定め
「お父様!」
維月は、逃がしてなるものかとその持ち前の素早さで碧黎に瞬時に飛びついて、ガッツリと足まで使って抱き着いた。
《親父!》
十六夜の声も、月から驚いたように聞こえて来る。碧黎は、相変わらず素早い維月にあたふたとしながら言った。
「こら維月!主はもう、いきなり抱き着くなといつなり申しておるであろうが!」
維月は、それでも碧黎の首に回した手を放すものかとさらにきつく力を入れながら、首を振った。
「駄目ですわ!放したらどこかへ行って来てくださらなくなりますもの!」
着物なのに脚は碧黎の腰の辺りにガッツリ巻き付いている。この娘は、相変わらず、素早くて行動力があった。このまま消えようと思っても、維月がくっついて来てしまうだろう。
碧黎は、観念したようにそのまま庭の芝の上に足をつけて降り立った。
「ああわかったわかった、我は主からは逃げられぬ。そも、主の呼び声を無視することも出来ぬから、しようがなく来たのだからの。」と、間近にある維月の顔を見た。「そら、居間へ入ろうぞ。我は逃げぬから。」
それでも、維月は唇が触れるかというほど近い位置であるにも関わらず、碧黎を放さなかった。
「このままで参りまする。」
碧黎は、ため息をついたが、仕方なくそのまま維月の背を抱いて歩いた。
「頑固なのは昔から変わらぬの。維心が見たらまた怒りよるのに。」
そうして、サクサクと歩いて維心の居間へと入る。すると、十六夜もいつの間にか実体化して後ろから追いかけて来ていた。
「親父!オレが呼んでも来ねぇのに、維月だったらそうやって抱いて運ぶのかよ!」
碧黎は、まだ自分にくっついたままで維月を膝に座らせるのを余儀なくされた状態で、顔をしかめて十六夜を見た。
「あのな、何を見ておったのよ。我が抱きしめたわけでも抱いて歩いたわけでもないわ。維月が離れぬのだ!」
維月は、碧黎が椅子に座っているその膝に跨った状態で、碧黎に抱き着いていた。
「大丈夫よ、十六夜。私が捕まえておくから、今のうちにお話を。」
十六夜は、複雑な顔をした。維月にすれば碧黎を留めようと必死なのだろうが、今の状態は確かに維心が見たら卒倒しそうな形だ。
「だが維月、その状態で維心が帰って来たら暴れるぞ。」
維月は、ぶんぶんと首を振った。
「いいの!とにかく早くして!」
碧黎は、憮然としている。十六夜は、仕方なく碧黎を見た。
「親父、さっきから何度も言ってるじゃねぇか。奏を助ける方法があるなら、教えてくれ。」
碧黎は、答えた。
「さっきから何度も答えておるの。助ける方法は無い。主らには無理ぞ。本来なら即死しておったと申したであろうが。主らがあれを不憫に思う気持ちは分かるが、無理なものは無理なのだ。諦めよ。」
維月は、碧黎に抱き着いたまま懇願するように言った。
「でも、今お父様は主らには、とおっしゃいましたわ!お父様なら、奏を救うことができるのでは?!」
碧黎は、律儀に間近な維月の目を見て答えた。
「命の理、我にあれこれ変えよと申すか。維月、出来てもしてはならぬ事があると幼い頃より教えたの。我が教えたこと、間違っておったことがあるか。主が我が禁じておる力でもって神をどうにかしようとしたなら、それは主らのいう倫理という基準に従ったら、良くないのではないのか?それと同じことを、我にしろと申しておるのだぞ。」
維月は、グッと黙った。十六夜が、割り込んだ。
「あの、陰の月の力で闇の霧を増やしたり、神に憑りつかせたりってヤツか。それとこれとは違うだろうが!」
碧黎は、十六夜を見た。
「違わぬ。同じことぞ。我だって地上の生き物全てを滅しようと思えば出来る。面倒な奴らなどさっさと己で手を下して処分することも出来る。己の気に入った命だけを育んで寿命を長くとり、他に命の気を分けぬことも出来る。全て主観ぞ。だがなぜにせぬのだ。我らの中の倫理的に良くないからぞ。誰かに力を取り上げられるからでもない。我がしてはならぬと思うておることは、せぬ。己の基準はしっかりしておる。主らが何を言うても無駄ぞ。我の決定は覆すことは出来ぬ。弁えよ。」
幼い頃に、叱った時のように、碧黎は言った。十六夜も、下を向く。そうやって、碧黎に育てられた記憶があるので、それが間違っていないと今でも思うだけに、言い返す言葉がない。
維月は、涙を流した。
「お父様…。」
ポロポロとこぼれる涙に、碧黎は慌てて表情を崩すと維月の涙を指で拭った。
「泣くでない、維月。奏が主らにとって大事な命であることは分かっておるつもりよ。だがの、あれが居らぬようになったからと世が立ち行かぬ事もないし、あれは子も二人遺し、もはや責務もない。特別扱いする理由がないのだ。何か、余っておる命でもあれば、維心にでも命を入れ替えさせてなんとかなるが、そんなものそうそうないであろう。あれを生かせるために、誰かの命を奪うか?出来ぬだろうが。」
維月は、泣きながら何度も頷いた。
「はい…。」
