観の訪問
次の日の朝、観は月の宮へとやって来た。
忍びで来たので岳と二人での来訪だったが、その月の宮の結界の、強力な様に驚いた。
「またこれは凄いの。龍王以外でこれほどの力を感じたのは、これが初めてぞ。」
観が言うと、岳も珍し気にそれを見て、頷いた。
「はい。月の結界など、見た事もありませんでしたが、これはまた、身の危険は感じないのに、決して入れないと思わせる力を感じまする。世に、こんな種類の力があったとは。」
観も同感だと頷いたところで、中から黒髪の軍神が出て来て、二人を見て言った。
「月の宮次席軍神、明人と申しまする。観様でございましょうか。」
観は、軍神と言えどもかなりの気を持つ明人に、この宮の力を見たように思いながら、頷いた。
「如何にも。これは我の筆頭軍神、岳。蒼殿とのお約束通りに、こちらへ参った。」
明人は、空中で膝をついた形になった。
「お待ち申し上げておりました。では、我が王の御元へお連れ致します。どうぞこちらへ。」
明人は、先を飛んで結界の中へと入って行く。
観は、その後をついて、岳と共に入って行った。
そこは、清々しい浄化の気が常に降る、それは清浄な空間だった。
神であれば、その命の気を吸収することでどれほどに身の穢れが洗い流されて行くことかと恍惚とした心地になるものだ。
観と岳も、その例に漏れずその心地良さに酔うようだった。こんな場所が、この世にあったとは…。
明人は、もう慣れたようにその中を大きな宮へと向けて降りて行く。宮は、神世の他の宮に比べたらまだ新しい物であるようだった。観の宮に比べたら幾らか年数は経っているが、それでも美しいことには変わりない。
そうして、この宮の到着口らしい大きな門の前へと降り立つと、そこには、会合の席で何度も見た、蒼が立って、迎えてくれていた。
「観殿。宮を建設する折にお会いしたぐらいで、ご挨拶もなくいきなり無理なお願いをして、それを飲んでくださって感謝している。」
蒼が言うと、観は微笑んだ。
「こちらこそなかなかに挨拶も出来ぬで。我の事は観と気安く呼んでくださって良い。こちらは、我の筆頭軍神の、岳。」
岳が、膝をついて頭を下げる。蒼は、頷いた。
「ならばオレのことも、蒼と。」と、中へと足を向けた。「こちらへ。ちょうど、妃の里帰りについて維心様もこちらにいらしておる所なのだ。一緒に話を聞きたいとおっしゃっておられるので、中へ参ろう。」
観は、片眉を上げた。確かに、維心は月の宮には頻繁に来ていると聞いている。本当に、龍王がそんなに簡単に宮を出て来ているというのか。
観はそう思ったが、蒼に従ってそのまま月の宮の中へと足を踏み入れた。
月の宮は、外から見た通り、龍の宮にも似たそれは美しい作りだった。五代龍王維心が、妃のためにその実家を建てて送ったと聞いている。その維心が転生した今の維心も、妃を溺愛して同じように月の宮を懇意にしているのは知っていた。しかし、これほどのものを建てて領地まで与えるほど、溺愛する妃とはどんなものか。
観は、自分にも七人の妃が居たが、特に溺愛しているような妃は居なかったので、興味を持った。そういえば前世の龍王妃なら見ているが、遠いことなのであまり覚えていないのだ。
どんどんと歩いて行くので、このままでは奥宮ではないかと思っていると、蒼は特に気にせずずんずんと進んで行った。そうして、目の前の大扉を開くと、見るからに居間の設えのそこで、見知った龍王が脇に座っているのが目に入った。そこで、蒼が言った。
「ここは、オレの居間なのだ。維心様は、知っておるな。」
観は、驚いた。初対面に近い我を、居間へ通したのか。
その表情から観の考えを察した維心が、クックと笑って言った。
「観、蒼は己の結界の中で邪な考えを持つ者を見分ける能力を持っておる。主にはそれが無いゆえ、これはここまで連れて来たのだ。案ずるでないわ。」
観は、それはそれで驚いた顔をした。岳も、思いもしない事だったようで、黙って膝を付いている。
蒼は、脇の椅子を示しながら、正面の椅子へと腰かけた。
「観も、そこへ座るといい。岳も、どこなりと。」
岳は、そう言われても膝をついて控えていることしかしたことが無かったので、椅子に座るなど落ち着かなかった。だが、観に頷きかけられて、仕方なく後ろの方の、小さめの椅子へと収まった。
