4.調査報告 依頼人
ナイトに見送られ雑居ビルを出ると、早足で駅に向かう。その途中、いくつかの相手と電話を繋ぎ、足りないピースを補っていく。否、ピースは元よりスノーの手の中だ。彼の推測を裏付ける為の確認作業に過ぎない。
駅の改札を抜け、ホームに滑り込んできたばかりの電車にのりこむ。行き先は郊外にある別荘地。片道およそ40分ほどの道のりだ。
座席に腰を下ろし、鞄からタブレット端末を取り出す。ナイトと同じようにあまねく情報を読み込んでいく。そのあまりに膨大な情報の波はいとも容易く彼を飲み込んでしまう。
当然のことだ。事実の数は星の数と等しく、そこに紛れる嘘は鏡合わせの中の鏡と等しい。ただの人間に情報の海を飲み干すことはできず、暴力的な情報量は濁流となって襲いかかる。取捨選択をしようともがいてももがいても情報はなだれ込む。助かる方法はただ一つ。タブレット端末から目を離すことだけだ。
彼は嘆く。どれほどの情報処理能力があれば、彼女のようにこの海で遊べるのだろうかと。
情報を集め、記憶し、正確に未来を予測する。
そんな魔法のような能力を彼は持っていない。完全に記憶する事などできず、目の前の事実を一つ一つポケットに入れる作業を繰り返すだけだ。忘れてしまうと分かっていてもひたすらくり返す。彼女の隣で情報屋を続けるために。
彼がタブレットをしまったのは降車駅の名前が読み上げられた時だった。車内は乗る前よりも閑散としており、彼が席をたっても気に留める者はいなかった。
N県K市。避暑地として有名なこの場所も今はシーズン前とあって人通りは少ない。さわやかで雄大な自然をうりにした美しい別荘地も、重く垂れさがった雨雲によって暗い印象を与えていた。自然に溶け込むように佇む別荘の数々はじっと押し黙り、スノーの侵入を拒んでいるようだ。
しかし彼は繊細な感受性など持ち合わせていない。頭の中に叩き込んだ地図を頼りに目的地へ突き進む。迷うことなく一件の別荘にたどり着き、備え付けられた呼び鈴を押す。感情のない電子音が余韻を残して消えた。
「どちらさま?」
インターホンから男の声が響く。おだやかで聞き取りやすい、それでいてどこか芝居がかった口調だ。
「情報屋ナイトのつかいの者だ」
一言告げるだけで鍵のあく音がした。数メートル先にある扉が開かれる。
出迎えたのは石村利明本人であった。皺のない顔に明るい茶の髪色。飾り気のないシンプルな出で立ちは実年齢よりはるかに若く見せていた。
「スノー君だっけ。よく来てくれたね。さあ上がって」
石村に促され、玄関から最も近い部屋へ通される。乱雑に置かれた絵画が布やほこりをかぶった顔で二人を迎え入れた。油絵具のにおいが鼻にべったりと纏わりつく。
石村は戸棚からカップを取り出し、スノーに笑いかける。
「人が訪ねてくる事はいつ以来だろうね。大したもてなしはできないけれど、コーヒーは好きかい?」
「お気づかいなく」
インスタントコーヒーをカップに放り、ポットでお湯を注ぐ。二人分のコーヒーが木製の丸テーブルに並んだ。
その間に鞄から書類を取り出したスノーは、カップの隣にそれを置く。
「『憂鬱』に関する評価と、K市近代美術館のセキュリティの全てだ」
石村はパラパラと書類をめくり、満足げに頷いた。
「たしかに受け取ったよ。報酬は20日までに振り込みをしておこう」
「了解。仕事はここまでだ。あとは俺の興味本位で聞きたい事がある」
「なんだい?」
「あの絵、『憂鬱』はなんなんだ。何故あんなにも盗みやすくなっている?」
石村の視線は書類に注がれたままだ。美術館内の見取り図には防犯装置の情報が書き連ねてあり、撮影が禁じられている館内にも関わらず要所要所には鮮明な写真も添えられていた。
何も答えない石村に言葉を投げる。
「監視カメラの数は問題ない。だが警備員の数も少なく、警報装置も音量がしぼられている。点検やセキュリティ更新度も低い。極めつけが『憂鬱』の展示のされ方だ。額を吊るすワイヤーが丸見えだった。この展示方をする美術館も当然あるが『憂鬱』以外の作品は全て、壁に貼り付けるように展示してある。露骨すぎて疑うことも躊躇われるな」
「君は、どう思う?」
その問いかけに間髪いれず答える。言葉はひんやりとした風にのって石村の頬を掠めた。
「美術館側、もしくは画家が絵を盗んでほしいとおもっている」
本来ならあり得ないことだ。しかしスノーの手札にはそれを結論付ける全てのカードが揃っていた。
石村は顔をあげ、発言を促すようにほほ笑む。それを皮肉のこもった笑みで返すと話を続ける。
「『憂鬱』はフーメル氏の作品ではない。あんたの作品だ」
