闇の章 中編③ 人生最後の賭け ~我が命は、せめて口に出せぬ貴女への想いのために~
ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!
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【アリサの語り】
あはっ、誰とも知れぬ貴方、ごきげんよう。
今は朝? 夜? それとも滅びの黄昏時かしら?
私としたことがうたた寝をしていたようね。
瞼を開くと、いまが戦争中で、私が万の軍勢に囲まれているのなら最高だったのだけれど。
なぜですって?
だって命を賭して立ち向かってくる男達ほど素敵なものはないもの。燃えあがる血と魂の咆哮、それがぱっと散って訪れる静寂の余韻。どんな美酒よりも濃厚で芳醇で、私を恍惚と酔わせてくれる。なんて愛しい。その見事な散り花を、私は自分の髪に一輪差し、ともに地獄を歩む栄誉を与えてあげるの。
私はアリサ。アリサ・ディアマンディ・ノエル……。
……ふふっ、うっかりしていた。この名から先はまだ内緒だったのよね。秘密のヴェールは女のたしなみ。でも、ヴェールを脱ぎ捨てれば、そこはすぐ素顔。事情があっていろいろと秘するけれど、私自身は、目的のためなら神も人も叩き潰す程度のありふれた女よ。
私の望みはただひとつ。
それは、炎のなかで中断した、あの愛しいスカーレットとふたりきりのダンスを、今度こそ最後まで踊りきること。そのためになら世界を壊すことも厭わない。
狂ってなんかいないわ。私はこれでも正常な女のつもりよ。
恋した相手に一目会うためだけに、街を火の海にだってできる、それが女という生き物の本質よ。恋のためなら、どこまでも狂おしく身勝手になれる。
ええ、たしかにたいていの女性はそこまでは踏みこまないわね。でも、それは「しない」のではない。「できない」だけよ。あるいは傷つき、傷つけるだけの勇気がないか。胸に手をあててごらんなさい。きっとおぼえがあるはずよ。
私には夢を叶える〝力〟がある。良心という首輪にしばられるほど臆病でも従順でもない。だから、立ち塞がるものはすべて踏み潰し、夢をかなえる。
男は恋に価値を求めるわ。ロマン、最高の伴侶、周囲の称賛、理想、思い出、性欲……あはははっ、なんてつまらない冷めた生き物かしら。
女はね、本当に恋したとき、理由なんていらないの。感情それがすべて。全身全霊の恋に燃え狂うため、そのために生まれてきたの。そして、その恋のためなら死んだっていいと思えるの。だけど、それは長い人生、広い世界で、たった一度だけさえ巡り合えるかどうかの奇跡の恋。
思い出すわ。「真の歴史」の終焉。あの劫火のなかの対峙で、私はスカーレットへの本気の恋に堕ちた。理屈じゃない。直感でわかったの。その瞬間、私の世界は一変した。
今でも鮮やかによみがえるわ。
あの寂しがりの泣き虫がたったひとりぼっちになって、なお心折れずに、この私に立ち向かってきた。今すぐ死にたい、みんなの後を追いたいと、心のなかで泣き叫びながらね。なのに、涙ひとつぶ零さずに。絶対的な恐怖の化身のこの私を、正面から睨み据えて。
衝撃だったわ。稲妻に脳髄を貫かれたようだった。目にうつる景色が急にきらきらし、胸が震えた。私は私より孤高の存在にはじめて出会ったの。私は最初から地獄で生きてきた、地獄が日常だった。けれど、あの子は天国から地獄に叩き落とされてなお、輝きを失わなかった。誰よりも周囲に愛され、その愛してくれた人達すべてを失い絶望し、なおいっそう魂を輝かせる者。
どちらが上かは言わずもがな。
ふふっ、つい語りすぎてしまったわ。あの子のことになるといつもそう。恋って罪ね。この私にさえ我を忘れさせるんですもの。
なのに、スカーレットに魅せられ、言い寄ってくる余計な輩の多いこと。まるで無限にわく夏の蠅ね。私とスカーレット以外はすべて邪魔よ。善人だろうと悪人だろうと関係ない。全員叩き潰し、血霧の染みに変えたら、どんなに世界はすっきりすることか。
……ふふっ、いけないわ。昂りすぎるのは私の悪い癖ね。
それに、これは私ひとりの物語じゃない。私とスカーレット、ふたりの物語。
素敵なふたりのダンス、それは、ふさわしいパートナーの成長なしでは踊れない。ひとりきりで舞台に立ってもつまらない。だから、ねえ、スカーレット。私は運命の階段の踊り場で待ち続けるわ。貴女が試練をのりこえ、私の隣に並び立つ未来を。私のもとまで登ってるその日を。
ああ、ときめくわ。夢は叶うときよりも見ているときが一番すてき。その愉しみのためなら、みんなに小馬鹿にされる愚鈍な令嬢アリサの芝居なんて苦にもならないわ。
あはははっ、だから、スカーレット。私の期待を裏切らないでね。刺すような冬の経験を経て、球根ははじめて花を咲かせるわ。私があたえる試練を経て、貴女がどれだけ大輪の花を咲かせるのか、思いを馳せると胸が躍る。
でも忘れないで。期待が大きければ、落胆もまた大きいの。
シンデレラのように舞踏会から逃げ出すなど許さない。一度でも試練に背を向けたなら、その魂はもう背中に傷を負うわ。この私が道化に身をやつしてまで、貴女に主役のスポットライトを譲り渡しているのよ。それなのに、あまりもたもたと待たせるのなら……。もう遠慮は捨てさり、私のやり方で舞台を支配するわ。「真の歴史」でのやり口は知っているでしょう。なにもかも殺し尽くしてあげる。貴女の肉親も恋人も友も知人もすべてね。九王国すべてを血と鉄の粛清の坩堝に叩きこむの。
ねえ、「108回」で貴女は自分のことを悪逆女王と自虐していたわね。笑わせるわ。あれは国民を守るために非常手段をとったのに、理解できない愚か者どもに逆恨みされただけ。民衆は笛の音に踊るネズミたち。少し煽動するだけでいいように踊るのよ。
愛しい貴女に、私が為政者のお手本を見せてあげる。不穏分子に温情は不要。潜在的な敵も含め、すべてあぶりだす。家族親族やお友達も、疑わしき者はみな道連れよ。天に届く死体の山をいくつも築き、私の強さの見せしめになってもらうの。それを千回も繰り返せば、反抗するものなど誰もいなくなる。私の覇道に従うものだけが残るわ。もろい白骨とて、数万も集まれば、覇道の土台ぐらいにはなるということね。
おぼえているかしら。教会のまわりを埋め尽くした真新しい幾千、幾万の墓石。ふふ、あのときの貴女の泣き顔は見物だったわ。雨のなか冷たい墓石にしがみついて泣き叫んでいた。
「ごめんなさい。私、こんなにお父様に愛されてたなんて知らなかった。愚かな娘でごめんなさい」
と何度も血を吐くように謝りながらね。あそこにはお友達だけでなく貴女のお父様も埋まっていたのよね。「真の歴史」での彼は、風土病で若い頃の力をすべて失ったけれど、愛娘の貴女を守るため、憎まれ役を演じてまで、この私と刺し違えようとした。貴女だけでなく私の目まで欺いたのだもの。見事だったわ。
とても素敵な男だったけれど、私は逆らう相手には容赦しないの。幼馴染のブラッドも、セラフィも、他の5人の勇士も、妹のように可愛がっていたフローラも、残らず叩き潰してあげた。だけど、貴女は絶望と悲しみのなか、それでもくじけずに私に立ち向かってきた。もう一度あの美しい光景が見られるとしたら……!!
あはあっ!! なんて背筋がぞくぞくするのかしら。私は誰より知っている。血と後悔に満ちた地獄でこそ、貴女は真に光り輝く。あの忌々しいルビーの赤よりもずっと。だから、お願い。もっともっと傷ついて。
あまたの屍の階段を踏みこえ、貴女が私の前に立ったとき、きっと私の見おろす世界が少しだけ理解できるでしょう。私は含羞に頬を染め、ダンスの誘いの手を差しだすわ。貴女は怒るかしら。悲しむかしら。ああ、それとも……どんな瞳と表情で、私の手を取ってくれるのかしら。とっても楽しみ!!
私達のダンスが終焉を迎えたとき、舞台に立っていられるのはひとりのみ。
それが私達ふたりのさだめ。だからこそ、私の心は期待でこんなにうち震えるの。恋は終わりを迎えるかもしれないけれど、私達の関係は永遠と確定しているのだもの。だって、殺したライバルを忘れるなんてできっこない。私が勝てば、あなたは私の心のなかで。あなたが勝てば、私はあなたの心のなかで。いつまでも一番の思い出として輝き続ける。これほど素敵なことがあるかしら。
でもね、だからといって手心を加えるほど私は甘くない。なによりそれは私の認める貴女への最大の侮辱だもの。最後の瞬間まで、私は私を貫くわ。
ねえ、スカーレット。次の時代を地獄にしたくはないでしょう。だったら、私を滅ぼすために、覚悟を決めて全力で駆けのぼってきなさい。自分で言うのもなんだけど、私はとても手強いわよ。
あはっ!! 心待ちにしているわ、私の愛しいスカーレット。
【スカーレット視点】
みなさま、こんにちは!! 私はスカーレット。スカーレット・ノエル・ハイドラン……。おっと、国名を冠するのは女王時代の名乗りでした。いまの私はただのリンガード公爵家の娘っこです。
我が容姿と状況をさらっと紹介。まっかな髪にまっかな瞳、そして赤ちゃん。胸に輝くはチャームポイントの不思議なルビー。さらに公爵邸が、魔犬ガルムとの死闘で爆破炎上、紅蓮で焼き尽くされました。もはや家計までまっかっかの赤まみれのループ令嬢です。まさか生誕してすぐに屋根のないサバイバル生活を強いられるとは。人生やり直しでウハウハ期待してたら、前より赤貧、素寒貧、星空のした、垢まみれかもとはこれ如何に。
まあ、いいか。命さえ助かればなんとかなるし。
「108回」では国民に嬲り殺しにされる末路もいっぱいあったし、それに比べれば、全然オッケー。余裕しゃくしゃく。どんとこい。
思い出すよ。「108回」で暴徒と化した国民にやられた、口鼻に墓場の汚泥を詰められての窒息死。あれは苦しかった。名状しがたい味と鼻をぶん殴るような臭い。ぜったい腐敗途中のなんかが混じってた。蠢く虫みたいなのも頬の内側で蠢いてたし。さすがに嘔吐したんだけど、寄ってたかって押さえつけられ、その百倍の勢いで追加の泥を押しこまれた。
「ごちそうを食らわしてやる。あんたが贅沢してた頃、私たちの子供は飢え死にしたんだ。墓石もなく、ここにまとめて埋められたんだ。これはあの子たちの涙の味だよ」
ってお母さん方が叫んでたな。泣いてた。私ももらい泣きしそうになった。子供関係で怒った女の人ほどせつなく怖いものはないね。誤解なんだけどな。大飢饉のとき、女王の私はちゃんと各地に災害用の食糧を配布した。でも、けっこうな数の領主たちがそれを懐に入れて、しかも私のせいにしたんだ。運命が理不尽がすぎる。この慎ましやかな胸部装甲を見てください。贅沢してたように見えますか?
