2021年(7月)ー送る言葉
おばあちゃん
おばあちゃん。今まで、一体、どれ程のお手紙のやりとりをしたでしょうか。最後のお手紙を、このような形で書くことになるとは、薄々どこかでわかっているようで、やはり、思いもよらぬことでありました。
こちら中央スイス、今日は朝からしとしとと、まるで心を映し出すかのような雨が降っています。7月27日、おばあちゃんが天に召されたとの悲報がこちらに届きました。昨年4月、転倒されて入院されたおばあちゃんにお目にかかりたく、一人、日本への飛行機を予約したもののコロナ禍で飛行機がキャンセルとなり、一時帰国を断念。その後も常に帰国のチャンスを伺っておりましたが、とうとう願いは叶いませんでした。今も、たくさんの書類を集めた上でたとえ日本に足を降ろせたとしても、三日間の指定の宿泊施設での待機に加え、十一日間の自宅隔離が要請されており、お見送りすることさえも叶わない状況でございます。待っていてくださったであろうおばあちゃんのお気持ちを想いますと、とても言葉にはなりません。私の手元には、今まで四十年以上にわたりおばあちゃんからいただいた全てのお手紙・お葉書があります。生まれてからこれまで、川崎、横浜、福岡、ミュンヘン、中央スイスと所変わり、幼稚園生から小学生、大学生となり、結婚して家族が増えるなどの状況や環境が変化しても、おばあちゃんとは常にお手紙を通して繋がらせていただきました。今、この現状を踏まえ、わたくしにできます唯一のことは、やはり手紙を書くことでしかないように想われます。文才・絵心のあるおばあちゃんの血を引きながら、画才は言うまでもなく、考えや想いを言葉で表現することが極端に苦手、ぬぐいようのない劣等感と羞恥心を胸の底に抱えつつも、おばあちゃんへの気持ち一つ、その心だけで、最後のお手紙をここに認めようと存じます。
おばあちゃん。幼い頃、月に一度、吉祥寺のおばあちゃんのお家に行くことを楽しみにしていました。おばあちゃんの昔の家の様子は、今もありありと脳裏に浮かんでまいります。道路に面した車庫に車を止めて玄関の扉を開けると家の中からヒンヤリとした空気が流れてきます。家に上がりおばあちゃんを探して廊下を進みます。おばあちゃんが居るのは、大体決まって一番奥の仕事部屋。「あぁ、由季ちゃん。よくきたねぇ。」とぎゅっと抱きしめてくれたものでした。おやつの時間、特に楽しみにしていたのは天津甘栗。おばあちゃんが天津甘栗の赤い袋を抱えてこたつに陣取ると、その両脇をあっこちゃんと私とでかためて、まるで鳥の雛のように、おばあちゃんの手で一つひとつ丁寧に剥かれた栗を奪いあったものでした。ドンパチやグミ、おまけ付きのガムなどのお土産も用意しておいてくれましたね。そのお菓子が、当時、どれほど楽しみだったことでしょう。一度、両親抜きでお泊まりをしたこともありました。その時には真夜中に鼻血を出した私を丁寧に大事にお世話してくださいました。井の頭公園にも何度か連れて行ってくださいました。一度は、象の花子にあげるためのキャベツを丸ごと抱えて足を運んだにもかかわらず、休園していましたね。銭湯では頭を洗ってもらいました。その時に当たったおばあちゃんの胸がくすぐったかったのを今もよく覚えています。編み込みだったでしょうか、よく髪を結ってもらったこと、おばあちゃんは瘡蓋を取るのが好きで、見つかると剥がされてしまうので、おばあちゃんの家に行く時には瘡蓋を隠していたこと、おばあちゃんに編んでもらったセーターは首回りが小さくて頭が入らなかったこと、毎年お正月にいただくおばあちゃんのきんとん、お正月にトランプの大貧民をした時には、勝たせていただいて、楽しくて愉快で仕方なかった。幼かったときの走馬灯のように浮かぶ思い出は、どれも私の体を、心を、あたためてくれるものばかりです。
思春期に入り自分のことで精一杯となったにも関わらず、おばあちゃんはいつもあたたかく見守っていてくださいました。大学を卒業後、就職もせず、わがままを言って一人九州へ向かった時には、ご挨拶もせずに出かけてしまいました。そんな私の心の中を見透かしていたのでしょう、当時おばあちゃんからいただいたお手紙・お葉書には、幾度となく「両親への感謝を忘れずに」と認められてありました。その後、九州から関東へ帰るのかと想いきや、ドイツへお嫁に行くという勝手わがままぶり。ミュンヘンへと発つ前、おばあちゃんにご挨拶に出かけた時のことを、今も鮮明に覚えております。口を結んだまま、ほとんど何もおっしゃらなかったおばあちゃんでしたが、最後に一言、「由季ちゃんは、もっと面食いかと思ってたわ。」「体を、大事にね。」
