戸惑い
翠明は、相変わらず維月からの文を何度も読み返している綾を眺めながら、居間で考えに沈んでいた。
この気が身についてから、臣下達は大層喜び、これで何も怖いものは無くなったと近隣の宮へ吹聴して回ろうとしたので、急いで箝口令を敷いた。
これは一時的なものかも知れず、勝手な事をして龍王の勘気を被るようなことがあってはならぬ、というのが翠明の言い分だったが、臣下はとりあえずそれで黙った。
しかし、翠明は知っていた。これは、一時的なものではない。あの時、あの地の人型が言ったことを聞いた…『主は己の利など考えてはならぬ命。世の為その太平を守るために生きる事を決められ、その大きな気を持たせておったのだ。戦の種を撒こうとするような輩に大きな気は持たせておけぬ。その任は、そこの翠明とやらの命に託そうぞ。役に立たぬ者は要らぬ』と。
公青は、見限られたのだ。
そして、自分が代わりに選ばれた。ということは、自分は地があの時言った通りに、己の利など考えてはならぬのだ。太平を守り、戦の種を撒くことは避けねばならぬ…。
その時、翠明の頭には、安芸と甲斐、定佳が思い浮かんだ。あの三人に、これを知らせねばならぬ。そうして、この地を何とか太平に治める方法を共に考えて行かねば…。
そして、三人を宮へと密かに呼びつけたのだ。
その時のことを思い出して、翠明はため息をついた。
急に呼び立てたことに憤りながらも、素直に従ってやって来た定佳と甲斐、安芸の三人は、幼馴染の気安さでなんの挨拶も無くずかずかと居間へとやって来た。
「なんぞ、翠明?」入って来た安芸は、翠明を見て目を丸くした。「なんだ主、その気は?!何をしたらそうなった?!」
翠明は、抑えても抑えきれない自分の気に苦笑しながらも、安芸を見上げた。
「まあ座れ、安芸。順を追って話さねばならぬ。定佳、甲斐もぞ。」
翠明の気に呆然としていた他の二人も、翠明の前の椅子へと座った。三人とも、まじまじと翠明を見ている。翠明は、居心地悪く感じながらも、公青の宮で起こったことを、事細かに話して聞かせた。義心が助けに来て、ここへと帰って来たことも。
定佳が、それを聞き終わって、言った。
「…ならば主は、地にこの島の統治を認められたということではないのか。公青は、もう用済みぞ。ならば公青も、前の主並みの気に落ちておるのでは?」
翠明は、首を振った。
「いや、確かにそうだとは言い切れぬ。あれから公青を見ておらぬし、我の気だってこのまま未来永劫このままとは限らぬではないか。どちらにしても、我には青天の霹靂でどうしたものか分からぬのだ。維心殿に問い合わせてこれからの対応を決めて参ろうと考えておる。」
安芸は、じっと眉を寄せて聞いていたが、言った。
「何を言うておる。」三人が、安芸を見た。安芸は続けた。「千載一遇の好機ぞ。主が公青を討てば、この島は我ら四人で話し合って不自由なく治められるではないか。もちろん、主だけに任せるつもりなどない。我らが後方を守ろうぞ。あの宮の戦力など、我らの傘下の宮の兵をあてにしておるだけのもの。所詮公青一人で支えられておる宮であったのだ。それが無くなった今、同じだけの気を持つ主なら簡単にそれを成せるのではないのか。」
定佳も甲斐も、それを聞いて無意識に頷いている。翠明は、慌てて言った。
「だから申したではないか。公青が気を失っておるかどうかわからぬのだ。仮に失っておったとして、ならば今の我の敵ではないが、そんな無抵抗な宮に侵攻して滅ぼしてしまおうとも思っておらぬ。地が何を申しておったか思い出せ。太平を守る王を必要としておるのだ。戦の種を撒くような王は、地に排除されるのだぞ!」
安芸は、それを聞いてグッと黙った。定佳と甲斐が、顔を見合わせている。翠明は、安芸が退いたので、フッと肩の力を抜いた。
「…まあ、とにかくはこれからのことぞ。公青のことは、調べさせているがあちらでも慎重になっておって、奥に籠って治癒の者達が何やら頻繁に出入りしている、ということぐらいしかわからなんだ。どうなっておろうとも、我は戦を仕掛けるつもりはない。龍王の意見を聞きたいと思うておるし、あちらの会合には行きたいが、しかしこの気をどうしたものかと今悩んでおるのだ。」
定佳が、気遣わしげに言った。
「普通であればそのようなこと、起こるはずはないのだからの。神世は騒然となろうぞ…ますます地と月の権威が上がろうな。しかしそれを、あちらは望んでおるものか。」
甲斐が、息をついた。
「面倒に巻き込まれとうない。我が妃がまた来月子を産む予定なのだ。宮が落ち着かぬのは良うないのでな。もし此度会合へ参るなというのなら、我は様子を見ておるよ。」
定佳が、顔をしかめた。
「なんぞまたか?主は王であるのに内の事ばかりではないか。内政ばかりでは宮は守れぬのだぞ?しっかりせよ、妃に子ばかりをぽこぽこ産ませよってからに。」
甲斐は、定佳を睨んだ。
「うるさいわ。主はさっさと妃を娶れ。」
「それどころでないであろうが。」安芸が、呆れて割り込んだ。そして、翠明を見た。「翠明、ならば我らも龍王の指示を待とうぞ。というて、公青が会合に出ると申すなら我らも行かぬという選択肢はないであろうがの。」
翠明は、それには仕方なく頷いた。
「確かにの。ギリギリまで待つとしようぞ。公青がどう返事するのか、それで決めて参ろう。これ以上伸ばせぬとなった時、我が龍の宮へ問い合わせる。それから、主らにも知らせるゆえ。」
三人は、翠明に頷いた。
「待っておる。」
そうして、三人は各々の宮へと戻って行った。
あれから、数週間が過ぎた。
龍の宮からは、今日の夕刻になって再び会合の出欠についての問い合わせが来た。もう会合の七日前、あちらも段取りがあるだろうし、もう返事をせねばならない。
それなのに、未だ公青が会合に行くのかどうかの情報が入って来ない。
翠明は、険しい顔になりながら、考え込んでいた。やはりもう、龍王に対応を相談するしかない。紫翠も居るのだから、自分が龍の宮へいきなり訪ねても回りの宮から見ておかしくはないだろう…。
すると、頼光の声が扉の向こうからした。
「王。義心殿が、龍王様からのご伝言をと参っておりまするが。」
翠明は、ハッと顔を上げた。義心が来た…渡りに船とは、まさにこのこと。
「すぐに参る。奥宮前の応接室へ。」
頼光の声が答える。
「は。」
立ち上がると、綾がこちらを見ていた。
「お出ましでしょうか。」
翠明は、頷いた。
「義心が来たゆえ。我の対応を知らせて参ったのかもしれぬ。迷うておったし、ちょうど良かったことよ。」
綾は、頷いた。
「龍王様には大変に紫翠がお世話になっておりまする。維月様には毎日それは詳細に紫翠の様子を書き記して送ってくださいまするし、それほどに気遣ってくださっておるのかと感謝しかありませぬわ。どうか、よしなに申してくださいませ。」
翠明は、苦笑しながらも頷いた。それどころでなかったからだ。
「分かった。行って参る。」
綾は、立ち上がって美しく頭を下げた。
「はい。行っていらっしゃいませ。」
翠明は、綾に見送られて奥の居間を後にした。