って思いだして、いろんな意味で悲しくなってきた。なにはともあれ、今回は大好きなお母様が生き残ったから、私的には大黒字です。うん、そう割り切って前を向くべし。
さてさて、現状説明の続きです。
お母様を殺そうとした黒幕、シャイロック商会の会頭デズモンドを、ついに私達は追い詰めました。ですが、じつは元凶は彼ではなく、娘のアンブロシーヌと判明。しかも動機はくだらない私利私欲。お母様がいなくなれば、自分がお父様の妻になれると思いこんだらしい。いや、天地がひっくり返っても無理でしょ。あの妻ラブ公爵、そんなことになったら、きっと一生独身を貫くよ。なのに、思いこみでそれだけの事件を起こしたアンブロシーヌ本人は逃亡。で、父として娘の責任を取ってデズモンドは切腹してってわけだ。
立派なんだけど、華麗なやり直し令嬢ものからどんどん離れていくのは如何なものか。気がつくと、ここは残酷時代劇風の冥府魔道。もはや異世界恋愛のタグが風化し、乾いた風で剥がれそうにうら悲しく揺れてます。
そして、私の胸にぶらさげた神秘のルビーの見せてくれた過去の光景で、私達は、アンブロシーヌのど外道ぶりをさらに盛沢山で次々に見せられ、予想以上のやらかしっぷりに、怒りをあらたにしている真っ最中なのです。
◇◇◇◇◇◇
……いま見ている過去の光景は、アンブロシーヌが憎ったらしく口元を歪めて、兄のデクスターと悪だくみしている場面だ。十代はじめの頃の令嬢の表情じゃない。五十とか六十すぎの悪だくみばっかりしてきた中年の表情だよ。もとは整った顔立ちなんだろうけど、根性の悪さがにじみ出て、童話の挿絵の性悪狐にそっくり。こいつは宝石やドレスよりも、まず鏡を家中に常備すべきだ。
しかも、いま盛りあがってる話は、じつの弟エセルリードを蹴落とす話。
この兄姉は、父デズモンドに次期会頭候補とされた弟エセルリードを、一方的に激しく憎んでいた。自分に原因ありとは考えないのか。そりゃあ、そんな性格じゃ、デズモンドに後継者失格と見なされるよ。
「エセルリードのやつ、あいつがお父様のお気に入りなんて……!! いまに思い知らせてやる。いいこと思いついた。あいつの恋人の娘をまず殺すの。あんな貧乏娘、お金の力で好きに潰せる。そうすれば甘ちゃんのエセルリードは、娘の後追い自殺をする。これでシャイロックの後継者争いから脱落よ。ざまあみなさい」
「フオアアアアっ!!」
私は怒りに我を忘れ、雄叫びをあげ、手足をふりまわして暴れた。
「なんだ!? 突然、火がついたみたいに……!! お、おい!! スカチビ、落ち着けって!! ほら!! 言わんこっちゃない!!」
赤ん坊の頭は重い。早い話、とても重心のバランスが悪いのだ。ぐるんっと回転し、逆さづりになった。ブラッドが必死に抱きとめなけれは、地面に顔からダイブしていただろう。
だが、天地さかさになっても私の怒りはおさまらなかった。
許せない!! 許せない!! 許せない!!
エセルリードは、「108回」の女王時代の私を、陰日なたなく支えてくれた側近だ。身体をはって何度も命を救ってくれた。疵だらけの貌でも、寡黙でも、本当は優しい人だと身をもって示してくれた。なのに、彼は笑ったことがなかった。だから、私はいつも少しだけ寂しかった。彼が私に心を許しきってないのか、と。しかし、それは誤解だった。笑わなかったその悲しいわけを、彼は私を守って死ぬとき、はじめて明かしてくれた。
「……お許しください。陛下。私は亡き恋人に笑顔を捧げると、彼女の亡骸の前で誓ったのです。私が彼女にあげられるものは、それぐらいしかなかった……。こんな私をあんなに愛してくれた彼女を、私はひとりぼっちで死なせてしまった……。どんなに痛かったろう。苦しかったろう。すまない……すまない……」
エセルリードは泣きながら謝っていた。二十年以上たっても、亡くなった恋人への愛は、彼のなかで生き続けていた。思いだすだけで涙があふれるほどに。だから彼は生涯独身を貫いたんだ。
その悲しいまでに一途な恋心に、私は圧倒され、言葉を失っていた。
「エセルリード……」
「陛下、どうか御無礼な告白を、お許しください……。私は、あなたが自慢の娘のように愛おしかった。何度、よく頑張ったと笑いかけたいと願ったことか……。ずっと苦しかった……でも、死にゆく、いまなら……」
エセルリードの言葉が途切れ途切れになっていく。
そして、エセルリードは、はじめて私に笑いかけたんだ。ずいぶん長い間笑っていなかったから、笑い方を忘れてしまった、ちゃんと笑えていますか、と苦しい息の下で呟いて。私もエセルリードにしがみつき、涙をこらえて精いっぱい笑い返した。
「だいじょうぶ。とっても素敵な笑顔よ。でもね、たとえ笑ってなくても、亡くなった恋人さんにも、私にも、エセルリードの優しさはちゃんと伝わって……エセルリード……?」
返ってくる言葉はなかった。エセルリードは少年のような含羞の笑みを浮べ、すでにこと切れていた。
「なんでよ……!! やっと笑いかけてくれたのに……!! 娘のように思ってるって、言ってくれたばかりなのに……!! ……なのに……どうして……!!」
マッツオも同じようなことを言って、私を守って死んでいった。ふたりとも亡くなった恋人への愛に殉じた真にあたたかい漢たちだった。なんでこの素晴らしい人達が、こんな悲しい思いをしないといけなかったんだ。
この手に伝わる失われていく体温を私は忘れない。忘れられるものか。
あんたみたいな女が、鼻唄まじりに踏みにじっていい恋じゃなかったのよ!!
やるせなさに私は咆哮し、淑女にあるまじき必殺の蹴りを、アンブロシーヌに叩きこもうとした。私を抱きかかえたブラッドもいろいろ察したらしく、位置取りに協力してくれた。
「よし、スカチビ!! いまだ。キックをつかえ!! 目だ!!」
「ミリャアアアッ!!」
しかし、所詮は過去の幻影。裂ぱくの気合いをいれても、憎たらしいやつには触れることさえかなわない。私の攻撃はむなしく空を切る。
「やっぱ、スカチビの短足ではムリか」
とブラッドが嘆息する。
ちょっと!? 私が短足みたいな言い方!? 新生児は全般的に短足なの!! それに、いま爪先ぐらいはかすめたはずなんだ。だけど……!!
「オレもやってみっか。……おっ!? ……そういうことか。すでに起こっちまった過去には触れられないってことだな」
続いてブラッドが蹴りを放つが、やはり無駄だった。アンブロシーヌの姿を攻撃がすり抜けてしまう。
「なあ、スカチビ、オレに案がある。ひとつ乗らないか。まずおまえの下半身を、このアンブロシーヌの幻のなかに突っ込む。そこでお漏らしだ。高慢ちきなヤツにはきっと大ダメージだ」
バカの考え休むに似たり。大ダメージは私の尊厳だけだ。私の貴重な愁嘆場をめちゃくちゃにしおって。私はコメディーリリーフ投手じゃないのよ。これでもエースでヒロインなのに。ま、おかげで少しは悲しみが紛れたけどさ。……あ、もしかして、わざと?
ブラッドは知らんぷりをして、そっぽを向いている。
ありがとう。落ちつかせてくれて感謝するよ。わかったよ。冷静になにが起きたかを見守る。次の被害者を出さないために。それが私にできる唯一のことなんだね。だけど、悔しい、悔しいよ。
切歯扼腕する私を尻目に、過去のアンブロシーヌによる、エセルリードたちへの非道の悪だくみはさらに続いていた。
「とはいえ、しょせん貧乏人の娘。殺したところで、エセルリードも娘をあっさり忘れ、新しい恋を見つける可能性が高いわ。もし貴族や大商会の娘が次の相手になれば、私とて簡単には手が出せない……。それはかえってまずいわね」
あんたのくさった常識でエセルリードを語るな!!
彼は、彼はね……!! ずっと死ぬまで……!!
私は怒りと悲しみに歯軋りした。だめよ。感情を抑えなきゃ。冷静にならきゃ。だが、アンブロシーヌは、さらに私の怒りに火をそそぐ爆弾を投下しやがった。
「いい事を思いついたわ。まずあの貧乏娘の母親を毒殺してやるの。なるべく長く苦しませる毒の実験にちょうどいいわ。看病する娘を、エセルリードはあの甘ちゃんだもの。必死になって支えるわ。娘だって感謝し、よりエセルリードを愛するように……ふふっ、そして、母親が亡くなった悲しみをふたりで乗りこえたとき、その恋の絆は、唯一無二に!! どちらか片方が死ねば、もう片方も生きていけないくらいに!! ああ、私ってなんて弟思いの優しいキューピッドなのかしら。ふたりの仲は永遠。あの世でもずっと仲良くね。シャイロック商会は私にまかせておいて」
弓をひく真似をして高笑いするアンブロシーヌ。
私の怒りは再びあっさり限界点を突破した。
もしヤカンだったら、ぴーっと耳から蒸気が噴出したろう。
おのれ、外道。恋のキューピッドに土下座して詫びろ。いや、これはすべての弓使いへの侮辱!! お母さま、出番ですよ!! 得意の毒矢であいつを射殺しちゃってください!!
ええい、この際、アーノルドでもいい!!
あんたの馬鹿力の弓で、アンブロシーヌの胴体をまっぷたつにしちゃいなさい!! 私が許可する!!
