だったら応えてみせな。いい女なら見せ場を逃しちゃいけないよ……」
マリエルは優しくロナに語りかけた。
黒髭ボビーと茶髭ビルも心の中で加勢するように拳を握りしめた。
そして再びロナの治療への挑戦がはじまった。
◇
そのとき、ロナは終わりのない悪夢の中を逃げ回っていた。
逃げても逃げても、襲いかかる無数の手を振り払えない。
自分達の居場所と同じ暗い泥の底に引きずり込もうとする。
どんなに懸命に手足でもがいても、どれだけ身をよじっても、うちこまれた鉤爪がはずれない。
そこからロナの肌がどす黒く染まっていく。
嘲笑う大声が耳を聾し、ロナの悲鳴と抵抗をのみこんでいく。
〝……いいや、もう。どうせ私なんか、どうしようもないほど汚れきってるんだから……〟
ロナはあきらめた。
連動するように現実のロナの命の火も消えていく。
こんな自分じゃ、やっぱり死んでも母と同じところにはいけないだろう。
でも、もういい。もう生きるのに疲れた。
どんなにあがいても無駄なんだから、堕ちるだけ堕ちればいいんだ。
きっと私を助けようとしたあの貴族の男の子も、私が何をされ、何をしてきたか知ったら、近くに寄ろうともしなかったろう。せめて、汚れる前に会いたかったな……。
鼻先まで闇に吞まれたとき、白く輝く手が差し伸べられた。
〝……ロナ、君は汚れてなんかいない。おいで。君の居場所は闇の中じゃない〟
呼び戻す優しい声がする。
〝あきらめないで、ロナ。その人の手を摑んで〟
懐かしい母の声が耳元でささやき、背中を押してくれた気がした。
いつも優しかった母。
ロナの王子様の夢物語も笑わず、静かに耳を傾けてくれた。
眠れない夜は綺麗な声で子守唄を歌ってくれた。
ロナは最後の力をふり絞り、天を仰いだ。
光が見える。眩しい。
〝いきなさい、私のかわいいロナ〟
母の声に導かれ、無我夢中ですがるように光に手を伸ばした。
ぐんっと身体が引き上げられる。
気がつくと、ロナは闇を脱し、さっきの橋の上の貴族の男の子の腕の中にいた。
夢の中の展開は万華鏡の変化のように突飛で鮮やかだ。
まっかになって手を振りほどこうとしたが、その男の子はロナの右手を取ったまま引き寄せ、流れるように足をさばいた。ダンスに誘われているとわかってロナは尻込みした。
〝わ、私、ダンスなんか踊ったこと……〟
ロナは恥ずかしくて死んでしまいたかった。
まったく自分に似つかわしくない。
だが、男の子は華奢な姿に似合わず強引だった。
〝大丈夫。ぼくに合わせて。ぼくが踏み込んだら、君が退く。ぼくが退いたら、今度は君が踏み込むんだ〟
巧みにリードされ、ロナの身体も回り出す。
〝……お互いの動きを妨げないように。背筋を伸ばして。そう、上手だ。ダンスは気高い姿勢で踊るんだ。君の生き方は孤高で美しい。きっとダンスも上手と思っていた〟
褒められてロナはまっかになった。
寄り添って跳ぶように二人の足が流れる。
大きく踏み込み、小さなステップ2回で互いの位置を入れ替える。
その連続が回転をつくっていく。
そして酔わないように逆回転。
貧民街で大人たちが酔っ払って跳んだり跳ねたりしているものとは違う、優雅で本格的なものだ。
〝で、でも、私、こんなに汚いし……〟
身なりもそうだし、自分の身体の上を幾人もの男が通り過ぎて行ったことを思い出し、もっと悲しくなった。煌めくような男の子に引き比べ、みじめすぎて涙が出る。
気後れするロナに、男の子は笑いかけた。
〝きたない? ロナ、自分の姿をよく見てごらん〟
ロナは息をのんだ。
男の子の紅い瞳に、盛装したロナの姿が映っている。
いつものぼろ服でなくドレスアップしている。
まるで生まれながらの無垢な令嬢のようだった。
これなら、その男の子の隣に立っていても、きっと見劣りしない。
〝ぼくの紅い瞳は真実を映すって、ブライアン爺が言ってたよ。汚くなんてない。自信をもって。それが本当の君の姿だ〟
ダンスはどんどん速くなる。
