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結界

結局、維月はあの日、維心と共に月の宮へと来ることはなかった。

いろいろとやることが山積していたこともあり、また維月自身が瑠維の出産で足止めをくらってしまってそれどころでなくなったというのが本当のところだった。

瑠維には二人目となる子で、それは美しい女の子だった。

里帰りして出産したので、その世話で大わらわだったのだ。

維心は瑠維のタイムリーな出産に拍手喝采したい気持ちだったが、表面上は普通にしていた。奥宮がまた赤子の泣き声などで騒がしかったが、維心自身が忙しい今、維月が月の宮へ行くと言い出さない方が有り難かったのだ。

そんなこんなで正月も過ぎ、節分の終わった頃に瑠維が明輪の屋敷へと赤子と共に戻って行って、維心の政務も落ち着いたのを見計らったように、十六夜がやって来た。

「よお。」

維心はびっくりして声の方を見た。今まで何もなかった空間に、十六夜が出現していた。

「またか!」維心は隣りに座る維月を抱きしめながら、叫んだ。「いきなり出るなと申しておるであろうが!驚くのだ、庭にでも出てから飛んで来ぬか!」

十六夜は、面白くなさげに言った。

「うるせぇなあいいじゃねぇか、面倒なんだからよー。それより、暇だろ?月の宮へ行こうや。公青もなんか蒼に話があるとかで今日来るらしいし、そろそろ里帰りの頃合いだし。」

維月が、それを聞いて立ち上がった。

「そうね、年末からこっちほったらかしだったものね。瑠維も落ち着いたし、私もそろそろかなって思ってたから。」と、維心を見上げた。「維心様、よろしいでしょう?長く時を空けたのですし、私も月夜の様子を見たいと思うておりまするの。」

維心は、本当は嫌だったが、しかしこのまま永劫に無視しておけることでもない。

なので、嫌々ながら頷いた。

「しようがないの。では、我も参る。約束であるしな。」と立ち上がった。「着物を変える。しばし待て。」

侍女が、わらわらと出て来て維心と維月の着物を変えようと取り掛かる。

十六夜は、面倒そうに側の椅子へと腰かけて言った。

「毎度毎度面倒だなーお前らってさー。着替えなきゃ出れねぇのかよー。実家へ帰るだけじゃねぇかー。」

維心は、軽く十六夜を睨んだ。

「主のように気軽に生きておるわけではないのだ、我は!少し待たぬか。」

維月は、維心を着替えさせながら言った。

「そうよ十六夜。私はともかく維心様を部屋着のまま外へお出し出来ないわ。すぐ済むから。」

そう言いながらも、もう維心は終わったようで、侍女達が一斉に維月に寄っていって脱がせに掛かる。

その素早さは、大したものだった。おっとり動いているようなのに、手はさっさと動いているのだ。

しかし、確か女神はゆっくり動くのが育ちがいいとか言われていて、ここの侍女達は遅いから維月の動きの速さが目立って仕方がないとか聞いていたのに…。

「…あれ。侍女達ってこんなに手さばき速かったか。」

維月が、着つけられながら十六夜を振り返って苦笑した。

「維心様がイライラなさるから、みんな必死なの。でも動きが速いと今度は臣下に奥宮の侍女を下ろされてしまうし、おっとり見えるようにみんないろいろ試行錯誤して、今の感じになったのよ。奥の侍女達だけがこんな風で。」

十六夜は、呆れたようにもう着替えてじっと維月を待っている維心を見た。

「お前さあ、何もかも自分に良いように回りに無理言うなよ。みんな困るじゃねぇか。」

維心は、フンと鼻を鳴らした。

「我の宮で我の思うようにならぬことなどないわ。主とて待つのが嫌いであろうが。そら、終わった。」

見ると、維月はきちんと着物を着て立っていた。髪はそのままだが、結い上げたりは公式に出る時だけでいいらしい。

十六夜は、勢いよく立ち上がった。

「よし、じゃあ行くか。で、誰か連れて行くのか?」

維心は、頷いた。

「帝羽にする。」と、声を上げた。「帝羽!月の宮へ参る!ついて参れ!」

すると、いったいどんな速度で来たらそうなるのかというほど早く、帝羽が居間の戸を開いて入って来て膝を付く。その後ろから、息も絶え絶えの兆加が走って入って来るのが見えた。帝羽を呼んだのが聴こえたのだろうが、内宮にある兆加の執務室から走って来たとしたら、早い方だろう。

