西の島
紫翠が戻ってから、もう半年が過ぎていたが、翠明は、落ち着かなかった。
自分の宮の中は大丈夫だった。綾は紫翠が戻ったことで落ち着いて今まで通りしっかりと奥を回してくれていて、紫翠も、今までのようにただ黙って侍女に抱かれて行くようなこともなく、はっきりとした意思を示すようになった。
紫翠は、あの事件の後、綾が寂しがるほどしっかりとした顔付きになった。まだ赤子でしかなかった紫翠の顔付きは、しっかりとした幼児のものへと変貌し、そうして、言葉も増えた。視線も子供のそれではなく、意味のある視線を向けて来るようになり、翠明もためらうことが度々あった。それでも、紫翠は間違いなく紫翠であり、自分の息子で中身が入れ替わっているような事は無かった。それは、気の色を見て翠明にも分かっていた。
臣下も先を楽しみに待ち望むほど成長し始めた紫翠のことを誇りに思いながらも、翠明が落ち着かないのは、公青のことだった。
今まで、この南西の広い地域は翠明が一人で統治していることもあり、自分だけで充分に治めて行けると思っていたのだが、ここへ来て難しいことが出て来た。
今までなら、公青に言って何とかしてもらっていたようなことだ。定例の会合で公青の宮へ上がり、そこで公青に陳情すればそれは自分の手を放れてお役御免となっていたのだが、それが出来ない。
それでなくても誘拐事件と奏の危篤状態の期間は全く政務が滞って進まなかったので、早く済ませてしまいたいのに、公青からは、いつまで経ってもそれに対しての指示が来なかった。
そんなこんなで、翠明自身が、これまで公青に頼んでいた事を何とか自分でやるようになり、回りの宮も公青よりも自分を頼るようになって来た。
四方には、同じように他の小さな宮々を統べる安芸、甲斐、定佳が居たが、自分が統べている宮の数が圧倒的に多い。西にある80の宮のうち、50は翠明の傘下だった。
なので、手が回らない時もあり、仕方なく翠明は、龍王に頼んで神世の会合にも出て来るようになった。そうしないと、情報が手に入らないし、問題の解決が出来ないからだった。
公青が会合に出て来ないので、翠明がそうやって会合に出て、他の三人にも状況を知らせていた。
そんなわけで、翠明の宮は序列上から三番目、月の宮でいうBランクの宮になっていた。
そんな状態で、翠明自身が忙しくしている中、筆頭重臣の新光が来て、言った。
「王、公青様の宮からの書状が!」
翠明は、驚いてそちらを見た。新光の手には、確かに書状が握られている。翠明は、ホッとして言った。
「やっと出て来る気になったか。ほんに長くかかったものぞ。放って置きおってからに、文句を言わねばな。」
新光は、顔をしかめた。
「それが、そのような気軽な書状ではないようで。あちらの隼人が直々に持って参ったものですので。」
翠明は、片眉を上げた。筆頭軍神が?
