学び
十六夜は、きっちり時間通りに龍の宮へやって来た。
いつも時間にはルーズで、維心は忙しいのにイライラする時があったのだが、今回は待つことも無く、穏やかに迎えることが出来た。
十六夜は、明らかに変わっている顔付きに気付かぬように、維心と維月が並んで座る前に座り、今の情勢を維心から聞いて、真剣な顔になった。
「…ヤバいじゃねぇか。蒼はまだ何も知らねぇぞ。あいつは公青がなんかおかしいとか呑気な事を言ってたぞ。月から昨日話してたが、確かにオレも、何かあるなと思って聞いてたんだが。」
維心は、頷いた。
「紫翆はこちらで預かっておるしまずは面倒はないが、翆明がの。本日行っておろう。今頃どうかと案じておるのだ。」
十六夜は、目を虚空に向けた。
「…いや、まだこれからだな。今飛び立とうとしてるとこだ。公青の方は…」と、どこかへ視線を動かす。そして、顔をしかめた。「宮が騒がしい。公青は謁見の間に居る。やたら宮の中に軍神が多いのが気になるな。普通は外のが多いのに。」
維心が、眉を寄せて言った。
「やはり翆明に強く出て紫翆を宮にこさせるつもりか。承諾するまで、宮を出さぬつもりなのだろう。どうしたものか。」
十六夜は、維心を見た。
「だが、紫翆はここに居るじゃねぇか。何が問題なんでぇ。」
維心は、両眉を寄せたまま言った。
「翆明自身を人質にも取れるのだぞ?宮は王を取り返そうと軍を上げるしかないが、しかし王を押さえられて居ては思うように戦えぬ。公青は愚かではないゆえ、戦にしようとはせぬと思うが、今のあやつは分からぬからな。」
十六夜は、肩をすくめた。
「戦ったって勝てねぇだろうが。お前はあからさまに翆明についてるしよ。蒼は従うし焔も炎嘉もだ。」
「志心を忘れておるぞ?」十六夜が驚いたような顔をする。維心は続けた。「あれも本来激しい神なのだ。まあ大丈夫だろうが、蒼が何を言い出すか分からぬ。月の宮はあれが王なのだ。蒼がトチ狂って公青につくなどと言い出したら、志心も分からぬ。そうなると戦国よ。我らは戦慣れしておるが、月には敵わぬ。神世は真っ二つに割れる。」
維月が横で、息を飲んだ。十六夜は反論し掛けたが、確かに蒼は、何を言い出すか分からない。
「…確かにな。止めようにもオレは王じゃねぇ。軍は蒼に從うだろうし。親父もそうだ。」
維心は、頷いた。
「いくら力があっても王でなくば、皆が従わねば、神世では力はない。碧黎がなかなかに思うようにならぬと申しておったであろう?あれならいくらでも神など殺せるのに。そんなものよ。」
維月が、横から言った。
「維心様が、蒼を説得なされば。あの子は維心様のおっしゃることなら聞きますわ。」
維心は、苦笑して維月を見た。
「聞かぬ時もあったろうが。あれも長く生きて我が出て参っておるからの。納得させるのは難しい。」維月が黙ったので、維心は十六夜を見た。「して、碧黎はどう申しておる。」
十六夜は、首を振った。
「分からねぇよ。親父の事だから知ってるんだろうが、オレだって何も聞いちゃいねぇしな。黙って見てるだけだ。だが、月の宮が関わりだしたら、口を出して来るかもな。」
「それでは遅い。」維心は、険しい顔をした。「蒼が公青につくと言ってしもうてからでは遅いのだ。王は、己の発言には責任を持たねばならぬ。それによって回りの宮も対応を考えるのに、言ってしもうてから、やはりこっち、などと、あの大きな宮が簡単に変えることなど出来ぬのだ。蒼にはそれが分かっておらぬ。己の発言の重さを知らぬ。宮の意思を告げるという重さをな。」
維月は黙っている。十六夜は、頷いた。
「今ならオレにも分かる。蒼は、王として何百年も生きてる割には未熟だ。未だに自分の感情だけで判断してるしな。お前達が駄目だと言ってることは筋が通っているのに、感情的にそうじゃないと思ったら、従わないんだよな。オレもそうだったから、蒼の気持ちも分かるんだが、それに伴って起こったことに責任が取れねぇのに勝手に動くのは間違いだ。奏が死んで悲しんでただけなのにってオレも思うが、戦になることを思ったら公青にはおとなしくしててもらわなきゃならねぇ。」
維心は、片眉を上げた。今までの十六夜なら、こう簡単には納得しなかった。それなのに、僅かな間に結構なことを見て理解している。
これは頼りになるかもしれぬ、と維心は言った。
「ならばせっかくに学びに来てもらってすまぬが、公青を見ておいてくれぬか。翠明が行っておる間だけで良い。それで、あちらにはこちらへしばらく来ておることは申しておるのか。」
十六夜は、頷いて答えた。
「ああ、言って来たよ。親父もそろそろ龍の宮で政務を見ても理解出来るだろうって言うし。」
維心は、頷き返した。
「では、主の部屋を与えておるだろう。戻っておる時はそこを使えば良いわ。維月に会うのも、我は止めぬ。」
そこまで言ったところで、侍女が控えめに声を掛けて来た。
「王妃様。西の島南西の宮綾様から御文が参っておりまする。」
維月は、侍女の方を見た。
