空間
明蓮は、広い空間で目を覚ました。
遠く地平線まで、全く何もない空間で、そしてまるで日暮れのように、薄暗くてぼんやりと、はっきりとは見えないような空間だった。
慌てて身を起こして回りを見回すと、側には同じように、公明と紫翠が倒れていた。
「公明、紫翠!」明蓮は、急いで二人に駆け寄ってその体を揺すった。「無事か?!どこか、痛めたか?!」
公明が、目を開いた。そして、頭を振って意識をはっきりさせようとしているようだった。明蓮は、紫翠を抱き上げて、その背を擦った。
「紫翠…しっかりせよ、大丈夫か?!」
紫翠は、ううん、と目を開いた。
「何ぞ…どうなった。ここはどこぞ、明蓮?」
明蓮は、紫翠があまりにはっきりと話すので、驚いた。念で話した時より、更にはっきりしている。
「紫翠…?」
明蓮が、紫翠を下へと下ろすと、紫翠の体はスーッと変化して、恐らくは成長すれば、こうなるであろうという姿へと変化した。明蓮が絶句していると、紫翠は自分でも驚いたようで、じっと自分の手を、体を見つめた。
「我は…?」そして、首を傾げた。「そうか思い出した。ゆえか。」
明蓮は、もはや自分より大きな紫翠を見上げて言った。
「どういうことぞ?何を思い出したのだ。」
紫翠は、苦笑した。
「思い出しとうない過去ぞ。というて、我は我であることは変わらぬがな。しかし…生まれ変わってまで、闇とは縁が切れぬものぞ…。」
紫翠は、その美しい顔をフッと暗くした。明蓮は訳が分からなかったが、公明が脇で立ち上がったのを感じた。明蓮は、そちらを見た。
「公明、無事か。」
公明は、頷いた。
「どこも痛まぬわ。どうなったのだ…どこかへ、飛ばされたのか?それとも、闇に食われてもはや死んだか。」
明蓮は、首を振った。
「分からぬ。だが、紫翠が知っておるやもしれぬ。」と、紫翠を見上げた。「主、分かるか。」
紫翠は、頷いた。
「ここは術の創り出した世界ぞ。我らは闇に食われておらぬ。死んでもおらぬ。今、まさに食われようとしておるのだ。」
明蓮と公明は、身震いして目を見開いた。
「どういうことぞ?!何も無い…ここは、闇の腹の中だとでも申すか。」
公明が言うと、紫翠は答えた。
「そういえばそうなのやもしれぬの。しかし、我らの体はここには無い。未だ、あの岩屋で術に捉えられ苦しんでおる最中であろうな。ここは、心の中ぞ。精神世界であるというた方がしっくりくるか。」
公明は、それを聞いてハッとした。
「律…律が言うておった。絶対に見たものを信じてはならぬ。不思議な世界を見ようが、信じてはならぬ。己の中の己の声にだけ耳を傾けよ、誰の言うことも、聞いてはならぬと。自分の中にある世を治めるための血を信じて、正しい事だけを選ぶのだと…。」
紫翠は、頷いた。
「その通りよ。我は恐らく取り込まれることはない。なぜなら、あれの手管を知っておるから。だが、主らはその限りではない。良いか、ここには父も母も居らぬ。どんなにその姿が似ておっても、それは闇。決して言うことを信じてはならぬ。己を保て。己を信じよ。ここでは、己しか信じられぬのだ。誰の姿であってもぞ…」回りの空間が、軋むような嫌な音を立てて歪み始めた。紫翠は、それをさっと見上げて眉を寄せた。「ならぬ、あの月の眷属の男の抵抗が揺らぎ始めておる。我らが今、こうして話すことが出来る時があるのも、あの男が身の内で戦っておるからぞ。どうにかして我らを取り込まぬように、必死に術と身の内で抗っておるのだ。しかし、身の内からの術は強い。もうそろそろ限界になっておる。良いか、我らは引き離される。個々の戦いぞ。抗うのだ、決して信じてはならぬ。それが、術を破る力になる。分かったの!」
そう言い終わるか言い終わらないかの間に、三人が立っていた地面が真ん中から亀裂が入り、三方へと持ち上がった。
「紫翠!公明!」
「明蓮!」
