人は何故些細なことですれ違うのでしょう。ローゼンタール伯爵夫人は、お母様が心を病んだ夜を再現します。そこには秘めた哀しい理由があったのです
あけましておめでとうございます。
大変な世の中ですが、皆様ご健康にご留意されまして頑張りましょう。
どうぞ本年もよろしくお願いいたします。
【電撃大王さまで、鳥生ちのり様によるコミカライズ連載中!! 】
※コミックウォーカ様のフロースコミックや、ニコニコ静画様などで、無料公開もやってます!!
もちろん電撃大王さまサイトでも!!
公開期間限定の回もありますので、お見逃し無いよう!!
たとえば3話の①とかだと、1月7日の11時までとか。
……今日じゃん!? 未読の方、お急ぎで!!
【書籍 108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻、KADOKAWAエンターブレイン様より発売中!!】
とさりげアピールしつつ、いちばん大事な
「ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!」
夜風が鳴る。
ローゼンタール伯爵夫人は、バルコニーに立ち、ずっと外を眺めていた。
見おろしているのは無人の正門だ。
彼女は若くして先王の寵姫になった。
王が代替わりして十四年たったが、いまだ美貌を保っている。
ブルネットの髪にヘーゼルの瞳は、若い令嬢の金髪碧眼にも見劣りしない。
いや、今夜だけは、どうしても華やかでなければいけない理由が彼女にはあった。
もう舞踏会の開始時刻だ。
場をつなぐための、ゆったりとした演奏が聞こえてくる。
気の利く楽団だ。
なのに主催の彼女が来客を放置し、一人別室で誰かを待ち続ける。
いくら権勢を誇る彼女といえど許されない行為だ。
貴族にとっての催し事は、能力の判断材料とされる。
失敗すれば名誉は地に堕ちる。
愛娼からスタートし伯爵夫人の地位を掴み取った彼女は、誰よりよく知っている。
それでも彼女には待たねばならぬわけがあった。
「……コーネリアが……やっと来る。私にはわかる。この14年間、どれほど待ち焦がれたことか」
万感の思いをこめて一人、夜に呟く。
ローゼンタール伯爵夫人にとって、今夜の真の主賓はスカーレットの母親なのだ。
他の招待客など蛇足だ。
羽根扇でも、上気した頬は隠せない。
噛みしめ、引き結んだ唇の両端には、微かに笑みが形作られていた。
「おやおや、まるで恋人を待つ台詞ですね。あなたはてっきり、コーネリア……紅の公爵夫人を憎んでいるのかと思っていましたが」
今の今まで伯爵夫人しかいなかったその背後に、長身のソロモンが立っていた。
「おいとましようと思ったのですがね。かぐわしい匂いを嗅ぎつけ、戻ってきてしまいました。一人の男を一途に愛した乙女の匂いをね。彼の幸せのためなら、自分が悪役になることも厭わないほどの……。愛を研究対象とする私は鼻がきくのですよ」
漆黒のアカデミックガウンを翻し、光る鼻眼鏡をくいっと押し上げ、嗤いかける。
巨大な蝙蝠の悪魔を思わす。
先ほどの魔犬たちとの死闘などおくびにものぞかせない。
「……愛? 馬鹿を言わないでほしいわ。そんないいもんじゃない。私はただ……あの娘と14年前の決着をつけたいだけよ」
伯爵夫人は振り向かず、独り言のように続けた。
彼女は、コーネリアのことをあの娘と呼んだ。
その心は現在ではなく、14年前にコーネリアが引きこもるきっかけになった、あの凄惨ないじめの夜に飛んでいた。
豚の血を頭からかけられ、呆然自失となり、死人の顔色で震えていたコーネリア。
残酷な「赤の貴族」たちが踊り狂う輪の中心で、生贄のように手ひどく扱われていた。
じわりと脳天を焼くあの赤い景色を、伯爵夫人は忘れたことがない。
それは失望と怒りだった。
伯爵夫人はコーネリアに期待していた。
あのようないじめなど、敢然と蹴散らし、逆に「赤の貴族」たちを懲らしめると思っていた。
「……少し昔話につきあってくれる? 誰にも話したことのない、成り上がりの女の愚痴を」
背を向けたままの伯爵夫人の頼みに、ソロモンはにやりと笑い、欄干に腰かけた。
猫が串刺しになるほど尖った先端なのに、高級ソファーのように悠然と座る。
重力を無視しているとしか思えない異常な光景だ。
「……ほう、それはそれは。女性と宇宙は神秘な存在。その秘密を囁いてくれるなら、学徒として聞き逃すはずがありません」
と長い脚を組み、じっくりと話につきあう姿勢を取る。
漆黒のアカデミックガウンが蒼白い月の光にはためく。
ローゼンタール伯爵夫人はうなずくと扇を閉じ、静かに語り始めた。
彼女が、コーネリアをはじめて見たのは、14年前。
ハイドランジア現国王の即位式典でだった。
「……これが、メルヴィル家のコーネリア……! ヴェンデル様の選んだ女性……」
耀く蒼穹の下で、次々に披露されるコーネリアの凛々しい弓の名手ぶりに、伯爵夫人は息をのみ、紅の公爵をあきらめたのだ。
(※注 コーネリアはスカーレットの母。ヴェンデルはスカーレットの父)
四大国の来賓までもが立ち上がって拍手喝采する、あの興奮のるつぼの中、純白の衣装で手を振って応えるコーネリアは、まさに戦女神の再来だった。
光とどよめきが、彼女を中心に渦巻いていた。
嫉妬などわかず、かなわないとため息だけが出た。
虚飾だらけの夜の灯りとおべっか笑いに囲まれた自分とは、格が違う。
そして誇らしげな笑顔で駆け寄り、コーネリアの手を取る英雄の紅の公爵。
寄り添う二人はこれ以上ないほどお似合いに見えた。
コーネリアなら、きっと紅の公爵を支えてくれる、そう思った。
〝……ヴェンデルさま、どうかお幸せに〟
寂しさを押し殺し、心からそう祈った。
伯爵夫人は、恥辱の泥にまみれて男達の間を渡り歩き、伯爵夫人の座を射止めた。
紅の公爵ヴェンデルに知られたら死んでしまいたい記憶も抱えきれない。
伯爵夫人は、自殺しようとした少女時代の雪の日、ヴェンデルに救ってもらった。
雪の日に見たあの紅い瞳と赤髪と笑顔は生涯忘れない。
彼女は実の親に売春を強要されていた。
