2.議論 ランチ
寄り道をすることなく美術館の出口をくぐる。外は来た時とかわらずしとしとと雨が降り続けていた。湿っぽく気が重くなるようなにおいだ。
男が傘立てに預けてあった傘を広げ、女を引き寄せる。
「別に気を使わなくていいのに」
「風邪をひかれても迷惑だ」
「ジャケット、返そうか?」
「着てろ」
有無を言わせぬ物言いに彼女は唇をとがらせる。ジャケットを貸した彼は薄着な上、肩が雨に濡れていた。自分より丈夫な体をしているとはいえ、こうも甲斐甲斐しく世話をやかれているとなると、彼女も黙って甘えることはできなかった。
「過保護すぎ」
「お前は軟弱すぎだ」
「むぅ……」
思い当たることの多い彼女は何も言い返せない。あきらめたように息を吐くと、話題を切り替えた。
「お昼ご飯ね、ファミレスのパフェが食べたい」
「却下だ」
「えー」
水たまりを蹴り、飛沫があがる。男のズボンの裾を濡らすが、それで怒るほど男は短気ではなかった。
「経費で落とそうとしてるのにパフェなんか注文できるか」
「経費だからこそパフェだよ」
「俺が経理も兼任していること、分かってて言ってるんだよな」
低い声で睨みを利かす。女は本気で怒らせるつもりはないらしく、手をひらひらと振って宥める。
「はーい、わかりましたー。パフェは諦めるけどファミレスでご飯がいいでーす」
「了解」
男が了承してからは無言で歩き、駅前のファミリーレストランへ入る。
外の冷たい空気とは正反対のあたたかな店内。人はまばらながらも話し声と食器のふれあう音は途絶えない。食欲をそそる料理のにおいに彼女は心をほぐし、こちらに向かってくるウェイトレスをおだやかに見つめた。
「いらっしゃいませー。お客様は二名様でよろしいでしょうか」
「はい。禁煙席で、できればエアコンの当たりにくいところはありますか」
「かしこまりました。ご案内いたします」
案内されたのは壁際の奥まった席だ。近くのテーブルに客の姿もなく、従業員が通ることも少ない。当然エアコンの風があたりにくいところであったが、二人の目的は他人に会話を聞かれないことにあった。
「うん。いいね。ありがとうございます」
二人が席についたのを確認した店員は立ち去ろうとしたが、すぐに呼びとめられる。
「すみません、注文をお願いします」
「は、はい。かしこまりました」
店員が慌ててハンディを取り出し、二人の方へ向き直る。女は店員を安心させるように、ふっと口元をほころばせた。
「生ハムとルコラのピザのMサイズを一つください」
「若鶏と新鮮野菜の黒酢あんかけ定食を一つ」
「それとイチゴとチョコレートのスペシャル――」
「500円以上は却下だ」
「えーっと、クリームあんみつ、399円のを一つください。以上で」
メニューを広げることなく注文されることに驚く店員だったが、しっかりと再確認をした後にその場を立ち去った。
店員の後ろ姿を見送ると男があからさまに顔をしかめる。
「余計な物注文しやがって」
「一口あげるから許してよ」
「いらない。だいたいお前はいつも……」
男の口から小言が飛びだす前に、彼自身によってきつく結ばれる。女はさも愉快そうに肩を震わし、水を持ってきた店員を歓迎した。
さきほどの店員よりも慣れた所作で水を置くと一礼し去っていく。
女はコップの半分まで水を飲み干し「さて――」と話題を切り替える。コップの中の氷がカラリと音をたて、それを合図に冷えた空気が張り詰めた。
「ピザが来る前に今日の仕事を片付けます」
男が先程のパンフレットを取り出し、館内図のページを机に広げた。彼女は懐からボールペンを取り出し、ある一点に星印を書きこむ。
「ターゲットの『憂鬱』はここ。中央展示室の東方面の壁」
瞬きもせず図面を見下ろす彼女に、昼下がりののどかなファミリーレストランの景色は映っていなかった。目の前にあるのは白い壁に掛けられた一枚の絵。触れるだけでやけどをしそうな太陽の熱を感じる。そればかりか美術館特有の鼻をくすぐるにおいや、時の流れが止まったかのような奇妙な感覚さえ、鮮明に思い出せた。
記憶の中の美術館でついついまどろみそうになるが、仕事の事を思い出し名残惜しげに感傷を追いやる。
「傾斜探知送信機はTA‐303K。絵を5度傾けるだけで各受信機に自動通報してくれる定番のセキュリティ装置だね。絵を吊るしているワイヤーは1.5mmから1.8mmの太さに見えた」
男は自分の見解と照らし合わせ、相違ないことを確認すると頷いた。彼女が型番を記入し終えるのを待ってから発言する。
「防犯カメラ。中央展示室へ行くAルートBルートでそれぞれ18台。中央展示室内は合計6台。P社のネットワークカメラだ。型番はAB-HGN385-776とAB-HGN385-778」
「あと各部屋の出入り口にサイレン、フラッシュ付きの受信機もあったね。傾斜検知送信機のお友達かな。警備員さんも受信機持っているのは確認済み」
カメラの位置に黒丸、警備員の立っていた位置に二重丸をつける。女が二重丸に寄り添わせるようにそれぞれの身体的特徴を書き足す。
「こっちは小太りな人。こっちはスマートな人」
「分かりにくい書き方するなよ」
「えーっと……三毛猫っぽい人。シェパードっぽい人?」
