月の宮
維月は、十六夜が迎えに来て早々に月の宮へと里帰りして行った。
維心は、自分の政務をさっさと済ませてしまわなければ、宮を空けることが出来ないので朝からひっきりなしに入って来る臣下達の持って来る問題を、サクサクと処理していた。
昼も過ぎて少し臣下の出入りが少なくなった頃、兆加が入って来て膝をついた。
「王。ご指示を戴きたく参りました。」
維心は、もう慣れたように言った。
「申せ。」
兆加は、顔を上げた。
「月の宮へお出かけになられる前にと、至急お決め頂きたく参りました。あの、破邪の舞いの儀式の件でございまする。あの時ひと月後と決められて、このままでは二週間も無いうちに当日になりまする。王のご様子では、儀式は行わぬ方向でという事でしょうか。」
維心は、忘れていた、と片眉を上げた。
「そうであったの。忘れておったわ。享を焦らせるために申したことであったが、あれが無うなったらまた神世の緊張感も無うなるゆえ、延期と申せ。時期はまた、追って知らせると。まあ我も、それほど気を入れて舞うつもりもなかったのだがの。神世にまた、大量虐殺で名を馳せたくはないゆえな。だがしかし、面倒そうであったらこの限りではないがの。炎嘉と話し合って決めて参るわ。」
兆加は、頭を下げた。
「は。では延期で時期はまた後日ということで。それから王、明日は謁見を詰めて入れて参りまするが、午後まで詰めれば明日中に終わり、明後日からはしばらくお出かけになられても大丈夫では無いかと思われまする。いかが致しましょう。」
維心は、それを聞いて気持ちが軽くなった。そんなに早く、宮を出られるのか。
「それは良い。ならば明日、全て詰めよ。まああまりに早く行ったら十六夜が文句を言うゆえどうするかはまだ分からぬが、いつでも出掛けられる状態になった方が我も気が楽よ。」
兆加は、また頭を下げ直した。
「は。ではそのように取り計らいまして、本日の内のご政務は終了とさせて頂きまする。」
維心は、頷いた。
「下がって良い。」
兆加は、また頭を下げて出て行った。それと入れ替わりに、義心がサッと入って来て、片膝をついて、頭を下げた。
「王。明輪が戻りましてございます。」
維心は、頷いた。
「公青は沙汰をどうした?」
義心は、顔を上げた。
「は。公明様と何やら議論されておったようですが、すぐには決まらず、明輪も深くは分からぬまま戻って参ったと。どちらにしろ、まだ律と簾は地下牢に繋がれままでありまする。」
維心は、考え込むように顎に手を触れた。
「ふむ…あれも悩んでおろう。公明や明蓮のような真っ直ぐな賢しい神が申す正当な意見には、抗い難い力がある。我も維月が絡むとそうであるから分かるが、公青も己の感情に振り回されておろうしの。だが我も、あれらを殺さぬのが正しいのだと分かっておるよ。」
義心は、驚いたように維心を見た。
「では、王はあれらを殺すべきではないとお思いでしたか。」
維心は、頷いた。
「元凶は碧黎が最も厳しい罰を与えて消滅させたのだ。律と簾はその被害者であったということは、我にも分かっておる。公青も、恐らくは分かっておろう。だが、誰かに怒りを向けねば、奏を失った悲しみや憤りの持って行きようがないのよ。我だって何も考えられず二人を殺しておっただろうしな。なので、何をしようと我には公青を責めることなど出来ぬよ。あれに任せる。」
義心は、自分に当てはめて考えてみた。確かに、自分も維月を殺した輩など、王に許可ももらわずに消してしまっただろう。なので、神世がどうのということなど頭に浮かばず、その感情のままに殺してしまうという公青の選択であっても、自分も責められなかった。
