先輩と後輩④
「ありがとう、フィリカ」
「いいえ、ミーナさんの力になれるならこれぐらい」
借りた本を持って、三人は研究室へと戻っていた。
「書庫抜け出してきて良かったのか?」
「えぇ。そんな忙しくないですし、他の司書の方にも場所は伝えてあるので大丈夫です。それに、司書が持ち出しを手伝うのはしょっちゅうですから」
「そうなのか。まぁともあれ、ありがとな」
「いえ。それでは、私は失礼しますね」
そうしてフィリカはドアへ向かい、部屋を出る前に二人のほうを一度振り返ると、軽くお辞儀をして微笑み、その向こう側へと消えていった。
「健気な奴だな、お前と違って」
「そうね。あなたとも違って」
そんなフィリカを手を振って見送る二人は相変わらずのやり取り。だが、このやり取りにもいい加減慣れてきたため、お互いこれ以上は言い返さない。
「さて、この中から次のターゲットを探すわけだけど······こんな必要あったのか?」
机の上を見て、溜め息混じりにそう言葉を漏らすジャックの前には、本が全部で二十七冊。うち二冊は最後にミーナが積んだ五センチはあろう分厚い書物で、他は厚さ二センチ足らずの街で売られてる一般的な書物とそう大差ないものだった。
そしてそれに対し「あるわよ」と言う彼女は、
「どれもモンスターに関する文献に変わりはないけど、書いたのは一人一人の人なんだもの。他の人と中身が被ることはあるけど、それでもその人しか知らない情報が幾つも記載されてるんだから」
普段、本を読まないジャックは、彼女からその理由を聞いては「なるほどね」と納得しては、こういった本の山ができる意味を初めて理解。気だるそうなジャックの様子は相変わらずそのままだが、それでも、意味があるとないとではやはり無意識にやる気は変わるもので、
「で、一体この中からどういうのを探せばいいんだ? ちょっとしたことくらい決めてんだろ?」
と、机に手をついて、どの本を見ようかねぇ、と自分からジャックはその山の題名を一つ一つ眺めてみる。――と、その最中、尋ねられた彼女が「そうね」と言いつつジャックの隣へと来る。
そして、
「とりあえず、中見てもらうと分かるけど——」
と、無作為に一冊本を取り、適当にページをパラパラとめくっては、その中身を共有するようにジャックとの間に置く。自然、ジャックはその本を見る。
自分達が見ている本の中身。最初数ページと最後のほう以外はどれも似たレイアウトをしており、手描きの挿絵と箇条書きに書かれた項目が、左右のページに規則的に書かれていた。
「モンスターの特徴や、生息地、体長や体重など、諸々こうして書かれているの。それでその中でも、今回は生息地と特徴に注目して、この周辺に潜む『植物型のモンスター』を探して欲しいの」
「植物型ね······。特徴は何を見ればいい?」
「そこは実を成らすモンスターか、ね」
「実を成らす? 植物は大体そうだろ?」
「違うわ。普通の植物と違って、モンスターは自立歩行するものもいるし、そこに根付いて罠にかかった獲物を溶かすのもいるんだから」
「あぁ、そういえばなんか訓練生の時そんなこと教わったような······」
「最初に教わるはずよ。あんた、よくそんなんで兵士になれたわね」
軽く罵倒するミーナに、モンスターの知識に関しての座学は寝てしまうことの多かったジャックは何も否定できず、言葉に詰まる。そんなジャックに彼女は溜め息を吐くも、深くは気にせず説明を続ける。
「とりあえず、図鑑の植物型モンスターは、動くタイプか生物――人間に危険の及ぶ可能性があるものが、基本モンスターとして記載されることになってるの」
「へぇ、知らなかった。でも、その植物型をターゲットにする理由はなんだ?」
「比較的、材料になりそうな部分が多い事ね。それと、いざという時は新しい魔法が使えるでしょ? 相手が木なら」
「あぁ、なるほどね」