まるで余計なことをロナに考えさせないように。
耳元で風が鳴る。
胸がなんだかいっぱいになる。
〝……これが、本当の……私……〟
瞳からこぼれる涙が、円舞にのって流れる。
それはもうみじめな涙ではなく、歓びの涙だった。
夢であるのはわかっている。
現実では自分は最底辺を這いずっている。逃れられない。
だけど、この夢は、そのことを忘れさせてくれる。
淫売と嘲笑されたこんな自分を、男の子は汚くないと言ってくれた。
人として認めてくれた。
それだけで、なんて嬉しいんだろう。
どうしてこんなに胸が弾むんだろう。
たとえ夢だとしても、今はその言葉にすがっていたかった。
胸のときめきは、激しく運動しているせいなのか、男の子と密着しているせいなのかわからない。
ロナは王子様を夢見ても、弟達を守ることに必死だった。
自分のことは後回しだったので、本当の恋をしたことは今までなかった。
それが恋だとロナが気づくのは、もう少し先のことだ。
〝……綺麗だよ、ロナ。とても〟
男の子の言葉一つ一つで、心臓が飛び上がりそうになる。
褒められると気恥ずかしい。
でも、その百倍嬉しい。
ふわりと足元が浮き上がりそうだ。触れた指先が熱い。
こんな感覚ずっと忘れていた。
そうだ。この気持ちは……。
〝……私……夢の中でぐらいなら、幸せになってもいいの?〟
思わずついて出た言葉に、男の子は微笑んだ。
「君が幸せになるのは、夢の中じゃない。現実でだ。ぼくが守ってあげる。だから、戻っておいで。ロナ」
それを耳にした瞬間、ロナの消えかけていた生命力が再び燃え上がった。
◇
がはっとロナは息を吐きだした。
ソファーから転げ落ちそうになるほど、身をよじる。
「……あ、あ、ああっ…!!」
ぜい音とともに喉の奥で呻くと、どっと汗が吹き出した。
「お、おい……」
不吉な断末魔に見えて茶髭ビルが駆け寄りかけたが、ロナの側で手を握り続けているヴェンデルが制した。
「……もう大丈夫。ロナは帰ってきた」
そう断言する。
ふうっと床に尻もちをつき、足を投げ出して喘ぐマリエルが、その言葉をついで説明する。
「……若様の言う通りさ。これで峠は越えた。血液と体液の操作で、身体の抵抗力もあげといた。あとは薬湯で患部を消毒し、身体を清潔にして、栄養のつくものと休養。時々薬。それだけでいい。戦場育ちのあんたらが相手でよかった。もったいがかった四体液説を否定するだけで医術の世界じゃ異端扱いだから。……ただね、言っとくけど、あたしじゃ、こんな奇跡は二度と起こせないからね」
マリエルにしても負担の大きい治療だったのだ。
それはたしかに奇跡だった。
後の麒麟児ブラッドの技量に、この瞬間だけマリエルは達していた。
ロナの頬に赤みが差し、表情が和らいでいく。
呼吸が規則正しくおだやかになった。
死人が生き返るほどの鮮やかさに、おおっと男達がどよめく。
「さすがはマリエル。最高じゃ」
「やってくれおったわ。ほんにおまえは佳い女よの」
手放しで称賛する黒髭ボビーと茶髭ビルに、マリエルは照れくさそうにそっぽを向いた。
「よしとくれ、こっ恥ずかしい。この奇跡の半分は、若様のおかげだよ」
ふうっとロナの瞼が開く。
その視線が動き、自分に寄り添うヴェンデルの姿をとらえた。
「……ロナ……」
とヴェンデルは呼びかけようとしたが、
「駄目だよ。まだ意識が混濁している。混乱するから、迂闊に声をかけないほうがいい」
とマリエルに小声で忠告され、あわてて口をつむいだ。
かわりに包み込む両手に力をこめると、か細いが確かな力が、ヴェンデルの手を握り返してきた。
ヴェンデルがそれに応えると、ロナは数度まばたきをした。乾いた唇が、しばらく無音で動いてから、思い出したように微かな声を紡ぎ出す。
「……お母さんが、あなたの手をつかめって、そう言ったの……」
そしてロナは、とても恥ずかしそうに微笑んだ。
「……わたしの……王子さま……」