アーノルドとは「108回」で命のやり取りをした間柄だが、あいつは曲がったことが死ぬほど大嫌いだ。きっと手を貸してくれる。
「落ち着けって。気持ちはわかるけどさ。アーノルド? は誰かわからんけど、コーネリアさんは今回は留守番だし、目の前で起きてるのは過去の出来事だ。誰も手出しはできない。もう確認済みだろ」
ブラッドが気の毒そうになだめるが、私の怒りはおさまらない。私だってとっくにわかってる。だけど、こんな理不尽、心が納得できないんだよ!!
あまりに無情なやり口に、アンブロシーヌの相方のデクスターもドン引きの表情を隠せなかった。こいつは少しはましな性格らしい。
〝……追い落とすならともかく、弟殺しとか、妄想にしても口にしちゃ駄目だろ。しかも何人巻きこむ気だ。親父が耳にしたら、半殺しじゃすまないぞ。こいつ、自制心ってもんがないのか? だから、社交界に出禁なんぞ喰らうんだろうが〟
アンブロシーヌは、自分より格下でかつ美しい令嬢たちを、何人もいじめ倒してきた。舞踏会でドレスを破る、セットした髪を汚物で穢す。足をひっかける。悪口でいびる。そこまでは父のデズモンドも厳重注意ですませたが、毒を盛ろうとしたり、馬車ごと暴漢に襲わせるにいたって、ついに大激怒。アンブロシーヌは社交界に出入り禁止になっていた。敵に容赦ないシャイロックの血が、きわめて限定的に、しかももっともデズモンドの望まぬ形で顕現していた。
「……はは、面白い。いい計画だ」
それでもアンブロシーヌの悪ノリにつき合わなければ臆病者とバカにされる。それは兄としてのプライドが許さない。しかたなく気を取り直し、手をうって笑ったデクスターだったが、ほくそ笑むアンブロシーヌの目が剣呑な光を帯びていることに気づき、ぶるっと身震いした。恐る恐るというふうに、声をひそめて語りかける。
「まさか……冗談でなく本気なのか。じつの弟だぞ。それにいくら貧民とはいえ、そんな簡単に何人も命を……。教会でどう懺悔する気だ……」
「教会? 懺悔? 笑わせるわ。肉親さえ相食むのが、私達シャイロック一族よ。まして赤の他人への思いやりなんて知ったこっちゃないわ。私達の絶対神は、金貨の輝きだけよ」
いけしゃあしゃあと宣言するアンブロシーヌにデクスターは、こいつイカレてると顔面蒼白になった。シャイロック商会は専属の密偵たちをもつ。本家の自分たちだって、いや、本家の自分たちだからこそ、監視の対象になっているかもしれない。アンブロシーヌだって知っているはずだ。だが、こいつは、自分がシャイロックの血を引いているという理由だけで、特別扱いされると疑いもしないのだ。
「……おっと、忘れてた。大切な商談の時間だ。すまんがもう行く……」
こんな自爆行為に巻きこまれてたまるか、とデクスターが、そそくさと退散したあと、アンブロシーヌは憑かれた目でじっと遠ざかる背中を凝視していた。
「臆病者にシャイロックの資格はないわ。だから、お父様から後継者として見捨てられるのよ」
侮蔑をこめて吐き捨てる。
「あの幸薄そうな貧乏娘、マリーと言ったかしら。おまえなんかにシャイロック商会、会頭夫人の座は渡さないわ。必ずエセルリードごと潰してやるから」
先ほどまでの小馬鹿にしきった表情の下から、もっとおぞましい本性がゆらっと現れ出た。欲しいものを残らず抱えこみ、まわりに牙をむいて威嚇し続けるあさましい餓鬼の顔だ。
「そういえば、お父様にちょっかい出してるあばずれもマリーといったわね。亡国の元姫かなんだか知らないけれど、いつまでも主君づらして。でも、こっちのマリーは、油断ならないわ。お父様のみならずお母様まで心酔させているんだもの。しかも妙に私のことを警戒しているし……」
アンブロシーヌは無能だが、保身には天性の勘をもつ。セラフィママがいる限り、シャイロックの権力の中枢は握れないと気づいていた。苛立って、ぎりぎりと爪を噛みしめる。
「あんな盲いた女に舐められてたまるもんですか。こっちから殺ってやる。けれど、あの女は人間離れして勘が鋭い。どうするか。そうだわ。あの女本人がダメでも、隙だらけのお母様にならたやすく麻薬を飲ませられるわ。心を狂わせる薬をね」
私は怒りも忘れ呆気にとられた。アホみたく口が開きっぱなしになり、目をぱちくりさせた。え? じつの母狙い? そう言った? なんでそんな発想になる。ブラッドも目が点になっていた。
アンブロシーヌのろくでなしっぷりは、私達の常識の範疇をこえていた。
「薬物中毒のお母様なんて、いくらでも好きに洗脳できるわ。そうだ。ついでにお母様のおなかのなかにいる私の弟だか妹だかも流産させ、罪をあの女になすりつけてやろう。後継者のライバルもいなくなるし一石二鳥だわ」
え、ちょっと待って。言葉の意味はわかるけど、まだ頭が理解を拒んでる。なんでそういう結論になるの。
戸惑う私を置いてけぼりに、アンブロシーヌは下手な小芝居の練習をはじめた。
「……ねえ、お母様。あのマリーって女は、お父様と不倫して孕んだの。だから邪魔なお母様を殺し、妻の座におさまろうとしたのよ。初恋同士だからって、こんなの許されないわ。お父様をずっと支えてきたのはお母様なのに……。私、悲しくて。うううっ。生まれる前のかわいい妹まで巻きこんで。かわいそうに。私も一目あいたかった……」
よよよ、とハンカチで目を拭って嗚咽する。が、肩の震えがくっくっくっというこらえきれない笑いに変わった。ばっと顔をあげる。ぎらつき歪んだ笑みが、顔いっぱいに広がっていた。
「そこで、とどめの一撃!! 「あの女一人だけ幸せになろうとしてる」って、女を狂わす魔法の言葉!! さあ、嫉妬と憎悪に狂うお母様が見物だわ。きっとあの女を殺そうとする。気持ち悪い友情ごっこなんて一巻のおしまい。私が直接手をくだすまでもないわ。あのとりすました女、親友であるお母様が悪鬼となって襲ってきたら、どんな表情をするのかしら……!! ああ、想像するだけで笑いがとまらないわ」
けたけたと嗤い、こらえきれず、うきうきとその場で踊りだす。
こ、こいつは……!!
「さっそく調合しなきゃ。麻薬と堕胎薬のあわせ技。私の夢をかなえる魔法のお薬。お父様の金庫からくすねた劇薬のレシピがこんなところで役に立つなんて!! やっぱり運命は私の味方なのよ」
過去の光景を見ていた私達全員が言葉を失っていた。
こいつは、他人の命と家族の人生をなんだと思っているんだろう。
お母様に使われたあの悪魔の堕胎薬!!
あの薬は、この女のつまらない私利私欲のために、こうやって生み出されたんだ。
私は激情にふりまわされ泣きそうだった。
今回以外の「108回」、お母様は心を狂わされ、子供殺しの汚名をかぶせられ殺された。その薬をアンブロシーヌは自分の母親にまで盛った。すべての母親を嘲笑うような悪行。むなしさに胸が痛い。救われなさすぎる。
ブラッドが私の頭を撫でて、無言で慰めてきた。
そして、意外な人物がもうひとり、
「泣くな、スカーレット。子供が自分を責めるな。アンブロシーヌを見逃したのは、この場で一番年長の僕の不覚だ。愛するコーネリアを殺しかけただけでも万死に値するというのに、ここまで非道を重ねていたとは。もう一度言う。僕の責任だ。次は問答無用で駆除する」
びっくりした。お父様、頭のなかはお母様一色だと思ってたのに、他人を気遣うことも出来たんだ。
もっとも私の涙が引っこんだのは感動からだけではない。だって、怒りが抑えきれず猛獣の唸り声みたいなんだもの。紅い瞳が焼き討ちの炎の色をしていた。怖すぎる。駆除って虫扱いですか。
「……いや、楽には殺さん。最低でも、生まれてきたことを、泣き叫ぶほど後悔させねば気がすまん……。さて、どうするか。まずは手始めに、飢死寸前に追いこんだアンブロシーヌを用意し、地面に頭だけ出して埋め、その鼻先に湯気の立つ御馳走を……」
いや、それって犬神憑きのつくりかたです。アンブロシーヌの怨霊なんて使役したくないし。
「それが序の口の前菜だ。次はスープだな……」
いや、もうそれ以上、拷問フルコースの紹介はいいですから。
気持ちはわかるけど、発想がなんか血みどろサイコパスなのよ。他人のふりしたいけど、この世に三つとない赤髪、紅い瞳のコラボレーションの相似性。これで赤の他人と言いはるのは無理がありすぎる。このいかれレッドマン公爵の血は間違いなく私に半分流れてるのだ。私はせめてもの抵抗として、耳をふさぎ、いやいやをするように頭を振り、拷問メニュー開示をこれ以上聞くのを拒絶した。
いっぽうブラッドは好奇心に負けて残る拷問フルコースを傾聴してしまい、後悔に顔を引き攣らせていた。
「聞くんじゃなかった。えげつな。普通、あんな残虐な手を思いつくか……。スカチビ、ちょっと聞いてくれよ」
内容語って聞かせないで!! 悲しみや苦しみはひとりで分け合ってください。寝れなくなっちゃうじゃない。私の努力を無駄にしたよ。このバカ!!
