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108/110

ー闇の章ー 中編 その② アリサは聖女を阻止すべく動き出します。そして、私達は過去でおこなわれたドミニコ王子の蛮行を知ることになるのです 

ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!

最初に申し訳ございませんが、ただし書きからです。

この作品の登場人物たちのセリフは、作者の本心と違います。特にドミニコ王子……。

どうか、あいつ、頭おかしいと思わないでください。

さて、英訳版コミックス Vol. 1とVol. 2とVol. 3が【The Villainess Who Has Been Killed 108 Times: She Remembers Everything!】のタイトルで発売中です!! オリジナルとの擬音の違いがおもしろいです!! 英語の擬音をイラストとかで表現したい方の参考になるかもです。

【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】全4巻発売中!!どうぞよろしくお願いします!!

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漫画のほうは、電撃大王さま、カドコミ(コミックウォーカー)様、ニコニコ静画様、ピクシブ様やピッコマ様、LINEマンガ様等で読める無料回もあったりします。他にもあったら教えてください。まだ残ってるよね? 残っててほしいものです。ありがたや、ありがたや。どうぞ、お試し読みのほどを。他に公開してくださってるサイトがあればぜひぜひお教えください。ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「こいとうたたね」も少し読めます。もろもろ応援よろしくです!!

どことも知れぬ闇のなか、その金髪碧眼の少女はほほえむ。

ぞっとするほど美しく。

その少女の信念は、世界中のあらゆる死の苦痛を体験しても、いささかも揺るがない。


並外れた美貌と才能に恵まれた彼女は、望めばいくらでも栄華を極められる。相手が望むどんな理想像も完璧に演じ、それを苦にもしない。なのに、その幸せな可能性すべてに背を向け、嘲笑を浮べ、悪の荊の道を、ひとり裸足で歩み続ける。


その孤高ゆえに、彼女は外道でも美しい。


彼女の名は、アリサ。

アリサ・ディアンマンディ・ノエル……。


「おやおや、アリサ。まだ起きておいでとは? あなたは本来はまだ赤ん坊。夜更かしは成長ホルモンを妨げますよ」


ぎらりと鼻眼鏡を光らせた長身の青年が、すうっと背後の闇から現れた。闇よりもなお底なしに暗い漆黒のアカデミックガウンがひるがえる。白皙な顔が相好を崩す。


「ほう、珍しい。今夜は髪をおろしている。『真の歴史』で、先陣をきり、あの大軍勢を率いたときを思いだしますねえ。敵国がまるで虫のように踏みつぶされた。この世に、これほど美しくおそろしい女性がいるのかと、心の底から震えたものです。いつもの黒いリボンもいいですが、この格好もまた乙なものですね。どうです? せっかくですからレガリアも……」


みなまで言い終わる前に、鼻眼鏡のレンズにびしっとヒビが走った。


「ほう、驚きました。まさか特別製のレンズが……。困りますね。貴重なのですよ、これは」


ソロモンは大袈裟にため息をついた。アリサは振り返りもせずに、すっとスカートの裾をつまみ、軽やかに礼をした。


「あはっ、女の部屋に挨拶もなしに無断で侵入し、あげく女の過去に触れる。しかも、まず自分の持ち物の壊れた愚痴ですって?  そのふざけたレンズではなく、まずはマナーを磨きなさいな。お手本をみせてあげる。……ごきげんよう、ソロモン。素敵な夜ね。私の子守歌がわりに、悲鳴をあげて死ね」


アリサのさくらんぼ色の艶やかな唇が、悪魔のvの字の笑みをつくった。


青年、ソロモンの髪とガウンが逆巻くように激しくはためく。爪先がふわっと宙に浮きあがった。そのまま落下しない。凄まじい竜巻が彼を中空にとらえていた。青白いスパークが乱れ飛び、部屋を染めあげる。だが、至近距離のアリサは金髪一筋さえも揺らしはしなかった。


「さすがアリサの〝狂乱(きょうらん)〟。すべてを捩じり、狂わす力。しかも、私のまわりにだけ、破壊エネルギーの渦を……。素晴らしいコントロールです。おそろしい。どこまで極めれば気が済むのです」


ソロモンは嬉しそうに声をあげた。だが、喜んでいる場合ではない。ぎりぎりと音をたて、彼の長い手足があさっての方向にねじれていく。まるで不可視の巨人たちが四方から掴みとり、力尽くでひねりあげているような光景だった。ソロモンは理解した。今、かけられている負荷は、巨大な軍馬さえ一瞬でミンチにする。


「残念ながら、まだ死ぬ予定はないのですよ。少なくとも、アリサとスカーレットの秘密を解き明かすまではね」


ソロモンもただものではなかった。まだ自由のきく指先を軽く振り、奇妙な古代文字のサインを、宙に素早く描く。


「ソロモンの名において命ず。真理よ。ねじれの力よ。ここに」


文字が緑色に輝くと、ぶわっと増殖し、土星の輪のようにソロモンを包みこんだ。


アリサとソロモン、その見えない力同士が激しく鍔迫り合いする。見ることが出来る者がいたなら、互いを呑みこまんとのたうつ力の蛇同士が見えたろう。きな臭いにおいと、火花が散る。肌をざわざわと刺す緊迫感が膨張し、不意にぱちんっと嘘のように消失した。蛇はまったく同時に相手を吞み込み終わり、この世から消えたのだ。


「ふうん、面白いものを見せてもらったわ。その創意工夫に免じて、今回の不躾は不問にしてあげる」


アリサははじめて振り向くと感心したように微笑んだ。


「メビウスの輪とでも例えるべきかしら。器用だこと。力をねじった輪の形で高速回転し、その裏表を交互にぶつけることで、接触時間を短くし、私の〝狂乱〟に対抗したのね」


すっかり上機嫌になっていた。


アリサは気まぐれだが、人が努力し、編み出したものは評価する。


「まともには私に敵わないという前提での技、分をわきまえたところもよくってよ」


その言葉に、ふわりと着地しながらソロモンは苦笑した。


「あいかわらず皮肉がお上手で。しかし、あっという間にネタバレですか。傷つきますね。これでも私の奥の手のひとつなのですが」


アリサの得意とする〝狂乱〟は、触れただけで物体のみならず、運動エネルギーまで狂わせ、歪め、破壊してしまう。


それは破滅的な変質させる力。たとえ同等の力があっても対抗できない反則技なのだ。


例外的にまっこうから対峙できるのは、減衰しない、つまり不変の特性をもつ『真の歴史』のブラッドの伝導や、あるいは〝狂乱〟でも呑みこみ尽くせない〝マザー〟のような圧倒的なパワーだ。


ソロモンは武の才能においては、さすがにその二人には及ばない。それらの技は使えない。


ゆえに知恵でアリサに対抗しようとした。自信もあった。実際うまくいった。


だが、アリサはまだ余裕だ。瞳が青のままだ。あまたの男達を虜にする魅惑の色だが、これはじつは擬態に近い。本気になったアリサは、瞳が本来の真紅に戻る。青になるのは力を抑制した副産物だ。つまり今のやりあいは、彼女にとってたわむれの域を出ない。


「私とやりあってプライドが傷ついただけですんだ幸運を感謝なさいな。それに、そう落胆しないことね。小よく大を制する方法、悪くなかったわ」


悔しさを隠せないソロモンを、アリサは軽くなだめた。


だが、それはちっとも慰めにならなかった。ソロモンはある可能性に気いたのだ。すぐに看破されたのは、アリサが同系統の技にも長けているからなのでは? 力押しでも最強なのに、この化物は、いったいどれだけ引き出しを隠しもっているのか。


考えこむソロモンをアリサは、ちらりと冷たく一瞥したが、咎めず話を続けた。  


「その技、あの恐竜女とやりあう機会があれば使ってみなさいな。おのれのパワーに驕っているあの女なら、起きていることが信じられず、仰天して隙だらけになると思うわ」


「ほう、アリサが彼女のことを話すなど珍しい。どういう風の吹きまわしです?」


興味をひかれたソロモンは、いまのやり合いのこともすっかり忘れ、質問した。


ソロモンにとり、知的好奇心はすべてに勝るのだ。


その人物の話題は、アリサの逆鱗にたやすく触れる。迂闊な事を言えば、すぐに殺意全開で襲いかかってくる。アリサが自ら話題に出すなど、きわめて異例なことであった。その理由はすぐに判明した。


「スカーレットが、ルビーの力で、あの女の過去をのぞいたわ。いえ、ルビーにのぞかされていると言うべきね。あの女が束の間の正気の昔、狂獣と化す自分から皆を守るために認識阻害の結界をはったわ。……でも、スカーレットたちは対象外だから、あの女と〝マザー〟が同一人物と気づいてしまう。まったく、あの曲者のルビーは……。試練にしても早すぎる。目に余るわ。破壊してやろうかしら」


アリサは忌々しげに吐き捨てた。金髪が怒気をはらんで、ぶわっと膨らんだ。


ゴルゴナの乾坤一擲は、わずかのあいだだけ聖女を元の人格に戻すことに成功していた。聖女は、再び怪物となった自分が、躊躇いなくかつての友人知己を抹殺することを憂い、おのれを含めて、大陸すべてに及ぶ大規模な記憶操作をほどこしたのだ。


「うふふふ、大陸中のお馬鹿なお猿さんたちが、私の手のなかでいいように記憶を操られる。笑える見世物ね。間近で顔をあわせても、〝マザー〟が聖女と気づかないなんて……」


そう闇のなかで聖女は、してやったりとほくそえむ。それが本来の自分の必死の抵抗によるものだと気づかずに。


ソロモンは、くくっと笑った。


「〝マザー〟の過去を? それは困りましたね。〝マザー〟はおのれの正体を知ったものを、大陸のどこであっても即座に特定できる。そして彼女は自分の正体を知るものを許さない。すぐに殺しにやってきます。おしめの取れないスカーレットには、手に余りすぎる相手です」


鼻眼鏡を自慢げにくいっと押し上げる。


「……いかがです。今のは比喩と実際のスカーレットの状態をかけたのです。万能の天才の私の才能は、小粋なジョークにまで及ぶのです。拍手喝采をおくってくれてもよいのですよ?」


ぱんぱんと自ら手を叩くソロモン。


アリサは答えず、気に食わない演奏者に対する指揮のように、ただ一度だけ鋭く指先を宙に走らせた。即座に背後のソロモンの首筋に赤い線が走り、その頭がずるりと斜めに滑ってずれた。


「自画自賛の拍手など、聞くに堪えないわ」


ただそれだけの理由で首を斬られたソロモンは、べつに気を悪くしたふうもなく、落ちかけた頭を拍手をやめた両手で支え、くいっと位置のずれを押し戻した。少し飛び出した箪笥の引き出しを戻す気軽さだった。それだけで首は元通りになった。


「やれやれ、感性の不一致ですねえ。しかし、私とアリサ、たくらみは違えど、いまスカーレットを失うわけにいかないことは共通。ここは共闘して〝マザー〟と戦っては?」


ソロモンの提案に、アリサはゆっくりかぶりをふった。凄まじい嘲笑が燎原の火のように広がる。


「みっともなく二人がかりで? 笑わせるわ。焼き殺されたいの? それに、いま騒ぎを大きくすれば、あの女は私達との戦いを放り捨ててでも、スカーレットをまっさきに殺しにいく。鈍いくせに、そういう勘は妙に鋭いもの。そうなれば私でも止められない。スカーレットが自分の身を守れるよう成長するまでは、あの子の価値をあの女に知られることは悪手だわ」


