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ー闇の章ー 前編 別離のとき

ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!

まず初っ端からお詫びです。

3月中は無理でした。さらに、予想どおり、またまとまりきれませんでした。ダメ人間です。

二回に分けます。決着、感動回は後編の次回です。

でも、ちょびっとは今回でも感動してもらえるかも。針の先ぐらいは……。

ハードルを超大幅にさげて、期待せず、ぜひ最後までお読みください。といいつつ、最初は凄惨なシーンが……。最低です……。

なお、前の話である104話は何か所か大幅に改訂されています。作者の頭がおかしくなったと思われたときは、是非ざっとお目通しを。


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海は荒れ、吠え狂った。


「緑の髪が見えた……」


落ちてくる女の姿に、私が絶望の呻きをあげると、


「まずいな。俺も同じものが見えるぞ。ゴルゴナの負けか」


とフィリップスが頬を寄せて来た。


男同士でなにをしてるのか、と思われるだろうが、竜巻の風音とぶつかりあう波音が凄まじすぎ、こうでもしないと会話が耳に届かないのだ。


フィリップスの表情が険しい。青ざめている。きっと私も同じ顔をしているだろう。


ゴルゴナは得意の再生能力を犠牲にしてまで、今の術に全身全霊をぶちこんだ。それが通じなかっただけでなく、身体まで真っ二つにされてはもう打つ手なしだ。今すぐにでも、勝ち誇った聖女が、私達全員の命を奪いにくるはずだ。


波風の叫びが嘲笑するように耳を聾する。

なにもかも無駄になってしまった……!!

だが、マリー姫様だけはなんとしてでも守らねば……!!


「いいえ!! 違います。きっと、ゴルゴナの想いは届きました……!! だって、今伝わってくるアンジェラ様の気配は、さっきとまるで違う。こんなにも懐かしく優しいもの……」


帆柱にしがみついたマリー姫様が声をはりあげる。


絶え間なくのしかかる波にあらがっている。甲板は押したり引いたりの渓流と化し、マリー姫様の小さな身体は、そのたびに胸元まで浮いたり沈んだりしていた。


その叫びに導かれるように、大人三抱えほどもある巨大な水の塊が、ばしゃあっと私達の目の前に落ちてきた。


ゴルゴナがそのなかにいた。


水は飛散せず、ぎゅるんっと渦となり、ゴルゴナの肢体に巻きついて覆った。まるで水の羽衣だ。ゴルゴナはちぎれておらず、五体満足で立っていた。再生したのだ。私達は安堵の息をついて、水流をかきわけ駆け寄ろうとした。


「ゴルゴナ……無事だったのか」


だが、マリー姫様だけは、警戒に髪を逆立てるようにして叫んだ。


「ゴルゴナじゃない……!! あなたは誰……!?」


問われたそいつは、にやりと笑った。

そうは言っても、どこからどう見てもゴルゴナだ。

呆気に取られた私達だったが、


「よく見抜いたねえ」


というしゃがれ声にぎょっと立ち竦んだ。ゴルゴナの声とまるで違う。おそろしいほど年輪を重ねた老婆のものだった。


「あたしが誰か知りたいかい? 海の魔女……って通り名が、まだ残ってるのなら話が早いがねえ」


「海の魔女……!! 伝説の……!!」


マリー姫様が息をのむと破顔した。


「ほう、嬉しいねえ。あたしの名もまだ健在ってわけかい。今回は、うちの出来の悪い玄孫の身体を借りて、久しぶりにこの世にお邪魔したんだが……ええい、うるさい波風だね。近頃のはてんでなっちゃいない。年寄りに敬意を払わんかい。話の最中は静かにおし」


苛立つように手を振ると、あきれたことにあれだけ猛り狂っていた波浪がぴたりとおさまった。中央の一本を除き、竜巻まですべてかき消えた。海も風も一斉にひれ伏した。まさにそんな感じだった。


「その竜巻だけは残してやる。女の情けさ。あんた、例の姿になってるんだろう」


怪物に変身したアンジェラ様にかけた言葉だった。唯一残った竜巻のなかにいるのだろう。


海が凪ぎ、安定を取り戻したブランシュ号の甲板から、ざあっと音をたてて、海水が滝になって流れ落ちる。たためなかった帆からもだ。遠目からだと、ブランシュ号が霞のヴェールを一斉に落としたように見えるだろう。


重しがなくなり、船の喫水線が上昇する。ずっと浮きあがりっぱなしだったマリー姫様の足が、水から解放され、とんっと久しぶりに床に着いた。半信半疑だった私達も、これは海の魔女本人だと納得せざるをえない凄まじい力だった。


「いっひっひっ、この程度で驚きなさんな。神話の時代じゃあ、挨拶がわりさ。これぐらいやれなきゃ、あの厄介なロマリアの負の遺産を封じるなぞできやしないよ」


目が点になった私達が面白かったのか、そいつは引きつったような哄笑をした。笑い方だけはゴルゴナとそっくりだった。信じられないことだが、たしかに彼女は海の魔女であり、ゴルゴナの高祖母なのだろう。


「どうも杖がないと落ち着かないよ」


とぼやくと、ちょいちょいと嵐で壊れた船の手すりを指で招いた。柵が数本、ひとりでに横に並んで整列する。まるでサーカス芸をしこまれたようだ。


「よし、あんたがよさそうだ。身支度を整えな」


そう指名された一本が、しゅいいんと音をたてて回ると、カンナくずを羽衣のようにまき散らし、たちまち杖の形に削れ、海の魔女の手にみずから飛びこんだ。


「すげえな……。なんでもありじゃねえか。これなら、あの聖女にだって勝てるんじゃねぇか……」


目をむいてのフィリップスの言葉に、海の魔女は、ちっちっちっと中指をふった。


「子供の喧嘩に大人が首を突っ込むなんざ、あたしの趣味じゃない。だいたいもう勝負はついてる。そこの嬢ちゃんの言ったたとおり、玄孫の逆転勝利だよ。薄氷もんだったがね。アンジェラは記憶を取り戻した。だが、このままじゃあ、その頑張りがムダになっちまう。だから、あたしがでばって来たのさ」


あの聖女とゴルゴナの死闘を子供の喧嘩扱いとは。

あきれ果てる私達を尻目に、勢いを弱めだした竜巻に杖を向け、海の魔女は大声で呼びかけた。


「よくお聞き!! ねんねのアンジェラ!! ゴルゴナの身体はあたしが再生したから心配ない。あんたに残された正気の時間はわずかだ!! 今はお人好しを捨て、自分のなすべきことをなせ!! やるべき術の構成は、今イメージでおくったとおりだよ!! あんたならやれるだろう。やれないとは言わせないよ。玄孫がつくった命がけの時間なんだから」


竜巻はたじろぎ何度か身をくねらせたが、やがて迷いを振り切るように再び勢いを強めだした。術とやらが発動されたのだろう。先ほどゴルゴナが使ったのそっくりの奇妙な光の紋様が浮かびあがる。


風にあおられ、ブランシュ号が大きく揺れる。私達はまたあわてて帆柱や手すりにしがみついた。

髪を乱しながら、海の魔女は、「とろいね、余計な事に気をとられすぎだ」と舌打ちした。


「まったく……あのお人好しにはあきれたもんさ。今も怪物の姿のまま、大泣きしてあんた達に謝りにこようとしてたよ。謝られたほうが腰を抜かすってもんさ。ほんと世話が焼けるったら」


「アンジェラ様……」


マリー姫様が涙ぐむ。


「まったく、こっちもかい。殺されかけたのになんとまあ、あたしにゃ、理解できない世界だね」


ぶつくさ文句を言う海の魔女に、フィリップスが尋ねた。


「なあ、聖女のなすべきことってなんだ。これから何が起きるんだ?」


かどのご隠居と世間話をする調子だった。さすがとしか言いようがない。ゴルゴナの身体を借りていても、海の魔女から感じる圧力は、ゴルゴナの比ではないのだ。どんな王侯貴族だろう戦士だろうと、こんな凄まじい気配はまとえまい。じっと見ていると輪郭がぼやけ、身体が拒否反応を示すように震え出す。しゃがれ声で一喝すればライオンだって腰を抜かすのではないか。


物怖じしないフィリップスを、海の魔女は気に入ったようだった。


「坊や、よくお聞き。ここは、時代の分岐点のはじまりなのさ。光と闇、やがてくるふたりの女達の戦いが、大陸の未来を左右するためのね。アンジェラは、その御子のひとりを孕まなければならないってわけさ」


上機嫌で解説してくれるが、なんのことかさっぱりわからない。


「まあ、ちんぷんかんぷんだろう。理解する必要はないさ。ただ黙って見ておいで。……はじまるよ。世界の終焉と同じ光景が」


海の魔女が杖で指し示す空を見て、全員がぞっとなった。


黒雲が明滅しながら渦巻きだした。断じて雷雲ではない。だったら、あんな赤や青の極彩色の光り方はしない。まるで原色の絵の具ありっけを、濁り水に落とし、巨人の手でかき混ぜたような、なんとも形容しがたい不吉な光景だった。雲海の底がずずっと蠢きながら垂れてくる。粘液状の巨大生物を目の当たりにしているようなおぞましさがあった。


「……おいおい……!! なんだよ、あの気持ち悪い光景は……!!」


フィリップスが吐き捨てた。声にするだけで口が穢れてしまうというように。

オランジュ団の連中も棒立ちになっている。


私も世界を放浪するあいだ、逃げ水や蜃気楼は何度も見た。山の霧にうつり、巨人に見える人影も見た。家を埋没させる砂嵐や、帆をうちぬく雹の嵐にも遭遇した。だが、今私が見ているものは、それらとまったく異なる。生存本能が警鐘を打ち鳴らす。吐き気を催すほど逃げ出したい。自然現象ではなく、もっとざらりとした異質の禁忌そのものだ……!! 爬虫類の舌に舐めまわされる感覚を思わせた。


