発動
その頃、享は永とその他の残った部下達と共に、大きな岩屋の中に居た。
その入口付近には、もはや残骸となっている、人が使うしめ縄のような物が落ちており、その縄からはほんのりと月の気がしていた。
それこそが、ここがかつて闇が月に封じられてた場所であると示していた。
この場所を探り当てるのは、簡単なことだった。数百年前にここから闇が出て来て月に消滅させられたと聞いて、月と闇の関係を初めて知ることが出来た。
神には封じるより他手だての無い異質な存在のその闇というものを、月は事も無げに消してしまうのだという。
それを成したのは、その身に月を下ろしたかつては人の、今は月の宮の蒼という王だということも知っていた。
数百年の時を経ても尚、縄ごときが朽ちながらも存在していられるのは、ひとえに月の力がほんのりとでも残っているかららしい。
月というのは、全てを浄化してしまうので、腐敗すらも食い止めてしまうようだ。
享は、ここ最近術が不安定な気がしていた。というのも、自分が必死に放っていた寿命を司る存在から身を隠す術が、うまく機能しなくなってきていたのだ。
本来ならとっくに消えていたこの体がここまで持っているのも、命の時が止まっているからで、それが動き出せば、一瞬のうちに自分の体は朽ち果てて消えてしまうことは、分かっていた。
月の、浄化の力でこの身を洗うことが出来れば。
享は、そう思いながら自分の手のひらを見つめた。そして、闇の力で月を消し去り、龍王を消し去り、地上を思うがままに不死の自分が君臨して行く様を、この数百年、思い続けていたのだ。
…そのために、あの月の皇子を連れて来させたのだ。
享は、思い出していた。定士は、自分が老いないのを知って、その術をどうしても知りたがった。教えてやるような素振りをしながら、定士をそそのかして、はぐれの軍神を使わせ、まんまと新月を連れ出させた。
定士は、それを使って龍王を襲撃すると思っていたようだったが、そうではなかった。
享には、壮大な計画があった。せっかく身の内に月を持つ大きな力を持つ龍が手に入ったのに。目先のことしか考えられない、愚かな定士と手を組むつもりなど、享にはなかった。
しかし、定士に気付かれずに術を施すのは難しかった。
そんな時に、新月が真実を知って宮から逃げ出そうとして捕らえられたことを知った。
享は、急いで定士の宮へと向かい、密かに牢に繋がれている新月の元へと向かったのだ。
気に当たり、気を失っているのを幸いに、享はその体に、いつか準備が出来た時のために、大切な種と術を封じ込めた。
その種こそが、闇が封じ込められていた岩屋からやっと集めた、闇の残照を凝縮したものだったのだ。
後は、それを復活させる術を構築するだけだった。
しかし、それには相当な時間が掛かった。過去の仙人たちの文献を漁り、月や闇のことを徹底的に調べ尽した。
闇の復活に必要なのは、命。
それも、復活した闇が愚かでは意味がない。闇が喰らうものとして準備するのは、その性質を取り込む闇のために、利口でなければならなかった。陽の月との対決に備えるため、陰の月を取り込むにはその美しい見目も必要だろう。そして、強い気を持ち、最初から力のある闇として出現する必要がある。
そして何より、闇に染まりやすいように、幼く何にも染まっていない命でなければならない。
基盤になるのは、新月。
だが、それに加えて闇の復活を可能にするためには、三つの命が必要だった。
情報は集めた…西の島、炎嘉に近い力を持つ王、公明の皇子。大変に賢しく、そして妃は月の孫だった。
明蓮…龍王の血筋で、美しい外見に加えてかなり聡明。そして、守りの手薄な西の島の宮の皇子は、それは美しく力のある鷲をその身の中に持つ。
この三人なら、恐らく思った通りの結果になる。
享は、待った甲斐があったと嬉々として部下を送り、そうして近づく闇の復活と己の世に思いを馳せていたのだ。
それなのに、龍王があの、忌々しい舞を披露すると言って来た。
悔しいが、今の享では龍王の力には敵わない。闇が復活した暁には、必ず龍王・維心を殺してくれというまで嬲り、殺してやろう。
準備を終えて岩屋の奥に立って考えに沈む享に、永が声を掛けた。
「享様。ご準備は整われましたか。もう日暮れでございます。」
享は、そちらを見ずに頷いた。
「儀式を始める。まずは新月…あれは容易に動かせる。最初は闇は解放せぬ。月の結界の中では自殺行為ぞ。だが、あれは月の命を持つ。この時のための、新月よ。」
享は、岩屋の奥の壁に描かれた魔法陣に向けて両手を上げた。
そうして、その魔法陣は光り輝いた。
蒼は、新月と共に居た。
夕日が落ちて行くが、新月を治す術は誰にも見つからなかった。
蒼が目に見えて憔悴し切っているので、新月は穏やかに言った。
「父上、もう我は死んでおると思われておったのでしょう。月の宮には、我の墓所まであると聞いておりまする。ならば、こうしてお会いしてお話出来ただけでも幸運なことでありました。母上もお待ちでありましょうし、普通の神なら寿命も近い歳。そのように、お気に病むことはありませぬゆえ。」
蒼には、分かっていた。しかし、やっと見つけることが出来て、これからこれが幸せに生きて行くのを見られるとばかり思っていた矢先であったので、つらくて仕方がないのだ。
その瞬間が今なのか数百年先なのかは分からない。
それでも、維心が破邪の舞いを行うと決めたのだから、ひと月以内に何か起こってもおかしくはなかった。
だからこそ、蒼はつらくて仕方がなかったのだ。
「やっと共に暮らせると思ったのに。これから、思い出を作って参るのだと。諦めきれぬのは、皆、十六夜も碧黎様も維月も、同じぞ。」
日が沈む。新月は、目を閉じた。
「少し、休みまする。」
蒼は、ため息をついて、頷いた。
「わかった。ではオレは戻る。」
そうして、椅子を立った時、突然に蒼は吹き飛ばされて、壁へと叩きつけられそうになって、必死に月の力でガードした。
倒れた身を起こして何事かと新月の方を見ると、新月はその場に浮き上がり、その目は薄っすらと金色に光って、こちらを見ていた。
蒼は、愕然と新月を見上げた…闇…違う。これは、闇ではない。では、なんだ?
《そこを出て、必要なものを揃えて来い。》
何かの声が、新月の方から流れて来る。しかし、新月の声ではなかった。
《新月!》
十六夜の声がする。しかし、新月は部屋の窓を破り、月の力で自分を包んで十六夜の結界を抜けて、物凄い速度で飛び去った。
《まだ闇は出ておらぬ!》碧黎の声が空気の中から響いて来た。《しかし出て参るぞ!十六夜の結界を抜けおった!》
蒼は、叫んだ。
「嘉韻!明人!慎吾!追え!新月を、全軍で追うのだ!行かせてはならぬ…儀式の場所に!」
その叫びが念と共に響き渡った後、月の宮のコロシアムの方向から一斉に軍神が飛び立って行くのが見えた。
全軍が出て行くのは、鳥の宮との決戦の時、以来のことだった。




