赤い髪の(小)悪魔⑤
あれからしばらくして、ジャック達は周りの気配に気付いていた。後方から微かに聞こえる、枝葉を揺らす複数の音。
「かなり近くまで来てるな」
「えぇ。でも、もう森の外よ。頑張って」
「あぁ、もちろんだ」
「フィリカもね」
「はい」
走るペースは先刻とさして変わらないが、それでも三人は肩で息を吐き、髪が肌へ張り付くほどには汗ばんでいた。余裕のあった顔は自然と引き締まり、いよいよ真剣にならざるを得なかった。
しかし、ミーナの言う通り終わりも近い。
一段と強い光が差し込む場所が見え始めていた。
「出口です!」
フィリカが叫んですぐ、三人は暗い獣道――イーリアの森を脱出する。しかしそれからもそのまま少しだけ走り、程々に森から離れてから若干のペースを落とした。そして、北のそよ風を受けながら、後ろをそっと振り返る。
三人は目を疑っては顔を引きつらせた。そこには、地鳴りのような轟音と共に押し寄せる、森が埋もれてしまいそうな程の砂埃があった。
「マジか······」
視認できる範囲――森で火事が起きているのではと思える砂埃は徐々に大地を揺らし、三人のほうへと向かって来ていた。全てが、森に潜んでいたモンスターによるものだった。
「どんだけいるんだよ······」
「私達、よく無事でしたね······」
と、つい足を止めた二人へミーナが声を上げる。
「い、いいから走るわよ!」
三人は再び走り出す。――が、それとほぼ同時だった。
砂埃と枝葉、幹に隠れて見えなかった魔物等が次々と姿を見せた。熊や狼、そして樹木。それらを型どった魔物の数は悍ましいほどだった。想像以上の数――その軍隊にも匹敵する敵の群れに、追われるは三人は本気で焦りを覚える。
「ジャック! 森抜けたんだから早く服脱いで!」
「やってる! けど汗でくっついて上手く脱げねぇんだよ!」
「あぁもう! だから先に捨てといてって言ったじゃないの!」
「わりぃ! ああぁ!」
三人は思ったより詰められていた距離とその敵の数に、走るペースを上げざるを得なくなっていた。そのため、ジャックの身体能力が高いとはいえ不安定な力走状態では、とても、汗ばんだ服を捨てるのはおろか、脱ぐことさえも叶わなかった。
そしてその後も、服を脱ぐことは叶わない。
その状態だからというのもあるが、理由はそれだけではなかった。それは後方、魔物の先頭にいた一匹の狼――『ハンターウルフ』が、三人との距離を詰め始めていたから。つまり、いま服を脱げばペースが落ち、その魔物に噛まれることが安易に予想できた。
「一匹、早く嗅ぎ付けたのがいるわね」
「だな。こいつだけ倒すか? 多分いける」
「いいわ。あの後ろがあんなのじゃ、万が一にも噛まれたら死ぬわ。走って」
「······わかった」
ハンターウルフは、本来なら静かに獲物へ忍び寄っては喉元へ噛みつく魔物だが、牙による毒で相手を仕留めることも可能な魔物だった。その毒は手足どこでも、一度噛みついてしまえばたちまち相手を暗闇へ放り込む。そんな盲目性の毒を兼ね備えていた。
毒は一時的なものではあるが、仮にも噛まれそんな状況に陥ればフィリカならまだしも、視界を目の他に確保できないジャックとミーナがこの大群から逃れることは不可能だった。そのため、それを見越したミーナはそう判断を下していた。そしてそんな彼女は、
「もう少ししたらなんとかなるから。任せて」
「――?」
だが、ジャック達はまだ気付いていなかった。ハンターウルフもまた、同じように走りを幾らかセーブしていたことを。この一匹の魔物はただ早く嗅ぎ付け、ただ距離を詰めているものだと三人は思い込んでいた。
――が、実際は違う。
ハンターウルフは、経験から『狩れる』と判断出来る位置まで距離だけを詰めては、ただひたすらに機を待っていた。鳥が魚の跳ぶ瞬間を待つように、猫が、何も知らぬ鳥が近付くのを伏せて待つように。ハンターウルフはその一瞬を窺っていた。
三人の意識が完全に前へと向かう、その一瞬を。
そして、その時はすぐに訪れていた。