それと同じ年の2002年、ドイツで行われた結婚披露宴におばあちゃんは日本から駆けつけてくださいました。当時おばあちゃんは八十歳。膝と腰に痛みを抱えていらしたにもかかわらず、二日間にわたるパーティーに朝から晩まで出席し、ずっとずっと見守っていてくださいました。翌年の日本での結婚披露宴の際には、おばあちゃんが美○○伯母様とともに染められたという貴重なお着物を着させていただきました。何という幸せなことでしょう。お着物を身に纏った時の、温かさと同時に身が引き締まるような気持ちは、とても忘れられるものではございません。間違いなく、今の私を立てる原動力となっております。
子宝にも恵まれ、2008年に亜○○が、そして2011年には明○○が生まれました。子供の成長の様子をお手紙を通じてお伝えいたしますと、おばあちゃんは、幾度となく、「子育ての時は、人生のうちで一番楽しい時かもしれませんね。」とおっしゃっていました。おばあちゃんの子育ての時、それは、おばあちゃんが家族四人で共に過ごした時だったのではないでしょうか。おばあちゃんは生まれてから間もなく自分の母を亡くし、そして父とも早くに別れを告げなければなりませんでした。そんな、両親の、特に母の温もりをほとんど知らないであろうおばあちゃんにとって、家族を持つということ、自分が「母」になるということは、きっと、特別な意味があったに違いありません。結婚して間も無く戦争が始まり、一歳半の美和子伯母様を背に、おばあちゃんの義母(つまりわたくしの曽祖母)が悲しまないようにと、戦死した弟と義父(曽祖父)の位牌と(おばあちゃんの義母の)愛用のお茶の茶碗と、配給になった油と砂糖を首から下げて火の中を逃げたとか。また体が弱かった父を背に、八幡様に何度も何度もお参りに出かけたというお話も伺いました。戦時中はもちろん、戦後も尚、物質的に豊かでなく、苦しい生活が続いていたとしても、家族が居る、ということ、自分が愛情を注ぐことのできる人が存在する、ということが、どれほど大切なことか・・・さらに、四十三歳の若さで自分の夫にも先立たれたおばあちゃん。「子育ての時が人生のうちで一番楽しい時かもしれませんね。」という言葉から、おばあちゃんが家族を大切にしていたということ、そして、家族との時間に幸せを見出し、楽しんでいたのではないかということ、そんな様子が想像されます。
おばあちゃんが染めてくださった三歳の七五三の時のピンクの地に蝶の絵柄のお着物と、七歳の時の水色の地に貝の絵柄のお着物は、世代を超えて亜仁香と明芽里も着させていただきました。感極まる想いです。繋ぐということの意味を、改めて、考えさせられました。
2014年から中央スイスに移り住んでからも、おばあちゃんからは季節ごとに便りが届きました。庭やベランダの、事細かな季節の木々・草花の様子、台風や地震、ゲリラ雷雨に猛暑など、日本における自然災害のこと、オリンピック、なでしこジャパンやマラソンや器械体操など、おばあちゃんの大好きなスポーツのこと、タバサにポポル、パクちゃんに金魚、ベルナ、ミケル、夢子などの動物のこと、戦争の話、旅の話、小説家の皆様のお話、昔、下宿をしていらした方々のお話、七十を過ぎてから心理学を学ばれた話、絵手紙のこと、過去の話、現在の話、自分の好きなこと、愛する人のこと・・・
おばあちゃんの文面からは、いつも、おばあちゃんご自身がそこから感じているであろう「生命の息吹」のようなものが感ぜられました。
少し余談になりますが、わたくしが九州で心理学を学んでいた頃、研究テーマとして、「幸福論」と申しますか、「人はどうやったら幸せになれるのか。」ということについて研究しようと想っていた時期がございました。ところが、心理学の中には、「幼い頃に愛情を受けた人間は幸せになれる。」という定説があり、当時、その分野において研究的な成果を出せそうもなかったので、そのテーマから離れざるを得ませんでした。ただ、自分の中には、「人はどうやったら幸せになれるのか」というこの問いが、たとえ研究から離れ、ドイツに移り住んでからも、いつまでも残っておりました。そんな折、はたと気がついたのです。