マリー姫、デズモンド、フィリップス。若き日の三人の恋物語。ー光の章ー。
お久しぶりです!!
ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!
なんと英訳版コミックス Vol. 1が【The Villainess Who Has Been Killed 108 Times: She Remembers Everything!】のタイトルで発売中です!! さらに Vol. 2 が2024年2月13日発売予定!! うーむ、発売までにもう1回更新できるだろうか。オリジナルとの擬音の違いがおもしろいです!! 英語の擬音をイラストとかで表現したい方の参考になるかもです。
【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】全4巻発売中!!どうぞよろしくお願いします!!
KADOKAWAさまのFLОSコミックさまです!! 作画の鳥生さまへの激励も是非!! 合言葉はトリノスカルテ!! http://torinos12.web.fc2.com/
原作小説の【108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻】はKADOKAWAエンターブレイン様より発売中!! 小説の内容はともかく装丁と挿絵が素晴らしい(笑)
漫画のほうは、電撃大王さま、コミックウォーカー様、ニコニコ静画様、ピクシブ様やピッコマ様等で読める無料回もあったりします。あるよね? ありがたや、ありがたや。どうぞ、試し読みのほどを。他に公開してくださってるサイトがあればぜひぜひお教えください。ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「こいとうたたね」も少し読めます。もろもろ応援よろしくです!!
それと前回のデズモンドのセリフが、長老から海の魔女に変更されています。別人でいくつもりでしたが、煩わしいのでひとりに統一しました。ご了承ください。
※ごめんなさい。御無沙汰しております。今回は実験的に、登場人物の紹介から入ります。人物でないのも混じっている? 気にしないでください。作風です。
なんと今回は、主人公達は出番がありません。
……なので、せめて冒頭に少しだけセリフのみの出演で……。
蛇足ですが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。簡単なクイズも兼ねています。さて、出演しているのは誰と誰でしょう?
「みなさん、ごきげんよう!! 私、本編の主人公、スカーレット・ルビー・ノエル・リンガードと申します。以後お見知りおきを。チャームポイントは目のさめるような赤髪、紅い瞳のきらめく美少女。もう今夜も舞踏会でもひっぱりだこ。……おほほほ、ダメよ、気持ちはわかるけど焦らないで。私の身体はひとつだけですもの……。かくして私は、列をなして言い寄る殿方をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」
「あはは、スカチビさあ。それ無理ありすぎだろ。だって、今おまえ赤ん坊じゃん。ちぎって投げれるのは、せいぜい自分のう〇こ……」
「するか!! あほブラッドめ。なんて下品な。だいたいここでは文章での表現だけだから、黙っていればいまの私の年齢や姿なんてわからないの!!」
「……なるほどね。だったら、オレだって……。『早く行け。食い止める軍勢が万? 俺ひとりで問題ない。目の前の相手を倒す、その作業をいつもより多くこなすだけだ。泣くな。その涙はおまえが無事に目的地にたどりき流すためのものだ』 どう? オレ、少しは格好よく見える?」
「なにそれ、どういうシチュエーション?」
「万の軍勢に阻まれ、トイレに行けない令嬢」
「さんざん悲壮感ただよわせて目的地がトイレ!? 流すの涙じゃなく、ウ〇チじゃない!! 令嬢もあんたも軍勢も登場人物バカしかいないの!? だいたい、あんた、いくら『108回』の大人の殺し屋ブラッドの真似しても、そのメイド服じゃあねえ。姿だけ細マッチョに変わってたらアンバランスで怖いのよ」
「これはこれで需要が……」
「……あるかあっ、そんなもん!! 強面の筋肉女装メイドと引き換えに、数少ない読者をすべて失うでしょうが!! 早く元のショタな少年の姿に戻りなさい!!」
「ちぇっ、この成人した姿なら、大人スカーレットとだってダンスを踊れたのに……」
「な、な、なに言ってんだか……!! あははっ……!!」
「顔あかいぞ。熱でもあるのか? おでこではかるから、じっとしてな」
「こ、これはただのルビーの照り返しよ!! 私のおしゃれポイントの胸元のまっかなルビーの!! あ、あれ? 私の輪郭が薄くなっていく!? ……まさか私の今回の出番これだけ!? セラフィのお母さんはともかく、大悪党のデズモンドが、主役になるくらいなのに!? 納得いかない!! もっと出番をーッ!?(未練がましく叫びながら次元の彼方にフェードアウト)」
「な、なんかすみません。スカーレットさん。(母とともに物心つく前のボクも登場するというし、これはもう、実質ボクのプロローグと言えるのでは。ドキドキ……!!)」
「なんと!! 脇役キャラが主役になれるとは!! では、『悩める従者バーナードの華麗なる復讐。主人の紅の公爵に裁きの鉄槌を!!』もいつか本編に躍り出る日が……!!」
「ふむ、あのバーナードにそこまで憎まれるとは、なんとひどい人間のいることか。誰のことだか僕には見当もつかん……。ところでバーナード。我が愛する妻コーネリアへいつもの三千八百四通目の恋文を届けてくれるだろうか。紛争地帯をぬけねばならない? なに心配無用だ。おまえは今まで一度も死んだことがないではないか。すまぬが極秘任務中で手持ちがない。馬と路銀は自前で調達してくれ」
「イヒィーッ!! シギャーーッー!! キョエエエっ!! (憤怒で正気と人語を失い、狂った怪鳥の喚き声をあげながら、笑顔で呪いの奇怪なダンスをかっくんかっくんと踊り出す)」
「はっはっは、そうか、そこまで喜んでくれるか。斬新なダンスまで用意し、手紙に花を添えてくれるのだな。その忠義頼もしいぞ。僕もコーネリアに恋文を届けられる日が待ち遠しい。やはり我らは一心同体の主従だな」
「……あのさ、スカチビ。おまえの親父さん主従。いろんな意味でヤバすぎだけど、おまえんち将来だいじょうぶ? いっそ〈治外の民〉の郷に来るか? 日課の鍛錬以外のんびりしたもんだぜ。ん? 心配ないって。人間離れした新生児なら、這い這いでも垂直二メートルジャンプぐらい余裕だろ?」
以上おまけでした!!
物足りないという奇特な方は、ご感想のほうでリクエストしてみてください。
簡単なものなら、返信コメで応じますので。
では、本編のはじまりです!!
・デズモンド
のちのシャイロック商会の会頭。こわおもて。
・マリー姫
デズモンドのあるじ。ヒペリカム王国(現在王制は廃止)の盲目の姫。不思議な力をもつ。
・フィリップス
性格は天上天下唯我独尊。我が道をゆく行動力のかたまり。嵐のような男。元悪童たち集団のオランジュ団を率いる。マリー姫にひとめ惚れする。意外に人情家。
・聖女アンジェラ
聖教会の象徴。マリー姫とは意気投合する仲。人格者。困難をのりこえての王子との結婚をひかえる。風にも耐えぬ美女に見えるがじつは……。
・ロマリアの負の遺産
かつて繁栄をきわめたロマリア文明が、危険すぎるとして自ら封印した禁忌。ロマリア滅亡の引き金となったと伝えられる。封印をとく資格者の前には、海の魔女が現れ、嘲笑するという。
・海の魔女
性格破綻した美少女。残酷で淫乱。数々の不吉な未来の予言を、デズモンドに告げる。聖女アンジェラと旧知の仲のようだが……。
・ブランシュ号
ヒペリカム王家に保管されてきた世界最速の不思議な純白の帆船。
・チューベロッサ王国
海洋大国。謀略大好き国家。隣国のっとりをたくらむ。領土内に、世界最大の宗教組織、聖教会の本部を抱える。
・ヒペリカム王国の民
チューベロッサ王国の危険を訴えるマリー姫を嘲笑している。のちに地獄を見る。
【ここからは、少し時代がくだってからの登場人物です】
・エセルリード
デズモンドの三子。善人。恋人との結婚を父に認められず反発。
・マリー
エセルリードの心優しい恋人。お針子。デズモンド本人がエセルリードとの結婚に反対するのは、じつは彼女を守ろうとしてのことだったが……。
・アンブロシーヌ
デズモンドの娘。二子。最低。人間のくず。いろいろな事件の元凶。得意技は毒殺。自分のことしか考えない。
・デクスター
デズモンドの息子。一子。妹アンブロシーヌほどではないが、やっぱりろくでなし。
・イザベラ
デズモンドの貞淑な妻。夫とマリー姫が不倫の仲という嘘を、娘アンブロシーヌにふきこまれ、マリー姫にはかなわないと苦悶。マリー姫を脅してでも身をひいてもらおうと苦汁の決断をするが……。
・魔犬使い&魔犬ガルム
残忍なせむしの男と小山ほどの魔犬の殺し屋コンビ。赤子を好んで殺す悪党。こいつがたまたまイザベラと伝手ができたことで物語は最悪の方向に転がりだす。
【老いたデズモンドの独白】
昏く冷たい風が唸る。
呪われた私の屋敷を凍てつかせ、堅牢なはずの石壁や天井が悲鳴をあげる。
その風音と軋みを、ちまたでは怨霊たちの恨みの叫びだと噂する。
そうかもしれぬ。私はシャイロック商会を巨大にするため手段を問わなかった。
踏み潰され、私を憎んで死んでいった者は数知れず。
この屋敷が怨霊にとりつかれても不思議はない。
そして私は自嘲するのだ。もし怨霊たちがこの屋敷に憑りついているなら、こんな人非人の私が、老いてなお大切な人の思い出を胸に抱きしめていることを嘲笑うだろうか。それとも人らしい心があるなど許せないと、憎しみをより強くするだろうかと。
轟轟と風が吹く夜は、何故かしきりに思いだされる。
あるじのマリー姫様に仕えた懐かしい日々を。
胸を焦がすあの方の光輝く笑顔を。
それは、夜空に浮かぶ月のように美しく、そしてもう手の届かない私のせつない宝物だ。
マリー姫様は人の感情が読めた。
その本性を動物のイメージで見ることができた。
「デズモンド? 大きな犬ですね。いかめしい顔をしてるのにとても優しいの。主人が泣いていたら、自分も悲しそうにそばを離れないし、死んでもずっと忠誠を捧げてくれる。ひとめ見たとき、絶対飼わなきゃ!! ってピンときたのです」
お仕えするようになってしばらくしてそう笑顔で明かしてくれた。
飼わなきゃ……。褒め言葉なのだろうか、それは……。
道理で、「癒しのモフモフさせて」と言って抱きついてこられるわけだ。ほっぺをペロペロしてとおねだりされるのには、本当に閉口させられたが……。幼い姫様にとっては、お気に入りの犬との遊びのつもりなのだろうが、事情を知らぬ者に見られたら、変態どころの騒ぎではない。
マリー姫様は、わずかにだが未来を予知されることもあった。
ヒペリカム王国の旧王家は、かつて異能の力で国を導いたが、それを維持するため近親婚を繰り返し、弊害で精神疾患や虚弱体質が続出した。ここ100年ほどは目的の異能も失われた。そんな不安定な王族ではまともに政治などできるわけがなく、国は荒れ果てた。
だが、マリー姫様は心健やかで聡明だった。さらに歴代の一族のなかでも随一の異能をお持ちだった。盲目ではあったがその他の五感にすぐれ、日常生活にもなんの支障もなかった。
醜い内輪もめの末、ヒペリカムの王制が廃されたあとで、このような王家の待望の体現者が生まれたのは、まさに歴史の皮肉だ。そして、それこそが姫様の不幸のはじまりだった。
姫様には私達の国の終焉が見えていた。
隣国のチューベロッサによる、この国の侵略計画が開始されていた。
奴らは、軍隊での力攻めなどしなかった。
軍事力に自信がないのではない。
それ以上に謀略でのからめ手を得意とするからだ。
善意の友人の仮面をかぶり、無償で援助を申し出、油断させつつ自立心を萎えさせ、正体を巧妙に隠して、水利や港、鉱山や産業、農地をさしおさえ、とどめとして捨て値でえげつない麻薬を市井に流布した。
長き内乱が終結しての復興もままならないまま、不作による飢饉の追い討ちを受けた我が国は、驚くほど簡単に奴らの手に堕ちた。奸智にたけたチューベロッサにとっては赤子の手をひねるより簡単だったろう。聖教会という化物の本拠を領土のうちに抱え、共生してきた歴史は伊達ではない。なかば鎖国体制だった我が国は、外夷から差し伸べられる手のおそろしさに無知すぎた。
姫様はチューベロッサの高官たちの本音を読んでしまった。よほどひどい内容だったらしく、彼らに会ったあと嘔吐ししばらく寝込んだ。マリー姫様の心の目には、洗練された外見の奴らが、不気味に嘲笑するまだらの大蛇に見えた。蛇が苦手の姫様にとり最悪のイメージだった。
そして、もともと抱かれていた侵略の疑惑が、奴らの心を読んだことで確信に変わった。
チューベロッサに進んでくみする者たちに、厳しい言葉をかけられるようになった。
「チューベロッサ王国は友ではありません。敵です。彼らの欲しいのはこの国の土地と資源のみ。ときがくれば我が国の民は家畜のように使い潰されます。……何故わかってくれないのです」
のちになればなるほど、姫様のお言葉が正鵠を射ていたと判明するのだが、そのときは誰も諫言に耳をかさなかった。たわ言と嘲笑した。姫様が幼かったこともあるが、なにより彼らには目の前の甘い餌がすべてで、力をうしなった旧王家の血筋の発言力など噴飯ものでしかなかった。
根拠が心が読んだことと明かすわけにもいかなかった。姫様の秘密を知る者が私を含めごくわずかだったのにはわけがある。露呈した場合の末路を姫様が予知していたからだ。読心は、詐欺国家チューベロッサの天敵になるし、闇の秘密を抱える聖教会にとっても危険すぎる。異端尋問をふっとばし、いきなり屋敷ごと姫様を焼き殺すし、チューベロッサも、姫様と関わったすべての人を草の根かき分けても抹殺する暴挙に出るそうだ。
けっきょくマリー姫様は愚者の群れのなかにぽつんと取り残された賢者にしかなれなかった。周囲から迫りくる脅威に立ち向かおうとし、守ろうとするもの自体に理解してもらえず、ただ孤独を深めていった。
大多数の大人たちは、マリー姫様を疎み、嘲り、ひどい流言までした。姫様をこけおろすことでチューベロッサにいい顔をしたかったからだ。そして、チューベロッサも間違いなく言論操作にかかわっていた。姫様をわかりやすい悪役にしたてあげ、奴らが真の巨悪ということの隠れ蓑にしたのだ。
被害妄想にとりつかれた気狂い姫。
くさった近親婚のなれの果てのめくら。
屋敷にこもり贅沢三昧を続ける旧王家の無能なわがまま娘。
実際、マリー姫様本人と会うまで、私もそういった噂をなかば信じていた。
だから、初対面のとき、マリー姫様を罵しりさえした。
この国の貧困はもとは旧王家の失政に由来する。
孤児たちが飢えて盗みをせねば生きてさえいけないのは、この女のせいではないか。
贅沢放題な小娘がなにを他人事のように、といらついた。
実際は、姫様はがらんとした屋敷で、暖をとるのにさえ苦労する赤貧の生活をおくっていたのに。
チューベロッサ王国におもねる連中は、すずめの涙ほどの旧王家のための手当さえ、姫様に渡さなかったのだ。
思いだすと恥ずかしさのあまり、昔の自分を殺したくなる。
あのときの姫の微笑みが寛大だっただけによけいに。
ひとりぼっちで、いわれのない批判と嘲笑の雨にさらされながら、それでも憎むことなく、あざ笑う者達をけなげに救おうとした、それがマリー姫様という方のいきざまだった。
あの方は、自業自得で滅んでいくヒペリカムを最後まで見捨てなかった。
母親がどんなろくでもない我が子にでも無私無償の愛をそそぐように。
たとえその子にドン・キホーテ扱いされ小馬鹿にされても。
不思議な力のあったマリー姫様には、むくわれない結末がわかっていたはずなのに。
年齢はずっと下でも、私の主君は心から敬愛でき、誰にでも誇れる立派な方だった。
だが、運命は姫様にどこまでも冷酷だった。
けっきょくヒペリカムの民は、孤立無援で奮闘するマリー姫様を頭のおかしい人間扱いして嘲笑ったあげく、石をもて追うように国から追放した。
誰も友好的な隣国が牙をむくなど信じていなかった。
国が滅びた後で、マリー姫様の正しさにようやく気づき悔悟したが、その罪は消えはしない。
国を去るときのマリー姫様の身を切られるような泣き伏す声と涙を、私は生涯忘れない。
優しい姫様は、ご自分の境遇に泣かれたのではない。これから国民がたどる悲惨な運命と、力及ばず彼らを救えなかったことで泣かれたのだ。
天国にふさわしい誠実さを持つ人は、残酷な人の世ではいつも傷つき、血と涙を流すのだ。損得で見捨てるなどあの方の考えになかった。そして、そんなマリー姫様だからこそ、ひねくれ者の私の忠義を勝ち取ることが出来たのだ。
……そういえば、私の息子のエセルリードの選んだ恋人も、どこかマリー姫様を彷彿とさせる。お針子の娘と姫様では立場も教養もまるで違うのにだ。幾度かエセルリードと談笑する様子を隠れ見て、そのわけに気づいた。自分のために生きるのではなく、本気で誰かのしあわせのために生きられる魂がそっくりなのだ。
その光の根源は勇気でも誇りでもない。愛と優しさだ。