下卑た男達に容赦なくなぶられ続け、身も心もぼろぼろになった。
橋から凍りついた川に身投げしようとしたところを、ヴェンデルに抱きとめられた。
「こんな汚れた私に生きる資格なんてない……!! もう死にたいの!! お願い、死なせて」
と泣くぼろをまとったみすぼらしい少女のごわごわした髪を優しく撫でてくれた。
「汚くなんかない。だって君の瞳はとても綺麗だ」
顔をのぞきこみながら、そう言ってくれた。
彼は貴族ではあったけれど、両親に疎まれ、そのぶん人の痛みを知っていた。
見ず知らずの少女の悲しみをわかってくれた。
「君にいくあてがないのなら、ぼくのところで働けばい。君が弟たちと住める場所も用意する」
その言葉は、虐げられた少女にとって、天にも昇るような福音だった。
「若いもんは汚れなど気にせんでええ」
「そういうもんは、幸せになってから考えればええわい」
「わしらだと酒かっくらえば、一晩で悩みなんぞ忘れるんじゃが。人殺しの老人が呑気に生きておるんじゃ。あんたみたいな娘が幸せにならんでどうする」
ヴェンデルに付き従う三人の老人たちも、いかつい風貌だが優しかった。
「不幸ってくそったれは突然やってきおる。じゃから、たまには幸運がぷいっとやってきても不思議はなかろうて」
白髭の老戦士が片目をつぶってそう言った。
冬空の下、彼女はぽろぽろと涙をこぼした。
気がつくと声をあげ、わんわんと泣いていた。
堪えに堪えていた辛さが堰をきってあふれだした。
「……つらかったね。だけど、誰にだって幸せになる権利はあるんだ。願わくば、君がこれから悲しみではなく、喜びの涙を流せるように」
ヴェンデルは通行人の好奇の視線も気にしなかった。
号泣する少女の背中を、勇気づけるように軽く叩いた。
頬を濡らす涙は、さっきまでの冷たいものと違い、あったかかった。
やっとしあわせになれると思った。
結局、弟たちとはそのあと、すぐに死に別れてしまったけれど。
残酷な運命に翻弄され、ヴェンデルのもとには行けなかったけれど。
それでも、そのあたたかい思い出を支えに、今までやってこれた。
いつかヴェンデルに再会し、礼を言うために。
あのときどれほど嬉しかったか伝えるために。
けれど、自分はよごれすぎた。
少女時代と違い、身体だけでなく心までも。
半生をかけてヴェンデルを追いかけた。
自由に話しかけられる地位に到達したときには、すでに遅すぎた。
先王の寵姫になるまでに、どれほどの男達を篭絡し、乗り捨ててきたか。
どれだけのライバル達を葬ってきたか。
そう気づいたとき、伯爵夫人は立ちすくんだ。
もうあのときの少女だと名乗り出ることもできない。
たった一つ残されたあの宝物の思い出まで汚してしまう。
英雄の彼にふさわしいのは、涼し気に神業を披露したあの無垢なコーネリアのような女性なのだから。自分のように穢れた女と関わってはいけないのだ。
だから、伯爵夫人は陰ながらコーネリアの力になろうとした。
彼女は社交界に不慣れだと聞く。
ならば、自分のように穢れず、凛としていられるよう陰ながら力を貸そう。
それが自分にヴェンデルにできる唯一のことだと思った。
コーネリアが、義父母であるバイゴッド侯爵夫妻にだまされ、「赤の貴族」たちの夜会に連れ出されたとき、密かにヴェンデルにそれが伝わるように手配したのは、伯爵夫人だった。自分の屋敷を夜会の舞台に提供したのも、そこなら目が届くと思ったからだ。ローゼンタール伯爵夫人は、本気でコーネリアを守る気だった。
……あの夜、おどおどしたコーネリアに再会するまでは。
伯爵夫人は、大槌で頭を殴られたほどの衝撃を受けた。
ここまで社交界に不慣れだとは思っていなかったのだ。
即位式典での輝く姿とはうってかわり、精彩に欠けていた。
なにより、周囲の皆の機嫌をうかがうような卑屈な態度が気に入らなかった。
矢継ぎ早の意地悪い質問攻めにおろおろする様は、デビュタント以下だった。
愛するヴェンデルの、紅の公爵のために、コーネリアは少しでも苦手な貴族社会に打ち解けようとしていた。小馬鹿にされ、寄ってたかって小突き回されても、けなげに耐えていた。その気持ちは伯爵夫人にもよくわかった。だが、違う。それでは駄目だ。
伯爵夫人は扇子の陰で、ぎゅっと下唇を噛んだ。
怒鳴りつけたいのを必死に堪えた。
紅の公爵はハイドランジアの生きる伝説だ。
その名は戦地の兵士達にとって万の援軍に匹敵する。
絶体絶命の劣勢でも奮い立つ。
その伴侶のコーネリアが、こんな愚物どもになぜ阿諛追従するのか。
彼の品位そのものを貶めているではないか。
二人の女性の不幸なすれ違いはここからはじまった。
ローゼンタール伯爵夫人は、コーネリアが義父母のバイゴッド夫妻に騙されてここに連れてこられたことを知らない。コーネリアもまた、この場で自分の唯一の味方になるはずの伯爵夫人の心の裡など知る由もなく、なぜ取り巻きが大勢いる美貌の貴婦人に凝視されているのかと、冷汗だらだらで目をそらした。弓の天才でもコーネリアは人づきあいが苦手だった。こんな華やかな夜会に出席するだけでいっぱいいっぱいだったのだ。
それがまたローゼンタール伯爵夫人の不興を買った。
あの紅の公爵の伴侶が、自分ごときに気圧されるなんて。
もし社交界が苦手なら、ここに出てくるべきではなかった。
紅の公爵は妻のコーネリアを表舞台に出さないことで有名だった。
「妻を他の男性の目に触れさせたくないのですよ、つまらない男の独占欲です」と彼は笑っていた。社交が重要な貴族社会では、非常識極まりない。それでも、即位式典でのコーネリアの美しさを見た人々は、失笑しながらも、その言葉に納得していたのだ。
……紅の公爵は、愛するコーネリアの名誉を守ろうと、あえて笑い者になっていた。
彼女が、貴族達の舞台で、意地悪い審美眼にさらされるとどうなるか、彼はよく知っていた。
その思いやりを、守られていたコーネリア本人がぶち壊してしまった。
まるで自らのこのこ罠にかかりに来たまぬけな獣だ。
自らの価値を暴落させることが、伴侶の価値を下げると何故わからないの!?
