雪の日に咲く薔薇。届かぬ初恋。
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とさりげアピールしつつ、いちばん大事な
「ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!」
※今回の話は残酷な描写がございます。ご注意を。
舞踏会場におもむく前に、ローゼンタール伯爵夫人は、隠し小部屋に立ち寄った。
この館の主である彼女しか開けない、宝物の保管庫だ。
煌びやかな金や銀の装飾や、輝く宝石には目もくれず、伯爵夫人は部屋を横切る。
そして一番奥の棚の、古びた小さな宝石箱を大切そうに手に取った。
そっと蓋を開ける。
中にあったのは、一輪の薔薇の造花のコサージュだった。
子供用のものだ。
髪飾り用に加工されている。
色褪せたその薔薇に、伯爵夫人は触れるか触れないかのキスをした。
まるで唇が当たるとはかなく消えてしまう雪にするように。
〝……ヴェンデル様、あなたにもらったこの薔薇を……身につける資格は、たぶん私にないでしょう。ですが、せめて……ひそかに懐に忍ばすことだけはお許しください〟
額に押し当てるようにして、そう心で懇願する。
社交界に君臨する貴婦人はそこにはいなかった。
届かない初恋へ祈りを捧げる少女がいた。
権勢をきわめた彼女が、誰もいないときにだけ見せる顔だ。
ぽつんとスポットライトが当てられたように、窓辺からの細い月明かりが、儚げな影を揺らす。
「……この私がこんな真似をするなんて、貴族どもに知られたら物笑いの種になるわね」
ややあって夫人は自嘲したが、薔薇を胸元にしまいこむ手つきは優しかった。
それは大切な思い出の品だった。
みじめだった彼女の人生に、奇跡のように舞い降りた王子様がくれたプレゼント。
死にたいほど大嫌いだった自分を認めてくれたあかし。
……ローゼンタール伯爵夫人は、その名前のとおりの薔薇の咲く谷と城を、ハイドランジア先王から賜った。けれど、彼女にとっては、この一輪の薔薇のほうがはるかに価値があるものだった。それは初恋の人と伯爵夫人を繋ぐ、たった一つの絆だった。
「……やっぱり私には、立ち枯れたイバラのほうがお似合いだわ」
豊かな胸をおさえ、自虐的に呟く。
かつてヴェンデルは、彼女を冬の薔薇にたとえ、このコサージュを髪につけてくれた。
凍りついた冬に、人の心を癒してくれると。
でも、自分はそんな冬の薔薇にはなれなかった。
咲き誇る春の薔薇にも、薫り高い秋の薔薇にも。
誰もが彼女ほど薔薇の名に相応しい女性はないと称えたが、彼女自身はただの一度もそう思えなかった。だからこそ、なおさら式典でのコーネリアの姿が眩しかった。
この華やかさは見かけだけ。
だって、私は身体だけでなく、生き方もこんなに汚いもの。
伯爵夫人は過去に思いを馳せた。
幼い頃の彼女は貧民街で暮らしていた。
ロナというのが本当の名前だ。
ロニーとテディ―という元気な双子の弟達がいた。
ロナは夢見がちの少女だった。
いつか物語のように素敵な王子様に出会えると信じていた。
もちろん伴侶などと大それたことは望まない。
ただ遠くから一目見るだけでいいのだ。
そしてその記憶を一生の宝物にする。
そんなささやかな想像だけで、小さな胸はいっぱいになった。
「また姉ちゃんの王子様病が出たよ」
と弟達によくからかわれた。
母親は優しかったけれど病弱だった。
薄汚れた最下層のゴミ溜めには不釣り合いなほど美しい人だった。
ロナの容姿は母親譲りだ。
家は元は裕福だった。
ピアノを弾きながら母が歌ってくれた記憶が微かにある。
