体
早朝、義心が維心の居間へと報告にやって来た。
侍女から知らせを受けた維心が奥から出て来ると、義心は膝を付いて頭を下げている。
維心は、一人で正面の定位置に座ると、義心を見た。
「何事ぞ。」
義心は、顔を上げた。
「は。明け方南の宮より呼び出しがあり、我が参って開と目通りして参りました。炎嘉様が、ご無事にお命を繋がれた由。取り急ぎ王にご報告をと。」
維心は、意外なことに片眉を上げた。
「炎嘉が?…がしかし、それを報告したのが開だということは、開の命を使ったのではないの。どうやって命を繋いだと申すのだ。」
義心は、頷いた。
「開が申すには、嘉楠殿の命を使ったのだとか。あの術は複雑な音調で一朝一夕ではいくら神の王でも習得は難しいと考えた開が、一人で炎嘉様に術を施そうとしていたところ、嘉楠殿がそれを気取って、確実に炎嘉様に術を掛けられる方法を。開がまず忍び、それに対応されて話している間に会話の裏で嘉楠が潜んで術を放っており、炎嘉様が気付いた時には、もう術は完成していたとか。嘉楠は命を失くし、本日は通夜を執り行うとのこと。月の宮の嘉韻にも知らされたと聞いておりまする。」
維心は、眉を寄せた。軍神の考えそうなことだ。嘉楠はそれでなくとも普通の神にしてはあり得ないほど長生きであり、もう軽く1000歳にはなろうかというところだったと記憶していた。だからこそ、自分の命など尚更惜しくも無かったのだろう。炎嘉のために長生きしているのだろうと思われたので、その炎嘉のためなら簡単に命を投げうつだろうと思われた。
「…あれのやりそうなことぞ。して、炎嘉はどうしておるのだ。」
義心は、答えた。
「未だお休みのまま。術の後命が安定するまでまる一日は掛かると享の記憶にもありましたので、これは想定の範囲内ではないかと。」
維心は、頷いた。
「そうか…ならば炎嘉は、目覚めたら荒れるであろうの。長年の筆頭軍神を亡くしたのだ…己のせいでの。あれは死にたかったのに、臣下の命を奪ってしもうたと思うであろう。しばらくは、様子を見ておかねばならぬだろうて。」
義心は、維心を見つめた。
「では、誰かあちらに行かせて定期的に報告させた方が良いでしょうか。」
維心は、少し考えてから、首を振った。
「いや。主が時に開に話を聞きに参れ。開も、しばらくは炎嘉に八つ当たられる可能性があるしな。分かっておっても、感情的に許せぬ事が炎嘉にはあるのだ。維月のことでの約束もある事であるし、我も気が進まぬが炎嘉の心の面倒は維月に頼るしかないの。まだ寝ておるが、起きたらこれを知らせよう。主も、常より頻繁にあちらを見ておくようにせよ。」
義心は、頭を下げた。
「は!」
そうして、義心はそこを出て行った。
維心は、考え込みながら維月が眠る奥の間へと戻って行ったのだった。
「なんだって?嘉楠が?」
十六夜が、蒼の居間で言った。蒼は、手にある二つの書状を十六夜の方へと差し出して、頷いた。
「そうなんだよ。急いで嘉韻は非番にして龍南の宮へ行くように言った。昨夜、開と一緒に謀ったんだと。開が一人で術を掛けに来たようなふりをして炎嘉様と話してる隙に、嘉楠が潜んで術を掛けてて、炎嘉様が気付いた時にはもう、術は完成してたんだって。」と、二つのうち一つを指した。「だから、炎嘉様はお命を繋いだんだけど、多分目が覚めたら荒れるだろうって維心様が。母さんを碧黎様が心配だからこっちへ帰すのも考えてたけど、もしかしたら先に南へやった方がいいかもしれないって。」
十六夜は、維心からの書状の方を手にしてチラと見てから、言った。
「…あいつも、ほんとに炎嘉を心配してるんだな。死ぬほど大事な維月なのに、炎嘉がつらい時は行かせてもいいってんだからよ。ま、親父は今すぐどうのってほど追い詰められてるわけでもねぇし、精神的にはかなり強いからよ。今は確かに炎嘉かもしれねぇ。長年の部下の命を奪っちまったことになるんだしよ。嘉楠は、本当に炎嘉のどこまでも忠実な部下だったしなあ。」
蒼は、暗い顔をした。
「嘉楠は、鳥だけど龍の炎嘉様でもぶれることなく仕え続けてたしね。どんどん鳥を見つけて宮へ迎える手助けをして、鳥がまた繁栄し始めてるのも嘉楠の力が大きい。だから、つらいと思うよ。気持ちは分かる。オレだって信明や李関を失った時は寿命だってわかっててもつらかったしさ。嘉韻も、聞いた時は落ち着いてたけど、つらいと思うよ。尊敬してた父親だもんな。」
十六夜は、空を見上げた。
「月へ帰って来る。あっちの方がいろいろ見えるし。お前は維月のこと、維心に任せるってオレが言ってたと伝えといてくれ。まだ炎嘉が落ち着くまで時間も掛かりそうだし、だが公青だって奏を刺した犯人の受け渡しを求めてるらしいし維心もやることがまだ残ってるだろうしな。」
蒼は、頷いた。
「分かった。今度のことは尾を引くね。とにかく、さっさと終わらせてしまわないとこれからの事もあるし…。」
月の宮の台頭のことを言っているのだ。十六夜は、頭が痛いと思いながらも、頷き返した。