なんと愚かな、と伯爵夫人は落胆した。
自分はコーネリアを過大評価していたのか。
だが、この時点では、まだ伯爵夫人は冷静さを保っていた。
少なくともコーネリアを見捨てる気はなかった。
けれど、運命は残酷な結末に転がり出していた。
「……ほほ、公爵夫人は、なにがご趣味なのかしら」
「音楽なら少しぐらいは……」
傍らの気取った夫人に聞かれ、コーネリアは意気込んで答えた。
迂闊だった。
社交界での会話は、市井のおしゃべりとは違う。
相手の真意を慎重に見極め、優雅にダンスする必要がある。
ローゼンタール伯爵夫人が止める間もなかった。
さらに失望を強くする。
だが、本来慎重なコーネリアが先走ったにはわけがあった。
「……ねえ、コーネリアさんは、絵画に造詣が深いのよねえ」
気持の悪い猫なで声で、義母のバイゴッド侯爵夫人が会話に割って入った。
コーネリアの緑の瞳が戸惑いで揺れる。
「え……? 絵画?」
彼女は、今回の夜会にそなえ、音楽の話題を集中して勉強しておきなさいと、当の義母に教えられていた。アピールをわすれず、積極的に会話に参加するようにと。自分もサポートしてあげるからと。だからふられた話に喰いついた。
純朴なコーネリアは、それが罠だとまだ気づかない。
「お、お義母さま? どうして……」
そのか細い疑問の声は、怒涛のような「赤の貴族」達の質問攻めにかき消された。
「それは頼もしい。ここにいる者は、絵に魅せられたものばかりでしてな」
「絵画の良さを解せないものなど、人間ではありません。獣ですなあ」
「で、公爵夫人は、どんな画家や作品がお好きで? 私はやはり……」
と宮殿のエントランスホールに飾られた絵画と、画家の名前をあげた。
「彼の絵はまことに素晴らしい。公爵夫人はどうお思いで?」
「は、はあ、私も素晴らしいと思います」
〝……馬鹿な!?〟
ローゼンタール伯爵夫人は唖然とした。零点以下の回答だ。
彼女の位置からは、コーネリアの脇のバイゴッド侯爵夫人が、返答を促すように小突いたのが見えなかった。
話を振られたコーネリアがあいまいに相槌をうった途端、爆笑が巻き起こった。
彼らはわざと存在しない画家の名前をあげ、コーネリアを試したのだ。
「公爵夫人は創作活動がお好きなようですな」
着飾っているだけに、皆の薄ら笑いの醜さが際立った。
コーネリアが絵画に疎いことを、事前にバイゴッド侯爵夫妻に知らされていた。
「さあ、では、次に王宮派の歴史について夜通し語り明かそうではありませんか。絵画好きの公爵夫人殿。中興の祖といえば、やはり……」
彼らはさらなる追撃にかかった。
汚い嵌め手だ。
ローゼンタール伯爵夫人も若い頃何度かやられたことがある。
コーネリアの顔は血の気を失った。
その話が嘘か真実かさえ判別できないのだ。
泣きそうになる。
一月かけて頭に叩き込んだ音楽の知識が、この場でまったく自分を助けてくれないことを悟った。
義母の勧めでそれ以外勉強してこなかった。
「わ、私は絵画のことは……」
それでも正直なコーネリアは、自分の無知を早々に告白しようとした。
そして、それは、嘲笑を浴びるのと引き換えに、致命傷を避ける唯一の手段だった。
それでいい。正解よ。
孤立無援の中ふりしぼった勇気を、ローゼンタール伯爵夫人は評価した。
見直しかけた。
かわりに音楽の話題をふってやろう、それでコーネリアと会話を交わし、気が合った体をよそおう。自分が張り付けば、話題もコントロールできるし、バイゴッド侯爵夫妻の悪意から隔離できる。「赤の貴族」たちにも口出しはさせない。その程度の力は自分にある。そう考え、助け船を出そうと足を踏み出しかけた。
その爪先がぴたりと止まった。
バイゴッド侯爵夫人が、コーネリアをなじっていた。
「コーネリアさん、あなた、たしかに絵画が得意と私に言ったわよね。それとも老いた私の耳が聞き間違えたとでも言いたいのかしら。自分の無知をごまかすため、この私を貶めて……!! ああ、この齢でこんな辱めを受けるなんて。そんな怖い目で私を睨んで……」
「おお、我が良き妻よ。可愛がっている息子の嫁に噛みつかれるとは。これが善良な者への報いなのか。みなさん、私の妻の悲しみを分かち合ってくれ」
バイゴッド侯爵夫人が身をよじりハンカチで目頭を押さえた。
いつわりの同情の声が湧く。
夫の侯爵がわざとらしく両手をひろげ、三文芝居で周囲にアピールする。
彼らの目の残酷な嗤いにコーネリアは気づかず、言葉を濁してしまった。
「……いえ……お、お義母様が老いたなど……」
そして表情を和らげ、懸命に笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。私が言い間違いました」
と謝罪した。
ローゼンタール伯爵夫人の口の中に、苦い失意が広がった。
彼女は、バイゴッド侯爵夫妻を毛嫌いしていた。
浪費家の毒虫ぐらいに考えていた。
自分が慕うヴェンデルを、少年時代に虐待していたからだ。
