月夜
北海道の最北端にほど近い山の中腹に、その場所はあった。
碧黎が言った通り、回りに人は少ない。もちろん、神もこちらほど多数居なかった。
そんな場所に、祠がありその前には小さな拝殿も建てられてある神社がポツンとあった。
立って数百年ほどかと思われる神社だったが、その回りの人は皆、そこへ参るようで、正月も近いこの時期にはしめ縄なども新しくなり、小さいながらもきちんと世話をしている様だった。
人には全く見えないが、その祠の後ろの山には、蒼がまだ人として生きていた頃の屋敷と同じぐらいの規模の、建物が建っていた。
次元を調節するのはかなり難しい作業なのだが、それをやってのけた神が居るらしい。
綺麗に整備され、それはそこにあった。
十六夜、蒼、維月がそれを見ていると、ちょうどそこへ下働きらしい神が何かの包みを手に屋敷へと入って行くのを見つけた。三人は、急いでその神の気を探り、そっとその目を通して屋敷の中へと視界を移して行った。
屋敷の中は、やはり蒼が昔住んでいた美月の屋敷にそっくりだった。
入ってすぐに土間の台所があり、脇に畳敷きの部屋がある。そこへと入って行くと、侍女らしい女神が出て来て、その神に微笑んだ。
「まあお帰りなさい、克己。今日もお供え物があったの?」
克己と呼ばれた男は、頷いて包みを差し出した。
「ええ、小雪様。ほら、新月様がお好きなイチゴ大福が供えられておって、きっとお喜びになるかと思うて、急いで戻って参りました。」
小雪と呼ばれた女は、パアッと明るい顔をした。
「まあ。最近では難しいお顔ばかりされておるので、良かったこと…これで、少しでもご機嫌が良くおなりなら良いのに。」
すると、克己は表情を暗くして、慰めるように言った。
「そのようにお気に病むことはないのですよ、小雪様。あれは、小雪様のせいではありませぬ。お隣りの吏別様がどうせ人も居ないからとうっかり地盤の強化をお忘れになっておったから、この間のちょっとした地の揺れで崩れてしもうただけなのです。」
小雪は、暗い顔のまま首を振った。
「それでも、我があのような場所まで出て居らねば。新月様は、大地に嫌な気を感じるから遠出しないようにとおっしゃっておったのに。つい、山茶花などに見とれてあのような奥にまで参って…あのまま、大地に埋まっておってもおかしくはなかったのに。」
克己は、ため息をついた。
「ですから吏別様があの辺りをしっかり強化してくださるご予定でしたのに、それを忘れてらしたから崩れてしもうたのですよ。ですが、あれで吏別様も新月様のお力を目の当たりにされて、こちらからの要請もすんなり聞いて下さるようになったではありませぬか。大地を支えて崩れぬように固定するなど…しかも、あのように大きな範囲。普段から、滅多にお力を使う事のない新月様が、まさかあれほどとは、我らとて初めて知って更に仕えようと心底思った次第ですから。新月様は、小雪様をお助けになろうと普段使わない力を使われたのです。我らも、もしかして新月様が小雪様を妻にと御望みなのではと、色めきだった次第です。ですからそのように、お力を落とさずに。」
小雪は、赤くなって口を抑えた。
「まあ…そのようなこと…。」
克己は、笑って小雪の手に大福を渡した。
「さあ、これを新月様にお持ちになって、お側に。きっと、ご機嫌もよろしくおなりですよ。」
小雪は、そのイチゴ大福を見ると、赤い顔のまま、こくんと頷いた。そうして、そのまま奥へと向かった。
そこで、十六夜たち三人は小雪の目から屋敷の中を見るのに切り替えた。
屋敷は、本当に人が使っているかのように、あちこちに見慣れた家具やらカーテン、それにたまに家電のような物まで見えた。
人のフリまでしてと碧黎は言っていた。つまりは、人がもしも見ることがあっても良いようにということだろうか。
小雪がそのまま奥へと進んで行くと、目の前に襖が見えた。小雪はそこで止まり、声を掛けた。
「新月様…克己が、人の供え物を持って参りました。」
すると、中からそう低いというわけでもない、しかし良く通る男声が聴こえて来た。