「お言葉ですが、いま優先すべきは……」


言い募るソロモンを黙殺し、アリサは傍らの闇に鋭く命じた。


「……アゲロス。話は聞いていたわね。〝マザー〟が動けば、スカーレットを守るブラッドも巻き添えで殺されるわ。弟を守りたければ、ソロモンに協力しなさい。」


「……はっ、御意に」


暗がりで膝をついたまま畏まる黒髪の顔色の悪い少年に、ソロモンは驚きの息をのんだ。


「〝裂神(れっしん)〟アゲロス、いつの間に……。まさか「108回」では声をかけなかった七妖衆(しちようしゅう)を呼び寄せるとは。あいかわらず油断できませんね。いつの間に手懐けたのです。まだアリサは生まれて間もなく、面識もないというのに……」


「ループが最終段階に入ったからよ。……できれば皆には私に関わらせず、静かにそれぞれの人生を送ってもらいたかったけど……」


冷酷無比な凍てついたアリサの瞳に、わずかに人間らしい憂いがのぞく。なかなか本心をさらさないアリサだが、異形の心や体をもつ七妖衆を思いやる優しさは、まぎれもなく本物だった。


「僕らごときに、もったいないお言葉です。けれど我らの全身全霊は、すべてアリサさまのために……っ!!」


忠誠の誓いを最後まで言い終わることが出来ず、アゲロスは背を波立たせ激しく咳き込んだ。ただの咳ではない。なにかの発作だ。憑かれたように止まらない咳と、やつれはてた顔色に、見下ろすソロモンの眼鏡のレンズが冷たい観察の光にぎらついた。


「『真の歴史』のときよりずっと症状の進行が早い。アリサ、まさかもうアゲロスに授けたのですか。命を削って放つあの呪われた究極の技、〝裂神〟を」

アリサの沈黙が肯定だった。


〝裂神〟。それは文字通り、物理や常識をこえ、神をも切り裂く技。だが、引き換えにふるう者の生命力を削り取る。そして、常に生と死のはざまにいる者にしか放てない。まれにひとが死ぬ間際に放つ、蝋燭の燃え尽きる瞬間の最後の輝き、奇跡を呼ぶ力。それを人為的に引きずり出したものだ。


『真の歴史』において、アゲロスを七妖衆最強と言わしめ、同時にもともと病弱だった彼の人生を、さらに苦悶に満たした因縁の業である。「治外の民」史上最高の光輝く武才と肉体に恵まれた弟のかげで、兄はままならぬ体で死の影をひきずり、闇のなかを這いまわってその人生を終えた。


「楽しいですか? そんなすべての幸せを捨てた苦行僧のような毎日が。アリサもひどいことをする。私にまかせれば、それよりわずかに強さが劣るだけで、健康な肉体を与えてあげられますよ。「治外の民」の長を継ぐ資格どころか、ブラッドさえ凌駕する特上のものをね。科学の力こそ最強なのです。恋、家族、名声、望むがままですよ。今からでも遅くはありません。ほら、この手をとりなさい」


健康な精神とは言わないところに、危険な臭いがした。だが、ソロモンの甘い誘いと手を、アゲロスは咳き込みながらはねのけた。


「最強に……届かない日々など…なんの意味もない……!!」


ソロモンは手をさすりながら、ふうと嘲りを含んだため息をついた。


「あきれた頑固ものですね。たしかに〝裂神〟は最強に届きうる。けれど、諸刃の剣ですよ。使えば使うほど生命力はすり減る。ましてその体、道半ばで、あなたの寿命は確実に尽きます。アリサになにを吹きこまれたか知りませんが、夢を抱くにはその肉体は脆すぎる。精神力で耐えているようですが、今でさえすぐにベッドで安静にすることをお勧めします」


「あなたになにがわかる!!」


ひゅーひゅーっという苦しいぜい音をさせながら、アゲロスはソロモンを睨んだ。


「他人から与えられた力でかなった夢なんて、自分の夢なんかじゃない!!」


「おや、今度は理想主義ですか。話になりませんね。確率が限りなくゼロなのに、そこに人生を賭けるのは愚かものです。世の中結果がすべてですよ。私なら薬物チートしても機械の身体になっても目的を達しますがね。この優しさ、なぜ理解できませんかね」


侮蔑もあからさまに鼻を鳴らすソロモンを、ようやく発作がおさまったアゲロスは静かに見上げた。


「あなたはやはり何もわかっていない。それは本当の優しさじゃない」


ブラッドそっくりの黒い優し気な、しかし、無限の意志力を秘めた瞳だった。蒼白の顔色のなかで、その目はまるで深い湖のような存在感を放っていた。


「誰もが僕の病弱を憐れむなか、アリサ様だけが、僕を見下さなかった。違う言葉をかけてくれた。死にかけた身体だからこそ、究極の一撃を放てる可能性があると……。……今の自分を否定する必要はないと……。それがどんなに嬉しかったか……!! 僕はたしかに弱い。病弱だ。だけど、それこそが僕だ。僕自身だ。……僕は僕のままで、弟を超え、アリサ様を超え、いつか必ず最強に至ってみせる」


穏やかな、けれど決して揺るがぬ覚悟―。


その言葉になにか言いかけたソロモンだが、拍手がそれを遮った。


「見事よ。アゲロス。よく言ったわ。人は人のままだからこそ奇跡をおこせるの。骨は拾ってあげるわ。その生きざま、最後まで貫きなさい」


莞爾と微笑み、アリサが称賛の拍手をおくっていた。


誇らしげに見おろすアリサと、恭しく頭をさげるアゲロス。馴れあわぬ闇の主従の絆に、ソロモンは忌々し気に舌打ちし、ガウンの裾をひるがえした。


「くだらない。これ以上の茶番劇にはつきあいきれません。私は帰りますよ」


床がびしっと割れ、ソロモンの進む先を遮った。鼻眼鏡からのぞく灰色の多重円の瞳が殺意を帯びる。


「アリサ、いい加減に……」


アリサは形のいいおとがいを、つ、とあげた。


「あはっ、性急な殿方は嫌われるわよ。ここからが話は本番。あなたのそのおぞましい研究欲を、嫌というほど満たしてあげる。アゲロスの〝裂神〟は、すべてを綺麗に分断するわ。人でも、物体でも、無理に押し開けようとすると自爆する防衛の結界でもね。たとえば、あなたにも封印を解けなかったあの……」


アリサの言葉にソロモンの顔色が変わった。


「セーラムの開かずの環状列石遺跡のことですか!? アリサはあの遺跡の中身を知っているのですか!?」


掴みかからんばかりの勢いに、アリサは手ぶりで落ち着くよううながし、話を続ける。


「ええ、あれは人がまだ神話を生きていたほどの大昔、当時の気候大変動から国を救うため、気高き祭司たちが心血をそそぎつくりあげ、そしてみずからを人身御供に起動させた一種の魔術回路よ」


「なんと……現実改変……!! 究極のシステムではないですか……!! それは、まさかあの宝石たちを模して……」


うなるソロモンにアリサは頷き、少し遠い目をし、先人たちの英雄的行為に思いを馳せた。


「その祭司たちは真の勇者だった。次は、愚かな為政者たちが民を生贄にし、みずからの欲を叶えようとすると見こし、起動と同時に、もう誰も立ち入れないよう遺跡を内側から封印したの。自分達ごとね。最初から生きて帰る気はなかったのよ」


「……私には彼らのもうひとつの気持ちがわかりますよ。みずからの命を賭した研究がくだらない目的に使われるのが我慢できなかったのでしょうね。さらに私のような力尽くで結界を破れる相手にそなえ、自爆の機能まで……。帽子を脱がざるを得ません。ぜひ白熱した論議を交わしてみたかった」


人ならざる学問の鬼道をいくソロモンも、例外的に、恋する女性と学問の徒には敬意をはらう。しみじみと語った彼は胸に手をあて頭を垂れ、しばしのあいだ瞑目した。


「……わかりました。私もその話に乗らせていただきましょう。ですが、もし遺跡内部に踏みこめても、それだけの祭司たちの犠牲を要したシステム、再起動にはどれだけの命が必要か。それこそ『真の歴史』であなたがおこなった大虐殺なみの……」


「問題ないわ。私が出る」


ソロモンの危惧を、アリサは事もなげに切って捨てた。ソロモンが驚きに目をむく。


「アリサ自身がシステムの核になるつもりですか。いくら貴女でもただでは済みませんよ。もしかしたら死の危険さえも……」


アリサはふふっと笑い、一歩足を進めた。


闇のなかなのに、ソロモンの目には、まるで舞台の中央でスポットライトを浴びているように見えた。


「死? 私は世界中のあらゆる死の苦痛を幾たびとなく体験したわ。ループと引き換えにね。いまさらよ。私がおそれるのはただひとつ、スカーレットと真の決着をつけられないことだけだわ」


アリサは昂然と言い放った。


スカーレットを守るためアリサは、現実改変の力を使い、〝マザー〟の認識阻害結界を、あらたに張りなおす。しかも〝マザー〟自身の意志でそうしたように思いこませてだ。そうすればスカーレットたちもすでに認識阻害を受けているデズモンドたちと同様、聖女と〝マザー〟が同一人物とわからなくなり、なおかつ命を狙われる危険もなくなる。


理由はわかる。


けれど、ソロモンはどうにも腑に落ちなかった。


「……なぜそこまで? 私も『真の歴史』でスカーレットに恋したひとり、彼女のすばらしさはよく知っています。けれど、貴女は桁違いすぎる。望めば、四大国も聖教会も思うがままでしょう。聖女にも女帝にもなれる唯一無二だ。いくらスカーレットとてライバルにはなりえない。なのに、あなたはまるで……まさか……」


何かに気づいたソロモンがはっと顔をあげた。


その問いかけを、アリサは含羞の微笑みを浮べかわした。


「いいえ、スカーレットはこの広い世界でたったひとりの私のライバルよ。……あの子は、戦いの果てにすべてを失ったけど、私のことだけは忘れなかった。ブラッドでも、セラフィでも、アーノルドでもない、この私を選び、一緒に死んでくれると笑顔で言ってくれた。貰いっぱなしは私の流儀じゃない。でも、馴れ合いなんて死んでもごめんだわ。だから、決着をつけることでその心意気に応えるの」


「ちょっと待ってください。一緒に死ぬ? いったい『真の歴史』でスカーレットとアリサはどんな結末を迎えたのです」


ソロモンは問いかけずにはいられなかった。


残虐、冷血、非道、魔女。

アリサの歩む先には屍山血河が広がり、歩んだあとには死屍累々の道ができる。殺戮した者の骨を踏み砕く音を伴奏に、裸足で華麗にダンスを踊る。怨みの骨の欠片が刃になって足裏を血まみれに裂いても、顔色ひとつ変えず、軽やかにステップを踏む。たとえ怨霊たちに取り囲まれ、謝罪しろと責められても、地獄に堕ちるとわかっていても、