「デズモンド……!!」


怯えたマリー姫様が私にしがみつき、私はその細い肩をぎゅっと抱きしめた。


「だいじょうぶです。お守りします。ご心配はいりません」


なにがだいじょうぶなものか、と内心で歯がみする。なんとしても姫様を守らねばと思ったのは本気だ。だが、抱きしめたのは、たしかなその体温を感じていなければ、自分自身が正気を失ってしまいそうだったからだ。おのれの弱さに腹がたつ。


「色男、格好いいねえ」


海の魔女が私を一瞥し、小馬鹿にするかのように口笛を吹いた。腹立つな……。


「さあ、あとは、月が満ちるのを待つだけだ。悲劇の恋人たちが、ほんの一瞬だけ正気に戻る奇跡のときをね。……御子の誕生の予兆。たしかにこの海の魔女が見届けた」


「悲劇の恋人たちって、アンジェラ様とアルフレド王子殿下のことですか……!?」


勢いこんだマリー姫様の問いかけを、海の魔女はにやりと嘲笑してはぐらかした。


「さて……ね。真相ってのは、人に教えてもらうんじゃなく、自分の目と耳でたしかめるもんさ。もっとも、ここにいる何人かはそれまでにくたばっちまうようだけど」


ひっひっひっと笑い声をたてる。不吉な予言にぎょっとし、顔を見合わせる私達の反応を愉しんでいた。さすが死者なだけはある。友好的に見えても、やはり生者とは異質のメンタルなのだ。


だから、信じられなかった。まさかこのおそろしい老婆が、ぶるりと身を震わせるとは。


「……それにしても、なんと末恐ろしい御子だこと。誕生の予兆だけで、このあたしの背筋を凍らせるとは。同じ時代に生まれなかったことを不幸と思っていたが、かえって幸せだったのかもねえ」


そう暗い目で虚空を見据えて呟くと、こつんと数度、床で杖を鳴らし、気を取り直したように顔をあげた。


「さて!! お邪魔したね。用は済んだし、年寄りの亡霊にゃ、日の当たる世界はちとこたえる。玄孫の身体から離れ、心地よい暗い冥界に帰るとしよう」


「ま、待ってください!! 教えてほしいことが……」


私はあわてて呼び止めた。

この大魔女なら、マリー姫様の呪いを解けるかもしれない。アンジェラ様の伝手が絶望的になった今、唯一残された希望だ。逃すわけにはいかない。


「なんだい。やぶからぼうに。黄泉路を急ぐ年寄りを引き留めるなんて、礼儀がなっていないよ。さっきまであたしに怯えきってたくせに。……どうせ、その小さい姫さんの呪いについてだろう。まったく恋する男は、女以上にしつこいね……」


海の魔女は渋面になり、私を睨みつけた。

肩を小さくして恐縮するしかなかったが、彼女はぶつくさ文句を言いながらも頼みに応じてくれた。


「……デズモンド、私のこと大好きすぎない?」


と目を輝かし、ウサギのようにはねまわっているマリー姫様に、やれやれというふうに向き直る。


「いいかい。あんたの受けた呪いは、一族を怨みぬいて死んだ身内からだよ。業も血縁も深すぎて、あたしにも解けやしない。……こら、その幸せいっぱいの笑顔、いい加減におやめ。腹たつね。おぞましい話は、湿っぽい顔して聞くもんさ。ヒペリカム王家が異能を残そうと、近親婚を繰り返してたのは知ってるね?」


マリー姫は連続両足ジャンプをやめ、神妙な顔でうなずいた。


「……あるとき、ロクデナシどもが考えついたのさ。ならば、いっそ純血な王女のひとりを、一族共有の孕み袋にしてしまえってね。人権なんぞ完全に無視してね。もう喋るのが面倒だ。あとはざっとイメージを送るから、勝手に見とくれ」


海の魔女は面倒くさそうに杖をあげ、マリー姫様、私、フィリップスを先端で指し示した。


とたん、私の目の前の景色が、黒い岩磯に打ちつける波しぶきに切り替わった。どこかに瞬間移動させられたのかと焦ったが違った。虚空から海の魔女の叱責がとんできた。


「落ち着きな。あんたらの意識を、過去へ旅立たせただけさ。長く、そして一瞬の旅にね。あんたら三人の身体は、さっきとかわらず甲板上だ。うかつに動くと海に落っこちるよ。黙ってこれからの映像をおとなしく見てな」


たえまない荒波が、次々に白く砕けて散華する光景の中央から、△に「海の魔女」と書いた文字が、どーんと飛び出し、私に迫ってきた。なんだろう。意味はわからないのに、物凄くおちょくられている気がする。


そして、私達は、ひとりの王女の悲しく呪われた人生を追体験した。


彼女は、マリー姫様と同じエメラルドの瞳の賢く美しい人だった。生きた時代ははっきりしないが、建築様式や人々の服装から、おそらく三百年ほど前の我が国だとあたりをつけた。占いで国の政策まで決められていた迷信の時代だ。


その王女は、ヒペリカム王家の異能に頼りっぱなしの純血主義に反対した。人はひと握りの不安定な異能ではなく、たくさんの知恵によって統治されるべきと主張し、他国に嫁ぎ、進んだ政治を導入しようとした。本気で民のことを考えていた。


それが王族たちの逆鱗に触れた。


王女の主張は、王族達の優位性を根底から脅かすものだった。さらに王女は数多くの血族からの求婚を断っていた。


ふられた男達は声を荒げた。


まさか自分達の誰かをひとりを選ぶのではなく、他国に身と心を売るとは。

裏切り者を許すな。

報いを受けさせろ。


個人的な怨みに、ゆがんだ正義感が拍車をかけた。


おそろしい占いの結果が出た。いや、でっちあげられた。


〝王女は他国の甘言にのり、この国を内から破壊しようとした。王家の神が怒っている。鎮めるために、王女は、一族の子を産むことで償いをせねばならない〟と……。


とらえられた王女は、自身のけじめのために舌を、協力した四人の従姉たちの助命嘆願と引き換えに、四肢を切断された。そして、鎖に繋がれ、幸せの絶頂でまとうはずだった花嫁衣裳を、罪のあかしとして着させられ、一族の男達に日夜慰めものにされた。


王族だけが通える秘密の地下牢から、悲しい鎖の音が鳴りやまぬ日はなかった。やがて王女は望まぬ子を何度も孕まされた。身籠りやすい体質だったのだ。男達は期待以上の結果に狂喜した。


……女たちは、自分の恋人や旦那の子供をたやすく宿す王女に嫉妬した。すでに王家には、近親相姦の弊害で不妊の兆候が出ていた。かつて一族の華ともてはやされ、堕ちてもなお美しい王女への劣等感が火をあおった。


だから、陰にかくれて、王女の腹を蹴った。声も出さず床でのたうつ王女を、まぬけな芋虫と嗤った。沐浴と称し氷水に沈めたり、数人がかりで押さえつけ、百足を胎内奥深く押し入れたりもした。


煽動したのは、いつも引き比べられていた王女の実の姉だった。

姉は王女が嫁ぐはずだった相手を篭絡した。


「かわいい妹を亡くした悲劇の姉を演じたら、あの人はころりとほだされてくれたわ。彼は助けになんてこない。だって、おまえは対外的には病死したことになっているもの。おまえがもらうはずだった女の幸せは、私が残らず貰い受けるわ。這いつくばって指をくわえて見ているがいい。あら、指どころか手足もなかったわね」


嘲る姉の背後では、王女が四肢と引き換えに命を助けた四人の従姉姫たちが、阿諛追従の笑みを浮べていた。


「……もうわかったろう。この王女がどれだけ一族を恨んだか」


海の魔女が、ぱんっと手を叩き、私達は現実に引き戻された。


見慣れたブランシュ号の甲板と、なにが起きたかわからず、心配そうに様子を見守っているオランジュ団の連中が目に入った。不気味な雲の様子もそのままだ。現実ではわずか一瞬の間だったのだ。


足元がぐらつく。二日酔いを数百倍したほどに気分が悪い。着飾った女達の笑い声が耳から離れない。集団の狂気にとりつかれるのは、戦場の凶悪な男達だけではない。女達のいじめは陰湿なだけにたちが悪かった。


マリー姫様は震えながら私にしがみついていた。そうしなければ立っていられないのだ。おぞましい所業をした血筋ということに打ちのめされていた。


痛恨がかっと胸を焼く。私がよけいなことを言ったばかりに酷い体験をさせてしまった……!! 


フィリップスは腕組みをして、難しい顔で黙りこんでいた。


海の魔女の声だけが陰々と響く。


「……ただでさえ衰弱していた王女は、女達の虐待を受け、すべての子を流産した。だが、男達は王女への執着をやめようとしない。女達はさらなる嫉妬の炎にとりつかれた。どうしたと思う?」


海の魔女は邪悪に口元をゆがめ、耳に手をあてた。こちらが答えるまで話を中断する気だ。やむをえず私は気が進まない答えを喉の奥から押しだした。


「王女を殺したのですか」


ぴんぽん、大正解と魔女は手をうってはしゃいだ。この残虐性、たしかにゴルゴナの高祖母だ。


「そうさ。女達は、王女を傷だらけにし、蟹がわんさかいる沼に放りこんだ。縄をつけ、なるべく苦しむよう何度も引きあげてね。王女はあちこち齧り取られ、最後は赤剥けの肉の塊だった。それを皆で笑いものにした。豚肉と区別がつかないってね。王女は血の涙を流し呪ったのさ。〝自分はなんのために生まれてきたのか。なんのための人生だったのか。このままでは死んでも死にきれない。男どもは許せない。女どもはもっと許せない。私の生きたあかしとして、必ずこいつらを根絶やしにしてやる〟とね」


海の魔女は、ひつひっひっとかすれた声で笑った。

海鳴りがそれに重なる。ぞっとした。

女性の狂気の笑い声にも、怒りの咆哮にも思えたからだ。


「……死の瞬間、王女の潜在能力は解き放たれ、凄まじい呪いとなって、王家一族の女達に降りそそいだ。あとの結末はあんたらの知るとおりさ。わかったろ。子を為すのはあきらめな。最後に残ったあんたがひっそり息絶えれば、それで王女の呪いも終わる。八方丸くおさまるってもんさ」