だが、父親が詐欺に遭い、借金を背負わされたことで、一家の運命は暗転した。
無一文になった現実を父親は受け止められなかった。
酒に逃避するようになった。
優しかった父親は、アルコールの中に溶け去った。
赤ら顔で妻子を睨みつけるその姿は、人間の抜け殻だった。
母親は、飲んだくれの夫から、幼い伯爵夫人、ロナたちを守るため、無理を重ねた。
働きづめで、ついに身体を壊して亡くなった。
亡くなる直前まで子供たちを案じていた。
「ごめんね。明日はちゃんと働いて、あったかくておいしいものを食べさせてあげるから」
それが母親の最期の言葉になった。
死んだときには見る影もなくやせ衰えていた。
子供たちを育てるために自分の美貌をすり減らした。
そのことにいささかも躊躇わなかった女性だった。
子供たちが遺体に取りすがって泣き崩れるなか、父親は酒をかっくらって高いびきをかいていた。
母は無縁仏同様に葬られた。
働き手の母親を亡くし、ロナ達はたちまち生活に窮するようになった。
それでも父親のアルコール依存症は止まらない。
自分が心地よい酔いに閉じこもることだけがすべてだった。
家族と向き合う気など欠片もなかった。
そして、安酒のジン三本と引き換えに、幼いロナは、見ず知らずの男に身体を売られたのだ。
ロナは器量が良かった。
すぐに買い手がついた。
父親の酔眼には、ロナはすでに血を分けた子供ではなく、酒と引き換えになる便利な置物としか映っていなかった。
思い出すと今でも吐き気がする。
嫌だった。死んでもしたくなかった。
だけど、弟達は飢えて死にかけていた。
さらに恐ろしいことに、父親はロナが駄目なら、弟達を売りに出す気でいた。
ロナに逃げる選択はなかった。
ロナは心を殺し、娼婦のように男に愛想笑いをした。
なんでもするから、と父親に気づかれないよう、別のお駄賃をねだった。
酒のためならすべてを取り上げる父親の元で、食事にありつくにはそれしかなかった。
情けなくて涙が出た。
だが、非力で伝手も技能もない無学な少女に、他に何ができたろう。
さいわいなことに、父親は酔いつぶれて眠りこけていた。
それが悪夢の扉が開いた瞬間だった。
こんなチビのくせに、とんでもない淫売だ。と嘲笑された。
その言葉は、ロナの心に突き刺さった。
蒼白になって立ちすくんだロナを、男は突き飛ばすように押し倒した。
不潔な指がイモムシのようにロナをまさぐった。
季節は真冬に向かっていた。
ロナの自宅にはベッドがなく、藁を敷き詰めた長箱しかなかった。
藁さえ長い間替えられず異臭がしていた。
閉口した男は、ロナのはじめてを冷たい床で奪った。
蕾にもなっていないロナの純潔の花は、力まかせに手折られた。
乱暴に押し広げられ、灼熱の痛みが脳天まで貫いた。
固い床でこすられた裸の背は赤むけたが、それすら気づかなかった。
ロナは初潮さえ迎えていなかった。
「痛い!! 痛いよ!! おかあさん!! たすけて!!」
演技など吹き飛び、亡き母に必死に助けを求めた。
膝を閉じようとしたが、顔を何度か殴られた。
情け容赦ない暴力で、首から上が飛んだかと思った。
つんとする金属臭が鼻の奥でどろりと広がる。
駄賃を返してもらうぞと脅されたロナは、涙と鼻孔の流血を飲み込んだ。
暴力よりも駄賃がもらえなくなるという言葉がきいた。
自分が逃げれば、弟達が守れない。
ロナはこわばった笑顔を浮かべ、男の背中に両手をまわした。
幼いロナを貪った男は、早々と欲望を果たした。
つまらなそうに顔をして、侮蔑のまなざしで見下ろし、声さえかけず出て行った。
これ以上ないくらいみじめな初体験だった。
屈辱と悲痛と自己嫌悪で胸が張り裂けそうだ。
わずかな銅貨と引き換えに、ロナは初々しい少女時代を失った。