それはジャックとミーナが先の会話を終え、前を向いた直後。一秒にも満たぬその隙を、ハンターウルフは決して見逃さなかった。それを見た魔物は、大地を掴む――四肢に掛かる膂力を瞬く間に高め、狩りへと移行した。
三人との距離が一気に詰まる。
狩人のように迫る魔物。
それに最初に気付くのは、右を走る矮躯な少女。
「ミーナさん!」
彼女は魔法で逸早くそれを察知し、叫んでいた。しかし時既に遅し。ミーナが振り向き様、後ろを視認した頃にはもう敵は飛び上がっていた。
暗闇へ放り込む、鋭い牙を覗かせて。
そして、加えて自身の背中へと伸びる獣の足。それは、確実に押し倒され、噛みつかれる未来を容易に見せた。
大きく見開いた深紅の瞳に、魔物の姿が映っていた。
顔二つ分の距離。手で払う隙もなかった。
ミーナは、しまった。と恐怖より先にそう思った。そして、
――もう間に合わない、と。
目を瞑る間もなかった。
――が、その時だった。
瞳の下方から一刃のナイフは現れ、それはやがて魔物の喉元を止まることなくすり抜けていた。それと共に、飛び上がっていた狼が糸を切らしたようにボトリと落ち始める。
ミーナはそれらをスローモーションで見ていた。
そして、その時間から解き放たれ、途端に世界が速くなると、ミーナが見る先では魔物が地に倒れ、喉から血を流し、手足を痙攣させながら血溜まりを作っていた。
一瞬何が起きたか分からぬミーナだったが、左にいる少年の、右手に持ったナイフを見て理解した。その刃は少しだけ血に濡れては滴っていた。
助けられたのだと悟るミーナは胸を撫で下ろすと、
「あ、ありがと······」
と、礼を述べる。――だが、
「あぁ」
胸を撫で下ろしていたのは彼女だけではなかった。素っ気なくそう言った少年――ジャックは、眼前の幼馴染に迫る危機が一つ過ぎたからというのもあるが、今の行動は咄嗟に、自然と身体が動いただけのことだった。それは、自分でも驚くほどに。
フィリカが叫んだあの瞬間、ジャックは無意識に、左腰にさがるナイフへ手を掛けていた。その時はミーナ同様、敵を捕捉していなかったが、叫声と同時振り向いたジャックは、彼女と敵との距離が顔二つ分まで来た時、視界の端でそれを捉えていた。
それと同時にジャックは、ハンターウルフよりも速く身体を回転させ、居合のごとく刃を振るっていた。そしてそれは見事にハンターウルフの急所を瞬時に斬り、返り血を飛ばすことなく、たった一撃で行動を不能にしていた。
また居合と述べたが、それはあくまで抜刀の瞬間だけのこと。回転するように斬ることで、走る速度がほぼ落ちぬ、最良の手段を選んでいたともそれは言えた。
そんな、それらのことを、血のついた刃を見つめながらジャックは振り返っていた。もう一回は、無理だよな······? と。鼓動の高鳴りだけが響いていた。だが、すぐに今の状況を思い出すと、いまそんなの考えてる余裕はないか。と、ジャックは首を振った。
そして、ナイフを一度払っては軽く血を落とし、再びシースに収めた。ナイフから離れた血は後ろで広がる血量と比べれば、とても微々たるものだった。
ジャック達は再び、今度は全速力で走っていた。だが、それでも魔物との距離を離せるわけでなく同じ距離を保ったまま、ついには街が遠くに見える位置まで来てしまっていた。
――どうする······。
無論、このまま街へ入るわけにもいかなかった。
いくら見張りの兵士達がいるとはいえ、即座にこの大群を相手に出来るはずもなく、仮に見張りがこの大群を見つけて軍に準備を呼び掛けていたのならば片付くかもしれないが、それは望み薄だった。
また、それによって助かったとしても数による暴力で被害は甚大。街が半壊するのは目に見えた。そして、そんな災厄を連れて来た罪人として自分達が扱われることも。許可のない魔物の故意の誘引は極刑。つまり、このまま街へ入り込むのもまた死に等しかった。
それらを頭の中で思考したジャックは、やはり逃げ続けるしかないか? と思うが、しかしその行動も、今は可能かどうか怪しく思えていた。
その理由は、
「ミーナさん······私、もう走れません······」
フィリカの限界が近付いていたから。
