女神達
次の日の朝、いつもなら日が高くなって来るまで寝ている維月が、維心が起きてすぐぐらいに、ぱっちりと目を開いた。珍しいことに驚いた維心だったが、維月と目を合わせて微笑んだ。
「おお、珍しいの、維月。主がこのような時間に起きるとは。」と、窓の外を見た。「まだ、日が昇って来たばかりなのだ。まだゆっくりしておれるぞ。」
そう言って、維月を抱きしめて頬の辺りに唇を寄せた維心を、維月は慌てて抱きしめ返して、言った。
「まあ維心様、申し訳ありませぬわ。本日は早起きせねばと思うておったのです。」
維心は、フッと眉を寄せた。
「紫翠か?子ばかり構うなと申したよの。」
維月は、首を振った。
「紫翠ばかりではありませぬわ。十六夜をお忘れですか?」
維心は、ハッとした。そういえば、会合が終わったら政務を一から見せてやるから龍の宮へ来いと、この間十六夜に言ったばかりだったのだ。意外にも、十六夜はすんなり承諾して、来ると言っていた。
それなのに、公青のゴタゴタですっかり忘れていた。
「…そうであったの。昨日が会合であったのに、本日あれはここへ参るか。」
維月は、何度も頷いた。
「はい。やる事が増えそうなので、本日は早く起きようと思うておったのですわ。維心様にも、本日は公青様や翠明様のことでお忙しくなるのではありませぬか?」
維心は、それを考えてうんざりしたが、確かにその通りだった。報告を待つばかりなのだが、状況は頭に入れておかねばならない。炎嘉からの情報もここで待たねばならなかった。
「そうよな…起きるか。」維心は、名残惜しそうに起き上がった。「義心にも指示をせねばならぬ。翠明が本日公青の宮へ参るのも見ておらねばならぬし、十六夜が来るなら見張ってもらうかの。」
維月は、自分も起き上がりながら、維心に襦袢を着せかけた。
「はい。紫翠が気丈にこの宮に慣れようと、昨夜も少しもぐずらずに褥へ入ったのがまた、哀れで。早う綾様の元へ帰してやりたいのですわ。ああそう、綾様へのお返事も書かねば。紫翠の様子を毎日知らせて参ろうと思うておりますの。私も今生は少しは書にも慣れて参りましたけど、維心様にも添削してくださいませね。綾様には、あれほどに見事な御手なのですもの。私、そこは恥ずかしくないようにと気になってしまって。」
維心は、維月に襦袢の帯を締められながら、微笑んだ。
「主とて上手くなって参った。案ずるでないぞ。我が良いように教えてやるゆえな。」と、維月が襦袢を着るのを待って、袿を着せかけてやった。維月も、維心に袿を着せかける。「さあ、では参ろうか。まずは書状かの。」
維月は、微笑んで頷いた。
「はい、維心様。よろしくお願い致します。」
そうして、維心は維月の手を取って、居間へと出て行ったのだった。
眞子は、翠明の妹だった。
宮から誰か妃を戴きたいと公青の宮の臣下から申し入れがあり、翠明もでは妹をと二つ返事で承諾したらしく、眞子は公青の宮へと嫁いだ。
だが、それは公青の希望では無かったようで、公青は最初の三日ほど通って来ただけで、後はほったらかしだった。
それは、もう一人居た東の島の皇女だという妃も同じだったので、眞子はそれほど気にしていなかった。そもそも婚姻がどんな感じなのか分からなかったし、公青を慕おうにも三日しか会っていないので慕いようがなかったのだ。
なので、その何不自由ない宮で、妃として遇されて好きに生きていた。うるさい兄も遠く離れたし、眞子にしたら楽で良かったのだ。
それが、突然の離縁で、実家へと帰された。
もともと政略なのでそんなものだと乳母は言ったが、それはそれで悲しかった。それまで仲良くしていた侍女侍従達と、離れねばらなかったからだ。
その後戦になり、兄は敗戦して捕らえられ、どうなることかと案じていたが、龍の宮から戻って来た兄は、見違えるほど威厳に満ちた王に変貌していた。
臣下達もより兄に従うようになり、宮がまとまり、傘下の宮も相変わらず兄を頼り、暮らしぶりは敗戦前よりむしろ良くなったように思った。
そうしているうちに、あれほど頑なに妃を娶らなかった兄が、突然に夢のように美しい女を妃に娶った。
鷲の王妃をしていたらしく、その所作は完璧で、眞子も前に出るのが恥ずかしくなるほどで、乳母は、その妃が大変に気強い方なので心するように、と言って来るし、構えていた。