私達は返す言葉も失った。


その陰鬱とした沈黙をうち破ったのは、ずっと何かを考えこんでいたフィリップスだった。


「わかったぜ。その王女サンの呪いを解く方法が。この呪いの大元は怨みじゃねえ。誰の心も信じられないって絶望と悲しみだ。だから、変わらぬ愛を証明すりゃ、王女サンの呪いも解けるはずだぜ」


「は……?」


自信たっぷりにすっとんきょうな断言をされ、さすがの海の魔女も目を丸くした。


「俺はなにがあってもマリー姫を愛し続ける!! それが、呪いをうちけす唯一の方法だ」


どんっと力強く胸を叩き請け負うさまに、海の魔女はあきれ顔になった。


「惚れた女のためならばってヤツかい。だが、王女とは別の話だろうが」


その言葉に、フィリップスは首を横にふった。


「同じさ。その王女サンだって気の毒じゃねえか。怨みってのはされるほうだけでなく、するほうもしんどいんだぜ。いい加減に解放してやりてえ。もとの優しい笑顔に戻った王女サンに、『あんたは頑張った。立派な女だったぜ。そんなクソどもにとらわれるなんて勿体ねえ。とっとと忘れちまいな』って言ってやりてえんだよ」


しみじみ語るフィリップスに、海の魔女は身をそらしてはじけるように爆笑した。


「ひゃひゃひゃ!! まるで王女の恋人のように語りおるわ。愛で呪いを解くか!! いかれとるわ!! だが、正解だよ!! 教えてやらんつもりだったが、勝手に当てちゃあ仕方ない。バカだねえ、あんた。気に入った!!」


まさかの正解だった。

それにしても教える気がなかったとは。

性格がそうとう歪んでいる。


そして、海の魔女は笑いをおさめ、じいっとフィリップスを凝視した。


「しかしね、ものごとには代償がいる。マリー姫の呪いを解きゃ、あんたに災難が降りかかるかもしれない。それでも心変わりはしないと誓えるかい。何十年かかるか、見当もつかんもののために」


フィリップスは蒼空のように笑った。


「は!! 愚問だぜ。呪いが怖くて、惚れた腫れたがやってられっか。とっくに覚悟の上さ。なあ、デズモンド。あんたもそうだろ」


「ああ、無論だ」


私も躊躇うことなくうなずいた。


この身がどうなろうと構わない。

年月? 関係ない。

マリー姫様の呪いを解く。それだけかなえばいい。


頷き合う私達に、海の魔女はけらけら嗤った。


「やれやれ、自殺願望でもあるのかい。バカが揃ったよ。ほう、もうひとりのバカもなかなか……」


私に目線をとめ、ほおおっと感嘆する。

戸惑う私に、思いがけない不吉な予言がかけられた。


「あんたはすでに呪われてる。シャイロックの金儲けの宿業が、いつしかロマリアの財宝を引寄せるだろう。よかったねえ、姫さん。望みがかなって。だが、代償にこの男は、後悔に胸を焼かれながらの一生をおくることになるよ。死んだほうがマシなくらい弩級のね。こりゃあ見物だ」


マリー姫様がまっさおになって悲鳴をあげた。


「財宝なんていりません!! デズモンドを救う手はないのですか!?」


「ないね。それが宿命ってもんさ」


海の魔女は、すがる手をぴしゃりとはねつけた。

額を突きつけるように、ずいっと顔を寄せる。

覆いかぶさる影が、のしかかる熊のように大きくなる。


「お優しいお姫様に、ほろ苦い未来を教えてあげよう。遠くない将来、あんたはヒペリカムの民に、見当違いの憎悪を叩きつけられる。だが、それでも、なお、そんな恩知らずどもをまだ救いたいのなら、ロマリアの財宝による資金は絶対に必要なのさ。それにこの男はすでに財宝に魅入られている。逃げられやしないよ。誰もが幸せになる陽気な未来なんてありゃしないのさ」


「そんな……」


絶句するマリー姫様に私はほほえんだ。


「いいのです。マリー姫様。ロマリアの財宝、ありがたい。私はもうまともに船にも乗れない。そんな役立たずが、なお姫様のお力になれる。こんな喜ばしいことはありません」


強がりではない。そのときの私は本気だった。


まさか……死ぬより辛い後悔というのが、私の身内がマリー姫様を弑すことなどとは、思いも寄らなかった。知っていれば、私は予言を聞いた瞬間に、自害していただろう。


マリー姫様は涙ぐんだ。


「……デズモンド、そんなこと言うと本気で怒りますよ。あなたがいるから、私は生きていけるの……。私達は一心同体でしょう。あなたが幸せでないと、私は……」


ありがたかった。

鼻を赤くして訴える姫様を心底愛おしいと思った。


「姫様のお力になることこそが私の幸せです」


気がつくと、つい無意識に姫様の頭をなでてしまっていた。


いかんな。また子ども扱いするなと叱られてしまう。


だが、姫様はぐすぐすと鼻を鳴らし、なされるがままだった。手を引っ込めようとすると、ううっと唸って威嚇し、また頭を差し出してくるのだ。気まずい……。いつまで撫で続ければいいのだ。


海の魔女ははああっと息を吐いた。


「ちっ、愁嘆場は苦手だよ。若いもんが老人みたいに、ぐじぐじぐじぐじと。よくお聞き。ひとつだけ教えてあげよう。もしかしたら、ありえない未来の出会いが、デズモンドだっけ、あんたにわずかな救いをもたらすかもしれない」


はじかれるように振り向いて仰ぎ見る私達に、とんっと杖を鳴らし魔女はおごそかに告げた。


「その娘は、真祖帝と同じ、赤髪紅い瞳をしている。ルビーとともに、あんたの前に現れることを祈りな。それがアンジェラの子のライバル、もう一人の御子だよ。彼女は生者と死者の語り合いを可能にする。お人好しみたいだからね。必死に頼めば、ヒペリカムの民もあわせて救ってくれるだろうさ」


まるで謎解きだ。

わかる箇所も、それゆえによけいに意味不明だ。


真祖帝!? ではルビーとは、帝位のあかしの「神の目のルビー」のことか。しかし、あのルビーは、後継者争いの果てに、何百年も前に行方知れずになったはず……。各国や聖教会の諜報機関が総力をあげても発見されていない。それに赤い髪紅い瞳。そんな異相は真祖帝没後以来、ヴェンデルしか生まれていない。だが、ヴェンデルは間違いなく男の子だ……。それに御子のひとりだと……。


「期待はしなさんな。天空から雨粒を針の穴に通すほどのわずかな可能性だからね。……さて、アンジェラの術も完成したようだ。さらばだよ」


情報過多で混乱する私達を、海の魔女は冷たく突き放し、別れを告げた。

これ以上の質問は許さないと峻厳な気配が語っていた。


いつのまにか雲は明滅をやめ、竜巻も萎みはじめていた。突如、あたりが目もくらむ凄まじい光に包まれた。とてもまともに目を開けていられない。渦巻いていた雲が勢いを失い、滝のようにぞろりと落ちてくるのが薄目で見えた。


私は息をのんだ。


その白い大瀑布に、哄笑しながら踊り狂う巨大な女性のシルエットが浮かびあがったからだ。


「聞こえるかい。アンジェラの子が、世界を嘲笑う声が。地獄のはじまりを告げる鐘の音だよ」


陰陰滅滅と海の魔女の声が木霊した。


「ひとつ言い忘れた。あんたらはこれからアンジェラの顔を思い出せなくなる。それは、つかのま心を取り戻したあの子からの、あんたらを守るための最後の贈り物だよ。感謝しな。御子は、自分の出自を暴くものを許さないからね」


その声はこわばっていた。


しばらくして私達は、いや、この大陸のすべての人間が、聖女アンジェラの顔を忘れていることに気づくことになる。


「あたしは冥界で、あんたらの生き様を愉しませてもらうよ。ぶざまに呪いに悶え、死に抗うがいい」


海の魔女の言葉が終ると同時に、光がおさまった。


私達が再び目をあけたとき、そこには凪いだいつもの海だけが広がっていた。


魔女が憑りついたゴルゴナも、聖女もいなかった。


「ひでえ夢だった……と思いてえが、夢じゃなかったようだな」


フィリップスが苦い顔をして、顎をしゃくった。


港から黒煙があがっているのが遠目に見えた。飯炊きなら白い煙のはずだ。聖女が暴れたあとだった。黒煙はそこだけではない。遠近あちこちから立ち上っているのが見えた。


「聖女はマリー姫だけを狙ったんじゃないらしい。だいぶやらかしたようだな。嫌な予感がしやがるぜ」


そして私達は、フィリップスの懸念が正解だったと、すぐに嫌というほど思い知らされることになったのだった。


◇◇◇◇◇◇◇


無数の松明の火が、丘にゆらめく。


殺気だった目をした男達が、無言でひしめきあっていた。

鎌や鍬がところどころでぎらりと光る。

今は夜ではない。昼だ。なのに火を持ち寄る。事態は最悪だった。


「やっべえな。暴徒にすっかり囲まれちまった」


屋敷の外に樹伝いで様子を見に行ったフィリップスが、うんざりという声で報告した。


聖女は去った。


だが、その前にヒペリカムのあちこちで大虐殺を巻き起こした。襲撃されたのはマリー姫様だけではなかったのだ。殺されたのは、反チューベロッサの旗頭になる可能性があるものばかりだった。街ごと皆殺しにされたところもあった。ここが軍事の弱いヒペリカムでなく、陸軍最強のべーアパオム王国でも同じ結果だったろう。あの聖女に人の身でかなうはずがない。


そして、一連の破壊活動は、なぜかマリー姫様を中心にした旧王家一派によるテロ行為であると発表された。今やヒペリカム中の国民がマリー姫様を憎み、狩りだすために煽動されていた。


