フィリカの休日
こんにちは、フィリカです。
今日は研究科の休日——二日目です。
結局、ジャックさんの都合······もとい、剣の打ち直しに三日かかるということで、余裕をもって休み二日目の今日に買い物ということになりました。
休みじゃないのでは? と思うかもしれませんが、私にとっては友達とショッピング、いえ、それ以上のものです。こんな良い休日はありません。なんたってお相手は、
「あとは、皮の手袋だったわね」
ミーナさんなんですから! 殿方なら一度はデートしたいと思う御方ですね! ······多分。
この方が、他の男に言い寄られている所を見たことないので何とも言えませんが。しかし、可愛い美人顔であるミーナさんに男が寄ってこないとしたら何故なのでしょうか?
「もう、汚い字。なんでこんな読みにくいのよ、年寄りの癖に」
性格にやや難ありなのは最近知ったものの、初対面には基本優しい人なんですがね。
うーん。
そうなると、ミーナさんの地位が、殿方のアプローチを億劫にさせるのかもしれません。男なんてのは自尊心に囚われる生き物ですから。軍の中でも上のほうへ座する彼女は、差し詰め『高嶺の花』に見えるのかもしれません。そして、彼女もほとんどが城と家の往復のようですから、出会いそのものがありません。自然と、殿方が寄らない仕組みが出来上がってしまってるわけですね。まぁそれでも、彼女は現状に不満はないようですが。
さて、話が逸れました。
私達は現在、ザバに向けての、一昨日リストアップした物を買いに来ています。ミーナさんはメモを持って難しい顔をしていますが、私は鼻唄の一つや二つ、いえ、いくつだって飛び出そうな気分です。なんだかんだ二人っきりでのショッピングは一度もありませんでしたからね。嬉しいのです。
ちなみに、普段この方の荷物持ちをしている幼馴染は筋肉痛のためお休みです。だから今日は、私がミーナさんを独り占めです。······ふふっ、ジャックさん? なんなら、毎日筋肉痛になってくれてもいいんですよ?
今頃、くしゃみでもしてる頃でしょうか。
風邪でもいいんですよ?
まぁ、念のためですが、私は彼が嫌いなわけじゃないですからね。それだけは述べておきましょう。
さて、そうして、そんなことを考えている内に、
「あったわ。ここがエドじいの言ってた店ね」
酒場のような木造の建物がそこにはありました。軒には手袋の絵が描かれた小さな看板。ドアを開けると鈴の音が私達を迎えてくれます。ただ、
「らっしゃい」
直前の優しい音色と違って、唇の上に髭を生やした店主の声は無愛想で低いものでした。やや焼けた肌で、染め上げたであろう黒髪を後ろに束ねた彼は、カウンター越しに座って雑誌を読んでいます。ちょっとガッカリしたのは内緒ですよ? 先程の鈴音は本当にチリリンと綺麗な音色でしたから。きっと、奥さんか誰かのチョイスでしょうね。
さておき、私は辺りを見渡してみました。
広さは四メートル四方ほど。小さなシャンデリアが店内を照らす、オシャレな、こじんまりとした可愛らしいお店です。······まぁ、革の独特の匂いがやや鼻には付きますが、それは仕方ありませんね。買いに来た物が買いに来た物ですから。
「こんにちは。エドじいに勧められて来たのだけど、この子に合う手袋一つ頂けないかしら?」
「ほう、あのジイさんのツテか。珍しいな」
そして、雑誌を置く店主さんは「どれ」と私を見ると、
「嬢ちゃん。ちょっと手見せてくれるか。······んー、そうだな。このぐらいだとあの辺りがちょうど良いな。好みとかあるだろうから、手に取って厚さとか手触りとか気に入ったのを選ぶといい。品質はどれも保証するぜ」
「わかったわ、ありがとう」
「あぁ、ゆっくりしてってくれ」
丁寧に教えてくれました。人は見かけによらないものですね。先の失礼な発言には謝罪です。すみません。まぁ、彼は左手に指輪をしてましたから、全ては撤回できませんけどね?