「私は自分の信念で道を選んだわ。謝るくらいなら、最初からその道を選びはしない」


そう傲然と言ってのける孤高。七妖衆も、可愛い部下であっても同格ではない。それこそがアリサの真骨頂で強さの源だ。


そんなアリサにここまで言わしめるとは……。


知りたい、是が非でも。


ソロモンは胸を焦がす探求心に身悶えした。


『真の歴史』では五人の勇士も、七妖衆も全滅し、最後に残ったのはスカーレットとアリサふたりのみ。スカーレットが「真の歴史」の記憶を取り戻さない以上、すべての結末を知るのはアリサだけだ。


ソロモンもおそらく相討ちだったろうとしか推測できない。だが、ふたりは相対する宿命の星ではあっても、強さの質が違った。スカーレットの強さは五人の勇士とセットでフルに発揮されるものだった。一騎打ちになった時点で、すでにアリサの勝利は確定していたはずなのだ。なのに……。


「その結末の秘密、ループを引き起こす貴女の目的と直結しているとみました。同盟者として、ぜひ仔細詳細をお聞きしたいものです」


「内緒よ。女の秘密を探るのは無粋。恋する人との思い出ならなおさらね」


身を乗り出さんばかりのソロモンを、アリサはアゲロスが目を奪われるほど可憐に笑って受け流したが、ソロモンの好奇心はかえって手がつけられないほど燃えあがった。


〝……アリサ、貴女(あなた)は忘れていますよ。たしかに悔しい事に、五人(われ)勇士(われ)は全滅した。けれど、その後なにが起きたか見届けたもうひとりの存在がいる。そう、スカーレットが妹のように可愛がっていたフローラが。貴女が教えてくれないのなら、彼女に聞くまで。……くく、アリサ、貴女の唯一の弱点はスカーレットを特別視するあまり、他の女性(けもの)達を甘く見ることです。彼女たちもまた牙や爪をもつもの。せいぜい今回もイレギュラーに足をすくわれないよう気をつけるがいい。私にはフローラと交渉する切り札がある。我が探求心を甘く見ないことですね〟


暗闇のカーテンのなか、ソロモンは心のうちでほくそ笑み、アリサは花咲く丘で恋人の無事を祈る無垢な乙女のように胸をおさえる。そしてアリサにゆるぎなき忠誠を誓いながら、いつか彼女を打ち倒すことを夢見るアゲロス。

三者三様の魔人たちの思惑を抱えながら、夜は静かに更けていくのだった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



……物語は再び、スカーレットたちが見ている過去へ舞い戻る。


登場人物は、聖女、まだ少年のドミニコ王子。セラフィの父親のフィリップス。セラフィを身籠ったマリー姫。そして彼女の幼い頃から執着する変態貴族だ。


彼の名はボクティーヌ伯爵。


ひとめ見たとき誰もが抱く印象が、無気力な〝豚〟である。

肥満体もさることながら、そう思わすのは顔だ。腫れぼったい小さな目の間隔は離れており、奥まったところでしょぼしょぼとまばたきする。大きな鼻はひどく潰れ上向きだ。丸見えの鼻孔が、呼吸の度にせわしくぴくつく。昔、マリー姫にちょっかいを出そうとし、フィリップスに鉄拳制裁され、鼻骨が変形してしまったのだ。鼻道がふさがっているのか、鼻息までがぶひーぶひーと豚そっくりだった。


彼は由緒正しい家柄ではあるが、容姿と極度のあがり症のため、幼い頃から失笑のまとだった。もともと猪首なのに背を丸めがちのため、さらに首がなくなった。俯きがちで、そのうち使用人とさえ目をあわせられなくなった。


より不幸だったのは、親が早逝したため、教育なかばのまま、家を継がねばならなくなったことだ。礼儀作法の間違いは日常茶飯事で、長時間の儀式の緊張にたえられず、失禁してしまったこともある。


当然女性達にはまともな結婚対象に見てもらえない。婚約の内定までこぎつけたが、顔合わせした途端、相手の令嬢は失神し、そのあと自殺未遂した。それ以来屈辱の疫病神扱いだ。


そんな彼に唯一優しく接してくれたのが、当時十歳のマリー姫だった。その可憐さにひとめで心を奪われた。彼女の優しさは、好意というより寛大さに依るものだったが、愛に飢えた彼を勘違いさせるには十分だった。マリー姫は盲目ゆえに、自分の醜い容姿に気づいてないのではと思い、これこそ自分の運命の相手と勝手に定めた。そして迷惑も顧みず、一方的に求愛し続けた。デズモンドとマリー姫の秘めた恋愛関係など気づきもしなかった。彼女に会っているときだけが彼の癒しの時間だった。


だが、突然割り込んできたフィリップスに殴り飛ばされ、大怪我をし、チューベロッサ本国の王都で長期療養をして帰ってきたら、もうマリー姫は出奔したあとだった。失意のどん底で暮らしていた伯爵は、のちに風の噂で、こともあろうに自分をひどい目にあわせたフィリップスが、マリー姫と結婚したと聞き、絶望の涙を流した。


彼は怪我の影響で顔が変形し、より豚そっくりの貌になっていた。いまや社交界どころかメイドまでが彼を陰からちらちらと窺い、くすくすと笑いのネタにする。歯噛みするほど悔しかった。だが、フィリップスに復讐する勇気も、自分を笑いものにする連中をしかりつける気力もない。


伯爵はすべてを諦め、旧ヒペリカム王国内の飛び地の自領にある古城に隠遁した。もとが砦であり、頑丈さぐらいしか取り柄がない石造りの小さな城だ。


周辺の村も耕作地も、半世紀以上前に猛威をふるった流行り病により見捨てられ、荒れ果てたままだ。魚釣りを楽しめる湖も川もなく、狩猟欲を満足させる森もない。潮風が吹きすさび、岩肌と砂がむきだしの荒地に、その名にふさわしいヒースの植生がへばりつくように点在するだけだ。社交界のオフシーズンでさえ誰も寄りつかない僻地だった。


だが、それが人嫌いの伯爵にはありがたかった。


そのまま何事もなければ、彼は無気力にひっそりと人生を終えたろう。


だが、たまたま城を訪れた腕のいい蝋人形師との出会いが、彼の運命を変えた。落ちこんだ伯爵を慰めるため、彼がつくったマリー姫の蝋人形の出来ばえに、伯爵は狂喜乱舞した。そして、いくら金がかかっても構わないからと、自分が出会った十歳から、いまの齢までの全年齢のマリー姫の蝋人形の作成を依頼した。


金払いはよかったが、伯爵のチェックは異常者のそれだった。睫毛の角度が違う、唇の巾が二ミリずれていると文句をつけ、気に入らない人形は完成品でも容赦なく叩き潰した。ようやくすべてを作り終えたとき、人形師は失神して倒れたほどだった。疲労困憊もあるが、伯爵の狂気の熱意は、彼の心を蝕んだのだ。


あとは一年に一回、マリー姫の誕生日にあわせて蝋人形をつくり足すだけとなった人形師は、ほっと胸をなでおろし、急いで城をあとにした。


だが、彼も気づいてはいなかった。伯爵の心のなかに、マリー姫の人形の失敗作をみずから壊し続けたことで目覚めた、おぞましい獣が棲みついたことを。


この城には、いにしえの戦争の捕虜用の広大な地下牢がある。異民族の捕虜たち自身の手で築かされた石づくりであり、最後は彼らを人柱にして完成した。緊急時に敵を誘いこみ殲滅する罠でもあった。おそろしく堅牢にして複雑怪奇な地下迷宮である。代々の城主に受け継がれたこの迷宮は、拷問や処刑の場として使われてきた。少し古い部分を掘り返すだけで、人骨がごろごろ出土する。ゆえに、この城にあらたに勤める使用人は、最初に幽霊話で脅されるのが恒例行事だ。もっとも事故を防ぐため、今は地下への入り口は埋め立てられている。宝が隠されているという噂話につられた行方不明者が大勢出たためだ。


陰惨な歴史をのみこみ、城はさびれた巨影を、今日も霧のなかにそそり立たせている。


霧が濃い日は、ふだん古ぼけぼやけた城の輪郭は、地下迷宮の犠牲者たちの命を吸いあげたように、くっきりと濃くなるのだった。


だが、城主だけが知る隠し通路をおりた先、その不気味な地下の一室が、ボクティーヌ伯爵にとっては地上天国そのものだった。


その部屋に向かう途中にある牢らしきくぼみに横たわる朽ちた人骨。あるいは通路でみかける服の繊維が劣化しきらず支えているので人の形を保ち、壁に爪をたてた新しい人骨、おそらく閉鎖前に迷い込んだ行方不明者のもの、もまったく眼中になく、うきうきと早足で先を急ぐ。


そして、この廃墟には似つかわしくない絢爛豪華な装飾がほどこされた扉を、息をはずませて開け放つ。


「ただいま、〝みんな〟!!」


女性用の調度品に彩られた部屋が、金銀に輝いていた。

その煌びやかさは、松明のしょぼい明かりでさえも隠せない。

本国の王女の自室に匹敵するほど金が惜しみなくつぎこまれている。

ひとつの置物でさえ庶民一年分以上の稼ぎになる。それがよりどりみどりだ。


だが、伯爵の真の宝は、部屋のどんつきのレースのカーテンの向こうにある。


カーテンをかきわけた先にあったのは、巨大なハート型の天蓋付きベッドと、幼女から成人にいたるまでの、マリー姫を精巧に模した蝋人形の群れだった。みな一様にエメラルドの無機質な瞳に、乾いた微笑を浮べ、高価なドレスをまとい、惜しみない貴金属で着飾っている。


香で誤魔化しているが、伯爵の体液の残滓がかぎとれた。伯爵は、毎夜、彼女達とおぞましい逢瀬を愉しんでいた。ベッド脇のナイトテーブルには、卑猥な形の道具がひしめきあっていた。


伯爵はふたつの蝋人形を両脇に抱えこむ。


「よし、今夜は、十二歳と三十歳のマリー姫たんとダブルプレイだ」


鼻息荒く宣言すると、ベッドに蝋人形を押し倒す。


その孤独な愛の営みを、年齢順に並べられた他の物言わぬ蝋人形たちが皮肉っぽく眺めている。


あたたかい命と無縁の薄ら寒い光景。だが、ボクティーヌ伯爵の脳内には、蕩ける笑顔で自分の首に両手をまわし、あるいはちょっと嫉妬しながらも見守る架空のマリー姫たちの幻影が見えていた。


伯爵は生臭い息で、愛の睦言を蝋人形たちの耳元にささやく。本人は恋物語の主人公になりきり、最高の笑顔のつもりだが、目の据わった笑みは、完全にひとりよがりの妄執にとらわれていた。齧る癖のため爪がわずかにしかない太い指を、スカートのなかに這わす。白い不潔な芋虫にそっくりだ。


「ぼくちんはいつもマリー姫たんの幸せを……くそっ、この下着の紐め。きつく結びすぎだ」


若い頃の懐かしのぼくちん呼びが復活した。必死に紐をまさぐる。なかなかほどけない。


「こんなもたついてちゃ本物のマリー姫に……。ちくしょう。その人を馬鹿にした笑いをやめろ」


蝋人形にしてみたら最初からそういう表情で固定されているのだから、言いがかりも甚だしい。だが、苛立った伯爵は人形の顔を殴りつけた。殴りつけられても当然人形は笑顔のままだ。やめてとも言えない。悲鳴のかわりに蜜蠟の肌にヒビが走り抜ける。嗜虐心を刺激された伯爵の口から涎がとんだ。人形とおのれの服を下着ごとひきちぎる。