「チューベロッサめ、えげつねえ。海の魔女の予言があたったぜ。マリー姫に全責任をおっかぶせ、正義面して一気にヒペリカムを掌握しやがった」


フィリップスがぼやく。

マリー姫様の顔をちらちら気にしている。


「まあ、姫さんに非はねえよ。あんたを直接知ってる連中は、誰もそんなデマ信じてねえ。すぐに誤解もとけるさ」


チューベロッサ王国は災害援助と治安維持の名目で、聖女襲来の翌日には、軍隊を派遣してきた。ヒペリカム王国内の聖教会からの救援要請を受けてという形だ。いくら隣国とはいえ、あまりに迅速すぎる。聖女と聖教会、そしてチューベロッサは裏で繋がっていたとみて間違いなかろう。


だとしたら、なんというひどいマッチポンプか。


あっという間に、国内の主要都市が、チューベロッサの旗で埋め尽くされた。まるで占領下のようだ。大街道と水路もおさえられた。各地への救援物資を手早くおくるためだと、ヒペリカム内の聖教会が説得したため、住民は軍隊を喜んで受け入れた。


「誤解をとくって……ムリじゃないですかい。大将。こりゃあ、もう制圧されたも同然でさあ。このままこの国はチューベロッサの言いなりに……」


ついコーカイチョーの少年が本音を口にし、フィリップスに物凄い目つきで睨まれて、黙りこんだ。


「いいのです。言うとおりだと思います。この国はもうチューベロッサの手におちました」


マリー姫様は寂しくほほえんだ。


今までそれを阻止するために頑張ってきたのに、守ろうとした相手に牙をむかれる。どれほどやるせないお気持ちか。しかし、感情をつとめて面に出さない。誇りに思おう。最後の最後までこの方は王女だった。


「……みなさん、逃げましょう。この邸は本日をもって放棄します。ぐずぐずしていると、チューベロッサと聖教会の本隊が押し寄せてきます」


マリー姫様は即決した。


裏山に抜ける地下道を通り、私達は包囲を脱した。今は使っていない氷室用のトンネルを利用したものだ。そのまま山道を登る。滅多に人が通らないため獣道に近い。


オランジュ団の体力に自信のある者が、交代でマリー姫様をおんぶした。まともに動けない私も肩を貸してもらった。なんと情けない。こんな火急のときに、姫様を守るべき私が、一番足でまといだ。


私達があとにしてすぐに暴徒達が邸宅に火をかけた。


煙と火が別れを告げるようにふもとで立ち昇るのが、山頂から見えた。マリー姫様とすごした屋敷が焼け落ちていく。おだやかだった私達ふたりの日々が、痕跡も残さず灰になっていく。


「いいの。生きてさえいれば、思い出はまたつくれるのだから」


マリー姫様が涙をこらえ口にした。


燃え滅びる屋敷とは対照的に、反対方向の港には、きらびやかな装飾のチューベロッサの艦が次々に入ってきていた。信号旗がめまぐるしく上げ下げされる。活発に輸送が行われている証拠だ。ひときわ豪華で大きな艦が入港し、住民たちの歓声が、この山の上まで届いた。


「国王旗でさあ。見せつけてくれちゃって」


目をこらしていたコーカイチョーの少年が、大帆船のてっぺんの旗を見て、仏頂面で吐き捨てた。チューベロッサ国王が慰撫で来訪したのだ。港はあちこちから歓迎の人々が集まり、お祭り騒ぎだった。


「フィリップスは?」


いの一番に文句を言いそうなヤツの声が聞こえないことで、ようやく私は不在に気がついた。それまで見通しの悪い切りたった崖道を逃げるのに手いっぱいで、まわりを確認する余裕がなかったのだ。


「やり口が気に食わないから、一発チューベロッサの国王にかましてくるそうでさあ」


事もなげにコーカイチョーが答え、マリー姫様と私は仰天した。

なにを考えてるんだ。あいつは。


私達の表情に気づき、コーカイチョーは笑顔で、


「なあに心配はいらねえですぜ。大将だって馬鹿じゃない。まさか軍に守られた王相手に、本当に殴りこみなんぞしねえでしょう。きっと群集にまぎれ、こっそり卵をぶつけるぐらいで終わりでさ。あとはブランシュ号で港をかすめ、海に飛びこんだ大将をひっぱりあげるだけって算段でして……」


と太鼓判を押したが、


「あいつは馬鹿ではないが、弩級のバカだぞ。本当にそれだけで済むのか」


と私が疑問を投げかけると、うっと言葉に詰まった後、


「さ、とにかく隠し入り江に急ぎましょうや」


と誤魔化しやがった。


そして、私の不安は現実のものとなった。


フィリップスは、観客のなかに紛れて接近し、パレード中の国王を輿の玉座から引きずり下ろすと、馬乗りになって殴りつけたのだ。


「よくもくだらねえ企みで、俺の惚れた女を泣かせたな」


と叫びながら……。


「こいつはそのお礼だ。大盤振る舞いだぜ。遠慮しないでとっときな」


容赦なく降りそそぐ拳で、チューベロッサ国王はあっという間に鼻血まみれになった。


ブランシュ号から遠く眺めてもわかる大騒ぎとなった。


「おい、思いっきり殴りこんでるぞ……」


「まったくあの人は……!! 急げ!! 大将が死んじまうぞ!!」


コーカイチョーが褐色の肌を蒼ざめさせて叫び、死に物狂いで船を急行させた。

気の毒すぎる……。


もちろん王を護衛する軍とて、手をこまねいて傍観していたわけではない。フィリップスがパレードに突入してきた瞬間から、斬り捨てるべく、雄叫びをあげて殺到した。だが、密集状態が災いし、一度に全員で襲いかかれない。国王に当たる危険性があるので弓矢も使えない。


フィリップスは、目の前に現れる敵そのものを、飛び道具兼盾がわりに投げつけながら、雄叫びをあげた。


「なまぬるいぜ。なんだ、その魂のぬけた剣は。まさかこれがチューベロッサの親衛隊の実力か。そのへんの悪ガキのがよっぽど手強いぜ」


無茶苦茶だ。チューベロッサの面目は丸潰れである。もう手がつけられない。もちろん騎士や兵士達が本当にそこまで弱いわけではない。アルフレド王子は教えてはいけない相手に、秘伝の返し技を教えてしまったのだ。あげく、フィリップスは、


「おい、おまえの教育が悪いせいだ。聞こえてるのか」


と尻の下に敷いた国王をどつきまわした。


栄光を一身に浴びていたはずのパレードが、恥辱にまみれた地獄絵図に変わってしまった。


「ありゃ、もう失神したのか。家来が腰抜けなら王も然りだな」


フィリップスは気絶した国王の首根っこを掴んで引きずりあげた。そのまま盾がわりに振りかざし、遠巻きに矢を射かけようとする連中に、割れんばかりに咆哮する。


「やってみろ!! あるじを的に、弓の腕をきそう度胸があるのならな!!」


たじろいだ隙をつき、国王を人質にし、フィリップスは包囲を力尽くで突破した。


「そこをどきやがれ!! こいつの首をへし折るぞ」


そのまま国王ごと、港の縁からダイブした。パレードがもっとも海に近い場所を通るタイミングを最初から狙っていたのだ。そこは帆船と港を行き来する小舟がひしめきあって停留するエリアだった。フィリップスは潜水すると、小舟から突き出た釘の一本に、国王の後ろ襟を引っかけた。


「チューベロッサの沽券にかかわる!! 逃がすな!!」


顔色を変えて押し寄せる追手に怒鳴り返す。


「いいのか。俺になんぞかまってて。国王をそこの小舟のあいだのどこかに隠しといた。まだ気絶したまんまだったぜ。全員総がかりで、早く見つけて引き上げないと、海に沈んでいっちまうぞ」


ぎょっとなった彼らは、「陛下!! 陛下!!」と叫びながら、派手な水音をあげて海にとびこんだ。


「あの痴れ者を生かして帰すな!!」


そして、悔しさをこめて射かけられる矢を、


「はっ!! ごまめの歯軋りだな。そんなへなちょこ矢にあたるものか」


とフィリップスは嘲り、駆けつけたブランシュ号から投げかけられたロープを掴み取った。


「ナイスタイミングだ。さすがコーカイチョー。チューベロッサの奴らが船を出そうとしてたからな。正直、泳ぎじゃ捕まっちまうって焦ってた……!! ……がぼっ!? ごぼっ!?」


会心の笑みを浮べたフィリップスは、ロープをよじ登る前に、ブランシュ号に急発進され、しこたま海水をのんで咳き込んだ。


「一回、船を止め……!! ごぼっ!? おい、話、聞こえねえのか!?」


フィリップスの悲鳴を、コーカイチョーはぷいっと無視した。


「聞く耳持ちやせんね!! 総帆!! 全速前進!!」


波を蹴散らし、ブランシュ号は大海原を往く。フィリップスを後方に引きずったまま……。


これは相当ぶちきれているな……。


「やれやれ、ひでえ目にあったぜ」


完全にチューベロッサの艦を後方にちぎった頃、フィリップスは這う這うの体で、ロープを伝い、舷側を登ってきた。


「いいざまでさあ。少しは頭が冷えましたかい。人がどれだけ心配したかも知らねえで……」


珍しく年相応にふくれっつらのコーカイチョーの髪を、苦笑してがしがしかき回す。


「おうよ、反省した。だから機嫌を直せ。おまえらがどんぴしゃで助けに来てくれるって信じてからこそ、ああいう無茶もやれるんだ。ありがとよ」


オランジュ団全員に笑いかけたあと、フィリップスはマリー姫様に歩み寄った。ダンスをはじめるかのようにその手を取る。


「水もしたたるいい男の帰還だぜ。こういう乱暴なのは嫌いかい」


マリー姫様は微笑んだ。


「まったくあなたって人は。破天荒にもほどがあります。でも、胸がすっとしました。おかえりなさい」


フィリップスは、ぐいっとマリー姫様を胸に引き寄せ、抱きしめた。


「今なら俺はびしょぬれだ。だから、胸でどれだけ泣いても、涙なんてわからねえ」


胸に頬をつけた形のマリー姫様に優しく語りかける。


「……悲しいんだろ。だったら、俺の前でぐらい、ムリして笑わなくていい。泣きな」


マリー姫様はしばらく〝なにを言っているのかしら〟というすまし顔だったが、やがて面をフィリップスの胸に埋め、肩を震わせて泣き出した。


「……私……私……なにもできなかった……!! 誰も救えなかった……!! ……ごめんなさい……!!」


胸が痛くなる身も世もない子供の泣き方だった。姫様は嗚咽しながらヒペリカムの民に謝罪していた。無実の罪で殺されかけてなお、国民を愛していた。だが、その愛がついに届くことはなかった。


