海の男達は戦場に命をかけ、咆哮するのです。託された小さな花を守るために。
ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!
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……前回に、次回投稿は二週間ほどのち、と告知しました。
ほど、ですから、一日オーバーはどうか許してください。
遅筆なのでこれで限界いっぱいなのです。
もしかしたら、あとで少し手直しするかもしれません。ご勘弁を。
鮮やかな帆に風をはらみ、大海原をいくジーベリック司令率いる艦隊。
原色が主の装飾は、戦場でもひときわ目立つ。
その獰猛な戦いぶりは、敵には「シャチ艦隊」とおそれられ、いつの間にか味方のあいだでも通り名になった。
先頭を進む旗艦の横に、ぴたりと一隻の艦が寄せてきた。操船のむずかしい帆船なのに、接舷ぎりぎりを保ち、並走し続ける技量はなみ大抵ではない。。
黒髪をなびかせた年齢不詳なグラマラスな美女が、旗艦に飛び移ってきた。幼げな顔立ちだが、体つきが少女であることを全力で否定していた。ジーベリックの妹ルコスだ。神秘的な黒い瞳は底光りし、一度見たら忘れられない。マイペースな彼女だが、じつは旧き呪術師の血をひく。ときに死者の魂と会話し、予知の力も持っている。
「……兄、マルコ少年が……!!」
艦隊司令の部屋にノックなしで飛びこむルコスの傍若無人さは毎度だが、その漆黒の瞳にはいつもと違い涙が浮かんでいた。
狭い部屋の棚にはずらりと酒瓶が並んでいた。中板をかませ、不意の揺れにも飛び出さないようにしてある。ジーベリックは蔵した酒をほとんど口にせず、海の女神への誓いや部下へのねぎらいに使ってしまう。マルコが艦隊を去ってから禁酒しているのだ。無事を祈る彼流の祈りだった。
椅子の背もたれを軋ませ、腕組みして天井を睨んでいたジーベリックは、深くかぶった帽子の隙間から、じろりとルコスを一瞥した。
「ルコス、あいつを少年と呼ぶな。もういっぱしの男だぜ。……逝っちまったんだろ。知ってらあ。今、あいつの魂が俺のとこに挨拶にきてたからな。もう飛び去っちまったが」
ジーベリックとテーブルを挟んでの椅子が、誰かが座っていたかのように引かれているのにルコスは気づいた。
「兄、だから、泣いてたのか……」
ぐすぐすと鼻を鳴らして問うルコスに、ジーベリックは顔をしかめた。
たとえ表情に出さなくても、ルコスは真実を見抜く。
だが、頑なにジーベリックは涙を否定した。
ぎいぎいと物悲しく椅子が軋む。
「は、泣いてねえよ。俺にはあいつのために泣く資格なんざねぇからな。俺は、呪術師の家系の力がさっぱりで、随分おまえを羨ましく思ったもんだ。だけどよ、死んだヤツと語れるってのは、これはこれでつらいもんだったんだな」
しんとした語り口は、涙以上に悲しみに満ちていた。
「……兄。泣いてもいい。友を悼んで泣くのは男の恥ではない」
ジーベリックは答えず、顔を見られることを恥じるかのように、帽子を動かした。
「ふん、マルコのヤツ、昔と同じちんまいガキの姿で訪ねてきやがった。バカヤロウが、久しぶりの再会で、誰かわからないかも知れねえって気を遣ったのかよ……」
ルコスが泣きべそになった。
「……ちがう。きっとマルコ坊やが伝えたかったのは、この艦隊に寄せる気持ちが昔のままだってこと」
「は、そんなわかりきったことを伝えるために、死んでからわざわざやって来たのかよ。律儀バカが。バカは死んでも治らないってな」
ジーベリックはさらに深く帽子を下げた。
「そんなお人好しだからドミニコなんぞに殺されちまったんだ。むかつくぜ。……なんで俺を頼らなかった。ここに戻ってこなかった。助けてくれと泣きつかなかった。そしたらよ、どんな汚ねぇ手を使ってでも俺が……」
ジーベリックは泣かなかった。
ただ悲しみを殺しきれず、肩を震わせた。
「やるせねぇよ。あんないい奴が、未来ある奴が、廃艦同然の俺より早く逝きやがって。せっかく惚れた女を守って、男として立派に散ってもよ。これじゃ、笑顔で褒められねぇよ。こんなことになるなら、貴族なんてやらすんじゃなかった。無理やりここに連れ戻しゃよかった。俺が、この俺が、あいつを見殺しにしたんだ」
一度あふれだした激情はとまらず、ジーベリックはひたすらに己を責めた。独白は大声に近かった。胸を裂く悲しみと悔恨が声を抑えることを忘れさせていた。
見かねてルコスがとりなそうとしたとき、遠慮がちにノックの音がした。
入室許可を求めたのは、マルコの屋敷の執事だった。
「……失礼ですが、お話が耳に入ってしまいました。……見殺しにしたなど、口が裂けても言ってくださいますな。主が、マルコ様がどんなに悲しむか。あの方は、あなた様から受けたご恩を生涯忘れませんでした。あなた様がたのことを私に語るとき、それは本当に嬉しそうに……」
ジーベリックのように鬢の毛だけでなく、髪全体が見事な白に染まった年長者の言葉は、耳を傾けさせる重みがあった。
老執事はハンカチで目頭をおさえてマルコを偲んだあと、ぴんと背筋を伸ばし、ジーベリックに向き合った。
「そして僭越ながら、ひとことを。我が主を、マルコ様を見縊らないでいただきたい。たとえあなた様ご本人が攫いにこられても、それをどんなに待ち望んでいたとしても、マルコ様は誇り高きご領主でした。自らの領地を見捨てて出奔することなど、たとえ命を失ってもなさるはずがございません」
老人の熱い言葉に、ジーベリックは目を見張り、長い反省の息をついた。
「そうだな、まったくそのとおりだ。俺はついあいつの生き様まで貶めるとこだった。諫めてくれてありがとよ。なあ、あいつはいい領主だったかい」
その問いに老執事は万感の思いをこめて頷いた。
「はい、お若いながら領民の誰からも慕われる……。亡くなられたことを知れば、みな胸が張り裂けるほど悲しみます。あと十年、いえ、あと五年あれば、きっと歴史に名を残す名君となられた。その未来が見届けられなかったのが、老いた私の心残りです」
「そうか、俺も見てみたかったよ……。俺達と袂を分かったあとも、あいつはあいつなりの道を立派に生きたんだな。……ふん、そうならそうで、さっき魂で来たとき、もっと自慢すりゃよかったんだ。ごめんなさいばかり言って泣きやがって。抱きしめて慰めるのに手いっぱいで、褒めそびれちまったじゃねぇか」
ジーベリックは嘆息すると椅子から立ちあがり、棚の酒瓶を手にした。
「禁酒、無駄になっちまったな」
小さく呟くと、戻ってきてグラスふたつをテーブルに並べ、酒を注ぐ。
「なあ、マルコ。大人の酒の味わい方を教えてやる。ただ酔うためにじゃねぇ。なにか大切なもののために乾杯するんだ。……おまえは一人前の漢になった。だから、その名誉のため、そして、俺のこれからのくだらねえ意地のために乾杯だ」
ジーベリックはグラスを打ち合わせたあと、ひとつを飲み干した。
「兄、まさか……!!」
息をのむルコスにジーベリックは答えず、執事に振り向いた。
「なあ、執事さん。マルコのとこの使用人のみんなの行先は決まったのかい」
執事は丁重に頭をさげ、感謝の意を示した。
「はい、おかげさまで。先ほど川辺の村でおろしていただいた者で終わりです。マルコ様は万が一にそなえ、我等の身の振り方をすべて手配されていましたから」
普通の軍艦では港以外につけるのはほぼ不可能だ。船底をこすってしまう。だが、奇襲を得意とし、ときに河まで遡る〝シャチ艦隊〟の艦は喫水線から下が浅い。帆とオールを併用する巧みな操船技術とあわせれば、信じがたい浅瀬まで侵入可能なのだ。まさに獲物をしとめるため波打ち際から飛び出してくるシャチそのものである。
「それにしてもさすがはマルコ様の師、ジーベリック司令ですな。まさか足手まといな我等を乗せたまま、ドミニコ王子の近衛艦隊をふりきろうとは。マルコ様にもあの痛快な光景をお目にかけたかった」
ドミニコはおのれに逆らう者を許さない。コロシアムでの言葉は脅しではなかった。本気でマルコの使用人たちを処刑する気だった。それを阻んだのがジーベリックだ。先手をうち、使用人たちを保護し乗船させ、さらに海上封鎖をしていた近衛艦隊の囲みまで破ってのけた。
だが、当の本人は、その評価ぶりにかえって憮然として吐き捨てた。
「はっ、よしてくれよ。相手は最新鋭の艦隊サマだ。まともにやりあう自信がないから尻尾巻いて逃げただけよ。マルコにゃとても見せられんぶざまよ。昔を思い出すぜ。司令は不摂生だから不覚を取るんですってよくお小言くらったもんさ。腰に手をあてたあきれ顔でな」
昔を懐かしむジーベリックは、すぐに厳しい表情になった。
「……それに、ドミニコ自慢のあの大砲、あれは正直手に負えん。俺の戦い方なんぞすっかり時代遅れさ。かつての最強艦隊もおちぶれたもんよ」