「まあ、もうお返事が?」と、困ったように維心を見上げた。「維心様、どういたしましょう。」
維心が答える前に、十六夜が言った。
「そんなもの、さっさと返事書きゃいいじゃねぇか。なんでいちいち維心に聞くんだよ。」
維月は、ぷうと頬を膨らませた。
「あのね、私そんなに書が得意でないでしょう?私がこうこう書きたいって言ったら、維心様がお手本を書いてくださって、それを見て書くの。そりゃ同じようには絶対に書けないけど、少しはマシなんだからね。」
維心が、微笑んだ。
「何を申しておるのだ。実に美しい手であるぞ?我の字を見ておるのに、これが書くと別の文字になるのだ。我もそれを見るのが楽しみでな。」と、維月を見た。「そう頻繁に書かずとも良い。明日の朝にせよ。紫翠の様子を毎日書くのであろう?ならば、本日の様子を明日の朝に書けば良いのだ。」
維月は、素直に頷いた。
「はい、維心様。」
十六夜は、感心したように二人を見た。
「へえ。神世ってのはほんとに面倒だな。字ぐらいなんでもいいじゃねぇか。だが、維心はめっちゃ綺麗な字だってみんな言うし、そんな師匠についてるならお前もそれなりになるだろうよ。良かったじゃねぇか。」
維月は、胸を張った。
「維心様の御手は本当に美しいの。さらっと書かれるのに、まるで美術品のようよ?維心様が手すさびでその辺に書きつけられたものを、宮の宝のように飾って置いてある宮もあるって聞くわ。」
維心は、苦笑した。
「そんな大層なものでもなかろうに。しかし神世では、その字が体を表すと申すので、皆幼い頃から書に励むもの。炎嘉とて華やかな美しい文字を書くものよ。あれはあちこちで書き散らしておるので、そう珍しくもなく目にすることが出来るがの。」
十六夜は、うーんと唸った。
「オレも書かなきゃならねぇのか?でもなあ、親父が書いてるとこ見たことねぇし、別にいいだろう。そんなことまで学んでたら、追いつかねぇよ。」
維月は、フフと笑った。
「お父様の字、見た事あるわよ?」十六夜も維心も、驚いた顔をする。維月は続けた。「人世の歌のお話をしておる時に、お父様に何かお好きな歌はありますかってお聞きしたの。そうしたら、書いてくださったわ。とても大振りのしっかりとした筆致の、それは美しい文字よ。多分私の文箱に入ってると思うんだけど。飾ろうとしたら、やめよとおっしゃるから。」
「見てみたいものよ。」維心は、真剣に言った。「誠神世では、字を見るのよな。その力も性質も予想出来ようと。」
維月は、頷いた。
「はい。」と、侍女を見た。「私の文箱を持って来て。」
侍女は、頭を下げて出て行く。十六夜は、頭を抱えた。
「待ってくれ、親父が何でも出来るのは知ってたが、字もか?もうカンベンしてくれよ、これ以上オレ、頭に入んないんだけど。」
維月は、苦笑した。
「もう十六夜ったら。お父様もそこまで学べとは言ってらっしゃらないと思うわよ?」と、侍女が持って来た文箱を開いた。「ええっと、これは維心様、維心様、維心様、炎嘉様…」
十六夜は、口を挟んだ。
「お、炎嘉のヤツも見たい。見せてくれ。」
維月は、探す手を止めずに十六夜にそれを渡した。
「はい。」と、また探り出した。「維心様、維心様…」
維心は、困ったように言った。
「我ばかりであろうが。たまに炎嘉もあるが。」
「お前ら一緒に住んでるのに手紙書くのかよ。」
十六夜が言うと、維心はキッと十六夜を見た。
「離れておる時もあるわ。我が神世の会合に他の宮に出ておる時とか。」
維月は、まだ探しながら頷いた。
「どこへ行かれても、御文をくださいますものね。」と、手を止めた。「あ、あった!」
維心が、身を乗り出した。
「見せよ。」
維月は、素直にそれを維心に渡した。紙は、確かにそんなに良いものではなく、覚書などする程度に使うような物だった。
しかし、それを開くと、維月が言ったように大振りのしっかりとした、美しい文字が目に入った。
維心が絶句していると、炎嘉の書を開いていた十六夜も、それを覗き込んで来た。
「お?これが親父の字か…なんだよ、綺麗じゃねぇか。」と、炎嘉の書へ視線を移した。「炎嘉も大概だがな。同じ字なのになんで炎嘉だけこんな派手に見えるんだろう。」
黙っていた維心が、口を開いた。目は、まだ碧黎の書を見ている。
「それが、気質なのだ。」と、碧黎の書へ指を沿わせた。「やはり大きいの、碧黎は。我など敵わぬと思わせる。これほどしっかりした筆致なのに、緩急をつけて美しく見せておる。それが、絶妙の力加減なのだ。余裕も感じさせる。そして、厳しい。」維心は、息をついた。「見てみるものよ。我もまだ、学ぶ余地があるものよ。」
維月にはよく分からなかったが、維心がそう言うからには、きっと父は書も達人なのだろう。
十六夜は、炎嘉の書を維月に返した。
「何だよ恋歌ばっか。もう分かったよ、オレもまた練習してみる。」と、言葉を切って、宙を見た。「翠明が、公青の宮に着いたぞ。」
維心は、途端に険しい顔をする。
維月も、何も見えない自分を呪いながら、息を飲んだ。