「おまえ、この親父さんの血が流れてるんだよな……。深夜、にたにたと呪文となえながら、オレの寝首かきに這い寄ってきそう……」
蒼い顔して、怪談話を聞いてトイレに行けなくなった中学生みたいなことを言ってる。
こんな可愛い私を、クトゥール神話だか妖怪だかわからない混沌ベイビー扱いすんな。
そして、やっぱ、やだ。こんな父親。
いまの考えこむアルカイックスマイルを浮べた端正な貌には、多くの貴婦人令嬢が身悶えするだろう。ほんと見栄えだけは最高だ。でもあれ、好意でも威嚇でさえもない。どうやって敵を最大限苦しめるか吟味してる、悪魔の笑みだから。
この妻ラブウォーリアーのあふれんばかりの殺意は、いまやシャイロック商会でなく、アンブロシーヌひとりに向けられた。巨大組織を消し飛ばそうとするほどの怒りが個人に集約。怖すぎる。末は凌遅刑か、ファラリスの牡牛か。さっき削り取られた馬車の千倍悲惨な結末が、手ぐすねひいて待ちかまえているだろう。
うーん、ちょっとだけ異議あり。挙手していいですか。
そりゃあ、私だってアンブロシーヌには心底むかついている。でも、苦しみをいたずらに長引かせるようなのは、どうかと思うのです。罪を憎んで、人をちょっぴりだけ憎む。償わせるなら、小一時間ぐらい苦しみのたうって、七孔噴血して絶命するぐらいで十分じゃないかな。
お父様案はやりすぎだ。コース二皿目で、恐怖のあまり髪は抜け落ち、心がぶっ壊れてしまう。それじゃ、罪も反省できないしね。
同意を求めるため振り向いたが、すでにお父様の従者のバーナードは柱のかげに退避していた。
しかたないなあ。
「……ウーウウウウウ(訳ルールルルルルル)」
呼び声と好物の銀貨の音を聞かせるとようやく顔を出したが、こちらには近づいてこず、ハンドシグナルを送ってきた。まるで距離をとる臆病な仔狐だ。
〝あれ、怒り狂ってる、止める、無理。私、殺される〟
あれとはお父様のことだ。
バーナードはあらゆる激戦地から、お父様がお母様にあてたラブレター定期便を配達し続けて来た。なのに無傷で生き残ってきた。危険察知能力に関してはブラッドにも引けを取らない。
〝あれ、パーサーカー&人でなし。地獄に堕ちる。善良な従者は天国行き〟
うん、でも、バカでしょ。私でもわかるサインの内容を、お父様が読み取れないわけがない。
まだ悪口の手信号を送り続けるバーナードをお父様はひと睨みした。
「今回の件、場合によっては、チューベロッサ本国に殴りこむ気でいた。さすがに、そこまでつき合わせるのは酷と思っていたが……。それは勇敢で善良な従者への侮辱だったな。考え直した。〝あれ〟からの褒美だ。地獄の底までつきあってもらう」
悲鳴をあげるバーナード。
鬼、悪魔とハンドシグナルを連発している。聞こえんなあ、とお父様も手信号を返す。もうバレてるんだからお互いに口で会話すればいいのに。主従いつまでも仲良くね。
あのふたりは置いといて、と。
ブラッドも女装メイドに似合わない厳しい表情をしていた。
「やりすぎだけど、今回の件、基本オレも親父さんに賛成だ。アンブロシーヌは自分の欲に歯止めがきかない。反省してもすぐに忘れる。自分だけが世界の中心ってタイプだから、他人への罪悪感も持ち合わせていない。だから、生きてる限り、周囲の幸せを食い散らかす。害虫と同じだよ。もう殺すしかない。……どうせ死ぬなら、なるべく苦痛を味わって、犠牲者の心の慰めになってもらうほうが、まだ世の中の役に立つ」
うわ、あの優しいブラッドにここまで言わしめるとは、ある意味稀有の才能だよ。まあ、害虫は、自分が食べているものの事情なんか気にもとめないよね。
アンブロシーヌははっきり言って小者だ。
たとえば私の知る巨悪、チューベロッサ王国のドミニコ王子などとはスケールが比べようもない。だけど、ドミニコは自分が悪だと自覚している。罪悪感は皆無だろうけど、死を迎えても、平然と嗤って受け入れるだろう。
けれど、アンブロシーヌは「なんで私ばっかり」と泣き喚いて意地汚く逃げ回るのが目に見えてる。そして、逃げた先々に被害を広げていく。たぶん真っ先にやられるのは、アンブロシーヌに親身になる善良な人々だ。身近を片っ端から不幸におとす。まったく病原菌もちのネズミみたいな厄病神だ。
駆除……うん、ひどい言葉と思ったけど、お父様が正しいのかもしれない。
足るを知ることを忘れ、ひとの笑顔を喜べない女の末路。つくづく救われない。なぜ人はかくも愚かなのか。そういう人間たちがきっかけになり、私が女王時代のハイドランジアも滅びの道を歩んだんだ。
「まあ、スカチビはまだ幼いからな。いろいろ胸糞悪い話だから、あんまり気にすんな。かわりに泥をかぶるためにオレ達大人がいるんだ」
暗鬱となった私を気遣って、にかっと明るく笑うブラッドに胸が痛くなる。
自分だってまだ子供のくせに。背伸びしちゃって……。
ほんとは享年二十八歳の私のほうが、よほど立派な大人であるはずなのに……。
そう心で主張しても、いまの新生児の姿では、悲しいたわごとでしかない。
私、無力だ。いつも周囲の誰かに背負われてばかりだ。赤ん坊だけに。
ごめんね。いつか、この胸が美しく成長する頃には、必ず恩を返すから。
「気にすんなって、損得勘定で人生やってるわけじゃないし。それにスカチビ、そっちはたぶん、ずっと小さいままじゃないかな。コーネリアさんの血が濃そうだし。現実を受け入れろ。そうすれば弱点は武器にかわる。己を知れば百戦あやうからず……」
ブラッドは格言を口にし、私の頭をなでて激励した。その視線の焦点は、私の頭頂でなく、赤子ボディの胸元にあてられていた。
ずっと小さいままって……弱点って……もしかしてお胸のことか!! お胸のことか!! 大事なことなので二回言いました。確かに弓の達人のお母様にとって、生の胸部装甲が薄いのはメリットだけど!!
それにしてもこのポンコツメイド。また無断で心を読みやがった。
頭頂骨縫合のゆるい新生児でなければ、怒髪天をつく頭できついヘディングをお見舞いし、ヤツの顔面に躾を叩きこんでやったものを。
あんたは、いま、私の母方のメルヴィルの遺伝子そのものに喧嘩を売ったのよ。逆鱗に触れた。もう……取り消せないよ?
おごる巨乳の女、そして貧乳を憐れむ男を、メルヴィルの嚆矢は許しはしない。
あっ、ミルクを飲んだあとのげっぷがこみあげてきそう。天が私に命じる。飛び道具のかわりにリバースしたミルクを吐きかけよと。乳を笑うものは乳に泣け。カウントダウン、5、4、3、2……。
「ぎゃあああ!! 秒読みして何発射しようとしてる!? 下品すぎる!! どこがハイドランジアの宝石だ!!」
さすがのブラッドも悲鳴をあげて逃げ惑った。しかし、律儀に腕に私を抱きかかえたままなので甲斐ない努力だった。おまぬけさんである。
いいんだもん、私、赤ちゃんだもん。
私は天使の笑顔でうそぶいた。
そう、これはやむにやまれぬ生理現象。出もの腫れもの所かまわず。私のかわりに泥をかぶると言ったさっきの言葉、吐瀉ミルクをかぶることで証明してもらおう。メイド服の男の娘を、ミルクまみれにしてやんよ。さあ、覚悟なさい。
……あの、セラフィ。いい加減に私を止めてくれないかな? そろそろツッコミを入れるタイミングだよ。馬鹿騒ぎの脱輪空回りっぷりがさすがに恥ずかしくなってきた。
私は、このメンバー随一の常識人、脱線したストーリーを本筋に戻す役のセラフィをちら見した。
だが、セラフィはそもそも私とブラッドのやりとりにさえ気づいていなかった。過去の情景に完全に気を取られていたからだ。オレンジの前髪がばらけ、大きく見開いたエメラルド色の目が見えた。コンプレックスの額の疵を隠すのも忘れている。冷静沈着で隙のないセラフィには珍しい。
……過去の場面は変わり、セラフィのお母さんのマリー姫が、臨月のおなかをさすり、優しく語りかけていた。ああ、あの赤ちゃんはセラフィだ。だからか。
「……呪われた王家の末裔の私が、まさか子供を授かる日が来るなんて。ありがとう。私にこんな幸せをもたらしてくれて。早くこの腕に抱かせてね」
マリー姫は目を細め、背中をあずけたロッキングチェアをゆっくり揺らす。まだ見ぬ胎内の赤子をあやすように。
生まれる前から無償で愛してくれる。それが母親だ。人間愛の原点がそこにあった。
「パパのフィリップスももうすぐ帰ってくる。それまでは私が命をかけてあなたを守るから。だから安心して、元気に生まれてきてね」
もうすでにセラフィをそこに抱いているかのように微笑む。
「……母さん……」
セラフィの頬を一筋の涙が伝う。そうか、セラフィは物心つく前にお母さんと死別したんだ。この光景は心に響くだろうな。私も無性にお母様に抱っこされたくなってきた。
「そうだ。母さんね、最近、占いにはまってるのよ。あなたの未来を占ってあげましょう」
マリー姫はカードをシャッフルすると、盲目とは思えない手際の良さで、テーブルに綺麗に並べた。ややあって感嘆の息をのむ。
「……すごい。こんなに海に愛される卦ははじめて。きっとあなたはお父様、いえ、それ以上の海の覇者になる。……ああ、純白のブランシュ号を自在にあやつり、仲間を率いて嵐の海をこえる少年が見える。なんて凛々しいの。目と髪の色は私譲り。でも、不屈の表情はフィリップスにそっくり。これがあなたなのね」
未来を幻視したマリー姫の目から涙がこぼれる。
「でも、その頃には、たぶん私は生きていない……。それはいい。だけど、この凛々しい姿のあなたを一度でいい。抱きしめたかった」
感情を必死に抑えるように、おなかのあたりのドレスをぎゅっと握りしめる。
自分の運命なんてどうでもいい。ただ子供のことだけを案じる母の愛がそこにあった。私のお母様が私を守ろうと魔犬の前にひとり立ち塞がったときと同じだ。あのとき、お母様は私を安心させようと笑いかけてきた。自分の命の心配なんてこれっぽっちもしていなかった。お母さんって存在はなんて強く優しく大きいんだろう。
マリー姫は涙を拭うと微笑んだ。
「泣いちゃうダメなお母さんでごめんね。寂しくなるのはあなたのほうなのに。でも、あなたは海と友に愛される英雄……。私の支えがなくても、きっと誰よりも遠い海の彼方までたどりつける。仲間を愛し、愛されることを忘れないで。そうすれば、きっとどんな荒波も乗りこえていける。いつまでも見守っていますからね」
まるで今のセラフィに語りかけているようだ。セラフィも嗚咽している。
そしてかたわらの航海長さんは声をあげて号泣していた。
「奥さま……!! マリー……姫……さま……!! 坊ちゃんは……会頭は……あなたの期待どおりの海の男に……」
あとは言葉にならず、おいおいと泣き崩れてしまう。
この人、ずっと一番身近でセラフィを見守ってきたからな。感無量だろう。それにしても泣きすぎじゃない? どんな窮地も陽気に切り抜けるオランジュ商会のイメージの体現者なのに。
「こ、航海長……。少し落ち着け」
気の毒に。あまりの泣きっぷりに、セラフィの涙が途中で引っこんじゃってる。わかる。隣で大泣きされたときあるあるだよね。まあ、それだけセラフィのお母さんが皆に愛されてたことか。
気持ちはわかるけど、少し冷静になって、いまマリー姫のおかれている状況を見てみよう。
良人のフィリップスは大きな仕事のため、遠洋航海に出ている。大船団の先導と護衛だね。本人が赴かざるをえない案件だったが、身重のマリー姫を置いていくことをひどく渋った。見かけは豪放磊落そのものなのに、とんでもない愛妻家だものね。懐妊してからは特に。わずかな部屋の段差をこえるときでも、いつの間にか後ろに立ち、ぬうっと見守っているのだ。で、何もないとわかると安心して、すうっと姿を消す。現れたり消えたりする背後霊みたい……。振り向くと、いつも後ろにフィリップス。