「ふうーっ、ふうーっ」


興奮した鼻息がふいごのように響く。

白く醜い巨大な背中は、海を漂う大型の海洋哺乳類の死骸を思わせた。

霞のようにぶらさがったレースのカーテンの向こうで、伯爵のでっぷりしたシルエットが人形に交互にのしかかり、華奢な肢体を屈曲させた。乱暴に足を押し開く。


「愛してる。マリー姫たん。ぼくちんのベイビーを孕ませてあげる」


良家の子女が目撃すればおぞましさに失神し、一カ月ほど悪夢にうなされたかもしれない。


のしかかる伯爵の重量級の体重と、限界をこえた股間の可動域の強要、それらに耐えきれず、人形の関節がばきばきとへし折れた。えりすぐった木材の芯だったが、こんな過酷な使用方法は人形師も想定していなかった。たちまち飛び降り自殺の死体みたいにひどい有様になったが、伯爵はまるで意に介さない。その折りたたまんばかりに圧迫させた体勢で、キスをはかろうとし、無理に人形の首をねじ曲げる。


「このっ、こっちを向けったら」


首が折れた。かまわず髪を掴んで引寄せキスをする。うっとりと顔中を舐めまわす。べちゃべちゃという汚い音が響く。豚が残飯をあさる音だった。


「次はおまえもだ」


もう一体も首をへし折られた。


人形とはいえ、仮にもおのれの愛する女性の姿のものにする仕打ちではない。伯爵の長年抱いてきたマリー姫への暗い妄想が、蝋人形という発散対象を得て、攻撃性となって躍り出てしまっていた。


「ふうっ、ふうっ、ぼくちんたちの失った刻を、これからつくる子供たちで埋めるんだ。ああ、大家族のなかで幸せそうに笑う君が見える。……ダメだよ、マリーママ。こんな昼間からなんて。息子と娘たちが起きてるじゃないか。そんなにまだベイビーが欲しいのかい。しょうがない頑張りやさんだなあ。ふはあっ!!」


恍惚として笑いだす。妄想は二幕、三幕にはいり、伯爵の腰の動きに熱がこもる。ありえない角度で背中がわにぶらさがった人形の首が揺れる。


「ふん、またあの蝋人形師に修理してもらわなきゃな」


ようやく果てて一休みした伯爵は、壊れた蝋人形から身を離し、面倒くさそうにつぶやくと、愚行につきあってくれたパートナーたちを容赦なくベッドの下に蹴り落とした。そのまま他の蝋人形に手を伸ばす。万事無気力な彼だが、食欲と性欲だけは底なしだった。


「待っててね。本物のマリー姫たん!! もうすぐあの粗暴なフィリップスとオランジュ商会から、ぼくちんが救い出してあげる!! 奴らは罠にはまった。もう終わりだ!!」


おぞましいフィニッシュにあわせ、伯爵は絶叫した。


その陰惨な光景を、居並ぶ蝋人形たちが変わらぬ微笑を浮べ、じっとガラス玉の目で眺めていた。よく見ると、首が折れかけたもの、顔がひしゃげたものが幾つもあった。そして皆判で押したような同じ笑顔だった。その笑みは、いつまでも幼稚な夢からさめない伯爵への嘲笑か、あるいは、やがて本物のマリー姫がたどるかもしれない自分達と同じ末路への暗い期待なのか。


三時間ほどマリー姫の蝋人形たちの凌辱を堪能し、地下から城の自室にもどった汗だくのボクティーヌ伯爵を、思わぬ人物が待ち受けていた。


「よう豚。待ちくたびれたぞ。いい年をしてのお人形遊びは楽しめたか?」


伯爵のデスクに無遠慮に腰掛け、足をぶらぶらさせていた美少年が振り向き、嘲笑を叩きつけてきた。肩先で切り揃えられた金髪が揺れる。まだ第二次性徴期前であり、ドレスを着ていたら少女と見まがう姿だ。なのにその声は、低く太くいやに不遜で、なにより嘲りに満ちていた。ギャングの大ボスが裸足で逃げ出すあくどい響きをしていた。


「汗臭いぞ。臭くてかなわん。ここは城ではなく豚小屋か。いや、失礼。臭いのもとは城ではなく、おまえ自身だったか」


くっくっくっと喉の奥で、嗤い声をたてる。声以上に天使の顔立ちに似合わぬ凄まじい毒舌だが、隠そうともしない青い目にひそむ邪悪さは、それをはるかに凌駕した。


「消臭剤がわりだ」


片手でくゆらすように弄んでいたワイングラスを、ぴっと横投げし、中身ごと伯爵にぶつける。狙いあやまたず、伯爵は頭からまっかなワインびたしになった。


「あっはっは、豚肉のワイン漬けのできあがりだ。もっともこんな汚い料理を食卓にのせたら、そのシェフは即ギロチンおくりにしてやるが」


少年は腹を抱えて笑い転げた。

無礼討ちされてもおかしくない暴挙だが、ボクティーヌ伯爵は恭しく片膝をつき、こうべを垂れた。


「我が城によくおいでくださいました。至高のドミニコ王子殿下」


「なにが至高だ。その王子サマを待たせて、おまえは地下室で変態行為に励んでたんだろうが。豚風情が人間の礼儀を気取るなよ。家畜らしく這いつくばれ」


チューベロッサ王国の次期後継者ドミニコ王子は、ドスのきいた嘲笑を叩きつけ、腰掛けていたデスクから飛び降りると、コートスタンドにかけていたマントを無造作に掴んで羽織った。王家の紋章をひるがえし、平伏している伯爵の後頭部を踏みつける。


「頭が高いぞ。豚らしく床を舐めろ」


見おろされ命じられた伯爵はあわててもっと頭を低くしようとするが、腹がつっかえてうまくいかない。おまけに頭から垂れてくるワインが鼻孔をふさぐ。たちまち呼吸困難におちいり、顔を紫色にしてぷぎーっぷぎーっと喘ぎだした。


「はっ!! おまえは本当に見事なまでに豚だな。その屠殺場で断末魔をあげるマネには、どんな名優も兜を脱ぐ」


そのぶざまさにドミニコ王子は上機嫌になり、足をどけた。呼吸の搾取から解放され、ぜいぜいと空気を貪る伯爵の耳元に口を寄せる。知らないものが遠くから目をやれば、かわいらしい天使が降臨してのささやきに映ったかもしれない。だが、この王子がするのは悪魔のささやきだった。


「なあ、おまえみたいなおぞましい豚が、本気でマリー姫に愛されると思っていたのか。鏡で顔を見てみろよ。いや、無理か。そんな醜い顔じゃあ、どんな鏡も映すことを嫌がり、みずから砕け散るだろうからな」


「な……」


あまりの物言いに返す言葉を失う伯爵に、さらに容赦なく追い討ちする。


「マリー姫は盲目だからチャンスがあると思ったんだろう? バカめ。あの女は心を読む。おまえは外見は豚だが、心は豚の便所よりひどい臭いだ。鼻をおさえ悲鳴をあげて飛び退くさ。おまえは糞と汚物の山と抱擁し、愛を語れるか?」


煽りまくられ、伯爵の顔色が紫色から死人の土色にかわった。地鳴りのような怒りの唸りが、肥満体の奥底でした。マグマの鳴動を思わせた。尋常でない怒気の爆発の前兆を、ドミニコは歯牙にもかけていなかった。


「おまえ、まだ人妻になったマリー姫を諦めていないんだろう。色々と良人のフィリップスをおとしめる罠を仕掛けてるそうじゃないか。しかもヒーロー気取りで、彼女を救うつもりになって。……身の程知らずな豚に、愉快な現実を教えてやる。おまえは幸せな生活から彼女を引きはがし、糞まみれの巣穴にひきこもうとする怪物だ。実現したら世界で一番忌み嫌われる存在に昇格だ。性病で身体がとけたヤツのほうがまだ百倍チャンスがある。手籠めにしようとしても自殺されるな。なのにかなわぬ夢を追い続ける。豚のドンキ・ホーテめ。私を笑い死にさせる気か」


「黙れ!! 黙れ!! 黙れ!!」


ドミニコ王子は伯爵の触れてはいけない部分を、嘲笑しながら足蹴にした。それは王子という立場への遠慮をもふきとばす傍若無人さだった。


激昂して我を忘れた伯爵は、ドミニコ王子の胸倉をつかんで吊し上げようとしたが、その前に、四方八方から突き出された白刃のぎらつきに包囲され、身動きひとつ出来なくなった。いつの間にか現れた黒山羊(くろやぎ)の仮面をかぶった黒衣の連中が暗器をかまえ、ドミニコ王子を伯爵から完全にガードしていた。ひとめ見ただけで忘れられない異様な姿だった。


「……しゃべるな。動くな。二度は言わん」


黒山羊の角を揺らし、口吻の奥からするくぐもった声は、脅しではなく最終通告だった。


押しつけられた刃が、伯爵の喉にぷつぷつと血の珠をつくる。くりぬかれた黒山羊の眼窩からわずかにのぞく彼らの目は、山羊の生息するどんな山脈の頂きより鋭く、伯爵の激昂をすら凍らすほど冷たかった。


「……ドミニコ黒山羊兵団(くろやぎへいだん)……!!」


伯爵は喉をのけぞらせ、ごくりと唾をのみこんだ。


「豚のくせに博識だな。ならば、こいつらに逆らってもムダとわかろうよ」


ドミニコがせせら笑う。


噂には聞いていた。

ドミニコ王子は、どす黒い装束と黒山羊の被り物に身をつつんだ暗殺部隊を子飼いしており、彼らに狙われたら国の重鎮でさえ逃れる術はないと。


そして、彼らの手による犠牲者は、いかれた前衛美術のような惨状をさらすと知られている。切り取られた頭が腹のなかにあるなどまだマシなほうだ。そのひどいやり口から鬼畜の名をほしいままにしている。逆らう者への見せしめのためと言われていたが、彼らのぎらつく目を直接見た伯爵は、もっと危険でおぞましい悪魔崇拝的なものを感じとった。


「私を処刑するおつもりか……」


伯爵は震える声で問うたが、もう助かるまいと思った。


ドミニコ王子の残虐さはよく知っている。


七代まで王家に祟ってやると叫んだ思想犯に、


「おまえは私に感謝して死ぬ。私の予言がはずれたら、好きなだけ私を呪うがいい」


と笑顔で言ったのは五歳のときだ。


そして王子は、思想犯にすぐさま拷問の限りを尽くすよう命じた。お供の者たちは祟りをおそれて蒼くなったが、王子は取り合わなかった。思想犯は、連日連夜、王子への呪詛をまき散らしたが、不眠不休での責め苦が二週間も続くと、衰弱しきって意志も判断能力も失い、もう殺してくれと譫言のように繰り返した。聞く耳もたず、さらに二週間拷問の限りを尽くしたあと、ドミニコ王子はにこやかに切りだした。