それが自分を指していると気づき、ぼんっと音を立てそうな勢いで、ヴェンデルが赤面する。
「ぼ、ぼくは王子様なんかじゃ……」
あわてて否定しようとしたが、マリエルに人差し指を唇に当てるジェスチャーをされ、意識が混濁していることを思い出し、言葉を飲み込む。
ロナは頬を上気させ、夢見る瞳でヴェンデルを見つめていた。
目をそらすことも躊躇われ、頬の赤みも去らないまま、ヴェンデルもまたロナを見つめる。
マリエル達がにやにやと遠巻きにその反応を楽しんでいる。
そして、穏やかにはにかんだまま、ロナは再び瞼を閉じた。
「……どうか、さめないで……なんて……しあわせな……夢……」
そう唇に呟きをのせ、ロナはまた眠りに落ちた。その寝顔は安らぎに満ちていた。
後でそのときの自分の言動を教えられ、まったく記憶していなかったロナは、羞恥のあまり七転八倒することになった。そして、ヴェンデルがとても優しい眼差しで、ずっと付き添ってくれていたと聞き、胸をときめかせ、記憶がないことを悔しく思った。
もしかしたら夢で聞いたヴェンデルの言葉のいくつかは、実際に彼が語りかけてくれていたのでは、と思い当たり、きゃああっと悲鳴をあげ枕にばふんと顔を埋めた。
ヴェンデル達が自分にくれた、とても幸せな思い出のひとつだ。
ロナにとってのかけがえのない宝物の時間。
後にローゼンタール伯爵夫人という大人になってから、何度夢見て、目を覚まし、その夢が今は手が届かないものだと思い知らされ、涙を流したろう。
頼もしかったブライアンもボビーもビルも、親切だったマリエルも、すでにこの世にいない。
ヴェンデルには愛妻の仇として憎まれている。
切なくて胸が苦しい。
三老戦士の墓の前で、ロナが……ローゼンタール伯爵夫人が、ひとりぼっちで嗚咽をこらえ、ずっと項垂れていたことをスカーレット達は知らない。
それでも、このときの幼いロナは確かに幸せを感じていた。
いや、実際に幸せを掴みかけていた。
だが、運命は残酷だった。
人の悪意による破滅が、静かにロナの足元に忍び寄りつつあった。
◇
わずかに時間は遡る。
「ロナねえ、なんてことを……」
ロナの弟のロニーは、まっさおになって言葉を失った。
震えが止まらない。
ロナが弟達への金を得るため、我が身を変質者に売ったとき、ロニーはくず拾いに行って不在だった。
歩けないテディ―でなくロニーがその場にいたら、なんとしてでもロナを止めたろう。
だからロニーの留守中をロナも狙ったのだ。
足を棒のようにして帰ってきたロニーは、地面をかきむしって号泣する弟のテディ―を見て立ちすくんだ。
「オレが……オレが悪いんだ……!! オレが歩けなくなったから、姉ちゃんは……!!」
とテディ―は悲痛な声で泣いていた。
不自由な両足を引きずり、戸外に這い出てきていた。
何度も転んだのだろう。
擦りむき傷がたくさんあった。
「動けよ!! なんでオレの足は動いてくれないんだよ!! 姉ちゃんが、どっか行っちゃうよ!!」
と泣きじゃくりながら自分の足を叩いていた。
その悲しさと悔しさがロニーにはよくわかった。
父親の暴力で歩けなくなる前、テディ―は走るのが得意だった。
周りの子達の中では飛び抜けていた。
いつも底抜けに明るく活発で、みんなの人気者だった。
同じ双子なのにどうしてこうも違うのだろうと、ロニーはよくため息をついたものだ。
……もうテディ―の笑顔をずっと見ていない。
テディ―は歩けなくなったことより、ロナとロニーの足手まといになっていることを、ずっと気に病んでいた。「オレなんか置いて、二人とも家を出てほしい」と何度も頼み込んできた。
それを聞くたびにロニーは本気で怒った。
つかみ合いになった。
ロナは悲しい顔をし、二人の弟を抱きしめた。
「……私達は、ずっと一緒よ。……誰か一人が欠けても、幸せになれない。だから、いつか、きっとみんなでしあわせに……」
しあわせという届かぬ夢を、魔法の言葉のように呟いていた。
