思惑と
日が傾き始めて、夕日が居間を美しく染め始めた。
維心は維月の手を取った。
いつものように、午後は二人でゆっくりと居間で過ごしていたのだが、それでも維心は忙しい身なので、臣下達はひっきりなしに他の宮から書状が来ただの、政務のことがどうだのと入って来てはそれに維心が対応する、という時間を過ごしたのだが、先ほどからそれも終わり、もうそろそろ寝る準備を始める時間かと思ったからだった。
「…さて、もう宮の臣下も夜番の者達に代わった頃であろう。我らも湯殿にでも参ろうか。本日は、有意義であったしの。炎嘉も、これで何とかなろうほどに。」
維月は、維心に促されて立ち上がって頷いた。
「はい。十六夜も蒼も、それに焔様や志心様、箔翔様まですぐにお手をお貸しくださるとお返事くださって。炎嘉様のご人徳ですわね。」
維心は、足を脇の戸の方へと向けながら言った。
「あれは外面だけは良いからの。我も口が悪うても友として、あれが世を異にするのを惜しいと思う。後は誰から命を分けさせるかであるが、炎嘉の臣下なら皆こぞって命を差し出そうとしておるであろうよ。猛など炎嘉の側から離れぬのだとかで、鬱陶しいと炎嘉に面倒がられておるようよ。あちらの様子を見に参った義心が申しておったわ。」
維月はホッホと笑った。
「まあ。目に浮かぶようですこと。猛は特に情に厚い神でございますし、炎嘉様に恩義を感じておるでしょうから。」
維心は、笑う維月を久しぶりに見たような気がして、少しほっとした。そして、気になっていたので、立ち止まって言った。
「維月、月の宮へ里帰りしたいか。」
維月は、急に話題が変わって驚いた。維心は、こちらをじっと見ている。きっとずっと気にかけていてくれたのだろうとその目を見て維月は思った。
「…いえ、すぐにと思うてはおりませぬ。炎嘉様のことも落ち着きそうでございまするし、奏のことは悲しい事ですし、和奏も危ないのは知っておりまするが、それでもあの心配の渦中のことを思うと、私も落ち着きましてございます。維心様にも心労の多い時でございまするし、私もこちらで維心様が落ち着かれるのを待ってから里帰りでも良いかと思うておりまする。」
やはり、我のことか。
維月は自分を気遣ってそう言ったのだろうが、維心は、それを聞いて逆にそう思った。なので、言った。
「維月…我が主の事を気遣わず己の気持ちばかりで帰るなと申してすまなかった。碧黎に言われて我も考えたのだ。月の宮へ戻っても我はすぐに追いかけて参るのだし、炎嘉の事が終わって落ち着いたなら戻って参って良い。確かに…我は十六夜のようにはなれぬ。あれがああだからこそ、我は主を娶ってこうして側に置くことも出来ておるのだし、我も無理は言わぬ。そのように、我を気遣わずとも良いのだ。」
維月は驚いた。維心は、碧黎に言われた事で悩むばかりでなく、理解して合わせようとしている。今まで、ここまであっさりと妥協して来るなど無かったのだ。
「まあ…そのような。私も維心様のお側に居たいと思うておるからこそのことですわ。ですから、そのようにお気を遣ってくださらなくとも良いのですわ。あの、父が何か言ったのかもしれませぬけど、お気になさらずに。」
維心は、それを聞いて碧黎が自分に言ったことを、十六夜が聞いてでもいて、それを維月が知っているのだろうと悟った。そして、苦笑した。
「主こそ気を遣うことはないのだ。我がそのようにしてしまっておったのであろうが、しかし…我とて、主の重荷にはなりとうないのだ。あのようなことが言えるのも、碧黎だけであるだろうし、我もそれで、己のことをかえりみることが出来た。ゆえ、案じるな。」
「維心様…。」
維月が、維心の気遣いに心を打たれていると、後ろから声がした。
「なんでぇ。維心も成長してるんじゃねぇか。親父はなんだかんだ言っても維心の親父でもあるような感じなんだな。」
驚いて振り返ると、十六夜が珍しく人型で立っていた。維月は、十六夜の方へと足を向けた。
「まあ十六夜!どうしたの?夕方に来るなんで珍しいわ。」
維心は、維月から手を放して顔をしかめた。
「なんぞ、毎度毎度いきなり来おってからに。碧黎が我の父とな?まあ舅であるのは確かであるが。」
十六夜は、寄って来た維月の手を握りながら言った。
