覚醒
この半年の間、公青は時が過ぎるのも分からぬ状態で毎日を過ごしていた。
政務が溜まって来ているのは知っていたが、とても今は宮を回して行こうと思えるような心情ではなかった。
なので、政務が今、どうなっているのかも分からなかった。
最初の頃はためらいがちにこちらに政務のことを聞きに来ていた筆頭重臣の相留も、公青があまりに何も答えないのでついには来なくなった。どうやら、勝手に何とかしているらしい。
そんなある日、隼人が、公青の部屋へとやって来た。相変わらず居間で庭を見てぼうっとしている公青に、近づいて来て隼人は、膝をついた。
「王。お加減はいかがでしょうか。」
公青は、気のない返事をした。
「別に。我の身は老いもせぬからの。もう、惜しい身でもないものを。」
隼人は、険しい顔で公青を見上げた。
「王、あれから半年でございます。宮の政務は、相留が公明様に取り急ぎお教えした物から順に、ご判断を仰いで何とか進んでおりまする。宮の外の政務に関しては、翠明様が龍王様に申し入れて会合に出、情報を得て全て回されておりまする。安芸様、定佳様、甲斐様も、まるで翠明様の臣下のごとくそのお言葉を信じて傘下の宮を回しておるのだとか。公明様には大変に優れたかたなので、子供の判断だと馬鹿にするような者も居らず、宮は安定しておりまするが、それでも神世全体のことを見渡すなどまだとてもご無理です。僅かな違和感などを、気取られることもまだ、お出来になりませぬ。」
公青は、公明が政務をしているのかとさすがに驚いたが、翠明が回りの宮を束ねてやっているならいいと思っていた。公明は若いが、それでも他に類を見ないほど賢しく、臣下も優秀だ。そんな臣下達と共になら、自分が居なくても宮は安全だろう。
だが、隼人は黙って聞いている公青に、更に言った。
「王。龍の宮との交流が、滞っておる事実をご存知か。」
公青は、ピクリと視線を動かした。龍の宮?
「…龍は我らと同じ側ではないか。奏がそうだったのだからの。」
隼人は、首を振った。
「もちろん、表立って何かあるわけではありませぬ。ですが、王が籠られてからしばらく、じんわりと龍の宮、月の宮との交流が、臣下レベルでも減って来ておるのです。というのも、あちらがこちらの申し入れを承諾せぬようになっておるから。確かに、月の宮など滅多に入ることが叶わぬ宮なので、地が常駐しておる今交流を渋ってもおかしくは無いのですが、龍の宮は…目に見えて、臣下内での催しが許可されぬようになっており、今ではほとんどありませぬ。」
さすがの公青も、隼人に向き直った。
「何か不具合でもあったのか。」
隼人は、首を振った。
「いえ、見えておるところでは何も。我も己で何か見つからぬかと探りを入れておるのですが、龍の宮でも我が西の中央から来たと知ると、皆それとなく話を反らして、長く話してはくれませぬ。代わって、翠明様の宮の者は度々あちらの宮でも見かけることがあり、すげなくされておるような様子はありませぬ。我にも、何が起こっておるのか、もはや王レベルでなければお知りになる事は出来ないのではないかと。」
公青は、それを聞いて椅子の背から離れて、険しい顔をした。最後に聞いた話では、月の宮に碧黎がとどまり、そうしてはぐれの神の世話を考えているとか何とか…維心はあまり前向きには考えていないようだったが、蒼が言うなら手助けはしているだろう。それからどうなったのか?蒼とも維心とも話しておらぬし、全く分からない。思えば蒼に律と簾を丸投げし、その後のことを聞く事も無いのに、大層なことになっていても分からない。それなのに公青が呆けていて、手助けもしようとせぬとあちらでは憤っていることもあるやも…。
「…月の宮の様子は。律と簾はどうしておる。」
隼人は、顔を上げて頷いた。
「は。それも調べて参りましたが、二人は今では真面目な働きぶりを認められ、生来そこそこの気を持っておったので、精進して序列も上がって来ておるのだとか。他の軍神達ともうまくやっており、諍いを起こすことも全くないと。なので蒼様は、他のはぐれの神も受け入れることを考えられて、獅子の宮観様の助言を受けて、少しずつはぐれの神を受け入れ始めておるのだとか。」
公青は、考え込むような顔をした。
「…ならば、あれらが原因で恨まれておるのではないの。蒼に迷惑を掛けておるのに放って置いてと維心殿まで腹を立てておるのかと思うたが、そうではないようぞ。ならばなぜ?」
隼人は、公青がしっかりとした顔付きになったので、膝を進めて言った。
「王、まずは翠明様にお問い合わせを。翠明様は、最近あちらとのご交流が活発であられます。もしや何かを聞き知っておられるかもしれませぬ。」
公青は、見違えるようなしっかりとした視線で、隼人を見た。
「ならば書状を。我が書く。主、密かに翠明に持って参れ。」
隼人は、頭を下げた。
「は!」
そうして、隼人は公明からの書状を持って、翠明の所へと向かったのだ。
そして、今だった。
翠明は、知らぬと言って来た。確かにまだ会合に出て行ったばかりで、翠明が回りの様子など気取れるはずはないのだ。
月に話しかけてみたが、十六夜は答えず、蒼は気のない返事しかして来ない。何を聞いても、知らぬ存ぜぬで、これまでのような気安い感じは、全くなかった。
ならば、自分が直接に出て行って、探って来るよりない。しばらく離れておっただけで、いったい何が起こっているのだ。少し呆けていたぐらいでは、揺らぎそうにない太平だったはずなのに。しかし自分は、この宮を滅ぼすような危険を、遺して逝くわけにはいかぬ。公明に、安定した強い宮を、譲ってあちらで奏に報告するためにも。