ドラゴンの時は攻め手無しの不利な条件だったが、相手が植物なら剣も炎も通用する可能性は十分にあった。つまりその分、危険、脅威に立ち向かうことが出来る。故に採取の成功も近しくなるということだった。
「まぁ、あくまで『いざという時は』だけどね。今の理想としては、魔法を使わずに、容易に素材を手に入れるのが一番の目標だからね」
「あぁ、司令官と話してたような、リスクを少なくして軍で活用するように、か」
「そうね。まぁ本当はそれだけじゃないけど······今はそれはいいわ。――とりあえず、やることは分かったわね?」
「あぁ、オッケーだ」
「そっ。それじゃ、条件に当てはまる箇所を見つけたら、この付箋をページに挟んでおいてちょうだい」
するとミーナはどこからか、小さく長方形に切った白い厚紙の束を机に置いた。
「これで印を全部つけ終えたら、今日の仕事は終わりよ」
「お、マジか」
と、それを聞いてジャックはさらにやる気を出す。何日も掛かると思っていただけに嬉しい誤算だった。
「じゃあ私はこっちの厚いのから見てくわ。あなたは気になったのからでいいわよ」
「ん、そっか」
そうして、ジャックは一冊の本を手に。手にしたのは『旅先魔物図鑑』という名の本だった。『旅先』というのがジャックの興味を引いた。どうせ中身には大差ないことをジャックは後で知るのだが、それでも、
「よっしゃー、やるかー」
すっかり意気込み、その本を持って近くの丸椅子へと座り、早々に作業へと取り掛かった。
ジャック達のいる研究科の窓からは、東に位置した訓練のために使われるグラウンドが見える。日中は訓練生や非番の兵士、また、それを指導する上官の掛け声が鳴り響く。しかし、今はその掛け声も、気の抜けるようなカラスの鳴き声へと変わり、寂しさが木霊するだけの虚しい場所へとなっていた。
そう。結局、ジャック達が作業を終えたのはこの頃。日が傾いて、東の空が薄紫色へと染め上がり始めた頃だった。
「やっと終わった······」
読まずに付箋を挟むだけならなんてことないと思っていたジャックは、慣れない仕事とその誤算にすっかり疲弊していた。腕をだらけさせ、頭だけを机の上へ乗せている。
と、そんなジャックへ、
「おつかれさま。それじゃ、今日は帰りましょ」
労いの声を掛ける彼女は全く疲れた様子はなく、始まる前も終わってからも全く変わらぬ調子だった。一人で、ジャックの倍は越える十八冊を処理したのにも関わらず。それにはジャックも完敗。
「明日は標的を絞って作戦と準備。で、明後日には出発よ」
珍しく幼馴染に脱帽するジャックは「はいよ」と返事をして身体を徐に起こす。そして彼女同様、帰り支度をすると一緒に部屋を後に。
ランタンの灯りが消され誰もいなくなった部屋では、積まれた本達が無数の付箋に噛み付いたまま、次の朝まで開かれることはなかった。
家路に就いたジャックとミーナは、城を出て南の大通りを下っていた。空には星が浮かび始め、夜が深くなりつつあるのを知らせる。
「それじゃ、私はここだから」
城から三分ほど歩いて、細い路地を入ったすぐの所にそれはあった。左右が、石の家々に囲まれた道の途中に、レンガ造り小さな平屋がポツンと。ドアの隣にはガラス窓が十字の格子を持って、主人の帰りを待っていた。
「今はウチの隣じゃないんだな」
「えぇ、通うのに不便だもの。夜遅くなる事もあるし、所々灯りはあるとはいえ、そんな中、女の子一人は危ないでしょ?」
「んー、まぁそうだな」
ジャックの家は、先の通りを十五分ほど歩いて東に折れた農園の途中にある。農業地区で人気もなく、冬以外は虫の声がいつまでも聞こえるような場所。
「寄ってく?」
「いや、完全に暗くなってからあの道通りたくないしいいわ」
「そっ、残念」
「ホントか?」
「えぇ」
ミーナは少し寂しげな笑みを浮かべる。
その笑みに動揺するジャックはやや顔をしかめ、その真偽を確かめようとする。――が、こういう時の彼女の思惑は、幼い頃しか知らぬジャックが知るものではなかったため、それを確かめることは出来なかった。