「へえ……。素晴らしい想像力だね。根拠はあるのかい?」
スノーの確信のこもった瞳に動じない。明日の天気の話をするかのように軽い調子だ。気を悪くしたそぶりもなかった。コーヒーカップに手を伸ばし、冷ますように笑い飛ばした。
スノーは再び言葉を風にのせる。
「『憂鬱』の完成はおよそ八か月前。それより前のあんたは赤い絵具ばかり買っていたそうだな」
「っ……」
どこか人を見下すような石村の笑顔が固まる。目の前の若い男が稚拙な推理ごっこをする子供ではなく、プロの情報屋の顔をしていることに今更気付いた。
見透かすような瞳から逃れるようにコーヒーへ視線を落とす自分がいる。白い湯気はすでに淹れたての勢いはなく、カップのふちを撫でるばかりだ。
「それがどうしたと? 情報屋は暇なのかな?」
安い挑発にスノーは乗らない。淡々と事実を述べていく。時系列に沿って刃を並べ、石村を追いつめるように徐々に核心へ向かって投げる。
「ちょうどその頃、オファーが来ていたんじゃないか? どこぞの画商が残念がっていたぞ。石村さんにとってかなり都合のいい条件を提示したにもかかわらず無下にされたと。まっとうな売り方をしない仕事上のパートナーに嫌気がさしたのか? 同じ穴のムジナの癖に」
「その事と『憂鬱』に何の問題があるんだい?」
知らずの間に声が震えている。揺れ動くコーヒーの湯気と大差ない明らかな動揺だった。
スノーはそれに気付かないフリをし「うちのリーダーが以前宣伝したと思うが」と前置きした。
「腕のいいビジネス泥棒さん、あんたに紹介してやろうと思ってな。先方にオファーを取ったところ、面白い事を言っていた。石村さんは紹介されるまでもなく、うちの利用客だってな」
石村はゆっくりと顔をあげた。口元に携えた笑みは先程の様な暖かさはなく、ともすれば観念した様子もない。これがこの男の本性かと、冷めた目でスノーは見つめ返す。
石村の肩が震えた。取り繕う必要のなくなった石村の仮面が今まさにはがれようとしている。追い詰めようと投げた言葉は、くすぶる火を炎に増長させる燃料だったのだ。
「君は人が悪いなぁ……。ぜーんぶお見通しじゃないか」
悪意に歪んだ唇が耳まで裂けるようにつり上がり、真っ赤な喉の奥を覗かせながら鼓膜を破かんばかりに笑い声を吐きだした。
「大・正・解! 『憂鬱』の作者は僕さ! よくここまで辿りつけたねスノー君。君は真実を知る権利がある。さあ聞きたまえ!」
スノーの返事を待たずに彼は語りだす。興奮に満ちた狂気に、放置されたままの絵画がガタガタと震えたような気がした。身も竦むような激情も、スノーには北風が吹いた程度にしか思えなかった。子供が自分の宝物を見せびらかす様に似ているとさえ感じたほどだ。
「フーメル氏がスランプに陥ったって聞いてね、励ましてあげようと思ったのさ。天才的な僕の力の全てを使って! あの時のタイミングの良さったらないよ。フーメル氏も追いつめられていてさ、このまま新作の評価が得られなければ彼は画家として生きていくことはできなかった。そう! まさに風前の灯火! そんな時、画商に僕の絵を送り付け、同時にフーメル氏の手元から一枚の下描きが盗まれる。何の絵だか言われなくてもわかるよね?」
「フーメルの作品の中で最も優れていると言われ、現在はK市近代美術館に展示されている絵だ」
「そのとおり! たちまち人気となったあの絵はフーメル氏から発言の機会を奪う。首の皮が繋がっただけでなく、芸術家として新たな境地に至った今、どうしてそれが自分の絵ではないと言えるだろうねぇ!?」
フーメルにとって光あふれた地獄だっただろう。賞賛も祝福も妬みも羨望も、彼の心を抉るには十分すぎた。他人の作品を自分のものだと言い張れる図太さを持ち合わせていないことは、面識の全くないスノーですら理解していた。
「だから、タイトルが『憂鬱』なのか」
「彼なりの皮肉だろうね。虚勢にしか見えないところが滑稽だ」
石村は乱暴にカップを置き、もう一度書類をめくる。スノーの指摘した警備の甘さが素人目にも明らかだ。腹の底からこみあげてくる嘲笑を誇らしげに吐き散らす。
「このセキュリティの甘さを見る限り、一部の人間は事情を知っているとみて間違いなさそうだ。見たかったなぁ、真実を告げるフーメル氏の顔! 唇をわなわな震わせちゃってさぁ、赤やら青やら顔色を変えながら『実は……』って言うんだ。傑作! 絵に描いてやりたいくらいだよ。あっはははは」
スノーは考える。フーメルの告白を聞いた関係者はどう思うのだろうか、と。フーメル一人に罪を擦り付けることもできただろう。しかしそれをしなかったのはおそらく『憂鬱』を評価した芸術家たちへのバッシングを危惧したためだ。メディアは石村のように笑うだろう。贋作も見抜くことができない優れた芸術家たちを。