目はなんとか焦点を保つも息は絶え絶え、いつ倒れてもおかしくない状態だった。石にでも躓いたら間違いなく転んでしまう足取り。森からの時間を加えれば、かれこれ二十分は走っていた。
ジャックは後ろを振り返る。
先に倒したハンターウルフの仲間――その群れを先頭に、熊型の魔物――四足で走る、硬い毛に覆われた『タートルベア』。さらにはツルを脚のように使い、地面を歩く『ブラッドツリー』が後方に控えていた。
いまフィリカが倒れれば、間違いなくあの群れの中へと飲み込まれる。
そう予想したジャックは『踵を返し、戦う』という選択を考える。が、それもすぐに否定。仮にも先みたいに無駄のない完璧な動きが出来たとしても、それらと接近してナイフだけで戦い続けるには、今の自分の腕では厳しいものがあった。
そのため、次の選択肢へ。
――こうなれば、服を裂いてでもなんとか捨てるか? そうだ。ナイフで切れば。いや、でもそうするならその前にまず······。
ジャックは、自分が囮になれば二人は逃がせると思った。そうすれば大群は、自分一人のほうへ来るかもしれない。そして、引き付けたら立ち止まってでも服を捨てよう。運が良ければ助かるかもしれない、とも。
だが、同時に不安はよぎる。
いや、まずこの張り付くような服が上手く脱げるか? 切れるのか? それに仮に立ち止まって捨てたとしても、手や身体に付いた実の香りは消えないのかもしれない。――待て、そもそも、群れ全てがこちらへ来るとも限らない。万が一にこちらへ全て引き付けられなかったら、疲れ切ってるフィリカは間違いなく······。そして、それを庇うであろうミーナも······。あぁ、くそっ!
葛藤するジャックは「二手に別れよう。俺が囮になる」その言葉を言うのがとても躊躇われた。だが、ジャックはミーナの奥にいる少女へ再び目を向ける。
その顔は疲労がたまり、目もやや虚ろになり始め、今にも倒れそうだった。
――くそっ、迷ってる場合か!!
ジャックは一か八かに賭ける道を選ぶ。
「ミーナ、二手に別れよう。俺が囮になってあいつらを――」
しかし、そう口にした直後だった。
「あぁ、もう! しつこいわねぇ!」
突如、ミーナはそう叫んだかと思うと立ち止まり、後ろを振り返った。全く想像もしていなかった無謀とも言える行為に、ジャックは戦慄する。
「おいミーナ!! 何してんだ!! はやく――」
「いいから下がってて!!」
だが、立ち止まるジャックの言葉を振り払い、彼女は聞く耳を持たずそう言い放った。あまりに鋭く刺すような静止に、ジャックは身体を動かせなかった。
「もう我慢の限界。これ以上フィリカに無理させられないわ」
すると彼女は、ケープの下へ隠れたカットソーの胸ポケットへ手を突っ込んだ。そこから白い薬包紙を一つ取り出すとそれを素早く開き、乗っていた深紅の粉を真っ直ぐ口の中へ。そして、
「ちょっとぐらい延焼したってもう知らない」
独り言のようにそう口にすると、ブレスレットをした左手を、茶色のケーブを払うように伸ばす。同時、放り投げられる薬包紙。紙は風に乗っては巻き上がり、彼女の前へと舞う。そして、それが彼女の顔を左から右へ通過しようという時だった。
何もない空間から炎が現れ、瞬く間に紙を燃やした。
それと共に、地を這うように現れる赤い炎。
それはまるで、円を描くように彼女の周りへ。――すると、
「ジャックさん······あれは······?」
フラフラとした足取りで、目に力のないフィリカが胸を押さえながらこちらにやって来る。ジャックはそのフィリカを軽く支えながら、
「あれは、あいつが作った魔法だ。ただ······」
しかし、そこで言葉を止めた。いや、正しくは、
――あんな、自分が燃える可能性があるものを手足のように操るなんて······。
と、それがどれだけ難しいことか、どれだけ人間離れしたことか、自分も同じ魔法を使ったことをあるだけに、ジャックはその幼馴染の力に圧倒され、言葉が出なかった。