なのにコーネリアは、毒虫に気圧されて折れた。
やくざもの相手に退けば、つけこまれるだけなのに。
それだけではなく、愛想笑いまで。
ヴェンデルを誰よりも守るべきはずのコーネリアが。
それは伯爵夫人にとって許しがたいことだった。
……実際はコーネリアはその優しさゆえに口ごもった。
自分が傷ついても、義母の名誉を守ろうとした。
良人のヴェンデルを愛していればこそだ。
バイゴッド侯爵夫妻は、コーネリアの人の良さを熟知していて付け込んだ。
もし、ローゼンタール伯爵夫人が、コーネリアともっと個人的に親しければ、彼女の人となりを知っていれば、違うものが見えたはずだ。
そうすれば、頼れる先達として、同じヴェンデルを愛するものとして、コーネリアと良好な関係を結べたろう。
互いにとって幸せな未来は、実は驚くほど近くにあった。
そして、まだローゼンタール伯爵夫人には迷いがあった。
バイゴッド夫妻の性悪ぶりを知っていたからだ。
もし、コーネリアがバイゴッド侯爵夫人に少しでも異を唱えさえすれば、それをきっかけに、止まりかけた伯爵夫人の足は再び動いたろう。
だが、運命のボタンは残酷にかけ違えられた。
結局コーネリアは、バイゴッド夫妻に反論しなかった。
コーネリアは、愛するヴェンデルの父母が、自分を歓迎してくれているとまだ信じていたのだ。
貧乏貴族の娘の自分を追い出す機会を狙っていたなど予想していなかった。
両親に愛された彼女は、なぜヴェンデルがバイゴッド侯爵夫妻に近づくなと警告したか、よくわかっていなかった。純粋で悪意に疎かった。
不仲な彼らの橋渡しに自分がなれたらと願った。
いつかヴェンデルの子を授かり、皆で笑い合う幸せな家族団欒を夢見ていた。
後に妊娠した自分の腹を杖で殴打する残酷さを見抜けなかった。
ヴェンデルへの愛が、コーネリアのまなこを曇らせた。
それはローゼンタール伯爵夫人も同じだった。
ヴェンデルを崇拝するあまり、ヴェンデルに害なす元凶夫妻に媚びているとしか見えないコーネリアを許せなくなった。
バイゴッド夫妻をヴェンデルの敵と見なすローゼンタール伯爵夫人。
味方と信じるコーネリア。
二人の価値観は正反対を向いていた。
バイゴッド夫妻という小悪党は、歯車にはさまる小石だった。
他人を蹴躓かせる役割を天職にしている。
あと少しで歩み寄れたはずの二人の女の運命を狂わせてしまった。
ローゼンタール伯爵夫人はコーネリアに背を向けた。
もう顔を見るのさえ不快だった。
気を落ち着かせるため、彼女は肩を怒らせるように足早に別室に去った。
そこからがコーネリアの悲劇のはじまりだった。
「赤の貴族」たちは、ローゼンタール伯爵夫人の退出を、コーネリアを好きにしていいというサインと受け取った。
「赤の貴族」達はどっとわいた。
本性をむき出しにし、コーネリアを嘲り出した。
バイゴッド侯爵夫妻が話題をふり、それに皆が追随するという形だ。
話題は多岐に渡ったが、音楽の話題だけはただの一度も出なかった。
立ち竦むコーネリアが、義父母の本性に気づいたときには遅かった。
後ろから足を払われ、彼女は転倒した。
情け容赦ないいじめに、給仕や配膳係が怯えた目で、遠巻きにその様子を盗み見ている。
パーラーメイドの何人かは同情し、目に涙を浮かべていた。
中二階の音楽家たちは、演奏を続けるべきかどうか迷い、目を泳がせた。
彼らには情があったが、「赤の貴族」達の苛烈さを知っていた。
コーネリアを助けに行ってやりたくても、迂闊に動くと自分が手討ちにされかねないのだ。
「かしこい公爵夫人は語り続けて喉がお渇きでしょう。一息いかが?」
そう声をかけ、誰かが飲み残したワインを、コーネリアに浴びせた。
シャンパンシャワーのように、一斉に周囲がそれに倣った。
いっぽう別室で一息つき、冷静さを取り戻した伯爵夫人は、この屋敷に由緒ある名弓があったことを思い出していた。
コーネリアは神がかった射手だ。
持っていけば、少しは自信をもった話のきっかけにできるだろう。
正直コーネリアのことなどもうどうでもいいが、あの惨状を知れば、ヴェンデルが胸を痛める。
そう思いつき、弓と矢を手に、足早に舞踏会場に戻った伯爵夫人は卒倒しそうになった。
赤の貴族たちが踊っていた。
優雅なワルツではない。
二人一組ではあったが、それは獲物をしとめたことに狂喜する原始の舞だった。
理性の箍がはずれた彼らは不気味な笑い声をあげていた。
燭台のオレンジ色が影法師に照りかえる。
輪の中にバイゴッド侯爵夫妻もいた。
コーネリアは彼らに取り囲まれ、その中心にいた。
胎児のように床で丸まっていた。ぴくりとも動かない。
豚の生首が乗せられているのは、獲物に見立てたからだろう。
周囲に臓物が飛び散り、コーネリアは血みどろだ。
それはまるで噂で聞くサバトだった。
ローゼンタール伯爵夫人は悲鳴をあげそうになった。
「赤の貴族」達がコーネリアの臓物を引きずり出し、絶命させたと思ったのだ。