しかし、その妃、綾は、確かに気は強い方であるようだったが、眞子にはとても親切だった。
母が早くに亡くなったので、乳母頼みであまり躾けられていなかった眞子に、それを話すと綾は丁寧に王族の所作を一から教えてくれた。
ちょっとしたことで品が有る無しが決まるのだと歩き方から茶を飲む時の手の上げ下ろしまで、それは完璧に教えてくれたのだ。
眞子はそれを知って、自分が公青の妃としてどれほど至らなかったのかと思ったほどだった。
それに、綾は書がとても美しかった。
仕草はいくらか真似の出来た眞子にも、書まではなかなかに真似が出来ず、今でも毎日、綾は眞子について手習いしてくれていた。
今日も、眞子は綾の部屋へと出掛けて行って、紙を前に筆を握っていた。綾は、それを横でゆったりと見ている、という状態だった。
しかし、今日は綾の様子が違う。
何やら、心ここにあらず、といった感じだった。
「…お義姉様?どうなさいましたの。」
眞子が言うと、綾はハッとしたような顔で、眞子を見た。
「まあ、眞子様…申し訳ありませぬわ。紫翠が、気になり申して。あの子は、近頃大変に皇子として自覚が出て参り、努めておったものですのに。龍の宮などという厳しい宮へと行って、務まるのかと案じておって。」
眞子は、それを聞いて同情した。確かにあんなに幼い皇子を、母から離して行儀見習いに行かせるなんて、お兄様も酷なことをなさるもの。
「お兄様は、最近とても勢力を伸ばされておるのですわ。また戦をなどと言い出すのではないかと、我は案じておりますの。あんなに愛らしい紫翠を、遠くへ行かせておしまいになって。」
綾は、何も知らずに憤っている眞子を見て、苦笑した。
「そうではないのよ。紫翠があちらへ行くのは、あの子自身のためなのです。そのうちにあなたもご理解なさるでしょうね。」
眞子は、物思いに沈んでいてさえもそれは美しい綾に見とれた。本当に、同じ神とは思えないほどに美しい。だが、その美しさのせいで、幼い頃から王に囲われ、そうして育てられた上娶られたのだと聞いている。眞子は、もし自分なら耐えられないと思った。美しいに越したことはないと思っていたが、あまりに美しいと不幸なのだ。
すると、ふと、声がした。
「綾様。龍王妃・維月様からお文が参っておりまする。」
綾は、飛ぶように立ち上がった。侍女が、その手に美しい塗りの文箱を持って立っている。
綾は嬉々としてそれを受け取ると、紐を解いて中から折り畳まれた紙を出した。そして、急いで開くと、中を食い入るように見て、そうして、ホッと肩の力を抜いて、嬉しそうに微笑んだ。
「いったいどんな待遇であるのかと案じておったのに、龍王妃様がお世話をしてくださっておると。龍王様はあちらの御子と同じように奥宮にお部屋を与えてくださっておるそうだわ。一緒にさらわれて気安くなっておった明蓮を宮へ召してくださって、話し相手にしてくださっておるとか。ほんにここまで手厚くしてくださるなど、何とお礼を申し上げたら良いものか。」と、綾は涙を浮かべた。「…泣いておる場合ではないわね。お返事を差し上げねば。侍女、墨をお願い。」
侍女は頭を下げて下がって行く。眞子は、その手紙を脇からそっと見た。龍王妃の手は、どんなものなのかしら…。
そうして、眞子は息を飲んだ。綾とはまた違った、大振りのおっとりとした文字でありながら、それは美しかった。留めなどにしっかりとした芯の強さを感じるものの、弧を描く場所は大きく柔らかく、全体的に癒しを感じる手だったのだ。
綾は、書を綴る準備を待ちながら、眞子の視線に気付いて、微笑んだ。
「龍王妃様の御手?大変に美しいわね。お会いしておらぬけど、お気質が伝わるよう。このようなかたなら、紫翠も安心して預けておれるというものだわ。」
綾は、とても嬉しそうだ。
神世では特に女は、直接に会うことがあまりないので、こうして書を見て相手の気質や教養などを知る習慣があるのだが、綾には龍王妃は安心できる相手だったらしい。
眞子には、これまでそんな美しい書を見せてくれるような親も臣下も居なかったので、そこまでの文字はまだ、書けなかった。だが、こうしていろいろな文字を見る機会を得て、幸運だと思っていた。自分も、きっともっと上手くなれるはず。
眞子は、綾が考えながら文をしたためている横で、自分も書の練習に努めたのだった。




