小学校時代ー 記憶の贈り物(銭湯)
『ゆきちゃんやあっこちゃんがとても上手におよぐのをみて
びっくりしたり かんしんしたり たのしかったです。』
ー1983年8月22日 おばあちゃんの手紙 より
ゆきちゃんにとってそれは、
娯楽施設以外のなにものでもなかった。
おばあちゃん家からゆるりゆるりと歩いて、10分。
西日に包まれた木造の古い建物の辺りは、
すでにまったりを凝縮したような空気に満ちている。
高い煙突からは煙が出ている。
ガラガラガタガタと戸を開けると、
中央の高い台に人が座っていて、
中から生暖かく重たい空気がもんわりと押し寄せる。
おばあちゃんは少し背伸びをして、
湯銭を番頭さんに渡した。
おばあちゃんとゆきちゃんとゆきちゃんの妹は、
パパとママなしの3人で、
銭湯に出かけたのだ。
おばあちゃんとお出かけというだけで
ちょっとしたことなのに、
ゆきちゃんは銭湯って行ったことがなかったから、
どんなところなのかと期待に胸を膨らませた。
銭湯は、期待を裏切らないところだった。
恥ずかしそうでもなんでもなく、
大人も子どももみんな、裸んぼであること。
男湯と女湯の仕切りの壁が下半分だけしかないから、
男湯の方からも声が響いてそのまんま聞こえること。
巨大な体重計。
頭のスポッリ入る騒音の塊のようなドライアー。
中でも一番気に入ったのが、
疑問に思うほど高い位置にある、番台。
あそこに座れば、全部見渡せるんだ。
将来はあそこに座る人になるのもいいなぁ。
ゆきちゃんも、
周りの人にならって、
カゴを取ってきてそのなかに脱いだ洋服をいれた。
「ゆきちゃん、走っちゃダメよー。」
というおばあちゃんの言などもちろん耳に入らず、
わーい、と急いで戸を開けて走りこんだら、
案の定、つるりと滑った。
顔を上げると正面に大きな絵があった。
富士山だ。
見たこともないほどけばけばしい色彩に、
一瞬、ちょっとギョッとしたけれど、
その絵はなんだか銭湯の雰囲気にぴったりと馴染んでいるようであった。
悪くない。
おばあちゃんは、ゆきちゃんの髪の毛を洗ってくれた。
おばあちゃんのおっぱいがゆきちゃんに触れ、
くすぐったくて、じっとしていられない。
「ゆきちゃん、ほらほら、髪の毛洗えないよ。
おっほっほ。ほらほら、じっとして。」
とおばあちゃんは言うけれど、
理由を言うのもなんだか恥ずかしいし、
かといってじっとしてなどとてもいられないので、
おばあちゃんに髪の毛を洗ってもらっている間中、
ゆきちゃんはいつまでも肩を上げ、首を縮めるようにして小さく笑い続けたのであった。
銭湯のお湯は、一つは驚くほど熱く、
もう一つは水だったので、
どちらも入れなかったけれど、
おばあちゃんをはじめ、
おとなたちは熱いお湯の中で気持ちよさそうにしていた。
そのうちに、誰も人がいなくなった。
ゆきちゃんは、いいことを思いついた。
「おばあちゃーん、見て見てー。」
ゆきちゃんは勢いよく熱いお湯のなかに飛び込み、
バシャバシャとクロールを泳いで見せた。
水泳が、得意だったのだ。
お湯が熱いことも忘れ、
妹も一緒になって、二人で盛大にやった。
バタフライもやったけれど、
浴槽が小さすぎて一回しか、かくことができなかった。
残念だなぁ。
おばあちゃんにもっとかっこいいところを見せたいのに。
『あらあら、おっほっほ。ゆきちゃん。ほらほら。おっほっほ。』
そのうちにまた人が入ってきたので、
おばあちゃんはゆきちゃんたちを連れて脱衣所へと急いだのだった。
「ゆきちゃんやあっこちゃんがとても上手におよぐのをみて
びっくりしたり かんしんしたり たのしかったです。」
銭湯には、その後、おばあちゃんと1〜2回行ったきり、
一度も行っていない。