私は酒保商人をやってきたせいで人の目利きには自信がある。戦場ほど隠された人間の本性がむき出しになる場はなかった。負け戦は特にそうだ。高名な淑女が実の幼い子を見捨てて逃げる反面、名もなき娼婦が見ず知らずの赤子をかばって、子守歌をうたいながら笑顔で死んだ。
我が息子ながらエセルリードは女性を見る目がある。人の目利きは商人になにより大切よ。やはりシャイロックの跡継ぎはエセルリードしかおらぬ。
恋人に寄り添うエセルリードの幸せそうな顔を見ると胸が痛む。反発しあう我ら親子だが、皮肉なものだ。不思議と女性の好みは似るものか。私もマリー姫様のおそばに仕えているときが人生で一番幸せだった。彼女がマリー姫様と同じ名前と知ったときは思わず苦笑が漏れた。
親の本音としては添い遂げさせてやりたい。だが、エセルリードはシャイロック商会の跡継ぎだ。本人がいくらシャイロックから出奔する気満々でも、それを許せる人材の余裕がこちらにはない。かわいそうだが、もっと商会を大きくし巨万の富を得るためには、お針子のあの娘と結婚させるわけにはいかぬ。
それにしても、エセルリードの一途な潔癖ぶりには困ったものだ。せめて正妻ではなく妾として迎えてくれるなら、私も諸手を挙げて賛成できたのだ。酷な考えなのは承知しているが、それしかあの娘と別れず、かつ安全も保障できる道はなかったものを……。
もし後ろ盾のないお針子の娘が、権力あるシャイロックの正妻になどなってみろ。
アンブロシーヌめに三日ともたず毒殺される。
あれは外道のクズだ。小者のくせに、いや、小者ゆえに危険な毒蛇だ。自分の利益をおかす可能性があるものを片端から殺そうとする。自分の世界がすべてで他人を受け入れる心の余裕などないからだ。幼稚で加減を知らぬ。あのときも、あいつは……。
私は深いため息を何度かつき、肺腑をえぐる憎悪の沸き立ちを、歯軋りして鎮めた。
かつてあいつのせいで、私は誰よりも守りたかった女性ふたりと親友を失った。
私の命より大切だった宝物を、私の血をひく者が壊した。
その喪失感と絶望は今も……。いや、時を経たからこそ、よりいっそうの無念と悲痛の熾火になり、私の心を苦悶であぶり続けている。
愚かな娘は露見していまいとたかを括っているが、私はあいつが事件の黒幕だと知っている。
私がアンブロシーヌを八つ裂きにしないのは、あいつが私の血をひくからではない。妻イザベラの血をひくからだ。優しいイザベラが最後までヤツをかばって汚名を背負ったからだ。だが、鬼子のあいつにはそんな母の命がけの愛さえ伝わらない。これで悪行がばれずに済むと、つい笑顔を漏らし、それをあわてて隠しおった。許せぬ。母の死に、あのデクスターでさえ泣き崩れていたというのに。
エセルリードは優秀だがお人好しすぎる。あの畜生より信用できぬ姉の人間性を信じているらしい。
まったく親の心子知らずだな。エセルリードと口論して絶縁状態になる前に、恋人の娘を交えて、腹をわった話し合いの場を持つべきだったか。まあ、あの惚れこみようでは息子は聞く耳などもまい。
しかたないので窮余の策で、私は汚れ役を引き受けることにした。
まずアンブロシーヌやデクスターをとおし、娘に別れを告げさせれば、あの疑心暗鬼のふたりも安心し、娘に無体はすまい。自分以外を信じられない奴らへの保険だ。私が直接おもむいては不安になり、かえってあとで娘に何をしでかすか読めなくなるからな。
娘への手切れ金として、王都に立派な店をかまえられるだけの額は用意したが、強欲なアンブロシーヌたちはどうせ大部分をかすめ取るはずだ。必ず仲介料という範疇をこえてくる。それを叱責し、そこをきっかけに私が介入しよう。少し迂遠な手だてだが、会頭の私の命に逆らい恥をかかせたと激怒してみせれば、アンブロシーヌたちも私の目の黒いうちは娘にちょっかいを出せなくなろう。
奴らが奪った金など全額くれてやる。頭に金しかない愚か者達だ。これ以上私の機嫌を損なうリスクより、そちらで満足するだろう。賠償金などあらたに用意すればよい。あの優しい娘の安全を買うと思えば安いものだ。
……エセルリードの恋人は、結婚を認められずつい私の悪口をいうエセルリードを、珍しく憤慨してたしなめてくれたという。
「いけませんよう。私の大好きなエセルリード様を育てたお父様です。素晴らしい方に間違いありません。仲を認めてくれないのも、きっと何か深いお考えがあってのこと。悪口を聞くと私の胸は悲しみでいっぱいになります」
そう涙を浮かべて訴えてくれてらしい。密偵からの報告を聞き、私は不覚にも目頭が熱くなった。思わぬところに理解者がいた。私を恨んでも不思議はないというのになんという気高さと優しさよ。アンブロシーヌめに爪の垢を煎じて飲ましてやりたいわ。
よい女性を見つけたなあ、エセルリード。私もああいう娘をこそ義娘と呼びたかった。立派な花嫁衣裳を着させてやりたかった。心にふさわしい純白の生地が似合うだろう。そこに金糸と銀糸の刺繍を満天の星ほどあしらい、一世一代の晴れ舞台を踏ませてみたかった。慎ましやかなあの娘は豪華なウェディングドレスをまとったとき、どんなはにかみを見せてくれることか。きっとほほえましく生涯忘れられぬ素晴らしい光景に違いない。エセルリード、おまえはきっと感動してみっともなく泣きっぱなしになるだろうな。
アンブロシーヌやデクスターは価値のない田舎娘と蔑むがとんでもないことだ。だから、あいつらには見る目がないというのだ。少し磨くだけで光りだす素材だぞ。なにより心根のすばらしさがどんな宝石にもまさるではないか。問題なのは、お義父様と呼ばれたとき、私がしかつめらしい顔をたもつ自信がないことぐらいだ。
いかんな、ろくでなしの馬鹿どもの相手で疲れた私の心身に、あの娘の優しさはしみわたりすぎたようだ。
私は頭をふって、決してかなわぬ幸福な夢を追い払った。
だが、だからこそエセルリードと別れさせても、あの娘だけは死なせたくないのだ。
少なくともエセルリードが、シャイロック商会をしょって立ち、兄姉など歯牙にもかけず、娘を確実に守れるようになるその日まではな。
エセルリードはさぞ私を恨むだろうな。しかたあるまい。わかってもらえなくてもよい。それでも私は私の味わった喪失の苦悶をエセルリードにだけは味わってほしくないのだ。失った人が大切であるほど、胸にあいた穴は、年を経ても癒されず、たえがたい寂しさを日々つのらせる。泣こうが叫ぼうが死んだひとを呼び戻す術などありはしないのだ。
私が身をもって体験している。
いい年をして、マリー姫様の笑顔を思いだすだけで胸がしめつけられる。
そしてあらためて誓うのだ。
マリー姫様から託された願いを必ずかなえることを。
あの方が裏切られても愛し抜いたヒペリカムの民の未来を。
国民がした仕打ちを考えれば落胆し憎みきってもよいだろうに、マリー姫様の笑顔には、ただ私への信頼のあかしの色だけがあった。
あのとき私は心から震えた。
姫様の隠された真意を理解した。
私達は不幸にして結ばれることはなかった。姫様の望んだ子供を得ることはできなかった。
だからこそ、マリー姫様はご自分の子に等しい大切なものを、私を信用してあずけてくださったのだ。
その感動の前に、ヒペリカムの民への憤懣も一瞬でふきとんだ。
私は姫様を娶ることはできなかった。
だが、きっとマリー姫様の悲願をかなえるため生まれてきたのだ……!!
ふふ、いかんな。
これでは親友の……フィリップスの馬鹿の口癖にそっくりではないか。
あいつは、マリー姫様に出会うため自分は生まれてきた、というのが口癖だった。
だが、私とてマリー姫様への想いで、ヤツに遅れを取るわけにはいかぬ。
この世で一番敬愛する女性の悲願を託された。
男としてこれ以上の果報があろうか。
……姫様の信頼に応えたかった。
なにより私を選んだあの方の目が間違ってはいなかったと世界中に証明したかった。
そして、ヒペリカムの民を解放したあかつきには高らかに宣言するのだ。
「おぼえているか。おまえたちがさんざん馬鹿にし追放したマリー姫様のことを。あの方の愛がおまえたちを地獄から救った。生きている限り忘れるな」と。
夢をかなえようと、私は無我夢中で働き、がむしゃらにシャイロック商会を大きくした。
すべては、チューベロッサの罠にはまり、奴隷におとされた同胞たちの自由を買い戻すため。
生まれたときから虜囚の境遇しか知らぬ罪なき子供たちの笑顔を取り戻すために。
いつかマリー姫様の心からの笑顔を目にするために。
悪名などおそれなかった。
病弱で盲目の女の身ひとつで孤軍奮闘したマリー姫様を思えば、そんなもの何ほどのことか。私には風邪一つひかぬ頑丈な男の体と、荒れる海の先をも見通せるぎょろりとした目があるのだ。
念願がかない、やがて、シャイロック商会は世界的な大商会に成長した。
だが、私は気づいていなかった。
そのことこそが、やがてマリー姫様の命を奪う結果になることに。
私は、この世で誰より尊敬する人間を、みずからの手で殺めたに等しい。
息子のエセルリードがシャイロックの呪われた血と自嘲するのは正しい。
私は誰より自分が許せない。この体に流れる血をこの世で一番呪っているのはこの私だ。
きっと、いつか私が死に地獄の業火で苛まれるその日まで、この心の血涙は枯れることはないのだろう。
そして、何万遍も後悔する。
マリー姫様のたぶん生涯一度きりの心が折れた瞬間。
「お願い……!! 私を主君でなく、ただのマリーとして抱きしめて!! あなたの妻としてだけ生きろって、私にキスして……!! それがかなわないなら、せめて、その手で私を殺して……!!」
あの立派な方が、私の胸を叩き、幼子のように泣き叫んだ。
あの懇願に、なぜ自分は応じなかったのか。
私はあの方を主君としてだけではなく、女性として愛していた。
若き日の私にとってあの方の笑顔がすべてだった。
なにより自惚れでなく、私達は想いあっていた。
だが、差し出されたせつなく震える指先を、私は取らなかった。取れなかった。
私がおのれの心に正直に、マリー姫様と駆け落ちさえしていれば、あの方は非業の死を遂げずにすんだのに……!! どんなに不安だったろうと思うと、私は自分の身を切り裂きたくなる。思えば、あの方はご自分のおそろしい死の未来を予知されていた……!!
きっと地獄に堕ちても私は後悔し続けるだろう。
何百万編も。
何千万遍も。
たぶんおのれの魂が、地獄の責め苦ですれきれて消え失せるその日まで、私に安寧の時は訪れない。
轟轟と風が鳴る。
私を恨み地獄にひきずりおとしたい怨霊たちの叫びが大きくなる。
私は心のうちで彼らに語りかける。
安心するがいい。
私はすでに刑を執行されている。
我が身はすでに地獄以上の苦悶のなかにあるのだから。
だから、もう少しだけ待ってくれ。
マリー姫様の悲願をかなえる道筋を私がつけるその日まで。
それが私の罪をわずかにでもあがなう唯一の道だ。
あなたたちの尊い犠牲を無駄にしないためにも。
◇◇◇◇◇◇
【若き日のデズモンドの語り】
マリー姫様にお仕えしてまたたくまに六年以上が過ぎた。
私は長年喧嘩していた親父と和解した。
融通のきかぬ石頭の守銭奴と反発していたが、私がマリー姫に仕えると言い出したとき、
「世が世なら名君とたたえられた方だ。孤独で悲しい方だ。支えてやれ」
とぽつりとつぶやいた。
これは私にとって予想外すぎた。
没落王家に仕えても金儲けにならぬ、労力の無駄だと罵られると思っていた。
どころか、親チューベロッサ一色のこの国で、姫様をそこまで評価する権力者ははじめてだった。
はじめて夜を徹して語り合い、私は親父という人物を誤解していたと知った。
親父は必要悪を演じていただけで、善人の苦境には胸を痛め、幼子の死にはひそかに涙を流す、まっとうな心の持ち主だった。
マリー姫様の警告に耳を貸す者はあいかわらずほぼ皆無だったが、聖教会の聖女が親身になってくれたのは予想外だった。ひょんなことで知り合った聖女だったが、瞬く間にマリー姫様と意気投合し、別れのときには互いに涙を流して抱き合っていた。
うーむ。聖教会の広告塔など、私にはどうも信が置けぬのだが。
「聖女様は、アンジェラ様は、あなたの思っているような方ではありませんよ。あんなに気の遠くなるほど悲しく孤独な戦いを続けた方はいません……!! その気になれば、私に心なんか読ませないのに、包み隠さず秘密をすべてを見せてくれました。私に勇気を与えるために……」
再会を約し去っていった聖女のぬくもりを惜しむように、マリー姫様は自らの体を抱きしめてずっと泣いていた。
まあ、マリー姫様がおっしゃるなら心配はいらぬか。
「それに私に、『がんばって、応援してる』って……」
ヒペリカムを救うことへの激励なのだろうが、なぜマリー姫様は耳をまっかにされているのだろう? それにしても、泣かれていてさえマリー姫様はお綺麗だ……。
私は称賛と寂しさの入り混じった気持ちで、マリー姫様の横顔を見つめた。幼いときに膝にのって甘えられたことがはるか大昔のようだ。歳月はマリー姫様を美しく成長させた。もう気軽に接することはできない。いまだ蕾でも大輪の花を咲かせるのは誰の目にも明らかだった。そのため、理解者は増えずとも、姫様の目が見えないことに安心し、遠慮ない好色な視線で姫の全身を舐めまわす輩ばかりが増えていった。
いい年をして自分のことをボクちんと自称するチューベロッサのぼんくら貴族など、理由をつけては執拗にマリー姫様の体に触ろうとした。私は何度ぶちのめしたい衝動に震えたことか。こいつらは知らぬが、マリー姫様は、ご自分に向けられるドブにも劣る欲望を読めるのだ。
だが、その日、突然約束もなく訪ねて来た男ほど、私を不快にさせたヤツはいなかった。
「おいおい。この国は男も女もしけた面してるが、元王家の屋敷までそうか。金目のものが何ひとつねえぜ」
おどおどする年老いた門番を、押しの強さでおしのけ、勝手に屋敷にのりこんできたヤツは、無遠慮に調度品を値踏みした。目の鋭さがまず目についた。剣呑な気配に肌がひりついた。スズメバチの危険性が羽音だけでわかるようにだ。癖のある顔立ちだが、野生に惹かれる女には好まれるだろう。乱世の梟雄という言葉がなぜか思い浮かんだ。
「ボ、ボクちんがせっかく一日六食を五食に減らし、時間をつくってまで、マリー姫ちんに会いに来てやったんだぞ!! なんだ!? おまえは!! 平民のくせに!!」
あのぼんくら貴族も先客で来ていたのか。見たくないようにしていたので気づかなかった。
勝手に姫様を妙なチン仲間にするな。ぶち殺すぞ。
だが、闖入者の男の反応は、私よりはるかに痛烈だった。
「はっ!! 躾のなってない豚がうろちょろしてやがる。ここは屋敷じゃなく豚小屋だったか?」
「なっ……!! なっ……!! ゆ、許さん!!」
いつもからその陰口を言われているのだろう。ぼんくら貴族はあっという間に茹蛸のようにまっかになると、サーベルを抜刀して闖入者を突き殺そうとした。肥満体のわりには驚くべきスピードだったが、相手が悪すぎた。あっさりかわされ顔面に蹴りをいれられた。手加減……いや、足加減はされたのだろうが、ぼんくらは「ぷぎーっ!!」とさつ場の豚のような悲鳴をあげ、ゴム毬のように床を転がっていった。歯が折れたかもしれない。
「よかったなあ。その口ではしばらく痛すぎて、一日五食どころか、三食もままならんだろう。喰いもんのありがたみが多少は身にしみるだろうよ。てめぇらのくだらねえ謀略のせいで、この国に飢えた孤児たちがどれだけあふれつつあるか、知っているか。ぶくぶく醜く太りやがって……。殺して食肉にしてやろうか?」
ぼんくら貴族が抗議と痛みを忘れるほど凄まじい笑顔だった。透明で高温の怒りの炎が見えた気がした。こいつはチューベロッサの企みを見抜いている。相手の素性をわかっていて凶行に及んだのだ。
「ひっ……!!」
本当に殺されると思ったのだろう。ぼんくら貴族は這う這うの体で逃げ帰っていった。
フォローも忘れて立ち尽くす私を見た途端、闖入者は手をうって破顔した。
「おおっ!! 見つけた、見つけた!! あんたがデズモンドか。噂は聞いてるぜ。反発して実家のシャイロック商会をとびだし、七つの海を命がけの船乗りとして渡り歩いた不孝者。あげく孤児たちの盗みの罪をかぶって投獄されたんだってな」
うってかわって子そ供のようなあけっぴろげな笑顔になり、ばんばんと私の肩を叩く。骨の芯に響く。驚くほどの馬鹿力だ。やはりぼんくら貴族には加減していたらしい。本気で蹴ったら前歯が残らず折れたろう。
「おいおい、そう睨むなよ。俺はあんたのような気骨のある馬鹿が大好きでな!!」
悪いが睨んでいるわけではない。怖い顔なのは元々だ。
だが、次のヤツの言葉で、私は本当に怒りに震えることになった。
「あんたに落ちぶれ姫の従者なんてもったいない。とっとと見限って、俺の仲間になれよ」
なんとこいつの目的は姫様ではなく私だったのだ。
いきなり乗りこんできてふざけた勧誘とはいい度胸だ。先ほどのチューベロッサの貴族への啖呵は気にいった。だが、マリー姫様を落ちぶれ姫とぬかして五体満足で帰れると思うなよ。
殺気をはなって迫る私に、そいつはニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。ばりばりと髪をかきむしる。
「へえ、俺のことが気に入らねぇって感じだな。いいぜ、拳で白黒つけるってのは男らしくて俺好みだ。こう見えても、ちまちました言葉の勧誘は苦手でな。血の気の多いうちのガキどもは大抵拳骨のほうで引き入れたもんさ」
こう見えても何も、絵で描いたような喧嘩バカではないか。
こいつは鏡を見たことがないのか?