「お、王。お、お、お出ましでしょうか。」

そんな様子の兆加にお構いなく維心は頷いた。

「前々から言うておったであろう。月の宮へ参るゆえ。義心に宮の護りを我が居らぬ形に変えさせよ。維明に代行を。帝羽を連れて参るゆえの。」

兆加は、深々と頭を下げた。

「はは!つつがなくお戻りを。」

維心は頷いて、維月を抱き上げた。十六夜は、一足先に窓へと寄った。

「じゃあオレは先に帰って蒼にお前らが向かってるって伝えとくよ。維月を頼んだぞ。落とすなよ。」

維心は、頷く。

「言われずとも放しはせぬわ。」

そうして、維心と維月、帝羽は龍の宮を飛び立ったのだった。


蒼は、新月を横に政務を行っていた。

今日の会合も終わり、居間へと向かう道すがら、新月は言った。

「父上。本日のご政務は終わりましたでしょうか。」

蒼は、頷いた。

「政務はな。しかしこの後、公青が来ることになっておるのだ。主も会っておいた方がいいぞ。西の島の、筆頭の王だ。オレの孫にあたる奏が嫁いでいる先でもあるし、遠い縁ではないしな。」

新月は、素直に頷いた。

「は。では同席致しまする。」

蒼は、そんな新月に密かにため息を付いた。

新月は、月夜であった時の面影などなく、確かに顔はそうかもしれないが、すっかり成長してそれは凛々しく、維心の子だと言われた方がしっくり来るような様になっていた。

威厳もあり物腰も洗練されていて、確かに王族のそれだ。ずっと神の中で育っただけあって、話し方も礼儀もしっかりしている。そして誰かに仕えられることに慣れていた。

しかし、蒼の方はそうではなかった。同じぐらいの時を神の世で過ごしたのは確かなのだが、それでも蒼は人のままでいいという甘えもあってここまで来た。十六夜だってあんな感じだし、分からないことがあれば維心が助けてくれる上、話し方も誰も咎めることがなかったので、人が混じったままだった。

だが、新月が来てからというもの、自分が父だということもあり、新月より劣ったことは出来なかった。

なので、話し方も維心を真似てそんな感じに話すので、どうも他人行儀になってしまうし、自分の言葉でないような気がするぐらいだった。

それでも、新月を失望させてしまいたくない。

なので、蒼は頑張っていたのだった。

王の居間へと新月と共に入ると、蒼は側の椅子を示した。

「そこへ座るが良い。」

新月は頷いて、蒼の斜め前の椅子へと座った。ここにある椅子の中では、蒼に一番近い場所で横並びに近い形になる位置だ。

侍女が、蒼が戻ったのを気取って、入って来て頭を下げた。

「王。公青様がお待ちでございます。ご案内してよろしいでしょうか。」

蒼は、背筋を伸ばして自分の椅子に座ったまま、頷いた。

「良い。これへ。」

侍女は出て行く。チラと新月を盗み見ると、新月もしっかりと背筋を伸ばし、それでも寛いで見えるように座っていた。確かに自分に似てるところもあるのに、すっきりと品よく見えるのに蒼はまた心の中でため息をついた。公青に嫌味を言われるかもしれんなあ…。

そうしていると、公青が入って来た。

「蒼。すまぬな、やっと政務が終わったところで。」

蒼は、座ったまま笑った。

「いや、いい。年末から訪問したいと言ってくれてたのに、こんなに待たせて悪かったな、公青。」

公青は、手を振りながら遠慮なく慣れたように蒼の前の椅子へと腰かけた。

「いやいや、こっちも正月と節分がゴタゴタしておったし、どうせ来るのは今頃であった。」と、新月に目を止めた。「お?誰ぞ。龍王の縁戚か何かか。」

やっぱりそう見えるか、と苦笑した蒼は答えた。

「いや、オレの息子。700年ほど前から行方知れずになっておったのが、此度見つかっての。最初の妃の瑤姫の子なので、維心様の縁戚には違いないがな。新月という。」

新月は、軽く会釈した。

「公青殿。」

その様すら堂に入ったものだった。公青は、感心したように新月を眺めた。

「ほう、主の子とな。これはまた、女どもが大変であろう。瑤姫殿とは、絶世の美女であったと我らの島でも噂になっておったほどであるから、それはこうなるわな。」と、ハッとしたように顔をしかめた。「ああ、思い出したわ。そのことで主に聞こうと思うてここへ来たのよ。」