「どれがいいかしら? 指がしっかり動くものがいいわよね」
ともあれ、入り口横――扉の右側へ来た私達ですが、ミーナさんは棚に置いてあるものから壁に掛けてあるものまで、次々と手に取っては私に手袋を渡してくれます。やや強引なほどですが悪い気はしません。
ふむふむ。
牛、豚、山羊······。手袋でもほんの少しの厚さと素材で、こんなに動かしやすさが変わるものなんですね。これは驚きです。新たな発見です。
「決まりそうかしら?」
幾つか試した結果、私は懐中銃を使うのにベストであろう手袋を選びました。焦げ茶の牛床革です。
「これください」
「あいよ、どうも」
手袋をカウンターへ持っていったミーナさんは、銀貨を店主さんに渡します。この時、私は自分で買うつもりで鞄から財布を出そうと思ったのですが、それを止められました。加えて、
「いいのよ。あなたが来てから祝いらしい祝いなんてなんもしてないもの。こんなもので悪いけど、これは私からのささやかなプレゼントよ」
だそうです。思わず抱き付いてしまいそうでした。
「毎度あり、良かったらまた来てくれ」
「えぇ、そうさせてもらうわね。ありがとう」
そうして、私達は店を後にしました。ともあれ、これはこれで手袋が使いにくくなってしまいますね。この味気ない茶色包装の紙袋でさえ、私はぎゅっとしてるくらいなんですから。
さて、手袋を買い終えた私達ですが、今はミーナさんのおウチへ向かっていました。それは、肩から提げる鞄や買った荷物が、これからの予定でお邪魔になってしまうからです(念押ししておきますが、買ってもらった手袋が邪魔だなんて微塵も思ってませんからね!)。
実はですね。先日助けた男の子のお母さんに、本日は夕食をお呼ばれになっているんです。ちょうど、ザバへ行く前の日程で良かったですね。ザバへ行ってしまったらその分だけ先に延びてしまいますから。その辺りはミーナさんも分かっていたと思います。······多分ですが。
「そこ曲がったトコよ」
私達は城から程なくしての、細い路地に入りました。それから程なくした頃です。ミーナさんはその途中にあった、レンガ造りの家の鍵を開けて中に入っていきます。
ほうほう、これがミーナさんのお家ですか。
こじんまりした可愛らしいおウチですね。小さな植木鉢が格子窓に似合いそうです。ちなみに、聞いた話によるとミーナさんの実家は南地区で果樹園を営んでいるそうですよ。ですが、そこは城から距離もあり、夜遅くなることの多いミーナさんは『そんな時間に女の子一人で歩くのは危ない』ということで、こちらへ一人で越したそうです。まったく、私とまだ三つしか違わないのにしっかりした方ですね。
「何やってるの? フィリカ」
いけません。ついボーッとしてしまいました。
中へお呼ばれになりましょうか。
灰色の石床にレンガ壁。開けたキッチンに戸口が二つ。部屋の中心にテーブルが一つあり、その左右には椅子が主人とお客を待つよう二つ佇んでいました。そのテーブルの上には、灯りがぶら下げられるようになっています。
なんというか、オシャレな造りではありますが、全体的に質素で無駄がない感じですね。ミーナさんらしいと言えばミーナさんらしいですが。目立つ色があるとすればキッチン側の角にある、リンゴが幾らか入った箱ぐらいのものでしょうか。もう少し女性らしい色気があってもいい気はしますが······。
うーん。
少しでも女の子らしく、今日のプレゼントのお返しはテーブルに置く花にしましょうか。忙しいでしょうから枯れないように造花にして。余計なお世話ですかね?
「適当にかけて、いま何か淹れるから」
あと、窓の外にもゼラニウムを······いえ、お花をお世話する時間はないんでした。テーブルのほうだけにしましょう。とはいえ、どんな花が好きなんでしょう? 果物が好きなのは知ってますが、その辺りは知らないですね。後でさりげなく聞いておきましょう。ミーナさんは現在オープンキッチンに立ってますからね。
ん?