その幼馴染――ミーナは、細く白い腕を肩辺りまで上げながら、何かを巻くように手をクルリと回していた。そして、それを胸の前に持って来ては拳を握り、目を瞑っては一息。窮地とは思えぬほどの落ち着いた吐息だった。すると、
直後、パッと目を開き、彼女は一気に手を前へ突き出した。
彼女の開かれた手が前へ出ると同時、彼女の周り前方――半円からは炎が止めどなく溢れた。それは荒れた水のようにうねっては形を変え扇状に、そして最後には大波のように広がっていく。
視界端までいる魔物の群れが、その炎の波に飲まれていた。
業火の中で響く、獣の鳴き声と亡霊のように低い断末魔。炎の中で踊る影が一つ、また一つと形を崩しては消えていた。
パチパチと木々の燃える破裂音を掻き消すほどのその轟音は、草原に十五秒ほどは流れていた。そしてそれが過ぎると、炎は誰かが吸い込んだように、瞬く間に嘘のように消えてしまった。残ったのは焼け野原と、所々で赤く光る残り火だけ。敢えて述べるなら、加えて、動きを止めた凸凹の炭の山。
自分達を追う魔物の影は、一匹たりとも確認出来なかった。
そんな現実とは思えぬ光景を作り上げた彼女は、
「全力でやってこんなものなのね。腕がなまってるのかしら」
と、手を下ろし、溜め息を付いていた。だが、そんな自分自身へガッカリする彼女とは裏腹に、その始終を見ていた二人は唖然としていた。息も絶え絶えだったフィリカも、驚きのあまり息と焦点が元に戻っていた。
そして、
「あ、あの、ジャックさん。あれがドラゴンの血を使ったっていう、新しい魔法なんですよね······?」
「あ、あぁ、そうだけど······。俺が使った時はあんな悪魔染みてなかったぞ······」
「えっ、でもいま腕がなまってるって······。どういうことです······?」
「知らねぇよ······俺が聞きたい······」
炎が消えた後もまだ焦げた臭いと、パチッ、パチッ、と燃える音は残っていた。しかし、あれだけの業火にも関わらず、一番近くにいたはずの彼女は髪の毛一本、服の端すら焦げた跡すらなかった。
と、そんな彼女は、次にやらねばならぬ事を思い出す。
「ジャック、あんたの服貸しなさい」
後ろ姿を見せたまま、冷たくそう言ったミーナ。
先の魔物の様を見ていたジャックは、恐れから焦り、あたふたと少し時間を掛けながらも、言われるがままに着ていたシャツを脱ぐ。そして、恐る恐るシャツを渡しに行くと、それを奪うように彼女は服を取り、躊躇いもなくそれを手の上で燃やした。途中から、もしや、と予想していたジャックは、
「あぁ······俺の服······」
思わず声を漏らし、哀しそうな目で、炭へと変わるその凄惨な片割れを見送った。やがて、手の上に乗っていた服が灰になると炎は消え、直後、まるで天に導かれるようにそれを風が運んでいく。その天に昇る黒い影を「あぁぁ······」と再び、ジャックはは哀しい目で追う。しかし、その側では汚らわしいものを落とすかの如く、少女は両手を払っていた。
「さっ、これでもう追われる事はないわ。行きましょう」
すると彼女は、誰とも目を合わせることなく一人、街へと歩みを進めた。だが、残された二人はまるで嵐のような出来事に未だ悚然としていた。そして、先に歩く彼女には聞こえぬよう、
「フィリカ、魔法を使うあいつには絶対逆らわないようにしような······」
「そうですね······」
フィリカもジャックの言葉にボソリと同意。――と、そこで、なかなか後ろをついてこない二人に彼女が気付く。
「どうしたの二人とも? 行くわよ」
別に、彼女にとって他意もない何気ない言葉なのだが、まだ先の出来事が抜け切らぬ二人は、
「「はい、ミーナさん······」」
と、おとなしく従うように、彼女へ返事せざるを得なかった。
城から真南へ伸びる、一本の大通り。
三人は無事、その後魔物と遭遇することなく街へと帰還した。しかし、街行く人々は三人の姿を視界へ捉える度、訝しげで、興味に満ちた顔でこちらを見ていた。
"ママー、なんであのひと上半身裸なの?"
"コラッ、見ちゃいけません!"
"君は絶対あーなっちゃダメだよ?"
"うん、大丈夫! なりたくない!"
"やだー、なにあれー?"