すると、すっかり顔を戻す彼女は、
「まぁ無理には引き止めないわ。私も夜が更けたあの道を通るのは億劫だもの」
「あの道、まだ怖いのか?」
「怖いわよ。だって、青白い血まみれの女性でも見たらどうしよう、っていつも思うもの」
「おいやめろ、そういうの。俺が今からその道通るんだから」
「あら、あなたが聞いたんじゃない」
「そりゃそうだけど······。まぁ、いいや。こんな事話してたら本当に暗くなっちまう。もう行くよ」
「えぇ、そうね」
そして、ジャックは右手を軽く掲げ、彼女に挨拶。
「んじゃ、また明日な」
それに応えるよう彼女も胸の辺りまで手を上げ、
「えぇ。また明日」
その右手を柔らかく振る。
踵を返すジャック。
そして、振り返らず遠ざかる幼馴染の姿を、彼女は家の前で見えなくなるまで、手を上げて見送っていた。
翌日、研究室で次の標的について話し合った二人は、その標的が書かれている以外の本を書庫、南に位置する受付へ返しに来ていた。
「すみません。これ、返しに来ました」
「はーい」
受付の、円になった机越しで返事をしたのは、昨日見た黒髪の彼女――ではなく、二十歳前後の深緑の髪をした女性職員だった。
「あ、ミーナさんですねー。いま確認しますのでお待ち下さーい」
女性は、赤い髪をした彼女を見ただけでミーナと判断。そして慣れた様子で貸出リストへ手を伸ばす。その間に、ミーナのやや後方に立っていたジャックが「あぁ、しんどい······」と受付の机に、持ってきた本の山をそっと置いては二分割。
この人とも顔馴染みなんだな。いや、当然か。と、ふと心に思うジャックは、照合作業に取り掛かった彼女を邪魔しない程度の小声で、
「そういえば今日、フィリカいないみたいだな」
すると、
「えっ、そんな事はないと思うけど······」
ミーナはその発言にやや驚き顔。よくここへ通っている彼女は、その少女がどの日、どの時間に勤務しているのか大体把握していたからだった。
「うーん、本でも運んでるんじゃないかしら?」
当てもなくミーナはそう口にする。が、辺りを見ても軍服を着た男や白衣を着た科学者、麻の普段着を着た一般人がいるだけで、二人の目に彼女の姿は映らなかった。
「見当たらないわね······」
と、そうこうしているうちに、円机の向こうに居た女性が作業を終える。
「ミーナさん、確認終わりました。――二十三冊で、残りは後日でいいですね?」
「はい、大丈夫です」
「分かりました。それじゃあ、こちらも大丈夫です。後は片付けておきますねー」
「ありがとうございます」
ミーナが軽く会釈をすると、受付の女性も軽く笑んで会釈。ここの人はみんなこんな感じなのかな、と思いつつジャックも会釈。
そうして、受付から離れた二人は、
「んじゃ、戻るか」
と、用事を終え、書庫を後にしようとする。が、二人が書庫を出ようとした時、あの重々しい扉がある出入り口の左側――そこに見える棚と棚の間に、本を運ぶ、あの紺の服を着た少女の後ろ姿が見えた。
相変わらず、彼女は頭を超えるほどの本を抱えていた。
それを見つけたミーナは「フィリカ」と柔らかい声音で声を掛けた。その声に、猫がピンと耳を伸ばすように反応した少女は、身体を一旦、九十度横にし、そして首だけをこちらへ。その後、二人の影を捉えると微笑を浮かべ、そのまま二歩、後ろへ後退。――と、同時に、本を持つ彼女の影から一人の軍人が現れ、避けた素振りも見せず彼女と棚の間を通り抜ける。
そんな彼女――フィリカのあまり邪魔しちゃ悪いわね、と思ったミーナは「頑張ってね」と声には出さず口の形だけで伝え、またね、というように手を振った。
フィリカはそれに、先程よりも大きな笑顔で返事。それを見届けると自然とミーナにも笑み。そしてジャックとミーナは歩みを進め、開け放たれた扉から書庫を出て行った。