「…入るが良い。」
小雪は、襖を開いた。
するとそこには、正面に置いた大きな座布団に胡坐をかいた、黒髪に深い青い瞳の、切れ長の目の男が、こちらを見ているのが目に入った。
《まあこれは…》
維月の声が、見ている画像外から聞こえて来る。蒼はそれに気付いていたが、何も言わなかった。
その切れ長の目は、蒼と維月にそっくりで、親子に繋がる形だったのだ。そして、その深い青い瞳は、瑤姫が龍族の王の妹であったことから月夜に遺伝した、龍の王族の間でしか出ない色だったのだ。
つまり、皆に新月と呼ばれているこの男は、月夜が成長した姿で間違いなかったのだ。
小雪は、大事そうに大福を抱えてその前へと進み出ると、座って、差し出した。
「新月様、イチゴ大福ですわ。本日は、三つも供えてくれてありました。お好きであるからと、持って参りましたの。」
新月と呼ばれている月夜は、頷いた。
「わざわざすまぬな。だが、それは主らで分けよ。我は要らぬ。」
小雪は、顔を上げた。
「え?あの…ですが、」
「良い。」月夜は、首を振った。「また供えて参ることもあるであろうしの。それより、考え事があるのだ。下がれ。」
小雪は、肩を落とした。小雪の目から見ていたので表情は見えなかったが、それでも相当に暗い顔をしたのは間違いない。
月夜は、チラと小雪の顔を見ると、フッと息をついた。
「…そのように。小雪、主が土砂崩れに巻き込まれそうになったのは、主のせいではないではないか。我がこうして考え事をしておるのは、主のせいではないのだ。ただ、我にとって喜ばしくないことになるやもしれぬから、考えておるだけであるのよ。そのように案じるでない。」
小雪は、弾かれたように顔を上げた。視界が曇って来る…涙ぐんでいるようだ。
「新月様…我は、我は新月様に遠くへ行くなと言われておったのに。勝手にあのような場所にまで出て参って…それで…」
月夜は、首を振った。
「主のせいではない。我が、逃げておったことが目の前に出て参りそうだというだけぞ。」と、またスッと眉を寄せた。「…とにかく、もう良い。下がれ。」
小雪は、まだ何か言いたそうだったが、月夜が横を向いて肘掛についた腕を顎の辺りに置き、じっと考えに沈み始めたのでそれ以上何も言うことが出来ず、その場を辞して行った。
蒼、十六夜、維月は、顔を見合わせた。
月夜は、名前を変えている。新月といった…あの、蒼に似ていながらも瑤姫から続く龍王の血のせいで、威厳を持つ様といい、特有の深い青い瞳といい…。
「…我が血族よな。」意外にも、維心が口を開いた。「気の色に我らと同じ物が混じる。あれは、間違いなく月夜であろう。」
維月が、ハッとしたように維心を見上げた。
「私の目から見ていらしたのですね。」
維心は、頷いた。
「我には月を使うことは出来ぬからの。それにしても王ではなくとも、やはりあれは王のように扱われておったようではないか。見たところ、仕える者も数人居るようだ。それに、人があれを奉っておるのか、祠が出来ておった。あれは、建ってまだそう時が経っておらぬようであるし、あれがあそこへ来たぐらいに建てられたのではないか。」
碧黎が、それに答えた。
「我もそう思うた。あの辺りには、神は少ないので領地がどうのという争いもないのだ。神社が点在しておるが、実際に神が居る場所は少ない。あっちこっちの神社を、何人かの神で持ちまわっているような感じよな。人の世話しか、あの辺りは穏やかですることがないからの。」
蒼が、やっと口を開いた。
「月夜…年を取っていなかった。」蒼は、十六夜を見た。「瑞姫は寿命が来て亡くなったけど、月夜はああして姿を保って生きているんだ。同じ血筋でも、月夜は強く出たんだろう。でも…何かを気にしているみたいだった。なんだろう。」
碧黎が、苦笑した。