盗まれやすく仕向けているのも苦肉の策だ。うやむやにして、どうにか事なきを得ようとしている意図が隠しきれていない。
「美術館側もあらゆるリスクを天秤にかけた結果がこれか」
「盗まれることはないと思うけどね。こんな警備じゃ罠にしか見えない」
「仮に盗んだとしても、あんたが種明かしをすればゴミになる」
「泥棒の顔もみたいねぇ。盗むために費やした時間も資金も無駄になり、手元に残るのはガラクタさ」
仮に作者側が直接盗んだとしても結果は変わらない。すべての情報を手にした黒幕が、いくらでもフーメルとその周りを陥れることができるのだから。
盗まれようと盗まれまいと、フーメルが救われることはない。そして『憂鬱』に関わった人々の中で幸福になれる者はいないのだ。石村自身さえ種を明かさないことが武器となっているこの状態では、動きがない限り何も動けない。こう着状態を楽しむことはできるが、みだりに手をひらけかすことは自身の危険につながる。だからこそ今こうして本音をぶちまけられることを心の底から喜んでいるのだろう。
ゆがみきった空間。誰もかれもが救われない。
「まさに憂鬱な罠だな」
「君もナイトさんと違った意味で面白いねぇ」
「あんたもな。それほどの腕があるのによく贋作家で納まっていられるもんだ」
「人の気持ちを踏みにじるのが好きなのさ。普段の仕事は理にかなっている。芸術家が想いを込めてつくった物を、塗りつぶしてお金にする。騙されて買う奴の想いも踏む。この上ない快感だよ」
石村の言葉に嘘はなかった。足元に転がっている絵は芸術に疎い人間でも一度はみたことのある有名な絵の偽物だった。
ふいに彼の顔に暗い色が映る。書類の束を机に投げ、退屈そうに腕を組んだ。
「なにより、作者ばかり気にして作品そのものを見ようとしない奴らが大嫌いなのさ。今回の件で君もわかるだろう? 奴らの目は節穴だ。そのくせ奴らの意に添わなければ生きていくことはできない。そんな世界に人生を費やしたくないね」
暗い色を吹き飛ばすように乾いた笑いを一つすると、白い布がかけられた絵をイービルに置く。それがなんなのか、簡単に予想がついた。
「これがフーメル氏の『憂鬱』さ」
布がめくられ、未完成の真実が晒される。
構図もモチーフも石村と変わらぬ太陽の絵だが、比較のしようがない程無残な絵だった。鉛筆で描かれたアタリも、黄色で描かれた下描きも、すべてが弱々しく迷いばかりが目立っている。当時のフーメルの苦しみだけでなく、絵そのものが憂いを帯びていた。おそらくこの絵はすべてを悟っているのだろう。自分が完成することも、人々の目に映ることもない、ほこりを被って朽ちるのを待つだけの惨い一生であることを。
そんな絵の気持ちを蹂躙するかのように、石村が絵のふちを撫でる。
「これ、何をモチーフにしていると思う?」
「興味はない。俺の仕事も終わり、好奇心も満たされた」
「まあまあそういわずにさ。年長者の長話に付き合うのは若輩者の義務だよ」
「……手短に」
石村の指先が淡い太陽に触れた。どんなに指先で暖めようとしても太陽に熱は伝わらない。冷え切った表情で項垂れている。
「太陽はね、希望なんだよ。人にとっては愛であったり、金であったり、名誉や地位だ。誰もかれもが太陽に手を伸ばす。それがこの線――いや、糸かな。蜘蛛の糸の話をフーメルは読んだことがあるのかもしれないね。わざわざ翻訳してアメリカに送り付けた人物がいるらしいけど」
白々しいと言いかけ口をつぐむ。どうせ流されるに違いないからだ。
石村は糸をなぞり、愛おしげに絵を苦しめた。獲物を弄ぶ蜘蛛を思わせる狡猾な目をしている。
「たくさんの人の前に蜘蛛の糸のようなチャンスがある。君の前にもね」
真の名が失われた絵を片手で持ち上げるとスノーの前に差し出した。その意図をスノーはくめずにいた。
「絵ではなく、点在する情報を糸口に君はここまでたどり着いた。全体を見渡し真実を得る能力は情報屋にとって大きな武器なんだろうね。まだまだ未熟だけれど、僕は君のその力に敬意を表してこの絵を譲ろうと思う」
突然の申し出にもかかわらずスノーの余裕は崩れない。かすかな冷笑を唇の端に浮かべ、その絵を押し戻した。
「俺はスノーだ。雪が太陽に手を伸ばすかよ。――夜の右肩に降り積もるのがお似合いだ」
鞄を握り直し、部屋を出る。その瞳には石村も絵も映していなかった。
「つれないねぇ……」
石村は残念そうに見送る。扉が閉まる音を聞くと、黙って絵と書類を手にその場をあとにする。
部屋に残されたコーヒーはすっかり冷めきってしまった。