龍王の気
律は、もうほとんど崩れ落ちている前腕を、必死に布を巻いてそこに留めようとしていた。このままでは、骨も崩れて腕が落ちる。そうして上腕も侵食され、腋下から胸郭、腹部へと回り、死に至る。
龍王の結界の危険性は、知っていた。それでも、西で試した魔法陣が事もなく機能するのを目の当たりにして、龍王の結界も問題ないと思ったのだ。
しかし、やはり龍王は違った。仙術対策の結界を張っていたとは気づきもせずに侵入し、そう、侵入自体は出来たものの、その結界は魔法陣を焼き消し、身に刻んでいたため一緒に腕も犠牲になった。
そうして、龍王の結界に焼かれた腕は治ることなく、こうして身を蝕んで本人が居ないにも関わらず、それに消されようとしている。
これを治す方法は、たった一つだった。
治癒の龍だけが知るという術を、龍が発しねばならない。龍王が、己の結界を破ろうとした輩を確実に捕らえるために、張った罠だった。
結界内に潜むのは、自殺行為だった。龍の軍神は優秀で、必ず探し出される。なので、律と簾は、もう一度その身を焼かれることを覚悟の上で、もう片方の腕に魔法陣を描き、結界を出たのだ。
そうして、両腕を焼かれることになった。
主の享は、その事実を知らせたにも関わらず、しばらく潜めと言って来た。まだ機ではないというのだ。
それでも、簾と律には時間が無かった。こうして身が腐って行くのを知りながら、成す術なく待っていろと言われた二人は、酒を喰らって忘れようとしたが、それでもその痛みは消えず、恐怖も消えてはくれなかった。
思いもかけず、享が事を急ぎ出し、やっとこの腕も何とかしてもらえるものと思っていたが、龍にしか出来ない術など享に放てるのだろうか。
二人は、不信感を持ち始めていたのだ。
黙って黙々と同じように腕に布を巻いている簾に、律は言った。
「…簾。」簾は、顔を上げる。律は言った。「これは、止められぬ。享様は、我らを助けることが本当に出来ると思うか。」
簾は、戸惑うような顔をした。
「主、享様を疑うのか。」
律は、下を向いた。
「そうではない。これまでそう思わぬようにしておった。だがしかし…此度、餓鬼どもを連れて戻って参れと申されたが、戻ってどうなるのだ。これは、龍でなくば治せぬ。それに…その前は、決行まで数カ月待つようなことをおっしゃっておった。我らが、そこまでもたぬのを知っておられたにも関わらず。」
簾は、布を巻く手を止めた。そして、同じように下を向く。
「…実は我も、あの時そう思うた。此度も、もしや我らは享様の元まで持たぬやもしれぬと知らせたにも関わらず、それでも連れて来いと言われた。朱伊が迎えに参るとか申しておったが、まだ来ない。ここらはまだ、南の炎嘉の龍軍も幅を利かせておる場所。もしや謀られておるのでは…と。」
律は、身を乗り出した。
「このままでは、我らは力尽きよう。それを見計らって、朱伊がもしやこれを拾いに参って、連れて行くつもりやもしれぬ。よう考えたら、我ら血肉を撒いておるではないか。それを見つけられたら、辿って来られるやもしれぬ。それを享様は知っておるのだ。だからこそ、我らをあちらへ帰すことなど考えておられぬのではと…。」
簾は、通って来た道を振り返った。真っ暗で何も見えないが、怪しい気配はしない。
「…まだ、追手は掛かっておらぬようぞ。しかし、我らはどうしたら良いのだ。この怪我は、龍にしか治せぬぞ。」
律は、箪笥を見た。
「これを使うしかない。」と、箪笥を凝視した。「これを人質に、怪我を治させるしか…我らがこれを手にしておる限り、龍王もであるが、享様も我らに手出しできぬだろう。長く待ったのだ…賢く、皆を惑わすほど美しく、そうして何にも染まっておらぬ幼い命というものを。これが無くば、いくら術に長けておられる享様でも望む命を創り出すことは出来ぬだろう。これを盾に、我らは我らの命を繋ぐのだ。」
簾は、箪笥を振り返った。
すると、中から声がした。
「我は、主らを治す術を知っておる。」幼いが、しっかりした声だ。「だが気が足りぬ。しかし進行を遅らせることは出来ようぞ。主らはどうする?己の命、そのような主に捧げるつもりか。」
簾と律は、絶句した。まさか、そんな事が聴こえて来るとは思わなかったのだ。