コーネリアの全身が瘧のようにがたがた震えているのを確認し、ほっとする。
死人の顔色と表情だが、コーネリアは生きていた。
床にずらりと並べられた燭台の熱気のゆらぎのせいで、震えが見えずらかっただけだった。
血も動物のものを浴びせられたようだ。
ひどいいじめだが、少なくとも身体は無傷だ。
安堵すると同時に怒りがこみあげてきた。
コーネリアが身を丸めて守ろうとしているのは、本人ではなく、着ているドレスと気づいたからだ。
「……やめて……!! やめてください……!! ドレスは……このドレスだけは……」
うわごとのように、哀願している。
ローゼンタール伯爵夫人は、それがコーネリアとヴェンデルの思い出のドレスだと知らない。二人がはじめてキスを交わしたときの、コーネリアにとって何物にも代えがたい宝物だということを。
だから、ドレスを気にする余裕があるのに、ただ嬲られるがままの弱虫だと決めつけてしまった。
「……なんてぶざまを……。あの人の隣で戦える女のくせに……」
思わず怨嗟の声が漏れ出た。
コーネリアは、ヴェンデルに愛され、ヴェンデルとともに戦える。
ただ守られているだけの女ではない。
戦士のいないこの場なら、一人で制圧可能な弓の名手だ。
ローゼンタール伯爵夫人の目に悔し涙が浮かぶ。
〝私が悪魔に魂を売ってもほしいものを、あんたは二つも持っている。なのに、どうして……!!〟
これでは、あまりに自分がみじめすぎる。
英雄のヴェンデルが選んだコーネリアは、特別な女性であるべきだ。
言葉にすれば、そういう想いだった。
ローゼンタール伯爵夫人は、コーネリアを鼓舞するように、手にした弓を差し上げた。
コーネリアが誇りを思い出して立ち上がり、愚かないじめを粉砕してくれることを期待した。
だが、コーネリアは怯えきっていた。
狩りを営んでいた彼女は、獲物への尊敬を忘れたことがない。
仕留めるときは厳粛な気持ちで臨んだ。
殺しを楽しんだことは、ただの一度もない。
それは山での当然のルールだった。
そんな彼女にとって、ゲーム感覚で人をいたぶる、洗練された紳士淑女というのは、理解できぬ悪魔のような存在だった。
仕打ちそのものより、悪意でショックを受けていた。
味方だと思っていた義父母に裏切られ、呆然自失していた。
その点に限っては、実の親に幼くして売春を強要されたローゼンタール伯爵夫人のほうが、はるかに耐性があった。冷たい床に押さえつけられ、殴られながら無理矢理小さな純潔を引き裂かれた伯爵夫人にとり、人の悪意は常識だった。
だが、式典でのコーネリアの輝きが目に焼き付いている伯爵夫人は、コーネリアがなにもかも自分より上と思いこんでいた。動かない彼女に侮蔑の思いを抱いた。
……そんな馬鹿どもに黙っていたぶられるのがお好きなら、どうぞご勝手に。
牙があるのに自分さえ守れない人間が、どうやってヴェンデル様を守れるの。
あんたにヴェンデル様の隣に立つ資格はないわ。
そう嘆息した。
「赤の貴族」たちの残酷な饗宴は、飽くことなく続いた。
「おまえ達!! なにをしている!!」
血相を変えてヴェンデル、紅の公爵が飛び込んできたのは、新たな豚の血がコーネリアに注がれたときだった。本物の戦場を生き抜いてきた紅の公爵の気迫は凄まじい。一方的な加虐の悦びに酔いしれていた「赤の貴族」達など、彼の前では小動物の群れに等しかった。
ヴェンデルは立ちすくんでいる「赤の貴族」達を肩で突き飛ばすようにし、妻のコーネリアの姿を探した。音楽もぴたりと止んだ広間に、彼の荒々しい足音と呼吸だけが響く。
「コーネリア!!」
「赤の貴族」達の輪の中心で、ようやく息も絶え絶えのコーネリアを見つけた紅の公爵は、血まみれの彼女をかき抱き悲鳴をあげた。
「よくも、ぼくの宝物を穢したな……!! ……よくも……!!」
怒りのあまり言葉を失った彼の代りに、剣の柄がかたかた鳴った。
殺気が地の底から轟くようだった。
睨みつけられた「赤の貴族」達は、蜘蛛の子を散らすように壁際に退避した。
こけつまろびつの滑稽さを笑う余裕は伯爵夫人にはなかった。
紅の公爵の殺意に満ちた視線は、伯爵夫人にも向けられていた。
「……ヴェンデル様……!? 違う!! これは……!!」
弓を手にした自分が、彼の目にどう映ったか悟り、伯爵夫人は必死に叫ぼうとした。
が、その言葉は外に出ることはなかった。
愛する妻を傷つけられた紅の公爵は、手負いの獣の形相だった。
もはやどんな弁明も手遅れだ。
ならば、いっそ慕い続けたヴェンデルに、この場で斬り殺されたい。
伯爵夫人はそう願った。
絶望の中のあわれな希望。
だが、その願いさえ叶うことはなかった。
その場の全員を殺戮しようとした紅の公爵を、コーネリアが懸命に止めたからだ。
紅の公爵がコーネリアを抱き上げて立ち去ったあとも、「赤の貴族」達は壁際で凍りついたままだった。紅の公爵の怒りは、落雷の余韻のように、その場に燻っていた。
ローゼンタール伯爵夫人の手から、弓が落ちた。
冷たく無慈悲に音がした。
