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1.現場

 K市近代美術館。そこは現代に今なお生きる芸術家たちの作品が展示されている日本最新鋭の美術館である。彫刻、絵画、陶芸、オブジェとジャンルは幅広く、各界で評価を得られたものだけが展示される、世界中の芸術家にとってあこがれの境地であった。選ばれし作品たちがうみだす厳かな空気は、外の雨の重ささえ忘れさせるほどの非日常さを含み、人々を芸術の世界へと導いていく。

 中央展示室で一枚の絵をみつめる彼女もまた、その夢幻的な魅力にとらわれていた。

 くせのある長い夜色の髪は一つにまとめられ、ピンと伸びた背筋をなぞる。細身の体を隠すように羽織られた男性もののジャケットはサイズがあっていないのか、胸の前で組まれた手をすっぽりと覆っていた。細く長い首筋の先にある唇はみずみずしく、彼女の若さを象徴している。その唇から透きとおった高い声が発せられた。


「わー。すごいなー」


 裏表のない純粋な称賛はおそらく無意識のうちにこぼれたものだろう。ぱっちりとひらかれた二つの瞳は宝石のように輝き、情熱的な想いを絶やすことなく燃え続けている。

 そんな熱烈な視線を受け止めているのは、彼女の情熱に負けずとも劣らない真っ赤な太陽の絵であった。目が痛くなるほど強烈な赤に向かって、白い線が何本も伸びている。ありきたりな構図ながらも強烈な存在感を発し、数多くある美術作品の中でも群を抜いて人々を魅了する絵であった。この美術館の顔ともいえる作品に魅了されるのは彼女だけでなく、おとずれる客の誰もが見入ってしまう程の力を発揮している。

 彼女は傍らに立つ男に向かって、自分の感じたままの想いを語った。


「この絵、すごいよね。私が抱きしめられそうなくらいの大きさなのに、その何倍も大きく見えてさ、目の前に立っているだけで熱が伝わってくるみたいなの。ねぇ、ほら、正面に立って見てみなよ」


 はしゃぐ彼女とは対照的に男はさして興味を示さず、ポケットに手をいれたまま絵を眺めるだけだ。雪のように冷ややかな目つき、どこか気だるげに立つ姿でさえも絵になるような若い男に、通りすがる女性客は時に足を止め、時に振り返ったりした。それを知ってか知らずか、黒の帽子を深くかぶりなおし顔を隠す。それから目線を少し下げ、女に小声で尋ねた。


「そんなにすごいか?」

「すごいんだってば。力強くも繊細なタッチ。定規をあてがったわけでもないのに迷いなく引かれる直線。芸術性だけでなく技術的にも申し分ない作品なんだよ」

「まぁ……。確かに、フリーハンドとは思えないな」


 絵の最も外側に描かれた白線の両端をたどると、額を吊るすワイヤーにぴったりと重なるのだ。絵の中心に向かって力強く引かれた線は数学的にも美しい調和を保っていた。

 彼の同意にいくらか気をよくした彼女は満足げに微笑み、落ち着きを取り戻す。そして思い出したかのように一つの疑問を口にした。


「こんなに生命力の溢れる絵に『憂鬱』っていうタイトルをつけたのはなんでだろうね」


 そこもまた魅力的なんだけどと一人ごちる彼女に、やはり男はそっけない。


「芸術家なんて謎めいたことを言っておけば話題になると思っている奴ばかりだろう。考えるだけ無駄だ」

「さめてるなぁ……」


 彼女は気分を害した様子もなく笑った。男のつれない物言いには慣れているのだろう。

 もう少しだけ見ていたいという彼女のわがままに黙って付き合う。はたから見れば芸術に傾倒する彼女に理解のある彼氏と思われるはずだ。だが、鑑賞に満足し、その場を離れる際に男が小声で囁いた言葉は、恋人に対する言葉としては不適切だった。


「作品に想いを馳せるのは勝手だが、仕事優先だからな」


 それを聞いた彼女は柔和な笑みに含みをもたせる。その足取りは軽く、他の美術品の前で止まることはなかった。


「分かってるって。客観的に物事を判断するのが情報屋の仕事、でしょ? 色眼鏡ははずしておくよ」


 男は軽く頷く。それからポケットに折り畳んであったパンフレットを広げ、淡々と読み上げた。


「『憂鬱』はアメリカの画家フーメル・ジェイソン氏によって描かれた太陽の絵である。この絵はフーメルがスランプに陥った際に制作されたものでありながらも、彼の作品のなかでは現在最も評価されているものであり、彼の代表作と言っても過言ではない。躍動感あふれる太陽は彼の情熱とも心臓ともいわれ、見た者に活力をもたらすであろう。また、注目すべきは絵の裏のサインである。このサインは彼の初期の作品にしか使用されておらず、彼の原点回帰のあらわれと捉えられている」

「原点回帰したって言っても『憂鬱』以降の作品は伸び悩んでいるみたいで、またスランプになちゃったみたいなんだよね」

「まぐれで評価されているんなら大した奴じゃないな」

「まーたそんなことを言う」

「事実だろ」

「はいはい。それじゃあ他に見たいところがなければちょっと遅めのランチにしようよ。お腹すいちゃった」


 男はパンフレットから顔をあげ、あたりを見回す。

 壁に貼り付けられたかのように固定された絵画。奇妙な形をしたオブジェ。透き通ったガラスの壺。どれもこれも彼の心を動かすものではない。


「見る物は見た。問題ない」

「本当に? 高校生料金で入れるのは今だけだよ」

「150円違うだけだろ。それにこれは仕事だ」

「仕事でも楽しめばいいのにね。かったいなー」


 女は困ったような口調で、それでいて全く困っていない声で笑った。

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