「だから我が気取った力の筋よ。あれは、自分の力を大きく使うことなどなかったのだろう。月に気取られる可能性があるからと、最小限だけしか使わずに生きていたのだな。だが、今見たところでも分かるように、あの小雪という女神を助けるために、地を支えようと思わず力を放ってしもうたのだろうの。それで我が気取ったのであるが、あれも愚かではないゆえそれで気取られたのではないかと危惧しておるのだ。それで、あのように考え込んでおるのだろう。」
では、やはり月夜はこちらに会いたくないのだ。
蒼も維月も、十六夜も暗い顔をした。蒼は、珍しく険しい顔のまま言った。
「別に…月夜の気持ちを優先したいと思ってるから、帰って来たくないならそれでもいいんだ。でも、いったいどうして宮からあんなに小さなうちから居なくなったのか、どうして直後でもオレ達に気配が全く気取れなかったのか、そもそもなんであんな最果ての地に籠ってるのか、それが知りたいんだよ。オレも瑤姫も直後はそれは悲しんで探し回ったんだ。でも、突然に連れ去られたり、殺されてしまったりは神世の王族では多いんだって維心様から聞いて、泣く泣く諦めたのに。墓所にだって、月夜の場所が、空のまま蓋されてあるんだ。あいつがどんなに嫌でも、親に説明する責任があるとオレは思う。それでなくても、龍の宮の軍神達だって総動員してもらったんだから、隠れて暮らしてて見つかってそっとして置くなんて無責任でしかないよ。」
十六夜も、維月も黙っている。維心が、軽く息をついて言った。
「別に我は妃の里のことであるから、手を貸すのは当然のことであるし我は良いのであるが、確かにもう良い歳になっておるだろう月夜が、隠れ住んでおる理由を親に知らせぬのは良うないの。そこにあれが存在しているのは、親故であるから。それを無視して生きることは、あれには出来ぬ。ましてまだ老いが来ておらぬのなら、あれには責務があるのだろう。その責務を、あんな最果ての地で居て務められるとは思っておらぬ。龍の王族の血筋と月の末であるぞ?その血の力を考えても、世を平らかにする力にならねばならぬのではないのか。」
維月は、碧黎を見た。碧黎は、その視線の意味を悟って、フッと笑った。
「維月、あれの責務、我には見えておるが、それをここで話すわけにはいかぬ。また力を失ってしまうわ。ただ、蒼と維心が言うはもっともなことぞ。あれは逃げておるのだ。血の力で老いが止まっておるが、このままでは我も寿命を切らねばならぬ。しっかり話をして、どういうつもりであるのか説明する義務があれにはあるの。まして、あのように立派に成人しておるのではないか。蒼と維心を混ぜたような感じよなあ。」
蒼は、それには少し、頬を緩めた。
「小さな頃から整った顔立ちでしたが、それでも目だけはオレに似ているなあと瑤姫とよく話しておったのです。オレは不死なので、育ったら月の宮で交代で王をして生きていけたら楽かなあとか、夢を語ったものでした。それが…まだ、人世で言うなら小学生になるかならないかの歳で、居なくなって。死んだのだと諦めるまで、瑤姫とかなり苦しんだものです。」
最後の方には、悲し気に目を伏せる。維心は、蒼に向き直った。
「蒼、ならば行くしかないの。このまま放って置くことは、やはり出来ぬのだろう。ならば参るしかない。あちらが警戒しておるのは、今月から見た様子でも分かっておるから、書状を遣わせていてはまた姿を隠す可能性がある。というて、こちらから大挙して参れば気取られて逃げる可能性もある。」
蒼は、それを聞いてハッとして十六夜を見た。
「十六夜。」
十六夜は、頷いた。
「ああ、オレと維月なら、月から行ける。維心だってオレ達が行けばその気を頼りに瞬間移動が出来るんじゃねぇか?蒼は、維心に連れて来てもらったらいいんじゃないか。」
維心は、十六夜に頷きかけた。
「良い。主らが居ればその気を辿って行けるゆえ、蒼を連れて参ろうぞ。」
蒼は、涙ぐんで来るのをぐっと我慢して、維心に頭を下げた。
「お願いします。オレは、月夜に会いたい。」
それを見た碧黎は、満足げに頷いた。
「決まったの。では、我は主らの様子を見ておるとしよう。」
そうして、月夜の屋敷へと向かう前にどうやって話をするのか、蒼と十六夜、維月と維心は話し合ったのだった。