「私をたたえよ。それだけで、おまえは今すぐ苦しみから解き放たれる」


男は恥も外聞もなくすがりつき、ドミニコ王子を言葉を尽くして称え、その場で笑顔で斬首された。


ドミニコ王子は、怨みを忘れ幸せそうに笑う生首を、小さな両手でトロフィーのように掲げ、


「見ろ。元凶の私に涙を流し感謝して死んだ。人はじつに面白い」


と楽しそうに言い放った。


たまたま近くでそれを聞いた伯爵は、心胆を寒からしめる恐怖をおぼえた。この王子は生まれながらの悪で、良心のブレーキもない。将来どれほどの怪物に育つのかと。


きっと自分ごときの命、使用済みの蝋燭の炎のように消し、一顧だにしないだろう。そのときの戦慄の予感を、まさか我が身で実感することになろうとは。


「さて、おまえはもう死ぬ。虫けらのように殺される。最後の情けだ。おまえが本当にやりたかったことを、叫ぶがいい」


ドミニコ王子の慈悲深い微笑みに威圧されるように、伯爵は、


「わ、私はマリー姫と愛し、愛され……」


と言葉をしぼりだした。


王子が声をあげて笑い一蹴した。


「とりつくろうな、豚。おまえは心の奥では、マリー姫に好かれないとわかっていたはずだ。だから、姫の本当の気持ちを指摘されて我を失ったんだ。このままだと姫に何も残せず孤独に死ぬぞ。姫はしつこいおまえの死にほっとし、すぐに忘れ、仲間と幸せに笑って生きていく。ハッピーエンドだな。おまえ以外は。見ろ、私の瞳にうつったおのれのみじめな姿を」


伯爵は、皮肉たっぷりの王子の瞳に、うつった自分を見た。路傍の無価値な石ころ以下に見えた。墓碑も建てたあとは誰も訪れまい。誰も心にとめず、覚えていてさえくれない。なんと孤独で情けないのか。ドミニコの冷徹な瞳は、魔界の鏡のように、残酷な未来予想を本人にさししめした。


気がつくと伯爵は涙をこぼしていた。煽られ、かき乱され、冷静さを失った心は、自分が術中にはまったのでは、と危惧する能力をすでに失っていた。


ドミニコが一転し、慈しむように微笑した。聖なる祈りのように両手を組む。


「悲しかろう。一矢むくいたいだろう。恵まれたヤツらに。……せめて無害な石ころより、道に立ち塞がる豚ぐらいになりたかろう? ならば、醜い顔にふさわしい欲望の歌を高らかにうたえ。正義と愛をせせら笑え。人として幸せになれないなら、豚畜生の意地をみせてやれ。さあ、鳴き声をあげてみろ」


ドミニコ王子の動作や声には催眠効果がある。


その声は、孤独に乾ききった伯爵の心に、恵みの雨のようにしみわたった。どくんっと心臓が鳴った。血潮が逆流したかのように轟く。それは魔獣の産声だった。視界が生々しくまっかに染まる。欲望と憎悪の色が心の奥からあふれでたのだ。


気がつくと伯爵は、目を血走らせ、喉が枯れるほど絶叫していた。


「俺は、俺は、美しいマリー姫の心も身体もむちゃくちゃにしてやりたい!!  汚して堕として、俺と同じ底辺に引きずりこんでやる!! 家族のもとになんか恥ずかしくて戻れない雌豚にしてやるんだ!!」


喉が裂けて血が飛んだ。


頬についたその血を、ドミニコは指ですくい、口紅がわりにひくと、嫣然と嗤った。


「……よくぞ吠えた。おまえの腐りきった魂、まことの叫び、運命への宣戦布告。たしかに胸に響いたぞ。真実には誠意で応えよう。この世の真実を教えてやる」


牧師が聖書に誓うように、胸に手をあて断言する。


「女の機嫌をうかがい愛を望むなど、男の人生としては愚の骨頂だ。嫌がる女を力尽くで犯し、血の涙を流させながら支配する。これこそ、男と生まれた真骨頂、面白みだ。ましておまえは豚。豚は人間の女に愛されぬ。ならば、欲望のままに貪ってなにが悪い」


おそろしい悪魔のささやきだった。


その言葉は、王子を睨みつけるようにして、ぶふーっ、ぶふふーっと息を荒げる伯爵の脳髄で反芻され、神の教えのように刻まれていく。


「おい、顔が遠い。ひざまずけよ。もっと悪だくみを語り合うために」


興が乗ってきた王子は、その美しい顔をずいっと鼻先が触れんばかりに、伯爵の醜い顔に寄せた。


王子は両手を伸ばし、親しい友にするかのように伯爵の頬をはさみこんだ。


「おまえもオランジュ商会をおとしめ、姫を奪おうと色々画策しているようだが、まだ甘いな。フィリップスは手強い。どん底からでも這い上がってくる。助けようとするものも多い。借金を背負わす程度では、息の根を止めることはできん」


焦点があわないほど間近すぎる距離で見る、凄みのある美貌にどぎまぎする伯爵に、王子は恋人に向けるような笑みを浮べた。


「だが、安心しろ。私が手を貸してやる。力をおまえにやろう」


どうやって、と問うより先に、王子のキスで伯爵の唇がふさがれた。口移しでおくりこまれた液体は、天界の甘露の味がした。鼻をつままれた。勝手に喉が嚥下してしまう。


げらげらと黒山羊兵団が意味ありげに笑った。


これは王子の唾液なのか、それともなにかの麻薬なのか。その液体は、ひやりとした感触と危惧を喉ごしに、食道をくだり、胃の腑におちた。そして疼く灼熱の酔いとなって全身を包みこんだ。酒の酩酊など比較にならない。疑問もおそれも彼方に去り、万能感が全身を支配する。陶然とする伯爵から唇を離し、王子がくすくすと笑う。


「おまえは姿も心も醜い故に愛されなかった。いわば美しさに虐げられた犠牲者。ならば、おまえは、マリーのような美しい女に復讐する正当な権利がある。ためらうな。奪え。勝利者になれ」


甘い毒と誘惑が伯爵の脳を侵していく。


魔女にそそのかされ、道を踏み外した劇中の悪役のように、伯爵の目に狂気の炎が燃えあがる。そういう連中の末路は悲劇だと気づきもしない。


それを横目で冷たく一瞥し、ドミニコ王子は睦言のようにささやく。


「あらためて聞こう。おまえはただフィリップスからマリーを奪えば満足か。おまえの二十年恋い焦がれた飢えは、そんなつまらんものか。ならば、きさまはせいぜい豚もどきだ。おまえはもっと豚だろう。助言してやろう。フィリップスの命と引き換えだと言って、マリーを脅して従わせろ。愛される良人というものは、こうやって女に使うものだ。女に自己犠牲の悲劇のヒロインになるチャンスをくれてやれ。さあ、卑劣な欲望を闇に吠えたてろ」


夜風が室内に吹きこみ、ばんっと音をたてて、観音開きの窓が開いた。カーテンがひるがえる向こうには、漆黒の闇が誘うようにどこまでも広がっていた。


女に挑発されたように、男に嘲られたように、伯爵は全身がかっとなった。理性などまだ欠片もない原初の本能が、頭と腰で粘液質になってうごめく。その腫れぼったい熱に突き動かされるままに、伯爵は夜空に咆哮した。


「……マリー姫を裸で四つん這いにさせ、あの気高い顔に唾を吐きかけ「これからは俺が主人だ。おまえは雌犬だ。犬に服はいらない』と命じてやる!!」


「つまらんな」


「ただの雌犬じゃない!! 掃除専門だ!!  俺の身体のどこだろうと、俺が出したなんであろうと、這いつくばり、舌で丁寧に掃除するのが仕事だ!! 雌犬じゃなく、雌豚にまでおとしめてやる!!」


「まあまあだな」


「朝から晩まで「私は恥知らずの雌豚です」と唱えさせ、立場を自覚させてやる。ベッドで常に尻を突きあげさせて待機させ、『頼みますから普通に』と泣いて頼んでも、豚の鳴き声としぐさしか許さず、トイレも行為も、すべて誰かの目の前にさらし、姫どころか人間としてのプライドをずたぼろにしてやる!!」


「あと一声といったところか」


「心と頭を徹底的に追いこんで壊し、醜い俺を見ても、股をこすりつけるような色狂いのメスに調教し、俺と同じ豚地獄を這いずりまわるようにしてやるんだ!!」


「いいぞ、合格だ。豚らしくなってきた。その調子だ。いい麻薬に心当たりがある。きっとおまえの夢を後押ししてくれるだろう」


おぞましい願望を一気呵成にまくしたてる伯爵に、ドミニコは拍手喝采した。


「俺はもう愛はいらない!! きたない俺色で、あの優しいマリー姫の心を汚し尽くしてやる!! 婚約指輪と絆のかわりに、首輪と鎖を!! それが俺とマリー姫の結婚式だ!!」


けがれた伯爵の咆哮に王子は目を細めた。


「見事だ。愛する女を手に入れるため、幸福な居場所から、自分の場所まで引きずり落とす。その女の大切な良人を使って脅し、本人を麻薬漬けにすることも厭わない。愛していると言いながら、女の幸せなどこれっぽっちも考えない。じつに自分勝手で素敵な夢だ。いまこそおまえは真の豚畜生になった。人生を楽しむコツがわかってきたようだな」


賞賛をおくると、伯爵に手を差し伸べた。


「どうだ、この手をとるか。地獄への片道切符だぞ」


狂獣となった伯爵は躊躇わなかった。言葉は自然と口をついて出た。


「よろこんで。永遠の忠誠をあなたに」


伯爵は悪魔に魂を売った。


恭順のくちづけを手の甲に受け、ドミニコ王子は赤い唇をVの字につりあげて笑った。


「ならば、欲望の限りをつくすと誓え。地獄で、惚れた女を絶望させ貪り喰らうものこそ、この私の家臣にふさわしい。豚のなかの豚になってついてこい」


ははあ、どこまでも、と伯爵は答えたつもりだったが、その誓いは獣じみた咆哮となって迸り出た。歪んだ前傾姿勢で吠えたてる姿は、悪夢に棲む異形の怪物そのものだ。


産みつけられた悪意の卵は孵化し、いま現実に躍り出た。。


ドミニコ王子は鷹揚にうなずいた。


「よかろう。ならば、おまえは今日からこいつらの魂の同志だ。愛もモラルもゴミ箱に叩きこめ。正義面し、おまえらを抑圧した建前どもを、地獄の炎にくべてやれ。牙と爪を隠すな。怒張を誇れ。本能と破壊こそが人を人たらしめる。理想? 良心? 笑わせるな。人のさがは獣よ。いつわりの愛想笑いを浮かべる世の欺瞞など、嘲笑い凌辱しつくしてやれ」


王子はばっとマントをひるがえし、いまだ伯爵を取り囲む黒山羊兵団に、片手をあげうながした。


「見せてやれ。悪鬼羅刹の面魂(つらだましい)を。みな、私の力を分け与えてある。騎士道とやらにすがる軟弱ものどもとはわけが違うぞ。こいつらこそ真のつわものだ」


王子の言葉に呼応し、黒山羊兵団は刃物をひき、あらたな仲間の歓迎のために、仮面をはずして素顔をさらした。全員が驚くほど人間離れした風貌をしていた。ある者は鼻じわを怒れる犬のように寄せ、ある者は恍惚と涎を流し、視線をぎょろぎょろ彷徨わせていた。


あくまで人間の顔立ちなのに、心の抑制がはじけとび、欲望に忠実になると、人はこんなにもケダモノじみた貌になるのかと驚かせた。黒山羊の仮面をつけているほうが、まだ人間味があった。