しかし、確かにあのうちの一人は、龍。明蓮という、龍王の第一皇女が生んだ、龍王譲りの利口な男子。
二人は、警戒した。
「…主はまた何か謀っておるのではないのか。ただの子供でないことは知っておると申したの。」
しかし、その子供の声は冷静だった。
「謀るとていくら賢しいと言うて、膜に籠められておらぬでも我らは気の量が足りぬわ。主だって先ほどの一件で知ったであろう。身が小さいと、主らに対抗する術がない。だが我らはただ、生きたいだけぞ。主らと同じよ。」
簾と律は、グッと黙った。ただ、生きたい…。そう、使い捨てにされるのは、いくら尊敬して仕えていた主に対しても、自分の誇りが許さない。
「…治せるのだな?」
声は答えた。
「言うたの。気が足りぬ。ゆえ、進行を止めていくらか戻すぐらいしか我には出来ぬ。そのままにしておいては、恐らくまた腐り落ちて参る。我は、主らに時を与えようと申しておるのだ。主らとて生きたいであろうと思うたのでな。我は構わぬ。このままでも我らはその術とやらのために、その瞬間までは生かされるのだろう。ならばその時までに我が王が助けに参るのを待つのみぞ。しかし、主らはそれを待つことも出来ぬのではないか?龍にしか、それを食い止めることは出来ぬのだからの。」
簾と律は顔を見合わせる。そして、じっと考えた。しかし、答えは出ていた。
「…ならばそこから主を出す。」律は、そう言って立ち上がった。「分かっておろうな?下手な真似をすれば消す。」
しかし、明蓮を消すことなど、自分の命を惜しむこの二人に出来ないことは、明蓮にはもう分かっていた。
龍である自分を消すことで、自分達は永久に龍からの治療など受けることが出来なくなることを、簾と律は知っていたからだ。
そうして、箪笥の扉は開かれた。
朱伊は、簾と律の二人を見つけたところだった。
やはり、龍王に焼かれたその腕は腐り落ち始めていて、二人はその痛みと、腕が思うように動かないことで道半ばで立ち往生していた。
表面上は腕で留まっているその腐敗の原因となる毒も、身の内を流れる血液に乗って、恐らくはもう全身に回っているのだということは、朱伊にはわかっていた。
そろそろ動けなくなる頃だろうと思っていたが、やはり二人はフラフラと歩みを止め、こうしてここで座り込んでいる。
見たところ、あと数時間か。
朱伊は、それまでにさっさと二人を消してしまうことも出来た。今の二人は、朱伊の敵ではなかったからだ。
それでも、この二人は、享が殺した者達とは違い、享に忠実であったがゆえにこうなっているのだ。
そして、まだ享を信じて進もうとしている二人を、始末してしまうことは、朱伊には出来なかった。
やはり同じように思っているのか、側に居る二人の仲間もじっと黙ってそれを見守っている。
だが、更に側に寄り様子を見ていると、二人は会話を始めた。
二人の会話は、享に不信感を持ち、自分達を切り捨てようとしているのでは、ということだった。
「…どう致しますか。面倒なことになるのでは。」
隣りに居た、仲間が朱伊に言う。朱伊は、睨むように二人を見た。
「あれらも愚かではないわな。ここまでくれば己が捨て石にされたことに気付いてもおかしくはない。気は進まぬが、始末するか。」
朱伊の両隣に居た二人が、それでも重々しく頷いた時、何の気配もなくいきなり真側から声がした。
「ほう。己に従った部下を騙して切り捨てるような者に忠実に生きるというか。愚かなものよ。」
朱伊も仲間二人も驚いて声の方を見ると、その瞬間に構える間もなく衝撃が走り、体が動かなくなった。
訳も分からず思考が追いつかない間に、気が付くと朱伊は、地面に頬を押し付けて、隣に倒れて絶命している、今の今まで話していた仲間の、何も映さない目と目が合っていた。
「な…にが…」
朱伊は、何が起こったのか分からずに混乱し、それでも動かない自分の体に絶望していた。すると、ふと自分と仲間の間に、青い甲冑を着けた足が降り立ったのが見えた。
「邪魔はされとうないゆえなあ。だが主は殺さぬ。聞きたいことがある。ま、今は寝ておれ。」
また衝撃が走った。
真っ暗になって行く視界の中で、朱伊は、その甲冑の色を恐れて逃げ回っていたことを思い出した。
…龍軍か…。
そこで、朱伊の意識は途絶えた。