それぞれ違う方向へと持って行かれながら、三人はお互いの名を叫んだ。
そうして、また暗い空間へと放り込まれて行った。
紫翠は、気を失うこともなく、その暗い空間で起き上がった。
じっと立っていると、回りの様子が見る見る深い森へと変化して行く。
…そうかここを選んだか。
紫翠は、眉を寄せた。遥か遠い生の記憶…確かに我は、ここで目覚めた。
どう出るかとじっとそこに立っていたが、相手は動く様子がない。
紫翠は、仕方なくその森の中を一人、歩き始めた。
回りに、小さな生き物の気配がする。しかし、自分が歩いて行くと、皆軒並み慌てたように避けて行った。小さな生き物も、大きな獣も皆、そうだった。これは、眠っていた自分の前世の記憶だ。誰もが忌み嫌う命として、生まれたことを知らなかった始め…。
「深?ここに居たの?」
木の間から、聞き覚えのある声がする。
紫翠は、そちらを見た。分かっている、この声は…前の生で、最初に自分が話した女。自分を名付けた女。想う男を殺し、己も死んで暗い黄泉へと吸い込まれて逝った女…。
「…凛。」
相手は、嬉しそうに木々の間から飛び出して来て、紫翠の前に立った。
「憶えていてくれたのね、嬉しいわ。あなたが促したから暗い黄泉へ送られた女ですものね。」
紫翠は、グッと眉を寄せた。
「確かにの。それだけの素質があったということであるがの。」
凛の人型である相手は、紫翠の側まで来て、下から紫翠を見上げた。
「なんとでも言うが良いわ。」その声は、既に凛の声ではなかった。「我があれだけの情報を闇の中に残しておったのにも関わらず、主はすぐには行動しなかった。うまく潜めておったのに、龍王の側へ行っても殺そうともせなんだ。まあ最後に月の陰陽を道連れに逝ったのはあっぱれであるが、それでも主はとっくに世界を闇に沈め、この世に君臨しておったはずであるのに。愚かなことよ。」
紫翠は、凛をせせら笑った。
「君臨?そこらの神などに頼らねば蘇ることも出来ない主に言われとうないわ。思い出して思うたものよ…あの神が我を選んだ理由。鷲だのなんだの関係ない。我が、闇として生きておったことをどこかで気取ったのであろう。だが、間違いであったな。我は主の記憶を持っておる。主のやり口などとうに知っておるわ。我を術で喰らうなど無理ぞ。残念だったの。」
凛は、みるみる表情を変えた。
「うるさい!ならば主は直接喰らうまでぞ!神になど転生しおって…この腑抜けが!!」
回りの風景が、物凄い勢いで流れては変わって行く。
紫翠は、向かって来る気に対して、構えた。
岩屋の中では、浮き上がった新月の前に、公明、明蓮、紫翠が浮かんでいた。そしてその三人と新月は、術から出た光の帯に繋がれていた。
もがいていた三人の子供も、今は静かに浮いているだけだ。新月は、ただ浮かんでいるが、その中身がどうなっているのか、享にも分からなかった。
そう、術を放つように促したのは享であったが、それでも享の気の量では、このような大きさ術を放つことなど出来なかったのだ。
だからこそ、新月を使った。新月であったからこそ、成し得た術だった。
新月は、享に操られて己で己を縛って術を放っているに過ぎないのだ。つまり新月こそ、自分の中で自分の力と戦っている状態なのだった。
闇さえ、復活すれば。
享は、思っていた。新月は、それと共に死ぬだろう。闇の力に食われ、そしてその苗床になった新月の体は残るが、中身は消滅するのだ。
享は、自分の手を見つめた。そして、それを握りしめた。
新月の体に仕込んだあの仙術。心の臓をこちらが握っている以上、闇とて自分の言うことを聞くよりない。自分は闇を使役して、まずはあの陰の月を取り込み、龍王を殺す。そして月をも消し、永遠にこの世に君臨してみせる!
その時、新月の月の結界が揺らぎ始めた。
いよいよその時が近付いていると、享は固唾を飲んで見守った。