維心は、義心が頭を下げて出て行くのを見送ってから、南の炎嘉の様子を気を探って伺った。炎嘉は、まだ宮の中で多くの気に囲まれて何かやっているようだ。だがその気は、暗く沈んだものではもう、無かった。明るく、期待に満ちたような、未来に向けて新しい何かを作り上げることに興奮しているような、そんな気だった。
それにホッと表情を緩めた維心は、月の宮の維月の方へと意識を移し、その慕わしい気を探ったのだった。
維月は、戻ってすぐに碧黎の部屋へと飛び込んでいた。
最初碧黎はびっくりしたように目を丸くして、ただ根が生えたように固まって居間の椅子に座っていた。茫然と見ているのを良い事に飛びついて来る維月を避けられず、まともに受けてひっくり返っていたが、時が経つにつれて維月の言うままに、庭へ出たりと宮の中をうろうろと歩き回るようになった。
十六夜は、今度ばかりは嘉楠を失ったばかりの嘉韻の所にも行かせてやりたいので、夜には連れ出すつもりでいた。
夕方になり、碧黎の対の部屋へと戻って来た維月と碧黎を、待ち構えていた十六夜が出迎えた。
「よ、維月。親父と遊んでるのは良いが、嘉韻が待ってるぞ。ぐずぐずしてたら維心が来るし、今夜からは嘉韻の所へ行ってやらにゃ。」
維月は、そうだったと碧黎を見上げた。
「そうでしたわ。私ったらお父様のお顔を見たら、ついこのように時を過ごしてしまって。」
碧黎は、苦笑して維月の手を放した。
「我にはいつなり会えるのだからの。嘉韻の所へ行ってやるが良い。と言うて、主は我の顔を見たらいきなり飛びついて来る癖を治さねばならぬわ。背後に岩でもあったらどうするつもりよ。主は月であるし、我でも対応しきれぬほどに素早いのであるから、怪我などすぐには治るが、痛い思いをせねばならぬようになるぞ。」
維月は、叱られたとバツが悪そうな顔をしたが、頷いた。
「はい、お父様。」
維月は、そう言うと、十六夜にも微笑みかけてから、そこを出て行った。
十六夜は、幾分穏やかな気を発している碧黎に、言った。
「親父、維月が帰って来たら振り回されっぱなしじゃねぇか。オレが話しに来ても、忙しいとか面倒がるのに。」
碧黎は、椅子へと座りながら答えた。
「何を言うておるのだ。我に拒絶する暇はあったか。あれはいきなり部屋へ飛び込んで参ったと思うたら、声を掛ける暇もなく飛びついて来て弾丸のようにあれをしたいこれをしたいと言いおって。しかも、聞かねば離れぬのであるからの。つくづく娘は可愛いと甘やかせてしもうたことを後悔したわ。」
そう言いながらも、碧黎の気は面倒がっているような感じではない。十六夜は、笑った。
「親父にそうやって無理を通すのも、維月ぐらいのもんだしな。いいじゃねぇか、たまには花やら海やらと見てうろうろ出歩くのもよー。」
碧黎は、ため息をついた。
「まあ、良い気分転換にはなったわ。あれで我が月の宮に囚われておると気にしておるようであったし、だからこそあのようにあちらこちらへ連れて参れと申しておったようだった。まあ、確かに維心でもしょっちゅう宮を空けて来るのであるし、我も特にここにとどまらずでも面倒ぐらいは見れるのだ。なので、ずっとここに居らずでも良いわな。分かっておる。」と、十六夜を見た。「主もそれを案じて、維月を来させたのであろう?本来、維月が帰ってすぐに参るのは嘉韻の所と決まっておるからの。」
十六夜は、笑った。
「まあバレると思ってたよ。親父がまた髪真っ白になったら怖いしなー。オレ達だって、親父を助けたいのさ。ちょっとは頼ってくれってことだ。力じゃ敵わねぇが、精神的に支えられたら嬉しいよ。」
碧黎は、少し驚いたように眉を上げた。
「助ける?我を?主らがか。」
十六夜は、不貞腐れたように、まるで維月のように頬を膨らませて見せた。
「だから、力じゃねぇ、精神的にって言ってるじゃねぇか。同族なんだしさ。」
碧黎は、フッと笑うと、その頬を気で両側からぐいと押した。手が届かない距離だったので油断していた十六夜の口から、漏れた空気がぶわっと音を鳴らす。
