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柔らかに波打つプラチナブロンド。うっすら上気した頬。自分を見上げる潤みを帯びた翠眼。小さな薄紅の唇は緩やかに弧を描いている。
表情の乏しい彼女が浮かべるその表情は、最上級の微笑みだった。そしてこの笑顔はギデオンにしか向けられない特別なものだ。
それを見た時、ギデオンの胸は例えようもない幸福感で満たされた。それから熱い衝動に駆られ――
気付いたら倒れていた。
倒れた自分に取りすがり、エメラインは泣きながら先程言わんとしていたことを告白した。成程そういうことか。
しかしあんなに動揺していた彼女は初めてだ。申し訳なく思う。今頃彼女は苦境に立たされていないだろうか。父が彼女に辛く当たっているのは想像に難くない。
王配たる父は、母が死んでから自分の欲を隠さなくなり陰湿になった。母が重用していたブラッドフォード伯爵を遠ざけたがっていたし、母が推し進めた自分とエメラインの婚約も良しとしていないようだった。
自分が倒れたことで、父に付け入る隙を与えてしまったのではないだろうか。そう思うと居ても立っても居られなかった。
が、相変わらず自分の身体は、倦怠感と息苦しさに支配されていて動くこともままならない。あまりのもどかしさに、ギデオンは胸を掻き毟った。
ギデオンさま。
自分を呼ぶ声が聞こえる。誰だろう。心なしか息苦しさが少しだけ治まった。
「天、使……? いや、エメ、ライン……?」
「ギデオンさま」
全然違った。野太い声だった。彼女の声はもっと高く透き通るような声だ。
薄ら目を開けると、ブラッドフォード伯爵が気遣わしげに自分を見下ろしていた。羞恥と居たたまれなさで、ギデオンの全身から冷や汗が浮き出る。
「少し落ち着いたと聞いていましたが、まだ話ができるご容態ではないようですね」
「いや、喋ることは、できる……。騒ぎは、起きていないか? エメラインは……?」
「婚約は破棄されエメラインはカルナート山へ行きました。一体何があったのかお聞きしても? 娘は何も言わずに行ってしまったので」
「そうか……」
何ということだ。発端を話すのは非常に情けなかったが、こんなことになってしまった以上、自分のプライドなんて気にしている場合ではない。ギデオンは事の次第を搔い摘んで説明した。
伯爵の顔が驚きに染まる。だかそれは最初のうちだけで、やがてそれも呆れ顔に変わっていった。
「はあ、そういうことでしたか」
「済まない……」
「このような事態にならなければ笑って済ませられるのですがね」
「そ、それでエメラインは一人で向かったのか……?」
「いえグライス子爵と共に」
「何だって!?」
聞き捨てならない名前に、ギデオンは思わず飛び起きそして眩暈を起こして倒れた。
「……意外とお元気ですな」
「そ、そのようだ……」
しかしアーネストが同行者とは。あいつは駄目だ。彼女の事となると、彼は何故かどうしようもない男に成り下がる。彼女に対する偏見を解こうとしてみたが、聞き入れようともしなかった。何であんなに頑固なんだ、あいつは。
きっとアーネストは今頃エメラインをねちねちと虐めていることだろう。こんな状況下なのに、それでは彼女があんまりにも哀れだ。
出来ることなら、自分が行ってやりたい。そもそもこれは自分のせいでもあるのだから。
己の不甲斐なさに歯噛みしていると、伯爵がふっと微笑を浮かべて立ち上がった。
「少し安心しました。ギデオンさまはそのままゆっくりご養生なさってください」
「伯爵は……、今から、どうする……」
つもりなのだ、と問おうとしたが、語尾は掠れて声にならなかった。
伯爵が手を上げて制する。無理はするな、ということなのだろう。
「カルナート山に向かいます。エメライン一人で”あれ”の対応をするのはきついでしょうから」
「待って、くれ……!」
踵を返して去ろうとする伯爵を、ギデオンは咄嗟に呼び止めた。
きっと自分は結構元気だ。息苦しさなんて気にしなければどうということはない。気合で何とかなる。いや、してみせる。
ギデオンは歯を食いしばって、寝台から起き上がった。
◇◇◇◇◇
エメラインたち一行は、三日間の工程を経てカルナート山の麓へと辿り着いた。
「この山の中腹に向かいます」
「そこで何をするんだ? 薬草でも摘む気か?」
アーネストの問いに、エメラインは言葉を詰まらせた。そういえばどうやってギデオンを治すのかを言っていなかった。三日間も一緒だったのに言う隙が無かった。何しろアーネストはミシェルの話しかしなかったので。あとごくたまにギデオンを添えて。
「そのような感じです」
とりあえずはそう言っておくことにした。本当のことを告げれば、アーネストはまた呪いだとか不吉だとか喚き出しそうだから。
そしてエメラインは、アーネストの引きつれてきた部下を一瞥して、おずおずと口を開いた。
「アーネスト様、一つお願いが」
「何だ」
「本来ならカルナート山は、私たち一族と管理を任された者しか立ち入ることが許されていません。出来ればアーネスト様一人でお願いしたいのですが……」
「それは駄目だ。陛下から二人以上で見張れと言われている」
「でも、しきたりですので」
「絶対駄目だ。状況を考えろ。そんなこと許されると思っているのか?」
「ならばせめて人数を減らしてください。山神さまのお怒りに触れてしまいます。伝え聞いた話ですが、強引に入った集団が雷を落とされ全滅したことがあるそうです。またある者は遭難し、気狂いになって発見されたことがあります。これは実際私も見たことがありますので」
実例を挙げてみせると、アーネストの動きが停止した。
「……おいマヌエル、お前だけついてこい。あとは麓で待機だ」
不承不承といった感じで、アーネストが一番の腹心を指名して、それ以外を下がらせる。神の怒りという単語を持ち出せば、流石の彼も無視できないようだ。彼が信心深い人で良かった、とエメラインはほっと胸を撫で下ろした。
かくして女一人に男二人の山登りが始まった。
未婚のお嬢様が一人で、しかも敵意を向けてくる男と一緒だなんて!
