5
「は? 神がお前なんかに加護を? 冗談だろう……?」
信じがたい、という目でアーネストが見つめてくる。
冗談であればどんなに良かったことか。そう思いながら、エメラインは問いには答えず屋根裏を見上げた。
「そんなことより、まず安否確認と傷の手当てをしましょう」
屋根裏には山小屋の管理人がいるはずだ。あの騒動が鎮まっても様子を見に来ないのは、深く寝入っているのかもしくはマヌエルによって既に殺されてしまったか。無事を確認しなくては。
「管理人なら無事だと思うぞ。俺はずっと起きていたからな」
「ええ、でも念のため……」
様子を見に行くと、彼の言う通り管理人には何事もなかった。干し草に埋もれてぐっすりと眠り込んでいる。エメラインはほっと息を吐いて、アーネストの元まで戻った。
「深く寝入っていました。仰る通り無事でしたね」
「そうか。あいつが振る舞った酒の中に薬でも入っていたんだろうな」
そういえば夕食の時、マヌエルはやたらと愛想よく自らが持ってきた酒を皆に勧めてきた。酒の苦手なエメラインはほとんど口を付けなかったので、薬が効かなかったのだろう。
「アーネスト様はお眠りにならなかったのですね」
「変な味だったからな。少し飲んでやめた」
「そうですか。……あの、今回の件は、やはり陛下のご命令でしょうか……」
「違う……」
「では……」
誰ですか、と問おうとしてエメラインは口を噤んだ。知っていたとしても、アーネストは言わないだろうと思ったからだ。
アーネストの生家はブラッドフォード家とは敵対しているし、彼自身もそうだ。そして彼が陛下ではないときっぱりと否定し、口を噤んだということは彼らの陣営の企みと考えるのが妥当な線だろう。
エメラインは背嚢を探り、傷薬と布を取り出した。それから「失礼しますね」と小さく断りを入れて、アーネストの傷ついた右腕に手を伸ばす。
しかし彼は手が触れるや否や、わずかに震え目を剥いた。
きっと自分のことが怖いのだろう。エメラインは嘆息してアーネストを見上げた。
「怯えないで下さいませ。ただ手当をするだけです……」
「別に怖がってなんかいない。そもそも加護なんぞあるのか疑わしいものだしな。そうだ、そんなものありえない……」
「お疑いなら私を叩いてみますか? そうすれば身をもって知ることになりましょう」
すると彼は不審の目をこちらに向けて、拳を握りしめた。だがすぐにハッとした表情をして、胸元まで上げていた手を慌てて下げた。
「バカ言うな! 女を殴れるか!」
間近で怒鳴られ、エメラインは肩をびくつかせて俯いた。彼の怒声は迫力があるので、怖くて苦手だった。誰かが居れば虚勢を張れるが、一人だとどうも心細い。
「チッ」
そしてしょげた態度を見せると、彼は今みたいに決まって舌打ちするのだ。
昔からのやり取りだが、いつまでたっても慣れずに上手くあしらうことができない。なんて情けないの、とエメラインは自分の不甲斐なさを痛感して、唇を噛みしめた。
「……おい、待てよ、おかしいじゃないか。お前はギデオンを治すためにここに来たんじゃないのか? そもそもギデオンは何で倒れたんだ? あいつは間違ってもお前を傷つけるような奴なんかじゃないだろう」
今度は心臓がどきりと跳ねる。事の確信に触れる質問だった。
「一体どういうことなんだ」
「あの、それは、その……」
途端にエメラインはしどろもどろになり、両手を意味もなく揉み合わせ始めた。一番聞かれたくないことを聞かれてしまうとは。恥ずかしいやら居たたまれないやらで、言葉がなかなか出てこない。
「おい、モジモジしていないではっきり言え!」
はっきりしない態度に苛立ったのか、アーネスが怒りも露わに床をバンバン叩く。
「は、はい、言いますから、どうか落ち着いて下さい……」
エメラインは震え上がって、事の経緯を語り始めた。