もう少女の恥じらいは持てない。
ロナはすすけた天井を仰ぎ嗚咽した。
こんな最低なことをした自分が、何を恥じらえるというのか。
弟達にだけは行為を見られたくなかったので、パンを買いに外に出していた。
帰って来た弟達は、頬を腫らして半裸でぽつんと座りこむロナと、その血まみれの服を見た。
おこなわれたことへの知識はなくても、自分達のために姉が我が身を犠牲にしたと、子供ながらに理解した。
「……姉ちゃん!!」
「ロナねえ……!!」
彼らは悲痛な声をあげ、手にしたパンを放り出し、ロナに駆け寄った。
姉弟達は抱き合って泣いた。
「……いいから、早くパンを食べちゃいな。父ちゃんが起きちまう前にね。これぐらい姉ちゃんはへっちゃらだよ」
ごめんなさい、と泣き続ける弟達の頭を撫でながら、ロナはわざと蓮っ葉っぽくうながした。
強がりだ。
本当は誰かに取りすがって泣きたかった。
遠くから聞こえる同年代の少女たち明るい笑い声が心を焼く。
どうして私だけがこんな目にと、血が出るほど唇を噛んだ。
幼い頃のピアノの音の記憶が遠ざかる。
それでも、この弟達のためなら、どんなことも我慢できると思えた。
しかし生き地獄はここからだった。
人の悪意はロナの想像を超えていた。
ロナは破格の値段で好き勝手にできる、娼婦の代替品として扱われた。
人ではない。物だ。
見知らぬ男達が次々にやってきた。
父親はまたも安酒数本で了承した。
ロナの尊厳など微塵も許されなかった。
いったいどれだけの男に組み敷かれただろう。
もはや恥辱などとうに忘れ、苦痛だけがロナを苛んだ。
回数を重ねれば慣れるのではないかというロナの悲しい期待は裏切られた。
年端のいかぬロナは、男を受け入れるには未成熟すぎた。
激痛にいつものたうちまわった。
外からは見えなかったが、ロナの内部は傷だらけだった。
ロナの美しさが仇になった。
凡庸な容姿なら、年齢的に男達も食指を動かさなかったろう。
苦悶の表情を浮かべると、男達の不興を買う。
ロナはいつわりの笑顔をはりつけ続けた。
笑顔を浮かべた回数分だけ、自分が嫌いになった。
回復の暇さえも与えられず責め苦は続き、傷は広がる一方だった。
血が止まらなくなった。
寝ても覚めても身体が痛い。
自分はどうなってしまうのか。
ロナの脳裡に死という言葉がちらつきだした。
逃げ出したいが、ロナが逃げると弟達を殺すと父親は言った。
脅しではない。
この頃になると父親は突然ささいなことで暴発した。
ロナが春を売ることにわずかに抵抗を匂わせただけで、弟達に馬乗りになり、気絶するほど殴りつけた。そのときの怪我が悪化し、テディ―はまともに歩けなくなった。
酔って箍がとんでいるのは父親だけではない。
客の男達もだった。
酒の肴にと、面白半分に酒瓶を押し込まれ、痛みで失神した。
白目をむいて失禁したロナの反応を見て、男達は淫乱と嘲笑した。
好き勝手やった男達が帰ったあと、ロナは激痛を抱えたまま、男達の反吐と自分の粗相の後始末をした。人を神様がつくったという教えは本当だろうか、と思いながら。悪魔がつくったというならまだ納得できるのに。どんなひどい目にあっても、もう涙さえ出なかった。心が死んでいく。
痛みと寒さ、空腹。
そして淫猥な行為。
男達の機嫌を取るための媚び。
ただその繰り返しの毎日。
これは人として生きていると言えるのか。
野の獣のほうがよほど気高いのではないか。
震えながら眠り、物音に瞼を開くと、母親の背中が見えた。
振り向いて優しい顔で笑いかけてくれる。
〝待っててね、もうすぐご飯の用意ができるから〟
懐かしいその声を聞いて、ロナはたまらなくなり跳ね起きた。