まあ、いい。拳に自信があるのはそちらだけではない。ハイドランジアの王家親衛隊に勧誘されたことだってあるのだぞ。
「……デズモンド、なにを騒いでいるのです。お客様ですか?」
そいつが拳を握りしめ、喧嘩慣れした構えをしてリズムを取り出したとき、奥からひょっこりマリー姫様が顔をのぞかせた。
「せっかく男同士盛りあがってきたとこなんだ。女の出るは幕はねぇ。壊したもんはあとで弁償するから、怪我したくなきゃすっこんでな」
戦闘態勢にはいったそいつは振り向いて、鬱陶しそうにマリー姫様を一瞥した。
途端、ヤツは稲妻にうたれたように硬直した。
口を何度かぱくぱくしたあと、感電からさめたヤツは、私が制止する間もない素早さで、マリー姫様のもとに駆け寄り、跪いて恭しくその手をとった。
「……惚れた!! 俺はフィリップス。あんたの良人になる男だ」
突然なにを言っているんだ、このあほうは!?
豹変ぶりに私は度肝をぬかれたが、いきなり求婚されたマリー姫様の驚きはそれ以上だった。
めったに開かれぬ瞼を大きく見開かれていた。
マリー姫様の美しいエメラルドの瞳をまともに見て、フィリップスと名乗った男は、感動に身震いした。
「ははっ!! すげえ!! 女に見つめられながら死んでもいいと思ったのははじめてだ。泥をすすってでも生き抜くってのが俺の座右の銘なんだがな!! ……断言できる。俺はあんたに会うために生まれて来た。もうあんたしか女は目に入らねぇ。だから、あんたがほしい。あんたの残りの人生を俺にくれ」
それからフィリップスは悪びれもせず、マリー姫様を熱心にかき口説きだした。
「あんたに俺の命も魂も捧げる。なあ、どうすれば、俺に嫁いでくれる? あんたが俺に望むのは身分か? 名誉か? 金か? どんな困難だって、全身全霊で成し遂げてみせる」
言っていることは無茶苦茶だが、フィリップスの眼差しはおそろしいほど真剣だった。
両手でマリー姫様の手を抱えこみ、立ちあがって詰め寄る。
あまりの気迫にマリー姫様も苦笑した。
「……私は海洋国家ヒペリカムの王家の末裔です。たとえ今は身分を失っても、その誇りだけは永遠に私のもの。海の男以外に嫁ぐ気はありません。あなたからは潮の香がしません。縁がなかったと諦めてください」
フィリップスは硬直した。
やんわりと、しかし、ばっさりはねのけたマリー姫様に快哉を叫びたかった。
「……ということだ。部外者は御退場願おう」
私がマリー姫様からひきはがすときも、フィリップスはなされるがままだった。
さすがに諦めたか? 私は少し気の毒になった。
いや、ちがった。私はフィリップスの不撓不屈を甘く見ていた。
「……よし、海の男になる算段はついた」
フィリップスの肩に手をかけた私は、その呟きにぞっとなった。
目が極度の集中ですわっていた。こいつは諦めるどころか、身じろぎするのさえ忘れ、頭のなかで計画を練るのに没頭していたのだ。
「デズモンド、今日からあんたは俺の友候補だけじゃなく、恋のライバルでもあるってわけだ。相手にとって不足なし。正々堂々やろうぜ。ただし決着は拳でなく船の腕でだ。覚悟しとけよ」
恋? なにを言ってるのだ、この男は?
わけのわからない勝手な宣戦布告と、不敵な笑みを残すと、フィリップスは颯爽と身をひるがえし、足早な大股歩きで屋敷の外に飛び出していった。
「おい、おまえら!! 俺はついに運命の女神を見つけた!! 手に入れるため、海の男になるぞ!! 全員つきあえ!!」
外で待っていた配下に呼びかけるでかい声が、屋敷のなかにまで響き渡った。
「よし、おまえは航海長をやれ。そういう顔っぽいからな。それから、おまえは……」
「い、いきなりムチャが過ぎますぜ!! 大将!!」
「俺ら川船さえあやつれないのに……」
「結論だけじゃなく、せめて、なんでそうなったかを……」
段取りを無視した任命に、驚きと抗議の悲鳴が次々にあがるが、フィリップスは一喝した。
「ぐたぐだうるせええ!! 男として生まれたからには、惚れた女は嫁にする!! 気に入った男は友にする!! その一本でいいんだよ!! 文句垂れてる間があったら行動だ!! オランジュ団は今日から船乗り集団になる!!」
手下たちは萎縮するどころか嘆息した。
「やれやれ、やっと大将に春がきたと思ったら、春の嵐のほうだったか……」
「バカと恋をかけ合わせると、こんなクリーチャーが誕生するんですなあ」
「こんなのに惚れられた女性も気の毒に。心から同情するよ……」
「バカだあ!? クリーチャーだあ? こんなのだあ!? てめぇら、俺をコケ降ろすなら、せめて本人に隠れてやれ。……くそ度胸に免じて鉄拳制裁をくれてやる!!」
「みんな逃げろ!! 大将のバカがうつる!!」
ぎゃあぎゃあ楽しそうに騒ぎながら、嵐が通り過ぎるように奴らは去っていった。
「……あれがフィリップスか。噂と違いとんでもない馬鹿でしたな。姫様に近づけたは私の不覚です。不快な思いをさせましたお詫びを」
オランジュ団のフィリップスの名を聞いたことはあった。
元悪童たちを率い、商品の代理輸送をおこなう。
この乱世では山賊海賊があたりまえのように出現するため、荒事師に片足突っこんでいるようなあいつらの需要はそれなりにあると聞く。それに連中は意外に義理がたく、仕事も丁寧で良心的な額しか取らず、自前の確実な輸送手段に欠ける中堅以下の商人たちには、救い主のように感謝さえされているという。
頭をさげる私にマリー姫様はくすくす笑った。
「お詫び? 不快どころかとても楽しい時間でしたよ。それに噂以上の方でした。ああいう方を快男児というのでしょう。きっとあなたの終生の盟友になるわ。寂しからずとも、すぐにまた再会できますよ」
マリー姫様の予言めいたお言葉に、私は苦虫を噛み潰した顔になった。
快男児? 不快極まりない狂犬の間違いだ。それに……。
「盟友……。いくら姫様でも悪ふざけがすぎるかと」
冗談ではない。あんな馬鹿はもう二度と見たくない。
マリー姫様を女神扱いした以外はすべて気に食わん。
舐めおって。素人がいきなり船乗りになれるものか。地獄を見てもなお覚悟が足りぬ。嫌気がさした子分たちにも見捨てられよう。無謀な練習をし海の藻屑になるがいい。
憮然としている私に姫様は楽しそうだった。
「……あら、私は本気ですよ。フィリップス様がどれだけの器であるかは、次にもう一度出会ったとき、あの方自身が身をもって証明してくれるでしょう」
「姫様お聞きかせいただいてよろしいですか。あの男はなんの動物と見ました?」
不安になった私は質問せずにはいられなかった。
これでヤツのだいたいの器がはかれる。
まさか獅子か。あるいは虎か。
だが、姫様からかえってきたお答えは私の想像をはるかにこえた。
「フィリップス様は天馬です。地の常識にとらわれず、天を翔けるのです。はじめて見ました。結果いかんによっては、あの方たちにもあの船を託します」
祈るように手を組み合わせて静かに宣言され、私は仰天した。
天馬だと……!?
それにあの船を託す……!?
それは姫様に遺された唯一の財産といえるもの。
旧ヒペリカム王家に代々伝えられてきた、千里の海原を駆ける純白の帆船。
「彼女」はわずかな者達しか知らない天然のドッグに係留され、朽ちもせずに眠り続けている。
「姫様……!! まさかブランシュ号を……!?」
よりにもよってあんな男に!?
深甚な衝撃で唸る私に、姫様はかろやかに微笑した。
「ええ、デズモンドもあの船に選ばれた者だけど、さすがにひとりでは動かせないでしょう。お友達ができてよかったですね。それに眠れる姫をおこすのは王子様の一方的なキス。ときにはあれぐらい強引な方のほうが女も惹かれます」
「マリー姫様……まさか……」
膨れあがったいろいろな激情で胸がつまり、私は絶句した。
ショックだった。
そこまで姫様が好意的な評価をくだした男は、私の知る限りいないかった。
姫様との思い出が頭の中をぐるぐるまわり、私はよろめいた。
今まで姫様とのこのおだやかな生活がずっと続くと思っていた。
姫様は美貌に目がくらむだけの男どもの内面を見抜く。嫁ぐ気などない。
だから、私がずっと清いマリー姫様をお守りしていくものだと勝手に思いこんでいた。
鳥はいつか巣から羽ばたいていくということを忘れて。
だが、よりにもよってあんな男に……!?
おそろしい予感に私はおののいた。
笑って許せるか? 姫様を送り出せるか? 無理だ。ヤツはみずから火中の栗を拾いにいくタイプだ。スリルが生き甲斐と貌に書いてある。万が一あんな馬鹿の妻になれば、身体の弱い姫様は心労と過労で倒れてしまう。
姫様の幸せを壊すものなど断じて許容できぬ……!!
覇気にみちたフィリップスが、私の雄としての闘争本能に火をつけた。
もたげた感情が龍のように暴れた。
私以上に大切にしてくれる男でなくば、姫様は渡せぬ。
そんな男などいるものか。
奪われたくない……!!
フィリップスだけにではない。この世のどの男にも……!!
……私はなにを……!! 今なにを思った!! ……まさか!!
私は凍りついた。
認めたくはなかった。だが、この苦悶にはおぼえがあった。
嫉妬だ。独占欲だ。かつて意中だった女性が他の男と抱き合っているのを目撃したとき、感じたた懊悩と同じものだ。さらに恥ずべきことに、この胸を焦がす灼熱は、あのときとは比較にならぬ強さだった。
私と姫様は主従。しかもこれほどの年齢差があるというのに……!!
なのに、恋い焦がれるとしか表現しようがないこの想い……!!
私はいつのまにかマリー姫様を……!?
フィリップスという脅威が、庇護者の私の仮面を吹き飛ばした。
むきだしになったおどろおどろしい本音と直面し、私は自分を殺したくなった。
「ち、違いますよ!! 誤解です。フィリップス様に惹かれる女というのは、私ではなくブランシュ号のことです。あの船も女の子ですから」
私の心を読んでか、マリー姫様は慌て気味で補足説明した。
私はかっとなってあわてて片膝をついた。
なんという勘違いを……!!
羞恥で俯いた顔をあげられない。
気まずい沈黙がおちた。私達主従には滅多にないことだ。
「勘違い、ご無礼を……!!」
ようやくその言葉だけをしぼりだし、私は苦悶に汗びっしょりになった。
姫様に私のきたない心を読まれてしまった……!!
おのれ、フィリップス。
これもすべてヤツのせいだ。
私はフィリップスを呪いながら汗ばんだ手を握りしめた。
そうすることで気力を奮い立たせねば、心がへし折れ倒れてしまいそうだった。
こんな私には従者としての資格などとっくに……!!
「……デズモンド、しばらく顔を伏せていなさい」
しばらくしてぴしゃりと命じた姫様の言葉は鋭く冷たかった。
飲み込んだ生唾の固さで喉が痛くなった。
時間がこれほど長く感じられたことはなかった。
「デズモンド、答えて。あなたは私を女性として好きなのですか」
姫様に硬い声で問われ、私の心臓は飛びあがりそうになった。
嘘をいっても姫様は心を読む。
これ以上の恥の上塗りだけは……!!
「はい……!! おそらく……!! 恥ずかしながら……!!」
やっとの思いでそれだけを喉の奥からしぼりだした。
痛恨の思いで卒倒しそうだ。
私を従者として選んでくれた姫様の期待を裏切ってしまった。
今どんな表情をされているか見るのがおそろしい。
顔をあげ、そこに軽蔑と拒絶のまなざしを見たとき、私の心は耐えられるだろうか……!!
「……私はあなたを従者などと思っておりません」
やはりか……!!
絶望にうち震える私の耳を、衣擦れの音がうった。
姫様は私に近づくと、すっ、すっと私の身体を指さした。
「これは6年前の矢傷、これは5年前の刀傷……」
服の上からではあるが、私の古傷を的確に示していく。
なんと憶えておいでだったか……!!
チューベロッサやこの国にも強硬派は存在し、将来の争いの火種の可能性のあるマリー姫様を、何度も闇討ちで葬ろうとはかった。すべて返り討ちにしたが私も無傷ではいられなかった。姫様はすべての傷の由来を言い終わると、そっと指先で私の頬を撫でた。
「……すべて私を守ってくれての傷。こんなにもたくさん。生死の境をさ迷ったことも何度もありましたね。……あなたに傷が増えるたび、私の心も傷だらけになっていきました」
「申し訳……」
不甲斐なさを叱責されるのかと思った。
浮ついているから傷を負うのだと。
「黙って聞いて!! それ以上に!! 私の心のなかに、あなたの居場所が増えていったのです」
謝ろうとした私の声に姫様はかぶせ、怒ったように叫んだ。
はっとなって思わず顔をあげた私の目に、お顔をまっかにした姫様が、鮮やかに飛びこんできた。
「み、見ないで!! だから、顔を伏せてって言ったのに……!!」
両手で顔をおおってうろたえる姫様の愛らしさに、私の胸はしめつけられ、期待と不安のごちゃまぜで全身が身動きひとつ取れなくなった。もし私のひとりよがりの勘違いだとしたら、恥の上塗りどころではない。だが、もし……!!
堂々巡りの逡巡にとらわれ、うつむいて冷や汗まみれで硬直するしかできぬ私の頬を、姫様の髪先といい匂いがくすぐった。
そして、もっと優しく柔らかいものが軽く押し当てられた。
「……まさか女の子扱いされるまで、7年もかかるなんて。答えを聞いたときは、嬉しくて気絶するかと思いました」
かがんだ姫様が頬にキスをされたのだとわかり、私の全身は歓喜の灼熱に燃えあがった。
勘違いではなかったのだ……!! 先ほどの姫様の冷たく硬い声は、緊張してのものだった……!!