語っているうちにテンションが下降し、はあああっと肩をがっくり落すジーベリックに、老執事は微笑した。
「ご謙遜を。あなた様でなければ、あの大火力から、無傷で逃げおおせるなど出来なかったでしょう」
執事の言うとおりだった。
まさかの取り逃がしは、新しい海軍の方向性を問う大騒ぎにまで発展していた。
進水したばかりの近衛艦隊はおおいに面目を失った。華々しい戦歴を刻むはずが、まさかの出だしからの大コケだ。主のドミニコの面子も丸潰れだ。近衛艦隊の武を中核にし、権力の絶対化をはかるドミニコにとって許しがたい失態だった。
近衛艦隊の恨みは骨髄に達し、「シャチ艦隊」の行方をずっと血眼で追っている。
近衛艦隊司令にいたってはジーベリックの名を聞くだけで、たちどころに不機嫌になり、周囲にあたり散らしている。プライドが傷つけられたのもあるが、ドミニコに粛清されるかもしれないという恐怖で、背に火がついているのだ。ドミニコは部下の命を奪うことに一切の躊躇がない。
そんな敵のストレスを知ってか知らずかジーベリックは、
「そんな上等なもんじゃねぇよ。あの要塞みたいな大砲艦へのベストな対応策は、相手にせず逃げちまうことだ。いくら最新鋭艦でも、あんだけ大砲積んでりゃ、本気の俺達には追いつけねえ。鬼さん、こちら。手の鳴るほうにってな」
などととぼけたことを宣った。
だが、そこでジーベリックは言葉を一回きった。
帽子で隠れていた目がぎらりと剣呑な光を放ちだす。
「……けどよ、逃げっぱなし、やられっぱなしは、やっぱ海の男じゃねぇよなあ」
そう呟くとジーベリックは老執事に語りかけた。
「なあ、マルコの描いたっていうあの絵、女王スカーレットのポートレートを、もう一度見せてくれないか」
唐突な申し出だったが、年の功の執事は何故と問わず、すぐにマルコの遺した絵を胸に抱いて戻って来た。
それはスカーレットの小さな肖像画だった。
陽だまりのなか、幸せそうに笑っている。初心者のマルコが描いたとは思えない奇跡の出来栄えだ。まるでスカーレットにモデルを頼み、何日もかけて描きあげたように克明だ。だが、これはマルコが彼女の顔を思い出しながら描いたものなのだ。照れくさくて内緒にしていたため、スカーレットはこのポートレートの存在さえも知らない。
ジーベリックは肖像画を受取ってしばらく眺めた。
「……ルコス、どう思う」
うながされたルコスは深い息をつき、あらたに浮かんだ涙をごしごし拭った。
「ん。胸にくるいい絵、マルコの愛がこもっている。女王が本当に好きだったんだとわかる」
呪術師の彼女は真実を言い当てる。
ジーベリックも同意した。
「だな。あいつの気持ちが伝わってくる。それに泣けてくるほど幸せそうな笑顔してやがる」
老執事もまた涙をぬぐった。
「……マルコ様は表面上は口喧嘩ばかりでしたが、スカーレット様の笑顔こそが、この世でもっとも愛すべき尊いものと思っておられました。ご自分がずっと守っていきたいという想いで、小さな花という愛称を、スカーレット様につけられたのです。」
「ったく、素直じゃねぇ青臭いバカが。聞いてるだけでむず痒くなってくるぜ。それに隠してるつもりでも、この笑顔を守るためなら死んでもいいって思いが、絵からあふれ出しちまってるんだよ……。……本気で実行しやがって。立場上、どうやったって結ばれないってのはわかってたろうに」
室内の明り取りが、やるせなさに沈んだジーベリックの顔を照らす。
波浪の音を聞きながら、執事は静かに答えた。
「それだからこそです。それゆえマルコ様はスカーレット様への想いを口にできなかったのです。あの方を困らせたくないゆえに」
「……あいつらしいな」
ジーベリックは立ち上がり、部屋の隅の物置箱をあさり、純白のショールを掴み出し、それを立てかけたスカーレットのポートレートにかけた。絵のなかの幸せそうな笑顔を飾ったショールは、花嫁のウェディングドレスのそれを思わせた。
ジーベリックは花婿の父のように、優しい瞳をしてその前に立った。
「……小さな花か。なるほどな。なあ、マルコ。見えるか。最高の花嫁姿じゃないか。守りたかったよな。この笑顔を……」
そしてジーベリックは誓う。
「……かわりに俺が女王を守ってやる。女王はおまえを看取ってくれた。その恩返しだ。そしておまえの敵討ちだ。ドミニコがまっさおになり、女王に二度とちょっかい出す色気なんぞ起きないよう、再起不能になる一発をくれてやる」
「兄、駄目だ。ドミニコは討てない。毒も刃も奴には通用しない……」
息をのむルコスにジーベリックは頷いた。
「わかっている。ドミニコの背後にいる化物女が、ダメージを肩代わりしちまうんだろう。呪術か、ロマリアの禁忌かなにかでな。悔しいが、あの守りを崩す手は今のとこ思いつかん。だから、ドミニコの手足をもぐ。奴の虎の子の近衛艦隊をぶっ潰してやるんだ。ま、情けないが次善の策だな」
実際は情けないどころではない。蛮勇を通りこし無謀の極みだ。
老執事も蒼白になった。
最新兵器の大砲をハリネズミのように生やした近衛艦隊は、現時点で世界最強だ。圧倒的な火力と射程で一方的に相手を粉砕できる。対応策はただひとつ、ジーベリックがさっき指摘したように、ひたすら射程距離外に逃げることだ。まともに殴り合うなど犬死以外のなにものでもない。
だが、ドミニコは飄々としていた。
「ま、ドミニコへの最大級の嫌がらせにはなるわな。近衛艦隊はヤツの最大兵力で、あいつの軍事力の基盤だ。潰せば大陸制覇の野望どころじゃなくなる。ドミニコの権力そのものが追いつめられ右往左往だ。女王にかまっている余裕なんぞ消し飛ぶぜ」
ルコスは制止するかわりに、ジーベリックに念押しの忠告をした。
「兄、今更だが、近衛艦隊は、大国チューベロッサの技術と国力の結晶だぞ。一艦で従来艦十隻を上回る戦闘力をもつ。このあいだ逃げられたのは運がよかっただけだ」
ジーベリックは笑い飛ばした。
「は、そんなの臆病者の俺が誰よりわかってらあ。ふつうにやっちゃあ勝ち目は零だ。だが、ここは〝アギトの海域〟のそばだ。俺達の遊び場だ。……ここにゃ不定期で大渦が発生する。そのまっただなかに奴らを誘いこむ。奴らを裁くのは俺じゃねぇ。海の女神様だ。驕り高ぶった近衛艦隊の司令にそのご機嫌が読みきれるかな。海の女神様は怒らせるとおっかねぇぜ」
近衛艦隊司令は忘れているが、ジーベリックは過去に彼と因縁がある。もともと許しがたい相手なのだ。
ジーベリックから不退転の修羅の笑顔が漏れ出た。
さすがにルコスの顔色が変わる。
「……兄、まさか自ら囮になる気か」
「おうよ。それしか起死回生の手はねぇ。やつら、俺が姿を見せてやりゃ、きっと血相かえて追ってくる。ロートルの俺に黒星くらったままなんぞ、エリート様のプライドが許さんからな。おー、いちち」
本性をまた引っこめ、抜いた鼻毛を飛ばしながら淡々と語るジーベリックを、ルコスは睨みつけた。
「……兄、近衛艦隊の砲撃と大渦をふたつ相手は無理だ。生きて帰れない」
だが、ジーベリックの顔はむしろ晴れやかだった。
「だろうな。だが、近衛艦隊も道連れだ。俺という屑カードとドミニコのワイルドカードが引き換えだ。賭けとしては悪くない。もちろん、俺のつまらん意地に、おまえら全員を巻きこむ気はねぇ。片道切符の囮役はこの旗艦だけで十分だ。〝シャチ艦隊〟の司令は、今日からルコス、おまえにまかせた。頼んだぜ、愛すべきバカどものことを」
ジーベリックは吹っ切れた笑顔をルコスに向けた。
「……うむ、断る」
「なに!?」
即答のルコスの拒否にジーベリックは思わず目をむいた。
ルコスはびしっとジーベリックの額に指を突きつけた。
「聞け。馬車馬のように働くのは兄の役目。兄を犠牲にして楽に生きるが妹道。面倒くさい司令などまっぴら御免。兄は妹を養うべく全生涯を捧げるべき。死に逃げなんて却下」
言葉少ないルコスとは思えない魂の熱弁に、ジーベリックは唖然呆然とした。
「お、おまえなあ。この流れでそういうこと言うか!? ここは泣くなり笑顔なりで、楚々として兄を見送るべきだろうが……」
妹な気迫な押しまくられ、たじたじになったジーベリックは、なんとか態勢立て直し、抗議の言葉をしぼりだしたが、
「しゃらっぷ。自分に酔うな。目をさませ」
とルコスに斬って捨てられた。
それどころかどこからか取り出した水がジーベリックに浴びせかけられた。
「わっぷ!? なにしやがる!?」
濡れ鼠になって憤慨するジーベリックをルコスは鼻で笑った。
「妹のお目覚めサービス。よく寝ぼけ眼を見開け。どうせそのバカどもは全員兄についていく。誰も残らないのに、何を守れと? ……舷側を見ろ。オープン」
そしてルコスは論より証拠とばかりに、艦隊司令室のドアを蹴り放った。
ジーベリックの目に飛びこんできたのは、見慣れた色鮮やかな帆の群れだった。
接触すれすれで、全艦が旗艦をとり囲んでいた。