あれから半年、維月はまだ、龍王の石だった。
姿も気も変わらないので、宮ではそれを知る者も、維心に近い重臣のみだった。
維心は、それこそ寝るときも湯殿の時も、何をしていても龍王の石を胸から離さなかった。
なので、維月が少々離れていても、あまり追い掛け回すようなことがなくなった。というのも、維月の本体は常に維心の側にあるので、維月がどうしているのか、維心は常に感じ取ることが出来たのだ。そこから呼べば、維月は答えたし、石から話すことも出来た。
なので維心は、維月が月でなく石でもいいと思うようになっていた。
「維月、我は居間へ戻るぞ。どこに居るのだ。」
維心が、いつものように回廊を奥宮へと向かって歩きながら言うと、石から声がした。
《お庭に居りまする。では、戻っておりますわね。》
維心は、満足げに頷いた。こうして、常に維月が自分の懐の中に収まっている状態は、維心の心を穏やかにしていた。十六夜には悪いが、維心はまた、月などという手の届かない存在には、戻って欲しくはないと思っていた。
それでも、維月が十六夜を案じているのも知っている。なので、それは口に出せずにいた。
居間へ戻ると、維月が頭を下げて出迎えた。
「おかえりなさいませ、維心様。本日はいかがでしたでしょうか。」
維心は、頷いて維月の手を取った。
「特に変わったことはなかった。だが、炎嘉が午後から来ると申して来たわ。何やら、気になることがあると申して。」
維月は、袖で口を押さえた。
「まあ。何事でしょうか?鳥の宮が復帰して最近では安定したご政務だとお聞きしておりますのに。」
維心は、息をついた。
「安定したからこそ主と子をとか申して来るのではないかと案じられるが、主も今はそれどころではないしの。炎嘉には主が月から龍王の石になったのだとは話しておらぬのだ…また話す事がある、と申したら、怪訝そうな顔をしておったしな。それも合わせて、本日話そうと思うておるのだ。」
維月は、頷いた。
「そうですわね。月ではないので何がどうなっておるのかまだ私にもよう分からぬのですわ。不安定なことは全くありませぬし、子を産むことも出来そうな気は致しますけれど。」
維心は、とんでもないと首を振った。
「変わったことをして何かあったらどうするのだ。それは必ず主が大丈夫だと分かってからぞ。」
維月は、炎嘉と約束したのになあと思いながらも、頷いた。
「はい、維心様。」
すると、侍女が入って来て、頭を下げた。
「炎嘉様、ご到着になられました。」
維心は、頷いた。
「これへ。」
侍女は、頭を下げて出て行く。維心は、維月を見た。
「維月、では主は奥へ参るか。」
維月は、首を振った。
「それはなりませぬわ。炎嘉様には、あれからお顔を見てもおらず、維心様が約したことすら何も行われておりませぬ。せめてお加減をお伺いしなければ。維心様も、それは分かっておいでではありませぬか?」
維心は、そう言われて渋い顔をした。炎嘉の所に年に二度は行かせる約束をしているのに、それすら滞っている。それでも新しい宮を立て直している炎嘉が忙しいので何も言って来ないのを良い事に、こちらからは何も言っていなかった。その上、生きてくれたら維月と子を成すのを許すとか言ってしまっているのに、それすら無視している。
維月が、せめて顔を見て挨拶をしなければというのも、間違っていないのだ。
維心が仕方なく黙って維月と並んで椅子に座っていると、居間の大扉が開いた。
「炎嘉様のお越しでございます。」
侍女の声と共に、紅の着物に身を包んだ、それは華やかな炎嘉がその扉から入って来た。維心が、その様を見て眉を寄せる。かつて見た、鳥の王の炎嘉と遜色ない美しさだったからだ。
それなりに険しい顔をして入って来た炎嘉だったが、維心と共に、維月が座っているのを見ると、表情をやわらげた。
「なんとの。主のことであるから、維月を奥へ隠しておると思うたのに、やはりいろいろと約したことを違えておるのに、さすがの主も気にしておったのかの。」
維心は、ブスッとした顔で炎嘉を見た。
「…主だって忙しかったであろうが。すっかり元気になっておるがの。」
炎嘉は、それには神妙な顔をして、維心の前の椅子にどっかりと座った。
「嘉楠の体は結構長く使っておったものであるし、果たして充分に生きられるのかと碧黎に問い合わせたら、命の源は我であるから問題ないわと言われてな。鳥の型に戻った時も、我が昔戻ったのと同じ型、同じ色であった。間違いなく我なのだと、その時思うた。」
維心は、答えた。
「あの、金色で羽の先や端々が紅の派手な鳥であるな。長く見ておらぬわ。」
炎嘉は、維心を軽く睨んだ。
「派手とは何ぞ。前世から散々我の姿を貶めおって。」と、フーッと息をついた。「ま、こうして鳥に戻って思うたが、我の今までは真に生きておったのではなかったのだな。龍の体は、いくら使っても馴染めなんだし。今はこれが本来の姿であって、あれは夢であったように思うほどよ。嘉楠には、感謝しかないわ。あれと一緒に、鳥の宮を立て直して参りたかったがの。」
維心は、頷いた。
「良い軍神であったわ。我も義心を失ったら同じ心地になるのやもしれぬな。それで、炎嘉。改まって訪ねて参ってどうしたのだ。何か聞きたいことでもあったか。」
炎嘉は、頷いて身を乗り出した。
「ああ。主に聞きたいことがある。公青のことぞ。」
維心は、片眉を上げる。
炎嘉は、話し始めた。