そして、なによりおそろしいことに、伯爵が見知った貴族の顔が何人もあった。それは良心派として領民の子供たちに慕われる、信仰深く慈善活動に熱心な連中だった。いつも見かける柔和な笑顔はどこにもなく、ワニのような獰猛な貌で舌なめずりしていた。まさかこんなおぞましい本性を隠しもっていたとは。


「こいつらは、普段は良き子、良き兄、良き父親だ。死ぬまで理想の貴族の仮面をかぶり続けられる。だが、ひとたび私の命あらば、本性をむきだしにし、母を焼き、妹を裂き、娘をも喰らう」


王子の言葉に伯爵は胴震いした。


仮面の奥に広がる貴族たちの闇に戦慄したからではない。王子が垣間見せた理想郷に歓喜がこみあげたからだ。おのれにひそむ獣性が雄叫びをあげてむくむくとせりあがるのを感じていた。自分は真の楽園が間近にあるのに気づかず、くだらない人形ごっこに一喜一憂していたのだ。なんとつまらない人生だったのか。


だが、これからは違う。理想のあるじと仲間たちとともに、生き地獄をつくる聖戦に挑むのだ。伯爵は惰眠からさめ魔界の戦士となった。その武者震いだった。


王子はさらに伯爵を喜ばせる言葉を放った。


「まもなく旧ヒペリカム領の重役は、この黒山羊兵団のメンバーが独占する。ふふ、優秀な猟犬を育てるのは、血と悲鳴にあふれた狩り場だ。こいつらにとって最高の鍛錬場になる。……好きなだけ殺し、犯せ。弱肉強食こそが人の理想郷。どんな不祥事も私がもみ消してやる」


げっげっげっと黒山羊兵団が人間離れした笑い声をたてた。


それはこの世に災厄をもたらす主をたたえる歌でもあった。牙をむきだし笑いさざめくそのさまはもはや人ではなく、獣以下の餓鬼畜生の群れだった。


「そんなに喜ぶな。殺し尽くすなよ。特に子供は国の宝だ。ここは私の人体実験場も兼ねるのだから」


ドミニコ王子が冷笑する。


自身も子供なのに言い放つことで異様さが際立った。


薬物中毒と洗脳で、死ぬまで前進をやめない兵士をつくりだす。それもあどけない子供で。それがドミニコの悪魔の実験計画だった。どんな強敵もおそれぬ歴戦の戦士も、良識にとらわれる限り、この小さな悪鬼どもにはひけ腰になり、一方的に屠られるだろう。


「実験のしあげには、仕立て上げたガキどもに、自分の家族のいる村を襲わせてみるか。素晴らしい人間ドラマが楽しめそうじゃないか。子供は天使、あの世への迎えにふさわしい。まして自分の子なら、親も歓喜に包まれて昇天できるだろう」


黒山羊兵団ににこやかに話しかける本人こそ、天使のような子供の姿なのだが、まとう鬼気と残酷さは暴王のものだった。


ここは国境封鎖された無法地帯のヒペリカム領。住民がどんなに泣き叫んでも、外界に声は届かない。非道の王子と黒山羊どもの血の饗宴を止められるものは誰もいない。地獄の阿鼻叫喚がこの世に顕現しようとしていた。


そして、悪魔の謀略は止まることがない。


「……フィリップスは強運をこえた豪運をもつ。万が一で、絶対の死地も脱するかもしれん。ならば、死そのものを保険として用意しておくか。これでチェックメイトだ」


ドミニコは笑顔でうそぶいた。実際、猫が鼠をいたぶるように、彼はこれをゲームとして楽しんでいた。


だが、悪魔は油断も容赦もしない。


彼は奥の手のカードをきることにした。そして、そのジョーカーは二枚もあったのだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇


フィリップスは砕けちる波涛が好きだ。ド派手に、しかし、花火のように消える潔さがいい。ずっと自分もそんな最期を迎えたいと思っていた。

男なら命大事に生き長らえるよりも、野望に殉じ、笑ってくたばりたいと。

それが無頼な彼の美学だった。


だが、今の彼は生きたいと誰より強く願っている。


愛船ブロンシュ号の甲板で、フィリップスは苦笑した。

商船の大船団を先導するという大仕事を終え、一行は酒盛りの真っ最中だった。


「若い頃の俺が、今の俺の体たらくを知ったら、さぞ落胆するだろう。野望(ゆめ)そっちのけで、惚れた女と生まれてくる子供のことで、頭がいっぱいのおっさんになっちまうなんてな。おまけにとんだ臆病者になりさがった。俺が死ぬと家族を守れなくなると思うと、小便ちびりそうになる。もうイチかバチかの賭けなんてとてもやれねえ小心者だ」


しみじみと自虐するが、その潮焼けした顔は晴れやかだ。


苦楽をともにしたオランジュ商会の皆が、ジョッキを片手にそれを耳にし、にこやかに応じる。


「俺らあ、前のぎらついた大将より、今のおだやかな大将のほうが好きですぜ」


「ちげえねえ。前の大将は、俺らどころか貴族だろうと王様だろうと気にいらないと鉄拳制裁する虎だったが、今はありがてえことに『奥様に言いつけます』って免罪符を振りかざすだけで、しゅんってなっちまう猫ですからね」


「ムチャな仕事につき合わされることももうない!! おっさんで小心者になりさがった大将に乾杯」


「乾杯!!」


ジョッキをぶつけあう彼らに、フィリップスは呵々大笑した。


「ははっ!! バカヤロウどもが!! 船長の俺をくさしてただで済むと思うなよ。ブロンシュ号のうえでは俺がルールだ。いいか、次は俺の妻と子供のために乾杯してくれ」


その依頼に皆が破顔して従った。


今日は陽射しも風もおだやかで、果てしなく蒼い海と空に包まれながら、気が合う仲間たちと甲板で酒を楽しめる。それはどんな王侯貴族の酒宴よりも贅沢な、船乗りたちだけに許された特権だ。


「……じゃあ、とっておきの秘蔵の酒を」


ひとりがいそいそと姿を消し、すぐに誇らしげに片手に酒瓶をかかげて現れる。俺も、俺も、と次々にいそいそとどこからともなく酒瓶を持ち寄ってきた。


フィリップスが目をむく。


「高級酒ばっかじゃねえか。俺への乾杯は安物のジンだったのに、ずいぶん対応が違わねえか?」


「そりゃあ、いつもお世話になってる高貴な血筋の奥様と、そのお子さんに乾杯ですから。野良の大将とは扱いが違って当然……」


「どっちも俺の妻と子だっつうの」


憤然とするフィリップスにオランジュ商会の皆が爆笑した。


上下の隔てのない無礼講の酒宴に、しかし、招かれた依頼主の商船団の船長は戦慄を隠せなかった。


「あの嵐の夜を大船団を率い、軽々と走破しておいて、このくつろぎよう。ふふ、なんという男たちだ……」


呟く声は震えていた。足元がぐらつく。

彼も歴戦の船乗りとして腕に自負はあった。

天才的な閃きはない。しかし、「しても安全なこと。したら危険なこと」それをぎりぎりまで見極められた。研ぎ澄まされた経験則がそれを可能にした。陸の人間にとっては命知らずに見えても、彼にとっては安全なルートを最短で走っているだけなのだ。それこそが船乗りにいちばん必要なスキルと信じていた。その常識がくつがえされた。


「まさか嵐のまっただなか、戦艦さえも縦揺れして出航できぬ荒波を、引き潮だけを頼りに堂々と突っ切るとは。それも自分たちの船だけでなく、これだけの商船を一隻も欠けさすことなく……」


それは彼にとり「したら危険なこと」どころか「したら生きて帰れない」に該当した。


よそでこの冒険譚を聞かせても、法螺扱いされて笑われて終わるだろう。誰もまともに信じてくれまい。体験した自分自身がいまだ夢のなかにいる感覚なのだ。


発端は、突然の海戦の勃発だった。絹をあつかう商会連合は、窮地に追いこまれた。唯一の貿易航路が戦場になったのだ。通る船は問答無用で沈められるか拿捕された。戦いは泥沼化し、いまだやむ気配もない。だが、迂回していては納期にとても間に合わない。このままでは無数の商会が破産する。困り果てた商会連合は、窮余の策として、どんな荒海も突破すると名高いオランジュ商会に水先案内人を依頼した。難度Sクラスの依頼だった。彼らも断られる覚悟で話をもっていった。


「……つまりだ。ほかの航路や陸路をどう組み合わせても、いつものコースにゃ遠く及ばない。あんたらの願いをかなえるためには、艦隊をぶっちぎる必要があるってわけだ」


船乗りなら誰しもその困難さはわかっている。相手は二国。それぞれの国の威信をかけてつくられた戦艦群。丸腰の商船でかなう相手ではない。しかも荷物を満載しては、唯一戦艦にまさる足の速さも使えない。それを船団全体でなど狂気の沙汰以外のなにものでもない。


だが、事情を聞いたフィリップスは不敵に笑った。


「いいぜ。男冥利につきるってもんだ。強い奴らの鼻を明かすのは悪くねぇ。ちょうどおあつらむきに間もなく海は大荒れだ。だが、航海中は、こちらの指示には絶対に従ってもらう。舵の角度を一度切りそこなっただけで、海の藻屑になる命がけってヤツの大盤振る舞いになるからな。それを守ってくれりゃあ、積み荷を一箱も損なうことなく、きっちり目的地に連れてってやるさ」


半分は虚勢だと思った。

それと失敗したときに「指示に従ってくれなかったから」と、言い訳にするための条件だとも。


無謀な要請を躊躇いなく受けるリーダー、それを止めようともしないオランジュ商会を、詐欺師集団かもしれないと疑いさえした。


だが、オランジュ商会は嘘を言わなかった。


フィリップスの予期通り季節外れの夜の嵐が到来した。戦艦群も港に停泊せざるをえないなか、満ち潮から引き潮の移りどき、海峡に生じる複雑な流れを読みきり、見事に大船団を率い、戦闘海域から脱出した。


導きの天使の羽根のようにひるがえる純白のブロンシュ号の帆のなんと心強かったことか。


遭難しかけたのは、フィリップスの指示に従わず、独自の判断で戻ろうとした一隻だけだった。しかもフィリップスは見捨てなかった。帆が裏うちして利かなくなり、横波にのみこまれる寸前のその船の艦首に、神がかり的な操船でまわりこみ、ブロンシュ号で牽引しての救出劇までやってのけた。


荒波と暴風が牙をむく地獄を、おのれの庭のごとく自在に駆けるフィリップスは、まさに海の申し子だった。海水をいくばくかかぶったが荷も無事だ。奇跡の目撃者の誰もが強烈に魅了された。特に若者たちは、神話の英雄を見たように心を奪われた。死を覚悟したあと、助けられた船員のなかには、彼を涙を流して崇める者さえ現れた。


だが、安全な近海までたどりついた今、ブロンシュ号と船団は別れなくてはいけない。


ブロンシュ号はこの航海にはいっさい関わらなかったことにする。それが商会のトップの方針だった。よその船に助けられての踏破など商会の面子に関わるというわけだ。逆に商会連合だけで危険な航海を成し遂げたとなると、彼らの株は爆あがりだ。縁起物として、積み荷の絹にまで付加価値がつくだろう。