そんな姉が、わけもなく自分達を置いて出ていくはずがない。
テディ―から皆まで聞くまでもなく、ロナから託されたという不相応なお金を見ただけで、ロニーはすべてを察した。家の中に点在する血痕と床に転がる血まみれの奇怪な道具に膝が震えた。
その道具には見覚えがあった。
姉を買っていた男達の中で、いつもぶつぶつ呟いていた小男が持ち歩いていたものだ。
大金をちらつかせ、ロナにおぞましいことを強要しようとしていた。
姉は体調が悪いのに春をひさがされていた。
だから、もう自分は長くないと思い、自らを犠牲にし、大金を得たのだ。
大怪我をしてまともに歩けないはずなのに、テディ―に憎まれ口まで叩いて家を出て行った。
自分達の負担にならないため、もう戻らないつもりだ。
ロニーの目から涙があふれた。
「ロナねえ、何やってんだよ……!! みんなで幸せになるって、いつも言ってくれてたじゃないか。それなのにロナねえ一人だけ不幸をしょいこんでどうすんだよ……!!」
ロニーは腕で涙を拭い、きっと顔をあげた。
泣いている暇なんかない。
姉弟のうちでまともに動けるのは自分だけだ。
姉のロナも、弟のテディ―も、いつもどんくさかった自分をかばってくれた。
今度は自分の番だ。
ロナもまだ遠くには行っていないはずだ。
急げばきっと連れ戻せる。
「……おい!! 金はどうした!! 酒は!!」
父親の怒鳴り声がし、胆が冷えたが、どうやら寝言だったらしく、また泥酔のまどろみに戻っていた。だが、ロナの残したお金に気づかれると、身体が不自由なテディ―ではきっと巻き上げられるだろう。
ロニーはテディ―からお金を預かり、肩をがっと摑んだ。
「……ぼくがロナねえを必ず連れ戻す。そしたら家を出て、このお金を元手に三人で生きていこう。ロナねえがいつも言ってたように、みんなで幸せになるんだ。だから……誰よりも速かったテディ―の俊足の力を貸してくれ。のろまなぼくがテディ―みたいに風を巻いて走れるように」
「ロニー……」
その頼みにテディ―は泣くのをやめた。
ロニーの手に手を重ね、まっかに泣き腫らした瞼で、しかし明るく励ますように笑った。
昔のテディ―のような笑顔だった。
「オレの足の力、ありったけ持ってってくれ。姉ちゃんをまかせた」
「ああ!! まかしとけ!!」
走り出したロニーの後ろ姿をテディ―はずっと見送っていた。
そして、それが、ロニーが最後に見たテディ―の笑顔になった。
想い合い支え合う心が、取り返しのつかない悲劇に彼らを追いやりつつあった。
……ロニーはロナが身投げしようとした橋に急いだ。
あの橋に母親と自分達で行った思い出を、姉のロナはよく懐かしそうに語っていた。
姉の性格なら、最期にあの場所に行って身投げするつもりではないかと思ったのだ。
だが、ロニーは道路端に座り込んでいる小男を見つけてしまった。
奇怪な道具を見せびらかしていたあの小男だ。
天に両手を伸ばし、にたにたと何か呟いている。
その目は虚ろで何も映していない。
周りの通行人も薄気味悪そうに避けて通っている。
ロニーは頭の中がかっとなり、小男を殴り飛ばそうとして必死に思いとどまった。
テディ―はロナがお金を稼ぐ当てがある、と言い残し、出て行ったと話していた。
たぶんロナの悲しい嘘だが、もし万が一本当なら、この小男はロナの行方を知っている可能性がある。
「……あんた、ロナねえがどこに行ったか知らないか」
ロニーの問いに、小男の目の焦点があった。
「ロナ……ロナ……ロナ……!! おお、あの悪魔の取り憑いた娘のことだな……!!」
小男の呆けた表情に感情が戻った。
だが、それは狂気だった。
突然、大音量にしたまま電源が入ったスピーカーのように喚きだした。
「そうだ!! 俺は見たぞ!! あの娘は悪魔を産み落としたのだ!!」
興奮し、口角から涎をとばす小男の狂態に、なにごとかと野次馬たちが集まって来た。