「どうせ兄はマルコの敵討ちをするとわかっていた。やり方も想定内。皆に声はかけ済み。すべては妹孔明の掌のうえ」
ルコスはふんぞりかえり大きな胸を張った。
「それを言うなら今孔明だろうが……」
なんだよ、今までの驚きは演技だったのかよ、と苦笑するジーベリック。面白がりのルコスは時々そういうことをやらかす。
ジーベリックを見つけた各船長たちが、ルコスの言葉通り口々に叫んだ。
「おいおい、大将!! ひとりで行く気かよ!? ぴかぴかのエリートどもに、うす汚れたおんぼろ船団で挑む。男のロマンだろ!! 独り占めなんてつれねえ!!」
「海の戦は武器や船にあらず、船乗りの腕と証明する好機なり。我、生きる意味を得たり」
「がははは、たまんねぇぜ!! こんなイカれた大博打、生涯望んだってお目にはかかれねえ。俺らは本当にくじ運がいい!!」
地団太踏む奴、人生哲学を語る奴、大爆笑する奴、反応はさまざまだが、全員が共通して近衛艦隊との真っ向勝負に燃えていた。
ジーベリックはあきれ返った。
「おまえら、ほんとうに救いがたいバカだな。ガチで死ぬぞ。わかってるのか」
脅しても誰ひとり怯む者はおらず、
「大将がバカだから部下もバカ揃い。勇将のもとに弱卒なし」
「マルコ坊やの仇を討ちたいのは、あんただけじゃねぇってことさ」
「かっこいい抜け駆けはなしですぜ。この艦隊は一蓮托生。沈むときはみんな仲良く地獄まで」
と逆に火に油を注いだ結果となった。
それだけではない。
「それに近衛艦隊の今の司令って、マルコをここから追い出す策謀をしたあの嫌味な下士官でしょうが。あいつ、泣いてるマルコを見て笑ってやがった。俺は忘れちゃいねぇ」
誰かがぽつんと言ったひとことに、その光景に立ち会った何人かが同意の歯軋りをし、あるいは怒声をあげる。それを聞いた全員の闘志に火がついた。近衛艦隊に拳を振り下ろすまで、もう止まらない。
……ジーベリックもその嫌な光景をよく憶えている。
泣いて残留を懇願したマルコを、そいつは嘲笑った。女々しい奴と唾を吐きかけた。マルコの涙がどれだけ重いか、知ろうともせずに。もしマルコが必死に目線で制止しなければ、ジーベリックはそいつを脳天から叩き斬っていた。
はあーっとため息をついて俯いていたジーベリックの頬に、凄愴な笑みが徐々に刻まれた。
ジーベリックは顔をあげ、ぎらつく視線で全員を睥睨した。
「おまえら、ほんまもんの海バカだ。それも特大級の大バカもんだ。だったら、望み通り一緒に地獄に連れていってやらあ。楽に死ねると思うなよ。……そのかわりに、海戦の歴史におまえらの名を刻んでやるぜ」
すべての艦で大歓声が巻き起こった。
「それとな。戦う理由がもうひとつある。細かい説明は省くが、近衛艦隊をぶち破りゃ、マルコが惚れてた女を助けることが出来る。マルコは彼女のことを小さな花と呼んでいた。いい女だぜ。見ろ、この絵を。マルコが遺した幸せそうに笑う彼女の肖像画だ」
ジーベリックは、スカーレットが描かれたポートレートを高く掲げた。
スカーレットの素性を知る者も、そうでない者も、息をのんで絵を見つめた。
「……なあ、笑顔を守ってやりたくなるだろう。だからマルコは命をかけた。俺はその遺志を継ぎたい。見ず知らずの女を守るために戦う。バカだよな。でもよ、海の漢だって、陸の騎士以上にロマンチックな戦いができるって証明してみせるってのは、なかなか痛快だよな」
ジーベリックは言葉をきり、男達の反応をうかがい、その目に宿る炎に満足した。
事情を知る者が知らない者に耳打ちし、興奮が伝播していく。
若き女王を悪の王子から守るというシチュエーションは、おおいに彼等の義侠心に火をつけた。ましてマルコの敵討ちも兼ねているのだ。
「焚きつけてなんだが、おまえら、ほんとに愛すべき大バカだな」
とジーベリックは苦笑いした。
「小さな花を守るためか、気に入りましたぜ。大将!! ……高貴な女性のために戦うってのは、なかなか悪くねぇ気分でさ。……おおっ、おっかねえ最新鋭艦隊さまのおでましだそうだ!!」
見張り役の報告が、全員に届けとばかりに、割れがねのような大音声で二次伝達された。
復讐に燃える近衛艦隊が追いついてきたのだ。
「来やがったか。気合入れろよ!! てめぇら!! 地獄を這いずる鬼ごっこのはじまりだ!! 俺らの武器は古臭いド根性だ!! あがいてもがけ!! あいつらを蟻地獄にはめるまで、泥仕合にもちこむぞ!!」
作戦を船長たちに伝え終えたジーベリックが叫ぶ。
命がけの戦いを前に、歴戦の船長たちは上機嫌だ。
「昔日を思い出します。この艦隊も最初は、ボロ船しか与えられなくて、そんなゲリラ戦法ばかりでした。懐かしい初心にかえった。それだけのこと。生々流転。これも悪くない」
「おいおい、安酒ばかりでぼろきれ着てたあの頃にかえるってか。乞食艦隊って陰口叩かれてたんだぞ。シャチ艦隊からずいぶん格下げだな。恰好よくマルコの仇討ちしようとしてるときに、あまりテンション下げるんじゃねえよ」
ジーベリックの文句に古参たち、と言っても殆どが古参だ……、が笑い合う。
「よし!! 総員、最期まで俺達のバカにつきあわせちまう船への感謝を忘れるな!! ありったけの愛と敬意を捧げとけ!!」
船員たちは艦を愛おしげに撫でたり、秘蔵の酒をかけたりした。
肉親や愛馬をいたわるに等しい態度だった。艦に命を託す敬意と覚悟のあふれるふるまいだ。
老執事は目を細めた。
〝マルコ様、これが海の男達なのですな。あなた様が帰りたがったわけがわかりました。見ておられますか。あなたの名誉を守るため、本物の漢たちが大海原を往く。願わくば、どうか彼等をお守りください。……そして、少しだけ泣くことをお許しを。不肖私、おそれながら、あなた様を本当の息子のように思っておりました〟
執事は、蒼穹を閃きとぶ白雲を見ながら、あまりに早く逝ってしまった領主を偲んだ。
年輪を重ねた頬を伝う涙を、海風が慰めるように拭う。執事は優しい主の気配を感じた気がした。
ジーベリックは、はおった司令服をひるがえし、手をふりおろし叫んだ。
「戦闘開始!! 全艦〝アギトの海域〟に突入せよ!! 七と五番の配置でいくぞ!!」
ジーベリックのシャチ艦隊は帆をひるがえし、海の難所に突入すべく舵をいっぱいにきった。シャチ艦隊を大砲の射程におさめるべく、近衛艦隊があとを追ってくる。彼等は座礁を避けるため、ジーベリック艦隊を地雷探知機がわりにし、航路をそのまま辿ってくる。
「さあ、俺達はてめぇの魂と命、ありったけを、この賭けテーブルにのせたぜ。おまえらの肝っ玉はいったい何を差し出せる?」
ジーベリックが迫る近衛艦隊を振り向きうそぶく。
近衛艦隊は知らない。ジーベリック艦隊が誘いこもうとしているのは海の袋小路だ。そこは、地殻変動で海に沈む前、天にそびえる奇岩群があったところだ。
満潮時には大型船でも航行に支障はない。だが、干潮時には岩礁の先端がせりあがり、船底に牙をむく。潮汐がきわめて大きいのだ。
さらにそそりたつ岸壁のような地形に阻まれ、潮のひきが周辺に比べ極端に遅い。その潮位差が激流を発生させ大渦を呼ぶ。そのときまで近衛艦隊をそこに釘付けにする。それがジーベリックの狙いだ。
その場所は奇しくも「真の歴史」で、セラフィが大艦隊を相手どり勝利したところだった。ふたりの海の天才は同じ決戦の場を選んだ。だが、セラフィのときの結末は……。
潮の流れが少しずつ速くなっていく。
逆巻く波をかきわけていくジーベリック艦隊の行く先に、海面から突き出た岩山が見えて来た。
「よっしゃ、うまく目的地まで誘いこめたぜ。おまえら、ここからが大博打だ。命をかけた指示を容赦なく飛ばす。最後までついてきてくれよ。海の漢ども」
ジーベリック司令が祈りとともに発破をかける。
待ってました、とばかりに男達がわくなか、桃色に染められた艦から猛然と抗議の声があがった。
「司令!! 海の漢だけじゃなく、ここには海の女だっているんすけどねえ!! 女王様みたく、あたしらも守るって言ってもらいたいっすよ」
ジーベリックの妹ルコスの率いる女だけで構成された艦、「桃シャチ号」だ。
もちろん文句は言いながらも、操船の手を休めることはない。そもそも文句も笑顔でだ。からかっているのだ。
じつはジーベリックはこの作戦決行前に「桃シャチ号」の離脱を提案し、女達にどえらい剣幕でやりこめられていた。彼は苦笑し、潮風に負けぬ大声で怒鳴った。
「おう!! いい女揃いのおまえらは、うちの艦隊の女神たちだ!! おまえらがいるからこそ、男達も燃えあがるってもんだ」
ええっ!? と男たちが目を白黒させるのを黙殺し、女達は嬉しそうにお互いの顔を見合わせた。
なにせ女神なら女王よりも上だ。気のいい女達だがやはりおだてには弱い。
「あら、やだ。女神さまだってさ。照れるねえ。でも、ずいぶんごつい女神だわさね」
「お互いさま。鏡をごらん。海やけしすぎの女神様さま」