「俺が後で書くからやめろ」
男がペンを取り上げ机に置く。一度、店内をぐるっと見回し、客や店員が向かってきていないことを確かめると話を続けた。
「夜間の警備員の配置と巡回経路も確認しておきたいところだ。警備会社のサーバーに潜り込んで監視カメラの映像を見れると思うか」
「それよりは警備員に発信器をとりつけるとか、こっちでカメラを準備して美術館においてみたら?」
「リスクが高いだろ。発信器にしろ、カメラにしろ発見されたら大問題だ」
「それならスノーの方だってリスク高いよ。警備を生業にしてるんだし、逆探知でもされたら……」
スノーと呼ばれた男は問題ないと言い切る。顔にこそでることはないが、その言葉には絶対的な自信とプライドを滲ませていた。
「ネットワークカメラの映像を警備会社と美術館をで繋いでいる以上、潜り込む隙は必ずある。逆探知はされても問題ない場所からアクセスすればいい」
「ネットカフェとか? 性能はよくてもハッキング向けじゃないでしょ」
「ちょっといい性能のパソコンをお持ちの一般家庭から、とかな。中継点に海外のパソコンをかませたりと方法はいくらでもある。ただ、ナイトの言うように警備会社のネットワークは強固なものであるし、どの程度の情報が得られるかはわからない」
「それならスノーの作戦からやってみようか。時間と情報内容が釣り合わなければ見切りをつけよう。判断はスノーに任せる。スノーの方がクラッカーに向いてるしね」
「了解。その間、ナイトはどうする?」
ナイトはあごに手を添え考え込む。記憶の中に展示された『憂鬱』がその白い線を手のように何本も伸ばし、誘うようにゆらめいた。おいで、おいでと揺れる手をそっと掴み、『憂鬱』へ歩み寄る。三日月のような笑みを浮かべる彼女はまさに夜。太陽とのコントラストが美しい。
「私はもう少し『憂鬱』について調べるよ。美術的価値とか、展覧会での評判だとか、他の芸術家が『憂鬱』について言及しているかもしれない。探せるだけ探してみる」
それを聞き、スノーがようやく背もたれに身体を預けた。目を閉じ、くつろぐように長い息を吐く。
「仕事熱心でたすかる」
「そりゃあ私が受けた仕事ですから。美術に限らず芸術的な物は好きだからね。頑張っちゃうよー」
「いつもそうだといいんだが」
「仕事で手を抜いたことはないよ。モチベーションが違うだけ」
「ムラがありすぎる」
スノーが視界の端に目を向け、さりげなくパンフレットを片づけた。とたんに張り詰めていた空気がゆるみ、彼女の瞳にようやくファミリーレストランのありきたりな光景が映り込む。二、三度瞬きをするころには美術館の景色はどこにもなく、窮屈で退屈な、それでいて忙しない日常に放り込まれていた。
現実的な足音がまっすぐこちらに歩み寄り、営業スマイルを浮かべる。
「お待たせいたしました。生ハムとルコラのピザでございます」
「ありがとうございます」
目の前におかれたピザを見つめる。ほかほかと湯気をあげ、香ばしいにおいが辺りに広がっている。眺めているうちに自然とほころぶ口元は『憂鬱』を見つめていた時と同じ様であった。彼女にとって、料理もまたすばらしい芸術作品なのだ。
「さあ食べよう。ピザ切ってよピザ」
ピザカッターの柄をスノーに向ける。スノーはいかにも挑発するかのように鼻を鳴らした。
「ピザカッターも使えない女子高校生か。変わった奴だな」
「以前手が滑ってリストカットしちゃったんだよね。あのときは本当に大変でさー、店員さんが取り乱しちゃってそれを落ち着かせるのに時間がかかったよ。ピザも冷めちゃうし散々だったなー」
けろりとした表情で語られたエピソードに言葉を失う。本人に通じていないとはいえ、皮肉を言った自分に嫌悪感を抱いた。
ピザカッターを手に取り、皿を引き寄せる。
「俺が切り終わるまで、膝の上から手を離すな」
「はーい。さっすが男子高校生だ。ちょっと変わった女子高校生とは違うねー」
きっちり意趣返しをしてきたナイトに舌打ちを返す。しおらしくなった自分が馬鹿らしくなり、さらに皮肉を重ねた。
「仕事以外、本当に役立たずだな」
「頼りになる右腕がいてくれて助かるよ。副リーダー」
「ったく……」
二人の表情はあくまでおだやかさを保っていた。綺麗に八等分されたピザを押し戻し、嫌みたっぷりに言い放つ。
「どうぞお召し上がりください。リーダー殿」
「わーい。いただきまーす」
ピザをかじり、彼女は満足げに頷く。
「うむ。苦しゅうない」
「そりゃ、ようござんした」
スノーは水を口に含み、いくらかの冷静さを取り戻そうとする。空腹のせいかいつもより気が短くなっているのを自覚していた。客観的に物事を判断するためにも感情は常にコントロールしていたい。内心でどう思おうとも、態度や行動に大きく影響を及ぼすのを防ぐためでもある。
そんな彼の努力を知らぬ彼女は無邪気に話しかけた。
「ねえ、スノー」
「まだなんか文句でも――」そこへ被せるように彼女が続ける。
「ありがとう。とってもおいしいです」
わずかな沈黙の後、彼はため息をつく。
「お前のそういうところが反則なんだよな」
「え? なんで?」
「言わねえよ。これ以上利用されてたまるか」