策謀
男は、その鬱蒼と茂る森の中の洞窟の入口で空を見上げていた。
真っ暗な夜の空は、ずっと自分達の味方であった。
しかし、空に散る星々は、自分達の味方ではなかった。
特に、明るく光る大きな月は、自分達の思惑を消し去ろうと、大いなる浄化の力を振らせて暗い森の中まで照らそうとしているかのようだった。
現に、共に来た仲間達も、この数百年の間にその浄化の光に当たり、去って行った。
その去って行ったかつての友の背を、何のためらいもなく一刀両断にして葬って来た時間は、男にもつらかった。
今日の月は、繊月で有るのか無いのか分からない。
それでも、男は月があるだろう場所を睨みつけていた。
「…享様。」
女の声が言う。男は、振り返った。
「三江か。戻ったか。」
女は、顔を上げてそれは嬉しそうに微笑んだ。
「はい、享様。無事お会い出来て、嬉しゅうございます。」
享と呼ばれた男は、頷いた。
「よう10年も潜伏したの。お陰であの宮の王の手元から軽々あれを手に入れて参れた。気取られては難しくなろうと一気に集めたが、それゆえ今は神世が騒がしい。これまで時をかけて積み上げて来たのであるから、邪魔など入ってはならぬし儀式は神世が落ち着いてからにしようと思うておる。」
三江は、頭を下げた。
「はい…念には念を、ということでございましょうか。」
享は、息をついて頷いた。
「ここで崩れてしもうては今までの犠牲も無駄になる。後は、儀式の要となるあやつだけであるが、あれはもう我の術中であるしな。いつなりどうにでも出来る。」
三江は、頷いた。
するとそこへ、別の神が舞い降りて来た。そして、享の前に膝をついた。
「享様、急ぎお知らせせねばならぬと戻りましてございます!」
享は、いつもは落ち着いているこの部下が何やら取り乱しているようなので、顔をしかめた。
「どうした、朱伊。主らしゅうない。」
朱伊は、必死の形相で享を見上げた。
「神世に告示が。ひと月後、七代龍王・維心の破邪の舞いの儀式が執り行われると…!」
「ひ!」
三江が、声を上げて卒倒しそうなほど青くなった。享は、今までの涼しい顔は吹き飛び、見る見る赤い激昂したような顔になって朱伊を見た。
「何だと?!あの龍王が?!まさか…前世でも王座に就いてから一度も舞わなんだのに!」
朱伊は、うなだれたように頭を下げ、言った。
「は…将維の時も舞うこともなく、もう失われたかと思うて油断しておりました。ですが、噂通り七代龍王は最強と言われた五代龍王の生まれ変わりで、記憶もそのままに統治しておったようで、此度突然に告示され、神世は大騒ぎになっておりまするところ。大陸にまで使者は飛び、まず間違いないと思われまする。」
張維の時は、大陸までは告知などされなかった。
享は、朱伊から顔を反らして記憶を探った。張維は、そこまでの力を持っていなかった。だが、皇子の維心は違った…まだ幼い子でありながら、8つの宮の王と臣下をただ軽く遊戯程度に舞うだけで一瞬に滅したのだ。
成人したあれが舞えば、ただでは済まない。
そして、逃れる場所も無いと思われた。子供の頃のあれで、大陸まで波及したその力が、力満ちた成人した龍、しかも今を盛りの気を持つ龍である龍王が気を込めて舞えば、地上の全てから叛意を持つ者達は消される。それこそ、一瞬で。
「儀式を急ぐしかない。」享は、顔を上げた。「それしか、あれに対抗することなど出来ぬ。ひと月後などと悠長なことを言っておる龍王に、それを後悔させてやろうぞ!」
朱伊は、慌ててその後を追った。
「では、あの二人にこちらへ子らと共に来るよう連絡を。」
享は、考え込むような顔をした。
「…いや。あれらは龍王の結界の気を受けたのだろう。もう、腕が腐って来ておるはず。気を遮断しても、もしや血の匂いで追って来るやもしれぬ。追手をここへ来させてはならぬ。」
朱伊は、ためらうような顔をした。
「しかし…享様、あれらにそれを治してやると。」
享は、クックと笑った。
「龍王の結界に当たったものを助けることなど、龍にしか出来ぬわ。いくら我にも無理ぞ。それをあやつらに言うて、納得すると思うか。」
朱伊は、絶句した。では…使い捨てのつもりでおられたか。
享は、気にする様子もなく続けた。
「どうせあれらは時を考えてもここまで辿り着く前に果てる。龍王の力は並みではないからの。主はそれを待って、子らを回収して参れ。そうよな…恐らくは明日の朝には死んでおろう。迎えに行くとか申して森の道を北へ来させよ。だいたいの場所を考えて、待機して居るが良い。」
そうして、洞窟の中へと速足で入って行った。
三江も朱伊も、急いでそれに続いたのだった。
公青は、探しても探しても気配すら気取れない公明に、己の無力さを感じていた。