やっぱり母が死んだなんて間違いだったのだ。
「おかあさん、聞いて!! 私、ずっと怖い夢を見ていたの!!」
甘えんぼうの少女に戻り、母親の背中に抱きついたところで、目が覚めた。
冷たさと空腹と痛みが押し寄せる。
夢だったのだ。
ロナが目を覚ました気配に驚き、ネズミが逃げていった。
物音はそのせいだった。
現実は救いのない日常だけだ。
夢がしあわせだっただけに残酷さが際立った。
「……っ……!! ……ううっ……!! ……うあっ……!!」
枯れていたはずの涙があふれ出た。
ロナは身を丸くし、膝を抱え、声を押し殺して泣いた。
父親の目を盗み、客の男達から駄賃をせしめることにも成功しなくなった。
薄々勘づいた父親が、用心深く目を光らせるようになったためだ。
ロナが心と身体を犠牲にしても、手元には何も入らなくなった。
絶望が深まっていく。
弟達はくず拾いで生計を立てようとしたが、そのあがりさえも、父親の酒代に巻き上げられる。
弟達は日に日にやせ細り幽鬼のようだ。
特にテディ―のほうがひどい。
話をするのさえ苦痛そうだった。
いつも咳き込んでいる。
ついに歩けなくなった。
そしてロナの血に膿が混じるようになった。
絶え間ない鈍痛だけでなく、身体が常に腫れぼったく熱っぽい。
眩暈がする。
傷口から菌が入ったのだ。
日々の食事さえままならないのに、医者になどかかれるはずもない。
このままだとそう遠くない未来に自分は死ぬとロナは予感した。
ロナは悲しい覚悟を決めた。
命が残っているうちに、この身すべてを文字通りお金に変えてしまおう。
それが自分が弟達にしてあげられる最後の務めだ。
ロナは父親が泥酔して眠り込む機会を窺った。
そして客の中でも飛び抜けた異常性癖者に媚びを売った。
小金持ちだが、そのいかれた趣味のため、最底辺の男達とつるんでいる小男だ。
いつも麻薬の類をきめていて、目が据わっていた。
父親の酔眼にそっくりだった。
そいつは異端審問官になりきっての奇怪なプレイを好んだ。
おそろしい道具を使って、女をいたぶることに悦びをおぼえるサディストだ。
執拗にロナに酒瓶を押しこんだのはそいつだ。
ロナはスカートの布をぎゅっと握り、恐怖で震える膝を押さえつけた。
以前そいつに行為を持ち掛けられたときは、蒼白になって即座に断った。
自慢げに見せびらかすおぞましい道具に、周囲の野卑な男達でさえひいていた。
それは歴戦の娼婦さえ壊す代物だった。
その男は、幾つかの娼館を出入り禁止にされていた。
実際に異端の拷問に使われていた道具だ。
幼い肢体が受け入れるには、死の覚悟が必要だった。
もうくず拾いにも行けず、部屋の隅で丸まっているテディ―に、しばらく目と耳を塞いでいるように頼んだ。何かを察したテディ―は、か細い声をあげ、ロナに取りすがり、必死に止めようとした。ロナは万感の想いをこめ、テディ―を抱きしめた。その目に涙が浮かんだ。
優しい姉としての抱擁はこれが最後だ。
「……うるさいな。黙ってあっち向いていろって言ったのがわかんないの。くそ親父が起きるでしょ。私はこんなところで飢え死になんてごめんなの。それとも姉の恥ずかしい姿でも見たいの。だったら好きにしたら?」
哀しい憎まれ口を叩き、ロナはテディ―を突き飛ばした。
服を足元に脱ぎ捨て、身体を男に開いた。
異端審問官に自分を重ねた男が、涎を流してのしかかった。
ロナをいたぶるように、手にした冒涜的なものを鼻先に見せつける。
人をゆっくり嬲り殺す凶悪な形をしていた。
ロナは心臓が止まりそうな恐怖に耐え、愛想笑いを浮かべた。
「その齢で男を喜んで受け入れるおまえは、悪魔に憑かれているのだ」
と男は高笑いをした。