観は、蒼に言った。
「ここは清浄な気が溢れる、想像以上の場所であった。これまで宮をなかなかに出て参ることが出来なんだので、これからはこういった宮を知って行けたら良いと思うておる。して、蒼。主ははぐれの神をここへ囲いたいと思うておるとか?」
蒼は、愚かなことを、と思っているのだろうな、と思いながら、頷いた。
「まだ、検討中であると言っておこう。というのも、このほど接した数人のはぐれの神達が、思いもかけず良い性質であったし、それなのに不幸な生い立ちで不憫だと思うたからなのだ。全て助けられるとは思うておらぬが、もしかしていくらかは、とな。」
観は、頷いた。
「それぐらいなら成せるやもしれぬな。最初に書状を見た時には、なんと甘いことをと思うたのだ。」と、後ろに座る岳を軽く振り返った。「この岳も、かつては、はぐれの神であった。それを我が見つけて、こうして使っておるのだが、これは気が強かったので我が見つけるまで生き延びておったが、そうでなければこれほどの心根の神が、埋もれて野垂れ死んでおったのではと思うたものよ。これの見て来たことも、恐らくは主の助けになるかと本日連れ参ったのだ。」
蒼は、岳を見た。岳は、恐縮して椅子の中で小さくなっているように見える。こんな場に出るのも、恐らくは初めてなのだろう。
「オレも、ここに迎え入れた神のことをそのように。あれらも助けになってくれようかと思うておる。」
維心が、口を開いた。
「それでもそんな者は一部なのだ。我も炎嘉も、前世それは何度もあれらを何とかしようとしたものよ。だが、結界内に入れて使えるかと見ておる間にも、あれらは問題ばかりを起こした。まず、決まりの中で生きることが出来ぬのだ。必要なものを奪うことしか知らぬので、ならぬと禁じておっても欲しいと思うたら、奪う。相手をあっさり殺しての。そうなると我も相手を罰するよりないので、殺す。そうしておったら、まるで殺すために迎え入れたようになってしもうた。百数人迎え入れて、残ったのは数人よ。それらも生きづらいと感じるのか、結界を出て行った者も居た。生まれながら誰かに仕えて生きるということを知らぬ者を、更生させるのは想像以上に難しいことぞ。」
それには、観も岳も間髪入れずに頷いた。蒼はそれを見て、本当に大変なことなのだと身に染みた。
観が言った。
「我は、自分自身がさすらっておったので、そのような神がどう考えどう動くのか気取ることが出来る。なので、扱い方も知っておる。だからこそ、あの場所ではぐれの神ばかりを使っておるにも関わらず、ああして宮が成り立っておるのだ。我がつい最近まで宮を出て来れなんだ理由を知っておるであろう?」
蒼は、頷いた。維心に聞いてつい昨日知ったばかりだったが、聞いておいてよかったと思った。
「主でなければ押さえ切れぬからだな。駿という皇子が育っているのだとか。」
観は、頷いた。
「我の第一皇子ぞ。歳は280になる。もうそろそろ誰も敵わぬようになったので、我も宮を空けて来れるようになった。あれも幼い頃より身近にあんな神達を見て育ったので、我の代わりを充分に務めることが出来るように育ったのだ。そうでなければあの神達を支配するなど無理ぞ。つい一昨日も、宮で起きた殺生沙汰で我は一人切り殺したばかりぞ。なかなかに、あれらを使うことなど出来ぬのだ。」
蒼は、観を見つめた。観は、澄んだ気を持つ王だった。とても、はぐれの神の中で育ったとは思えないほど、大きな気と清浄な気を持っている。こんな気は、生まれながらに持っていなければ持てるものではなかった。それも、他の神に染められることもなく、ここまで生きて来れたのだ。
「…主は…まるで、不遇な中に居る神達を、御するために生まれたような救世主のような神よな。オレにはそんな気は無いし、月である他特別なことはない。だから、主らがオレがしようとしていることが、無謀だと思っているのは分かる。だが、助けられる神が居るなら、助けてやりたいと思うのだ。それが出来るのは、神ではなく月である、自分の宮だけではないかと思うから。なので、しばらく様子を見て助けてはくれないだろうか。もし駄目なのだというのなら、諦める。他に方法はないか模索するゆえ。」
