戦い
明蓮は、精神世界と聞いている、この広いどこかを、必死に走って逃れようとしていた。
それでも、体が小さな明蓮は、気を使ってあちらこちらに惑わすように体を翻し、そうして相手からの、取り込もうとする力に抗わねばならなかった。
時に聞こえて来る声は、母だったり、父だったりした。
父の声が上から呼んだ時は、また助けに来てくれたのかと喜んで見上げたが、しかし闇が自分をたぶらかそうと呼んだ声なだけだった。
闇は、あまり動けないようだった。
こんな小さな自分のことも、どうにかしてじっとさせておこうと、脅したり、すかしたりを繰り返している。
明蓮は、相変わらず飛び回りながら、言った。
「…主、こんな子供も捕らえられぬとは、もしや我らを取り込まねば、力が無いのか?」
何やら猫なで声で乳母の声を真似ていた声が、ぴたりと止まった。
「…うるさいぞ、餓鬼め!ただ出て来れぬ…出て来れぬだけぞ!誰か一人だけでも喰らえば、我は無敵ぞ!」
聴こえて来た声は、暗くしわがれたような声だった。
明蓮は、飛んで来た何かを、またひらりと避けた。埒が明かない…だが、あちらも恐らくどうしようもない。
誰か、そう紫翠か公明が食われなければ、自分はこのまま逃げ切ってみせる。だが自分が食われでもしたら、他の二人も力を増した闇に、取り込まれてしまうかもしれない。そう、自分も、誰か他の一人でも食われたら、闇から逃れることが出来なくなる!
明蓮は、これは自分一人のことではないのだと、更に必死に闇が伸ばす触手のようなものを避け続けた。
公明は、じっと立っていた。律の姿をした誰かがは、まだ自分の目の前に立っていて、闇として世の中を治めるのがどれほどに素晴らしいことかと説いていた。
公明は、そんな律の様子を、見ていた。
「…さあ、我の手を取れ。そうして一心同体となり、母をよみがえらせて、共に生きようぞ。」
公明は、悩んでいるようだったが、ふと首を傾げた。
「そうよな…困ったの。だが姿はどうなる?我は律の姿などで生きとうないな。」
闇は、少しムッとしたような顔をしたが、言った。
「ならばこちらへ。」と、手を後ろへと開いて伸ばす。すると、その後ろには、あの時自分を追いかけてきて捕らえた、あの月の眷属の人型がパッと現れて浮いた。「そら、美しいであろうが。こやつは殊に美しいという、龍王の血筋。しかも、妹の子というのだから神世にはこれ以上のものはないぞ。これが、我らの器になる。」
公明は、それを見上げた。
「というて、紫翠も美しいではないか?あれが紫の瞳であったのに、我は良いなあと思っておった。これは、深い青い色ぞ。好かぬ。」と、ツンツンとその足を突いた。「何だ?ただの神の匂いがする。胸の辺りよ。吐き気がするわ。我は王族であるぞ?そんなただの神の匂いのついた体など使いたいと思うと思うか。」
律の姿の闇は、そう言われて新月を見上げた。
「…確かにそれは我も思うことよ。あれは鬱陶しい輩ぞ。何か仕込んでおるのか?胸か?」
公明は、頷いた。
「そう、胸の辺りよ。何やら古い、下等な神の気配がする。我は育ちは良い方であるから、そういったものは辛抱ならぬ。主、もしや気取れぬのか?闇とは、口ばかりか。」
律は、じっと新月の胸の辺りを睨むように見ながら憮然とした声で答えた。
「あれは何かを隠しておるのだ!我とてまだ完璧ではない。さっきから復活したらと申しておるではないか。ゆえ、主が今我と同化すれば…、」
「話にならぬ。」公明は、まるで嫌な物でも見るような顔をして、手を振った。「力があると言うてみたり無いと申したり!そもそもあんなものを残して置いたら、我の身が匂うということであろうが。そういうことは、きちんと処理してから我を誘え。何ぞ、中途半端な。子どもだと思うて馬鹿にしよってからに。闇は案外高貴なものかと思うて我が話を聞いておったら、あんなものを平気で残しておこうなどと…身が穢れるわ。」