「潮が化粧がわりで、海風が髪をくしけずる生活だからね。……あたしらみたいのに女神さまなんて司令もおだてがうまいこと」
きゃあきゃあ盛りあがる女達に、ジーベリックは真顔で告げる。
「……俺は冗談は言わんぜ。それがいいんだろうが。海に愛されたいい女のあかしだぜ」
「あら!! 口説かれてるのかね、これは。年甲斐もなく歯の根が浮きそうだよ。そうだ!! この戦いが終ったら、ここにいる独身者全員を司令に娶ってもらおうか!! 褒め言葉には責任取ってもらわなきゃね」
賛成!! と何十人も声をあげ、ジーベリックは苦笑した。
「あたしは妹だからハーレム入りは無理。代わりに妹としての永遠の扶養を熱望する」
〝桃シャチ号〟に戻っていたルコスが、どさくさにとんでもない要求をした。
ジーベリックは渋面になった。
「……おまえなあ。婆あになっても俺はずっと面倒みにゃならんのか。な、わかるだろ。俺はこいつで女は手一杯だ。残念だがハーレムの夢は諦めざるをえん」
心底うんざりという顔のジーベリックの頭を、よしよし、照れるなと言ってルコスが慰める。どの口が!? とジーベリックが怒鳴り返す。こんな際でも平常運転の兄妹のやりとりに笑いが巻き起こる。
「みんな残念だねえ。あたしら全員がかりでもルコス様ひとりに勝てないってさ。振られちまったよ。さ、任務に戻るとするか」
けらけら陽気に笑う女達に、両手を広げてジーベリックが宣言した。
「……婚儀の盃がわりに勝利の美酒をくれてやる。近衛艦隊の首を添えてな。そんな大バカのほうが色男よりおまえら好みだろう。……それに俺達は結婚なんぞしなくても家族だ。おまえらは俺が誰より守りたい人間なんだ。だから死ぬな。俺を悲しませるな。いいな」
苦み走った男の笑いを見せるジーベリックに、女達は頬を染め、ほうとため息を漏らし、男達は笑顔を向けた。彼等はつまるところ男も女もジーベリックに惚れこんでいるからここにいるのだ。
笑いさざめきながらも、〝シャチ艦隊〟は一糸乱れぬ統制を見せる。言葉のやりとりがなくても、長年連れ添った夫婦のように阿吽の呼吸で動けるのだ。
ジーベリック艦隊の動きを見て、近衛艦隊司令はこれは岩山を盾にするつもりだと判断した。
「ふん、もう遅い。大砲を甘く見たな。ジーベリック、所詮は時代遅れの軍人よ。まもなく射程範囲だ」
近衛艦隊司令が嘲笑し、腰巾着たちが阿諛追従して盛りあがる。その様子を叩きあげの副官が不安げにちら見した。
司令はジーベリックに海上封鎖を突破されたトラウマにとらわれている。それを隠すため激しく敵愾心を燃やすのだ。今だって普段は艦隊司令室でふんぞりかえっているのに、甲板に飛び出して指揮を取っている。その気負いが判断を曇らせなければいいのだがと副官は危惧した。
あの大しけの夜、海上封鎖をしていた近衛艦隊は、大事をとって湾内に停泊していた。そのどまんなかに〝シャチ艦隊〟は突っこんできたのだ。大型船をも激しく揺らす荒れた海を、中型船の彼等が自在に動きまわり、密集と揺れのため大砲を効果的に運用できない近衛艦隊を翻弄し、臆病さを嘲笑うかのように嵐のなかに消えていった。
〝ふん、あれは遅れを取ったのではない。殿下からお預かりした近衛艦隊を傷つけたくなかっただけだ。それを勘違いした下衆が、図にのりおって。近衛艦隊の真の強さを、今こそ思い知らせてくれる〟
屈辱の夜を苦々しく思いだしながら、近衛艦隊司令は残忍な舌なめずりをした。
「よし、大砲の射程距離内にとらえたな。砲弾の雨をたっぷりお見舞いしろ。岩ごと粉砕してやれ。ははっ!! カビのはえた船乗りどもに、これがしのげるか!?」
命令一下、近衛艦隊の全砲門が轟然と火を噴いた。ジーベリック艦隊には大砲の射程をこえる武器はない。反撃できない。策を弄す前に、安全圏から圧倒的な物量で粉砕してしまえる。
「……と思ってるんだろうな。やだねぇ、自信満々の男は。女に嫌われるぜ? 海の女神さまだって女なんだぜ」
力を誇示するような圧倒的な近衛艦隊の火力に、ジーベリックはやれやれとため息をついた。
岩山がたちまち削られていく。あたりの海域は、硝煙に覆われ、濃霧を思わす状況になった。艦影さえも白く呑みこまれていく。
そんななか、目の覚めるようなジーベリックの旗艦の旗色は、まるで標識のようによく目立った。
近衛艦隊司令は笑いだした。
「見よ。あの愚かものを。わざわざ居場所を教えてくれているぞ。大昔の騎士気取りの化石めが。いい標的だ。全艦、敵のあの旗艦に集中砲火をくれてやれ」
だが、司令の戦勝気分はあさっての方向から轟いた砲音で消し飛んだ。それも一発の誤射ではない。何十発の音があちこちからだ。
「馬鹿者どもが!! なにをやっている!? 敵の旗艦を狙えと言ったはずだ!!」
練度を疑われる大失態に、近衛艦隊司令の形相は火を噴くようだった。彼は部下に残酷だ。責任者を叩き斬りかねない勢いに、甲板の全員が逃げ腰になった。しかし、決死の覚悟で飛び出した伝令役の報告は、そんな司令に怒りも忘れさせる奇天烈なものだった。
「か、閣下、それが……!! 全艦が間違いなくジーベリックの旗艦を狙ったと……!!」
「なにを寝ぼけたことを」
怒りのあまり近衛艦隊司令は伝令役を足蹴にした。鼻血を出して転倒した彼を介抱する部下たちの目に恐怖以外の強い光が宿りだしたことに、司令は気づかない。それどころではなかった。硝煙がようやく薄れたとき、異様な光景が目の前に広がっていたのだ。
いまだ霞がかったなか、ジーベリックの艦の帆が何本も浮かび上がっていた。しかも向かっていたはずの岩山に背を向け、凄まじい勢いでこちらに迫ってくる。
「バカな。旗艦が二隻だと!? いや、三隻!? ……もっとだと!?」
伝令役は嘘を言っていなかった。
大失態のトラウマがよみがえり、艦隊司令が蒼白になって立ち尽くす。
恐慌状態の艦隊司令を見かねた副官が叱咤する。
「閣下、どうか冷静に!! 敵はすべての艦の帆を、同一に取り換えただけです!!」
ありえないことだがそれしか答えはないはずだ。〝シャチ艦隊〟の艦形はどれもよく似ている。同じ帆をつけるとぱっと見での識別は困難だ。
だが、そう見抜いた副官本人の額にも冷や汗が浮かんでいた。
近衛艦隊の乗組員達も落ち着くどころか、かえって恐怖に凍りついていた。
〝この短いあいだに帆の換装だと……!? 魔法でも使うのか。〝シャチ艦隊〟の奴らは……!!〟
帆船乗りだけにその凄まじさが理解できる。
もちろん普通の帆船にそんなことは不可能だ。単純な帆の構造の〝シャチ艦隊〟のみに可能な技だ。それに換えた帆も正面から目立つフォアマストのものだけだ。
だが、度肝をぬかれた近衛艦隊は完全にのまれ、判断力を失ってしまった。
「ははっ!! あまりに幼稚な作戦に驚いてしまったぞ……」
無理にはりあげた近衛艦隊司令の笑い声がむなしく響き、みじめに尻すぼみになった。腰巾着たちも追従を忘れ、ただぽかんと口を開いたままだ。
「閣下、ど、どの艦を標的にすれば……」
泣きそうな声で指示を仰がれ、はっと我にかえった近衛艦隊司令は叫んだ。
「ええい!! これしきの小細工であわてるな!! 指示せんと動けんのか!! 役立たずどもが。撃て!! それぞれの目の前の敵艦を掃討せよ!! 接舷させるな!! 乗りこまれるぞ!!」
命令に従い砲身が次々に火を噴く。
だが、〝シャチ艦隊〟の船速は予想以上で、しかもオールとの併用でありえない動きをし、なかなか的を絞らせない。対して近衛艦隊はためらっているあいだに懐ろに飛びこまれてしまったので、同士討ちをおそれ、いまいち精細を欠く攻めになってしまった。大砲の長射程が完全に仇になった。
再び硝煙に覆われた海面を睨みながら、近衛艦隊司令は歯がみする。
「なぜ堕とせん!! 無能どもが!! これでは、あのときの再現ではないか!! 火力はこちらが圧倒的に……ぐおっ!?」
すさまじい衝撃が艦を揺るがし、甲板がつきあげられた。手すりから身をのりだしていた近衛艦隊司令はあわや海に放りだされるところだった。副官が咄嗟に上着を掴んで引き戻さなければ、真っ逆さまだったろう。落ちればよかったのにと、下士官たちが舌打ちする。
「なにが起きた!? 座礁か!?」
尻餅をついたまま叫んだ艦隊司令は、かえってきたありえない報告に仰天した。
「違います!! ラムです!! 〝シャチ艦隊〟がラムでこの船の舵板に突撃しました!!」
目をぱちくりしたあと、言葉を正しく認識した艦隊司令は恐怖と嫌悪にうめいた。
「……ラム!? あのふた昔前の海戦の衝角のことか!? それで大砲に向けて突撃するだと!? 気狂いの原始人どもめ……!!」
悪夢に迷いこんだ気がした。
大航海時代のはるか前、船首に角を装備し、特攻して敵船を食い破る戦い方があった。その太古の船の肉弾戦が、まさか大砲搭載の最新鋭の艦を追い詰めようとは……!!