そういえば、北のキッチン横とそのすぐ右――東側の壁には明るい色の木のドアがありますが、そっちは何なんでしょう? 寝室やお風呂といった所でしょうか? 少し気になりますが、別に他意はないですよ。······ないですよ?
さて、そんな事を考えていると、
「紅茶でいいかしら?」
キッチン――向こうからミーナさんの優しい声。
こういうトコ素敵ですね。もちろん、私は喜んで返事です。
——紅茶でいいかしら?
もう、このフレーズだけでも素敵です。魅力的です。
ミーナさんは幾つかある円筒のビンを一つ取って、その中身をティーポットにサラサラと入れていました。キッチンで食事を作る、やや俯くミーナさん。たまりませんね。
ただ、それでも一つ、気になる点はあるんですけど。
お湯を沸かす道具が、研究科の備品なんです。白衣を着てないというだけで、これでもしお湯を沸かす彼女が腕を組んでいたならば、普段、城で見るような光景となんら変わりません。
素敵な方ですけど、時々、残念なとこがあるんですよねぇ。まっ、そんなギャップも良いんですけど。しかしそう考えると、何かの実験に見えてきて仕方ありませんね。私は今日生きて帰れるんでしょうか?
「はい。どうぞ」
なんて、冗談ですけどね。
ミーナさんは紅茶に加えて、切ったリンゴも皿に乗せて私の前へ出してくれました。そして、もう一度キッチンへ向かっては自分のカップを持ってきて向かいへ座りながら、
「ゴメンね、こんなものしかなくて」
いえいえ、とんでもない。十分すぎるくらいです。ミーナさんにお茶を入れてもらえて、しかもこんな美味しいものまで頂けるなんて、幸せ以外の言葉はあるのでしょうか?
私達は夕食までの間、互いの好きな話をする事にしました。とはいえ、ほとんどが服や本、魔法に食べ物のことが中心となるんですけどね。
「あそこの通り、ピザ屋ってのが新しく出来たみたいよ。とても美味しくて大人気みたい」
こんな感じに。
「平たい円のパンに、チーズを乗せて、焼いただけに見えたんだけど、近く通っただけでものすごく良い匂いしたわ。ねっ、今度一緒に食べに行きましょ?」
もちろんです。百回でも二百回でも。
しかし、こんな日が来るとは、少し前は夢にも思ってませんでしたね。この方とあの彼が居なかったら、私はきっと今でも遠くで眺めてるだけでしたから。怖いこともありましたが、偶然のちょっとした発見とはいえ、今はただただ感謝ですね。こうして憧れの人のおウチでお茶をしながら、ゆったりと会話出来てるんですから。時折まだ、二人の関係に嫉妬を覚えることもありますが、それは許してあげますね。だって、こんなに幸せなんですから。
「おかわり、いる?」
空になったカップを見て、ミーナさんは気を遣ってくれました。――が、私は首を横へ振りました。もう、六杯は頂いてますからね。これ以上頂くのは流石に申し訳ないものです。
「あら、そう? 遠慮しなくていいのよ」
それに、あまり飲み過ぎると夕食にも支障をきたし兼ねませんから。ミーナさんの御厚意には甘えたいものですが、それで食べれませんでしたなんてのはどちらにも申し訳ないですから、ほどほどにしておきましょう。
そうして、約束の時間まであと二十分という所。
次はどんな魔法が欲しいか話していた、そんな時でした。
「そうだ、いけない」
突然、ミーナさんは勢いよく立ち上がり、机に手を付いては目を大きく開いた、慌てた顔を見せました。そして焦ったように引いた椅子を机に戻しては、
「フィリカごめんなさい! 私、御近所さんの荷物預かってたの忘れてたの! すぐ戻ってくるから少し待っててくれる!?」
東の壁にある突起へ掛かっていたケープを纏ったミーナさんは、私が返事をする前にキッチン横にある、あの東のドアへ入っていきました。そして、小さな木箱を持ってすぐに出てくると、私の声を聞く間もなく、
「ごめん! ちょっとだけ留守番お願いね!」
そのまま慌ただしく出て行かれました。
······。
急な沈黙が孤独を感じさせますね。
ともあれ、自由な御方です。
でもまぁ、すぐ戻ってくるでしょう。夕飯のお約束もありますからね。とりあえずはリンゴでも食べて、ゆっくり待つ事にしましょうか。
んー、美味しいですねぇ。
ミーナさんの実家のリンゴだそうですが、かじった瞬間、ハチミツのような甘みと水々しさが口の中に広がって、とんでもないハーモニーを生み出してくれます。これなら私、いくらでも食べられますよ? 冗談抜きに。
············おや?