書庫の入り口、見張り兵士の間を抜け、二人はゆっくりと中央部へ続く廊下を歩いていた。――と、その最中、先の出来事でやや気になったことを思い出したミーナが、ジャックの顔を見ては若干の叱り口調で言う。
「あんた、手ぐらい振ってあげなさいよ。フィリカのこと気にしてたくせに冷たいんじゃない?」
「ん、あぁ······」
「――? なによ、反応悪いわね」
いつもなら「お前が手振ってんだからいいだろ」とか「あぁ、忘れてた」とか言いそうなものだが、どこか自分の言葉に対して上の空で、歯切れの悪い返事をした幼馴染に、ミーナは思わず首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、なんか変な感じがしててさ······」
「なにが?」
そう尋ねられたジャックはそれを上手く答えることが出来ず、やや俯き、顎に手を当て「うーん」と唸りながら歩く。『誰』についてはハッキリしているものの、考えてもその違和感の正体が掴めず、結論は纏まらなかったが、ジャックはとりあえずながらに、自分の思っていることを、目を丸くしている隣の幼馴染に話す。
「いや、フィリカって、よくあれで誰ともぶつからないよなぁ、と思って」
「え? 何言ってるの? 別に、いつもあんな感じよ? あの子」
「はっ?」
それを聞いたジャックは目を見開いて思わず立ち止まる。そのまましばらく硬直し、今の彼女の言葉を再度噛み砕くと「いやいやいや······」と、顔の前で手を振っては苦笑。
そして、
「いやちょっと待てって。あいつ、本当にいつもあんな大量の本抱えてんのか?」
「えぇ、そうよ。三年も働いてれば別に変なことじゃないと思うけど」
「いやいや、そりゃ司書が大量の本抱えてんのは別に変じゃないだろうけど、あれでぶつからずに歩けるのはおかしいだろ」
「それもなんてことないじゃない。だってそんなの見たら、普通周りが避けるでしょ」
「いや、まぁ、そりゃあそうだけど············いや待て。じゃあ尚更、おかしいだろ」
「なにが?」
「お前も見てたろ? こうさっき、フィリカがこっち見てから後ろに下がったの」
「えぇ、見たわよ。その後、男の人が歩いてきたのでしょ?」
「それだよ。おかしいだろ」
「――? なにが? 別によくある光景じゃない」
「それ自体はな。ただ、どっちが先だったか、って話だよ」
「どっちが先?」
「そう。俺がずっと違和感を抱いてたのはそこで、通り抜けて来たやつは、全くあいつを避ける素振りなんてなかっただろ?」
「······あまり気にしなかったけど、言われてみればそんな気がするわね。じゃあ、フィリカが先に動いたってこと?」
「そうなるだろ。しかもその割りにさ、フィリカのやつ、その後こっち向いたまま笑って、あまりにタイミングよく後ろに下がったじゃん」
「えぇ」
「いくらなんでもおかしいだろ。だってさ、それってまるで――」
途端、それを聞いていた少女の眼の色が変わっていく。
ミーナも話の途中から、その可能性を考えてはいた。が、約三年もの間、自分が幾度とその彼女を見てきたにも関わらず、それを変だと思わなかったことが無意識に自分を否定し、その可能性に辿り着くことを遠ざけていた。
しかし今、数年振りに再会した、妙に説得力のある気だるそうな幼馴染の言葉が、彼女の中に、その答えと一つの仮説を瞬時に組み立てる。
「まぁ、俺の気のせいかもしれないし、偶然かもしんないだけど······。けどほら、前も俺等の本受付に持っていく時もあんな感じだったろ? だからさ、やっぱりなんか——」
「ちょっと来て」
あと一つ、確固たる証拠が欲しいミーナはジャックの手を掴み、いま来た道を早足で戻っていく。引っ張られる形となり、ややまだ歩調の合わないジャックは足を辿々しくしながら、
「なんだよ、急に」
「確認したい事があるの。だから手を貸して」
「だからなんだって」
「いいから言う通りにして」
ミーナは歩きながらジャックに耳打ちをして、書庫の入り口に構える兵士の間を、目も合わせることなく通り抜けた。