「謝るこたあねえさ。あんたは頑張った。ただ運に恵まれなかっただけだ。だが、人には恵まれた。デズモンドがいる。俺がいる。こいつらがいる。また一からやり直せばいいんだ。あきらめねえんだろ? だから、いつか戻ってくるその日のために、故郷をしっかり目に焼きつけておけ」


ぐんぐん遠ざかるヒペリカムの青みがかった山脈に目をやり、フィリップスがうながした。


マリー姫様が涙で濡れた顔をあげ、思わず問うた。


「あの、私、盲目なんですが……」


フィリップスは目をぱちくりし、そして苦笑した。


「いけね。あんたの目が綺麗すぎて、つい忘れちまってた。まったく罪な女だぜ」


うそぶく傷だらけのフィリップスに、マリー姫様は〝あきれた〟というふうに笑いだした。


ほっとした。正直、今のうちひしがれた姫様は、見ていて、心が折れそうなほど辛かった。


だが、今回、姫様に笑顔を取り戻したのは私ではなかった。フィリップスだ。


そして、壊れた私では、もう姫様を抱きあげることさえ出来ない。姫様の未来のため、私は何もしてあげられない。それでもマリー姫様は決して私を見捨てないだろう。幸せだった過去を思い出し、それを支えにし、ずっと共に生きてくれるだろう。


だが、いいのか、それで。それが私の望みなのか。


湾の向こうに霞む変わらぬ山脈の威容が、私の心に問いかけるように映る。


思い返せば、このときに私達ふたりの道は分かたれたのだ。


かすかな胸の疼きを感じながら、私はマリー姫様に気づかれぬよう、頭をかすめたある悲愴な決意を、そっと胸の奥にしまい隠した。



◇◇◇◇◇◇◇



私達はフィリップスの先導により、ハイドランジア王国のとある無人島に身をひそめた。


大小さまざまな島が入り乱れ、海峡が狭いため海流も速い。

〝アギトの海域〟ほどではないが、容易に船が近づけない難所で、隠れるにはうってつけだった。


それなりの屋敷に生活用品まで揃っていた。水回りも整い、畑や薪の用意まであった。廃村だが、フィリップスはここの出身で、今はオランジュ団の活動拠点のひとつとして再利用しているそうだ。


私は寝たきりになった。

逃避行が体調を悪化させた。

もう歩くことさえまともに出来ない。医師も匙を投げ、


「血の流れが完全に狂っている。脈も無茶苦茶だ。生きているのが不思議だ。いつ死んでもおかしくない」


とため息混じりに宣告した。


覚悟していたことなので辛くはなかった。あの聖女の一撃をまともに浴びたのだ。ここまで生きただけでもお釣りがくる。


堪えたのは、マリー姫様が泣き腫らした顔で、つきっきりの看病をするようになったことだ。


「ごめんなさい。デズモンド、私をかばったせいで」


そう言ってご自分を責めて泣き、片時も私のそばを離れない。


姫様は悪くない。

すべては私の力不足のせいだ。


そう言っても納得されない。


「もし、私が離れているあいだに、デズモンドに何かあったら……。怖くてしかたないの。お願い、ここにいさせて」


と懇願し、私の手を握って、そばで座ったまま眠った。


ただでさえ病弱な姫様はみるみるうちに衰弱していった。

このままでは姫様のほうが先に死にかねない。


もう私が自害し、幕をひくしかない。ぐずぐずしているとベッドから這い出すこともままならなくなる。


そうひそかに覚悟を決めた頃、突然親父が私を見舞いにきた。

独自の調査でこちらの居場所を突き止めたのだ。


それにしても、まさかフィリップスの裏をかくとは。

シャイロック商会の力をあらためて思い知らされた。

そして、親父は私の病状も把握し、解決策をも用意してきていた。

驚いたことにそれは医者でも薬でもない。とある町長の愛人だった。


「あたしが言うことじゃないけど、お父様に感謝することだね。このままだと数日もたず死んでたよ。……だから、すぐ動くのはやめなさいと言ってるでしょう!! 危篤寸前だったのですよ」


伝法な口調なのに、あわてると上品な言葉遣いになるマリエルというその妙な女性は、伝説の〝治外の民(ちがいのたみ)〟の末裔だった。


自分や他人の血を操ることが出来る彼らは、活殺自在だという。


半信半疑だったが、噂は真だった。血流を修正するという離れ業のおかげで、私は日常生活はなんとか送れるまでに回復した。


「だけどね、もう身体に無理はきかない。無理をすればすぐ倒れるよ。神経障害とも一生つきあっていくことになる。船乗りの復帰は絶望的だよ」


と、マリエルは言いづらそうに告げた。


その手は、私が命の危機を脱したことで、緊張の糸がきれて眠りこんでしまったマリー姫様のほつれ毛を直している。黒髪に吊りぎみの黒い大きな瞳で、美人だがややきつめの顔立ちだ。気の強い黒猫そっくりだが、容姿とはうらはらの思いやりある女性だった。


心の読めるマリー姫様が、一目見た瞬間から、彼女を信頼し私のすべてをまかせた。医療の腕前もそうだが人柄が素晴らしいのだろう。


マリー姫様は眠りにおちる前に、喜びの涙を流しながら、何度も何度もマリエルに頭を下げていた。辛かった。今の私はマリー姫様の足を引っ張り、負担をかける存在でしかない。


「デズモンド。マリー姫様の御側役を辞退して、シャイロック商会を継げ」


マリー姫様が眠ったのを確認し、隣室から入ってきた親父がそう切り出した。


弱みにつけこむようなやり口だとかっとなったが、激しく咳き込みだした親父の背をさするマリエルの続けた言葉に愕然となった。


「……怒らないでください。お父様はもう長くありません。重い肺の病です。延命措置は続けていますが、来年の春を迎えられるかどうか。ここまでの旅も止めたのですが……」


そういえば顔色が異様に白い。

長旅の疲れからばかりなのだと思っていた。


「すまない。知らなかった……」


私達親子は疎遠すぎ、そう短く謝るしか言葉が出なかった。

親父はぜい音まじりで苦笑した。


「そんな情けない顔をするな。息子に同情されるほど、わしはまだ安くないぞ。いや、ここは同情を買い、おまえに言うことをきかせるべきだったか。やはり老いたな」


「親父……」


親父は丸めた背を伸ばした。


「やはりおまえにあとめを譲るべきだな。シャイロック商会をどう使うか。これからは、おまえが決めていけばいい」


そして、親父はマリー姫様を見た。


「もっとも、この方の夢の手助けをすると、すでに答えは決まっておろう。ならば、シャイロック商会をもっと大きくしろ。今のままでは、とてもチューベロッサ王国には歯が立たん。手強いぞ。あの国は。九王国の中でもっとも闇が深い。今の国王など傀儡にすぎん。ヒペリカムの民は地獄を味わうな」


親父の口ぶりには深い嫌悪と悲しみがあった。


あとで知ったが、チューベロッサ王国は人体実験の計画を進めていた。詳細を聞いたとき、そのあまりの非人道さに私も吐き気を催した。マリー姫様があれほどまでにチューベロッサを忌避したわけだ。


暖炉の焚火の爆ぜる音が断続的に続く。


厳しい顔で黙りこんだ親父に、私は質問した。


「なあ、ひとつ聞かせてくれ。親父が守銭奴と罵られながら、シャイロック商会を大きくしたのは、チューベロッサの侵攻に備えてのものだったのか……」


以前徹夜で飲み明かしたときから、そうではないかと思いだした。優しいマリー姫様との日々が、私の親父への恨みを溶かし、まなこの曇りをぬぐいさってくれた。自分の父親は、冷血漢などではなく、汚名を背負ってでも、同胞の未来を守ろうとする誇るべき男だったのではないか。


「さあな。好きに解釈するがいい」


親父は素っ気なくはぐらかした。息子に心を見抜かれて照れていた。しかし、すぐに厳めしい表情になった。


「デズモンドよ。ひとつだけおぼえておけ。悪に対抗するには、ときにはこちらも悪の道に踏みこむ必要がある。誰かが鬼にならねばならんのだ。しかし、完全に良心を忘れてはいかん。辛いぞ。人のまま鬼になるのは。その役目を引き受ける覚悟がおまえにあるか」


私は返事のかわりに親父を見つめ返した。


答えはもう決まっていた。


鬼の形相で私を睨みつけていた親父の表情が、しばらくして嬉しそうにふっと和らいだ。


「迷いのないいい顔になった。マリー姫様のおかげだな。わしは心からこの方を尊敬する。無理をおしてここまで出向いた甲斐があった……」


そして、親父は立ちあがると、すやすや眠る孫のような年齢のマリー姫様に、深々と頭をさげた。


「貴女と息子が想いあっていることは知っている。お側から引き離すことをお許しください。恩を仇で返すようだが、シャイロック商会を継いだ息子は、これからも影働きで、きっと貴女の助けになれましょう……」


そのあとも何度も親父は謝っていた。


こんな年寄りの繰り言のようなことをする親父ではなかったのに


ずいぶん皺の深くなったまなじりに光るものがあった。かがんだ背中がやけに小さく見える。暖炉の炎に揺れる影法師は、細く今にも折れそうだ。これがあの、私がどんなに反発してもびくともしなかった強い親父だろうか。胸がしめつけられた。