先程ミーナさんが箱を持って出てきたドア。あのドアが少しだけ開いてますね。焦ってましたから閉まり切らなかったのに気付かなかったのでしょう。荷物も持ってましたからね。――とはいえ、あそこがミーナさんのお部屋ですかー。わざわざ水回りの方へ預かりの物を置くとは思えませんからね。
··················。
いやいやいやいや、ダメですよ。私。
妙な好奇心が私を引き寄せますが、家主の居ないおウチを勝手に歩き回るもんじゃありません。しかも一番プライベートな空間を。でも、ちょっと覗く程度なら許される気もしますが······。いや、でも、もしミーナさんが見られて嫌な物があったら······。
むううぅ······。
私はひどく葛藤しました。そんな、恩を仇で返す真似をしていいのかという良心と、幼馴染の彼も知らないであろう彼女を知れるのではないかという、好奇心と優越感を得たいという欲望とで。
まぁ結果、欲望に負けてしまったんですけどね!
ミーナさんは『お隣さん』ではなく『御近所』さんと言ってましたから、すぐには戻ってこないでしょう。ちらっと中を見てドアを閉める程度なら問題ないはずです! だから私は、ドアが開いてたから閉めておいてあげただけの事です。親切心です! ねっ? そういうことです!
私は早速立ち上がると、衣擦れの音さえ立てぬよう目標のドアへ向けこそこそと忍び足。一人にもかかわらず。
扉は部屋の内側へ開いて、その隙間は十センチ程度。
ちょっと見にくいですねぇ······。
しかしそれでも、私はその扉には触れることなく、息を飲んで、恐る恐る中を覗いてみました。
······ほぉほぉ。
こちらも窓はあるんですね。朝日が少しだけ入る場所にベッドが半分だけ見えます。そのベッド右脇には小さな机。机の上は片付いていて、本が数冊、垂直に綺麗に立てられてるのが見えます。ただ、凸凹の高さが極端にバラバラなのがやや気になりますけど。
あとは······そこまでの、オークの床が見えるだけでしょうか? 別段、目に付く物もありません。明かりもランタンだけに思えますね。天井に引っ掻ける鉤も見えませんし。
まぁ、そうですよね。
私はなにか、変に期待をしすぎていたようです。もっと天地がひっくり返るような、火山と地震とハリケーンが同時に起こるような、そんな天変地異な発見を求めていたようです。あのクールでほぼ完璧でカッコいいミーナさんに限って、そうそうそんな上手い事があるわけないですよねぇ。あるわけない。
しかしとはいえ。
折角ですから、しっかりこの僅かな光景を目に焼き付けておくことにしましょう! 人生に二度目なんてのは保証されてないんですからね! むふふー。あそこのベッドで、いつも彼女は寝ているわけなんですねー。
······ん?
枕元に何かあります。さっきは前屈みで気付きませんでしたが、身体を起こすと枕の奥、そこに何かふわふわした物が見えます。なんでしょうか?
白のシーツにややピンクの枕と布団。そこの奥に浮かんだ淡い茶色を含んだふわふわ。それは豆粒のように小さく見えますが、見えないことはありません。だって、こういう時の私は眼鏡を掛けていようと、その豆粒のシワまで事細かに見えるのですから!