その人混みを避けるため大きく迂回し、一台の馬車が通り過ぎた。
それは失神したロナを乗せ、マリエルの元に急ぐヴェンデル達の馬車だった。
一刻を争う彼らに野次馬達が何を見ているか気にしている余裕などなかった。
そして野次馬達が目隠しになり、ロニーも馬車の中で大事そうに抱きかかえられているロナに気づかなかった。馬車の車輪と馬蹄が路面を削る音は瞬く間に遠ざかった。
ロナが最後までそのすれ違いを知ることがなかったのは、せめてもの運命の慈悲だ。
知っていたら、二度と自分を許せなくなったろう。
「ははははっ!! 魔女だ!! そうだ!! あいつは、悪魔を産み落としたけがれた魔女だ!! 感謝しろ!! 俺が悪魔を追い出してやったんだ」
耳障りな高笑いをする小男の胸倉を、ロニーはかっとなって引っ掴んだ。
「黙れよ!! ロナねえはけがれてなんかない!! 魔女なんかじゃない!!」
ロナがどんな気持ちで、こんな狂人に身をまかせたかと思うと、胸が圧し潰されそうだ。
だが、小男の罵詈雑言は止まらかった。
悪魔の誘惑に負けた淫売だと嗤った。
まるでロナの悪口を言うことが自分の聖なる使命とでもいわんばかりだった。
薬物と妄想をさまよう男の心に、血を吐くようなロニーの叫びは届かない。
薄い被膜のかかったような目は、自分の世界にしか興味がない目だ。
他人が傷つこうが死のうがどうでもいいのだ。
酔いにまかせてテディ―を痛めつけ歩けなくした父親の姿がそこに重なった。
「おまえなんかが、ロナねえを嗤うな!!」
ロニーは怒りにまかせ、へらへら嗤う小男の頬を張り倒そうとした。
「……ほう、魔女。それは、それは。この街に来たばかりで幸先がいい」
嬉しそうな声とともに後ろにひいたロニーの手首が誰かに摑まれた。
ぞっとしたときにはもう遅かった。
万力のような力が、そのままロニーの腕を背後にねじりあげた。
ごきんっとくぐもった音がし、ロニーは激痛に絶叫した。
腕の間接がはずされたのだ。
転げまわるロニーを、山高帽に漆黒のマントを羽織った男が見下ろしていた。
口髭を撫でつけると、失望したように語りかける。
「ふむ、その程度の痛みでそのざまでは、歯応えがなさすぎる。このあいだの隣町の宿屋のおかみのように、少しは耐えてほしいものだ。我が宿敵の魔女の眷属ならば。……ロナねえ、と言っていたな。君は魔女の弟なのだろう。まず聞かせてほしいのだが……」
「ロナねえは、魔女なんかじゃ、ない……!!」
痛みをこらえて言葉を絞り出したロニーに、男は不快そうに眉をひそめた。
「……おい、人の話はきちんと最後まで聞きたまえ。無教養の貧民といえど無礼だろう。ああ、神よ。あわれな仔羊に祝福を」
容赦なく尖ったブーツで脇腹を蹴られ、ロニーは声も出せず、悶絶した。
「……まあ、いい。教育の時間はたっぷりある。覚悟したまえ、私の拷問は少しばかり厳しいぞ」
そして男はおそろしい形に口元を歪ませた。
「おっと、私としたことが名乗りがまだだったか。失礼。私の名前は、マシュウ・グロウス。なに、今は忘れてもいい。私は寛容だ。あと二時間もすれば、嫌でも覚えるさ。早く殺してほしいと、私の名前を呼び続け、懇願することでね」
新たな生贄を見つけた異端審問官は、薄い唇を蛇のように舌でなめまわした。
そしてマシュウはロニーの横にしゃがみこんだ。
まるで死肉をついばむカラスのようだった。
ロニーにだけ聞こえる声で、マシュウはささやいた。
「……なあ、羊は毛も肉も人のために役立つ生き物だ。まったく神は得難いものを我々に与えてくださった。おまえも羊のように、すべて私が有効活用してあげよう。血も肉も、プライドも、そして肉親への情までもな。楽しみにしていてくれたまえ」
お読みいただきありがとうございます!!
宜しければまたお立ち寄りください!!
しばらくはバトルを忘れ、この路線で突っ走ります。
慣れないのでちょくちょく手直しします。
どうか石を投げないでください。