役に没頭し恍惚としていた。
「神の裁きをくれてやる」
人は人を断罪するとき、もっとも残酷になれる。
悪魔でさえ眉をしかめる異物が、ロナにあてがわれた。
男の目には感情というものがなかった。
なのに顔全体をゆがめて嗤っていた。
「淫売め!! 魔女め!! おまえの中に巣食った悪魔を追い出してくれるぞ!!」
もう演技ではない。本気だ。
汚れたとはいえ美少女のロナを好き勝手にできる興奮が、男の狂気を解き放った。
なにかしら恐ろしいものが男にこそ取り憑いていた。
惨劇の間中、テディ―は震える背を向け、ずっと嗚咽していた。
泥酔した父親が目を覚まさぬよう、ロナは呻き一つあげなかった。
すべては弟達を救うためだ。
その健気な自己犠牲の精神は、殉教者のそれに勝るとも劣らなかった。
だが、神は気高い魂に興味一つ示さなかった。
救いの手などどこからも差し伸べられない。
押し込まれた道具は身体の中で開き、決して抜けない仕組みになっていた。
痛みどころではなく、まっかな死が幾条も頭の中ではじけた。
死に至る行為を拒絶しようと、身体が勝手に跳ね、痙攣した。
ロナの細い手足は、歪んだ悪夢の中、踊り続けた。
「ほら、もうすぐ悪魔が出るぞ!! 死ね!! 死ね!! 死ね!!」
男は狂人の力で行為に熱中した。
……悪意が、屈曲されたロナの小さな胎内を無惨に圧し潰した。
そして、ロナは甘酸っぱい少女時代さえないまま、子供を宿す能力を永遠に失った。
そのままだとロナは間違いなく死亡したろう。
だが、古びた拷問道具はネジが劣化していた。
酷使に耐えられず、ばちんと音を立てて閉じると、押し出され、床に転がった。
血まみれの道具は、産み落とされた怪物のようだった。
人の醜い異形そのものだった。
それを見た男は狂喜し、躍り上がった。
「やったぞ!! 俺は悪魔を追い出すことに成功した!!」
もはや正気を失っていた。
薬物と狂気が男の脳を蝕んでいた。
男は、俺は神の戦士だ、と笑いながら、奇妙なステップを踏み、戸外に飛び出していった。
ごぼこぼと血泡があふれ、ロナの内腿を濡らした。
身じろぎするだけで、焼け火箸で内部をかき回された気がした。
ロナは苦悶の表情を押し殺し、せいいっぱい意地悪な顔をつくった。
衣服で血を隠し、テディーに近づく。
「……もうあんた達の面倒を見るなんてごめんよ。私はここから逃げて自由になるから。お金を稼ぐいい当てがあるんだ。そのお金はあげるから、邪魔をしないで」
「姉ちゃん……」
ロナは泣きじゃくるテディ―に心の中では謝りながら、小声で吐き捨て、得たお金すべてを握らせた。
「……ロニーが帰ってきたら、あんた達もこの家を出たら? それだけあれば、しばらくはなんとかなるでしょ。だけどね。私が身体を張ったお金なんだから、くそ親父に巻き上げられたりしたら許さない。必ず隠し通して。まったくいつまで泣いてるんだか。私は淫乱で、お金のためならなんでもできるの。よくわかったでしょ。じゃあね」
ロナは背を向け、足早に家を出た。
歩くたび、小さな血痕が足元につく。
身体の中が燃えるように痛い。
でも、胸は、心は、もっと痛い。
別れ際にテディ―は嗚咽で途切らせながら、かすれ声を押し出した。
「オレがぜんぶ悪いんだ……! オレが動けなくなったから……!! オレが……オレなんかが生きてるせいで、姉ちゃんがそんな悲しい嘘を……!! ごめんなさい……!! ごめんなさい……!!」と。
ロナが歩く石畳の道は、下地の土が間からはみ出した粗末なものだ。
平らにはほど遠く石は歪み、角が所々飛び出ている。
蹴躓いてロナは転んだ。よろよろと上体を起こす。
膝をついたまま立ち上がれず、地面についた握った手が震える。