十六夜は、立ち上がった。
「だったら…蒼と晃維にも、教えてやらなきゃ。方法は無いって。今はあっちこっち大変なんだ、無駄な時間は取ってる場合じゃねぇ。ちょっとでも、奏の側に居てやった方がいいじゃねぇか。」
維月は、泣きながら頷いた。
「うん。お願いね。出来るだけやさしく伝えてあげて。」
十六夜は、肩を落としながら、頷いた。
「ああ。じゃあな。また連絡する。」
十六夜は、月へと打ち上がって行った。碧黎は、フッと息をついて、維月を見つめた。
「そのような憂い顔を見とうで参ったのではないぞ?維月、前を向くのだ。まだ明蓮も見つかっておらぬだろうが。主には案じる先がまだあるのだ。奏の代わりに、公明のことも探してやらねば。」
維月は、ぐいと袖口で涙を拭うと、持ち前の気の強さでしっかりとした顔になり、頷いた。
「はい、お父様。」
碧黎は、それを見て微笑んだ。
「良い返事ぞ。」
その時、居間の戸が開いた。
維月と碧黎がそちらを見ると、維心がその戸から一歩入った場所で、固まっていた。
「維心さ…、」
維月が碧黎の膝から降りようと身をよじる前に、維心が我に返って、叫んだ。
「な、何をしておる!!我の居間で…、碧黎、主、父親で良いと申したのではないのか!身を繋ぐなど…我の目の前で!」
碧黎と維月は、仰天した顔をした。
「な、な、何をおっしゃいますの!そのようなことありませぬわ、ほら、襦袢だって着たままですし、お父様の着物の前合わせだって乱れておりませぬ!」
慌てて降りた維月の言う通り、確かにそんな様子ではなかった。ただ、膝に乗っていただけという感じだ。
維心は、物凄い目で碧黎を睨んだ。
「ならばなぜ、あのように紛らわしい型で座っておったのだ!二人きりで…ちょっと我が忙しゅうしておったら…」
碧黎は、はあと息をついた。
「話せば長うなるわ。だが我が逃げぬように、維月が押さえ付けておった。十六夜と三人で今まで奏のことを話しておった。我の答えを持って、十六夜は月の宮へと知らせに戻った。維月が泣いておったゆえ、その後慰めておった。それだけぞ。」
奏と聞いて、維心の顔が一瞬陰った。そして、急に冷静になったのか、ため息をつくと、いつもの定位置の椅子へと座りながら維月に手を差し出した。
「維月。」
維月は、急いでその手を取り、維心の横へとすぐに収まった。碧黎は、ホッとして維心の方を向いた。
「主も知っておるな。」
維心は、まだ複雑なようだったが、それでも落ち着いて頷いた。
「明花から報告が参った。奏は月の命を失い、もはや助からぬ。それを、どう維月に話そうかと迷うておったのだが、先に聞いておってくれたなら気も楽よ。維月がどれほどに悲しむかと思うておったし、主が慰めておったというのも分かる。」
維月は、また涙ぐんだ。維心は、慌ててその肩を抱いて、碧黎を見た。碧黎は、頷いた。
「我とてあの懐っこい娘はかわいいと思うておったわ。だがしかし、命あるものには終わりがある。何もかもを生かしておくなど無理な話なのだ。命を見て来た主なら分かろうが、維心。」
維心は、渋々ながら頷いた。
「分かる。力ある我を頼って参るが、もはや命が尽きようとしておるものを、我が無理に留めて良いのかと迷うたもの。意味がないと思うて助命嘆願されても、無視したこともあった。恨まれても、それが世の理であるからしようがない。だが、力なきものにはそれが分からぬ。最初は悩んだものだが、今は特別扱いはせぬと決めて己の中の法に従っておる。」
維月は、驚いて維心を見上げた。お父様と同じ…。
碧黎は、それを聞いて苦笑した。
「我ら似ておるし、境遇も同じよな。我の心地が分かる神が居るのは心強いもの。」と、立ち上がって維月の頭を撫でた。「ではの、維月。我は行く。主は主が良いと思う信じるものを追って参れ。」
維月は、頷いた。
「はい、お父様。」
碧黎が出て行こうとすると、維心は慌てて立ち上がった。
「待たぬか碧黎!」碧黎は、振り返った。維心は続けた。「此度のこと…複雑になって来ておって我は罠を張っておる。主は気取れておるか。」
碧黎は、少し考えたが、維心の方に向き直って言った。
「気取れておる。我の上で起こっておること。だが主らの世界のことであり、我が口出しすることは出来ぬ。だが一つ、南西の結界上に僅かな手がかりがある。微かな残り火のようなもの。それを見つければ、少しは進むやもしれぬの。それから…」と、部屋の外へと足を踏み出しながら、続けた。「…翠明は、綾を娶って良かったのか悪かったのか。まあ良かったのだろう。ということぞ。ではな。」
碧黎は、パッと消えた。
維心は、急いでその方向に叫んだ。
「碧黎!どういうことぞ!」
しかし、碧黎の返事はない。
維心は、険しい顔をした。どういうことだ…綾を娶って…?良かったでもなく悪かったでもなく…。
しかし、維心はすぐに義心に命じ、南西を徹底的に調べさせたのだった。