彼女が本棚へ返そうとしていたのは、書庫の西にしまわれる、料理レシピに関するものだった。無論、この国にも主婦は一定数いるため、この一ジャンルで頭を越えるほどの返却本が出来るのは日常茶飯事だった。
それを一度で抱えていた彼女――フィリカは、いつもならそこへは滞りなく辿り着くのだが、彼女はいま、ちょっとした障害に出会っていた。
「あのう、すみません。ちょっと、そこ通ってもいいですか?」
本で視界を塞がれたフィリカは立ち止まり、それに優しく声を掛ける。しかし、棚と棚の間にいるそれは全く動かない。――が、その代わりに声を発した。
「······私よ、フィリカ」
「あぁ、ミーナさんでしたか。こんにちは。――ってことは、隣にいるのはジャックさんですか?」
「あぁ」
二人は横並びになって、フィリカの進行を妨げていた。
「もう、今度はお二人で料理ですか? 仲良しなのはいいですけど、あまり本を積み過ぎないでくださいよ?」
彼女の言う通り、ジャック達の側には料理に関する本が十数冊積んであった。しかし、
「はぁ、信じられんな······」
「えぇ。私もなんで気付かなかったのか不思議なくらい」
その本は、フィリカから完全に隠れる死角――ジャックの後ろに積まれていた。二人がわざと設置したそれは、脚の隙間からも見えぬようジャックが脚を閉じていた。
――と、それを知らぬ少女は、
「どうしたんですか? お二人とも」
抱えた本の向こうから相変わらずの、素っ頓狂で麗らかな声を出す。その麗らかな声の少女に、毅然とした態度で腕を組んでいたミーナは神妙に尋ねる。
「フィリカ、隠さず教えて欲しい事があるの」
「な、なんですか······?」
声だけでも伝わる彼女の真剣な雰囲気に、フィリカは無意識に臆する。本を持つ小さな手に、自然と力が入っていた。それにはミーナも気付いたが、彼女は今は構わず続ける。
「······あなたわかるのね? 私達が今、ここに立っていたこと」
それだけで、ピンと空気が一気に張り詰めた。
小さな物音はあるはずなのに、まるでそれさえも取り払われるような、動くことさえ許されない緊張。固唾を飲む音さえ聞こえそうだった。
だが、その中でも、本の向こうの彼女は答えない。
「ごめんね、フィリカ。こんな真似して。別にあなたを傷付けたいわけじゃないの。ただ、あなたの口から聞きたいだけ」
先の静かに問い詰める雰囲気と一転して、今度は優しい言葉で話し掛けるミーナ。しかし、
「でも」
その優しさもその言葉だけで、その後そう付け加えた彼女はまた静かな、嘘を許さないような真面目な口調になった。
「こういう時。私、意地悪だから、あなたが答えてくれるまで絶対にここは······動かないわよ」
飴と鞭。一瞬、優しくされ安堵した少女は甘えれば切り抜けられると思っていた。だがすぐに、それを憧れの存在によって残酷にも閉ざれる。
少女はひどく動揺をしていた。
ここで口にすれば楽になる。
だが、口にすればもう元に戻れないのでは。
そんな、本の向こうで俯いた彼女の葛藤が、見えない緊張の糸を通して、二人にもひしひしと伝わってくるようだった。
「······どうなの? 教えて、フィリカ」
そして、今までのどれとも違い、ここへ来る時の――普段の優しい口調でそう尋ねるミーナ。彼女は緊張を和らげようとただ尋ね直しただけなのだったが、それは、少女には堪えられないものだった。
はち切れそうな空気とは裏腹に、その言葉は、あまりにも日常的すぎた。本を抱える少女が一番好きな時間。いつ来るか分からぬ憧憬の的。その中で幾度となく耳にした彼女の優しい声。それは、今の彼女がもっとも縋りたいものだった。
「······」
そして、時にして数秒。
ついに耐えきれなくなった彼女が、沈黙を破る。
「············わかり······ます······」
消えそうなほど、弱々しいその声を聞いたミーナはそっと身体を動かし、彼女に道を譲った。