空から見ている十六夜曰く、恐らくは仙術の気を遮断する膜に囚われているのだろうと聞いた。その後、それを破る術を知らされたが、その遮断する膜を見つけることすら、公青には出来ていなかった。
天上からも十六夜が探しているらしいが、それでもその広い視野では地上の細かいことまで見るには時間が掛かって仕方がないらしい。
あちらの明蓮も見つからず、公青は万策尽きて、軍神達に人海戦術を命じて、一旦宮へと戻って来ていた。
奏の部屋へと入って行くと、やはりまだ奏は真っ青な顔のまま、横たわっていた。
その前では、明花がじっと目を閉じて静かに手を翳している。
側についている、侍女がそっと言った。
「…王。先ほど、志穂が知らせを。」
公青は、まさか楓までと目を見開いた。
「志穂が?!楓は無事だろうの?!」
侍女は、慌てて公青を抑えるように言った。
「楓様はご無事でございます。志穂が申しておったのは、三津が部屋に居らぬ、もしや己で公明様を探して出たのでは、と案じてのことでございまして。」
公青は、怪訝な顔をした。
「三津は臥せっておったのではないのか。」
侍女は、首を振った。
「志穂が案じて部屋を訪ねたら、居らなんだとのことで。着物もそのまま、褥も休んだ後もなく、臥せっておったと思っておったのは間違いで、すぐに探しに出たのではと。」
公青は、スッと視線を走らせた。何かを思い出しているようだ。
「…いや。外には軍神が巡回しておるが、我が帰ってから目撃情報はない。」と、結界内を探った。「三津は…居らぬ。結界内に、居らぬぞ!頼光!」
公青が、いきなり叫んで飛んで行ったので、侍女は驚いた顔をした。だが公青は、それどころではなかった。
三津が、手引きしておったのだ。時が満ち、我と頼光が居らず、奏しか居ないその時を待って、公明を連れ出す輩を引き入れたのだ!
頼光が、公青の声に急いで飛んで来て膝をついた。
「王。御前に。」
公青は、いきなり言った。
「三津ぞ!あやつは術を知っておった。それに、我の結界内に居らぬのに我はあれが出て行ったのを気取れなかった。あれが手引きしたのだ…三津の気を探れ!我が結界外を、隈なく探せ!」
頼光は、頭を下げた。
「は!」
そうして、飛び立って行った。
公青は、10年もの間あの乳母を信じて側に置かせていた己の不甲斐なさに打ちのめされていた。
十六夜がやっと維月に応えたのは、維心が破邪の舞いの儀式をすると聞いた、次の日の朝だった。
維心は例によって会合だと朝早くから出て行っていなかったので、維月は十六夜に向かって叫んだ。
「十六夜!大変だったの、昨日の夜維心様が破邪の舞いを舞われるって聞いて!知らせなきゃって思ってたのに、十六夜も忙しそうだったから!」
十六夜は、そんな維月の声とは似ても似つかない暗い声で答えた。
《悪かったよ。でもな、あっちもちょっと重い事になっちまって…。今晃維がこっちへ来てて、蒼と図書館に籠ってらあ。》
維月は、怪訝な顔をした。
「なんで月の宮?公青様の宮に居たんじゃないの?」
十六夜の声は、もっと暗くなった。
《維心はもう知ってらあ。さっき明花の使者が龍の宮に着いて、報告受けてたからよ。あれから維心はまだ戻ってねぇし、お前聞いてないだろう?奏の容体だ。》
維月の顔は、サッと青くなった。
「え…奏、そんなに悪いの?明花も治せないほど?」
十六夜の声は、あくまでも淡々と答えた。
《ああ。心臓を一突き。ほんとなら死んでたところだ。》
維月は、両手で口を押さえた。そんな…普通の神なら即死だ。
「そんな…でも、奏は生きてるんでしょう?」
十六夜の声は、冴えなかった。
《ああ。月の護りが心臓を拍動できるまで再生したんだ。でも、そこで力を使い果たして奏の中の月は死んだ。》
維月は、ドキドキとして来る胸を必死に抑えて言った。
「命を留めたんでしょう。あの子は、月100パーセントの子じゃないもの!そもそも龍だもの!」
《月100パーのが良かった。》十六夜は、泣きそうな声だった。《死なねぇもんよ。でも、中途半端に月と龍で、しかも龍が少ないもんだから龍だけだったら生きてけねぇんだよ。死んだ月を取り戻す方法はない。今蒼と晃維が探してるけど、有ったとしてもそれまで明花が奏を留められるかどうかわからねぇ。親父はだんまりで助けてくれねぇし。このままじゃ奏は死んじまう。》
維月は、それを聞いてたまらず空に向かって叫んだ。
「お父様!お父様いらして!」
十六夜の声が沈みながら言った。
《無理だって。オレがしつこく言ったからどっか行っちまって戻って来ねぇ。》
しかし、維月の目の前にパッと碧黎が浮かんだ。
その顔には、困ったような色があった。