幸い今の衝突でも舵板は無事だった。だが、何度も突撃を許せば、いずれ舵板は破損し、この艦は航行不能になる。
「ええい!! なぜ煙がまだ晴れん!? 物見は何をさぼっている!! これ以上あいつらを近づけるな!!」
獲物に執拗に攻撃を繰り返すシャチの狩りを思いだし、近衛艦隊司令は苛立って絶叫した。
「……やつら、自分でも煙幕を焚いてやがるんだ……」
目敏い船員たちが煙の流れでからくりに気づき、お互いの怯えた顔を見合わせた。旧式の〝シャチ艦隊〟にいいように翻弄されていると悟ったのだ。
「俺達は奴らに本当に勝てるのか……?」
思わず洩れた疑問はどちらの言葉だったのか。ふたりとも同じことを感じていた。
まるで一個の生き物のように機能する〝シャチ艦隊〟と比べると、近衛艦隊は司令の恐怖政治が仇になり、緊急時でも指示待ちのありさまだ。意思統一がはかれていない。ばらばらだ。圧倒的優位だったはずの自分達が、じつは狩られる立場だったのではという不安に心を鷲掴みにされていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「……どうだ、近衛艦隊。時代遅れの戦の味は」
ジーベリックは腕組みして前を睨んでうそぶく。
彼は近衛艦隊司令の性格を読みきっていた。
〝シャチ艦隊〟の目的は岩山に隠れるのではなく、近衛艦隊の一斉砲撃を引き出し、硝煙で視界を奪うことだった。そして的を散らし、突撃をかける。
だが、その真の狙いは、近衛艦隊をラムで撃沈することでも、超接近して大混戦でもない。捨て身のこちらに近づきたくないと恐怖を叩きこむことだ。そのための無謀な特攻だった。
本番はこれからだ。
ジーベリックの緊張したまなざしは、無数の大砲で武装した近衛艦隊よりも、むしろ眼下の海流に注がれていた。艦隊戦で海面が乱れ、ひどく潮が読み辛いのだ。
「……きた……!!」
海の変化の微かな前兆に、ジーベリックの顔色が変わった。
「全艦!! あの岩山に向け急速回頭!! 死にたくなきゃあ、全速力で突っ込め!! 勢いつけて浅瀬にのりあげるんだ!! もう近衛艦隊にかまうな!! 急げ!!」
近衛艦隊相手に乱戦にもちこんで渡りあっていた「シャチ艦隊」は、その優位をあっさり捨て、舳先をひるがえし、次々に全速で岩棚にのりあげはじめた。喫水線から下が浅い構造のため、転覆こそしないが、岩に挟まれるように座礁し、身動きできなくなる。まるで陸にうちあげられたマグロの群れだ。
意味不明の行動に、近衛艦隊は呆気にとられたが、さすがにすぐに追撃の態勢にうつった。
だが、今の不意打ちで苦戦させらればかりなだけに、〝シャチ艦隊〟に近づくことは忌避した。
それが地獄への分岐点になるとも気づかずに。
「不用意に接近するな。また罠かもしれん。このまま距離をおいて砲撃で粉砕せよ!!」
あわや旗艦を沈められるところだった近衛艦隊司令の髪は逆立っていた。あんな狂った連中にまともにつき合ったら何をされるか知れたものではない。この失態をドミニコに知られればなんと思われるか。
「閣下!! 危険です!! ジーベリックは百戦錬磨!! こちらのこの出方は予想しているはずです!! せめて二手に分けて……」
嫌な予感がした副官の進言を、司令は青筋をたてて却下した。
「うるさい!! 距離をとれば、殿下から賜ったこの近衛艦隊が負けるはずがない。勝ちさえすれば、殿下の信頼も……」
殴り飛ばされた副官はぞっとした。
完全に偏執狂のいった目をしていた。司令は自分の考え以外はすべて受けつけないのだ。机上では優秀なのだろうが、現場でこれではあまりに幼稚すぎる。
きっと自分は生きて帰れないだろう。部下たちも全員、海の藻屑と消える。陸と違い、海に逃げ場はない。部下たちの家族になんと詫びればいいのか……!!
先ほど近衛艦隊司令を助けたことを、副官は心の底から後悔した。
近衛艦隊は得意の縦列の陣を洋上に展開した。
舷側の三列の砲門蓋がすべて開いた。運搬係が通路で肩をぶつけあうようにし、火薬袋を抱えて走り、砲を支える車輪が発射の反動で重々しく床を軋ませた。火傷しそうに熱い砲身の煤がすぐさま除かれ、新たな火薬と砲弾が送りこまれる。数人がかりの力で砲が前方に押し出され、再び耳をつんざく炎と煙を轟かせた。
ようやくの本領発揮に近衛艦隊から快哉の声がおこった。
動かぬ標的となったジーベリック艦隊に雨あられと砲弾が降り注ぐ。
岩の遮蔽があるとはいえ、たちまち大被害が続出した。甲板にいたジーベリックも至近距離に直撃を受け吹っ飛び、マストにまともに叩きつけられた。命に別状こそなかったが、ジーベリックの左腕は骨折していた。あわてて船員たちが救急用具をもって駆けつけたが、ジーベリックは身振りで制し、額から血を流して苦笑した。
「さすが最新鋭艦隊だ。調子にのらせると、文字通り骨を折る相手だな。おっさんにはしんどすぎらあ。だがな。これからあいつらが見るのは、左腕一本どころじゃねえ地獄だぜ」
煙と炎に〝シャチ艦隊〟が包まれていく。
近衛艦隊司令は勝利を確信し、高揚感で目がくらんだ。
だが、彼等が砲撃に夢中になっているあいだに、煙の向こうでは潮目が完全に変わっていた。
艦が妙に縦揺れすることに気がついたときにはすでに手遅れだった。
悪夢がはじまった。
海は轟き、大渦が近衛艦隊のまっただなかに突然出現した。その渦は瞬く間に膨れあがり、貪欲にすべてを吸いこみだした。海の底が抜け、地獄への穴が開いたような恐怖の光景だった。
ジーベリックは渦の現れる位置を予想し、近衛艦隊がそこに陣を張るように誘導したのだ。
大型艦が木の葉のように翻弄された。舵も帆も大砲もその猛威にはまったく歯がたたなかった。暴発した大砲が僚艦を撃ち抜き、引火した艦内の火薬の爆発で船体がまっぷたつになる。どこもかしこも助けを求める悲鳴で阿鼻叫喚となった。
「すまない!! おまえたち!!」
号泣して部下たちに謝りながら、救助に走り回っていた副官が、波にのまれて消えた。
縦列陣をとっていた近衛艦隊は、一斉に渦に引き寄せられたため、からみあうように舳先をぶつけあい、脱出がより困難になった。転覆した帆船のマストとロープが倒れ込み、他の艦を巻き添えにしていく。
「こんな馬鹿な!! 座礁した相手に負けるだと!? こんな艦隊戦があってたまるものか!!」
傾く旗艦の甲板上で帆柱にぶら下がり、近衛艦隊司令が絶叫する。
その断末魔はジーベリックの耳にも届いた。
「……あるんだよ。おぼえときな。しょぼくれたおっさんの捨て身は、ときに勝利の女神のキスを引寄せるってことをな」
近衛艦隊司令は力尽きて落下し、「ドミニコ殿下、お助けを!!」と悲鳴をひいて、荒れ狂う海面にのみこまれた。
「あいつは助けてなんちゃくれねぇよ。最後まで部下じゃなく、あいつのほうしか見なかった。それがおまえの敗因だ」
ジーベリックは物憂げにその最期を見届けた。
どんな船も海上にいる限りこの大渦の影響からは逃れられない。ならば味方すべての艦を生き残らせるには、海でなく陸にあげて避難させるしかない。それが彼の奇策だった。
大渦に吞みこまれていく最新鋭艦隊を見つめながら、折れた左腕をおさえ、ジーベリックは呟いた。
「いつかおまえらも年老いて、自分より若くて強い連中と戦うときがくるだろう。そのときはこの戦いを思いだせ」
生き延びられたらな。
とジーベリックは心の裡で続けた。
なんとか渦を逃れた敵艦数隻が〝シャチ艦隊〟にならい、岩棚にのりあげての必死の退避をはかったが、あれは喫水線から下がきわめて浅い船だから出来たことだ。重武装の近衛艦隊に真似できるものではない。船速も足りず、たちまちまた渦の流れにつかまり、引き戻されていく。懸命のあがきは、終焉までの恐怖の時間をいたずらに引き伸ばしただけだった。
「無理だ。おまえらの艦は重くてでかすぎる。悪いがどこにも逃げ場はねぇよ」
ジーベリックは暗鬱として、口いっぱいに絶望の悲鳴をあげ、地獄に連れ戻されていく船員たちを眺めた。敵とはいえ、目前で若者たちの命が塵芥のごとく潰れていく。遺される親や妻や子の気持ちを思うとやりきれない。
このまま戦艦に乗っていては破滅だと悟り、まだ生き残っていた近衛艦隊から次々にボートが投げ出される。
だが、大荒れの海面だ。たいていがすぐに転覆したり、我先にと群がる兵たちごと墜落した。奇跡的にうまく着水しても、戦艦同士の激突に挟まれてミンチになったり、軽さゆえ真っ先に大渦に引き寄せられた。直接艦上から飛びこんだ者もいたが、大半は波間に漂うことさえ許されず、二度と浮かび上がってこなかった。
海飛沫と轟音が、海底の岩の牙で命をすり潰していく。犠牲者の血で海がまっかに染まる。