「これへ。」
翠明は、表情を引き締めて言う。新光は、戸惑いがちにそれを翠明に手渡す。翠明は、それを開いて、そうして閉じた。
「…我が最近会合に出ておるからか。」
新光は、怪訝な顔をした。
「どういうことでしょうか。」
翠明は、新光を見た。
「月と、龍の様子を聞いて参ったのだ。何か、変わった様子は無いかと。我が見る限り、特に何も。我にも普通に接してくれるうえ、龍王は我の序列を早く付けねばと鳥王の炎嘉殿と一緒に急遽議題に上げて、こうして序列を与えてくれた。なので我は、公青がああして呆けておる間も、あちらに置き去りにされずに済んだのだ。むしろ、前より良うしてくれておるぐらいぞ。公青は、わざわざこんな書状を送って来るほど、何を懸念しておるのだ。心配なら己で会合に出て探れば良いではないか。全く。」
新光は、それでも困惑した表情を崩さなかった。
「王、もしやあちらは、公青様よりこちらを西との橋渡しにしようと思われておるのでしょうか。公青様は、確かに大きな力をお持ちですが、あのように寵愛する妃を亡くされてもう、使いものにならぬとか思われておるのでは。だからこそ、王に良くして下さり、あちらには素気無くなっておるとか。」
翆明は、言われてハッとした。そういえば、こちらの島の者達も、今や公青より翆明に面倒を持って来る。公青が対応をしないのに業を煮やして、他の宮の安芸や甲斐、定佳までも自分に相談して来るようになった。会合も、今まで中央に行っていたが、公青がああなのでこの、南西まで皆が出掛けて来て行う。つまりは、役目を果たさぬ王など、要らぬというのが神世の薄情な一面だった。
「…そうは言うて…我とて、あちらへ参ればそんなに気の大きな神ではないのだ。龍王の筆頭軍神など公青にも迫るのではないかというほどの気を持つのだぞ。そんな我があちらで序列上から三番目に据えられたのも、こちらで広範囲の宮を束ねておる実績があるからに他ならぬ。公青の代わりになど、なれるはずはあるまいに。あちらの礼儀もなかなかに覚えきれぬのに。そこまで買いかぶられても困るばかりぞ。」
新光も同じように思ったのか、暗い顔付きで神妙に聞いている。
そこへ綾が紫翆を連れて入って来た。
「何を気弱な事を申しておられるのですか、我が王は。」驚いて綾を見ると、綾は続けた。「千載一遇の機会でありまする。我は、鷲の王妃でありました。あちらの礼儀などで分からぬ事がお有りなら、我にお聞きになればよろしいのです。宴などの采配も、我は卒なくこなしましょうほどに。これほどの規模の宮、あちらでもそうは有りませぬのに。案じられることは何もありませぬわ。大きく構えて居られればよろしいのです。鷲の宮での事を思うたら、何ほどのことでもありませぬわ。」
翆明は、戸惑う顔をした。しかし新光は、パッと表情を明るくした。
「おお、確かに綾様は鷲の宮でお育ちになられ、王妃の座に座られたほどのかた。何の失礼など有りますでしょうか。紫翆様のご様子を見ても、その気品から綾様のご手腕も分かりましょうほどに。確かに案じる事などありませぬ。」
紫翆は、はっきりとした口調で言った。
「父上、我はあちらの宮の事も知りたいと思うております。公明や明蓮ともまた会って話したい。対等になりたいのです。」
翆明は、紫翆を見た。確かに紫翆の世になった事を考えたら、宮の力は強くした方が良い。自分のためではなく、子の、宮のため…。
「…そうよの。」翆明は、言った。「ならば我は期待に応えねばならぬな。できる限りの事はする。」
新光は、幾分持ち直したような顔をして、翠明を見上げた。
「では、こちらの書状にはなんとお返事を。」
翠明は、少し首を傾げた。
「まあ我には何も思い当たることなど無いのだ。今考えておることも、勝手な憶測に過ぎぬしの。なので特に変わった所は見当たらぬと答えよ。我はあちらでも新入りなので詳しいことを気取る余裕もないのだとな。」
新光は、頭を下げた。
「は!」
そうして、出て行く新光の後ろ姿を見ながら、これからもこの、広範囲を見る政務を続けて行かねばならないのかと気が重くなるのを、紫翠の未来を想って振り払い、気持ちを奮い立たせたのだった。
公青は、その書状を見て眉を寄せた。隼人は、目の前で膝をついている。公青は、隼人を見ずに行った。
「…知らぬと申して来おったわ。確かにまだ会合にも出始めたばかりとなると、回りに合わせるのに必死になっておって不審など察する余裕もなかろうな。それにしても、気になるの。主は何か見つけて参ったか。」
隼人は、うなだれるように頭を下げた。
「いえ…未だ何も。申し訳ありませぬ。」
公青は、立ち上がった。
「我が世を見ておらぬ間に、何かあったのやもしれぬな。次の会合には出るよりない。我が王達から何か掴んで参ろうぞ。水面下で何か起こっておるなら、知っておかねば出遅れる。」
「は!」
隼人は、そこを出て行く。
公青は、隼人が報告に来た時のことを思い出していた。