とエメラインの護衛は酷く心配してついて行きたがったがエメラインは首を縦に振らなかった。
自らしきたりを破るわけにもいかないし、それに護衛たちが心配しているようなことは起きないだろう。自分の身は絶対に安全だと胸を張って言える。むしろ心配なのは、アーネスト達の方だ。
(あの方のご機嫌を損ねなければいいのだけど……)
こっそり溜息を吐いて、黙々と歩く。あの場所に血筋ではない者を連れて行ったことはないから、不安で堪らなかった。果たしてどんな反応が返って来るやら。
「おい、目的地までどのくらいだ」
鬱々としていると、静かだったアーネストが声を上げた。
「着くのは夜になるでしょう。夜の山道は危険ですから、途中の山小屋で夜明かしするつもりです」
「そうか」
アーネストはそれだけ言うと、再び黙りこくった。
うるさいはずの彼が静かなのには訳がある。喉が渇くということを理由に、喋らず歩きましょうということを提案したのだ。水のある場所は限られているし、水筒に入る量だってそう多くはない。
お蔭でアーネストの嫌味を聞かずに済んでいるが、なければ無いで考え事ばかりしてしまう。どっちがいいかと言えば、もちろん考え事の方だけれど。
やがて狭く歩きづらい段差を降りてから、エメラインは二人に声を掛けた。
「あの、ここは滑りやすいので気を付けてください」
「これしきの高低差ですべるわけがっ――」
だがアーネストは見事に滑った。しかも飛び出た岩で腰を打っていた。とっても痛そうだ。
これは気まずい。
彼の部下もそう思ったのか硬直している。ややあってアーネストは何事もなかったかのように立ち上がった。
「大丈夫ですか? 少し休みますか?」
すぐに歩くのは辛いだろうと思って、気を遣って訊ねたのが悪かった。
アーネストの目が、憎悪の篭った眼差しに変わる。まるで「お前のせいで滑った」とでも言いたげである。
これには流石のエメラインも憤った。色んな不安を抱えている所為か、受け流す余裕もなかったのだ。
「私は今ちゃんと忠告しました。滑ったのは貴方の不注意です」
「お前のせいだなんて一言も言ってないだろう」
「睨んだではないですか。どうして私の事をそのように嫌うのですか? 私が何かしましたか?」
だからつい言ってしまった。余計なことまで。
アーネストは一瞬目を見張ったが、すぐに眉を顰めてずけずけと言い放った。
「世の中にはどうしても虫の好かない奴というものが一人はいるものだ。俺にとってはお前がそれだ」
聞かなければ良かった。こうもはっきりと言われると胸にくる。
「そのお考えは、私が何をしても変わりませんか……?」
「何だ、お前。俺と仲良くしたいとでも言うつもりか?」
「……できればもう少し穏やかな間柄になれたらと」
「何故」
「だってギデオンさまのご友人ですから。私のせいで、二人の友誼に亀裂を入れてしまうのは申し訳ないです」
最近二人の仲が険悪になっていることは知っていたのだ。それも自分絡みだというから、たまらなく辛かった。
「そんな心配はもう必要ない。婚約は破棄されたのだからな」
そうだった。とにかくここまで来るのに必死ですっかり忘れていた。
辛い現実を突きつけられて、エメラインの目の前が真っ暗になる。
「おい、さっさと行くぞ」
「ええ……」
俯き踵を返して再び歩き出す。たまらなく悲しく、とても寂しかった。
(ギデオンさまに会いたい。あの方の笑顔が見たい……)
エメラインは背後の二人にばれないように、こっそりと涙を拭った。
山小屋に着くと、一つしかない寝台はエメラインに譲られた。男二人は床で雑魚寝である。疲れていたのですぐに眠りは訪れた。
その晩、エメラインは激しい物音で目を覚ました。