「いきなり来るのはいきなり思い立ったんだから仕方ねぇ。それより、その親父のことで話があるんでぇ。維月、お前これが終わったら維心の言う通りすぐ月の宮に帰って来い。ちょっと親父と話した方が良さそうだ。」
維月は、驚いて十六夜を見上げた。
「え?お父様がどうかなさったの?」
維心も、片眉を上げた。
「碧黎が何か申しておるのか。」
十六夜は、首を振った。
「いや。親父は何も言わねぇよ。だが、親父はオレ達の為に無理してる。オレだってそうだから分かるんだが、オレ達は気ままに生きてるだろう。何かに責任を持たされて一か所に留まるのは苦痛なんでぇ。オレを見ろ、じっとしてられねぇから王は蒼に押し付けてる。維月を愛してるし側に居たいが、それでも前世維月が月になったばっかの頃、一緒に住んでた頃はオレ達ケンカしてばっかだったろう。」
維月は、頷いた。
「そうね。月の宮みたいに広くもないし人も少ないのに、十六夜ったら月へ戻ったりあっち行ったりこっち行ったりで、帰って来ない事もあったしね。考え方だって全然違ったし。」
維心も、頷いた。
「確かにの。我もそれを見ておって主らようそれで夫婦であるなと思うておったしの。」
維月は、維心を振り返った。
「はい。ですが四年後維心様と私が結婚して、それで十六夜との仲は落ち着きましたの。私は十六夜が側に居なくても気にならなくなりましたし、そういう命なのだと理解しようという心の余裕が出来ましたから。」
十六夜は、二人に頷きかけた。
「そうだ。だからオレも、維心が居てうまく行ってるんだから、これでいいと思うようになったんだしな。だからオレは、全然我慢してない。王は蒼だし、維月は維心の所に会いたい時に会いに来たらいいし、不自由してねぇ。だから、不満なんてこれっぽっちもねぇ。」
維月は、分かっていることなので、黙って頷く。維心が、怪訝な顔をした。
「今更何を言うておる。それと碧黎が何の関係があるのだ。」
十六夜は、あからさまに気を反らされた嫌な顔をした。
「あのなあ、物事には順番があるんでぇ。オレと維心の違いが分かった所で、親父だ。何度も言ってるが、お前達も知ってる通り、親父はオレとそっくりだ。というか、オリジナルのオレみたいなもんだから、もっと気ままだ。オレは長く人世を見て来たし、人を守って生きてたから人の考え方ってのも早くから学んでたわけだが、親父はつい最近だ。で、同じように維月を愛してるんだが、維心やオレがベタベタしてても平気だ。そういう命だし、誰かに縛られていくら愛しててもひと所にじっとしてられねぇからだ。」
維心は、段々に十六夜が言いたいことが分かって来たようで、じっと睨むように十六夜を見た。
「…言いたいことが分かって参った。碧黎は今、月の宮であるな?」
十六夜は、手を振った。
「だから順番があるんだっての。確かに今、月の宮に居る。で、話を元に戻すが、オレはさ、気ままで王の器でもねぇし、感情に振り回されるから王になんてなれねぇんだが、親父は違うだろう。オレ達の本体には生命は居ないし、何も育んでねぇからなんかの世話とかしてたわけじゃねぇし。だが親父は、ずっと自分の上に居る生物たちを見て、その命を増やしたり間引いたりしながら生きて来た。表立って何かしてたわけじゃねぇが、陰で地上を動かしてたのは親父だ。維心は親父とよく似てる。そういう広い視野でものを見て考えることが出来て、判断が速い。それに、命に対する責任感も強い。自分がやったことに対する、責任を持つんだよ、律儀なんでな。」
維月は、そこまで聞いてやっと分かった。
「それ…やっぱりお父様は、私達の為に享を消して、それを告示させて、月の宮が大変なことになるのを知ってて、月の宮から離れられなくなってるってこと?私たちのために、不自由になるのにこんな状況に…」
維月は、声を詰まらせた。十六夜は、そんな維月の肩を抱いて頷いた。
「ああ。オレと維心を足して二で割った感じだからな、親父は。何をしたらどうなるか分かってて、自分がやったことの責任はきっちり取るんだ。律儀で嘘はつかない。昔からそうだろうが。だが、それがオレ達のせいだなんて言わねぇんだよ。オレから言って、答えただけだ。オレのこともだが、お前のことが命より大事だから、失うぐらいならいくらでもひと所に囚われるってさ…その言い方が、維心そっくりでよ。」
維心は、同情したように、維月を気遣いつつ言った。