ギデオンが倒れたあの日、エメラインは彼と対峙していた。本来ならば未婚の身で二人きりなど許されないが、無理に頼み込んでそうしてもらったのだ。ほんの少しの時間だから、と。
二人の結婚は一か月後に差し迫っていた。これなら自分たちが夫婦になるということは、もう確定したと考えていいだろう。だからエメラインは打ち明けることにしたのだ。自分に掛けられた加護の話と、カルナート山へ共に来てもらいたいという願いを伝える為に。
「で、大事な話とは?」
エメラインの緊張が伝わったのか、ギデオンも心なしか硬い面持ちである。
「私たち、もうすぐ結婚するでしょう? その前に一緒に行って頂きたい所があるのです」
するとギデオンは肩の力を抜いて相好を崩した。
「何だ、そんなことか。思いつめた顔で大事な話があるというから、結婚したくない、なんて言われるかと思って胆を冷やしたぞ」
そう言ってギデオンが茶目っ気たっぷりに笑って見せる。その屈託のない笑顔は、エメラインの胸を温かい想いで満たした。
明るくて優しくて、皆から慕われている人望厚い王子様。こんな素敵な人と結婚できるなんて、私は世界で一番の幸せ者だ、と。
「そんなこと、決して言ったりしません。ギデオンさまと共に在れるだけで私はとても幸せなのに……」
素直な思いを打ち明けてギデオンを見上げると、彼の碧い目が細まり口許に暖かい微笑みが浮かんだ。そしてエメラインは、あっという間に力強い腕に抱きしめられた。
軽い抱擁ぐらいなら人前でも交わしていたが、今のはいつものと違う。腕に込められた力の強さに、エメラインの胸が高鳴った。
(う、嬉しいけど、でも駄目よ……)
心地よさにぼうっとなりかけたが、すぐに思い直した。侍従たちにはすぐ終わると伝えてあるのだ。こんなことをしている場合ではない。
このまま身を任せてしまいたいのを堪え、エメラインは肩口に預けていた顔を上げた。
「あの、ギデオンさま、お話しの続きをしたいのですが……」
しかしギデオンは抱擁を解いてはくれなかった。熱の篭った眼差しをエメラインに向け、顔を近づけてくる。
「ま――」
待ってください、という言葉はギデオンによって遮られた。彼の唇がエメラインの唇に重なったのだ。最初は軽く、次は角度を変えて少し強めに。
唇が離れると、エメラインはこれ以上ないくらいに真っ赤になってギデオンを見つめた。
「あ、の……」
「私も、エメラインと同じ気持ちだ」
ギデオンの低くしっとりとした声が耳朶をくすぐり、今度は首筋に唇を落とされた。甘い疼きがエメラインの身体に走る。
次々と与えられる感覚に、エメラインの思考は停止寸前だ。
(どうしよう、とめなくちゃ……)
自分の意思とは裏腹に、身体は全く動いてくれない。そんな風に慌てていたが、しばらくしてギデオンの様子がおかしい事に気が付いた。
首筋に顔を埋めたままギデオンが動かないのだ。
「ギデオンさま……?」
不審に思って身じろぎすると、ギデオンの身体が力が抜けたようにずるずると崩れ落ちる。
それからギデオンはまるで病気にでもかかったみたいに苦しみ出して、気を失ってしまったのだ。
「――で、お前といちゃついたからって、どうしてギデオンが倒れるんだ……?」
地を這うような低い声に、エメラインは縮こまった。これを言えば確実にアーネストは怒るだろう。
ギデオンが倒れた当初はエメラインも訳がわからなかったが、必死に過去の記憶を手繰り寄せて思い出したのだ。当時エメラインが理解できなかったあの言葉を。
「か、掛けられた加護には”不埒な行為から身を護る”というのもありまして、多分それが当てはまったのだと……」
「は!? じゃあ何か、つまりお前たちの色ボケが原因って訳か!? ふざけんな!」
案の定アーネストは烈火のごとく怒りだした。手元に武器があれば突き出してきそうな勢いである。