今になって思いだす。


実家の玄関も客間も威圧的なまでに豪華だったが、親父しか立ち入らない執務室は驚くほど質素だった。


ただ暖炉のマントルピースに、亡くなった私の母の小さな肖像画(ポートレート)だけが置かれていた。いつも真新しい花の一輪挿しとともに微笑んでいた。


本当の親父を知る機会はいくらでもあった。なのに、私はくだらぬ反発心からそれを放棄していた。


今まで親父は心を押し殺し、鬼の役目を果たしてきた。だが、死を迎え、やむをえず私を訪ねてきた。そうでなければ辛い役目を私に譲りはしなかったろう。


マリー姫様と同じだ。壊れる直前まで苦しみをひとりで抱えこむ。


眠るマリー姫様の横顔が涙でにじんだ。ずいぶんやつれてしまった。その原因は私なのだ。私はマリエルに懇願した。


「……どうかこの方を深く眠らせてあげてください。この数か月私につきっきりで、まともに睡眠さえとられなかった……」


「……わかりました。優しい方なのですね」


「はい。私などには、勿体ないほどのあるじ……でした」


あえて過去形で口にしたとき、壊れるほど胸が痛んだ。


「私が優しいと言ったのは、あなたのことですよ。よく似た三人のくそ爺どもを知っています。怖い顔をして、不器用なまでに優しいのに、自分が傷つくことにはまったく無頓着。見ていてはらはらします」


マリエルがそう微笑み、マリー姫様に血流操作をほどこしてくれた。


「ロナちゃんも、こんなふうに眠らせてあげたっけ……。あの子も頑張りすぎてぼろぼろだった……」


マリー姫様に誰かを重ねたのだろう。

しばらくしてから、マリエルは肩をふるわせ涙ぐんだ。


「バカよ、あの子は。まだ幼かったのに。一途すぎる初恋で身をほろぼした。大好きな男の子を守ろうと、炎の海に落ちて……。なのに、最期の瞬間、幸せそうに笑ってたって……。やるせなくて、こっちが笑っちゃうわ」


そう嗚咽するマリエルは笑いの欠片も浮かべていなかった。

ただ俯いて悲嘆に暮れていた。

事情を知っているらしい親父は痛ましそうに黙って見つめていた。

暖炉の明かりがふたりを照らす。


「……ほんと、バカよ。残された若様や、私達が、どんな気持ちになるか知りもしないで。……でも、大人の私はもっと馬鹿。あの子を守ってやることさえできなかった……。ごめんね……」


気丈なマリエルの悲痛なすすり泣きが、胸に突き刺さった。


あとで私も詳細を知った。


むくわれない人生をすごしてきたロナを救うため、優しい庇護者達は全力を尽くした。実際ロナは幸せな未来をあと一歩で掴めるところまできていた。だが、わずかな運命の歯車の噛み違いで、事態は急転し、ロナの死亡という最悪の結末を迎えた。


残された関係者たちの心の傷は今もなお癒えていない。不幸すぎる事件だった。


誰もがつらい過去を抱えながら生きているのだと思った。そして失った過去はやり直せない。だが、私はまだ道を選べる。このままだとマリー姫様は、きっと死ぬまで身を削り、壊れた私を守り続ける。待つのは共倒れだ。それだけは避けねばならない。……たとえ、マリー姫様に憎まれる未来を選ぼうとも。


「……さようならです。マリー姫様。私は、あなたの足枷にだけはなりたくない。袂を分かち、これからは鬼になり、あなたを陰から守ります」


マリー姫様の涙のあとを、私は指でそっとぬぐった。


私の命が救われたことで流してくれた涙だ。私にとってはどんな宝石にもまさる涙だ。指を眺める。我ながらあきれるほど武骨な指だ。可憐な頬に触れただけで壊してしまいそうだ。


マリー姫様は、そんな私のごつごつした指を、小さな手で握りしめて歩くのがお気に入りだった。親と子供ほどもある体格差に、周りはくすくす笑ったが、大きな犬を引っぱりまわすように意気高揚としていた。振り返れば、過ごした日々は幸せすぎ、一瞬の光に感じるほどだった。


マリー姫様は、私の心を照らす太陽であり、命をかけて守るに値する可憐な一輪の花だった。人生の終焉まで共に歩きたかった。守りたかった。そばから離れるなど考えたこともなかった。


だが、この幸せなナイトの役目ももう終わりだ。私がいなくても、フィリップスがいる。後になんの心配もいらない。


だから、お別れです。

私の愛しく輝く姫君。

これから私は、この指をひとり握りしめ、拳にして生きていきます。

悲しさと寂しさで胸が潰れそうな、孤独な夜が待つでしょう。

けれど、この拳のなかには、あなたに貰ったじゅうぶんすぎる思い出があふれている。

あなたの笑顔はいつも心のなかに。

それを支えに、私は前を向ける。

歩いて行ける。


マリー姫様をこれからも支えるために、親父に残り少ない余生を安らかにすごしてもらうために、私はおのれの意志で、鬼の仮面を引き継ぐことを決意した。


◇◇◇◇◇◇◇◇


別れのときは、今思い出しても、胸が張り裂けそうになる。


別離を申し出ると、マリー姫様は泣いて怒り、小さな拳で本気で私を殴りつけた。

マリー姫様の華奢な手は、まっかに腫れていた。

それでも私を離すまいと、ぎゅっと服の生地を握りしめていた。


私は、つくづく最低の男だ。


出会ってはじめて、みずからの意志で、姫様をここまで傷つけた。

そして、こんなにマリー姫様を泣かせながら、敬慕する主君で愛する女性に、ここまで想ってもらえることに、もう死んでもいいと思うほどの歓喜をおぼえる恥知らずだった。


「お願い……!! 本当の気持ちを教えて!! 私を主君でなく、ただのマリーとして抱きしめて!! あなたの妻としてだけ生きろって、私にキスして……!!」


ああ、それが叶ったらどんなに幸せなことか。


姫様は、私の妻としてだけ、とおっしゃった。


私にはわかった。姫様は言外に、


ヒペリカムの民の救済の夢をあきらめてもいい。

だから、足手まといになるなんて考えず、ふたりでひっそりと生きていこう。


そう私に告げてくださったのだ。


それはあまりに甘くせつない誘惑だった。私の心は激しく揺れ動いた。少し手を伸ばすだけで、すぐにそのささやかな夢はかなうのだ。マリー姫様もそれを望んでくれている……。


「きて。デズモンド」


マリー姫様は私を仰ぎ見ると、瞼を閉じ、キスを待った。


どうしようもないほどの愛しさがこみあげ、私は吸い寄せられるように身を屈めた。


触れる寸前までいった私の唇を止めたのは、皮肉なことに、姫様との思い出だった。


可憐で、ちょっぴり焼き餅やきで、けれど、民への愛を決して失わなかった私の宝物。


〝あきらめねえんだろ〟


フィリップスがマリー姫様に言った言葉が、脳裏によみがえった。


……そうだ。姫様が、ヒペリカムの民を見捨てるなど、本意のわけがない。私に同情して違う道を選んでも、きっと笑顔の裏で、涙を流し続けることになるだろう。


私は心を鬼にし、姫様の小柄な身体を自分から引き剥がした。


私の心変わりを察知し、マリー姫様は絶望の表情を浮かべた。


「嫌よ、デズモンド……!! いかないで!! 離れるぐらいなら、いっそ、その手で私を殺して……!!」


ほっそりした首に、私の手を自ら導き、押しあてる。


私はみずからを引き裂く思いで、姫様を振り払った。肩をつかみ、押さえつけるように椅子に座らせた。見下ろす。続く言葉をしぼりだすには、それ以上の努力がいった。


「……マリー姫。貴女につきあってのおままごとはもううんざりだ」


苦しい。悲しい。つらい。


「国を追われた貴女になどもう用はない。やはり小娘ではこれが限界ですな。ご安心なさい。ヒペリカムの民の救済は、私とシャイロック商会が引き継ぎます。我が商会が、あの国を掌握するチャンスだ」


止まるな。言え、最後まで。


「おわかりか。もう貴女の出る幕などない。民のことなど忘れることですな」


口にしていて、自分で自分を殴り殺したかった。


だが、ここまで言わねば、私はマリー姫様への未練を断ち切れない。決別できない。


チューベロッサ王国は邪悪だ。ヤツらと渡り合うには、他人を躊躇なく蹴落とす神経が必要だ。私は姫様にそこまで堕ちてほしくない。


汚れ役は私が引き受ける。

だから、どうかいつまでも私が愛した笑顔のままで。

いつかすべての反撃の用意が整ったとき、必ず旗頭として、貴女をお迎えに参上するから。


「……どうして、ぜんぶ自分ひとりで背負おうとするの……!! ずっと一緒に歩もうって、なんで言ってくれないの……!! そうしたら、私、死ぬのだって怖くないのに……!!」


マリー姫様は何度も懇願した。


だが、私の決意がどうやっても覆せないと悟り、とうとう両手で顔を覆って、童女のように声をあげて泣き出した。


駆け寄って抱きしめたい衝動を、断腸の思いで私は押さえつけた。


「おさらばです」


短く告げて背を向ける。

足早に立ち去る。

姫様は追ってこなかった。

椅子に座ったまま、身を震わせて泣いていた。

見えなくなっても、その嗚咽がいつまでも耳から離れなかった。


「……マリー……姫様……!!」


慟哭があふれだし、涙となって私の頬を濡らす。


「ひでえご面相だな。デズモンド。……だが、ケジメはつけてってもらうぜ。歯ァ食いしばりやがれ!!」


追いかけて来たフィリップスが、泣き腫らした私の頬を殴り飛ばした。

私は吹っ飛び、ぶざまに地面に転がった。


「てめぇがマリー姫のために身をひいたのはわかる。だがよ。姫本人の気持ちはどうなる。なにより、てめえ自身の気持ちはよ……」


私は答える代わりに起きあがり、フィリップスをぶん殴り返した。全力でだ。千の言葉を尽くすより、これでフィリップスには伝わるはずだ。フィリップスは微動だにせず、呆然と立ち尽くしていた。その目から滂沱の涙があふれでた。


「……これが……俺と渡り合った拳かよ……。ここまであんたは……」


言葉を失ったフィリップスに、私は力なく笑いかけた。


「……笑えるだろう。今の私はここまで壊れている。本気で殴ってこれだ。御側役としてはものの役にたたん。そしてもう治らない。このままマリー姫様の足を引っ張るなど、死んでもごめんだ。それよりは、違う道を行って、マリー姫様の助けになりたい。同じ女性を愛したおまえならわかってくれるだろう」