「……下心なしで何年も体をはって私を守ってくれた不器用な男性……。悲しいときも、つらいときも、いつも黙ってそばで見守ってくれた優しい人。そんな男の人、好きにならないわけがないでしょう」
それからふくれっ面になった姫様は、私の服を何度もつまんで引っ張り、恨みがましくひと睨みした。
「なのに、私の気持ちに気づきもしないなんて……。でも、望みが捨てられなくて……。毎日、私をちゃんと見てって願いながら、些細な態度の違いで死ぬほど一喜一憂しました。つらくてとても長い片思いでした……」
ほっておかれた仔犬がすねるような可愛らしい仕草に、私の胸はしめつけられた。
それから姫様はふっきれたようにくすくす笑いだした。
「まさか心が読める私に、本当の気持ちを気づかせなかったなんて、デズモンドの堅物ぶりには驚きです!! 私の胸を、ずっと不安な片思いでいっぱいにしたお返しです。これからは、私のことで、あなたの胸をいっぱいに埋め尽くしてみせます。今のキスは宣戦布告代わりです。これからは女の武器だって……覚悟してください」
そしてマリー姫様は似合わないしなをつくってみせた。
すごいドヤ顔でこっちをチラ見してくる。
だが、女の色気は感じない。微塵も。
お顔が赤い。恥ずかしいならやらなければいいのに。
めげずに今度は下手くそなウインクをした。
努力されているが両瞼を同時に閉じてしまっていた。
残念ながらマリー姫様は色気とは無縁のようだ。
だが、可愛い。
ひたすらに可愛い。
狂おしいほど可愛い。
今すぐポケットにつめて持って帰りたいほどだ。
懸命な恋愛初心者っぷりが、私だけのために見せてくれる仕草が、天にのぼるほど嬉しい。
「ほ、褒めるかけなすか、どっちかにしてください!!」
私の心を読んだマリー姫様は、羞恥の悲鳴をあげ、胸板をどんと押しのけると逃走をはかった。だが、途中で足を止め、柱のかげから、ひょいと顔だけをのぞかせた。はにかんだ笑顔を見せる。
「……デズモンド、あなたは悪い大人です。だって、子供の私の心を疵だらけにしたうえ、片思いではらはらさせて、こちらからキスまでさせたのですから。私、悪い子になってしまいました。罰として、これからはいつも私と一緒にいてください。もう食事は別とか私の部屋には一歩も踏みこまないとか許しませんから。誓えますか」
「ち、誓います」
引け目のある私はそう約束せざるをえず、姫様は満足そうにうなずいた。
正直、冷静になると、私の姫様への思いは、単純な男女の恋というより、可愛い自慢の妹に対するような部分がおおいにあった。けれど、上機嫌の姫様にそれを言うのは野暮というものだろう。いつかマリー姫様の本当の結婚相手が現れるその日まで、私は姫様を清いまま守り続け……。
「……もちろんこれからは寝る時も、デズモンドと私は一緒です。早く子種をくださいね?」
だが、次の姫様の衝撃的な言葉が、私のもくろみを一瞬で吹き飛ばした。
「は……?」
私は痴呆のようにぽかんとし、それからかっと体の芯が灼熱化し、すぐにまっさおになった。
「マリー姫様!! それだけはご勘弁を……!!」
姫様はまだ14歳ではないか……!!
いくら恋仲になっても、それはあくまでマリー姫様を幸せにできる相手が現れるまでの繋ぎ。肉体関係をもつなど論外だ。
「年齢的に問題ありと思うなら、あなたが私に手を出さねばいいだけのこと。もちろん手を出しても大歓迎です。選択権はあなたに委ねます。私はあなたと一緒のベッドなら大満足なのです」
「そ、それは……!!」
うろたえる私を見て、マリー姫様は嬉しそうにころころ笑った。
やられた……!!
姫様に完全に主導権を握られてしまった。
「はじめて出会ったとき言ったでしょう? 私は我儘で強欲な姫だって。デズモンド、あなただけでなく、あなたの赤ちゃんもほしいのです」
そして夢見る少女の表情で、
「王家の血筋は孕みづらいのです。だから、先細りで私しか残りませんでした。ベッドでなくても、ふたりきりならどこでもかまいませんから、なるべくたくさん子種をくださいね。善は急げです。今夜から私とあなたの戦いですよ」
と甘くささやかれ、私は震えあがった。
善どころか筋金入りのロリコン悪党の烙印を押されてしまう。
あきれた親父からも勘当されるだろう。
そして、恥ずべきことに、まるで勝てる気がしない。
姫様に女性の色気がないと侮ったことは大間違いだった。
男女のかけひきなどふっとばし、いきなり懐に踏みこまれ刃を心臓の根本まで突き刺されてしまった。
さっきの不器用さももしかして油断を誘う演技か……!?
恋の戦争はとっくにはじまっていたのだ。
……その日、私は最愛の女性と、のちの親友に、同時に宣戦布告を受けた。
それから毎夜、私はマリー姫様に寝床で、
「知っているでしょう。私は心を読めます。あなたの快楽も、私の快楽として共鳴するのです。だから、私がはじめてでも心配しないで。ただ獣のように性欲のおもむくまま、私を愛してくれればいいのです」
と催眠術のように耳元でふきこまれる羽目になった。
獣……。性欲……。
か、可憐なマリー姫様のイメージが……。
私の女難は続いた。
盲目でわかりづらいからと入浴を手伝わされることもあった。
今まで問題なくご自分でなさっていたのに。
「目をそらさないで、よく洗えたか確かめてくださいね。今夜こそ、あなたに愛してもらえるかもしれないのですから。ここはどうです? 綺麗になっていますか?」
というとんでもない台詞つきで。
「子供はすぐに大きくなるもの。さあ、私の成長ぶりを確かめてください」
と後ろからいきなり抱きつかれ、胸を押し当てられることもあった。
「ふふ、今、膨らみにどきりとしましたね? 嬉しいです。私の全身をすみずみまで確かめて、他の感想もぜひ教えてくださいね。参考にして、あなた好みの女になりたいのです。今夜もベッドでお待ちしています」
姫様の過激な積極性に、私はみっともなく心を翻弄された。
もちろんふつうの14歳の少女相手なら、どんな美少女だろうと、いかな誘惑にも、私が揺らぐことなどありえない。
だが、心が読めるマリー姫様は心理戦において最強だった。
こちらが立派な大人取り繕おうとしても、本音をすべて看破される。
わずかな動揺や隙も見逃さない。
「デズモンド。私、あなたにはじめて出会ったとき、気に入って絶対飼おうと決意した、って昔に教えましたよね。でも、逆にベッドのなかでは、私をあなたのペットにしてよいのですよ。あなた好みに躾てくださいね。御主人さま」
そして、私の膝のうえに猫のように座りこみ、髪をかきあげ綺麗なうじを見せたマリー姫様は、身体をねじってにっこり笑った。
「今、私に女を感じてどきっとしましたね。もう観念して、子供扱いはやめ、恋人として楽しい時間をなるべくたくさん持とうとは思いませんか。人生は短いのですよ。私も女です。綺麗な花のうちの自分をなるべく多くデズモンドの記憶に残したいのです」
そして姫様はすりすりと私に身をこすりつけるのだった。
姫様は花ではなく蕾ではないですか……!!
私が道を踏み外す前に、誰か助けてくれ……!!
おまけにおまけに数少ない屋敷の者は、みな姫様の味方で、お膳立てに奔走する始末。
もはや私は完全に四面楚歌だった。
連夜の薄着のネグリジェでのマリー姫様の猛攻により、恥ずかしいことに、私は姫様を女性として意識しないではいられなくなり、理性の砦はもはやひび割れだらけとなった。
私はあれほど毛嫌いしたフィリップスが舞い戻ってきて、姫様と同衾など許さないと、大暴れしてくれることを痛いほど期待した。ヤツを当て馬のようにして姫様と恋仲になってしまったという引け目もあった。だが、私の期待に反し、ヤツは一年近く姿を見せなかった。そのあいだにもマリー姫様はさらに美しく成長し、より強力な軍勢となっていく……。
そして、いよいよ私の脳裏にマリー姫様とからみあう妄想がリアルに白昼夢で浮かぶようになり、もう限界だと泣きそうになった頃、ヤツは帰って来た。
……マリー姫様がブランシュ号を託すと見込んだことは正しかった。
当て馬など私の思い上がりも甚だしかった。
やはりあいつは天馬だった。それも不屈の闘志をもった怪物だ。
私はヤツの器と才能の大きさを、嫌というほど見せつけられることになった。
◇◇◇◇◇◇◇
「……なんだ。今さらかよ? マリー姫の気持ちなんぞ、俺はとっくにわかってたぜ。俺がプロポーズしたとき、困ったようにちらちらとあんたのほうを見てたじゃねぇか。ありゃあ、どう見ても恋する女の顔だった。これでも勘は鋭いほうでな」
マリー姫様と相思相愛? になったことを、おそるおそる私が切り出したとき、フィリップスはこともなげに笑い飛ばした。
「だから、あのとき言ったろ。あんたとは今日から恋のライバルだってよ。戻ってくるまで一年近くかかっちまったが、今からが勝負のはじまりだぜ」
耳元で鳴る潮風に目を細めながら、「いい女は競争相手がわんさかいて当然。それを勝ち抜いてこそ、恋の醍醐味ってやつよ」とフィリップスはうそぶき、楽しそうに拳をぱあんっと打ち鳴らした。
ここは海上を疾走するブランシュ号の甲板だ。
チューベロッサ王国の目を盗み、湾内で試運転をしている。
驚くべきことに、フィリップスとオランジュ団は、一年かからずに腕利きの船乗りとなって、姫様のもとに舞い戻ってきた。そして姫様は宣言どおり、ブランシュ号を彼らに託された。
私はフィリップス達を侮っていたことを内心で恥じた。
操作のむずかしいこの船をいきなりの初航海で見事にあやつる技術と勘の良さもさることながら、危険への先読みがすごすぎる。はじめて航海する湾なのに、どこに暗礁があるかを馴染みの海域のように嗅ぎつけ、楽々とかわすのだ。フィリップスだけではない、コーカイチョーとふざけて呼ばれる少年までもがだ。
私とフィリップスのスピード勝負は、僅差で私の勝ちだったが、慣れた海域であることを差し引くと、敗北といってもいい。しかもフィリップス麾下の連中がえこひいきせず、私に従ってくれたからだ。こいつらの練度も凄まじいのひとことだ。この一団は、海軍大国チューベロッサでも間違いなくトップをはれる。
どんな魔法を使ったら、素人が短期間でこんな奇跡を成し遂げられるのか。興味をひかれて尋ねた私は、フィリップスたちの特訓法に愕然とした。
「たいしたことはしてねぇよ。〝アギトの海域〟ってとこに出向いて腕を磨いたんだ。何度も死にかけたが、まあ、二月もたった頃にゃ、だいたいの風や潮の流れってのは読めるようになったぜ」
ベテランでさえ尻込みする難所中の難所ではないか。
たしかに成長ぶりにも納得の特訓だが、どうしてそんなところで腕を磨こうという出鱈目を思いつくのだ。腕を実際に見ていなければ、法螺吹きかと思うだろう。
船乗りなって二カ月めのときの私など、〝アギトの海域〟名物の巨大鮫の魚影に、生きた心地もせず、がたがた震えるしか出来なかったというのに……。
なんなのだ、この規格外は……!!
「それと練習用にチューベロッサから高速艦を一隻拝借したからな。激怒した連中に執念深く追いかけまわされ、しょっちゅう〝アギトの海域〟で鬼ごっこをやってた。ひでぇ目にあったが、こっちも何隻も軍艦をひっくり返してやった。おかげで船の逃げ足だけは誰にも負けねえ自信がついた」
悪戯好きの子供の笑顔で、フィリップスはとてつもない武勇伝を語った。
世界最大の海洋国家を敵にまわし鬼ごっこだと?
こいつは正真正銘の化物だ。
戦慄する。これがつい最近まで海の素人だったとは……!!
「だから言ったでしょう。フィリップス様は天馬だって」
海風になびく髪を押さえつけながら、マリー姫様が近づいてきた。
フィリップスは相好を崩した。
「惚れた女にそこまで評価されるは悪くねえ。だが、本当に天馬なのは、このブランシュ号だぜ。チューベロッサの最新鋭艦よりはええ。いや、それどころか、たぶんこの世界のどの船よりも……。これが過去の遺物とはな。昔のヒペリカムにはとんでもねぇ船大工たちがいたもんだ。もともと俺は旧ヒペリカム王家の財宝目当てでこの国に来たんだが、もっといいものを手にいれられた」
フィリップスの褒め言葉に喜ぶように、ブランシュ号の帆がばんっと風をはらんで鳴った。
マリー姫様も嬉しそうに目を細めた。
旧ヒペリカム王家の財宝は有名な伝説だ。たまにそれ狙いの山師が現れる。古代帝国ロマリア崩壊のさい、もちこまれた莫大な遺産なのだという。その一部は王家創立に使われ、残りはヒペリカム近海のどこかに、番人の海の魔女に守られて眠り続けているとされる。だが、王家直系のマリー姫様でさえその在り処は知らなかった。そんなものが実在したとしても、贅沢三昧だった歴代の王がとっくに消費しているはずというマリー姫様の意見に、私もフィリップスも賛同した。なので、この場に財宝を本気にする者はいない。話題はブランシュ号に集中した。
「……ブランシュ号をつくった船大工たちは我が国の誇りでした。ロマリアの流れをくむ職人集団だったそうです。気難しい異端として知られており、制作数も少なかったため、彼らの作品はもうこの船以外には現存していません」
「異端か!! はっ!! 俺らオランジュ団も、まあ、はぐれもんばっかよ。だから、よけいにこのブランシュ号とはウマがあうのかもしれねぇな!!」
フィリップスの哄笑にあちこちで賛同の声があがる。
「連中もずいぶんブランシュ号を気に入ったらしい。住み慣れた我が家みたいに馴染んでやがる」
笑顔で手を振り返したあと、フィリップスは真顔になってマリー姫様に振り向いた。
「……さてと、俺はあんたとの約束を果たし、海の男になって帰って来た。代わりと言うわけじゃねぇが、あのときのプロポーズの返事、あらためて聞かせてくれるか?」
その言葉にマリー姫様もうなずかれた。意を決したように顔をあげる。
「その前にフィリップス様に謝らねばなりません。私は人の心が読めます。そういう異能を持っているのです」
まさか秘密を明かされるとは……!!
「マリー姫様、いけません!!」
愕然として叫んだ私に、マリー姫様は静かにかぶりをふった。
「いいのです。フィリップス様は、命をかけてまっすぐに私の期待に応えてくれました。ならば、私も隠し事なしで臨むのが、人としての当然の誠意です」
そう言ってマリー姫様はフィリップスに向き直った。
「……ごめんなさい。あなたの気持ちは受け入れられません。だって、私はこのデズモンドを愛しているのですから」
ほほえむ姫様はとても美しかった。
私は喜びと驚きで胸がつまった。
そしてフィリップスに対し心から申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
ヤツが怒りの鉄拳をふるうというなら、甘んじてすべてこの身で受けよう。
だが、フィリップスは私の予想に反し、顔をほころばせた。
「嬉しいぜ。あんた、つくづく俺好みの女だ。俺のひとめ惚れは間違えちゃいなかった。心を読む? 願ったりかなったりだ。俺のあんたへの愛の深さってやつを証明できるチャンスってやつよ。この気持ち、デズモンドにも負けるはずがねぇ。俺はあきらめねぇ。たとえあんたがデズモンドとの子を妊娠していても、その子ごとあんたを貰い受けるぜ」
無窮の蒼天を思わす男っぽい笑顔だった。
私は何度目かの戦慄をフィリップスにおぼえた。
まぎれもない本気と直感したからだ。
私にこいつと同じ台詞を心から口にする勇気があるか?
「に、妊娠もなにも、デズモンドと私は……キスだってまだ……」
ベッドでは勇猛果敢のはずのマリー姫様が狼狽し、ごにょごにょ口ごもり、私も何故かつられて耳までまっかになった。
「……あん?」
その様子で事情を察したフィリップスは、はじめて相貌が変わるほどの怒りをあらわにした。その怒りはマリー姫でなく私に向けられていた。
「不甲斐ねえな。一年近くあったんだぜ。相思相愛のくせに何やってやがる。俺の見込み違いだったか? くだらねえ男だな」
フィリップスに吐き捨てられ、私は激昂した。
「私とて姫様への愛なら誰にも負けぬ!! おまえに私のなにがわかる。マリー姫様を大事に思えばこそ私は……!!」
気がつけばそう怒鳴っていた。
フィリップスは鼻で笑った。
「まだ幼すぎて手が出せないってか。ボケが。そりゃあ、普通の男女間の良識だろうが。心を読めるマリー姫は普通じゃねぇんだ。自分に向けられる他の男どものうすぎたねえ欲望を、心で全部キャッチしちまうんだぜ。年がら年中、不本意な凌辱をされ続けてるようなもんだ。正気でいられると思ってんのか? あん?」
私達のやりとりを、オランジュ団の皆も固唾をのんで見守っている。
私は衝撃で頭がまっしろになった。
そしてマリー姫様の悲し気な表情が、フィリップスの指摘が真実だと語っていた。
「てめぇ、まさか気づいてかなかったのか? ……ちっ、クソが。てめぇにはやっぱりマリー姫はまかせられねぇな。一発かますぜ。歯ア食いしばれ」
言下に私の顎にフィリップスの拳が炸裂し、私は吹っ飛んで船べりに背中を叩きつけられた。
痛かった。これほど痛い拳ははじめてだった。
「……なんでマリー姫と身も心もつながって、『おまえは一生俺の女だ。他の男がどう思っても気にするな。ずっと俺だけを感じていろ』って安心させなかった!! てめぇはな!! 姫を大事にするつもりで、自分のことしか考えてなかった大馬鹿なんだよ!!」
フィリップスの叫びは、鉄拳よりなお痛かった。
だが、このところ美しくなられ、男の視線を集めていた姫様は、きっと私の何千倍もの苦痛を味わったに違いない。
だからか。だから、姫様はあれほど私と密着をのぞんで……。
あれは性の好奇心でもからかっているのでもなかった。逆だ。他の男のおぞましい欲望の記憶を消し去りたかったのだ。私に助けを求めすがりついていたのだ。
それを私は……!!