バレると照れくさいんだろうけど、マリー姫がくすくす笑ってるから、絶対に気づかれてるし。その繰り返し。夜のトイレまでついてくる徹底ぶりに、マリー姫は、
「気づいてますよ。いつもありがとうございます。まるで私のほうが、大きな雛を従える親ガモになったみたい」
ととうとう吹き出してしまった。
フィリップスは
「いや、勘違いするなよ。これはたまたま同じ方向に歩いてただけだから」
と言い張っていたが、転倒したときクッションにする毛布を両手に山ほど抱えていては、説得力皆無だった。セラフィママ、愛されてるな。そんな心配性すぎる良人を、飛躍のチャンスと激励して送り出したのはマリー姫自身だった。
「しかし、だな。おまえは初産だし……」
フィリップスの苦悩を、マリー姫はからっと笑い飛ばした。
「子供をもつ女性が、みんな経験する戦いです。女は生まれながらの戦士なのです。それに腐っても私は元王女。ひ弱に見えても、腹はそれなりに据わっているつもりです。あの闇堕ちした聖女相手に、囮を買って出たのをお忘れですか。男性でもやり遂げる方はそうはいないと思いますけど」
うん、あの聖女は化物すぎた。人というより雪崩や津波などの激甚災害の類だ。魔犬ガルムも物凄かったけど、さらにその上をゆく。荒ぶる神という言葉がぴったりだ。相対すれば、威圧感だけで、失神者続出だろう。私でも腰が抜けない自信がない。
あまり考えたくないけど、私の知る最強クラスであるお父様やマッツオ、それに「108回」の成人ブラッドでさえも手に負えない相手かも知れない。全員の強さのレベルが雲の上すぎて、私でははっきりわかんないけどね。
そんな相手にマリー姫は立ち塞がった。さらに殺されかけても言い返してた。さすがセラフィのお母さんだけある。見た目からは想像つかないほどの烈しさを秘めている。
「というわけで文句ありますか」
マリー姫はふんすと胸を張るが、臨月なのでおなかのほうが目立っていた。もうそのままでいいや、とばかり進み出て、ずいっとおなかを突きつける。気圧されて後ずさりし、ついに尻餅をついたフィリップスにびしっと指を突きつけた。
「それに本音を隠してもわかりますよ。あなたはデズモンドに勝ちたいのでしょう。シャイロック商会より大きくなりたいって。今回の件は、オランジュ商会の名を轟かす絶好の機会です。あなたが行きたくないわけがありません。あなたは夢追い人なのですから」
フィリップスは驚きにまばたきし、そして苦笑した。
「バレてたか。さすがだ。うまく隠してたつもりなんだが」
「私の目は節穴ではありませんよ。盲目ですけど」
ちょっと笑えない冗談まじりのマリー姫の言葉に、フィリップスは肩を落とし、観念の深い息をついた。
「ひでえ旦那だろ。身重の妻より商売を選ぶなんて。だけどよ、俺はいまでも不安に思っちまうんだ。俺なんかに本当にマリーの良人である資格があるのか。デズモンドとくっついたほうが、幸せだったんじゃないかってな。あの頃のデズモンドの腕に抱きついてたおまえの笑顔が忘れられねえ。あいつが家庭の事情で身を引いたから、結果結ばれたけど、俺自身の力でマリーを勝ち取ったわけじゃねえ。心ん中は引け目でいっぱいだ。傷心のおまえにつけこめただけじゃねぇかってな。マリーの心の奥は、今も俺よりもデズモンドが占めてるんじゃねぇかって、怖くてたまらなくなる」
吐き捨てるその声はいつになく弱弱しかった。
気持ちはわかるけど、それと商売になんの関係が……。
「対してデズモンドはシャイロック商会をさらに大きくし、ヒペリカムの難民をかげで大勢支援してる。何千人も助けてるあいつに比べりゃ、俺のオランジュ商会なんてまだまだだ。金も力もねえ。せいぜい個人的な亡命を手伝ってやれるくらい。……元王女のおまえの悲願を叶えて続けているのは俺じゃねえ。あいつだ。男同士の勝負だなんてあいつに大言壮語したが、実際は勝負にさえなっていねえ」
ああ、そういうことか。マリー姫の故郷のヒペリカムは、チューベロッサ王国の策にはまり、隷属国に落ちぶれた。追放された身ながらも、マリー姫はそんな元国民たちの境遇を気にかけ続けてきた。ダメな我が子を見捨てられない母親のように。私も女王だった頃、国民に裏切られた。理解してもらえず悲しかった。悔しかった。怨みもした。だけど、見捨てたくはなかった。もし海外への亡命に成功していても、彼らを忘れて暮らすことはできなかったろう。マリー姫の気持ちはよくわかる。
フィリップスは苦悩で自らの髪をがしがしかき回した。
「これじゃあ、俺が旦那である意味なんてねえ。だから、俺は足掻きてえ。デズモンドに追いつくチャンスを逃したくねえ。おまえの夢のためといやあ聞こえは良いが、正直動機はみっともねえ嫉妬だよ」
まくしたてように一気呵成に内心を吐きだし、がっくり項垂れる。自己嫌悪に首までどっぷりのその様子にマリー姫はため息をついた。
「……あきれた。普段あんなに威勢がいいのに、そんな昔のことをまだ引きずっていたなんて」
「幻滅したろ。嫌っていいぜ。マリーが妊娠しても、安心するどころかこのぶざまさだ。俺は自分で思っていた以上に、コンプレックスの塊のちっぽけな人間だったらしいぜ。見限られても文句は言えねえ。そうすりゃ、また恋をやり直せる。デズモンドだってきっと今でもおまえを想って……」
「あ・ほ・で・す・か。あなたは」
みなまで言わせず、マリー姫は手を伸ばし、フィリップスの両頬をつねりあげた。
「い、いひゃい……(訳 い、痛い)」
悲鳴にかまわず縦横無尽に頬を引っぱる。
「それで恰好つけたつもりですか。あなたのやろうとしているのは、徒にふたつの家庭を破壊することです。私が、デズモンドが、今さらそれを望むとでも? 私の初恋のひとを侮辱しないで。私達のあのときの命がけの恋を馬鹿にしないで。私達は胸が裂けるほどの悲しみを乗りこえて、お互い新しい道に進んだの。そんな簡単にくっついたり離れたりできる程度の覚悟じゃなかった。わかって?」
王女時代の口調にもどって諭すマリー姫。いまのたおやかな姿に、勝気で凛とした少女が重なって見えた。
「ひゅっ、ひゅまん。おえあむひんへいあっあ(訳 す、すまん。俺が無神経だった)」
フィリップスは平身低頭で謝罪し続ける。
「いつまでも謝ってないで、とっとと前を向いて。泣言なんてあなたらしくない。私をそこまで好きでいてくれるなら、はったりでもいい、やせ我慢でもいい。堂々と胸を張って、幸せにしてやる。夢ぐらい叶えてやるって不敵に笑ってください。そういうあなたに私は魅かれたのだから。それに私達が結婚してともに過ごした時間は、過去の思い出なんかとっくに超えてるぐらい言えないのですか。私はそのつもりだったのですけど、あなたは違うの?」
辛辣だけど思いやりのある激励を受け、フィリップスの目に失いかけた闘志の炎が灯った。
フィリップスはしゃんと背を伸ばすと、活を入れるため、自分で自分の頬を殴り飛ばした。ごぎゃっとすごい鈍くて重い音がした。本気で殴りつけたんだとわかった。血のにじんだ口元に凄愴な笑いを浮かべる。
「……っッ!! 目が覚めた。弱音なんざ俺らしくなかった。大切なもんが出来ちまったから、どうも心が守りに入っちまってたようだ。だけど、惚れた女の前でこそ、恰好よく決めてなきゃな。今はまだ及ばねえが、マリーの願いを叶えるのはデズモンドじゃねえ。俺だ。ヒペリカム一国ぐらいどんと救ってやるぜ。男なら夢はでっかくだ」
吹っ切れて笑い声をたてる。
「俺の過ちを正してくれてありがとうよ。やっぱマリーは最高の女だぜ。釣り合うよう俺も最高の男でありてえ。今度は嫉妬じゃねえ。おまえの夢のため、生まれてくる子供に誇れる父であるため、俺は今回の大仕事を引き受ける。一回り大きくなって帰ってくる。待っててくれるか」
「もちろんです。私も守られているだけの女ではないつもりです」
「ああ、誰より俺がよく知ってるさ。……航海長!! 主だった連中を呼び集めろ!! 作戦会議だ。オランジュ商会を飛躍させる一世一代の賭けを成功させるため、俺の大切なマリーとその夢を、なにがあっても守るため、てめえら全員の知恵と力を、ありったけ振り絞りやがれ!!」
そして、立ち直ったフィリップスは颯爽と旅立っていた。
マリー姫も笑顔で見送った。
フィリップスの航海の運勢も占ったが、上々、吉と出ていた。だから、安心していた。まさか若い頃のように熱烈に交わしたその別れのキスと抱擁が、最後のものとなるとも知らずに。
【ここからはスカーレットの語りではなく、三人称で物語が進行します】
……いりくんだ森、猟師も訪れぬその最奥、そこにオランジュ商会の所有する、緊急避難用の隠れ家はあった。道はわざと迷路のように複雑にしてあるため、たどりつくことは極めて困難。大きな邸ではあるが、初回一発で見つけるには上空から見おろす鳥の目が必要だ。
もとは人間嫌いの貴族が所有する別荘だったが、書類上はもう廃墟となっている。そのうえ何段階も巧妙な手続きを経て、現在の持ち主がフィリップスとは絶対に特定されないようになっている。
臨月のマリー姫はそこで夫の帰りを待っていた。
まだ生まれぬ我が子セラフィの未来を占い、続いてフィリップスとの別れの抱擁を思い出しながら彼女が微笑み、手癖のようにその安否を再度占ったったとき、破滅の予兆は唐突に訪れた。
突然一枚のカードが、ぼんっと音をたてて燃え上がった。燭台の蝋燭がたまたまはじけ、火の粉が飛んだのだ。
マリー姫が悲鳴をあげて立ちあがる。じりじりと燃えるカードが、邪悪な生を得たように丸まっていく。描かれた端麗な王子の立ち姿の絵が、熱で縮みながら醜怪に嗤い、怯える彼女を見上げていた。
「これは……!? 卦が激変した……!! 大きな力が運命を歪めて……!! 破滅の王子……!? 飢えた黒山羊の群れ……!! それに……!?」
さきほどのセラフィの幻視がきっかけになったのだろう。大人になってからは訪れなかった強烈な予知に背筋を貫かれ、マリー姫は身震いして、何度も悲痛な金切声をあげた。
「悪魔たちが災いを運んでくる!! フィリップス!! いけない!! ここに戻ってこないで!! 遠い沖に逃げて!! そこだけが唯一つ、悪魔の手が届かない場所なの……!! 海から離れては、強運を失ってしまう!!」
いつも優雅な女主人の半狂乱の泣き声に、待機していたオランジュ商会の留守番組たちが、ノックをする間も惜しみ、部屋に雪崩れこんだ。血相が変わっている。マナー違反と叱られるなぞ何するものぞ。彼らはマリー姫に主従の契約以上の想いを抱いていた。偶然か、何かを予感したフィリップスが故意に命じたのか、彼らの大半は、過去マリー姫により、苦境から救い出されたものばかりだった。その忠義は海よりも深い。
「お願い!! 最寄りのシャイロック商会の支店と、ブランシュ号がつく港に、急いで危機を知らせるこの手紙を届けて!!」
彼らが駆けつけたときには、気丈なマリー姫は冷静さを取り戻し、予知を書き記す準備をはじめていた。愛する者達を守るため、運命と戦う決意を決めた。ここにきて予知能力が戻ったのは、神様からのせめてもの慈悲だと感謝する。
しかし、その表情はいまだ晴れない。この伝達任務は危険すぎる。自分の占いを歪めるほどの大きな力、もしそれが彼らに襲いかかったとしたら……!!