私は、目をこれでもかというほど凝らしました。
んー、そうですねぇ、あれは············えっ? あ、あれは!?
私は目を疑いました。だってまさか、クールな彼女が一番安心して眠る場所にそんなものがあると思いませんでしたから。そんなものこそ、私の中にある彼女のイメージが崩れかねないほどの、ギャップ萌えを越えるギャップ萌えの象徴なんですから。そしてその、私の心の躍動をギャロップ並みにした物ですが、それは――。
ク、クマのぬいぐるみ!!
窓から覗かれても死角になる位置に、ヤツは眠っていました! パッチリとした、子供のような、無垢なにこやかな顔をして!
し、信じられません! だ、だって、つ、つまりこれは、あの人が熊を抱いて寝ている決定的な証拠に他なりませんから! これぞ正に、これこそ正に青天の霹靂です! 隕石が落下して直撃した衝撃です!
実は半信半疑でしたが、ミーナさんがトロッコではしゃいでたというあの話、あれもどうやら真実のようですね······。
この時、鼻を膨らませた私はすっかり正常な思考ではなかったと思います。だって、もう扉に手を掛け、身体が通るほどそこを開いては一度も辺りを見渡さず、こんなことを思っていましたから。
ちょっとアレを近くで見てみましょう。
見間違いかもしれませんし。
なんて、後に忍び寄る影のことは微塵も考えずに。
部屋の中はバラの香りがするのでは? と思ってましたが、意外にも柑橘系の香りなんですね。いい匂いです。
ふむふむ。
なるほど。机の反対側はクローゼットとソファ、そして小さな本棚になってたわけですか。色々と気になる所はとてもありますが······ですがそれよりも、今はこっちですね。
やっぱり、見間違いじゃありません。
ニッコリとした口の、柔らかそうな小さなクマが枕の奥で目を開けたまま幸せそうに眠ってます。
何がそんなに嬉しいんでしょうか。
まったく、けしからんですね。
そう思いつつ嫉妬しながらも、新しい魔法はぬいぐるみに乗り移れる魔法がいい、だなんて思ったりもして。
············。
いいじゃないですか! ちょっと夢見るぐらい! 憧れの人と同じベッドで寝るって素敵じゃないですか! あの人が夜中にひそひそ話すのを隣でウンウンって聞いて過ごしてみたいじゃないですか! 分かりません!? この気持ちが!
はぁ······。
ついミーナさんに対する愛がこぼれてしまいました。私はなにを一人で怒ってるんだか。ちょっと冷静になりましょう。
ふぅ。
それにしても、ふっくらとして柔らかそうなベッドですね。寝心地もかなり良さそうです。一緒に寝ることが叶わないなら、せめてここで寝たらどんな感じかぐらい知っておいてもいいでしょう。
まぁ、その、つまり何が言いたいかというと。
ここまで来たらいっそ飛び込んでしまいましょう! ということですね。罪なんてのは、一つ犯したら二つ三つも同じもんですから! どうせ幾つ積み重ねたところで最初の罪は消えません。だから、ねっ?
――と、犯罪者まがいのことを思う私は、このベッドと布団の現在の形状をしっかりと記憶。後で直すことも考えておくと、念のため覚えておかないといけませんのでね。罪は一つ犯せば罪であるとはいえ、流石に飛び込んだ跡はまずいでしょうから。
そうです。大罪さえバレなければいいのです。
そして、私は気持ちながら服の埃を払って、肩をぐるぐる回して軽く準備運動。
よし。
身体もほぐし終えました。
準備もオッケーです。
では。
············。
と、とはいえ、あの方が普段使っている寝具です。流石に緊張しますね······。なんだか、いけない扉を開こうとしている気分です。飛び込んだ拍子にあの方のいい匂いがふわっと入ってきたら、それこそ私、本当にどうかしちゃうんじゃないでしょうか? まぁ、それも悪い気はしないでもないですが······。
しかしここまでこればもう、なすがままにですね。
心臓がバクバクと鳴っているのが耳元で聞こえるようです。城の書庫であの秘密を尋ねられた時ほどじゃないでしょうか? あの時とは、全然状況は違いますけどね。
······ゴクリ。
ともあれ、今度こそ行きましょう。
時間もないでしょうから。
では。
私は悪い子ですね。でも構いません。それほどまでに、今はミーナさんがそこに居る気がするんですから。
ミーナさん、ごめんなさい。でも今行きますからね。
せーのっ――。
「なにやってるの? あなた」
············。
「私の寝室で、なに、やってるのかしら?」
「······」
し、しまったー!!