「……ごめんね……!! テディ―……!! 悪い姉ちゃんでごめん……!!」
家にはもう声が届かないところで、ロナは悲痛な声をあげて泣いた。
「最後まで泣かせて、ごめんね……!!」
テディ―はロナの嘘など見抜いていた。
彼が泣いていたのは、ロナに裏切られたと思ったからではない。
ロナが弟達を守るために、自分を犠牲にしてきたこと。
そして、弟達に自分を忘れさせようと嘘をついたことに気づいたから、その優しさに泣いたのだ。
たとえ神がロナを黙殺しても、弟だけは彼女をわかってくれていた。
よろめきながらロナは再び歩き出す。
この壊れた身体では、もう男達も相手にしてくれない。
後は足手まといになるだけだ。
それでも弟達はロナを見捨てないだろう。
きっと命をかけてロナを守ろうとする。
待っている先は姉弟全員の死だ。
それだけは、なんとしても避けなければ。
だからロナは橋から川に身投げしようとした。
母親が存命だった頃、幼いロナ達姉弟達の手をひいて、よくその小さな橋に連れて行ってくれた。
川面は浮遊物まみれで、石段で降りる船着き場は、くたびれ果てていた。
係留され、たむろする小舟は今にも沈みそうに軋んでいた。
それでも樽や袋を上げ下ろしする男達は明るく、すりきれたスカートの女達は女同士の会話に華を咲かせながら立ち働いていた。その間を子供たちが元気に走り回る。はずむ白い息。笑い声。
見下ろす光景は平凡だったが、ロナにとっては大切な場所だ。
かつては母と弟達と自分もその光景の一部だった。
今はもう……戻れない。
雪がちらつきだしていた。
「……おかあさん、ごめんね。私、最後までロニーとテディ―を見守れなかった。今そっちに行くから、思いっきり叱ってね……」
馬蹄の音と馬車の鉄輪が背後で鳴り響き、ロナの遺言をかき消した。
ロナは欄干から身を乗り出した。
衰弱しきった身体だ。
冬の川の水温は、慈悲深く命を絶ってくれるだろう。
ロナの足裏が浮き上がった。
だが、彼女の落下は寸前で止まった。
川面に吸い込まれたのは、宙に舞った涙だけだった。
「……だめだ!! どんなにつらくても、そんなことをしちゃいけない!!」
急停止した馬車から飛び降りた貴族の子供が、ロナを背中から抱きとめたのだった。
それが、後に英雄紅の公爵と呼ばれるヴェンデルと、ローゼンタール伯爵夫人に登り詰めるロナの、はじめての出逢いだった。
そのときのヴェンデルはとても華奢で小柄な少年だった。
軽いロナに引きずられるようになり、自分も橋から落ちかけた。
だが、ヴェンデルはその手を離そうとはしなかった。
「……しっかり……掴まって……!! 今……助けるから……!!」
何が起きたかわからず、ロナは呆然としていた。
ちらりと見えた少年は、綺麗な身なりだった。
一目で貴族とわかる。
なぜ見ず知らずの貴族の子供が、危険を冒してまで、貧民の自分を助けようとするのか。
「ブライアン爺!! ビル爺!! ボビー爺!!」
ヴェンデルが叫ぶ。
「……応ッ!!」
三人の老戦士達が呼びかけに応えた。
白髭、茶髭、黒髭が稲妻の速さで飛び込んできた。
軽々とロナとヴェンデルを橋の上に引き上げる。
「……よかった。怪我はない?」
ロナを抱きしめたまま、ヴェンデルは安堵の息をついた。
ひどい性体験をしたロナは、男性に対して拒否感があった。
行為の際も吐き気を必死に抑えていた。
後に克服するのにとても苦労した。
なのにこのときだけは、頬が触れ合うほどの距離でも、息づかいが首筋に当たっても、ぬくもりしか感じなかった。
赤髪に紅い瞳のヴェンデルは、その異彩にもかかわらず、とても美しい男の子だった。