私は、姫様を崇拝するあまり、立派な方だと、何事にもくじけぬ強い方だと思いこんでいた。私の心を読んだ姫様はどんなに悲しかったことか。私は、姫様がたった14歳の少女なのだという当たり前のことを忘れていた。従者としても恋人としても失格だ……!!
艦上の凍りついた雰囲気に気づき、フィリップスは嘆息した。
「ちっ、めでたい処女航海を台無しにしちまったか……」
つかつかと無造作にマリー姫様に近づくと、いきなり姫様を折れんばかりに抱きしめた。
姫様がかわす間も、私が止める間もなかった。なにより続く一言が、思わず駆け寄ろうとした私の足を金縛りにした。
「……マリー姫。俺はあんたと出会って間がねえ。だが、俺は自分が感じた運命が本物だと信じる。だから、あんたも俺のすべてを知ってくれ。俺の身体の熱さを感じろ。そして俺の心を読め。あんたを愛している。この気持ちに嘘いつわりは一切ねえ。それを、今ここに生きている俺自身のすべてをもって証明する」
その言葉の熱と強い抱擁は、逃れようとしたマリー姫の動きを止めた。
私は圧倒された。いくら口では好きと言っても、ためらわず相手に心をさらせる人間がどれだけいるか。フィリップスは才能だけではない。精神力もまた化物だった。
「遠慮しないで感じたままを言ってくれ。いきがっちゃいるが、じつは俺も自分の心ってヤツは正直わからん」
フィリップスは少し恥ずかしそうに苦笑し、しかし、さらに腕に力をこめた。
マリー姫様は心音を聞くように頬を押し当てる形になった。
瞳が驚きに見開かれ、そしてまた瞼を閉じたあと、頬を涙が伝わった。
「……驚きました。あなたは私のために、本気でご自分の身も心も燃やし尽くせるのですね。私がどんな返事をしても、その愛を生涯貫く覚悟でいる。あなたはやはり不屈の天馬……。たとえ翼が折れても、なお信念を曲げずに羽ばたき続ける。男の人ってこんなにも女の人を無償で激しく愛せるものなのですね……」
身勝手な男の欲望ばかり感じてきた姫様は、その一途さに深い感銘をおぼえたようだった。
「どんな宝石よりもドレスよりも嬉しいプレゼントです……」
「……そうか。好評なのは嬉しいが、惚れた女から、俺自身の気持ちを言葉で表現されるってのは、えらく照れるもんなんだな。……あんたへの気持ち、不快じゃなかったかい?」
フィリップスにはカリスマや強さだけではなく、可愛げ的なものがある。だからこそオランジュ団の連中は惚れこんでついていくのだと私は悟った。
「気恥ずかしいほどまっすぐで熱いけれど、私への優しさにあふれています……。えっちな妄想も少し考えているのが珠に瑕ですが。でも、大変に紳士的な妄想です。……それにしても不思議ですね。あなたの好みは本来私と正反対の、もっと成熟した女性のようですが」
マリー姫はわざと目線を下にするようにして皮肉を言ったがほほえんでいた。フィリップスはあわてて抱擁をといた。やや前屈みになっていた。
「す、すまねぇ。惚れた女と密着しちまうと反応しちまうのは男の性ってやつよ。ま、俺の女の好みはその通りなんだが、あんたは俺のなかじゃ唯一無二の別格なんだ。年上でも年下でも関係ねえ。気分を害したなら、なるべく妄想は抑えるようにする……」
マリー姫はくすくす笑った。
「あれだけ勇気があるのに変なとこで臆病なのですね。紳士的と申したはずですよ。でも、妄想の中でさえ私をこれだけ大切に扱ってくれるなんて……。私、自分を童話のお姫様と勘違いしそうになりました」
「いや、あんた、元お姫様だろうが。それに俺にとっちゃ、あんたがなんであろうと、世界中のどの王女様より尊い女だよ」
真顔で答えるフィリップスにマリー姫様はこらえきれず吹き出した。
「おばあちゃんになって、その台詞が聞けたら、どれだけ幸せなのでしょうね」
談笑するふたりを見て、オランジュ団の皆がひそひそ話をはじめた。
「おいおい、まさかのいい雰囲気じゃねえか?」
「もし、大将とマリー姫様がくっついたら、なんて呼べばいいのかね?」
「姐さん? それともおかみさん?」
「うーん、姫様呼びより下品にならねえか? もっと高尚な呼び名は……」
彼らの声をうつろに聞きながら、私はうちのめされていた。
蒼空の下で寄り添うマリー姫様とフィリップスはお似合いに見えた。
眩しい。私はフィリップスに、この規格外にたぶん勝てない。
「……うちの大将は、これで案外つきあう女の人は大事にするんでさあ。ただその他の行動が破天荒すぎて、誰もついてこれず、びびって向こうから離れちまった。だから、いつか大将とつりあう女性が現れることを、俺らずっと夢見てたんでさ」
褐色の肌のコーカイチョーと呼ばれる少年が私に語りかける。
幼さの残る顔は自分達のリーダーへの親愛と誇りに満ちていた。
それはそうだろう。船乗りになるため最高難度の〝アギトの海域〟にいきなり挑む男だ。飛ぶと決めたら、言葉より早く断崖絶壁からダイブするような行動力の塊だ。
だが、マリー姫様ならあの男の器についていける。
「……フィリップス様、あなたは私にすべてを見せてくれました。だから、私も正直に言います。あなたに惹かれています。あなたの隣にいる毎日を思うと、どんなに楽しいだろうと、胸がときめきます」
マリー姫様のお言葉に、オランジュ団の皆が顔を見合わせるとどっと歓声をあげ、私はやはりか、と絶望にうちひしがれて俯いた。
「私はまちがいなくフィリップス様に喜んで嫁いだでしょう。……もし、デズモンドより先にあなたに出会っていたなら」
だから、マリー姫様の続けた言葉を理解するまで時間がかかった。
姫様はそれは艶やかに、けれど可憐にフィリップスにほほえんだ。
「デズモンドは、私の人生そのもの。彼の優しさに育まれ、私はここまで成長できました。彼と過ごした日常の一コマさえ、私にとっての宝物。彼への愛はもう私の人生そのものなのです。はしたないことに、私は寝てもさめても、デズモンドのことばかり考えています。ですから、いくらフィリップス様が魅力的でも、私の答えはひとつです。……今までも、これから先の人生も、私の一番好きの人の名誉は、デズモンドのものです」
その笑顔はどんな花よりも美しく、その言葉はどんな福音より、私の胸をうった。そうまで言ってもらえた幸せな恋人と従者が歴史上何人いたろうか。私は感激し、膝を折って嗚咽をこらえるしかなかった。
フィリップスは苦笑した。
「なるほど得心がいったぜ。俺のライバルはマリー姫、あんた自身の人生ってことか。手強いわけだ。今すぐどうこうってのはさすがに無理そうだ」
オランジュ団の連中は一斉に盛大なため息をついた。
「あ~あ、大将、ふられちまったよ」
「強がってるけど、きっと心じゃ号泣してますぜ」
「粋がってあの結果じゃなあ。あわれすぎて、こっちが泣けてくるよ」
「いつもの酒場の胸の大きなおかみに慰めてもらうか? 未亡人だったし、大将を気に入ってたよな」
「でも、あの人、若づくりだけど、たしか70歳……」
「大将べろべろに酔わして、暗くすりゃあ、問題ないんじゃねぇか? もともとは年増好きだし」
隠す気のない企みにフィリップスは怒鳴った。
「おい!! てめぇら!! 問題大ありだろうが!? おかみは俺の3倍以上生きた古豪だぞ!? 母ちゃん通りこして婆ちゃんの年じゃねぇか!! それに俺はまだマリー姫をあきらめちゃいねえ!! 惚れた女を思い続けるぐらいの権利は、ふられた男にもあるってもんだろ」
その言葉にオランジュ団の皆はドン引きした。
「うわ、ストーカーの倫理だよ」
「重い思いだなあ。大型艦の錨より重い……」
「こんなしつこいのに懸想されて、マリー姫様もお可哀そうに」
「プロポーズじゃなく、マリー姫様をノイローゼにしそう……」
傷口に塩をぬりこむずたぼろの評価に、フィリップスは「おまえらな……」と泣きそうになったが、
「応えることは出来ませんが、フィリップス様のお気持ち、私はとても嬉しく思っています」
というマリー姫様のフォローに元気を取り戻した。
「聞いたか? さすが俺の惚れた女だ。と、とにかくこれで一年ぶんの不利は埋めたぜ。デズモンド。次はあんたが答えを出す番だ」
そう言うとマリー姫様の両肩をもって、ぐるりと私の方に向きを変えた。とんと姫様の背中を押す。後押しだと気づき、私は女性のように胸がしめつけられた。フィリップスはどこまでも正々堂々をつらぬく男だった。
「言っとくがな。地獄に堕ちる覚悟もなしに、マリー姫をなんとかできると思うなよ。俺の惚れた女の価値を舐めるんじゃねぇ。この後に及んでぐだぐだしてるようなら、即かっさらうぞ」
それは宣戦布告というより、私の迷いを蹴り飛ばすための激励だった。
うまく立ち回る気なら、私をおとしめられたろうに。
なんと見事な男なのだろう。
私がこの男の立場なら、同じ真似ができたか?
オランジュの連中が心酔するわけだ。
「デズモンド……」
マリー姫様がこちらを見ている。
ためらいがちに私のほうに歩いてくる。
私がマリー姫様への愛をもっとあらわにしていれば、姫様は今まで苦しまずに済んだ。
フィリップスに比べ、私のしてきたことは怯懦のひとことだ。
それでもマリー姫様は、まだ私を選ぼうとしてくれている。
出迎える気の利いた言葉など私にはない。
今さらそれを吐く資格もない。
だが、はっきりしていることがある。
歩み寄るべきは、マリー姫様からではない。この人を抱擁するために手を伸ばすのは、せめて私からでなければならない!!
私は胸が詰まり、突き動かされるように足早にマリー姫様に近づくと、力いっぱいマリー姫様を抱きしめた。今までそのような乱暴な行為を私からされたことがない姫様は、驚いてもがいた。
「く、苦しいです……。デズモンド……」
「申し訳ありません。マリー姫様。ですが、しばしのご辛抱を。私の思いを伝えるには、言葉ではとても足りないのです。そして、どうかフィリップスにしたように、私の心をすべてお読みください」
「……デズモンド、でしたら……」
私はまっかになった姫様の耳朶に熱くささやいた。
「わかっております。ご無礼お許しを」
密着すればするほど、マリー姫様は心を読みやすくなる。
前にご本人に教えてもらった秘密だ。
私はためらわずマリー姫様に唇を重ねた。
足りない。私を知ってもらうにはまだ足りない。
そのまま舌を入れる。姫様は驚いて歯を閉じかけたが、無理やり舌先を押しこんだ。
ばんばんと私の背を姫様が叩いたが黙殺した。
もう姫様への気持ちを抑制することはいっさいやめだ。
嫌なら私の舌を噛みきってもらってもいい。
マリー姫様に殺されるなら本望だ。
あなたが愛しい。
身も心もそのすべてが。
今すぐその可憐な蕾を散らす勇気は、私にはまだない。だが、それ以外ならすべて応えよう。キスも肌の密着も。人前での抱擁も。あなたのためになら、矜持も命も喜んで捧げよう。
もし、私と伴侶になることが、あなたにとっての幸せというなら。
私はおのれを残らずあなたのために捧げる。
夫としても、従者としても。
それが私の生きる喜びだ。生きる意味だ。
唾液が糸をひくほどの長いキスを終え、私は息も絶え絶えのマリー姫様に尋ねた。
「……マリー姫様、今のが大人のキスです。あなたは可愛くて悪い子です。ご自分がどれだけ魅力的かわかっておられない。もう止める自信はございませんぞ。……私の気持ち、読めましたか」
「びっくりして、それどころじゃ……」
「では、私の気持ちを読み終わるまで、キスを続けさせていただきます」
「ち、ちょっと待って……!! むぐっ!?」
うむを言わさず私は姫様に再び舌をねじこんだ。
「おいおい、いきなり野獣すぎだろ……」
フィリップスの呆れ声が聞えたが気にならなかった。
今まで封じこめていたぶん衝動の爆発は激しかった。
私の豹変に姫様は驚いていたが、抵抗はされなかった。
お嫌ならどうか私の舌を噛み千切ってください。
そう念じると、ためらいがちに上下の歯列が開かれた。力を得てより深くに進む私に、ぎこちなく舌先で応じられた。甘くかぐわしい香りが口腔を満たした。私の背にまわした姫様の指先が、遠慮がちに時々そっと撫でてくる。その初心さが心から愛おしい。私は夢中になって姫様を貪った。
どれぐらい時間がたったのか。
さすがに窒息するのではと心配になり、顔を離した私は、潤んだマリー姫様のエメラルドの瞳と目があった。美しさに見惚れてしまった。世界でもっとも綺麗な宝石だ。久しぶりにこんな至近距離で拝見したが、見えていないとはとても信じられない。フィリップスが魅了されるわけだ。私とてこの瞳のためなら死んでも惜しくはない。
「褒めすぎです!! 少しは気持ちを加減してください!!」
はにかんだ姫様が私の胸をぽかぽか叩いた。
その小さな震動が心地よい。
「……デ、デズモンドの私への気持ち、伝わりました。ものすごく広くて凪いで見えるのに、奥底にはすべてを壊す大渦のような愛が……。私、あのまま溺死するかと思いました」
そのとおりだ。その獣性をおそれ、私は自分を抑制してきたのだ。
「じつはデズモンドは大きな犬ではなく、犬の皮をかぶった狼さんだったのですね」
くすくす笑う姫様の口元は、私の唾液まみれでてかっていた。
どきりとした私を挑発するように、ご自分の舌先で悪戯っぽくぺろっと舐めとる。
背筋をぞわりとしたものが這い上がった。
「いかが? 私もケダモノさんになってみました。ふふ、こういうのが好みなのですね。学習しました。……それにしても、まさか私へあんなすごい欲望を隠してもっていたなんて。デズモンドは本当に悪い大人ですね。妄想だけで、身籠ってしまうかと思ったのははじめてです。でも、大好きな人が自分に欲情してくれる女の歓びを初経験できました」
あのとき我を忘れた瞬間、私は押しこめていた感情とともに、マリー姫様への放恣な妄想まで残らず解放してしまっていた。手を出す度胸こそないが、劣情そのものを抱いていないわけではなかったのだ。私はあわてて疼く腰を引こうとしたが、姫様はよも逃がさじとばかり、かえって肢体を押しつけてきた。
「これから初心者の私にもっと色々教えてもらわないといけないのに、これぐらいで大人が子供か逃げちゃ駄目ですよ? めっ、です」
おしおきのためと称し背に爪をたてる。
「ふふ、ねぇ、デズモンド、私、やっぱり悪い子かも。なんだか今とっても楽しいの。お部屋に行きましょう。服を脱がして、あなたが私でどこまで興奮してくれるか確かめたくて仕方ないの。リクエストにも応えるから、あなたの好みをもっと教えて」
抱きつかれた私は声なき悲鳴をあげた。
女性に怯える男の気持ちがはじめてわかった気がした。
七つの海を渡り歩いたときも、これほどの危機感を覚えたことはない。
頼む。これ以上の密着は……!! まずい、思考を停止しなくては……!! これ以上心に踏みこまれては……!!
「え、と、メスガキ調教? ふんふん、生意気な女の子を屈服させる行為のことですね? なるほど、私は姫でなく小悪魔になるべきでしたか」
願いむなしく、性的嗜好を白日のもとにさらされ、私は首をくくりたくなった。
わずかです。極少しです。基本はノーマルです。
フィリップスに助けを求める目をやったが、
「……人前で平気で性癖をさらすとは。やはり、俺の認めたライバルはただ者じゃなかったな。あんたの覚悟、たしかに受け取った」と呟き、あいつは目をそらしやがった。
誤解だ!! 私が好きでやったわけではない!!