公明が憤慨してくるりと背を向けると、律は慌てたように公明を見た。
「何を言うのだ。主が言う通り、闇とは高貴なものぞ。月と張り合うのだぞ?あれが気に食わぬと申すなら、排除しようぞ。だが、あれが何か分からねばならぬわ。しばし待て。」
公明は、チラと律の方を振り返った。
「…そうそう待てぬぞ。我は母上を取り返したいのだ。他に我にそれが出来ると申す者が居ったら、それに頼むかもしれぬ。」
律は、頷いた。
「時は取らぬ。ではの。」
律は、スッと消えた。
公明は、律の気配が消えたのを見て、キョロキョロと辺りを見回したが、本当に闇の気配がないと見るや否や、急いで浮かんでいる新月の足から必死に這い上って行った。
「おい、主!しっかりせぬか、名は何というか知らぬが、寝ておる場合ではないわ!こら!」
公明は、必死に新月の肩に登って、その頬をパンパンと叩いた。
新月からは、はっきりとした気を感じない。
それでも、公明は必死だった。何しろ、いつあれが戻って来るか分からないのだ。
享は、まだ必死に術が発動している方を見つめていて、永が出て行ったのも戻ったのも、全く感知して居なかった。相変わらず、新月の前に公明、明蓮、紫翠が浮いていて、ぐったりと動かない。そして、術の波動に掴まれて、光り輝いていた。
もはや外に、己について来ていた者達が一人も居らぬことも知らぬのだろうな。
永は、つくづく享は愚かだと思った。
確かに、闇さえ復活したら、部下も仲間も要らぬのかもしれない。
これに向かって、数百年の時を来たことも知っている。
だが、その後のことを考えたのだろうが。闇が、どんなものかもよく知らぬのではないのか。それを、どうして使役できるなどと簡単に考えられるのだ。そんなことが出来るなら、とっくに世を治めるほどの力を持つ龍王がそれをしているとは思わぬのか。
永は、前ばかりを見ている享の側へと寄った。
「…享様。術は進んでおりまするか。」
享は、ハッとしたように後ろを見た。
「永か。」これまで、後ろなど気にもしていなかったらしい。享は、続けた。「進んでおるはずぞ。四人とも全く動かぬだろう。闇の浸潤が進んでおる証拠ぞ。抵抗する様子もないわ。」
永は、そうは思わなかった。全く動きないのは、闇がまだ四人を食い破れておらぬ証拠ではないのか。
「様子が気になりまする。見て参った方が良いのでは。」
享は、永を睨んだ。
「何を言うておる!術の中へ入ったら、我まで食われてしまうやもしれぬわ。闇に区別がつくなら良いが、今は術の最中ぞ。」
永は、気が進まなかったが、足を進めた。
「では、我が…、」
すると、その時正面の新月の目が、カッ!と見開いた。その瞳は、真っ赤だったが、体は動かず、目だけで享と永の方を見た。
「おお…もしや復活したか?」
永は、眉を寄せた。
「そうは思いませぬ。こんなに静かなはずはありませぬ。」
《そこの、ただの神。》新月は、口を動かした。だが、出て来たのはしわがれた別の声だった。《お前の匂いが鬱陶しいわ。この体、このままでは使えぬ。我の復活を望むというのなら、面倒なこの匂いを取らぬか。》
享は、タダの神と言われたのにムッとしたが、尊大に言った。
「匂いと申して、我が主を復活させてやる、その意味を体に刻んでおるだけぞ。復活したいのなら、文句を言うでないわ。」
新月の赤い瞳は、享を睨み付けた。
《偉そうに申すではないか。どうあってもこの匂いを取らぬと申すか。》
永が、チャンスとばかりに横から言った。
「我が匂いの原因を教えましょうぞ!」享が驚いたように永を見るが、それに構わず、新月の方へと足を踏み出した。「我が参りまする!」
「何を言うておるのだ永!」
享が言うが、新月は構わず言った。
《いいだろう。お前が来い。》
新月から、永に向けて公明達と同じような光が伸びて来て、捉えられた。
その途端に、永は一気に暗闇の中へと落ち込んで行ったのだった。