なにより、その眼差しは優しかった。
心からロナを案じているとわかった。
それは幼いロナが夢見続けた王子様そのものだった。
〝……神様、あなたは残酷です。こんなことになってから、私の夢をかなえてくれるなんて〟
とロナは神を呪った。
かつての無邪気な自分なら、そのしあわせに舞い上がって喜んだろう。
もうあの穢れなき時代には戻れない。
「こんな汚れた私に生きる資格なんてない……!! もう死にたいの!! お願い、死なせて」
ロナは身をよじって叫んだ。
とっくにすり減って消えてしまったと思った羞恥心がよみがえった。
雪はますます強くなり、街を白く覆っていく。
けれど自分の汚れだけは、なにをどうやっても消せやしない。
ヴェンデルの腕の中から逃れようと暴れるうちに、ロナはヴェンデルと向き合うことになった。
正面から間近で見るその憂いを含んだ顔立ちに、思わず息をのんだ。
なんて優しくて哀しい目なんだろうと思った。
時間が止まった気がした。
そんなロナを見つめ、ヴェンデルは微笑んだ。
「汚くなんかない。だって君の瞳はとても綺麗だ」
その言葉は疲れきったロナの心に奇跡のように届いた。
ロナのヘーゼルの瞳は、大好きだった母親の瞳と同じ色だ。
ロナのひそかな自慢だった。
「大切な人を守るために、自分が傷つくことを選べる。そんな優しい勇気を秘めた目だ。汚いなんて言っちゃいけない」
最期まで自分達を守ってくれた母のことを褒められた気がした。
膝から力が抜けてしまい、ぺたんと座り込んだロナの前に跪き、ヴェンデルは視線を合わせた。
そして手を伸ばし、ロナの髪に小さな薔薇の髪飾りをつけた。
「……薔薇の季節は春だ。だけど雪の中、耐えて気高く咲く薔薇だってまれにあるんだ。凍りついた景色のなか、見る人の心を癒してくれる。君にはよく似合うとぼくは思う」
耳を傾けていたロナの目から涙がこぼれた。
ヴェンデルが自分を人間として見てくれていると伝わった。
気がつくと年相応の少女に戻り、慟哭していた。
「……私……淫売ってバカにされた……!! 喜んでるっていろんなひどいことされた……!! イヤだったのに……!! 死ぬほどイヤだったのに……!! 私、汚れちゃった……!! 自分が嫌い……!! 消えてしまいたい……」
泣きじゃくるロナのスカートの下から徐々に広がる赤い色を見て、事情を察した黒髭が呻いた。
「……酷い……!!」
茶髭が髭と髪を逆立てるようにしてうなった。
「……人非人どもが……刃の錆に変えてくれるわ」
外套の下に隠した片手鎌の柄をぎりっと握りしめる。
「……やれやれ、落ち着かんか。短気もんどもが。もっとも儂も同感じゃが」
白髭が諫め、ため息をついたが、その目には負けず劣らずの怒りの炎があった。
「……泣かないで。君は汚くなんてない。ぼくたちでよければ、君の力になるよ」
ロナの髪についた雪を払い、ヴェンデルはなだめるように優しく髪を撫でた。
何度も何度も。
触ることでロナは汚くないと証明するかのように。
それが妙に心地よく、ロナは自分が人に撫でられるのが大好きな仔犬になった気がした。
気恥ずかしく、耳が赤くなっているのを寒さのせいだと思ってほしいと願った。
……その日、ロナの人生にはじめて外部から助けの手が差し伸べられた。
そして、それはロナが、のちのローゼンタール伯爵夫人が、叶わぬ初恋に落ちた瞬間であった。
お読みいただきありがとうございます!!
コミカライズ第4話の後半、本日より無料公開です。
わんわんをー。
ご覧になる際、お気に入りなんかにしてくれると嬉しいです。
そして、よかったら、こちらにもまたお立ち寄りください。
自称本家本元です(笑)
ではではー。