「ふふっ、どぎまぎするデズモンド可愛い!!」
マリー姫様が私の腕を抱えこんで、ころころと無邪気に笑う。もちろん胸を押しつけるのも忘れない。誘惑などという甘っちょろいものではない。マーキングだ。なわばりを主張しているのだ。私は自分の獣性を鎖から解き放ったつもりで、もっととんでもない愛らしい怪物の封印を解いてしまった。
「あああ~、大将、あのままデズモンドの旦那をほっときゃ、マリー姫様をモノにできたかも知れないのに。そのために一年間死ぬ思いをしてきたってのに、なんで敵に塩を贈っちゃうかな」
コーカイチョーの少年が、頭の後ろで手をくんで嘆息する。
対するフィリップスの答えは単純明快だった。
「マリー姫がデズモンドの本心を知りたがってたんだ。くだらねえ企みするよか、まず願いをかなえてやってこそ男だろ」
それを本気で惚れた相手に実行できる男が、この世に何人いるだろうか。
「うちの大将は大物だけど、それ以上に大バカだからなあ」
コーカイチョーの少年の言葉に、オランジュ団のみんなが、うんうんと頷いた。
「うっせえ。最後にゃ、マリー姫は俺の嫁になるんだから、過程なんぞどうでもいいんだよ」
とうそぶくフィリップスを生温かい目で見守っている。
いや、無理だよねえ、という目つきだつた。
だが、悔しいが、たしかにこいつは大物だと私も認めざるをえない。
「警告!! 右舷前方!! 三角波発生!!」
物見台からふってきたけたたましい叫びが、なごやかな雰囲気を打ち砕いた。
にこにこしていたオランジュ団の面々が一瞬で厳しい顔になり、おのおのの配置にばっと散った。海の男のいい顔をしている。しかし、三角波だと? こんな穏やかな海域でか? 波も荒れていないし、特殊な海流も地形もない。通常ではありえないが。
だが、見張り役の警告が嘘でない証拠に、たしかに海面がピラミッド状にぐんぐん盛りあがっていく。ブランシュ号が水に引っ張られて傾き、船に巨大な影がのしかかる。だが、私達を戦慄させたのはその波ではなかった。
「……いひひっ!! 水の底から、こぉ~んにちは!!」
嘲笑がふってきた。そいつは尖った波の頂点に座ってこちらを見おろしていた。
見かけは美しい少女だった。海藻色の艶やかな髪が水中のようにたなびく。病的なまでに白い肌、血のように赤い唇。そして華美だが妙に古い意匠のドレス。まとう剣呑な気配は、断じて人間のものではなかった。
「はじめまして!! あたし、ゴルゴナ。海の魔女なんても呼ばれてまあーす。ロマリアのお宝の継承者の気配がしたと思ったら、まさかの恋の修羅場の匂い!! ヒロインを取り合う三角関係の真っ最中で、どびっくり!? しかたないっすねえ。ここは気を取り直し、ひとつ経験&お胸の豊かなあたしがをアドバイスを……」
はりだした胸を見せつけるように突き出すと、長く淫猥な舌なめずりをする。アドバイスも何も悪意しか感じない。嫌な予感にたがわず、突然、身をそらし狂ったように笑いだした。
「いひっ!! 閃いた!! かんたんかんたん!! 乱交エンドですべて解決ですよ!! 愛や貞淑なんてポイ捨てして、みんな快楽にとち狂えば、すべてハッピー!! 少年少女よ。悩む前に腰をふろう。なんだったら、ゴルゴナちゃんが特別レッスンしてあげますよ。手取り足取り腰取って。あたし、男も女もいける口ですから~」
みずから胸をもみしだき、あふうっと甘く腐った息を漏らす。
なんだ、このいかれた化物は……!!
「……海の魔女……!! ロマリアの遺産……!! まさか実在していたなんて……!! お願いです!! どうか話を聞いて……」
驚きに息をのんで懇願するマリー姫に、ゴルゴナはウインクし、ちっちと人差し指をふる。
「いけない仔猫ちゃんっすねえ。ヒトカス風情が、あたしのアドバイスを、右から左に流して質問ですかあ? ここは最低でも、まずこの場の男全員と交わって、あたしに敬意を示すぐらいすべきでしょお? 空気読めない子には、性教育的指導が必要だなあ~」
同じ緑の目だが、盲目の姫様は生き生きとしたエメラルドなのに、こいつの目は毒沼のように淀んでいた。にんまり口端を歪めると、鮫のようなぞろりとした牙がのぞいた。
「心を読む異能ちゃんにふさわしい罰を与えたげますよお。つまらないものですがあ、あたしの記憶を進呈しますう。ご笑納くださあーい。ひひっ、あわてて気をそらそうとしてますねえ。ムダですよお。もう心と心の接続をロックしちゃいましたからあ。男のお味をたっぷり教えてあげる」
ちろちろと舌が、牙のあいだで地獄の炎のように蠢いた。
とたんマリー姫が背を波打たせて嘔吐した。
「マリー姫様!?」
「マリー姫!?」
助け起こそうとした私とフィリップスに、マリー姫様は吐瀉物を拭うのも忘れてしがみついた。
「……狂ってる……!! あの女性は……人を好んで食べます……!! 生きたまま海中で齧りとって、咀嚼して……!! 肉と血と脂の味と……嚥下する感触が、私の口いっぱいに……!!」
そこまで話して、マリー姫様はこらえきれずまた吐いた。
「いひっ、美少女の嘔吐姿はそそりますねえ。えへっ、エッチのほうの味だと期待しました? 残念。ひとひねりして男の血肉のほうのお味でした。でも、吐きだすなんて、せっかくのおもてなしなのにい。食べものを粗末にしちゃいけないって習いませんでしたあ? ぐすんぐすん」
泣き真似をしたあと、ゴルゴナは下品にげたげた笑いだした。
「吐き出すより飲みこんでくれる女の子のほうが、殿方も喜んでくれるに決まってますよお!? あたしは飲むのも飲ますのもどっちも大好きです!! でも、気にいった男を食べるのはもっと好き!!」
私とフィリップスの髪は逆立った。
人喰いの化物が……!! そんなおぞましい記憶をマリー姫様に体感させたのか……!!
「や~ん。ゴルゴナちゃんってば、恋する乙女~」
くねくねと身をくねらす。
こいつは、おぞましい最悪の悪夢のメス蟷螂そのものだ……!!
「あなたは海の魔女でロマリアの遺産の番人ではないのか!? このマリー姫様は、ヒペリカム王家に遺された唯一の正統な血筋!! 民のことを第一に思う立派な方です!! なにゆえにこのようなひどい仕打ちを!?」
苦悶にのたうつマリー姫様を必死に抱きしめ、たまりかねて絶叫する私を、ゴルゴナはじろりと一瞥した。にたりと瞳の光が歪む。ぞっとした。子供が興味本位で虫をバラバラにするような目だった。
「きゃはははっ!! うける!! ロマリアの遺産を、素敵なお宝か何かと思ってるのお!? あたしでさえ逃げ出したくなる悪意の塊なのに!?」
私は蒼白になった。
この化物がそこまでいうとは……!?
「まあ、カモフラージュの財宝だけでも、国を建て直せるぐらいの価値はあるっすけど。いいよお、渡してあげてもお。そのお姫様が、あたしの試練をクリアできたらねえ。簡単よお。あたしが思い浮かべるイメージをいくつか読み取って、耐えきってもらうだけ。命もかけずお宝をゲットなんて安いもんでしょお」
言葉と裏腹の残忍な笑みに戦慄する。
こいつは遊んでいるだけだ。
断じて姫様に試練とやらを受けさせてはならない……!!
「……やります」
だが、私の腕を押しのけるように、気丈にも嘔吐をこらえマリー姫様は立ちあがった。
「彼女は少なくとも財宝のことで嘘は言っていません。これほどたやすく我が国を救えるチャンスは、たぶんもう二度とありません」
お気持ちはわかる。我が国の混乱の原因は貧困だ。それほどの財宝があれば、チューベロッサの国盗りのたくらみも叩き潰せるかもしれない。しかし、相手はおぞましすぎる化物……!!
「お願い、デズモンド。私が狂わないよう、試練に耐えられるよう。どうか後ろからぎゅっと抱きしめていて。それが私にとっての一番の応援になるから……」
そう言いながらも姫様の細い背中は、まるで小鳥のように震えていた。
恐怖に耐え、なお運命に抗おうとする可憐な主人を、私に止めることができようか。
そういう方だからこそ私は愛したのだ。
私はただ自分に姫様の苦しみが出来るだけ移ることを祈りながら、力いっぱい抱擁するしか術がなかった。
「ラブラブで微笑ましいなあ。綺麗なものほど壊れるときがドキドキするよねえ!! やる気が出てきちゃいました!! はりきってイメージおくっちゃうぞお」
ハイテンションのゴルゴナは胸の前に指でハートマークをつくり、姫様に向けて突き出した。
「うけとって!! ゴルゴナちゃんの愛のメモリー!! いひっ!! 君の心に届け!!」
「きゃあああああっ!!?」
マリー姫様が壊れた笛のような悲鳴をあげて、激しく痙攣した。私の男の腕力さえ振り切りそうな狂乱ぶりだった。
「きさま、マリー姫様になにをした……!?」
私が怒鳴って問い詰めると、ゴルゴナは両こぶしで口を覆う怯えたポーズで身をくねらせた。
むかつくな、こいつは……!!
「おっきい声こわい~。なにってえ~。ただのゴルゴナちゃんの踊り食いの記憶ですよお」
「踊り食い……!!」
嫌な予感しかしない。こいつは人喰いだぞ……!!
「そそ、踊り食い。このあいだ、暗礁にぶつかって転覆した船から、たくさん人が海中に投げ出されてねえ。船上パーティーしてみたい。もがくと綺麗な衣類がはためいて、まるで蝶の群れが舞うよう。さっきまで楽しんでた顔は、絶望と恐怖で歪んでたっすよお。かわいそうにと優しいゴルゴナはひとりひとりのそばで御冥福をお祈りしました……」
祈る前に助けろよと叫びたくなった。ゴルゴナは目を閉じ乙女の祈りのポーズをしたあと、ぐるんと反転するように獰猛な笑顔になり、涎をすすりあげた。
「でもねっ!! 溺れ死んでぐったりしているはずの人間がさ。がぶって思いっきり噛みつくと、かっと目を見開いてバタバタ暴れるんですよお。きゃははははっ!! 面白くって、もうゴルゴナ手あたり次第に噛みついちゃいました!! 仮死状態だったのかな? それとも脊髄反射ってやつ? 人は弱っちいけど神秘にあふれてて、本当に愉しい玩具です!!」
髪を振り乱して笑い転げる。なまじ美少女の姿をしているだけに、不快感がいっそう増し頭がおかしくなりそうだ。せめて悪意ある言葉だけは、これ以上聞かせまいと、私は半狂乱状態で泣きじゃくるマリー姫様の耳をふさぐように抱きしめた。
「おやあ? 試練が始まったばかりで、もおギブアップですかあ? これぐらいでへばってちゃダメですう。二百年ほど前のマリー姫と同じ異能の未亡人は、もっと頑張りましたよお」
ゴルゴナはしようがないなあと嘆息しながら、思いだそうと小首を傾げた。
「たしかあ、夫の遺志を継ぎ、ひとり息子と力を合わせて領地を建て直すとか意気込んでたなあ。領民の幸せしか頭にない、誰からも慕われるつまらない良妻賢母でした。でも、ゴルゴナちゃんの試練のあとは、すっかり色に狂って、頭より早く腰を動かす溌剌レディに大変身!!」
教え子を自慢するように、ゴルゴナは胸をそびやかした。
「まあ、しまいには自分の息子も含めて、領地中の少年とヤリまくって、魔女として火炙りにされちゃいましたけど!! 息子が泣きながら火をつけてたけどお、未亡人ってばもう快楽を貪ることしか頭になないから、炎に包まれても卑猥に叫んでイキ狂ってましたあ。うん、きっと最高ハッピーな人生だったよね。めでたしめでたし。ぱちぱち」
ゴルゴナはおぞましいエピソードを拍手で締め、「あ、そういえば」と忘れていたというふうに軽く付けくわえた。
「ちなみに今マリー姫の頭のなかにインプットしたのは、そのニンフォマニアな未亡人のコピー人格ですう。元の人格なんてあっという間に食い散らかしますよ。二分もあれば、 オス豚にさえ発情する見境のないド淫乱姫のできあがり~」
私とフィリップスは凍りついた!!
なんと悍ましいことを!!
「ひっ!? いや!! いやあああっ!! 私の頭のなかに、虫みたいに何かが侵入してくる!! 私の記憶が食べられる!? 入ってこないで!! 誰か早く取って!!」
マリー姫様が白目をむいて絶叫してのたうちまわった。
「ご無礼ご免!! お気を確かに!!」
私は心を鬼にし、マリー姫様の頬を思いっきり張り飛ばした。
か細い首が折れんばかりの手加減なしだった。
手にめりこむ柔肌を強打した感触と罪悪感で吐きそうになった。
だが、ふっとんだマリー姫様は、頬の痛みさえ感じぬように、「頭が痛い!!」と叫び、泡をふいてネズミ花火のように地面を転げまわっていた。
「いひひひっ!! むだむだ。外部からの刺激程度じゃ、この術は破れませんよお。聖教会の術者総がかりでも、聖人像に腰をふりだした修道院長を止められなかったですもん。それこそあたし以上の力を持ってでもいない限り……」
「……銛ッ!!」
「へい!!」
ゴルゴナの自慢話が終るより早く、コーカイチョーの少年から銛を受取り、かまえを取ったフィリップスの筋肉が、より合わせた鋼の束のように引き絞られた。
「化物が!! だったら、てめえを術ごとぶち殺してやらあ!!」
怒声とともに投擲された銛は、信じがたい距離と速度で一直線に飛んだ。狙いあやまたず、ゴルゴナの右の顔を貫く。致命傷だと確信し、甲板で歓声があがった。だが、ゴルゴナはのけぞった上半身をゆっくり起こすと、血まみれの貌でけたけた嗤い、ちっちっと指をふった。
「……男が戦いに命をかけるように、女にとってお喋りは命なんですよお。むりやり中断なんて、万死に値しますう」
その場の全員の背筋が寒くなった。こいつは不死身か!? 銛は眼窩から後頭部にまで抜けている。確実に頭蓋骨ごと脳を抉ったし、脳漿だってしたたり落ちているのに!! なのに、くぐもっているが会話にも支障がない。
絶望がまっくろに胸を浸食する。
こいつを殺すことも出来なければ、姫様を助ける術がない……!!
こんなことをしている間にも、姫様の心が壊されていく……!!
「この腐れ外道が……!! 地獄に堕ちろ!!」
私の呪詛にゴルゴナは心地よい音楽鑑賞のように残された目を細めた。
「ありがとお。天国と地獄は紙一重。あたしにとって最高の褒め言葉ですよお。あなたも狂えば、愛する人の死の瞬間こそ、極上の快楽だと思えるようになるっすよお」
私のせいだ!!
なんとしてでもマリー姫様を止めるべきだった!!
私にできるのは、マリー姫様がこれ以上転がって傷だらけにならぬよう抱きしめ、頬ずりして嗚咽することだけだった。
「泣くなんて心外ですう。むしろ感謝してほしいですう。だって、マリー姫ちゃんまだ若いし可愛いし、死ぬまでに何万人もの男を昇天させられるナンバーワン淫婦になれますよお。救国の押しつけする元王女してるよか、よっぽど感謝されるっす。……よっ!! にくいねえ。病気もちにも躊躇いなく腰をふる性天使!! 本人も愉しめるし一石二鳥!!」
笑顔でゴルゴナは言い放った。
こいつを今すぐ殺す術はないのか……!!
「でも、夢中になりすぎて、大事なとこがぶっ壊れちゃうかもお。あの未亡人も、血まみれで紫色に腫れあがっても、夢中で腰をふってたもんなあ。しまいには人間だけじゃなく、馬や犬相手にまで……おりょ?」
さらなる邪悪な思い出話にうち興じようとしたゴルゴナが素っ頓狂な声をあげ、突然前に傾いた。もんどりうって三角波の天辺から転がり落ちてくる。ロープに引っ張られている!! フィリップスが投擲した銛にロープが結わえてあったのだ。この仕掛けの準備のために、少し行動が遅れたのか!!