未知の異常事態に不安でたまらなくなる。一度は依頼を取り消そうとさえした。その背を後押ししたのは、多くの志願者から選抜されたふたり本人だった。
「おっかねぇのは嫌だけど、大将と商会の危機を見逃しちゃあ、さすがに男がすたるってもんです」
と〝バンダナ〟の通り名をもつ商会のムードメーカが苦笑する。
「伸るか反るかの大勝負。最高の機会に博徒の血が騒ぎます。ここは是非におまかせを」
そしてこちらは〝賭博師〟の通り名のとおり、賭け事が大好きな男だ。
実際のところ〝バンダナ〟のほうが、滅法賭け事に強く、〝賭博師〟のほうがさっぱりだ。
以前は〝賭け事師〟と名乗っていたが、〝負け事師〟と揶揄されるのが嫌になり、〝賭博師〟と名を変えた。
というよりはオランジュ商会の連中はフィリップスをはじめやたら強運だ。悪名高い海の難所を乗り越えて来たのは伊達ではない。もとは敵対組織の賭博請負人として意気揚揚とのりこんできた〝賭博師〟は、見事なまでに鼻っ柱をへし折られ、あきらめ悪くしつこくゲームで再戦を挑んでいるうちに、オランジュ商会に居ついてしまった。もっとも留まった本当の理由は、偶然垣間見たマリー姫の凛とした美貌と優しさに心奪われたからという噂もある。人妻とすぐ知ってやけ酒をあおって号泣する彼を見た者がいるとかいないとか。
「死地におくりこむ私を許して。この家の未来を貴方達に託します。どうか御武運を」
手を握って懇願されたふたりは、顔を引き締め、警告の手紙を恭しく押戴いた。照れくさいので表情に出すまいと心掛けたが、マリー姫を助ける役目を与えられたことに大いに燃えていた。誇らしく立ちあがると、胸を張って屋敷を飛び出した。
家中でもっとも乗馬に長けていた彼らは、馬に鞭うって夜道を一路ひた走る。
「さてさて、貴婦人からいただいた布をまとい、いざ戦いの場に赴かん」
〝バンダナ〟が片袖を叩き、おどけて鼻ずさむ。
ふたりの袖には、せめてものお守りとマリー姫が涙ながらに結んでくれた、丁寧に刺繍されたハンカチーフがたなびいている。
「いにしえの騎士気取りかよ。似合わねえ。おまえはいつもの愛用のバンダナで十分だろ。汚すといけない。ハンカチは俺があずかっといてやる」
〝賭博師〟のこちらに渡せというジェスチャーを、〝バンダナ〟は渋面になって拒絶した。
「渡すわけないだろうが。奥様の想いがこもった布だ。しかも俺を心配して泣いてくれたおまけつきで」
〝バンダナ〟はハンカチーフの端に愛おしげにキスをし、目を細める。
〝賭博師〟が顔色を変えて、食ってかかる。
「いや、待て。あの涙は俺の為…」
ふたりは互いの正当性を主張し、額を突き合わさんばかりに火花を散らし、やがて笑い出した。
「互いにこじらせてんなあ。みっともない。既婚者の奥様にべた惚れすぎんだろ」
「おかしくも恥ずかしくもあるまい。なにせ本物の姫だ。男は姫に弱いと、昔から相場が決まっている」
深酒を酌み交わす仲で気心はしれている。ともに死線も乗り越えた戦友だ。だから、お互いの秘めた気持ちはなんとなく察してはいた。
「……とうとう認めたな。このむっつりが」
「だから、お互い様だろうが」
だが、死地に赴くいま、はじめて恋慕の気持ちを言葉にした。
二人とも女性に縁がないわけではない。むしろもてる部類だ。だが、どうしても、マリー姫以上に心惹かれる人には出会わなかった。
彼らにとりマリー姫は特別すぎた。苦楽をともにし、熱く駆け抜けた青春の日々の象徴だった。姉や母がわりに自分達を支えてくれた亡国の元姫君。捨て子や孤児出身が多い男所帯のオランジュ商会の皆にとって、マリー姫は高貴な姫だけでなく、理想の母のイメージそのものでもあった。国を愛し、国に追放され、なお国を見捨てない。母を失い、あるいは母に見捨てられた男達が、その観音菩薩のような無私の母性愛に惹かれたのは当然だったのかもしれない。
このふたりは、その想いを恋にまで育ててしまった。その根は自分達で思っている以上に深い。 それでも、マリー姫に想いを直接打ち明けることは決してない。困らせたくはない。それくらいの分別はある。
けれど、もう二度と会えないかもしれない戦友同士が胸襟を開いて、この場のみの話として語り合う、それぐらいは許されるだろう。この内緒話も、互いに冥土の土産に持っていくつもりなのだから。
「任務に成功したら、姫様に頬にキスの一回ぐらいねだっても……」
もとより実現させる気のない夢の話。だからこそ、大人の男が口にする台詞にしては、純情で滑稽で切なかった。
「やめとけ。どっかの嫉妬深い大将が、殺意のこもった拳で、キスマークを頬ごと破壊しにくるから。生き残れる可能性は零だ」
「ちげぇねえ。賭けにもなりゃしねぇ」
ふたりは馬が風切る音のなか、とりとめもない馬鹿話をした。だが、何事にも終わりはくる。
「いい月だ。月見と洒落こむには、少しせわしないがな。さて、名残惜しいが、ここらでお別れだ」
馬の疾駆で流れる蒼い夜空を仰ぎ、彼らは目を細めた。
「健闘を祈る」
「ま、互いにやれる範囲でな」
分かれ道にさしかかり、短い激励と馬上からの拳のハイタッチを交わし、手綱をひきしめ、馬の鼻先をそれぞれの進む道に振り向けた。再会のためのあいさつはしない。彼らのやれる範囲でというのはおのれの命こみだ。それが一度引き受けた仕事を成し遂げるということ。勝負師としての矜持だ。
〝さて、こいつを使うときが来なけりゃいいが〟
〝賭博師〟は胸のあたりの服をぎゅっと握りしめた。懐には彼の奥の手が忍ばせてある。おかげで手持ちの貯金はすっからかんだ。聞いた〝バンダナ〟も呆れていた。しかし、後悔はしない。杞憂となり、賭け事に弱いとの酷評をさらに高めるかもしれないが……。
〝男には負けるとわかっていても、すべき戦いがあるんだ〟
〝賭博師〟はそう嘯く。ほんとか、ただのやせ我慢だろうという自問自答は頭から叩きだす。
月夜だがその馬の足取りは風のように速い。だが、シャイロック商会に向かった〝賭博師〟が、近道しようと暗い森にさしかかったときだ。
「何者だ……!!」
「名乗る意味などあるまいよ。おまえはあと一刻もしないうちに、無数の肉の塊になって散らばっているのだから。我らは肉を人とは思わん。肉に語りかける馬鹿はいないだろう」
突如あらわれ、道を塞いだ黒々とした一団があった。月がちょうど雲に隠れていた。森のなかでは暗すぎて、そいつらは人らしい輪郭がかろうじてわかるだけだ。だが、荒仕事でつちかった勘が肌をぴりつかせ教える。こいつらは手強い。それ以上に危険な臭いがする。
「悪い話ばかりではない。この森は死肉あさりの夜行性の獣が多い。細かく刻めば、人ひとりの死骸などすぐに食らいつくす。朝には綺麗に何も残らん。家族や友人も死に気づき嘆くことはあるまい」
馬が嘶いて暴れるのは、急停止させられたからだけではない。こいつらに本能的に怯えているのだ。
どうどうと愛馬をなだめながら、〝賭博師〟は一団を睨みつけた。
「ずいぶん勝手ない言いぐさだな」
「だからせめて希望を与えようとしている。黙って、闇討ちしてもよかったのだぞ」
「本音は違うだろう。獲物に死を突きつけて、怯えて逃げ惑うのを楽しみたいだけだ」
「ばれたか。頭のいい獲物はいい。追うときに駆け引きが楽しめる」
まぎれもなく闇の住人、性格異常者だ。嗜虐の舌なめずりの響きが言葉ににじむのを〝賭博師〟は聞き逃さなかった。そんな輩に遠慮はいるまい。
「はっ、上から目線で偉そうに。窮鼠猫を噛むって言葉を知らねえのか。……こいつは三途の川の渡り賃だ。遠慮しないで取っときな。ふっ!!」
懐から苦無を素早く取り出し、鋭く短い呼気を吐いて投擲した。苦無は特別仕様で黒く塗ってある。この夜のなかではまずかわせない。狙いあやまたず、苦無は夜を引き裂いて見事に命中し、そいつは上半身をのけぞらせた。殺す気でやった。得意技であり、厚い杉板をぶち抜く威力がある。
だが、そいつは倒れなかった。後ろにのけぞったそいつの頭がゆっくり戻ってくる。苦無がちゃりんと音をたてて地面に転がる。刃が通ってない!!