ようやく大渦がおさまったとき、あれほど威容を誇った近衛艦隊は、綺麗さっぱり洋上から消え失せていた。
ジーベリックは嘘のように穏やかになった海面を哀しげに一瞥した。艦の破片や帆の残骸、そして無数の水死体が、たった今まで地獄が繰り広げられていた残滓だった。
「戦いは終わりだ。近衛艦隊は壊滅した。おまえらよくやってくれた。最高だぜ」
ジーベリックのねぎらいに、〝シャチ艦隊〟の面々がどっと歓びにわく。
「……で、疲れてるところ悪いが、もうひとつ頼みがある。俺達の敵はもういない。目の前にいるのは遭難者の群れだ。で、だ……。……!?」
波間に漂う生き残りたちを横目にしながらジーベリックが切り出した。疲労困憊した彼等はもう自力で岸にはたどり着けまい。放置すればすぐに溺死する。だが、ジーベリックが頼み終わるより早く、すでに救助用の小型ボートが次々に艦からおろされていた。
「は、早いな!? おまえら。いいのか?」
愕然としたジーベリックに、〝シャチ艦隊〟の面々はあっけらんかんと笑った。
「戦いが終れば、敵といえど同じ軍艦乗り。文句ある奴などいるはずがありませんよ」
小気味いい即答に、ジーベリックは顔を片手で覆い、ははっと苦笑した。
「出来がよすぎだろ。おまえら。上司の見せ場を奪うんじゃねぇよ」
この海域は血の匂いを嗅ぎつけすぐに鮫が寄ってくる。水際立った鮮やかさで救助は進められ、運良く海底に引きずりこまれなかった漂流者たちが拾い上げられた。
「おい!! しっかりしろ。見た目は派手だがたいした傷じゃねえ」
「早くこっちで暖をとれ」
「毛布と包帯をまわしてくれ!!」
備蓄を気にせず、惜しみなく医療物資や食料、衣類等が放出された。
その厚遇に、九死に一生を得た者達は涙を流した。
同時に砲撃と座礁で損傷した艦の応急処置が急ピッチで進められた。
その喧噪を横目にしながらジーベリックはマルコの魂にそっと語りかける。
〝……マルコ。おまえの大切な小さな花は守ったぜ。だから、もういいよな。若い連中の死は、どうしてもおまえと重ねちまう。これ以上は俺には追い詰められんよ。おまえは『司令は甘い』って叱るかな。いや、きっと『司令らしい』って微笑んでくれるよな……〟
ジーベリックは船尾に立ち、手にしたボトルを傾けた。マルコとこの戦いの犠牲者を悼む酒が、飛沫をきらめかせ、蒼い海に静かに吸い込まれていく。
再び潮が満ちたとき、奇跡的に〝シャチ艦隊〟全艦が浮上に成功した。継戦能力はほぼ喪失したが航行に支障はない。
「愛しい船たちもすべて無事か。海の女神に感謝だな。俺達の航海はまだ終わらないってとこか」
ジーベリックのキザな台詞にみなが満面の笑みを浮かべた。
口の悪いルコスもなびく黒髪を耳にかけて微笑む。
「さあ、いくか。愛しき腐れ縁どもよ。帆を張れ!! 『シャチ艦隊』斜陽とともに出航だ!!」
けなされると思っていたジーベリックは、照れ隠しの笑顔で怒鳴った。
バンダナや帽子を宙に放り投げ、みなが大歓声で応じた。
艦も人も満身創痍だが、風をはらむ帆は誇らしげだ。
オレンジ色の落日を船尾に曳き、艦隊は海原を進む。
近衛艦隊の生き残りの何人かはこのときの恩を忘れず、これ以降ドミニコ王子のもとを離れ、ジーベリックの艦隊と行動をともにするようになったという。
◇◇◇◇◇◇◇
コロシアムでの戦いから一週間ほどが過ぎた。
私はとある岬に立ち、おだやかな海を眺め、人を待っていた。ずっとマルコが会いたがっていた人。私はどうしても彼に会い、マルコの気高い最期を伝えなければならない。
綺麗な空と海は、マルコがもういないとは信じられないほど澄んでいる。切なくてまた涙がこぼれた。塩気にたえて咲く一輪の野の花が揺れている。
〝……小さな花。君はひとりで頑張りすぎるんだ。僕でよければ力になる。遠慮なんてする柄じゃないだろ。なんでも言ってごらん〟
忘れようとしても、懐かしい声が脳裏によみがえる。
辛口のマルコとはいつも顔を合わせれば口喧嘩ばかりだったが、私が落ちこんでいるときは敏感に察した。そんなときの彼は大甘で限りなく優しかった。その心遣いにどれだけ慰められたか。でも、マルコはもうこの世のどこにもいない。
私ね。今とても寂しいし、悲しいんだよ。マルコ。
私の喉から嗚咽があふれた。
今日は私がハイドランジアに帰国する日だ。
国に帰れば女王業の再会だ。もうマルコを悼んでこの喪服を着ることさえ許されない。命をかけてくれた彼に、なにも報いてあげられない自分の立場が恨めしい。
……コロシアムの死闘以降、ドミニコはぱったりと私に魔の手を伸ばすのをやめた。それどころではない騒ぎが起きたのだ。ドミニコ自慢の最新鋭の近衛艦隊が、演習中に嵐に巻きこまれ、海の藻屑と消えた。
その報を耳にしても、ドミニコはなお笑顔のままだったが、グラスを握り潰し、破片で手が血まみれになったことにも気づいていなかったと聞く。鉄面皮のあいつにとっては、泣き喚いて床を転げまわるに匹敵する反応だ。近衛艦隊には国家予算数年分が惜しみなくそそぎこまれていた。相当堪えたのだろう。
ざまあみろだ。マルコに見せてやりたかったよ。
これによりドミニコの覇道は十年は後退した。大陸でのチューベロッサ一強は崩れた。海軍は大混乱におちいり、ドミニコ反対派が息を吹き返した。
私へのドミニコからの監視はいまだ続いているが、だいぶ緩いものになった。私に一流どころを割く余裕がなくなったんだ。
それにブラッドが気づくたびに追い払ってくれている。
彼はつかずはなれずで常に私の視界の隅にいる。だけど、時々すうっと姿を消すと、「もう心配ない。片づいた」と言って戻ってくる。なにをどう片づけたのかは怖くて聞けない。なにせ世界最強の殺し屋だ。その手は返り血でまっかに汚れているだろう。
でも、口元がたれで汚れていたことがあったのを私は見逃さなかった。格好つけてるけど、ただ買い食いに出かけているときもあったに違いない。
彼はマルコとの約束どおり、帰国まで私の護衛につく気らしい。義理堅くてありがたいのだが、いつもは私の命を狙っている相手だ。妙に胸がざわついて落ち着かない。
あいつは意外なほど過保護で、一度私がバスタブで足を滑らせて悲鳴をあげたときには、窓から室内に飛びこんできた。
「ど、ど……!!」
どこから飛びこんでくんの!? と私は猛抗議したかったのだが、驚愕で呂律がうまく回らない。
本来の女王の身分なら着替えは侍女まかせだが、庶民派の私は基本すべてひとりでやる。密室でメイドに暗殺されかけたこともあったしね。ということで他人の目に裸をさらすことに慣れていない。まして相手は成人男性。うろがきたって仕方ないのだ。
「ど? ……そうか、毒蛇か!?」
私の言葉を早とちりしたブラッドは、緊張した面持ちでバスタブのなかに視線を走らせ、間一髪で巻きつけることに成功した私のタオルを剥ぎ取ろうとした、
「噛まれたところはないか。恥ずかしがっている場合ではない。一刻を争う。見せろ。血流操作で解毒する」
私の身を守る最後の砦は風前の灯だった。
「ど……!!」
「毒蛇だろう。わかっている」
私と壮絶なタオルぐるぐる争奪戦を演じながら、ヤツは真顔でうなずいた。
「どういう頭してるって言いたいのよ!! このバカ!!」
私は怒りの声とともに、唖然としたヤツの顔面に、金属の洗面器を炸裂させた。
あぶなかった。タオルが胸から落ちる寸前に、なんとか視界を奪うことに成功したよ……。残念ながら私の胸はひとよりちょっぴりだけ引っかかりが少ないのだ。
これからあいつの事を、アサシンではなくあほブラッドって呼んでやる。
そういえばブラッドのヤツ、姿が見えないと思ったら、妙なところから出現することもあった。
床まで垂れたテーブルクロスの中とか、植えこみの中からとか……カモフラージュがわりに小枝と小鳥のつくりものを頭にのせていたり、テーブルの下で長身を窮屈に曲げて両ひざを抱えていたり。しかもなぜか格好いい貌で……。水面に突き出た筒が、すうっと移動して私についてきたときもあった。あれもたぶんブラッドだろう。
寡黙で沈痛な風貌に騙されていたけど、あいつ、きっとトンチキムーヴの持ち主だよ。私のブラッドの評価が、大幅に下方修正されたのは言うまでもない。
そんな頼れるブラッドが、私の待ち人を案内し、岬をゆっくり登ってきた。
「『シャチ艦隊』のジーベリック司令だ。直接顔をあわせたことはないだろうが、知らない仲ではないはずだ」
ブラッドに紹介され、ジーベリックは、あーと言いながら、気まずそうに白髪交じりのぼさぼさ頭をかいた。
艦隊司令の制服を着崩し無精ひげを生やしているが、だらしないという感じはなく、どこか飄然とした印象を与える。包帯でつった左腕が痛々しい。右腕には包みに覆われた四角い板のようなものを抱えていた。
