力2
碧黎は、暗くなった月の宮へと帰って来た。
そこで、いつものように空中に浮いてじっと月の宮周辺を見下ろしていると、横から声がした。
「…らしくないの。」
碧黎は、横を見る事もなく言った。
「主こそどうした。もう二度とひと所に囚われとうないと月の宮を敬遠しておったのではないのか。」
すると、大きなため息が聞こえ、大氣が碧黎の前へと回り込んで視界に入った。
「主こそぞ。十六夜と維月を育てておる間は分かっておった。それでも時にようあちらこちらへ出ておったもの。だが、今はどこへ行こうと日を跨ぐことなどない。これほどに月の宮にこだわるのは、責任を感じておるからか。」
碧黎は、フンと小さく鼻を鳴らした。
「責任とてここはもう我が宮のようなものよ。神世ではそう認識されてしもうたわ。ならば我の威信にかけてもここを守らねばならぬ。十六夜でもやりよるだろうが、あれには今、試練を課しておるからの。どうあってもあれには一人前になってもらわねばならぬ。」
大氣は、宙で腕を組んだ。
「それで?主は手を退いて十六夜にここを守らせて晴れて自由の身となるということか。うまく行くのか?」
碧黎は、大氣を睨んだ。
「甘いわ。あれがここを守るだけならもう出来ておるわ。あれは維心と同じ判断が出来るようにならねばならぬが、我にはそこまでかなり時が掛かると思うておる。ここから世に目を光らせて、月の宮に降りかかる災厄を物理的な攻撃だけでなく、水面下でも手を回して起こらぬように出来るようにならねばの。」
大氣は、顔をしかめた。
「そのような。二千年はかかるのではないのか。主も無茶を申すものよ。己で己の首を絞めておるようなものぞ。」と、ずいと碧黎に寄った。「碧黎、少し手を緩めぬか。今まで通りで良いではないか。維月を月へ返して、そうしてここには時に立ち寄ってあとは維心に任せておけば十六夜は物理的にはここを守るのだから。今まで通りあちらこちらへ我と参ろうぞ。我も一人では退屈しておったのだ。」
碧黎は、大氣の目をじっと見返していたが、ふいっと横を向くと、月の宮へ降りて行こうとしながら、言った。
「主の遊び相手をしておる暇はないわ。我には維月が居る。あれを守り切るためには、あれが陰の月であってはあまりにも危険過ぎるのだ。十六夜が維月を、闇から守り切れる保証はない。現に前世は一緒に命を落とした。あのようなことがまたあったらと思うと、とても今の十六夜に維月を任せておくことは出来ぬ。ならば維心に龍の宮で本体ごと守らせておいた方が、余程安全よ。」
大氣は、それを聞いてハッとした顔をした。
「…だからか。だから月から降ろしたのだな。陰の月なら、主が始末出来ぬ闇に狙われるから。」
碧黎は、降下しながら言った。
「だからどうした。今の我にはあれより大切なものなど無い。世の事はその次ぞ。だが、両方が最善に成る方法を選んでおるのだ。維心も同じよ。だから我はあれを信頼しておるのだ。己の命を懸けても守り切るだろうからの。世と維月の両方をな。」
碧黎は、そう言い捨てると月の宮へと降りて行った。大氣は、碧黎を心配そうに見送った。碧黎には、今まで怖いものなど無かった。それなのに、維月を愛した事で、それを失う怖さを知ったのだ。維心が同じく前世維月を愛して、維月を失うことが怖くてならず、最初は側を離すのを嫌がった。それを、今の碧黎は同じ心境なのだ。
「このままで良いとはいえぬの…。」
大氣は、一人そう、つぶやいていた。
公青は、己の気の弱さに愕然としていた。
碧黎が来て以来、何度も治癒の者達に見させたが何も悪いところはなく、体調不良のせいでも何かの病にかかっているせいでもないのは分かっていた。
ここ最近の心労のせいなのかと心を癒す治療を受けてみるものの、それは功を奏することはなく、毎朝、今日はよくなっているかと訓練場で気を放っては確かめるが、その気は元に戻ることはなかった。
「なんとしたこと。」相留が、悲壮な顔をして宮の臣下だけの会合で絞り出すように言った。「どうなっておるのだ。王の御身に、いったい何が起こったと申す。とりあえずは周囲の宮にも東にも、王はご病気であられると申して公明様をご名代に立て、何とかしのいでおるが、このままではならぬ。王の御血筋で大きな気をお持ちとはいえ何よりまだ、公明様は10にしかならぬお子様なのだ。もし誰かが攻め入ってでも来たら、ひとたまりもあるまい。」