「すまない。ここまでしてもらって、恩人を港で歓待もできぬとは」


恥知らずな、と憤慨し、落胆する船長の肩を、フィリップスはぽんっと叩いて笑った。


「気にすんな。お偉がたの命令じゃ仕方ない。それに秘密がある方が、雇い主からたんまりお駄賃をせしめられるってもんだ」


そしてフィリップスは船団の船に自分でも出向き、残る航海の無事を祈りながら、船員たちと握手してまわった。若き船乗りたちは頬を紅潮させ、我さきにと群がった。かつての暴れ者のフィリップスを知るオランジュ商会の皆は、吹きだしそうな顔をして、その光景を見物していた。


やがてブロンシュ号のまっしろな帆が、岬の突端をまわって消えていくのを、船団の若者たちは、舷側に鈴なりになって泣きそうな顔をして見送った。もしフィリップスから誘われたら、身一つで海に飛びこんででもついていったろう。そんな若者たちの大騒ぎを、年長者たちも咎めはしなかった。気持ちがよくわかったからだ。


いっぽうそんな若者の憧れの的のフィリップス当人は、よその船の目を気にする必要がない遠くまできた途端、みっともなく甲板を転げまわっていた。


「うおおおお!! 恰好つけて握手なんぞして回るんじゃなかった!! マリーともうすぐ生まれる子に、再会するための貴重な時間があ!! 初産だぞ。ああ、心配すぎて、気が狂いそうになる」


オランジュ商会の皆が、その醜態を、生温かいまなざしで見守っている。彼らにとっては、英雄にまつりあげられたフィリップスなどより、こちらのみっともない姿のほうがよっぽどお馴染みなのだ。


なれっこすぎて、じたばたするフィリップスを放置し、各々の仕事に集中する。もし航海長がいたら、そろそろ痺れを切らし、


「だから、今、皆で全速で船を走らせてるでしょうが。身から出た錆びってもんです。発狂する前に、大将も働いてくれたほうが早く帰れますぜ」


とぴしゃりとたしなめる頃だが、その姿は珍しく船上にない。


今回の航海で航海長代理をつとめるのは、その上品で礼儀正しいものごしから「執事」とあだ名される年配者だ。その背筋は常にぴんとしていて、作法のために折れることはあっても決して曲がることはない。柔らかだが錆びのある声で、フィリップスを慰める。


「そのために航海長を奥方様のもとに置いてきたのでしょう。彼は陸のうえでも優秀です。腕っぷしもです。そのうえ奥方様に心酔しきっています。万が一の危険もございますまい」


「執事」は、オランジュ商会の初期メンバーではない。途中参加の人員だ。だが、その優れた能力で商会の中核を任されている。フィリップス、航海長に次ぐ、実質の№3だ。もとはとある暗黒街の顔役で、愚連隊だった頃のオランジュ商会と死闘を繰り広げた異色の経歴の持ち主である。


「ところで、いつも腰にさされていた短刀がございませんが、どこに?」


問われたフィリップスはあわてて飛び起きた。


「まずい!! あいつらの船に挨拶に行ったときだ。置いてきちまった」


かの商会連合では、別の船に船長がのりこむとき、敵対心がないあかしとして武器を預ける風習があった。フィリップスはそれに従い、短刀を差し出した。マリー姫から旅の無事を祈ってあずけられた守り刀だった。


「由緒正しい神刀です。きっとあなたを守ってくれるでしょう」


「おう、ありがとよ。マリーだと思って持っていかせてもらうぜ」


妻愛の微笑みとともにあずけられた、鞘に見事な装飾がされた短刀を、以来、肌身離さず持ち歩いてきた。徒手空拳での戦いを好むフィリップスにとり、身に帯びた武器などこれくらいしかない。


先方は仰天し、命の恩人に誠意を問う儀式などさせられない、と固辞した。だが、その直後に、フィリップスを敬慕する若者たちが、握手を求めて船室になだれこみ、蜂の巣をつついたような騒ぎにずっと巻きこまれたので、テーブルのうえに置いたまま、その守り刀を忘失していたのだ。


「引き返して船団を追いかけますか? 奥方様から託された大事な短刀なのでしょう」


快速のブロンシュ号なら、彼方に遠ざかった相手に追いつく離れ業も可能だ。


「執事」の問いに、フィリップスは腕組みをし、あぐらをかいて、うーむと考えこんだ。


「しかしなあ。それじゃあ協定違反になっちまう。俺達が同行できるのはあの岬までだ。船団はともかく、商会連合はドケチだからな。報酬金の値切りをしかねないぞ」


「たしかに……。……? フィリップス様?」


黙りこみ、じっと宙の一点を凝視ししたまま動かなくなったフィリップスは、ややあって、ふうっと息をついて立ちあがった。


「いや、今、セラフィーナの霊が一瞬見えた気がしたんだが……気のせいだったかな……」


「はあ、例の……」


優秀な「執事」も曖昧な生返事をするしかなかった。フィリップスを疑うわけではないが、くだんの王女の霊はフィリップスとマリー姫しか見ることが出来ないのだ。


「いいさ。帰ろう。マリーの出産にはなんとしても間に合いたいしな。あの船団の連中は気のいい奴らだ。マリーの刀は預かっていてくれるだろう。またいつかの機会に返してもらやぁいい。マリーもわかってくれるさ」


フィリップスはそう決定した。


私情を優先し契約を棒にふるべきではない。今回の報酬が丸々あれば、オランジュ商会は一回り大きくなれる。今までシャイロック商会に頼りきっていたヒペリカム難民への援助もおこなえるようになる。それこそがマリー姫の意にかなうのでは、そう判断したのだ。


「マリーの良人としちゃあ、いつまでもデズモンドの後塵を拝するわけにゃいかないからな」


そう笑うと、フィリップスは後ろ髪ひかれる想いをふりきり、一路帰還の途についた。


……常に神がかった勘で危機を回避してきたフィリップスだが、マリー姫と生まれる我が子に会いたい気持ちが、愛が、その勘を曇らせた。


じつは王女の霊を見たのは、フィリップスの錯覚ではなかった。彼女は警告に現れたのだが、邪悪な力の横槍により果たせなかった。


ここが悲劇への分かれ道となった。船団がまさかの全滅をし、その犯人としてオランジュ商会は指名手配されることになる。もしフィリップスがすぐに船団を追いかけていれば、あるいは……。だが、それでも運命は変えられなかったかもしれない。船団に襲いかかった真犯人は、どんな人間でも抗いようがない死そのものの化物だったのだから。



◇◇◇◇◇◇◇



フィリップスたちと別れてすぐ、船団は阿鼻叫喚に包まれていた。


ついさっきまで、船は「いつか自分もフィリップスのようになる」と語りあう若者たちの憧れと野望の熱気にあふれ、それが届かぬ夢とわかるベテランたちが、しかしそれを口にしない優しさで黙々と作業にいそしんでいた。


そんなありふれた日常。いつか若者たちが齢をとって過去をふと思い出したとき、無鉄砲で青臭さかった自分に苦笑し、そして、あのときまわりで見守っていてくれた人達に郷愁を覚えるような光景。


だが、もうこの若者たちが、そんな懐かしさをおぼえるときは未来永劫やってこない。彼らの人生は、あまりに唐突に理不尽に閉ざされた。


あちこちで炎とひとの悲鳴が渦巻く。黒煙を断末魔のようにあげながら、まっぷたつになった船が次々に海に沈んでいく。


もしも、鼠を満載した桶をたくさん水に浮かべ、そこに殺しを楽しむ凶悪なイタチを放てば、きっと同じような光景が見れたに違いない。


逃げ場のない絶望的な地獄に、女の狂った笑い声が響き渡る。目につくものを片っ端から殺してまわるその化物は、聖女服をまとっていた。だが、残酷な笑みは聖女の慈愛と無縁だった。ひとおもいに楽にしてあげるという悪党の良心すら欠片もなく、殺しを心より愉しんでいた。美しい聖女の面影はあるが、浮かぶ嗤いは邪悪に満ち、それだけにより冒涜的で、この場にはいっそう救いがなかった。


死にたくない、と必死に散乱した布をかき集め、それでミノムシのように身体を覆い、帆柱の陰で身を折りたたみ、なんとかやりすごそうとした見習い船員は、頭上から不意にかけられた優しいささやきを、恐怖のどん底で聞くことになった。


「あら、かくれんぼなんてつまらないわ。丸わかりよ。それでも海の男? 出ておいで。逃げるか歯向かって、私を愉しませてちょうだい。……だんまり? 逃げることもできず、その場で震えるだけの足なら、もうつけている意味なんてないわね。いっそ身軽にしてあげる」


と聖女は足元に向けて手刀を一閃させた。


太い帆柱が根本近くで斜めにずれた。張りめぐらされたロープを引きちぎり、倒れこんでいく。腕の長さほどの直径があった柱が、バターよりも気軽に斬り倒された。


帆柱の陰に身をひそめていた船員は、遮蔽物がなくなった恐怖に叫び声をあげ、次の瞬間、顔から床に叩きつけられた。なにが起こったか理解できないまま、彼は座ったままの自分の下半身を床から見た。やがて脳髄におそろしい認識がしみわたってくる。聖女は帆柱ごと彼を輪切りにしたのだ。


少し遅れてやってきた信じがたい激痛が、これが悪夢ではなく現実だと残酷に突きつけた。


痛みにのたうちながら、絶望のあまり声を出すことを忘れ、まなこを見開いてぱくぱくと喘ぐしかできない犠牲者に、聖女は手を叩いて爆笑した。


「まあ、陸揚げされてはねまわる魚の真似がお上手だこと。見直したわ。身体をはって女を笑わせるなんて男の鑑ね。ご褒美よ。もしあの船縁にタッチすることが出来たら、あなただけは特別に自由にしてあげてもいいわ」


上半身だけになった船員は、その言葉に必死にすがった。腕を車輪のように懸命にふりまわし、床に爪をたて、狂った重心のバランスに何度も顔をうちつけながら、血の帯をひいて、執念で目的地寸前までたどりついた。だが、そこでがくんっと動きが止まった。


「がんばれ、がんばれ、あと少し」


はしゃいで応援する悪魔(せいじょ)が、こぼれおちた腸の先端を踏みつけ、足止めしていた。それに気づく余裕もなく、決死の思いで指一本分の距離を詰めようともがいていた船員は、十回目の挑戦のあと、ようやくおのれの置かれた状況に気づいた。


「あら、ごめんなさい。うっかりしてた」


聖女の顔をした化物は、悪びれもせずころころ笑った。


「お詫びに少しだけ手伝ってあげる」


ぐにゃっと先触れの風圧で船員の顔が歪んだ。聖女が蹴りを放ったのだ。0.01秒もたたずに、本体の爪先が後頭部に到着し、船員を顔から船べりにめりこませ、硬い木材ごと木っ端みじんの血泥に変えた。


「ゴール。おめでとう。約束通りあなたは自由よ。ほら、もう痛みも恐怖も感じないでしょう。身体から解き放たれて、天国でも地獄でも好きなところに飛んでいける。よかったわね。感謝なさいな」


「ふざけるな!! この血に飢えた化物が!!」


非道すぎる暴虐に憤慨し、立ち向かおうとする者達もいた。


だが、それはより悲惨な末路を呼び寄せた。抵抗したことで化物の怒りを買ったのではない。ただ単に生きのいい玩具として喜ばれ、徹底的に弄ばれた。彼女にとっては人の死への抗いさえ、その程度の価値しかない。