そしてブラッドの言うとおり、私とジーベリックは過去に接触している。私の令嬢時代に、ドミニコの命で拉致に動いたのが、彼の〝シャチ艦隊〟だった。海どころか川まで自在に行き来する操船技術には何度も苦汁を舐めさせられた。だが、妙に詰めが甘く、いつもすんでのところで私を取り逃がした。
司令が私の境遇を気の毒がり、手を抜いていたのだとあとでマルコに教えられた。その責で最強艦隊の座にありながらのちに閉職に追いやられたのだという。
「はじめまして、と挨拶させてもらおうか。女王陛下。まともな顔合わせは初だな。昔、随分怖い思いをさせてすまなかった。元艦隊司令のジーベリックだ。元な。ちとドミニコに叛旗をひるがえし解雇されちまってな」
そう言って屈託ない笑顔を彼は見せた。
やはりマルコの邸宅の使用人たちの逃走劇に手を貸したのは彼だったのだ。
「いえ、あのときは私こそ助けていただいて……」
私はあわてて頭をさげた。
もしジーベリックが最初から私の誘拐を辞退すれば、後任は小ドミニコと陰口を叩かれる士官にまかされる予定だった。私をあぶりだすためなら、無関係の町ごと焼き払うタイプで、のちに近衛艦隊司令にのぼりつめた。そうさせないため、ジーベリックはあえて汚れ仕事を引き受けてくれた。ある意味ジーベリックは私の恩人だ。
ジーベリックは相好を崩した。
「そうか。マルコからいろいろ聞いていたか……」
と目を細める。
私はそのあとの会話が続けられなかった。
さげた頭をあげることが出来なかった。
彼にどうやってマルコのことを詫びればいいのだろう。
「あの、私……!!」
私は切り出そうとしたが、胸が詰まって言葉にならなかった。
謝る? 謝ってどうするの。そんなことをしてもマルコは帰ってこない。彼等からマルコを奪った原因は私なのだ。
私は拳を握りしめ、ただぽたぽたと足元に涙を零すことしか出来なかった。
ジーベリックは困ったように顎をかくと、私に微笑んで語りかけた。
「いい女は喪服が似合うと聞くが本当だな。マルコが惚れただけのことはある」
彼は私を責めも慰めもしなかった。冗談めかして褒めただけだ。
「だがな、もう喪服はいいんだ。マルコは笑って逝った。あんたがいつまでも悲しんじゃ、マルコが成仏できねぇよ」
そして、ただマルコが望むであろうことを私に告げた。人生の酸いも甘いも噛分けた、男の優しい対応だった。マルコの最期をブラッドが語ったのかもしれない。
「……なあ、この絵を見てくれ」
ジーベリックはそう切り出し、片手で器用に包みをほどいた。
私は驚きに目を見張った。
彼が大事そうに抱えていたのは、まさかの私の肖像画だった。着ているドレスに覚えがある。マルコとはじめて出会ったときのものだ。よく目を凝らすと彼のタッチの癖がわかった。いつの間にこんなものを……。
渡された肖像画に見入る私に、ジーベリックがしみじみと語りかける。
「マルコに絵の手解きをしたのはあんたなんだってな。お眼鏡にかなうかどうかはともかく、俺は心のこもったいい絵だと思っている。マルコはあんたを小さな花って呼んでたそうだな。まさにその通りの絵だ」
私は思わず苦笑した。
「……バカね……。マルコ。審美眼が腐ってたんじゃないの。私、こんな美人じゃないでしょうが……」
美形すぎて笑ってしまう。でも、絵からマルコの私への愛が伝わってくる。
「マルコの望みはあんたがこの絵のように幸せな笑顔でいることだった。だから、もう泣くな……」
私はジーベリックにそう言われて、自分が笑っているつもりで泣いていることに、はじめて気づいた。
「……あれ……。……私、泣くつもりなんて……」
だけど、マルコのことを思いだすと涙がとまらなくなった。彼がどんなに私を大切に思ってくれていたかが、その絵にはこめられていた。でも、もう彼はいない。照れることも、からかうことも、お礼を言うことも私には出来ない。ただ彼の優しさだけが変わらずそこにある。それが寂しく、涙がこぼれて仕方がなかった。
「……っ……!! ……ううっ……!!」
私は笑顔をつくろうとしたが、涙をこらえるため、肩を震わせ歯を食いしばることで精いっぱいだった。私はマルコに心のなかで泣きながら謝った。
〝ごめんね、マルコ。泣き虫で……!! 私、努力してるんだけど、この絵のように笑えないよ……!!〟
嗚咽する私にジーベリックは困惑し、ばりばりと頭をかくと、ブラッドに振り向いた。
「おい、女の涙は苦手だ。ブラッド、なんとかしろ」
ふられたブラッドがかぶりを振る。
「無理だな。血の操作はできるが、涙の操作は専門外だ」
「ち、洒落た言い方しやがって。融通が利かねえな。たいした世界一の殺し屋さまだよ。まったく」
舌打ちするジーベリックにブラッドが大真面目に語りかけた。
「ひとつ案がある。女王の脳への血流を一時的に遮断する。そうすれば気絶する。涙も止まるし、睡眠も取れる。悲しみも少しは癒されるだろう」
あ、これ本気で言ってるよ……。
一石二鳥だ、と真顔で続けるブラッドにジーベリックはあきれ返った。
「おまえ、それ本気で言ってる……!? もっと女性の扱い方を学んでだなあ……!!」
けなされたブラッドは少し憮然とした顔をした。
無表情な彼だが、ジーベリックには比較的感情をあらわにするらしい。
「あんたよりは女心はわかるつもりだ」
どこがよ!? と私はツッコミたくなった。ジーベリックも私と同じ表情をしていたが、ブラッドはどこ吹く風で、とんでもない発言をした。
「それにこの案の有効性は、おとといの晩、あんたを実験台にして実証済みだ。マルコを失った哀しみでだいぶ萎れていたからな。よく寝て少しは立ち直れたろう」
「おまっ……!? いつのまにか通路で眠りこけていたと思ったら、あれ、おまえの仕業か!?」
さらっと事後報告するブラッドに、ジーベリックは絶句した。
どうやら本人に無許可で、ジーベリックを実験動物がわりに使ったらしい。
じゃれ合うようなふたりのやり取りに、私は思わず吹き出した。
格好いいのにどこか抜けている。愛すべき男達だ。マルコはきっとこのふたりとうまが合ったろう。なんの根拠もなく何故かそう思えた。
私の笑顔に気づき、ジーベリックは「おのれは~」と言いながらブラッドに掴みかかるのをやめて微笑んだ。
「おお、やっと笑ってくれたな。やはり女は笑顔が一番だ」
心から私を心配してくれていたとわかった。このお人好しぶり、さすがマルコの師匠だ。私に向けるまなざしは、海の陽射しと、娘に対する父を思わせた。
「……なあ、女王陛下。マルコを思いだすときは、悲しいことじゃなく、一緒にいて楽しかったことを思いだしてやってくれ。そうやってあんたの笑顔の足しになることが、あいつにとって本望だ。そういうヤツだったろ」
私がうなずくとジーベリックは顔をしわくちゃにして破顔した。こちらもつられるような笑顔だ。そして彼は敬意を示すため腰を折って、私の手の甲にキスをした。
「ようし、いい子だ。やっとマルコの守りたかった笑顔を見せてくれたな。俺もマルコを忘れない。そうすりゃ、俺達艦隊のみんなとともに、あいつは海原を旅し続けることができる。姿は見えなくなっても、あいつは前と変わらず俺達のここにいるんだ」
ジーベリックはどんと胸を叩き、腰を伸ばし真正面から私に語った。
「あんたも心のなかでマルコを生かしてやってくれ。頼んだぜ」
そしてジーベリックは照れくさげに岬の先端に視線をそらした。
「いけねぇな、年寄りはどうしても話がくどくなる。ここらで退散するぜ。マルコを看取ってくれてありがとうよ。あいつが惚れた女があんたで本当によかった」
風をきって歩き出したジーベリックの先に、色鮮やかな帆が見えてきた。
〝シャチ艦隊〟が彼を迎えに来たのだ。
私ははっとなって彼の背を追いかけた。天啓のようにある考えが閃いたのだ。
「待って!! まさかドミニコの近衛艦隊はあなたが……!!」
ジーベリックは足を止めた。私は自分の勘があたっていたと知った。
「どうしてそこまで……」
「あんたがマルコを看取ってくれたから、マルコは笑顔で逝けたんだ。その恩返しさ。マルコの魂が、おまえさんを守ったんだ」
ジーベリックはそのまま振り向きもせず、
「じゃあな。気高い小さな花。元気でな」
とただ片手をあげて別れを告げ、岬から艦に飛び降りた。相互の速度のタイミングをはかり、器用にヤードの先端に着地すると、するすると帆柱を滑り降りていく。片手なのにすごい。さすが生粋の海の漢だ。
ゆっくりと岬を通過していく〝シャチ艦隊〟の艦はどれも満身創痍だった。帆は縫われ、あちこち修繕の当て板だらけで、激しい戦闘があったばかりだと物語っていた。だが、忙しく走り回る船員たちの顔は晴れやかで勝利者の自信に満ちている。
勝ったんだ。あのドミニコ王子が誇る近衛艦隊に……!!