夢中になりすぎて帰宅に気付きませんでした! まさか本当に近くに居らしたとは······。
「聞こえない? フィリカ。前に出した、その手は、なに?」
静かな、落ち着いた、いつものような声なのに、語気が強く、彼女の心が透けて見えるようです。イーリアの森から街へ帰った時のような、あのミーナさんの心が。
「あ、こ、こ、こ、これは、布団を直してあげようかなぁと思いまして! けど、必要ないようですねぇー!」
自分でもやらしいと思える両手を咄嗟に引っ込め、背中で組んでは身体を左右へ振る私。ちなみにですが、布団はとても綺麗に整ってます。シワも無いほどに。
「い、いやぁ、素敵なお部屋ですねぇ! つい見惚れちゃいましたよー!」
窓のほうを見て私は一度頭を掻きますが、それは決してただ誤魔化してるのではなく、背中に鋭い爪を立てられているような睨め付ける圧から、後ろを振り向けないのです。断じて罪悪感だけではありません。
顔を見てないのに分かる彼女の表情。
それが笑顔であると分かっているのに振り向けません。
怖くて。
こんな事になるならさっさと飛び込んでおけばよかった! 私の馬鹿! と一瞬思いましたが、今はもうこの場をどう切り抜けるかで一杯一杯でした。
だって、
「そう、ありがとう」
さっきより、彼女の圧を背中に感じてますから。真後ろぐらいに。魔法で察知しなくても分かります。
そして、私の左右の肩に手が。
「——で、なにを見たのかしら?」
ひいいいいぃっ。
こんな普通の言葉を耳元で囁かれるのがこんな怖いなんて! いや、でも、なんか少し吐息がむず痒い!
「い、い、いえ。熊らしきものなんてのはなにも!」
「······あら、そう」
すると、私の前へ出る彼女は布団をそっと持ち上げ、あの熊を布団の中へ隠してしまいました。
あぁ、さよなら······。
嫉妬していても、もう見れるか分からないと思うと寂しいものです。そして、窓のほうを見るミーナさんは、背中に垂れる赤い髪をこちらへ見せたまま、
「何もないでしょ? この部屋」
「いえ、可愛らしいものがあって意外と——」
「フィリカ」
振り向いた彼女の顔が、今度は私の右耳へと近付きます。
「この部屋、何もなかったでしょ? ねぇ? フィリカ」
「は、はい······」
怯えた声で返事をすると、彼女は耳元から頭を離し、私の正面に顔を持ってきます。そしてニッコリと、滅多に見せない、頬を上げては目を細めた屈託ない笑顔。ただ、
うぅ、怖い······。
その後、少しだけ瞼を上げた際に見えた目は、これっぽっちも笑ってませんでした。私が本当に聞き入れたか確かめるような、冷徹な支配者の目でした。
「そういえばね、私。作ったばかりの試作品の飲み薬があるんだけど······あっ、それね、まだ魔法薬を作る前の段階のやつなんだけどね、それ、今度あなたに先に試させてあげる」
と、さっきの、瞳を隠すような笑顔。
まるで預かり物を持って行く前にあった会話の続きのようですが、ここにある意図はそんな柔和なものではありません。もはや脅迫の一種です。「試してあげる」にしか私には聞こえませんから。
あぁ、遺書でも書いておいたほうがいいのでしょうか······。ともあれ、今はどう答えるのが正解なんでしょう······。
喜んで!