「ふはははっ、こんな無粋な渡り賃はいらぬよ。知らんのか、地獄の通貨は、血と肉と悲鳴だ。さあ、取り立てに行くぞ」
妙にくぐもった笑い声だ。フルフェイスの兜でもかぶっているのか。他の影法師どもが瘧のように小刻みに揺れる。声を殺しているわけではない。なのにこいつらの笑い声も妙に内にこもっていた。ぼこぼこわきたつ沼の瘴気のような声だった。ならば、全員同じ堅牢な防具を身に着けている可能性がある。軽い飛び道具でははじかれる可能性が高い。
「ちっ!! こっちはの攻撃は通用しねえ。そのうえ、寄ってたかって数の暴力かよ!! 賭けにもなりゃしねえ。ろくでなしの卑怯野郎どもが!!」
罵ると馬に鞭うつ。怯えていた馬ははじかれたように走り出した。賊の一団を正面突破すると見せかけ、寸前で草ぼうぼうの脇道に飛びこませる。この脇道はすぐに本道に再び合流する。彼はこの近くの出身者であり、地を熟知していた。というより、じつは彼の愛馬はとても臆病で、武装した集団に突っ込むなどハナから無理なのだ。
よし!! うまく虚をつけた。賊どもは、反応が遅れている。このまま振り切る!!
だしぬけたと馬上で彼はほくそ笑む。奴らは騎乗していない。人では馬に追いつけない。
だが、かすかに首を曲げ、ちらりと後方を確認したとき、〝賭博師〟は驚愕に息をするのを忘れた。雲が流れ、青白い月明りが、不鮮明だった奴らの姿をあらわにしたのだ。
そこにいたのは人ではなかった。黒山羊の群れが角を振りたて、扁平な金色の瞳で、じいっとこちらを凝視していた。いや、正確には山羊ではない。そいつらは二足で直立していた。山羊の頭に人間の身体がくっついていた。魔界に迷い込んだような非現実感に、くらりと足元が揺らぐ。
だが、賭け事は熱くなるのは禁忌だ。死地におちいったときこそ観察を忘れるな。賭け事の兄貴分の教えがよみがえり、必死に冷静さを手繰り寄せる。その山羊の頭は、体に比して不自然に大きく、かぶり物だと気づいた。
思い当たる名があった。
黒山羊騎士団。
チューベロッサ王国のドミニコ王子の私設殺人部隊だ。
精強にして異形、歴戦の戦士でさえ吐き気を催す冒涜的な殺し方をすることで有名だ。犠牲者は四肢をちぎられ、皮をはがれ、ねじまげられ、残酷な子供が遊び潰した虫のような惨状をさらす。肉親が見ても誰だか区別がつかないほどだ。妊婦からひきずりだされた胎児の死体が、裂いた母親の腹に、獣の子供たちとともにまた詰め込まれていたことがあった。メッセージのつもりだろう。「ママ、ただいま。友達いっぱい連れて来た。ぼくの部屋で遊んでもいいでしょ」と書きなぐられた紙が差しこまれていた。無数の生きた鼠や虫を喉から詰め込まれ、口や鼻孔を縫い合わされていた犠牲者もいた。「開封注意。いたずらびっくり箱」と剃られた頭の肉に彫られていた。あたりを這いずり、苦しんだ痕跡から、犠牲者はおぞましい手術をほどこされたあと、かなり長い時間生きていたのではと推測された。その胸糞悪さから、ただ殺しを楽しむだけではなく、冒涜的な儀式の贄にしたとの噂もある。
ドミニコ王子への狂信と、おぞましい欲望で結ばれた狂獣どもだ。
傭兵仲間でも都市伝説じみて語られる連中だ。
〝マリー姫様の危惧が的中したってことか。冗談じゃない。こんな連中がもし懐妊したマリー姫様に迫ったとしたら〟
その凄惨な場面を想像してしまい、恐怖と憤怒で髪が逆立つ。胎児こみの美しい姫は、この鬼畜どもにとってこれ以上ない垂涎の贄となるだろう。それは絶対に許しがたいことだった。かっとなった焦燥をさらに追いこむように、かっかっかっと奇妙な乾いた音が背後からどんどん迫って来た。
はっと振り向くと、黒山羊騎士団どもが、二足歩行を捨て四つん這いになり、猿のように跳ねて走りながり、こちらを追いかけてきていた。獣がえりしたように速い。人間離れしている。息づかいが被り物のなかで反響し、不明瞭なめえめえという鳴き声に聞こえる。なのに甲高い笑い声だけはやけに鮮明に響く。不自然な四つ足なのに加速が止まらない。音の連打が狂気のビートのように早まっていく。その音は奴らの爪が、いやらしく地面をひっかく音だ。悪夢の鬼ごっこだった。
もはや後ろを振り返る余裕などない。〝賭博師〟は必死に前だけを見つめ、ひたすら馬を走らす。背中に何度も鋭い痛みが走り抜ける。耳元の失踪する風切り音に、ひゅううんっ、ひゅううんっと不気味な音が混ざりだす。追いついた黒山羊どものふるう爪が背中にかすりだしたのだ。
がちがちという別のおぞましい音もした。湿った息が耳に吹きつけられる。山羊の被り物の剛毛が頬を撫でる。噛みつきだ。奴らは道具を使う人であることを忘れ、原始的な本能の虜になった。馬が恐怖と痛みに悲鳴をあげる。奴らは〝賭博師〟だけでなく、鈴なりになって馬の尻にまで喰らいついていた。
「入れた、入れた」
生臭い声が、彼の耳朶にからみつき、長い舌がナメクジのように耳の穴に侵入してきた。ざらつく山羊の舌が内側から、ぺちゃりぺちゃり音をたてて、皮をこそぎ取ろうとした。脳みそを舐めまわされた気がした。
「がああああっ!!」
おぞましすぎて叫ばずにはいられなかった。〝賭博師〟は咆哮し、その恐怖が伝染し、馬まで死相をうかべて逃走本能に火がついた。もう騎手のことなど気にしていない走りっぷりだ。コントロールもへったくれもない。〝賭博師〟は鞍から吹っ飛ばされない様、しがみつくのがやっとだ。だが、それが幸いした。予測不能の縦揺れについていけず、覆いかぶさってきた黒山羊騎士団どもが振りほどかれ、虚空に吹っ飛び、後ろの景色に遠ざかる。
〝どうだ!! 〝バンダナ〟!! 思わぬ怪我の功名だが、もう〝不幸事師〟なんぞ言わせない〟
〝賭博師〟は馬上でガッツポーズをとった。
「行け!! 行け!! おまえの逃げ足は最高だ!!」
興奮して愛馬に叫ぶ。
だが、本当の悪夢はそこからだった。
逃避を続ける夜道の先に、ぽつんと場違いな純白がひるがえった。馬が疾走しているため、みるみるうちに近づくそれは聖教会のおごそかな儀式衣裳だった。美しくはかなげな聖女が、夜風にヴェールと金髪をたなびかせて佇んでいた。聖堂の中庭を散策中に、不意にほほえましい椿事に出くわしたというふうに、小首をかしげこちらを見て微笑む。宗教画のように祈りたくなる光景。だが、それは救いではない。なぜならば、その女の微笑は嘲りであり、夜よりも、黒山羊の群れよりも、さらにおぞましい深淵の色をしていた。死を察知した勘がかつてなく泣き喚く。だが、時すでに遅すぎた。いまの馬の勢いと距離ではもう大きく回避することは出来ない。
〝くそがよ!! 南六三!!〟
〝賭博師〟は祈る思いで、不気味な聖女の横をすり抜けた。すり抜けられたと思った。だが、
「希望の匂いがする。うっとおしいこと」
すれ違いざまの聖女が呟き、面倒くさそうに片手を横薙ぎするのが見えた。馬には一糸も触れていない。離れたただの虚空をだ。
猛烈な悪寒が走り、〝賭博師〟は両手で耳をふさいだ。ロデオのように気ちがいじみたギャロップのなか、手綱から手を離すのは自殺行為だ。案の定、あっと言う間に鐙から彼の足ははずれ、身体は馬の斜め後方にロケットのように投げ出された。
だが、その判断が〝賭博師〟の命を救った。
直後、空気が爆発した。ふくれあがった衝撃が、幾重の津波のように森を駆け抜けた。幹が悲鳴をあげ、こずえがねじきれ、葉が舞い落ちる。息をひそめていたリスや小鳥が、耳や鼻の孔から鮮血をふき、地面にぼたぼたと転がった。死の痙攣に掴まれ、泡を吹いてのたうちまわる。それは疾走していた馬や、追跡していた黒山羊騎士団も同様だった。耳から入りこんだ衝撃波が脳を粉砕したのだ。それはまさに死の宣告だった。無慈悲に、ひとしなみに、すべての命あるものを薙ぎ払い、刈り取った。
咄嗟に耳をふさがなければ、〝賭博師〟も同じ末路をたどっていた。投げ出された体はおそろしい勢いで、近くの木の根元に叩きつけられたが、一足先に転倒していた愛馬が肉の盾となって受け止めてくれた。そうでなければ、柘榴のように頭蓋が割れ、脳みそを溢れさせていたろう。しかし、ぶつかった勢いすべてを殺しきれたわけではない。背骨をしこたまうちつけ、内臓がせりだしそうな激痛と呼吸困難に〝賭博師〟は悶絶した。
「化物が……敵も仲間もおかまいなしに皆殺しかよ……」
かろうじて息も絶え絶えの苦言をしぼりだす。
何が起きたかはおおよそだが理解できた。
賭博にあけくれた勝負勘が教えてくれた。
石と石をぶつけ、衝撃で水中の魚を気絶させるガチンコ漁。それと同じようなことを、聖女は空気を叩くことでやってのけたのだ。発生した衝撃波が、生物の鼓膜を破り、脳をぐしゃぐしゃにシェイクし破壊した。だが、原理がわかったことは救いにはならない。むしろ完全な絶望を突きつけられた。単純な威力の力押し。それにはどんなイカサマも通用しない。小手先の技では、迫る怒涛の大軍勢を止めることはできない。いや、この威力と規模は、もはや無慈悲な自然災害そのものだ。矮小な人が命をかけるぐらいでは手に負えない。詰んだ。
「仲間? もしかして、このかぶりものの黒山羊どものこと? ふふっ、猿は猿でしょ。敵も仲間もありはしないわ」。
聖女は冷たく言い捨てた。この聖女にとり、すべての人間は猿程度の認識なのだ。
「そして猿だけにくだらない小細工が好きだこと」