マリー姫様をお連れし、シャイロックを継ぐ案も考えた。

だが、駄目だ。シャイロック商会の会頭になるということは、すべてを犠牲にし鬼になるということ。自らの政略結婚も含まれる。ふたつともには選べない。


フィリップスは涙を拭おうともせず、たくましい腕で私を抱きしめた。


「……マリー姫のことはまかせろ。この俺が魂にかけて守り抜く。だが忘れるな。たとえ遠く離れても、あんたは俺達の仲間だ。家族だ。どんだけ時間が経っても、それだきゃあ変わりやしねえ。いいな」


私もうなすぎ、抱擁を返した。


「ありがとう。色々あったが、おまえに会えたことを感謝する。神の祝福があらんことを」


もっとたくさん語りたいことはあったが、たったひとつの言葉に、すべての気持ちをこめられることに気づいた。


「頼んだぞ。〝親友(とも)〟よ。マリー姫様を幸せにしてやってくれ……」


フィリップスは声をあげて号泣した。


「おう!! 世界中を敵にまわしても約束は守る。……新天地でしっかりやれ。必ずまた会おう」


ぶっきらぼうだが思いやりにあふれた言葉に、あらたな涙があふれでた。


「デズモンドの旦那……いっちまうんですかい」


息せききって、追いかけてきたコーカイチョーの少年が、鼻をまっかにして涙ぐんだ。私はうなずき、いつもフィリップスがそうしているように、彼の髪をぐしゃぐしゃにかきまわした。


「今までありがとう。フィリップスのような男になれよ」


そのあと駆けつけたオランジュ団の皆が、涙を流して見送ってくれた。


いい奴らばかりだ。私を迎えにきたシャイロックの船が見えなくなるまで、ずっと手を振ってくれた。彼らになら安心してマリー姫様を託せる。


もしかしてマリー姫様も見送りにきているのでは、と無意識にお姿を探していることに気づき、おのれの浅ましさに嫌気がさした。あれほど酷い仕打ちをして、なにを虫のいいことを。私は失ったものの大きさにあらためて打ちひしがれ、消えていく島影を見つめ、マリー姫様の幸せを祈り続けた。


……あとで、私は死ぬより辛い後悔に苛まれることになる。


私は悲嘆に暮れるよりも先に、あの気丈なマリー姫様があそこまで嘆き、そして、ご自分の死を二度も口にしたわけを、もっと深く考えるべきだったのだ。


別れのとき、本当に堪えていたのは私ではない。マリー姫様のほうだった。

私が思い至らなかっただけで、姫様は、私を絶対に引き留められるカードを持っていたのだ。

だが、私を巻きこむまいと気遣い、最後までそれを口にされなかった。

そのうえそれから二十年近く、誰にも凶事を漏らさず、ひとりぼっちで迫りくる恐怖に耐えた。


なんという勇気、そして、優しさか。

私は別離のときにさえ、姫様に深く愛されていた。

それなのに、従者としても恋人としても、その本当のお心に気づくことが出来なかった。


……ずっとのちに、私は姫様からすべてを聞かされ、膝から崩れ落ちた。

床を叩き咆哮し、おのれの迂闊さを激しく呪った。

だが、そのときは、もうなにもかも取り返しがつかなかった。

手遅れだった。

私がそれを耳にしたのは、マリー姫様が息を引き取ろうとする枕元でだったのだから。


◇◇◇◇◇◇◇◇


実家にかえった私はすぐにシャイロック商会を引き継いだ。


私のはじめてのつとめは、叔父を失脚させる血なまぐさい仕事だった。


次の会頭への野心を抱いていた叔父は、まさかの私の帰還に猛反対した。一族会議で私に指を突きつけ、「こいつは幼い女にとち狂って出奔した人間だぞ。シャイロックをまかせられるか」と罵った。


勝ち誇った醜い顔に心底憂鬱になった。


私は別にマリー姫様目当てで家を出たのではない。その前に七つの海を冒険している。私が幼い頃はよく遊んでくれた人だったのに。権力欲に憑りつかれると人はここまで変わるのか。


事前調査済みの横領の証拠をつきつけて閑職に追いやったが、勝利の余韻にひたる気にはとてもなれなかった。


滅入っている私を親父は、


「甘い。最低でも家族ごと国外追放すべきだ」と叱責した。


「相手はおまえを子供の頃のイメージで軽んじているのだ。死ぬほど痛い目を見んとあきらめん。骨肉の争いとはそういうものだ。手加減するとかえってひどい結末になるぞ」と警告した。


厳しすぎると私は不満に思ったが、親父が正しかった。


追いつめられた叔父は、親父と私に刺客を放ったのだ。襲撃は失敗し、叔父は粛清された。命乞いも許されなかった。見せしめにされたのだ。


自死を拒んだあげく、四肢を押さえつけられ、無理やり毒を喉に流しこまれた。「命だけは助けてくれ。家族がいるんだ。俺が死んだらあいつらはどうなる」と泣き叫ぶ無惨な最期に、集められ立ちあわされた一族の皆はまっさおになっていた。叔父の家族は全財産を没収され、寒空に放り出された。


「これでもう阿呆なことを考える奴は出まい。これがわしの鬼としての最後の務めだ。あとはおまえが引き継げ」


小さい頃は仲の良い兄弟だったと聞いたが、親父は涙ひとつぶ零さなかった。だが、杖を握るその手がわなないていたことに私は気づいていた。


これがシャイロックを継ぐことなのだと思い知らされた。


それは、信じあい笑いあうマリー姫様やオランジュの連中たちとの関係と、まったく真逆の殺伐とした世界だった。あの頃が懐かしい。私はなんと遠くにきてしまったのだろう。


親父は誰よりもシャイロックだった。あとになって親父のことを思いだし何度か考えた。親父が会頭なら、暴走したアンブロシーヌをどうしたろうかと。孫だろうと容赦なく殺したろうか。それとも……。


引退して肩の荷をおろした親父は、別人のように穏やかになった。マリエルに協力し設立した孤児院に入りびたり、子供たちにお菓子を渡すのなによりの楽しみとしていた。たくさんの小さな笑顔に囲まれたその姿に鬼とおそれられた面影はなかった。


マリエルは、妹のように可愛がっていたロナへの贖罪として孤児院をつくったのだという。


その頃には、私も事件の概要を、親父に教えてもらっていた。


ロナは、あのヴェンデル……のちの紅の公爵の名を最初に知らしめた暴動事件の犠牲者だった。父親に売春を強要される地獄のなか、それでも弟達を命がけで守り続け、ヴェンデルに救われたことで淡い恋心をいだいた。そして、その愛に殉じて彼をかばい、炎のなかに消えた薄幸の少女だった。


ロナのような不幸な子をひとりでも多く救いたい。孤児や、親の虐待により行き場のない子達の逃げ場をつくりたい。それがマリエルの願いだった。


中庭で「院長先生、ご飯まだあ」とマリエルにまとわりつく子供たちのはしゃぎ声がする。


頬の血色がいい。寒の戻った日だったが皆元気だ。身なりも清潔だ。他の貧救院でよく見かける亡霊のような子供たちと違い、ここの子達は幸せいっぱいな顔をしていた。


潤沢な経営資金があるからだ。


まだ真新しい木の香のする孤児院の片隅のベンチに座り、追いかけっこをする彼らの様子を眺めながら、親父がぽつりぽつりとかたわらの私に話しかけた。


「チューベロッサによる侵攻計画は、すでに最終段階だ。もう止められん。やがて、ヒペリカムの民は、奴隷より酷い立場に堕とされよう。どれほどの孤児や飢えた子供たちが生まれることか。その笑顔を買い戻せるのは莫大な金だけだ。たとえ世間に人非人とそしられようと、我らは金儲けをせねばならんのだ。誰かが他人のために鬼にならねば……。それが、シャイロック商会の隠された(こころざし)だ。おまえの代が駄目なら、次の世代がそれを。それが駄目なら、さらに次の世代が。頼んだぞ、デズモンド。どうか子供たちを救ってくれ……」


寡黙な親父が珍しく長話をした。


自分の欲望のために鬼になるのではなく、他人のために鬼になれる者。


それこそがシャイロック商会の次期会頭の資格。


のちに私がエセルリードを跡目に選んだのは必然だった。


そして、それが親父の事実上の遺言になった。


その日、帰路につく親父を見送るマリエルは泣いていた。

彼女は血流でひとの健康状態が読める。

涙のわけを悟り、慄然として問おうとした私を引き留め、親父はしずかにかぶりを振った。


院長先生、なんで泣いてるの? と訝しがる子供たちをマリエルは抱きしめ、


「みんな、よくあのお爺ちゃんを覚えておいて。みんなの幸せを、あの人が運んでくれたのよ。大きくなっても忘れないでね」


と涙声で語りかけた。


「しあわせ? はこぶ? おじいちゃんは、サンタタロースなの?」


サンタクロースのことなのだろう。舌のまわらぬ声できょとんと首を傾げる栗色の癖毛の子に、親父は破顔した。


「……サンタクロースか。この悪人にはすぎたプレゼントだな。お礼に、クリスマスには特大の七面鳥のローストを届けるとしよう。食べきれんほどの量をな」


わっと子供たちが歓声をあげた。


「だが、わしはこれから旅に出ねばならん。少し長い旅になる。クリスマスには帰れまい。息子のデズモンドが代わりに届けてくれよう。だから、それまで院長先生の言うことをよく聞き、皆いい子にして待っておいで……」


丸い頬を赤くし、いい子にしてる、と唱和する子供たちに、親父はうんうんと頷き、たまらず泣き崩れるマリエルの肩に優しく手をおいた。


「もう泣くのはおやめ。おかげで、わしは最期に人に戻れた。貴女は誰よりも優しい。そのぶん傷ついてきたはずだ。だからこそ笑ってほしいのだ……。きっとロナも貴女に救われたはずだ」