色んな人の声が、ジャックの耳へ嫌でも飛び込んでくる。
「違う······俺はこんな風に注目されたかったんじゃない······」
少女二人が、後ろに上半身裸の男を連れて歩く。それは、多くの人が往来するこの通りには、あまりに異様な光景だった。
「堂々と歩きなさい、ジャック」
「歩けるか······馬鹿······」
「色んな人にチヤホヤされたかったんでしょ?」
「こういう事じゃねぇよ······」
恥ずかしさと惨めさのあまり、ジャックは顔を両手で隠して歩いていた。――と、その側でフィリカも顔を隠すように俯き気味で歩いていた。そして、目だけを左右へ動かし、辺りを気にしながら考え事を。
なにも、わざわざこんな人通りの多いこの道を通らなくても······。そう思うフィリカはあまりにも不可解な、この、自分の知る憧れの人の像と一致しない彼女の行動に疑いを覚えていた。
これが、ジャックさんと居るときのミーナさん······?
と、その時、フィリカはハッと思い出す。炎の件ですっかり忘れていた、実を食べた後の彼女の言葉を。
『あんたら、帰ったら覚えてなさい』
それを途端に思い出し、身の危険を感じるフィリカ。
――に、逃げなければ······!
フィリカは辺りを見渡し、扉に看板を掛けている建物を探した。それは、あたかも探していた店をいま見つけたかのような演技をするため。ちなみに、看板の下がる建物は大抵が店。それは街の至る所にあった。
そしてフィリカはやや前方、人混みの隙間から一瞬だけ見えた看板の一つを見つける。いつ自分にその矛先が向くか分からないと思うフィリカは、この機を逃すわけにはいかなかった。故に、すぐに行動を起こす。
「あっ! ミ、ミ、ミ、ミーナさん! そっ、そういえばわたし! あそこで、か、買いたいものがあったんですよー。だから、そろそろこの辺でお暇を頂きたいと——」
吃りながら、いかにも怪しい口振りでフィリカは建物を指差しそれを口にする。――が、それ以前に、不審な彼女はもっと初歩的で場所で致命的なミスを犯していた。
それは、
「あら、家でも買うの?」
「えっ」
彼女が指差している先にあったのは『契約者募集中』の看板。
途端に血の気が引くフィリカ。
フィリカは頭一つ分身長が低いため、人混みでは隙間からしか看板を見つけることが出来なかった。そして焦るあまり、彼女は一瞬見えた看板だけを見て文字は確認せず、そこが店だと判断。重なる不運。だが、それは一息吐けば防げたものだった。
あまりにも情けない痛恨のミスに、さらなる動揺がフィリカには広がっていた。
「あっ、ち、ち、ち、違いました!」
彼女はわざとらしく眼鏡を外す。
「あれぇ、おっかしいなー。眼鏡の度が合ってないんですかねぇ? 確かこの辺に店ありましたし、私ちょっと直してもらいに行ってこようかなー」
墓穴を掘った彼女は、もはや何でもいいから逃げねば、と自棄になり、いい加減な理由をつけてその場から離れようとしていた。
そして、二人とは違うほうへ歩き出す。――が、遅かった。
「どこ行くの? フィリカ」
後ろから肩を掴まれ、フィリカは「ひぃっ!」と短く悲鳴を上げる。そして、その悲鳴を上げた彼女の耳元で囁くように、
「声、震えてるわよ?」
優しい口調なのに、心の奥底に秘めたこの声の主の感情が透けて見え、フィリカは恐怖した。肩を捕まれ逃げる行為を奪われてしまったため、不本意ながらもおそるおそる後ろを振り向く。すると、そこには赤い髪の女性が目を細め、優しそうな笑顔を作っては、小首を傾げて立っていた。あくまで優しそうな笑顔。
その顔を見て、フィリカは全身が固まるような戦慄。
幾度と見てきた笑顔の中で、これは類が違うと、ハッキリ分かっていた。蛇に睨まれた蛙。まさにその様子。――と、睨まれた蛙は、
「な、なんでもないです······」
「あら、そう」
と、軽く開かれる目。半目の隙間から覗く深紅の瞳には、やはりまだ、あの森での怨念が目に見えて映っていた。そして彼女は、まるで「逃がさない」というようにフィリカの手を強引に取る。またもビクリと身体を震わせたフィリカだが、いよいよ完全に逃げる事を奪われてしまい、思わず、
「た、たすけて······」
と、小さく漏らす。――が、
「んん? 聞こえなーい」
彼女――ミーナは恐怖に震えるフィリカの手をしっかりと握る。そうしては、その腕を大きく揺らしながら街のど真ん中を楽しそうに遊歩。
恥辱を受ける少年。恐怖に怯える少女。
そんな彼等の凱旋は、こうして、あまりにも不本意な形で幕を閉じる事となった。
「楽しいわねぇー、ねっ? フィリカ?」