「お、落ち着いてください! お怪我に障りますから……」
「こんなもん大した怪我じゃない! そんなことよりこれがきっかけでまた揉め事が起こりそうじゃないか! どうしてくれる! 何が私は何もしていない、だ! お前のせいだろうが!」
「ごめんなさい……」
エメラインは返す言葉もなく、謝ることしかできない。
「おまけに俺はこんな怪我までするし、実家の企みまで知っちまうし……!」
(まあ、ローゼス伯爵の差し金だったのね……)
アーネストが頭を掻き毟り、重大な情報を口走っている。気付いていないあたり、相当興奮しているようだ。
そのまま彼は何もかもを吐き出すように怒鳴り散らし、最終的には眉間を抑えて、暗い表情で黙り込んでしまった。
俯いた顔は色が悪く、瞼が少し落ちていて眠そうにも見える。もしかしたら薬の影響かもしれない。それに加えて心身の疲労もあるのだろう。
エメラインはアーネストに向かって手を伸ばした。せめてもの罪滅ぼしに、傷の手当くらいはさせてもらおうと思ったのだ。
「やはりそのままにしておくのはよくないですから、手当をさせてください……」
腕に触れるとアーネストは明らかに身を固くしたが、今度は気にせずに処置を始めた。彼も何も言わないし、良いということなのだろう。
腕の手当てを終えると、次は右手を開いてもらった。短刀で傷つきでもしたのか、所々に切り傷が出来て血が滲んでいる。それをそっと拭いながら、エメラインは呟いた。
「助けて下さって感謝します」
「俺は助けてない」
確かに結果的には加護のお蔭で事なきを得た。けれど彼がエメラインを逃がそうとしてくれたことは分かっているのだ。
「でも助けようとして下さったでしょう? だからありがとうって言いたかったんです」
改めて礼を述べると、アーネストが苦々し気に顔を歪めた。
「別にお前の為じゃない。お前ならギデオンを救えるかもしれないって思ったからだ」
つまりは実家のことがあるにもかかわらず、ギデオンの為を思っての行動だったというわけだ。それがわかったらエメラインはより嬉しくなった。損得関わらずギデオンの支えになってくれる人が居る、というのは心強いものである。
「ええ、必ずお助けします」
心にも同様の事を固く誓い、顔を上げてアーネストの瞳を見つめた。
眠たげに下げられていた瞼が少しだけ見開かれる。そして彼は眉間に手を当て俯き、もごもごと呟いた。
「……何で、今になって、笑う……」
「え?」
意味が分からず問い返すと、アーネストの身体がぐらりと傾いた。慌てて彼を受け止め、様子を伺う。彼をすうすうと穏やかな寝息を立てていた。きっと眠気が限界だったのだろう。
エメラインは苦労してアーネストの身体を横たわらせた。枕代わりに背嚢を頭に差し入れ、毛布を掛けてやる。自分は自らの外套に包まり、彼の側に腰を下ろした。
(私はさっき笑えていたのね……)
全然自覚はなかったが、アーネストの目にもはっきりとわかるぐらいには笑えていたようだ。
きっとギデオンの事を考えていたからだろう。どうやら自分は彼と共にいる時は良く笑顔を見せているらしいから。
(なら笑いたいときには、ギデオンさまの事を考えればいいわね)
ふふ、と知らず笑いが漏れる。が、すぐに悲しくなって、エメラインは膝に顔を埋めた。
(それはギデオンさまが倒れる前の話よね……。これからはそうもいかないわ)
ギデオンが助かっても、もう一緒にはいられないのだ。そんな中で彼の事を思い出したりなんかしたら、笑顔じゃなくて涙が出てくるだろう。それどころか、共にいられないことを嘆く生活が始まりそうである。
(ギデオンさまが助かればそれでいい、って思っていたはずなのに……)
自分の貪欲さに嫌になる。エメラインは嫌な考えを振り払うように頭を振って、ぎゅっと目を瞑った。