慈父のように諭し立ち去る親父の背に、泣き笑いさえ維持できなくなったマリエルは肩を震わせ、いつまでも頭を下げていた。


そして、親父は迎えの馬車に乗りこんだ途端に昏倒した。

そのときを予期していたのだろう。

外から見えないようあらかじめ窓には厚いカーテンがかけられていた。

屋敷に着く前に親父は息をひきとった。

その短いあいだに二度だけ意識を取り戻した。


一度めには


「もう子供たちが泣くのはたくさんだ。あの子らのような笑顔がいい。そのために金を使いたい」


と呟いた。


二度目には、私にほほえみかけた。


「息子がわしのために泣いてくれるとはな。読みがはずれたことが、泣けるほど嬉しいぞ。……わしは商売人として失格だな」


と言った。


それから亡き私の母の名を呼び、ずいぶん待たせてしまった、と照れくさそうに詫びた。そして、虚空に手を差し伸べた。よく聞き取れなかったが、雰囲気で求愛のダンスの口上だとわかった。親父は私の母にもう一度プロポーズをしたのだ。その手が途中でぱたりと落ちた。笑みを口元に刻んだまま、その瞼が再び開かれることはなかった。


「親父……!! ……父さん……!!」


車輪と荒れた石畳みがぶつかりあう騒がしい音が、私の慟哭をかき消した。


マリエルの見立てどおり、春を迎えるまであとわずかのところで、父は二度と帰らぬ人となった。馬車の行く街道のはるか先には、山の稜線の残雪が、夕陽に照らされ美しく無情に輝いていた。


◇◇◇◇◇◇◇


親父の葬式後、私は一年を喪に服し、生前に決められていた相手イザベラと結婚した。


老舗の大商会の娘であり、政略結婚だった。これによりシャイロック商会は、手が出なかった分野への参入と、有益な交易ルートを手に入れた。利害の結びつきだけの冷たい関係を覚悟していたが、イザベラは私にはもったいないほどの妻だった。


「嫁ぐ前は、鬼みたいな人だと聞き、おびえて涙ぐんでいましたが……あの頃の私に教えてあげたいわ。私が今どれだけ幸せか。あなたは最高の旦那さまに巡りあえるのよって」


彼女の誕生日に盛装し、花束をもって、朝の挨拶におもむいた私を見て、イザベラはふきだしたあと、涙をうかべてそう笑った。


いや、そんなにおかしいか? 

イザベラが守ってくれるおかげで、私は安心して家を留守にし、大陸中を飛び回れるのだ。家いっぱいの花束でも足りぬぐらいだぞ。


「できたら早く子供を授かり、あなたの優しさに恩返ししたいのですが……」


イザベラの笑顔が曇る。


結婚して数年たってもイザベラは身籠らず、それが彼女の悩みとなっていた。


「気にするな。子供は天からの授かりものだ。まだおまえも若いのだ。焦る必要などない」


そう慰めたが、イザベラは浮かぬ顔のままだ。


「まあ、私も励むつもりではある。就寝が遅くなるかもしれん。明日の朝のスケジュールは、余裕をもたせておくようにな」


しばらく海外に出張していて、夜の営みが御無沙汰だったしな。私も子づくり抜きにしても妻に触れたい。もちろん妻の気持ちと体調が最優先だ。ふむ、髪飾りをOKのものに変えている。問題ないな。さて、プレゼントをどのタイミングで渡すかな……。


そんな私達の会話を、妻づきの侍女たちがあたたかいまなざしで見守っていた。


彼女達に言わせると、私は、いまどき珍しく妻に気遣いできる男、らしい。


そうだろうか。マリー姫様との日々ではむしろ当然だったのだが。


……あの別れの数年あと、マリー姫様は出自を伏せ、フィリップスと結婚した。


ひそかに届けられたヤツからの手紙で、私はそれを知った。

「すまねえ。必ず幸せにするから」と書かれていた。

顔に似合わず律儀な男だ。

胸がちくりと疼いたが、あいつになら安心してマリー姫様をまかせられる。


「驚いた。あなた、あのフィリップス様とご親友だったのですね」


しばらくたったある日、妻が興奮顔で走ってきて、私の手を取った。

斯界はフィリップスの話題でもちきりだった。


ヤツは嵐の海を突破し、オレンジを輸送するという大博打にでて、見事にそれを成功させ、巨万の富を得たのだ。


あほか、あいつは。

マリー姫様を寡婦にするつもりか。


あきれはてたが、そのあと来た手紙には、「マリーへのいい誕生日プレゼントになった」とあった。


あいかわらず出鱈目なスケールの男だ。


その儲けを元にオランジュ商会を設立し、業界の麒麟児としてもてはやされているという。


「親友か。どうだろうな。知り合いではあるが」


「フィリップス様ご本人が、あなたを無二の親友と広言してまわっているそうですよ」


あいかわらず気恥ずかしいまで熱い男だ。


こうなると本人達の意志にかかわらず、周囲が勝手に動き出す。

あれよあれよという間に、私とフィリップスの会談の場がもうけられた。

とある貴族の別邸を借りてだ。


私は懐かしさで胸をいっぱいにし、妻のイザベラをともない、そこに向かった。


馬車から降りるのを待たず、フィリップスが飛び出してきて、両手を広げて歓迎してくれた。


「久しぶりだな!! 待ってたぜ。ようやくあんたの土俵で、サシで語り合えるまで大きくなった。ありゃ、随分太ったな。しあわせ太りか。いいカミさんに恵まれたようだな」


まっくろに海で焼けたヤツは、前以上に豪放磊落だった。

思わず涙がこぼれた。


「は、鬼の目にも涙だ。あんたの政敵たちが見たら腰をぬかすだろうな。これが見れただけでも、再会した意味があったというもんだ」


そう笑うフィリップスのまなじりにも光るものがあった。

鼻の奥がツンとする。

いいものだ。旧友というのは。


「……それにしても驚かされたぞ。まさか嵐の海を一度ではなく、何度も往復して、オレンジを輸送するとは」


外套をあずけたあと、並んで歩く私達の会話は、まずそこになった。

本当にまっさきに聞きたい話題には、ふたりともあえて触れなかった。


最初は出航を嘲笑していた商人や船乗りたちも、何度もあたりまえのように戻ってくるブランシュ号を見て、しまいには蒼白になってがたがた震え出したらしい。


「あの船は白い貴婦人なんかじゃねえ。白い悪魔だ。死神の連れなんだ。でなきゃ、あの嵐を平気で行き来できるわけがねえ」


迷信深い水夫たちは、そう言って十字をきった。


フィリップスは、商人としてだけでなく、船乗りとしても名を轟かすことになった。


「海が凪いじまったら、オレンジなんぞ誰でも運べるからな。価値が二束三文になっちまう。水物みてえなもんは、儲けられるうちに儲けとかないとな」


フィリップスは笑い飛ばすと、大階段のすぐ横にある部屋の前で、足をとめた。


はて、会食の場は二階だったはずだが。


扉が閉まっている。

このような大邸宅のメインルートでは珍しいな。

各部屋の内装や調度品も来客のもてなしの一部なので、プライベートや使用人エリア以外は、たいてい開け放しのはずだ。


「デズモンド、あんたが本当に驚くのは、これからだ」


フィリップスは扉を開けた。


ドレス姿の女性が、優雅にソファからたちあがるのが見えた。


「……デズモンド」


忘れられない涼やかな声が耳をうった。


そして、そこで、私は、大人になったマリー姫様と再会したのだった。




【おまけ 台詞だけキャラあてクイズ 2回目 ※ヒント 登場人物はふたり 女言葉でも性別は…】


「……いよいよ次の満月が決行のときね。外への扉を開くのは、まかせてちょうだい。伊達に長い間ここに閉じ込められていたわけじゃないのよ。たとえ消滅しても、あなたに子供たちを助けてもらった恩、全力で返させてもらうわ」


「そこまでしてもらうわけには……。私は、一瞬だけしか、あなたと子供たちを引き合わせられませんでした。それも、すぐに離れ離れに」


「泣きそうな顔をしないで。聖女って、みんなそんなお人好しなの? いてくれるとわかっただけでもいいの。それに貴女が引き上げてくれたから、あの子たちの魂は溶けずに済んだ。それだけでも感謝しきれない。そのうえ、あの子たちは、こんな私のことをまだ〝先生〟って呼んでくれた。あんな嬉しそうな笑顔で……。あの子達を見捨てたこの私をよ……。ぐうっ……!! ふぐっうっ……!!」


「子供たちは皆、あなたが命を捨てて守ってくれようとしたことに気づいていますよ。こんなに想いあう師弟ですもの。いつか必ずまた巡り合えます」


「ううっ……!! ぐすっ!! 大の男が取り乱しちゃって、ごめんなさいね。そうよね。その日が来るのを私も信じるわ。だから、貴女も信じなさいな。愛し合う恋人たちに不可能なんてないって!!」


「……でも、私はたくさんの人達を殺めてしまいました。もうアルフレド様に会う資格なんて……」


「落ちこまない!! 貴女が自分の意志でしたわけじゃないでしょ。そうやって心を弱らせてつけこむのが奴等の手口。どれだけ汚いか私は身をもって知っているわ。だから、世界中が貴女を批判しても、私は貴女の味方!! さあ!! 胸をはって、愛しの花婿さんに会いに行ってきなさい!!」


前回より難度ちょっと高めかも。

正解した方には、心からの感謝と敬意を!!

お読みいただきありがとうございます!!

長時間お疲れさまでした。


読み足りねえと思った方、今回はこれでも3万字あります。

活字中毒になりかけているおそれがあります。人間界に引き返すなら最後のチャンスです。

多いよ!! と思った方、正常です。

もう少し短くするよう鋭意邁進してまいります。


また宜しかったらお立ち寄りください!!

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[良い点] セリフ当てクイズ、答えドウェイン(……まずい、久々過ぎて名前に自信が無い)とアンジェラですね。 辛い目にあったというのになんて優しすぎる二人なんでしょうか。 ゴルゴナの高祖母、海の魔女。…
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