「まあ、勇敢だこと。でも、化物だなんて傷つくわ。おしおきよ。……ふふっ、その勇気、本物かどうか試してあげる」


その勇士たちは、全員が一瞬で顔の皮を削ぎ落された。


「ねえ、本当の化物というのは、こういう顔のことをさすんじゃなくて?」


ほほえむ聖女は庭を散歩する足取りで、彼らの間を通り抜けただけだ。だが、その手刀はどんな肉包丁より鋭利だった。左右に動かしせり上げる必要もなく、ただ撫でるように触れただけで、人の皮をカンナくずより簡単に剝ぎ取った。もはや親が見ても誰かさえわからない。勇気も誇りも顔面とともに奪われた。あわれな彼らは、まぶたも閉じれなくなり、白い頭骨をまだらにさらした赤むけた顔をおさえ、激痛と恐怖で絶叫するしかできなくなった。


「うふふふ、みっともない泣きかた。本当に人の勇気とやらは薄皮一枚ね。こんなもの奪う価値もなかったわ。返してあげる」


もだえ苦しむ彼らに、耳と髪と鼻がぶらさがった剥ぎたての生皮が投げつけられた。


「あら? あなたと彼、逆のお顔の皮だったかしら」


と聖女は小首を傾げた。


「面倒だわ。あとは自分達で頭ごと交換し、正解を見つけてちょうだい」


次の瞬間、彼ら全員の頭が胴体から離れ、床に転がった。

一拍遅れ、まだ死を認識しきれていない首なしの体が倒れ、抗議するように足でびくんびくんと虚空を蹴った。


「……さて、次は何をして遊ぼうかしら」


壊れた玩具にもう興味はない。ぷいっと背を向け、あらたな犠牲を求めて歩き出したその聖女の名前は、アンジェラ。いや、正確にはかつてアンジェラと呼ばれた者の無惨な抜け殻だった。たとえ身体は同じでも、友人たちが愛さずにはいられなかった、高潔で気高く、なのに純粋で、誰かの悲しみに我がことのように涙ぐんだ、あの不器用で愛らしい魂は、もはや一片たりとも残されていない。


今、聖女の身体に残っているのは、アンジェラが周囲を傷つけまいと必死におさえつけていた桁違いの力と、彼女の優しさではなく、記憶だけを受け継いだ邪悪な魂のみだ。


聖女は、ぶどう一粒一粒の噛み応えの違いを堪能するように、丁寧に残された命を潰してまわった。その殺戮の歩みは止まることがなかった。


いや、ほんの一瞬だけ、聖女は立ち止まり、不快そうに眉をひそめ、岬の彼方の海域を一瞥した。影も形も見えないほど遠くだが、その視線の先にはブロンシュ号があった。


「怨霊にもなりきれない半端な亡霊ごときが。……消え失せろ」


吐き捨てると、異様に光る目で、宙空をきっとひと睨みする。


遠いブロンシュ号の甲板に、無形無音の波動が発生し、フィリップスに警告するため現れた王女セラフィーナの霊を消し飛ばしたのは、まさにそのときだった。


「無粋な邪魔者は消えたわ。お待たせ。鬼ごっこを再会しましょう。簡単につかまるようなダメな子は……こんなふうにお仕置きよ」


腰を抜かし動けなくなっていた手近な船員の首根っこを掴んで、無造作に宙高く放り投げる。垂直に飛んだ船員の姿が、ゴマ粒のように小さくなり、やがて放物線の頂点に達してとまった。そこはメインマストの先端よりも高かった。眼下に広がる光景で、自分がどこにいるか悟った船員が悲鳴をあげた。自由落下をはじめた船員の声が姿とともにぐんぐん大きくなった。


帆船には無数のロープがツタのジャングルのように張りめぐらされている。船員はそれを掴もうとはかったが、おそろしい落下速度が許してくれなかった。まして人間は足のつかない空中に不慣れで、自分がどこを舞っているかさえ訓練なしでは把握できない。じつは帆船での高所作業をおこなうこの船員はまだマシな条件持ちだったが、それはかえって事態の悪化を招いただけだった。


手の先端をロープにかすめさせることには成功したが、そのため彼の身体はねずみ花火のように猛烈に回転し、火花のかわりに悲鳴をまき散らした。ピンボールのようにあちこちにぶつかって何度も落下の向きを変え、ついに甲板に激突するまでその叫びは途切れなかった。ごちんともぼこんともつかぬ鈍く大きな衝撃が、船全体を揺らした。人の身体が鳴らしてはいけない音だった。肉の塊を巨人のハンマーが殴打する音だった。甲板が砕けなかったのが不思議なくらいだ。


船員の押し潰された肺からあふれでた空気が、ぎゅぶっと滑稽に喉を鳴らしたが、それは彼の遺言ではなかった。彼の命と意識はその前に、脳漿と血とともに鼻孔から飛び出していた。激突の衝撃に、肉や骨よりまっさきにまず柔らかい脳が耐えられずに潰れたのだ。


「あら、いい仕上がり」


全身骨折し、ぎざぎざの断面がささらのように肉のあちこちを突き破った生贄を見下ろし、舐めるように検分した聖女は、おしおきの出来栄えに満足げにうなずいた。料理がうまくいったと得心したシェフの顔だった。顔をあげ、ゆっくりとあたりを見渡して笑う。


「さあ、次はどう殺そうかしら。玩具(オモチャ)がいっぱいありすぎて、壊し方を考えるのも一苦労だわ」


あとは流れ作業の虐殺の嵐のみが吹き荒れた。


「死にたくなければ命がけで逃げることね。私を満足させる逃げっぷりを魅せてくれる命なら、特別に見逃してあげてもいいわ」


残酷な女の笑い声に、追われる男達の悲鳴が渦巻いた。


だが、船団を離れての逃亡をはかった船も、海に飛びこんで逃れようとした人々も、結局すべては同じ運命をたどるしかなかった。誰をもってしても、どんな手段をとっても、聖女からは逃れられなかった。


聖女の超知覚能力は、最初から船団の全員がどこにいるか、どんな動きをしているか完全に把握していたからだ。


彼らは、むくわれることのない希望を目の前にぶらさげられ、悪魔の手のひらの上を逃げまわるモルモットだった。あるいはどこまでも伸びる蜘蛛の糸を背中につけられた虫だった。その糸は決してはずせず、しかも蜘蛛がその気になればいつでも手元に引き寄せることが出来るのだ。ほどなくして、彼らははなから自分達の逃げ場などなかったのだという絶望を突きつけられた。


「同じことの繰り返しばかり。飽きたわ」


そう聖女がつぶやく頃には、もはや聖女に立ち向かう気概どころか逃げる気力がある者さえなく、震えながら神に祈りを捧げるか、恐怖で発狂し、へらへら無意味な笑い声をたてる者しか残っていなかった。


聖女は途中から生あくびを噛み殺しながら、殺しをしていた。


「……それにしてもフィリップスはあいかわらず運がいいわ。ドミニコの坊やには、四肢をへし折って捕えるよう依頼されたけど、まさかこの船団とは別行動していたなんて。さすがに私も外洋には手が出せない」


聖女はすべての人間を殺し終わり、自分のいる船以外を沈め、優雅に船長室でくつろぎ、秘蔵されていた酒瓶を手酌であけながらため息をついた。


どんな堅固な城も、どんな高い山脈も、この聖女から身を守る壁にはならない。散歩する気軽さで突破されるだろう。唯一、逃れられる場が外洋だった。沿岸はともかく、はるか離れた海の距離を、単独で渡りきる手段はさすがに聖女にもない。


だが、獲物に執着するたちのはずのこの殺戮の聖女は、不思議と上機嫌だった。足元には無数の空になった酒瓶が転がるが、そのせいではない。この聖女は酒で酔わない。ヒ素さえ瞬時に分解する免疫能力の前には、アルコールなど真水とかわらない。ただ香りと味を楽しめるだけだ。


彼女を酩酊させてくれるのは犠牲者の血と断末魔だ。


それが悲劇であればあるほど、愉しみはワインのように熟成される。

そして、悲劇はより残酷であるほど、素晴らしい美味になる。

聖女はそう考えていた。


「うふふ、でも、フィリップスが手もとになくても問題はないわ。かわりにいいものを見つけたもの」


ほくそ笑む聖女は鞘つきの短刀を、手のなかで弄んだ。


「この刀。旧ヒペリカム王家の紋章が入ってる。それにマリー姫ちゃんの想いを感じるわ。きっとフィリップスの無事を祈って手渡した守り刀ね。どうしてここにあるのかわからないけど……。これがあれば、マリー姫ちゃんを脅して従わせるには十分。フィリップスの命と引き換えと言えば、どれだけ自分がひどい目にあうとしても、きっとあの子は条件をのむ。穢されたあと、じつはフィリップスはこちらにいないのに騙されていたと知ったら……うふふ、どんな素敵な絶望した顔を見せてくれるかしら」


悪だくみに恍惚とするその貌に、かつてマリー姫を妹のように可愛がった聖女の面影はない。


そして、その頃、シャイロック商会の本宅では、アンブロシーヌが満面の笑みを浮べ、母のイザベラに薬をすすめていた。


「お母様がつわりで苦しんでいるのを見てられなくて……。お母様と生まれる妹のため、私、このお薬をいっしょうけんめい処方したの。私ね、心から以前の自分のおこないを恥ずかしく思う。いい娘といいお姉ちゃんになれるようずっと努力する。だから、どうか私を見捨てないで。愛してる。お母様」


もしデズモンドならば、即座に娘の嘘を見破ったろう。忌々しさに唾を吐いたかもしれない。彼はアンブロシーヌが良き娘を擬態しているのではと、ずっと警戒していた。だが、不幸なことに、人を疑うにはイザベラは善人すぎた。そして妻のその美徳を愛するゆえに、デズモンドもそれを強く正そうとはしなかった。そのことを彼は血の涙を流して後悔することになる。


「見捨てるもんですか。私も愛してるわ。アンブロシーヌ。あなたを修道院になんか行かせないわ」


感涙したイザベラは娘を強く抱きしめた。腕のなかで、その娘が見えないよう舌を出して嗤っているのにも気づかずに。


おのれの欲望のために、誰かの命を踏みにじる女。

おのれの命を捨てでも、誰かを愛し守ろうとする女。

相反する女たちの感情が、稲妻となって交錯しようとしていた。


そして運命は、正しき者の味方ではない。

ひとの優しさも悲しみも、轍にまきこみ、ただ時間という車輪をまわし続け、その結末だけを無情に、冷酷に突きつけるだけなのだった。


お読みいただきありがとうございます!!

記念すべき「108回」なのに、変態ども大集合の回になってしまった……。

また宜しかったらお立ち寄りください。

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― 新着の感想 ―
3章は追いつかないようにチビチビ読んでたんですけど、もう追いついてしまった……ほんとに面白い!前回のお返事では治外の民のこと教えて頂きありがとうございました。 今回も泣き所が多すぎてもう水分が…笑笑…
108話更新おめでとうございます。 アリサのスカーレットへの想い。一緒に死んでくれると笑顔で言ったスカーレット。スカーレットに恋に落ちたアリサの気持ちが計り知れない。 アゲロスの最強に対する悲痛な想…
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