愛する人からの拒絶の響きのように。
「……どうして……こんなことに……」
あのときヴェンデルは、世界のすべてを敵に回してもコーネリアを守る気だった。
彼女が羨ましい。
この場の貴族すべてから嘲笑され、みじめな晒しものにされても、彼女は人生の勝者だった。
自分がもしコーネリアと入れ替われるなら、あれほど愛してもらえるなら、百年の拷問にだって喜んで耐えたろう。抱きしめられた瞬間に死んでも悔いはなかった。
ずっとヴェンデルを慕ってきた。
彼の力になりたいと、そう願ってきた。
だが、もう二度と彼の笑顔が自分に向けられることはない。
自分がその気になれば、権力を振りかざしてコーネリアを救うことは出来た。
そうしなかったのは醜い嫉妬があったからではないのか。
その末路がこれだ。
後悔してももう遅かった。
伯爵夫人の耳元で幻聴が嘲る。
それはかつて彼女が成り上がるため、蹴落としてきた女達の声だった。
「ああ、すっとする。すべてを失った私達と、おまえもこれで一緒だよ」
「まぬけな女!! いちばん大切な思い出を、自分自身の手で壊すなんて」
「恋い慕う男に軽蔑され、苦悶の中で生きるがいい。おまえに似合いの生きざまさ」
彼女達は指を突きつけて快哉をあげた。
ローゼンタール伯爵夫人は涙を流すことさえ出来ず立ち尽くしていた。
……コーネリアはあの夜以来、心を病み、社交界に一切顔を出さなかった。
紅の公爵は、愛するコーネリアが傷ついたことを深く嘆き、彼女を追い込んだ貴族達の顔を忘れなかった。伯爵夫人は、舞踏会場の屋敷の主であり、弓を手にしていたため、いじめの首謀者の一人と思われていた。近くにいるだけで冷ややかに一瞥し、同じ空気も吸いたくないというふうに背を向けて歩き去った。取りつく島もなく、誤解を解くなど夢のまた夢だった。伯爵夫人は心の中で泣いた。
それでも伯爵夫人の紅の公爵への愛は変わらなかった。
ソロモンが看破したとおり、すれた彼女の心の底には、一途な乙女がいた。
紅の公爵が幸せであるよう、いつもそう祈っていた。
だから、彼の伴侶であるコーネリアが立ち直ることを、強く願った。
紅の公爵が一番に望むのは、コーネリアの幸せなのだと、あの夜に悟ったからだ。
だが、十年が過ぎても、コーネリアはひきこもったままだった。
他人の不幸は蜜の味だ。
コーネリアは「堕ちた天才」と貴族社会で揶揄されるようになった。
子供も授からない。
あげくにバイゴッド侯爵夫妻が借金のかたに、息子の愛人としてシャイロック商会の娘をあてがおうとしている、という噂まで聞こえてきた。
ローゼンタール伯爵夫人は歯噛みした。
「……なにやってんのよ……!! あんなつまらない連中にいいようにされるなんて……!! あんたはヴェンデル様が選んだ女でしょう……!!」
誰もいない自室で、伯爵夫人は荒れ、高価な壺を振り払って叩き壊した。
「あんたが幸せにならないと、ヴェンデル様が不幸なままなの。お願いだから、もっとしっかりしてよ……!! せめて、あの女を守るためになら嫌われたって仕方なかったって、私に思わせてよ……!!」
と壁に額を押し当て、一人泣いた。
コーネリアの名が、魔犬ガルム討伐によって再び輝いたとき、家族友人以外で一番喜んだのは、ローゼンタール伯爵夫人だったかもしれない。
コーネリアは、生まれたばかりのヴェンデルとの愛児を守るため、小山のような怪物相手に一歩も退かず戦ったという。ハイドランジア最強の王家親衛隊が口を揃えて、その戦いぶりを誉めそやした。最初は大袈裟と嘲っていた貴族達だったが、公爵邸を襲撃した魔犬ガルムの凄まじさが明らかになるにつれ、悪口を控えざるをえなくなった。ガルムは大陸の名うての騎士団や戦士達を喰い殺していたのだ。
さらに、そのとき守られた赤子が異常な天才児として宮中で名を轟かすようになり、母であるコーネリアの評価は一変した。
ルーファスと名づけられたその「男児」は、どんな王や英雄も身につけられなかった真祖帝のルビー
を身につけ、ハイドランジア有史以来の大惨事となりかけた蝗害を、最低限の被害で食い止めた。ルーファスの忠告に耳を貸さなかった貴族達は衰退し、一番熱心に耳を傾けた王家は、往時の勢いを取り戻した。
(※注 ルーファスは、性別を偽ったスカーレットの「男性名」です)
ルーファスは貴族名鑑なしで、末端の貴族の顔と名前を諳んじる。
家族構成、家の由緒、領地の詳細まで話題にできる。
天候を読み、次の貴族社会での流行りを的中させる。
飛ぶ鳥落とす勢いのオランジュ商会を手足のように動かし、その目と耳は海外にまで及ぶ。
彼は、台頭する中産階級に、より上流の貴族文化を売ると謳い、マナーや知識を無償提供した。社会は貴族を頂点に構成されている。旧き価値観の人間にとり、それは猿に人の文化を教える行為だった。最初世間知らずのお人好しと嘲笑った商人たちは、やがて蒼白になった。
ルーファスの真の狙いは、実利主義な中産階級と伝統権威の貴族文化の融合だと気づいたのだ。