船員たちが私を見つけ大きく手をふる。私はスカートの裾をつまみ、海原をゆく戦士達に感謝の礼をした。彼等は満面の笑みでそれに応じた。
「……さて、俺もいくか」
すっとブラッドが進み出た。
私はちくりとした胸の痛みをおぼえた。ずっと一緒にいたせいか、寂しくなると思った。変なの、私の命を狙う相手なのに。野良犬にかまっていたら、いつの間に愛着がわいてしまうのと同じだろう。そうに違いない。
「ブラッドもありがとう」
私は淑女のたしなみとして、きちんと礼をした。ブラッドは仏頂面だった。
「お人好しも大概にしろ。礼などいらん。次に会う時は敵同士だ。俺はマルコとの契約に従っただけだ。ドミニコからおまえを守れというな」
あら、もしかして照れてる? 可愛いとこあるじゃない。私はくすりとした。
「それでも、ありがとう」
ブラッドは私に寡黙な背を向けすたすた歩きだし、そして足を止めた。
「……ひとつ言い忘れた。マルコとの契約は続行中だ。たしか期限はなかったからな。商売柄契約は破れん。俺はおまえをドミニコから守り続ける。むろん、奴のこと以外ではおまえは俺の仇のままだがな」
なによ、自分のほうがよっぽどお人好しじゃない。
思わず微笑む私に、ブラッドは振り返った。
「……小さな花か。なるほどな。いい笑顔だ。さらばだ。スカーレット女王陛下」
そして彼も眼下を通過していく〝シャチ艦隊〟めがけて、宙に身を躍らせた。
私は驚きに立ちすくんでいた。
ブラッドは一瞬だが私に笑いかけたのだ。世界一の殺し屋とは思えない、人懐っこいあたたかい笑顔だった。なぜか懐かしい疼きをおぼえ、私は胸をおさえて彼を見送った。
「痛えええっ!! 尻うった!!」
素っ頓狂な悲鳴が響き渡り、不思議な郷愁に涙ぐんでいた私はずっこけそうになった。
ブラッドではない。先に飛び降りていたジーベリックだ。
どうやらあと少しで甲板というところで、帆柱から墜落したらしい。お尻をおさえて七転八倒するジーベリックを、わらわらと船員たちが取り囲んでからかう。
「兄、着地失敗。ねえ、ねえ、今どんな気持ち?」
黒目黒髪の女性が無表情にあおる。舌鋒鋭いツッコミは情け容赦ない。瞳の光り方もただ者でないと思わせる。胸の大きさも……。神は何故にこうも不公平な社会をつくりたもうたのか。
男達は彼女ほどきつくはなく、もう少し優しい悪口を……。
「ぎゃははは!! 左腕治ってないのに、美人のまえで張り切るからですぜ」
「ひいひいー!! 腹がよじれる!! 格好いい貌してたのに、落ちたとき、ぼげーって蛙みたいな悲鳴をあげてたよ!!」
いや、全力でジーベリックを笑いものにしてるよ……。
かつて最強をうたわれた〝シャチ艦隊〟ってこんなんなの……。
なんか私が思ってたのと違い、艦隊内でジーベリックの地位はサンドバッグ……んんっ、マスコットのように愛されてるらしい。
「兄、ぶざま。しかし、オチをつけるため、自ら落ちてきたのは好評価」
黒髪美人の講評に耐えかね、ジーベリックが尻餅をついたまま叫ぶ。
「バカヤロー、そんなんじゃねぇよ。女王はマルコが惚れた相手だぞ。師の俺が恰好よく決めにゃ、あいつの面子が立たんだろうが。男はな、痛くってもやせ我慢して、意地を見せにゃならんときがあるんだよ」
「ぷっ。ひと、それをやせ我慢でなく、年寄りの冷や水という」
「なんだとおっ!? 妹ならもう少し兄を敬いやがれ!!」
「兄、大好き。だから小遣い寄こせ」
どうやらこのふたりは兄妹らしい。いつもこんな感じなのだろう。誰も止める者がいない。妹が圧倒的に優勢だ。そのやりとりに周囲が笑いに包まれる。不幸を嗤っているのではない。家族のように気心が知れているから遠慮がないのだ。その笑いの輪のなかに、マルコの声も混じっていた気がした。
素敵なみんなね。ここがマルコの帰りたかったところなんだね……。
なぜだろう。遠い昔、私も同じように船のうえで、たくさんの仲間達の笑顔に囲まれ、旅をした気がするよ。蒼い空に純白の帆がひるがえって、そして、誰かが私に照れながら手を差しだすんだ。「貴女のためなら、海があるところ、僕は何処でも駆けつける」って言って。
……おかしいな。そんな記憶ないのに。ブラッドと別れるときとそっくりの感覚だ。いい年して夢見る乙女みたいで恥ずかしい。
きっと〝シャチ艦隊〟のアットホームな雰囲気が、敵だらけの女王業の自分にはとても羨ましく思えたからだろう。
バカ騒ぎしながら、ジーベリック艦隊が遠ざかっていく。
笑顔でまた私に手をふってくれる彼等に、私も思いっきり大きく手をふって応えた。
陽光で輝く水平線の向こうに、彼等が消えるまでずっと。
ひとりになった私は、岬の突端に立ち、マルコの魂に語りかけた。
「マルコ、私、生きるよ。自分に出来ることをせいいっぱい。だから、いつか再会したとき、また口喧嘩をしようね。私、『なによ。文句ある? あなたに負けないくらい頑張って生きたんだけど』って胸を張るから……」
だから、そのときは、「さすが男勝りの僕の小さな花」っていつもみたいにからかってね。
そして笑顔で、私をダンスに誘ってね。
私、お婆ちゃんになってるかもしれないけど、あなたのこと絶対に忘れてないから。
きっと泣きながらその手を取るから。
楽しみに待ってるから。だから……。
「だから……少しのあいだ、さよならよ。マルコ。今まで本当にありがとう。私はもうだいじょうぶ。あの素敵な艦隊のみんなと一緒に行ってあげて」
海風が名残惜しそうに私に別れを告げ、彼方をいくジーベリック艦隊のあとを追った。
蒼穹と海原のあいだを白雲が飛ぶ。
岬の緑が鮮やかに揺れる。
さっきのささやかな一輪の野の花が、私の目に映る。
こんな荒地でも潮にも風にも負けず、小さい花は咲く。私にも、私を小さな花にたとえて愛してくれた人がいた。だから、私も運命に負けず、きっと花開いてみせる。
私はぎゅっとマルコの遺した絵を胸に抱きしめ、踵をかえし、前を向いて歩き出した。
これから女王として長く苦しい戦いが待っている。
でも、私はくじけない。泣かずに顔をあげる。だって、私の心のなかには、私を愛してくれた人たちが、いつでも花を咲かせているもの。ねえ、マルコもそのひとりなんだよ。だから、くじけそうなときも、泣きそうなときも、私はひとりぼっちじゃない。それが私の道しるべ。行く先を照らす光。
だから、見守っていてね。マルコ。これからの私の生き様を。
港が活気づき、さまざまな合図の鐘が鳴り響く。
爽やかな風が丘陵を渡る。
ハイドランジアに出航する船に乗るべく、私は足取りも軽やかに丘をくだっていった。
◇◇◇◇◇◇◇
【おまけ】※すてきなヒロイン像を壊したくない方は、読むのをおやめください。
「……待ってえぇ!! そのハイドランジア行きの船!! 私を置いていかないでえぇぇ!!」
スカーレットは、船の出航時間を一時間ほど間違っていたのだった……。
情けない悲鳴のエコーが港中に響き渡った。
泣かないと決意した矢先に、泣きべそで全力疾走するスカーレット。決意した矢先から早くもくじけかけている……。人生とはままならぬものなのだ。坂でこけつまろびつしたため、喪服は泥だらけ、髪はざんばら、しかも走るのに邪魔になるため、スカートを腿までまくりあげている。気高い女王姿とはほど遠い。
お供の者は厳格だ。彼女はスカーレットのお目付け役を務めたこともあるのだ。こんなはしたない醜態をさらして駆けこむ姿など見られた日には……。
予想通り彼女は、不機嫌そうに扇子をパンパン手に叩きつけて待っていた。それが鞭に思えてならず、スカーレットはお尻をおさえ、きゅうっと凍りついた。思わず内股になる。
そのお供の女史は額をぴくつかせてスカーレットを厳しく詰問した。
「女王陛下。血眼で陛下を捜す私を置いて、今までどこに? ずいぶん慎みのないご恰好ですこと」
震えあがったスカーレットは、
「……わ、私を帰すまいとするドミニコの手の者に拉致されたの。なんとか隙をつき、囲みを破って逃げ出したけど、敵もさる者、ひっかく者。私は雲霞のごとく追いすがる敵を、えいやあっとちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」
とこともあろうにドミニコに全責任をおっかぶせ、講談師のごとき熱演で最低の大ウソをまくしたてた。ドミニコの暴虐に凛として立ち向かったあの勇気など欠片もない。
マルコが見ていたら、きっと泣く……。
だが、嘘をつくときほど饒舌になるスカーレットをよく知っている彼女に、視線をきょどらせて額に冷や汗をかいたそんな戯言が通用するはずがなかった。
「それは大変でございました。ところで、後生大事に抱えられたその絵はなんです?」
スカーレットはおのれの間抜けさを呪い、心のなかで悲鳴をあげた。それでも言い訳を続けたのは、見上げた根性というか、未練がましいというか。
「こ、これは、とある王子様から、母の形見と託された絵で……聞くも涙。語るも涙の物語……」
「ほう、ずいぶんメルヘンチックなお話ですこと。そちら、あなた様の肖像画に見えますが? 母? いつから子持ちになったのです?」
嘘が嘘を呼ぶ絶望の袋小路。
〝マ、マルコ。私、大ピンチです!! お願い、助けて!!〟
もちろんそんな自業自得なスカーレットの祈りなどどこにも通じるはずもなかった。
「女王の誇りというものを一から教育しなおす必要がありそうですね。二時間お小言コースで終わらすつもりでしたが残念です。お尻叩き+地獄の反省文コースに変更させていただきます」
「お尻叩き!? 私、成人済で、いちおう女王なんですけど!?」
「レディやユアマジェスティならば、こんなことをなさるはずがありません」
言い訳した結果、さらなる怒りを呼び覚ましてしまったスカーレットは、じんじんするお尻にまっかな手形の花を見事に咲かせ、きっつい監視のもと、航海中おいおい泣きながら、反省文三百枚ほどをしあげる憂き目を味わうことになったのだった。憐れ……。
お読みいただきありがとうございます!!
また長く……。何故でしょう。
宜しければ次回もお立ち寄りを!!