わらわらとオランジュ団全員がロープに群がり引っ張っていた。
「……そのまま海から引きずり出せ!! あの手の怪物は、海から離れると力を失うもんだ!!」
フィリップスの号令一下、オランジュ団の皆が力を合わせ、釣り上げられた怪魚のようにゴルゴナが宙を舞った。だあんっと甲板に叩きつけられると、さっきまで乗りこなしていた三角波が崩れ、舷側におしよせた大漁の海水でブランシュ号が激しく上下した。それを物ともせず、オランジュ団が武器をかまえ、船上で声も出せずのたうつゴルゴナに殺到する。
「……い、息が……!!」
背中の強打で呼吸困難におちいったゴルゴナに、フィリップスは容赦なかった。
「手加減するな!! 相手を女と思うな!!」
手足を振り回して逃れようとするのを、全員で取り囲んで退路を断つ。次々に突き立てられる銛や刀で、ゴルゴナはハリネズミのようになった。絶叫の形をとった口から血が飛んだ。かぎ爪のようにねじ曲げられた指先が床に落ちた。最後に大きくのけぞると痙攣も止まった。
誰もが勝利を確信した瞬間、正気に戻ったマリー姫様が叫んだ。
「まだ死んではいません!! その人の喉を潰して!! 歌を封じないと……!!」
はっとなったフィリップスが刀を一閃させたが、それよりもわずかに早く、ばね仕掛けの唐突さでゴルゴナは「いひっ!!」っと上体をはねおこした。ひゅるるっと鋭く息を吸う。衝撃で麻痺していた呼吸器官が復活したのだ。標的がずれた剣先が顔面を切り裂いたがまったく意に介さない。かっと口を開くと、耳をつんざく甲高い声がほとばしった。人間の喉から出せるとは思えぬほどの高域だったが、それはたしかに歌だった。
なんだ、これは!?
身体が……痺れる!?
気が遠くなる……!!
フィリップスに続こうとしたオランジュ団の連中が、なぎ倒されるように一斉に昏倒した。なんとか踏みとどまれたのは、マリー姫様、私、フィリップス。そして咄嗟の勘で耳をふさいだコーカイチョーの少年だけだった。
「ふざけやがって!! 歌で人間を倒すだと!?」
フィリップスがあきらめず剣をまたふるったが、いつもの神速は完全に失われていた。
「らあ~、ららあ~」
ゴルゴナのあらたな歌での応戦のほうが早かった。ゆらりと前方の空気が歪み、炸裂音とともに剣はまっぷたつに折れ飛んだ。続いて唸りをあげてゴルゴナの繊手がフィリップスを払いのけた。
「逃げて!!」
マリー姫様の悲鳴に従い、フィリップスはバックステップしたため、指先がかすめたに留まった。だが、それだけで、たいして力を入れていたようにも見えないのに、フィリップスの長身がぶわっと浮いた。フィリップスの目が驚愕に見開かれる。そばのマストに叩きつけられ止まったが、象の突進でも受けた気がしたろう。まともに受けたら手摺りを飛び越えて海に落ちたか、骨折して即戦闘不能になったろう。人間の腕力では到底ありえない。
「いひっ!! この程度で勝てると希望もっちゃいましたあ? だからヒトカスって言うんです」
ゴルゴナは埃でもはたくかのように、体中に突き刺さった武器を払い落した。
「……でもお、海からあたしを離すのも、喉を潰すのも大正解!! ちょっとだけビビりましたよお。それに、なんでマリー姫は術で淫乱にならず、正気のままなんすかねえ。これはプライドが傷つきましたあ。むかついたから、もうお遊びタイムは終わりですぅ」
ゴルゴナは口の両端を吊り上げた。笑いではなかった。そのままバリバリと耳まで口が裂けていく。顔の半分が口となり、嬲るようにガチガチと牙を打ち鳴らした。口の開きすぎのせいなのか、左右の瞳がでんぐり返り、焦点がてんでバラバラになる。
「いっただきまあす。小生意気な盲目のお姫様の踊り食い!! 五分ぐらいかけて、ゆ~っくり頭を噛み砕いてあげるから、生きのいい抵抗して、あたしの舌をぴちぴち楽しませてね!! 頭蓋骨の欠片ぐらいはお望みのロマリアの財宝のところに吐き捨ててあげる」
この化物、マリー姫様を食べる気だ!!
ゴルゴナの感情の昂りに合わせるように、海水が竜巻となって舞いあがり、あたりは塩水と暴風に埋め尽くされた。そのなかをゴルゴナがげらげら嗤いながら近づいてる。人喰い鮫なんぞ、こいつに比べればかわいいいもんだ。ひっと悲鳴をあげ、コーカイチョーの少年が腰を抜かした。無理もない。私だってマリー姫様が背後におられないなら、一秒で逃げ出したろう。
元より姫様のためなら、この命とて惜しくはない。そして、このなかでもっとも体が大きい私なら、この身をもって一度はヤツの牙を食い止められるだろう。その間に誰かがとどめを……!! それが唯一の生き延びる光明……!!
終わりのない悪夢のなか、フィリップスが烈火となって咆哮していた。
「てめぇら、いつまで呑気に気絶してやがる!! このままじゃ、海に流されてお陀仏だぞ!! こんな化物にいいようにされるため、一年死ぬ気でふんばってきたわけじゃねえだろうが!!」
その気迫は、吹き荒れる波と風の轟音を貫き、甲板上に響き渡った。
失神していたオランジュ団がびくんっと身を震わせ、頭を振って次々に起き上がる。
嵐に突入したような修羅場のなか、素早く状況を把握し、すぐに戦闘態勢に移行したのは見事としか言いようがない。
頼もしいぞ。フィリップス。
おまえの心は本当に折れるということを知らないのだな。
おかげでマリー姫様の生存の確率が増えた。
私の頬から思わず笑みがこぼれた。
「やめて!! デズモンド!!」
私の覚悟を察知し、マリー姫様は金切声をあげた。
泣いているその片頬は無惨に腫れあがっている。
鼻血まで出されている。
私が気つけのため、手加減無しで張り飛ばしたせいだ。
私は最後の最後まで本当に駄目な男だ。もう土下座して謝る時間も、涙や血を拭うことも、熱をもった頬に手をあてて冷させていただく猶予もない。
私は迫るゴルゴナから目を離さず、マリー姫様の手を握った。一生分の万感の思いをこめる。
どれだけあなたと過ごして幸せだったか。
どんなに愛していたか。
おさらばです。
どうか、生き延びてください。そして……。
「どうか王女としてではなく、ひとりの女性として幸せになってください。それだけが私の望みです。……フィリップス!! あとは頼んだぞ!!」
私は追いすがるマリー姫様の手を振りきると、咆哮をあげて突進した。
あの勘のいい男なら説明なしでも私の意図をはかれるだろう。
そしてマリー姫様のことも託せる。
私はためらわず死地に赴ける。
あの裂けた口ではゴルゴナも得意の歌は唄えまい。
今なら私の身体を盾にし、牙と怪力を封じ、全員でかかれば勝ち目はあるはずだ。
だが、運命はどこまでもマリー姫様に残酷だった。
くんくんと姫様の方角の空気を嗅いでいたゴルゴナが、突然身をのけぞらせて嗤いだした。
「いーひっひっ!! マリー姫が女性のしあわせえ~? お笑い草ですう。だって、こいつ、女の機能がぶっ壊れてますもん!! 血の匂いでわかるんですよ!! 妊娠も、まともな性行為もムリ!! どころか男に触れられるだけで、本当はのたうつほどの苦痛に苛まれる!! 近親婚の弊害だけじゃなく、呪われてるんですよ!! このあたしの術が阻害されるほどに!! 異能の代償は目だけじゃなかったんですねえ!! まったくヒペリカム王家はどんな怨みを買ったのやら」
冷酷すぎる暴露に、蒼白になってマリー姫様は立ちすくみ、私とフィリップスは凍りついた。
勢いづいたゴルゴナは、得意になってさらにまくしたてた。
「騙された恋人候補たちはショックですよねえ!! 純情でちょっとえっちな姫君イメージなんて大嘘もいいとこ!! 真実は、男がどれだけ熱く抱擁しても、永遠に冷めたまま。腕のなかじゃ、愛どころか苦痛しか感じない女の成りそこないです。キスしてももちろんそう!! そんな欠陥品、どこの誰が女として愛せますかぁ?」
私の目から滂沱の涙が零れ落ちた。
もちろん騙されていたことの悔しさなぞではない。
姫様の抱えた苦悶に気づかなかった自分の情けなさにだ。
スキンシップをしてくる嫌な男で出会ったあと、姫様がよく嘔吐されていたのは、邪悪な心を読んだからだけではなかったのだ。
なのに、マリー姫様は私にいつも抱きついてきてくれた。幸せの涙を浮かべてキスに応じてくれた。なにより、どんな気持ちで、赤ちゃんがほしいと言っていたのか……!!
「ごめんなさい……!! デズモンドだけには、こんなみじめな事を知られたくなかった……!! ……あなたから伝わる優しさは本当に心地よかったの。くっついていても、苦痛を忘れるほどに……。運命だって思った。普通の恋する女の子になれた気がした。幸せな夢が見れた……。 でも、おしまい!! もう何もかもおしまい……!! ……私、もう死んじゃいたい……!!」
顔を両手で覆い、悲鳴をあげながら嫌々をするように頭を振るマリー姫様を、ゴルゴナは嘲笑した。
「そうですよお。だって、真実がばれちゃった以上、大切に思ってくれる男ほど、もうびびって、あなたに指一本触れられませんもんねえ。ほんとににみじめっすねえ。きゃはははは!! この先も、愛されるほどずう~っと孤独!! なんて生き地獄!! ひひっ、いい気味です!!」
けらけらと勝ち誇るゴルゴナに、マリー姫様は耐えきれず、両膝をついて崩れ落ちた。
「でも、ゴルゴナちゃんは鬼じゃありません。首ちょんぱして、楽にしてあげてもいいですよお!! でも、代償はいただきますう。……あたしの生命力を分ければ、首なし死体でも二週間は生きられますから、ヤク中だらけの貧民街に、生きた性玩具として放ったげます!! 『元マリー姫です。ご自由にお使いください』って張り紙をくつつけて!! ひひっ、死姦も辞さないど変態どもの巣窟です!! みんな喜んで群がってくれますよお。マリー姫の名誉と尊厳なんてもう欠片も残りません。最低のヒペリカム王家のなかでも、ぶっちぎりの面汚し!! 壊れたあなたの末路にぴったりです!!」
「……それで? 好きにすればいいわ。一番大好きな人に、最低のことを知られてしまったもの。死んだあとの名誉なんて。もう全部どうでもいい」
おぞましすぎる提案にも、マリー姫様は目をうつろにし、俯き加減に力なく吐き捨てるだけだった。ゴルゴナは不快そうに眉をひそめ、フグのようにふくれっ面をした。
「なんです、それ!? 投げやりな無反応が一番つまんないですぅ。ふざけんなです。なんかゴルゴナちゃん、やる気が失せましたあ~。もう帰ろお」
興味をなくしたように、ぷいとゴルゴナがマリー姫様に背を向けた。
奇跡的な怪我の功名に、私は拳を握りしめたくなるのを必死にこらえた。この化物は気まぐれな導火線つきだ。ちょっとしたきっかけで、どんな突飛な行動に走るか知れたものではない。
「……そおだ。貴重なゴルゴナちゃんの時間を消費させたのですから、その綺麗なお顔を慰謝料としてもらおっと!! それでおとなしく帰ってあげますよ!! 女は顔が命!! 二目と見れぬズタボロ顔を、愛した男にさらしながら、無惨に生きながらえるがいいっす!!」
ぐるりと振り向くと、耳障りな笑い声をあげ、ゴルゴナが爪をふりかざした。
やっぱりか!! 本当にろくでもないな、こいつは!!
飛びこんできたフィリップスとともに、間一髪で剣をもってゴルゴナの爪を食い止め、私は歯噛みした。力自慢の二人がかりの全身全霊が、鍔迫り合いで押しこまれる!! こんな細い身体に……!! しかも相手は片手だぞ!!
「あら~、ゴルゴナちゃんの爪を止めるとは、人間にしてはやるう。でも、おバカさんですう。こんな指一本触れられない女の出来損ないを命がけでかばうなんて!! きゃはっ!! 安っぽい同情っすかあ? だとしたら、さらにみじめ。生きてる価値なんてますます無いですう」
絶望的に圧力が増してくる。みしみしと刀身がきしむ。潰されない様に防戦するので手一杯だ。私は自らを、そして姫様を奮い立たせるために叫んだ。
「ほざけ!! 化物風情の口が、マリー姫様の価値を語るな!! たとえ身体は触れあえなくても、私達の心は繋がっている!! だから、命でも魂でも喜んで懸けられるのだ!! ……おい!! フィリップス!! 押されてるぞ!! もう少し気合いを入れろ!! 貴様ご自慢のマリー姫様への愛はその程度か!? だったら、到底譲ることなど出来んなあ!!」
「ぬかせよ!! 相手の力を様子見してただけだ!! 本番はこれからだぜ!! ロートルなあんたこそ、あとは俺にまかせて、とっとと隅っこで休んでろ!! 無理すんな。息があがってるぞ!!」
強がりだけでなく、ここから本当に力を増すのがフィリップスという男の凄いところだ。相変わらず片手だけとはいえ、ついにゴルゴナを押し返しだした。私も負けじとさらに力をこめた。
「マリー姫様!! お聞きあれ!! バカな男ふたりが躊躇わず命を投げ出せる最高の女!! それがあなた様なのです!! それとも我々の命だけでは証明として不足ですか!?」
「おうよ!! マリー姫がおかずなら、自慰行為でも、百人の極上の女と寝るより価値があるぐらいだぜ!! たまにエッチなポーズを見せてくれるだけでいいから、とっとと俺のところに嫁に来い!!」
「おい!! フィリップス!! 笑わせるな!! 力が抜けるだろうが!!」
「……デズモンド……!! フィリップス様……!!」
私達のバカな掛け合いに、うちひしがれていたマリー姫様の瞳に光が戻った。
「……ちっ、希望に満ちた瞳ってむかつきますう。もっと絶望でまっくらな瞳が、ゴルゴナちゃんの好みなのにい。仕方ないから演出を変更しますよおっと」
ゴルゴナはもうひとつの片手で、自ら顔に突き刺さった銛をなんなく抜き取った。銛の穂先には返しがついていたのに、ぐじゅり、ごりっという胸糞悪い音とともに、力づくで引きぬく。頭についていたゴミを取るのを忘れていたというふうな気軽さだった。
「はい、ご注目」
驚くべきことに、血みどろの洞窟と化した抜け跡がみるみるうちに再生していく!! そういえば、先ほどの無数の武器の刺しあとからも、もう血が流れていない……!! 最後に目玉が眼窩の奥からせりあがり、ぽんっと音を立てて元の位置におさまった。瞬きをすると、ぎろんっと両目で私達を見て、ゴルゴナは牙をむいて笑った。
「マリー姫ちゃん本人を苦しめるより、このナイトたちを目の前で殺すほうが効果的と見ました!! ゴルゴナちゃんを貫いてくれたお返しにもこめて、二人まとめて串刺しです!! すぐ死ぬ頭と、ずっと苦しむお腹。ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な」
ゴルゴナは余裕たっぷりで血まみれの銛で数え歌をはじめた。
逃れようにも山がのしかかってくるような膂力がそれを許さない。
こいつ、まだ本気じゃなかったのか……!!
焦る私とフィリップスの額から苦悶で脂汗が流れる。
「よおし、苦しみが長びくお腹に決定!! おおっ、いい顔になってきました。自分が狙われるとなると、やっぱり怖いですよねえ。これも全部マリー姫ちゃんのせい!!」
違う。マリー姫様のために死ぬのはふたりとも本望だ。
だが、私達を殺したあと、この血に飢えた化物、がマリー姫様を見逃してくれる保証などない。むしろ死ぬよりひどい未来が待っているだろう。それだけは……!!
「やめて!! お願い!! もうやめて!!」
泣き叫ぶマリー姫様に、ゴルゴナは恍惚とし、はあ~っと邪悪な吐息を漏らした。
「うぅ~ん。これこれ。獲物はやっぱこうじゃなきゃあ。人間は自分よりも大切な誰かを傷つけるほうが苦しむから面白いですう。もっともっと絶望して、ゴルゴナを愉しませてくださあ~い」
だが、ゴルゴナのうっとりとした愉悦の笑いは、次の瞬間に終わりを告げた。
「……歓ばすですって? ふふっ!! あははは!! 笑わせないで。あなたがこれから味わうのは恐怖だけよ。勝ち誇って笑う前に、まわりをよくご覧なさい」
マリー姫の口調ががらりと変わった。
「……は?」
と一瞬ゴルゴナが笑いを忘れ、ぽかんとするほどに。
マリー姫様が目元を拭うと、そこには涙ひとつ零れてはいなかった。
怯える少女ではなく、いつもの端倪すべからざる姫様が、笑みをたたえてそこにいた。
「……なにを訳の分からない強がりを……。恐怖で頭がパーになっちゃいましたあ?」
小馬鹿にして笑い飛ばそうとしたゴルゴナだったが、マリー姫様が無言で指し示した方向に、つい目をやってしまう。はるか彼方に霞がかっている緑の岬が見えた。ゴルゴナの顔に衝撃が走る。
「なんでこんなに陸が近づいている!? 船は沖に向かっていたし、船員たちに操船する余裕なぞ……まさか1?」
なにかに気づいたように、ゴルゴナははっと上を仰ぎ見た。ぎしぎしと帆柱が軋んでいた。海風を帆がはらんでいるだけではない。よく目を凝らすと、ゆっくりと横棒が旋回していた。誰も操っていないのに、ひとりでに微調整し、風をとらえている!?