つまり新文化というフロンティアを創り出す。
それこそがルーファスの描いた青写真だった。
そして狙い通り、彼は新文化のコア的存在となった。
自分でブームを発信するのだから、的確な商品も事前に用意できる。
時代の変革期をルーファスはいち早く見抜いていた。
強固な貴族絶対時代が崩れ出し、次の息吹が花開こうとしている。
その新文化は、好奇心旺盛な先進的な貴族も魅了しつある。
時代に取り残されまいと、ルーファス派とでもいうべきものが誕生した。
ルーファスを中心に巨万の富が回り出していた。
伝説の「治外の民」を手懐けたとも聞く。
さらに父親は英雄、紅の公爵。
王家は、わずか三歳のルーファスに子爵位を授けたが、誰も笑うものはいなかった。
女の子のような顔立ちなのに、底なしの影響力をもつ化物。
天才マーガレット王女をも感服させる鬼才。
ゆえに人々は「魔王姫」の通り名でルーファスを呼ぶ。
父親譲りの赤髪と赤い瞳をきらめかせ、海千山千の老獪な貴族達を相手に、ルーファスは華麗に会話をする。自分達しか知らないような地元の密かな自慢を話題にされ、貴族達は驚き、そして喜ぶ。芸術への造詣も深く、その話術は心地よいダンスにも例えられる。
それほど社交的なのに、ルーファスは自領にこもりがちだ。
意図が読めず不気味極まりない。
この知恵袋に背かれぬためなら、王家は爵位どころか婚姻話まで辞さないだろう。
ルーファスの父親の紅の公爵に第一王女を降嫁させる話が出たこともあるし、次期王位継承者と目されるマーガレット王女はルーファスと意気投合している。王配となる可能性は極めて高いと噂される。
「なんという規格外な……さすが、紅の公爵の御子息ですな」
感嘆する貴族に、ローゼンタール伯爵夫人はさりげなく言う。
「紅の公爵と弓の鬼才の子供ですもの。不思議はありませんわ」
「なるほど。公爵夫人が堕ちた天才と言われたときは、どうなるかと思いましたが、やはり紅の公爵殿は慧眼だったというわけですな」
感心する貴族に悟られぬよう、伯爵夫人は口元の笑みを扇で隠した。
そして、頃合いと見て、コーネリアに舞踏会の招待状を送ったのだった。
◇◇◇◇◇
語り終えたローゼンタール伯爵夫人は、長い息をついた。
「今夜ここに招待したのは、14年前のあの夜に集った貴族達よ。コーネリアに気づかれないよう仮装舞踏会のかたちを取ったけど。……感謝するわ。あなたがくれた魔眼のおかげで、私の望みがやっと叶う」
ソロモンは興味深そうに鼻眼鏡を、くいっと人差し指であげた。
「14年前になぞらえ、対決をし直したいわけですか。魔眼と魔弓の狩人……ふふっ、研究意欲のわくカードの組み合わせですね。それとも紅の公爵を、魔眼の力で魅了しますか?」
「なぞらえる? 違うわ。14年前そのものの再現よ」
言い放つなり、ローゼンタール伯爵夫人の眼が炯々と異様に輝いた。
獣が毛を逆立てるように髪が膨らむ。
ぐにゃりと光景が歪む。
「ほう、これは……」
ソロモンが周囲を見渡し、感嘆する。
老朽化が進んでいた伯爵夫人の居城は、最近になって立て直した。
その瀟洒な建築様式が、以前の武骨で暗い城に戻っていく。
幾多の拷問と殺戮の歴史が刻まれたおそろしい暗い建物だ。
堅牢な石造りの壁は、獲物の助けを求める声を外に漏らさない。
戻ったのは城だけではない。
舞踏会場に集っていた貴族達もまた若返っていた。
だが、彼らは疑問を抱くことはない。
なぜなら、彼らの心もまた14年前の夜に戻っていたからだ。
相手の視界と精神さえ自由にあやつる、伯爵夫人の魔眼の強力な催眠能力だった。
「魔眼を短期間でここまで使いこなすとは見事です。ですが、こんな使い方をしては命に関わります。コーネリアを倒すか、紅の公爵を虜にするかに絞ったほうが効率的ですよ」
ソロモンの提案に伯爵夫人は笑った。
「どちらもごめんだわ。私はコーネリアがヴェンデル様にふさわしいかどうか、今度こそ確かめたいの。そうしなければ私は一歩も前に進めない。私もコーネリアも、あの夜にいまだ囚われたままなの。でも、今のコーネリアならきっと……。対決なんてそのあとだわ。それにね」
負荷のかかったローゼンタール伯爵夫人のまなじりから血の雫が頬を伝う。
ソロモンには彼女が泣いているように見えた。
「雪の日に私を助けてくれたヴェンデル様との思い出は、私の宝物。あの頃の私は身体は穢されても心だけは綺麗だった。あの方に魔眼なんか使ったら、私は本当になにもかも失ってしまう」
ソロモンは立ち上がり、胸に手をあて、恭しく一礼した。
「……その愛に敬意を。あなたに魔眼を与えてよかった」
ローゼンタール伯爵夫人はそれほどまでに紅の公爵を慕いながら、一度も愛していると口にしなかった。まるで口にする資格がないというふうに。
これからも口にすることはないだろう。
それほどまでに彼女は彼を愛していた。
その一途な哀しさにソロモンは頭を垂れ、あえて愛と口にした。