おばあちゃんは、幼い頃、両親から愛情なるものを受けた経験がほどんどない。それでははたしておばあちゃんは幸せではないのだろうか・・・、愛情を受けた人間でなければ、本当に人は人を愛することはできないのだろうか・・・。手元の百を超えるお葉書お手紙を眺めれば眺めるほど、愛情の塊のようにしか見えません。おばあちゃんからの愛情を、生まれてこの方、私は、一心に受けてきたと感じております。研究で成果は出せなかったけれども、おばあちゃんからいただいたお手紙やお葉書を一冊の本にすることで、その本が、その本の持つおばあちゃんの心が、それを手にした人の一筋の光にはなり得ないだろうか・・・またさらに、おばあちゃんの絵や言葉を一冊の本にまとめたものをおばちゃんにお渡しすることで、おばあちゃんへの感謝の気持ちを伝えたい。そんな想いがあったものですから、今から五、六年ほど前でしょうか、おばあちゃんに、おばあちゃんのお手紙を本にしてもいいかどうかのお伺いを立ててみました。すると、「由季ちゃん。それはいいけど、早くしないと、間に合わないよ。おっほっほっ。」という返事が返ってきました。おばあちゃん。ごめんなさい。わたくしの力不足で、とうとう間に合いませんでした。おばあちゃんに恩返しとして直接本をお渡しすることは叶いませんでしたけれども、必ずや、一冊の本にまとめたいと想っております。恩返しはできませんでしたが、それならば、少なくとも、「恩送り」を、と、想っております。
おばあちゃんからいただいたものは、お手紙やお葉書ばかりではありません。革細工のお財布。自分で描き、自分で縫った手作りのお人形やバッグ。スケッチの数々。「由季」の名前もおばあちゃんからいただいた大切なものの一つです。一度、「なぜ、由季という名前をつけたのか」をおばあちゃんに尋ねますと、「ユキ、というのは誰からも呼びやすい名前でしょう?季節の季の字はね、おばあちゃん好きなの。この形がカッコイイでしょ。季節のある国に生まれたんだしね。」確かに誰からも呼びやすい名前のようで、当時おばあちゃんは外国人を想定していなかったと想われますが、ドイツでもスイスでも皆にすぐ覚えてもらえます。そして季節の季の字。季節ごとに移り変わる草花や生き物たちの様子を観察しつつ、おばあちゃんはその中に自分の存在が今ここにあることの宿命を感じていたのでしょうか・・・。おばあちゃん。由季という名前、私も好きです。素敵な名前をありがとう。
おばあちゃん。私はこれまで、自分では無意識だったのですけれども、例えば真夜中に目が覚めてしまった時、心に穴が空くような時、ちょっとしんどいな、と想うような時、あるいはここに存在できることの幸せを感じているような時、そのような何かふとした時にはいつも、「そうだ、おばあちゃんにお手紙を書こう。」と想って生きてきたように想われます。これからそのような時、どうやって自分の気持ちに折り合いをつけたらいいのでしょうか。おばあちゃんのお家に行くと、また優しくぎゅっと抱きしめてくれるような気がします。また別れる時、おばあちゃんは必ず道路に出てお見送りをしてくれました。車が右折して見えなくなるまで、いつまでもおばあちゃんが道路の真ん中でこちらに手を振ってくれるような気がします。目を閉じるとおばあちゃんからいただいたたくさんの言葉が浮かんできます。「家族を至上の宝物として大切にね。」「由季ちゃん、自分の体を大切にね。」「人間にとって一番大切なもの、それは愛情ですね。」目を開けて、外を見回せば、スイスのアルプスの山々が広がっています。おばあちゃんは七〇を過ぎてから三回もスイスに飛ばれたのですよね。今私が見ているこの景色を、おばあちゃんも見ていたのかな、と想うと、繋がっているようで、一人ではないようにも感ぜられます。
おばあちゃん。そうでした。おばあちゃんは生きています。私の体の中に、血の中に、そして心の中に。おばあちゃんの魂なるものは、ここ、私の中にあります。おばあちゃんのように天寿を全うできるかどうかはわかりませんが、おばあちゃんから引き継いだこの命を、いただいたこの尊い命を大切に、そして、おばあちゃんのおっしゃるように、家族を至上の宝として、一日一日、生きてゆきたいと存じます。おばあちゃん、また黄泉の国でお目にかかりましょう。
おばあちゃん、ありがとう。ありがとうございました。
2021年7月
由季