「その気持ちは分かる。我とて己がどれほどに苦しもうと、維月だけは失いとうないと思うであろうしな。やはり碧黎は、月の宮を守ろうとしておるのであるの。こうなるのが分かっておって、あのようなことをしたから。」
十六夜は、何度も頷いた。
「そうなんでぇ。今も月の宮の上空で独りで、じっと浮いて見てたよ。我は無責任ではない、とか言ってさ。分かってるけどよ…どうしたらいいんだろうな。もうやっちまったもんは元へは戻せねぇけど、神世がこれを忘れちまうようなことって、無いのか。」
維心は、ため息をついた。
「…ない。これほどの大事ぞ。何しろ、我が出来ぬことを碧黎は公然とやってのけたのであるからな。これまで、我を地上の王と申して、碧黎は我に治めさせておったが、我の力を凌ぐと告示してしもうたのだ。鳥が我ら龍と並び立っておった時のように、神世は二分されよう。月の宮に近くなる者、龍の宮に近くなる者と自然分かれて参る。当の我らが敵対していようとしていまいと関係ない。そうやって分かれて、その奴らがもめ事を起こしたら我と蒼に陳情に別々に参るであろうから、我らが話し合うという面倒なことになる。月と龍はひっくり返っても敵対することは無いが、それでもそれぞれの配下が持って来ることで波風立てられるのもまた事実よな。」
十六夜は、盛大にため息をついた。
「ほんとによお。あの享って奴はどこまでオレ達を面倒に巻き込みやがったんでぇ。ま、綺麗さっぱり消されちまったから文句を言ってく所もないんだが。」
維月は、潤んだ目で維心と十六夜を交互に見上げた。維心が、維月の手を取った。
「維月、案ずるでない。我ら、それでもうまくやると思うゆえな。炎嘉と我は、それでうまくやっておったのだからの。炎翔が面倒であったしああなっただけで。碧黎にも、そう月の宮に詰めずで良いというてやると良い。我とて見ておるからと。王が常、宮に居る必要などないのだ。」
十六夜が、片眉を上げた。
「王だって?親父は王になんかならねぇって言ってたぞ。王なんて肩書要らねぇんだってさ。自分は命の長って事実は変わらないからって。」
維心は、首を振った。
「あれが何と言おうと神世では王ぞ。そう扱われるであろうな。蒼は月の宮の王であって間違いないが、碧黎への橋渡し役として扱われよう。実質神世の者達が王として見るのは、碧黎。神世での王は、力の強い者という意味があってな。一族で一番力が強いからこそ、王と呼ばれる。それは今や、碧黎なのだと皆が認識してしもうたのだから。そうであろうが?」
それを聞いて、十六夜と維月は、顔を見合わせた。確かに、月よりも力が強い地である碧黎が表立って出て来たら、神世ではそうなるのかもしれない。龍族で一番力が強いのが維心、鷲で強いのが焔、鷹では箔翔であるように、王というのは、そういう意味があるのだ。
「…そう言われたら、確かにそうなんだが、そうなると親父はほんとに面倒に首を突っ込んじまったんだな。」と、維月を見下ろした。「だからとにかく、炎嘉がなんとかなったらお前、戻って来い。で、ひと月親父の様子を見てやってくれ。オレでもいいが、お前の方が親父は何でも話すし気を許してるからよ。親父を癒してやらねぇと、また前みたいに髪が真っ白になんかなったら一大事だからよー。」
維月は、ブンブンと首を振って頷いた。
「わかった!私は大丈夫、ここで維心様と居たらいろいろ考えることも多くて悲しんだり落ち込んだりしてられなくてもうすっかり元気だし。維心様も帰って良いとおっしゃってくださってるし、炎嘉様が落ち着いたらすぐ帰るわ。それまで、お父様をよろしくね、十六夜。」
十六夜は、ホッとしたように頷いた。
「ああ、任せとけ。」と、維心を見た。「じゃあな、維心。お前がここで聞き分け良くなっててくれて助かった。この上お前まで説得してどうのこうのなったら、オレだって疲れ切るからよお。じゃあ、迎えに来るまで維月を頼んだぞ。」
十六夜が、維月の肩から腕を離したのを見て、維心は維月の手を取って自分へと引き寄せた。
「聞き分け良くとはなんぞ。主は我を子供扱いしよってからに。維月のことは、我だって考えておるわ。案じるでない。」
十六夜はそれを聞いて苦笑したが、何も言わなかった。そうして、そのまま窓から空へと飛び立って、そのまま見えなくなったのだった。