伯爵夫人は驚いたように目を見張り、そして恥ずかしそうに吐き捨てた。
「これはただの女の意地よ。落ちぶれた男がときに誇りのために命を懸けるように、汚れた女は意地に命を懸けるの。それしか持っていないから仕方なくよ」
露悪的に口にするローゼンタール伯爵夫人の背中に、ソロモンは含羞の乙女を感じた。
「ふふ、あくまで意地と言い張りますか。ならばなんと美しい意地であることか。我が研究にふさわしい。では、せめてフロイラインな魂に乾杯を」
といつの間にか手にしたワイングラスを掲げた。
伯爵夫人はソロモンの前を横切り扉に向かったところで、ぴたりと足を止めた。
「……このいかれたマッドサイエンティスト。あなたがあのメイドの娘を助けたのも、なにかの研究と言い張るつもりかしら」
口調はきついが瞳には親愛の情があった。
見事に切り返されたソロモンは苦笑した。
「気づいていたのですか。やれやれ、アリサといい、やはり女性は神秘だ。学び甲斐がある。では、女の意地の戦い、とくと拝見させてもらいますよ。ご健闘を」
「好きにすればいいわ」
ローゼンタール伯爵夫人は尊大にうなずき、颯爽とドレスの裾をさばき、扉の向こうに姿を消した。
晴れ晴れとした顔をしていた。
その後ろ姿を、ソロモンは扉が閉まって後もずっと見送っていた。
「……ふふ、してやられました。アリサ。幾多の力を得ても、まだ貴女には届かないということか」
ややあってソロモンは苦笑した。
彼はアリサが自分を退け、スカーレットの懐にもぐりこんだことを察知したのだ。
真の歴史のブラッドと自分が手を結ばぬよう、先回りして休戦協定を結んだことも。
ついでに七妖衆に試練を与え底上げし、真のブラッドの顕現時間も削いだ。
なにもかもアリサの手の上だ。
「ですが、学者を甘く見ないことです。病気、外敵、飢え、人類の障害を誰よりも克服してきたのは、どんな強者でもない。我ら知恵の先駆者なのですから。まだ私と貴女の駆け引きは始まったばかり。ふふ、なんと堕とし甲斐のある絶対王者。いつか貴女をねじ伏せ、端正な顔を屈辱で歪ませるとき、どんな方程式を解くにも勝る悦楽が得られることでしょう……」
ソロモンは月明かりのもと、一人芝居のように語る。
「貴女はローゼンタール伯爵夫人を塵芥にしか思っていない。この私さえ手玉に取る貴女から見れば、伯爵夫人は王大后の邪魔をした身の程知らずでしかあるまい」
ソロモンの鼻眼鏡が煌々とぎらつく。
「ですが、アリサ。私は今回、伯爵夫人にベットを積みますよ。脇役が必要以上に光り輝けば、舞台は無茶苦茶になる。……誰も力では貴女に敵わない。ですが、知恵ならばどうでしょう。まずは貴女の完璧な計算を狂わせてあげます。スカーレットの人生に関わった端役の力を引きずり出す、私のこの〝ギフト〟でね。ふふっ、石を宝石に変えるこの錬金術。無数に増える運命の歯車を、どこまで読み切れます? アリサ」
ソロモンが両手を広げると、如何なる技か、無数の金貨が宙に浮かんだ。
金貨はふわりと移動し、縦一列に重なった。
一番上の金貨に、ソロモンは指先を押し当てた。
「さあ、賭けのはじまりです。伯爵夫人は自分の命さえ担保にする覚悟を見せた。〝ギフト〟は贈り物であり、毒でもあるのです。私の想い人スカーレットの母として、コーネリアよ。毒ごと喰らうほど見事に応えて見せなさい。さもなくば……死にますよ。あなたは私のどうしても生かしたいリストには入っていません」
金貨が輝き、鮮烈な光となって四散した。
「ふふっ、ローゼンタール伯爵夫人、期待を裏切るようで申し訳ないが、私は善人ではありません。目的遂行ためになら、すべてを犠牲にすることを厭わぬ狂気。それこそが研究者を突き動かす源泉なのですよ……!!」
ソロモンの姿は消え失せ、あとには深々とした闇だけが残った。
お読みいただきありがとうございます!!
コミカライズ第4話目その1が、1月7日の11時より無料公開開始です!!
脚線美かつデンジャラス衣装なこの方は誰?
(※108回の世界では、女性の衣装はロングスカートが基本です)
作画の鳥生ちのり様が、ツイッターをされています。
漫画の応援コメントをぜひぜひ、そちらに!!
https://twitter.com/12_tori
なお、悪口コメントは、なまくらのほうに。
あまりに悪意に満ちてると思ったら削除しますけど(笑)
お待ちしております。
今回からほんのちょっと話のカラーが変わります。
テーマはロマン(笑)。
ど下手ではありましたが、異世界恋愛バトル路線はお腹いっぱいやらせていただきました。
次はどれだけロマン(笑)を詰め込めるか無謀な挑戦。
なので、すみません。
しばらくはこの手の話が続く予定です。
ますます異色化していくこの作品。
どうか石を投げないでください。
それとこちらの事情で申し訳ないのですが、2月初旬くらいまでは、御感想への返信が遅れたり、短かったりするかもしれません。何卒ご寛恕いただきますようお願い申し上げます。