それを聞いた隼人が、うなだれた。
「主の申す通り、我が王の大きなお力を頼りに回っておった宮であるから。それは、王を一時宮から遠ざけた時で我ら、充分に身につまされておる。しかし、此度のこと、間近で見ておった我が思うに、恐らくは元に戻ることはあるまい。」
臣下達は、相留を含めて皆、驚愕の表情で隼人を見た。隼人は続けた。
「我は、王について何度も月の宮へ参っておった。そこで、地の化身を何度も目にしておる。あの碧黎と申す地は、普段は我らに興味も無さげにしておるが、ひとたび逆鱗に触れると大変な沙汰を下す。あの折、確かに我は碧黎を見、そうして碧黎が王と翠明様に術を放つのを見ておった。割り込むことなど出来なんだ…あれに逆らうこと自体、王のお命を危険に晒すことであると我は知っておったからだ。その碧黎が、王を見限るようなことを申しておったのを思い出すにつけ、我はもう、王には元のお力が戻ることは無いのだと絶望した心地になるのだ。」
臣下達は絶句している。相留は、隼人に詰め寄るように前のめりになった。
「では、これはその地が行なっておることであると?!ならば地なら、再び王を元のお姿に戻すことも可能なのではないのか!」
隼人は、落ちくぼんだ目で相留を見返した。
「そうであろうの。だが、あれはやるまい。余程のことが無い限り、元へなど戻してはくれぬだろう。ひとたび決めたことを、地が軽々しく撤回するとは思えない。ここは公明様に望みをかけて、我らは公明様をお育てして何とか宮の未来を繋いで参るよりない。」
相留は、激しい様で立ち上がると、盛大に首を振った。
「何を諦めたようなことを主らしゅうない!我は王をお助けする!公明様ではこの西の宮を治め切ることはできまいが!公明様をお育てしておる間に、翠明様の南西が力を持ち、我らは島のただの宮のひとつに成り下がってしまうわ!月の宮へ書状を!蒼様に地に掛け合って頂くために嘆願書を送るのだ!」
臣下達は、相留の言葉に一斉に頷くと、サッと立ち上がって相留に従ってそこを出て行った。隼人は、椅子に座ったままそれを見送った。
分かっている…このままでは、ここは衰退してしまうだろう。この島を統治している宮の面影は無くなるだろう。だが、もうこれは決められてしまったこと。地が、そう決めてしまったのだから。
隼人は、そのまま頭を抱えて思いに沈んだのだった。
公青は、自分の居間で一人、じっと手を見つめて座っていた。
臣下は、毎日のように自分の様子を見に来るが、相変わらず回復しない気の弱さに、失望して戻って行く。
治癒の者達もひっきりなしにやって来て、何とか出来ないかと努めているようだが、この気の強さは変わることはなかった。
いったい、どこが悪いのか…。公青には、この気の状態に覚えがあった。そう、翠明…。翠明の、気の大きさがちょうどこれぐらいだったのだ。
あの時、碧黎はこう言った。
…我の上で何をやっておる。我に見えぬわけはあるまいが。主は己の利など考えてはならぬ命。世の為その太平を守るために生きる事を決められ、その大きな気を持たせておったのだ。戦の種を撒こうとするような輩に大きな気は持たせておけぬ。その任は、そこの翠明とやらの命に託そうぞ。役に立たぬ者は要らぬ…
翠明に託す。
碧黎は、そう言った。
戦の種をまくような奴には大きな気を持たせておけぬと。
そう、本当は公青にも分かっていた。自分はどこも悪くはない。ただ、この自分が生きる地自身に見限られ、あの大きな生まれ持っての気を取り上げられた…そして、それは翠明に与えられたのだ。
「…どうしたら良い…っ!奏、我は主が命を懸けて守った子に、西の島を統治する宮を遺してやれぬようになってしもうた…っ!主を想うて、呆けておった僅かな間に、我は愚かにもその任を解かれてしもうたのだ…。」
公青は、誰も居ないその居間で、たった一人涙を流した。
それを慰める神は、誰も居なかった。