「ああ。お前もいろいろ状況が変わって大変だろうが、頼んだぞ。オレも助けるから。」
そうして、十六夜は月へと帰って行った。
蒼は、不安ばかりで早く落ち着いて欲しいと心から望んでいた。
炎嘉は、まだ眠っていた。
とりあえず七日間ということで、維月は急遽帝羽に付き添われて龍南の宮へと来ていた。
いつも命じる義心でない所に維心の微かな抵抗を感じて維月は維心のことも気になったが、それでも今は、父を亡くした嘉韻と、その命をもらってしまった炎嘉が気になって仕方がなかった。
龍南の宮に到着すると、開が出迎えた。
「維月様。王のお部屋へご案内致します。」
維月は、首を振った。
「私のことは気にしないで。嘉楠の葬儀などの準備があるのでしょう。この宮のことは知っておるし。」
開は、ためらいがちに下げていた頭を上げた。
「ですが…王の妃をそのように扱うのも。」
維月は、首を振った。
「私は正式に妃なわけではないわ。炎嘉様にはどうしてもとのことで、維心様が目をつぶってくださっておるというだけで。心配しないで。」
開は、納得したのかまた頭を下げた。
「はい。では、何かご不自由がありましたらお呼びくださいませ。」
開は、そこを離れて行った。維月はそれを見送ってから、炎嘉の部屋の方向へと足を向けて歩いていると、途中の回廊で、甲冑の擦れる音がしたと思うと、見慣れた姿が目の前に出て来た。
「維月。」
維月は、驚いてその姿を見上げた。
「嘉韻!」維月は、急いで嘉韻の手を握った。「ああ…お父様が、残念なことになってしまったこと…。」
嘉韻は、頷いて脇の部屋を示した。
「ここでは誰かの目につく。こちらへ。」
維月は頷いて、その脇の空き部屋へと嘉韻について入った。そこは、臣下達が何かの話し合いなどで使うための、小さな会議室のような場所だった。
嘉韻を見上げると、相変わらずの美しい容姿だったが、今は憔悴し切った様子だった。維月は、嘉韻を抱きしめた。
「嘉韻…つらいわね。尊敬していたお父様だったのに…。」
嘉韻は、維月を抱きしめ返して、少し肩の力を抜いて、言った。
「急なことであった。我に一言も無かったところを見ると、炎嘉様に気取られては成せないと思われたのであろうの。だが、こうなる予感はあったのだ。我も闇の襲撃で体の自由が利かなんだ時であったし、父上とお話しするのも後でと日延べにしておるうちに、このように。それに、遺体を見たわけでもないので、まだ信じられぬというのが本音なのだ。」
維月は、驚いたように嘉韻を見上げた。
「え?会わせて頂けないの?」
嘉韻は、首を振った。
「会わせてもらえぬのではない。遺体が無いのだ…父上のお体は、炎嘉様のもの。術を真側で見ておった開が申すには、父上は炎嘉様に己の命を注ぐ術を放っておったのだが、最後の最期で炎嘉様が必死にそれを跳ね返そうとなさった。だが、術は完成しようとしておった。どうなったのか炎嘉様にしか分からぬが、炎嘉様から光が倒れた父上のお体へと流れ込み、そうして術は終わったのだそうだ。その後、炎嘉様のお体は見知らぬ小さな男になって霧散し、消えた。最初、術が失敗したのだと思うたようだが、父上の体に炎嘉様の気配があり、開の目の前で、父上は炎嘉様に変化して行ったのだと。なので、父上は亡くなられたが、ご遺体は無い。炎嘉様として、生きておるから。」
維月は、驚いて口を袖で押さえた。享の術を使ったら、そんな風になってしまったのか。炎嘉は必死に拒絶して、最期術を歪めてしまったのだ。
「…そんな…知らなかったわ。義心の報告も嘉楠の命をもらって、というだけだったから…。」
嘉韻は、頷いた。
「詳しくは鳥しか知らぬのでな。開も、あえて詳しいことを義心に言わなかったのではないか。我は、父上のことであるし話してくれたがの。」
維月は、嘉韻を見上げた。
「嘉韻…炎嘉様もきっとショックであられるだろうからと、私は今こちらへ来たの。でも、落ち着かれたら私も、月の宮へ帰るから。待っておって。」
嘉韻は、苦笑した。
「分かっておるよ。我らのことは、公には出来ぬ。嘉翔がたくましく育っておるし、我も一人ではない。主もあちらこちら忙しいのであるから、そのように気遣う必要はないのだ。それに…父上は、あれでもう1000歳を超えておったからの。我と同じで、老いておらなんだだけ。なので、覚悟はあったのだ。気にするでない。」
「嘉韻…。」
維月は、嘉韻にそっと口づけた。嘉韻もそれに応えて、そしてそっと維月を離すと、言った。
「さあ、今はこれまで。誰かが気取ると面倒であろう。先に出て参れ。我は後から参る。」
といって、維月と嘉韻の間に子供が居ることは、神世の皆が知っていた。維心が離縁していた間のことだったので、二人の仲は公然の秘密ような感じだったのだ。
それでも、表立って一緒に居るのを見られるのもまた、噂になって面倒だった。
維月は、嘉韻を見つめながら扉を開くと、そっとその部屋を出て行ったのだった。