蒼は、驚いたように公青を見た。

「なんだって?瑤姫のことか?」

公青は、首を振った。

「なぜに瑤姫殿よ。綾ぞ。」と、腕を組んだ。「あれも他に追随を許さぬ美しさであろうが。あれが子を産んだのは知っておるか。」

蒼は、頷いた。

「知っておる。翠明にも綾にも似てそれは美しい子だとか。」

「それぞ。」

蒼は顔をしかめた。

「どれよ。」

「美しい子よ。」と、懐から紙を出した。「絶世の美女から生まれるのはこれまた絶世の美しさを持つ子であって、世話をしたい侍女と乳母に取り合われて奥宮が大変な騒ぎであれは困っておった。まだまだこちらと交流を始めたばかりであるし、あれらもそんな美しいものを見たことがないわけであるな。なのでそんな騒ぎにもなるのだ。しかし、それだけなら翠明でも何とかしよるのだが、此度翠明の奥宮に、知らぬ女が結界をものともせずに入って参っておって、皇子を連れ去ろうとして捕まった。その女の腕に描かれておったのが、これぞ。」

公青は、その紙を開いて中の絵を見せた。蒼は、絶句した。見覚えがある…これは、仙術ではないのか。

「仙術ですな。」

横から、新月が険しい顔で言った。公青は、頷いた。

「そうだ。まだまだ神世は仙術など知らぬことが多い。月の宮ではそれを学んでおる神が居ると聞いておったので、持って参ったのだ。」

新月は、目だけで公青を見上げて、言った。

「してその女は?記憶を見れば良いのでは。」

確かにそうだ、と蒼がそれに気付いて公青を見ると、公青は首を振った。

「これを知った後すぐに翠明の宮へ行って捕らえてある牢へと向かったが、女は死んでおった。誰かに殺されたようだ。同じように侵入を受けておった安芸の宮へも行ってみたが、そっちの女もとうに死んで干からびておってな。どちらも己で死んだ様子ではないゆえ、謀った輩が同じように侵入して口封じのために殺したのだろうと思われる。」

蒼は、眉を寄せた。では、どうしてだが知らないが、皇子をさらおうとしているのか、宮を乱そうとしているのか、そうやって仙術を使って他人の宮へ入り込む輩がのさばっているということだ。

「これまで、そんなことはなかったのか?」

公青は、また首を振った。

「こちらは我に守られた本来穏やかな土地ぞ。どこかの宮をどうにかしてやろうなどと考える輩は、四方を守る四人の王ぐらいのものだったが、この間の戦でそれは無うなったゆえな。もっと平和になっておった。今さらに誰が何の為にと、我も気になっておってな。」

「蒼!維心が来るぞ。」

いきなり、十六夜がパッと目の前に出現した。そこに居た三人は、仰天した。

「な、な、な、」

公青が、言葉にならないほどに驚いている。新月も、呆然と十六夜を見つめていた。蒼は、ハッと我に返って、叫んだ。

「十六夜!パッと出るのは禁止だと言っただろうが!しかも、客が居るってのに!」

十六夜は、面倒そうに手を振った。

「なんだよ、お前ぐらいは慣れろよ。」と、公青を見た。「よお公青。奏と公明は元気か?下の子は名前なんだっけな…」

公青は、やっと持ち直して、言った。

(かえで)ぞ。ではなくて主な、いきなり出るでないわ!心の臓に悪いわ!」

十六夜は、側の椅子に座った。

「うるせぇ。オレんちなんだから好きにさせろ。」と、蒼を見た。「で、さっきも言ったが維心が来るぞ。今維月連れてこっちへ向かってるから、先に知らせておこうと思ってな。」

蒼は、ハッとして空を見た。

「…ほんとだ、結界に掛かった。」と、公青を見た。「公青、仙術に詳しい者を呼ぶから待ってくれ。それから、同じことを維心様にも話してくれないか。次の会合でもいいかと思ったが、内容が内容だしちょうどいい。」

公青は、不満そうだったが黙って頷く。蒼は、側の侍女に頷きかけて、玲を呼びに行かせた。

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