ゴルゴナの驚愕はこちら以上で、硬直している隙に、私とフィリップスは、ヤツの爪の下から転がるように脱出することに成功した。
純白の帆を背後に、マリー姫様がにっこりした。
「そうです。ブランシュ号はただの帆船ではありません。この娘は意志もつ船。ゴルゴナ、あなたのやり口がむかつくから、助けてくれるそうです。さあ、攻守逆転劇のはじまりです」
うってかわって好戦的なマリー姫様にゴルゴナは激怒した。
「……いひっ!! 非力な人間が、多少岸が近づいたくらいで、何を舞いあがってるんだか!! だったら、この船ごと沈めてやる!! あたしからこの距離を泳いで逃げきれる生物など存在しない!! 楽には殺さないよ。もう殺してほしいと哀願してから、何千回も海に引っ張りこんで弄んでやる……!!」
髪をざわざわと逆立て、大口をあけて牙をうち鳴らす迫力は、大鮫が小愛玩動物に思えてくる凄まじさだった。なのに、はらはらする私達をよそに、マリー姫様は余裕たっぷりだった。
「悪者はもったいぶって失敗すると相場が決まっているもの。今すぐ私を殺すことをおすすめしますよ? まあ、どのみち貴女は、ボコボコにされる未来が確定しているのですけど」
その挑発にゴルゴナの血相が変わった。
私達の知らない言葉で低く唸る。
それが呪術と直結する古代語だと気づき、私は戦慄した。
ゴルゴナの声が不気味なリズムで迸る。
こいつは化物顔の状態でも、歌を唄い海を操れるのか!?
「……沈め!!」
あたりの海域が晴天のまま大荒れとなった。水がいっぱいの洗面器が激しく揺さぶられたように、どぷんどぷんと海面がはねあがり、ブランシュ号は木の葉のように翻弄された。何人かが足を取られ、ごろごろと甲板を転がった。ブランシュ号を一飲みにせんと、海水の壁が立ちあがり、波しぶきの牙をむき出し、のしかかってくる。だが、天地がひっくり返ったような騒ぎの中でも、マリー姫様は意気軒昂だった。
「あなたの敗因を教えてあげる!! 残忍な性格のあなたは、人をいたぶって楽しむとわかっていた。だから、怯える演技をしたのです。それが時間稼ぎとも知らず、まんまとそれに嵌まった!! この距離は、あの方なら船に駆けつけられる範囲内。今すぐしっぽを巻いて逃げることをお勧めします」
真実かはったりかはわからないが、ゴルゴナを我を失うほど激昂させるには十分だった。
「手足を切り飛ばす!! 胴体だけで泳げるか試してみるがいい!!」
ゴルゴナが殺意の塊となって襲いかかり、私とフィリップスがあわてて阻止しようとしたとき、それは起こった。
岬で水柱があがった。最初は鯨の潮吹きかと思った。だが、水柱はひとつだけではなかった。次々に連なり、のこぎりの歯のような列となって、ぐんぐんこちらに迫ってくる。私は仰天した。水柱の列の先頭にぽつんと白い人影が見えた。水を蹴立てて、海面を走ってきている!? しかも、その人物は、私達のよく知る女性だった。
ブランシュ号を押し潰そうとしていた海水の巨壁が、断末魔の叫びをあげて爆裂した。まるで煙でも吹き散らすように、大質量を軽々と吹き飛ばし、白い聖女服がふわりとメインマストの先端に降り立った。70メートルほどの高さはある。断じて人間技ではなかった。
「なんだよ……!? あの弩級にヤバいのは……!!」
〝アギトの海域〟やゴルゴナにも一歩もひかなかったフィリップスが、驚愕のあまりチンピラのような語彙不足におちいっているのが妙におかしかった。無理もない。バカバカしいほど現実離れした光景に、私とてもう笑うしかない。
舞いあがった水煙が見事な虹をつくるなか、その女性は袖一つ、髪一本濡らさず、優美に微笑んだ。
「お久しぶりです。マリー姫様。お怪我はありませんか?」
鈴を鳴らすような心地よい声がふってくる。
「ひいいいいっ!? アンジェラ様あ!? どうして、こんなとこにい!?」
ゴルゴナがひきつった悲鳴をあげた。臆病な子供が至近距離で幽霊と顔を突き合わせたような反応だった。恐怖のあまり泣き笑いになっていた。
海の怪物を死ぬほど怯えさせているのは、聖教会の象徴、口の悪い連中には、無力な御神輿と小馬鹿にされる聖女アンジェラ様だった。
「デズモンド。アンジェラ様は力をひけらかさないだけで、私が知る限りの世界最強ですよ。一個師団ぐらいなら軽く素手で壊滅させられます」
私の心を読み、さらっとマリー姫様がとんでもない真実を明かす。
ステゴロ系最強聖女……!??
今までの必死な抗戦が、地味であほらしくしか思えなくなるぶっ飛んだ存在に、私はもう深く考えることを放棄した。とにかくマリー姫様の危機は去った。それだけでよしとしよう……。
だが、私の危機は思わぬ方向から来た。アンジェラ様の聖女服が、吹きすさぶ海風でまくれあがる。あんな高い位置に海で陣取っているだから当然だ。結果、下からの強烈なアングルが、私の視界に、すべてとびこんできた。あわてて目をそらしたが、脳裏に腿の奥の白い下着が焼きついてしまった。とたん私は尻を後ろから嫌というほどつねられた。
「言語道断です。命をかけると私に言ったばかりで、他の女性のスカートの中身に気を取られるとは」
痛みでとびあがりそうになった。
か弱いマリー姫様にこんな力が隠されていたとは。
それに男に触れるのは苦痛の呪いがかかっているはずでは。
「不快感は耐えればいいだけのこと。しかし、あなたが他の女性のパンツをおぼえていることは、絶対に許せません。さあ、今見た記憶を、残らず私で上書きしなさい」
呪いといっても実はたいしたことがないのか?
マリー姫様が私の髪をつかみ、そのまま顔をスカートのなかを押しこもうとはかる。鼻先が生足の際どい所を幾度もすりあげ、狼狽した私は視線で助けを求めたが、フィリップスたちは無言で目をそらしやがった。薄情者どもが……!!
あのゴルゴナが「うそん。なんで動けるの?」と目を丸くしているので、やはり強力な呪いは嘘ではないのだろう。なのにキスをしたり抱きついたり、我が主は、フィリップスに負けず劣らずの無茶な方なのだ。
「こんな恥ずかしいところにまでキスされては、もうデズモンドにお嫁にいくしかありません」
マリー姫様!? 顔を赤らめてもじもじしながら、今、ご自分の太腿で思いっきり私の顔を挟みつけていますが!? だいたいさっきのも不可抗力です。私はムダに目がいいだけです。純白の景色が勝手に向こうから飛び込んできただけです。誤解です。
私が心のなかで懸命に釈明につとめているあいだに、アンジェラ様が帆柱を逆落としに駆け降りて来た。蜘蛛の巣のように張りめぐらされたロープを軽やかにくぐりぬける。平地を進む以上の安定っぷりに、オランジュの連中が驚愕してどよめいた。
「どこに行こうというのです。ゴルゴナ。逃げる罪までこれ以上重ねるなら、問答無用で木っ端微塵にするしかありませんが?」
マリー姫様と私のドタバタ劇にまぎれ、こっそり這って逃れようとしていたゴルゴナのドレスの裾を、だんっと踏みつける。
「ぼ、暴力反対!! あ、あたし、急用を思いだしちゃったのです!! お母さんのお使いの途中だった」
いつの間にかゴルゴナは美少女顔に戻っていた。てへっと舌を出すのを、アンジェラ様はこめかみに血管を浮かべ冷たく見下した。だんっと容赦なく背中を踏まれ、ゴルゴナがあおっと叫んでのけぞった。
「たわけたことを。あなたのお母さんは何百年も前に亡くなっているはずですが? まったく往生際の悪い。せっかくアルフレド様と私の結婚招待状を渡しにきたのに、よくも台無しにしてくれましたね」
ハイドランジアのアルフレド王子のことですよ、とマリー姫様が耳打ちしてくれた。
驚いた。その名は私でも知っている。陸戦最強のベーアバウム王国との親善試合で、精鋭十人抜きをやってのけ、最後は天下無双と名高いシュタインドルフ元帥までも撃破した天才だ。そのときわずか十三歳だった。ベーアバウム国王が「もしわしの息子であったなら、今日にでも大陸統一にのりだせたものを」と歯軋りして悔しがったのはあまりにも有名な話だ。万能の天才にして容姿端麗、しかも気遣い性格も非のうちどころがないという。結婚など外交戦略でしかないとわりきる各国の王女たちが何人も、「どうか損得ぬきで嫁入りさせてください」と泣きついて父親達を困らせているとか。まさか聖教会の聖女と恋仲だったとはな。結婚するとなるとどれだけの女性が涙を流すやら。
アンジェラ様の言葉に、踏みつけられていることを忘れ、ゴルゴナがぱあっと顔を明るくする。
「ええっ!? わざわざあたしに招待状を届けに来てくれたんですかあ!! 感激ですう!! お礼に、初夜はあたしも交じって全面サポートしますね!! お股が未使用の骨董品なアンジェラ様でも心配いりませんよ!! 大船にのったつもりで、おまかせください!! 鞭に、縄に、蝋燭に、三角木馬に、刷毛に、……あとディル……あいたあっ!?」
破廉恥な準備品の提案を続けようとしたゴルゴナの後頭部を、アンジェラ様は思いっきりどついた。
「未使用の骨董品!? ぶち殺しますよ!? だいたいそんな爛れた泥船に乗るわけないでしょう!! あなたみたいな危険人物、結婚式場の半径5キロメートル以内に立ち入り禁止です!! 招待状は、マリー姫様に渡しにきたに決まってるでしょうが!!」
罵りながらアンジェラ様がゴルゴナをぐりぐり踏みにじった。
「ひっどおい!! ゴルゴナがお二人のキューピッド役をしたのに……!!」
ゴルゴナは悲鳴と抗議の叫びをあげたが、どうもわざと虐められて喜んでいるようにしか……。踏みつけられすぎて吐血しているのに笑顔だ。
「結果論でしょうが!! どこの世界に、新郎を海底にひきずりこんでコレクションに加えようとするキューピッドがいますか!!」
物静かな聖女のイメージしかなかったアンジェラ様も妙に生き生きとして見える。気の置けない悪友……というよりは、手のかかる妹を叱るしっかり者の姉と、なんだかんだでかまわれて嬉しい妹といった感じか。
ただ二人ともに常識外の化物すぎて、とても微笑ましい光景などとは言えないのだが……。
私達の視線に気づき、アンジェラ様は赤面し、ゴルゴナをどつきまわすのをやめた。
「お見苦しいところを。こんなあほの子にいつまでもかまっている場合ではありませんでした。ほら、あとで遊んであげるから、あっちで待ってなさい」
しっしっと手で追い払う。あのゴルゴナを小型犬あつかいだ。体育座りにさせて放置して意にも介さない。奔放なゴルゴナもおとなしく従う。それが二人の力関係ということか。ゴルゴナに好き勝手にやられたうえ殺されかけたこちらとしては、まだ腹に据えかねるものはあるのだが……。
「みなさま、お初にお目にかかります。聖教会で聖女をやらせてもらっておりますアンジェラと申します。お見知りおきを。お恥ずかしいところを最初から見せてしまいましたが、こんな自分なので、どうか今後お気軽にお声がけくださいね」
美しい挨拶と人を惹きつける微笑みに、オランジュ団がつられて笑顔で一斉に会釈する。
私のように警戒せず、普通に接するのは、さすがえりすぐりの海の男達と感心した。
「聖女なんてお高くとまっていると思ったのに、すごく気さくでいい人だ」
「俺らの知ってる聖教会のお偉方とは大違いじゃね?」
はしゃぐ彼らをフィリップスだけ苦々しい表情で見ていた。顔は蒼ざめたままだ。珍しいな。まさかこの男に限って、つまらん嫉妬でもあるまいし。
「仲間達を手懐けられたな」
「あいつらがガキのとき世話になった孤児院のシスターに似てるからな。おかげでやつらの性癖が、背が高く巨乳で天然ボケの美人好きに歪みやがった。だが、あの女はそんな生易しいもんじゃねえ……。まだゴルゴナなんて可愛いもんだ」
私は驚いてフィリップスの顔を見直した。冗談かと思ったが本気か。この目的のためなら神を悪魔もおそれない男がそこまで言い切るとは。
フィリップスの言葉が杞憂でないことはすぐに証明された。
風が吹き、ざんばら髪で隠れていたマリー姫様のお顔の半面があきらかになり、アンジェラ様が息をのんだ。
「マリー姫様!? 誰がそんなひどいことを!?」
胸が痛い。私が気つけのためにやむをえず張り飛ばした頬が、今になって腫れあがってきたのだ。
「私が……」
名乗りをあげるより早くマリー姫様が指をさした。
「あの人が笑いながらやりました」
「ええええっ!!?」
体育座りをしてハミングで時間潰しをしていたゴルゴナがとびあがった。ぐるんっと振り向いたアンジェラ様の血相が変わった。
「他にも、私の頭をゆっくり噛み砕いて感触を楽しむとか、何千回も溺れさせて苦しめるとか……。私を色情狂に洗脳してやるとか、首なしにした身体を生きた性人形にして、阿片窟での慰みものにして、国中の笑いものにしてやるとかも……」
「ゴ・ル・ゴ・ナあっ!!」
よよよと泣き崩れるマリー姫様の姿に、怒りの頂点に達したアンジェラ様の髪がばりばりと音をたてて逆立った。咆哮がびりびりと甲板を揺らす。先ほどのゴルゴナの変身にそっくりだ。もしかして、この方も人外なのか!?
「あなたという人は、いつもいつも残酷で卑猥なことばかり!! 私がそういうのが大嫌いなのは知っていますよね!!」
「ざ、残酷はともかく、アンジェラ様だって、じゅうぶん卑猥じゃないっすか!?」
もはや逃げられないと悟ったゴルゴナがやけくそで絶叫する。
「アルフレド王子としばらく会えない夜は、王子の名を涙声で連呼して、ひとりお布団でごぞごそやって喘いでますよね!! びくんびくんするまで!! 多いと一晩で五回くらい!! あれ? 六回だったかな? 聖教会の聖女は建前としては禁欲が旨なのに。これじゃ聖女じやなくて性女……」
とんでもないプライベートの暴露を、ゴルゴナは最後まで続けることができなかった。
「わあああん!! 災い、すべて滅すべし!!」
まっかになって泣き叫んだアンジェラ様の拳が、ゴルゴナの顔面に炸裂した。一撃で首から上が血煙となった。アッパーカットでなくストレートだったら、船べりごとぶち抜いてしまったろう。大風ではずれた風車の羽根のように高速回転して舞いあがったルゴナの身体が、空中で大爆発を起こした。な、なにが起きたのだ!?
「あの一瞬に、顔だけでなく全身に無数の拳を叩きこんでたんだ。けど、パワーがありすぎて、はじける前に空にぶっ飛んじまったのさ。だから、言ったろうが、ゴルゴナなんて可愛いもんだってよ……」
蒼白になってフィリップスが解説してくれた。
ごとんっと私の足元に尖った血まみれの塊が落ちて転がった。それが脊椎の一部と気づき、私は嘔吐しそうになった。
ばらばらになったゴルゴナの内臓や骨片が、生臭い血の雨とともにばしゃあっと甲板にふりそそぎ、剛毅なオランジュ団がパニックになって逃げ惑うなか、マリー姫様だけが笑顔でアカンベーをしていた。被害者の涙を流しながら、冤罪までなすりつけしっかり報復を果たすそのしたたかさ。王家の血筋を感じずにはいられない。
なにより、怒らせた女性ほど怖いものはこの世にない、という事実を、私とフィリップスは怯えた顔を見合わせ、あらためて胸に刻みこむのだった……。
お読みいただきありがとうございました!!
長かったでしょう。本当にお疲れ様でした。
またよろしければお立ち寄りください。
次回は少し悲しい話になります。
「光の章」と対になる「闇の章」です。