「うわ!何するんだよ、親父!維月だったら指で突くぐらいのくせに!」
碧黎は、声を立てて笑った。
「おお面白いの!己が維月と同じ扱いをしてもらえると思うておるのが間違いなのだ。」と、立ち上がって十六夜の髪を軽く撫でた。「分かっておるわ。主らが居るから、我も厳しい状況も耐え抜けると思うておる。案じるでない。」
十六夜は、不貞腐れた顔をしたまま横を向いて、足を扉へと向けた。
「もういいっての!じゃあな!心配して損した。」
そう言って、さっさと出て行った。
碧黎は、その背中を見送って、思っていた。同じ眷属など、居ないと思って生きて来た。それが、大氣が現れ、自分の命を分けた子達が現れ、自分はもう、独りではないのだ。
そう思うと、重くのしかかっていたいろいろな面倒が、スッと軽くなるように、碧黎は思った。
十六夜は、しばらく膨れっ面で歩いていたが、そのうちに、碧黎が声を上げて笑うなど、久しぶりに聞いたと気持ちが和んで来た。碧黎も、きっと分かっているのだ。自分が、もう独りきりではないということが。
そう思うと気持ちも軽くなって、心に余裕が出て来るとふと、永のことを思い出した。宮の治癒の神達でも治る事がないと言われた、蕾という幼い女神を守って生きていた、享の部下だった男だ。
十六夜は、治癒の対へと向かって、歩いて行った。
治癒の対には、基本的に個室はない。
王族などが治療の必要があった時は、治癒の神が直接往診に行くのが神の宮の普通であったので、個室は必要ないという考え方だった。その他の神達は、広い病室に多数並べられた寝台に寝かせて、治療される。治癒まで長くかかりそうな時は、自室へと戻され、治癒の神が持ち回りで往診してくれるという形になった。
蕾も、長くかかる部類であったが、蕾の場合は完治が望めない病状だった。しかも、常に気が不足しているような状態なので、治癒の対を出すわけにも行かなかった。
そんなわけで、その広い病室の窓際に、一人だけカーテンで仕切ったスペースを作ってもらい、そこで寝起きしていた。
十六夜がそこへ入って行くと、今日はカーテンが開いたままだった。
そこで、蕾は夕日が沈んで行くのを、眩しそうに見ていた。その脇には、永が着物姿で座っている。
十六夜は、いくつも並んでいる寝台を避けながら、蕾と永の方へと足を進めて行った。
「十六夜殿。」
永が、十六夜に気付いて立ち上がり、頭を下げた。十六夜は、手を振って言った。
「いや、オレにはそんな風に接しなくていいぞ。オレは神じゃねぇしな。で、蕾はどうだ?」
蕾は、振り返って微笑んだ。それは可愛らしい丸くて大きな緑の瞳の、それでいて儚げな少女だった。
「十六夜様。今日は、だいぶ良かったのです。あの、一度も胸が苦しくならなくて。ここに来てから、とっても楽なのですわ。」
十六夜は、微笑んで蕾の頭を優しく撫でた。
「そうか。ここはオレも浄化の力を強くしている場所だからな。変な邪気が一切入って来れねぇんだよ。月の結界の中は元々そうなんだが、この治癒の対はもっとなんだ。だから、安心していいぞ。これからも、苦しい発作なんか起こらないからな。」
蕾は、嬉しそうに微笑んだ。
「はい。十六夜様、ありがとうございます。」
永が、立ち上がって十六夜の方へと歩いて来た。
「十六夜殿、お話があり申す。」
十六夜は、蕾に聞かれてはいけない事かと、頷いた。
「ああ。オレもお前と話したいと思って来たんだ。庭へでも出るか?」
永は、頷いた。
「はい。」と、蕾を見た。「蕾、我は十六夜殿と大事な話があるゆえ。そろそろ治癒の神が来る頃であろう。見てもらっておくのだぞ。」
蕾は、素直に頷いた。
「はい、永様。」
そうして、蕾をそこに残して、十六夜と永はもう日が遠く沈みつつある庭へと出て行ったのだった。