冷笑する聖女の前に、ぼろぼろになって息絶えた伝書鳩が落下してきた。その足には、手紙入りの金属の筒がくくられている。〝賭博師〟は思わず目をそむけた。夜間でも飛べる切り札、愛情をこめて訓練した特殊な鳩だった。だが、聖女の技の威力ははるか上空にまで及んでいたのだ。
「さっき苦無を投げたとき、同時にこっそり飛ばしていたようね。あなたは囮。この鳩が本命でしょう? 黒山羊どもはともかく、この私の目を欺けるとでも思ったのかしら?」
言下にぱあんっと音をたて、鳩と手紙は文字通り粉みじんになった。
「終わりよ。人ごときが私に出会った不運を呪いなさいな」
舞い散る羽毛と月光のなか、聖女は残酷な笑みを浮べた。死屍累々を踏み潰しながら、身動きひとつできない〝賭博師〟をいたぶるように悠然と迫る。だが、その笑みがとまった。〝賭博師〟が声をあげて笑いだしたからだ。
「なにが可笑しいの。恐怖で発狂したのかしら?」
「……狂っちゃいないさ。たしかに俺は不運だ。だから嬉しいのさ」
意味がわからず眉をひそめる聖女の目の前で、〝賭博師〟は、ばっと襟元を押し開いた。
「わかんねえか。不運だからこそ、俺は最強の化物のおまえを引き当てられたって言ってんだよ!!」
首から紐で下げた布袋が白煙を噴いていた。いぶかしげにそれを見た聖女の頬が、はじめて軽く引きつった。
「まさか……」
〝賭博師〟は歯をむいて笑う。
「はっ、ざまあ。はじめて顔色が変わったな。そうだ。〝ロマリアの焔〟だ。いくらお高くとまった化物でも、ただじゃあ済まねえ。……俺の不運の道連れだ!! ぶっとびやがれ!!」
瀬戸際になるとやはり育ちの悪さが口に出るなと〝賭博師〟は苦笑した。だが、心は晴れやかだ。
〝ロマリアの焔〟。それは失われたロマリア文明の遺物だ。ひとたび引火すると鉄をも溶かす炎を巻きあげ、周囲のありとあらゆる物を火だるまにする。その炎は水をかけても消せず、水蒸気爆発により、さらに被害を甚大にする。火をつけるのも命がけで、使用者もろとも焼死する片道切符の自爆アイテムだ。
とてつもなく希少な代物であり、大国チューベロッサでさえ所持していない。
〝賭博師〟はあらゆる裏の伝手を使い、これを奇跡的に購入していた。マリー姫が懐妊したと聞いたとき、いつか必要になるとふとよぎった予感。そこに躊躇わず全財産を突っ込んだ。賭けごとの血が騒いだのもあるが、なによりマリー姫のために全力で自分の出来ることを為す。そこにたまらなく心が浮き立った。正直、自分でもバカなことをしていると苦笑したものだが、まさか今までの負けを帳消しにする大金星をあげられるとは。フィリップスやマリー姫への最大の脅威は、間違いなくこの聖女だ。相討ちでそれを排除できるのだから、自分の人生も捨てたものではなかった。これで胸をはって三途の川を渡れる。
〝俺は役目を果たした。だから、あとは〝バンダナ〟よ。手筈通り頼んだぜ〟
そう笑う。だが、唯一の心残りはー、
〝おまえには悪いことをしちまったけどな。最後まで怖い思いをさせてごめんな〟
息絶えた愛馬に心のなかで謝る。もと軍馬だったが、臆病すぎて笑いものになり、民間に払い下げられた。だが、心優しいこの馬が〝賭博師〟は大好きだった。他人とは思えなかった。敗けっぱなし同士仲良くしようぜ、とよく語りかけ熱を入れて世話をしていた。
「……ふふ、自分もすぐ後を追うから許してほしい、そうお馬さんに心で謝りでもしているのかしら? でも、勝利の余韻にひたるのは早すぎたわね。あなた程度が、本気でこの私の裏をかけたと思っていたの?」
不意にかけられた冷たい侮蔑の言葉に〝賭博師〟は凍りついた。聖女に心を読まれたからではない。〝ロマリアの焔〟がいつまでたっても炸裂しないことに気づいたのだ。
「ぶっとびやがれ? うふふふっ、ああ、おかしい」
笑い声で何が起きているか理解した瞬間、〝賭博師〟は恐怖と驚愕に全身を鷲掴みにされた。不発ではない。聖女がこちらの胸元に片手を伸ばしていた。
「猿の常識でこの私をはからないことね」
その握りしめた指のあいだから、白煙と光とばちばちという激しい燃焼音が漏れ出ていた。聖女は片手で〝ロマリアの焔〟の爆発を握りつぶしていた。
「そんな馬鹿な……!!」
生き様すべてを賭けた乾坤一擲が、文字通りあっさり握り潰された。絶望のうめきに、聖女は心地よさそうにうっとりと目を細めた。
「素敵な響き。ご褒美よ。〝ロマリアの焔〟の燃焼反応が終るまでは、殺さないでいてあげる。あと三十秒といったところかしら。希望の灯が消えるまで、たっぷり自分の非力さと滑稽さを噛みしめるがいいわ」
「くそがよ!!」
〝賭博師〟は聖女の手を〝ロマリアの焔〟から引き離そうと掴みかかった。その両手が冗談のように切断され宙を舞う。残る片手を聖女が無造作にふるったのだ。
「下品な言葉だこと、お里が知れるわね。あと二十秒。どうするの? 残った口で噛みつきでもやってみる? さあ、残り十五秒。あはは、ひどい顔」
残酷なカウントダウンを楽しそうに続けながら聖女が嘲る。その気になれば〝賭博師〟を一瞬でバラバラにできるのに嬲って遊んでいた。
〝すまない。マリー姫さん、俺はあんたに何もしてやれなかったよ……!!〟
激痛よりも悔しさがまさった。万策尽きたと〝賭博師〟が涙でぐしゃぐしゃに顔をゆがめ、慟哭したとき……。
鋭い嘶きをあげ、愛馬が突然後ろ脚で立ちあがった。そのまま聖女に向かって倒れこんでいく。
「……!?」
聖女が思わずたじろぐ。たとえ馬が百頭で襲おうと聖女は歯牙にもかけない。だが、彼女は自分の力と技に絶対の自負をもっていた。耳をふさげた〝賭博師〟以外、すべての生物を殺し尽くしたはずだった。その自信が揺らいだ。驚きで、〝ロマリアの焔〟を握り潰す力をつい緩めてしまった。
「しまった……!!」
あわてたときには遅かった。無理やり抑圧されていた燃焼反応が、反動で一気にはじけとんだ。あたりが、かっと眩い炎の白熱で塗りつぶされた。超絶の反射神経の聖女でももう抑えられない。
狼狽する聖女と対照的に〝賭博師〟は満ち足りた表情をしていた。一秒足らずの逆転劇。まだ倒れる途中の愛馬を見つめるその目尻には涙が浮かんでいた。
〝ありがとよ。おまえは臆病ものなんかじゃねえ。世界で一番、勇気ある馬だぜ〟
光のなか、愛馬と空中で視線がからみあった。愛馬がにいっと誇らしげに笑った気がした。その瞬間、炸裂した〝ロマリアの焔〟の超高温が、苦痛を与える間もなく、〝賭博師〟たちの肉体を蒸発させた。消えゆく意識のなか、愛馬やオランジュ商会の友人たちとの楽しい記憶が飛び去って行く。そして、最後に思い浮かべたのは……。
エーデルワイスを思わす芳香が、焼き爛れていく鼻孔をくすぐった。それはマリー姫から贈られたハンカチーフへの移り香だった。脳裏に、白い花のように美しく輝くマリー姫の笑顔が灯る。身なりに無頓着な自分の、ほつれにほつれた上着を、あきれたと笑ってよく繕ってくれた。盲目のはずなのに器用に動く綺麗な白い指に、初心な思春期の頃にもどったように、甘酸っぱく胸が高鳴った。。
〝貴方はひねくれ者のつもりでしょうが、誰よりまっすぐな心の持ち主だと私は知っています。でも、身なりがそんなんじゃ、女性に誤解されますよ。もったいない。それと賭け事はほどほどに。はい、できた。次は遠慮しないで、もっと早く持ってきてくださいね。いつか素敵な相手があなたの良さに気づくまでは、縫物ぐらいはやってあげますから〟
見あげるエメラルドの瞳に心奪われた。優しくたしなめる柔らかな声に、いつまでも耳を傾けていたいと願った。
〝もし生まれ変われるなら、今度はフィリップスの大将や、デズモンドの旦那より先に、姫さんに出会いたい。恋人なんぞ高望みはしねぇ。身の程ぐらい弁えてらあ。ただ誰よりも早くから、姫さんを側で守りたいんだ。そして、誰よりも多く、あの声で〝ありがとう〟って笑いかけてもらいてえ。もし、その願いが叶うなら……俺はきっと二度と賭けなんぞしないだろう……。どんな勝利の喜びも、その幸せの前では形無しに決まってるもんな……〟
そんな幸せな夢想ににやけながら、〝賭博師〟の意識は劫火にのまれ、爆散した。
【蛇足のおまけ】
セラフィママ「さあ、もう少し、私の息子の素晴らしい未来を占って……。…!? 大洪水の上をボールみたいに投げ飛ばされてる!? え!? なんで、ずぶ濡れの赤ちゃんにキスして恰好つけてるの!? しかも、その子に将来喜々として貢ぐ!? なぜか女装させられてて、背後で巨乳のメイドさんが、満足げな笑顔を浮かべてる!? 本人もまんざらでなさそう!? ……うちの息子の将来、駄目かもしれない……」
お読みいただきありがとうございます!!
おひさしぶりの投稿すぎて申し訳ございません。
創作意欲が自動的にわくの待ってても、よいアイデアが閃くのを待ってても、そんなものは永遠にこないことがわかりました。
まずは書かなきゃ、そうすりゃ、やる気も出るようです。
ということで、ぼちぼち続けさせていただきます。
今回は二話同時です。
遅筆を悔い改めたのか?
いえ、ただ単に話が長すぎ、二話に分けただけでした……。
それにしても、下書きの文字の入力、削除の反応速度がびっくりするほど悪いです。
利用人数が増えすぎ、サイトの処理が追いついていないのかも?
文字数が万オーバーにとっては、涙ちょちょぎれるほど辛いです……。