いやいや、本当に何飲まされるか分かったもんじゃありません! 蜘蛛エキス入りのあの果汁でさえ私、相当躊躇ったのに、次はもっと飲めないものが来るに決まってます。しかも味がしっかりしそうなものが。
けど、答えないと動けそうにありません。
だって、あの目を覗かせて、私の答えを待ってますから。
まさしく、蛇に睨まれた蛙状態です。
一秒が物凄く長く感じます······。
誰か、私を助けてくださいいいいー!
私は孤島から対岸へ手を振るような気持ちで叫びました。
当然、そんな声、誰に届くはずもないのですが。
しかし、その時でした。
——コンコン。
神様には届いたのかもしれません。玄関をノックする音が、この部屋まで届きました。そして、
「おーい、ミーナ。いるかー?」
救世主の声です!
よかった······助かりました······!
そういえば一昨日、ジャックさんも一度ここへ来るよう決めていたんでしたね! あぁ、神様はあの時から私を見捨てなかった!
とはいえしかし、ミーナさんはまだ先程の鋭い目のまま。黙ってノックのほうへ目を側めてはまた戻し、私を、その縛るような目で見ます。
「いい? ここで見たアレを彼に話したらどうなるか············まぁいいわ、行きましょう」
どうなるんですかぁーっ!? 絶交とか目も合わせないとかそんなのだったら嫌ですよぉおおおー!
結局、私は答えを知ることはないままモヤモヤと、背中を押されながら部屋の外へと追い出されました。そしてミーナさんは私を席へ座らせてから玄関の扉を開けます。
「あんた、珍しく早いわね」
「あ? なに言ってんだ。時間ピッタリじゃねぇか。——ん? なんかあったか?」
そう言って彼は、ミーナさんの向こうから身体を横へ少し傾けてこちらを見ます。
「いいえ、何がです?」
今は無用な詮索しないでください。救世主さん。
「ふーん、まぁいいや。行こうぜ」
「そうね」
そう。それでいいんです。
そうして、私達はミーナさんのおウチを後にしました。ただ、招かれた家へ向かう途中のこと。
「なぁ、絶対何かあったろ? まるで大事な秘密でも知ったような顔だったぞ。俺にも教えろよ」
興味津々でぼそぼそと話し掛けてくる救世主。
助けてもらってなんですが、やめてください。私はもう、命を賭けたに等しい密約を交わしているんですから。ほんと、この人変なトコで勘が鋭いです。
まぁともあれ、もちろん、
「知りませんよ。仮に知ってても、ジャックさんに教えるわけないじゃないですか」
内容は口が裂けても言えません。が、断りだけは声を大にして言っておきませんとね。前の彼女にも聞こえるほどに。
「なんだそれ、ケチいな」
彼はその後特に追及する訳でもなく、前の彼女のほうへ行きました。引き際が良いのか、と思いましたがそんなことはないようです。ミーナさんに同じことを尋ねてましたから。まぁ悉く躱されてましたが。
······しかし、そうですね。
これは私だけの、私達だけの秘密なのですから。
誰かに言ってしまったら、二人だけのものじゃなくなってしまいます。そう考えると、今回怖い思いはしたものの悪いものじゃありませんね。
そう。
これは、幼馴染のあなたも知らない、私達二人だけの秘密なのですから。
ふふっ。
私の口から話す機会は、もう無さそうですね。
ごめんなさい、ジャックさん。
だってこれは、私のお話なのですから。
そうして、招待されたおウチへと着いた私達は、家族の方々と共に、大人数でとても楽しい食卓を囲んだのでした。
めでたしめでたし。
ただ――その御食事が運ばれてきた時のこと。
「ミーナさん! 見てください! クマのオムライスですよ!」
あの部屋を覗いたことは許されたものの、この時ひどく睨まれたのは言うまでもありませんね。