観は、驚いたような顔をした。蒼という月は、本当に邪気がない。穏やかな王で滅多に殺傷などしないのだと聞いている。蒼自身は軍神でもなく、ただその気の大きさで皆を包んで守ることで、王として君臨しているだけなのだとも。確かにその通りかもしれないが、この性質は、神世では珍しい。どういう訳か、助けてやりたいという気持ちにさせられる。月の力を持っているのだから、助けてやる必要などないにも関わらず。
「主は不思議な男ぞ。ここへ来るまでは、厳しい現実を知らせて、諦めさせるよりないと思うておったのだ。我が少々助けたところで、はぐれの神の問題は解決できぬ。歴代の龍王や鳥王、獅子王に白虎王、数多の大きな気を持つ神が、なし得なかった事であるからの。しかも、主のことを聞いておる限り、基本命を取らぬという神世には珍しい王。とても無理だというのが、我の考えであった。しかし、こうして主に向き合っておると、何やらそれを成すために、力になってやりたいと思わせる。それが無駄だと思うておっても、もしやと思わせる何かがある。これが月というものなのやもしれぬの。」
蒼は、驚いたような顔をする。維心が、苦笑して横から言った。
「主もか。我もそうぞ。これは恐らくは、月云々ではなく蒼自身の気質ぞ。これを助けてやりたいと思わせるのだ。なのでこれが王座に就いてもう数百年であるのに、未だに我はこれを補佐してやらねばと思う。もちろん、我が妃の前世の息子であるのも関係しておるが、それだけではないな。」
観は、維心も同じなのだとその時思った。そうなると長い付き合いになりそうだが、それでもいいかもしれない、と観はフッと笑った。
「…ならば、我も。」蒼が、観を見る。観は続けた。「我は、無理だと思うておる。だが、この清浄な気が満ちる場で、主がどこまで出来るのか見てみたいとも思う。だが、一度には無理ぞ。まず、少人数から始めよ。我のように、一気にいろいろな神が流入すると、元居た神が迷惑を被るのだ。他の宮でそれは実証済みぞ。最初に保護する対象で一番良いのは、家族連れ。はぐれの神の中での家族は珍しい…男が大概は逃げておらぬことが多いからの。それでも、男神が女と子供を守っておるのだとしたら、それは気質が幾らか良いのだと分かる。まずは、そんな神を探すが良い。そうして、結界内に招き入れて、様子を見るといい。そこから始めよ。後は、信頼できるとした元はぐれの神に見張らせておけば良い。あれらは、普通の神が気付かぬ面倒な動きを気取ることが出来るからの。他、分からぬことがあれば我に申せ。」
維心が、それを聞いて満足げに蒼を見た。蒼は、真っ直ぐに観を見て、頷いた。
「分かった。感謝する、観。これからは、月の宮とも懇意にして欲しい。いつなり来れば良いゆえ。主の皇子とも会ってみたいし、オレもそちらへ訪ねて参ろう。」
観は、軽く会釈した。
「そのように。我も、主の皇子に会いたいと思うておる。此度見つかったそうではないか?長くさすらっておったのだと聞いておるぞ。」
蒼は、それにはパッと明るい顔をした。
「ああ、新月というのだ。会わせよう。だが、今はまだ本調子ではなくてな。座ったままで良ければ、今から参ろう。」
蒼は、立ち上がる。観も、ゆったりと立ち上がった。それを見て岳も慌てて立ち上がったが、維心は座ったまま言った。
「ならば、我は戻る。観、主、どれぐらいここに滞在する?宮を見て回るのだろう。」
観は、頷いた。
「三日ほど出て参るとは言い置いて参った。久しぶりに他の宮へ参ったし、よう見て参りたいと思うておるのだが。」
蒼は、横から言った。
「では、部屋を準備させるゆえ、いくらでも滞在したら良い。月の宮は人世との懸け橋と言われておるので、いろいろ珍しい物もあるし。」
観は、蒼に微笑みかけた。
「ならばそうしようかの。では、失礼する、維心殿。」
維心は、軽く会釈を返した。
「またの、観。蒼、我は己の対へ戻っておるから、何かあれば知らせよ。」
蒼は維心に頭を下げて同意すると、観と岳を連れて、そこを出て行った。維心は、蒼の居間に一人で長く居座るわけにも行かないので、そのまま立ち上がって、そこを出て行ったのだった。




